迷いと決断(神魔)
時刻はほんのわずか遡り、詩織が桜と言葉を交わす前――ウルトの号令によって散った全員が、各々の部屋に散った直後の事
割り当てられた部屋に、桜と共に戻った神魔は、部屋に入るなり手近に置かれたソファに無造作に身を投げる
「はぁ」
聖人のサイズに合わせて作られたソファは、その半分ほどの背丈しかない神魔達からすればベッドにも近しい
全身を柔らかく包み込むソファの感覚に身を委ねた神魔は、疲れた様子で盛大なため息をついて、その金色の双眸に天井を映す
「…………」
その様子を傍らに佇む桜は、神魔の心情を察して沈黙を守ったまま、最愛の人を見つめていた
瑞希を捕らえた聖人界への憤り。聖人界に自ら囚われた瑞希への不満。何もできなかった自身の無力。そして、それとは別の問題として、十世界に所属していた実父である「死紅魔」との再会
かつて、神魔の口から母と幼かった自分を斬り殺そうとした死紅魔の話を聞かされている桜は、引き締められた淑やかな美貌の下でその心中を思い労わる
「そんなところに立ってないで、こっちにおいでよ」
自身に注がれる視線に気づいたのか、身体を起こした神魔は、背筋を伸ばした美しい姿勢で律儀に佇んでいる桜を手招きする
出会って、想いを確かめ合い、結ばれてから幾星霜――桜は、出会った時のまま、三歩下がって男を立て、夫に尽くす大和撫子然とした在り方を損なわない。
静かで穏やかでありながら、あまりにも頑としたその在り方は、強い心を持ちながらしなやかで、何度言っても直そうとも崩そうともしないそれが、神魔には不思議と好ましく思えてならなかった
「はい」
求めに応じ、軽く一礼した桜が自分の隣に流れるような所作で腰を下ろすのを確信した神魔は、その身体を優しく自分の許へと引き寄せる
「……ぁ」
神魔に求められるまま、抵抗なくその身を委ねた桜は、愛しい人と触れ合う距離に頬を赤らめて、初々しさすら感じられる恋色の吐息を零す
「神魔様……」
しなだれかかった神魔の温もりを感じながらその身を委ねた桜は、その名と同じ色の髪を愛しい人の手で梳かれる感覚に目を細めて、愛色に染まった視線を神魔へと向ける
「いかがなされるのですか?」
主語が省かれたその問いかけを受けた神魔は、桜の髪を撫でていた手を一旦止めてから、小さくため息をついて軽く天井を見上げる
「どうしようかな」
例え省かれていても――あるいは、もしかしたら省かれているからこそ、神魔には桜が何を訊ねたいのかが手に取るように分かっていた
独白した神魔の目には、自身でさえ整理できていないであろう様々な感情が浮かんでいる。その心情を思わずにはいられない桜は、少しでも神魔の気持ちが安らいでくれることを願うように、最愛の人を繋ぎ止めるように身を寄せる
「もしわたくしでよろしければ、ご相談に乗らせていただきます。いつでもお声をかけてください」
そう言って微笑む桜からは、神魔が話してくれる言葉を待ち、少しでもその心が安らぐようにと願って尽くそうとしてくれる貞淑な想いが感じられた
眼で、耳で、口で、温もりでその存在を感じ、傍にいるだけで、不思議と包み込まれている様な安心感と安らぎを与えてくれる桜は、深い慈愛と母性を持つ大和撫子然とした存在感からにじみ出てくるものなのだろう
「うん、ありがとう」
自分に身を寄りかからせている桜と視線を交錯させた神魔は、甘く優しい香りをほのかに漂わせている癖のない桜色の髪を撫でながら小さく微笑む
(本当に十世界にいるとはね――)
遥か昔、かつて神魔を殺そうとした実父「死紅魔」は、長い年月を経て再会した今でも、その命を滅ぼそうとしていた
目を閉じれば、かつて自分を庇ってその身を深く斬り裂かれた母――「深雪」と、幼かった頃に感じた父の純然たる殺意を今でもありありと思い出すことができる
(なんで十世界にいるのかとか、何で僕を殺そうとするのかとか、色々聞きたいことはあるけど――)
今日までその時に覚えた怒りと憎悪を忘れたことはない。以前、愛梨から十世界に同じ名前の悪魔がいると知ったときは運命めいたものを感じたが、それが実父その人だと今日確信を得た
(どっちにしろ、落とし前はつける――!)
「――……」
(神魔様……)
自分を愛でてくれる神魔の手に身を委ねていた桜は、声をかけようとして開いた口を閉じて言葉を呑み込むと、視線だけを向ける
神魔のことを見続けてきた桜は、その些細な心の動きを感じ取ることができる。そんな桜は、今の神魔を見ていると、どうしても不安を抱かずにはいられなかった
「!」
不意に自分の袖を握る細い手に力が込められたのを感じ取った神魔が視線を向けると、自分を慮って心を痛めているであろう桜の表情が目に飛び込んでくる
桜の性格を考えれば、神魔の心情を問い詰めたり詰問したりするようなことはしない。だが、常にその身を案じ、なにかをしたいと思ってくれているのは、神魔にも分かることだった
「そんな顔しないで。桜に必要以上に心配かけるようなことはしないよ」
「この世で一番その身を心配できるのは伴侶の特権だ」といってはばからない桜の事だ。どれだけ言い聞かせても心配しないということはない事を神魔は知っている
故に神魔は、せめて必要以上に自分の事を心配し過ぎないよう、桜の不安を解きほぐせるよう優しい声で囁く
「はい。それは分かっているのですが、わたくしの心配性の所為で神魔様のお心を煩わせてしまっているようでは、本末転倒ですね」
苦笑混じりにそう言って花のような微笑を浮かべる桜を見た神魔は、自分が何よりもこの笑顔を守りたいと思っていることを改めて再確認する
死紅魔の件はおいておくとしても、現状神魔達にはもう一つの問題がある。そしてそれは、神魔と桜にとっては微妙な立ち位置を要求させる複雑なものだ。
神魔と桜が光魔神に同行しているのは、かつてゆりかごの世界――「地球」に無断で侵入し、対愛、干渉した罪に対する罰だ
それによって極刑を言い渡された神魔と桜だが、光魔神である大貴と親密な関係を築いていたために、それに同行し、十世界を戦って滅ぼすことでその罪の執行を免れている
現在世界最強の存在である「反逆神」を擁する十世界に勝つことなどできるはずはない。だが、万が一生き残ることができたならば、その罪を放免してもらうことができる
神魔と桜は、これからも共に二人で生きていくために、その可能性のない条件を飲んだのだ
(まあ、迷うことはない、か……)
神魔にとって一番大切なものは桜だ。もし、桜となにかを天秤にかけるならば、それが世界であれ何であれ、迷わず切って捨てることに迷いはない
それは神魔に限らず、闇の全霊命が基本的に備えている性質だ。大切なもの一つのために、それ以外の全てを切り捨てる――その判断を迷うことの方が稀有だと言えるだろう
(瑞希さんには悪いけど、別に殺されるってわけでもない。大貴君達はああ言ってたけど、千年くらい経てば出て来れるんだし、下手に聖人界と事を構える必要は――)
聖人達は自らの法を重んじる存在だ。いくら闇の存在であろうと、裁いたものに拷問じみた懲罰を与えることは無く、永遠に等しい時間を生きることができる全霊命にとって千年は長すぎるということは無い
ただでさえ、十世界という面倒な相手をしているというのに、聖人界とまで事を構えるなど面倒でしかない。――少々気に入らない面はあるが
「ねぇ、桜。例えば、僕が瑞希さんの事を諦めるって言ったらどうする?」
そんな思案を巡らせ、小さく独白した神魔の声を受けた桜は、それに一瞥だけを向けると、その表情を崩すことなく微笑む
「それが神魔様の御意志であれば」
神魔に身を寄りかからせながら、事も無げに答えた桜からは瑞希に対する未練は全く感じられない
それは桜自身、瑞希のことをどうでもいいとまで思っているわけではないが、その価値は神魔と比べるべくないということの証明ともいえる
「その時、大貴君達をどうやって説得したらいいかな? 今の大貴君は、昔みたいに言い包めるのは難しいだろうね」
「そうですね。ご自分達だけで行くと仰られかねません」
淡白な答えを聞いた神魔が、万が一その選択を取った際に起こり得る最大の懸念を口にすると、桜もそれに同意を示す
「そうなったら、僕達も戦わざるを得ないからね」
「はい」
例え自分達が聖人界との軋轢を避け、瑞希奪還を反対したとしても、今の大貴がそれに倣うとは限らない。そして、自分達の護衛対象である光魔神が赴けば、判決の関係上神魔と桜も動かなければならなくなる
冗談めかした口調ではあるが、決して全くその選択肢を考えていないわけではないことが分かる様子で言う神魔へ視線を送っていた桜は、小さく息をつくとおもむろに口を開く
「神魔様。一つお伺いさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「なに」
穏やかな声で問いかけられた神魔が視線を向けると、桜は寄りかからせてもらっていた身体を離して立ち上がる
肩に感じられた温もりと重みに名残惜しさを覚えなががら視線を向けた神魔の前に立った桜は、床に正座すると背筋を正して真剣な眼差しを向ける
「神魔様は、瑞希さんのことをどう思っておられるのですか?」
「へ?」
普段向けられる慈愛に満ちた柔らかな笑みではなく、おしとやかで淑やかな表情を浮かべた桜に尋ねられた神魔は、全く予期していなかったその問いかけに思わず間の抜けた声を漏らしてしまっていた
しかし、それを訊ねた桜の方は、そんな神魔の反応を見ても、眉ひとつ動かすことなくその答えを待っている
「どうしてそんなこと聞くの?」
「わたくしがお訊ねさせていただきたいからです」
打てば響くように返された答えに神魔が虚を突かれたような表情を浮かべているのを見た桜は、まっすぐに最愛の人を見つめ、もう一度厳かな声音で問いかける
「神魔様は瑞希さんの事をどう思っておられますか?」
「――それは、女の人としてってこと?」
抑制された静かな声を聞いた神魔は、桜の澄んだ瞳を見つめて問い返す
なぜ桜がそんなことを聞いてくるのか、思い当たる節は神魔にはないが、その真剣な眼差しを茶化して終わることをすべきではないと判断していた
「それも含めて、神魔様ご自身のお気持ちを率直に伺いたく存じます」
「そう言われても、そこまで意識したことないからなぁ……」
桜の言葉に、困ったように軽く頭をかいた神魔は、改めて考えたことさえなかった自分の気持ちに意識を向ける
「好きか嫌いかで言えば好きだよ。個人的には好感が持てる。でも、愛しているのかって聞くなら、今はわかんないってところかな
あっちは仕事だろうけど、望む望まないにかかわらず、それなりに一緒にいて戦ってきた仲だからね。それなりの仲間意識は持ってるつもりだよ」
神魔に取って瑞希という人物は、あくまでも光魔神の訪問の際に同行している魔界側からの監視者という印象だ。これまでの戦いを経て相応に信頼を築いてきた自覚はあるが、特別に想っているのかと追われると答えに窮する
とはいえ、神魔自身瑞希にはそれなりに好意を寄せている。今はまだそこまでではないが、将来的に一線を超える可能性は皆無ではないというところだろう
「左様でございますか……」
そんな神魔の心情を察した桜は、それを承服するように一旦目を閉じると、凛とした姿勢を崩さずに問いかける
「では、神魔様は、これからも瑞希さんと世界を回っていきたいと思っておられますか?」
「……!」
(なるほど、それを聞きたかったのか)
その問いかけと共に、桜の双眸に抱かれる光が鋭さを増したのを見て取った神魔は、これまでのやり取りに隠された真意を察して姿勢を正す
「――……」
神魔は、桜が自身のことをまるで見透かしているように見抜くことを良く知っている。桜が自分の中にある小さな迷いを察したのだろうことを想像した神魔は、それに返すべき言葉に思案を巡らせる
今回の件に関する神魔の判断は、「リスクを払ってまで助ける必要はない」というものだが、それを桜が容認しないことをは、神魔自身がよく分かっていた
「神魔様」
答えに窮している神魔を見た桜は、それで確信を得たように小さく息をつくと硬質さを帯びた淑やかな声で呼びかける
「神魔様がわたくしの事を案じてくださっているのは分かります。そのことを嬉しくも思っております。ですが、わたくしは不本意でごさいます」
静かだが、淑やかに響く桜の声音には、抑制された憤りが滲んでいた
だが、その怒りは神魔へと向けられたものではない。神魔の気持ちを分かっているからこそ、自分自身へと向けられた桜自身の怒りだ
「わたくしは、わたくしのために、神魔様がそのご意思を諦めようとなされていることが我慢なりません」
自身の胸に手を当て、射抜くような視線で訴えてきた桜に、神魔はわずかに渋い表情を浮かべる
神魔が瑞希の救出を諦めるのは、「命に関わらないから」だ。それは、瑞希の命然り、自分の命然り――そして、桜の命もまた然り。
瑞希は極刑を与えられることは無い。だが、下手に聖人界とことを構えれば、戦いになることは明白。自分達の罪を帳消しにするために十世界が滅びるまで戦わなければならない神魔にとって、余計なところに命を賭けて戦うことは有益ではない
そして、仮に世界そのものを相手にして戦うにしても、現状では戦力が心もとなすぎる。
大貴が神器を使って太極の権能を発現させても、同格の神器を持つマキシムに抑えられてしまう。加えて、あちらにはまだ原在である天支七柱が四人も残っている
単純な戦力で劣っている以上、戦いを挑むなど自殺行為。そして、神魔が何よりも恐れているのが、桜の命が失われることだ。桜の命に比すれば、全てが軽い。ならば、桜以外のものを切り捨てるのは、ある意味当然の判断だった
「桜……」
だが桜は、そんな神魔の心情を見抜いているからこそ、その判断を許すことができなかった
桜の喜びは神魔に尽くすこと。思われていることも、大切にされていることも、それを実感できるのは一人の女として至上の喜びだ
だが、自分のことを案じるあまり、神魔が本当にしたいことを諦め、その意思を曲げることは桜にとって耐えがたいこと。支え、尽くすべき人にとって自身の存在が重荷であり枷になってしまうことを桜は是としない
「わたくしのためにあなたのお気持ちを殺さないでください。もし、あなたがやろうとしていることが誤っていると思えば、わたくしがお止めいたします。ですから、わたくしには、あなたがなさりたいことを教えてください」
己の胸に手を当てたまま、桜は神魔をまっすぐに見据えて自分の気持ちを真摯に訴えかける
桜は神魔と共にあることを誓った。それは神魔の心と命に寄り添い続けることだ。守るために諦めるのではなく、自分をその願いに共に連れて行って欲しいと願っている
神魔が少しでも危険を遠ざけようとしてくれることは素直に嬉しく、その思いは、桜もまた同じだ。だがだからといって、自分という存在が神魔に諦めることを許容させ、強要させるものであることは桜には何よりも許しがたいことだ
「……参ったな」
自分の心情を見抜き、まっすぐにその思いの丈を向けてくる桜に、神魔は肩を竦めて小さく笑う
一番大切なもののために立を切り捨てるのは簡単だ。だが、二番目以降でも何番目でも、それを切り捨てることを簡単に諦めることを許してくれない桜の言葉に、神魔は苦笑を浮かべながら観念したように口を開く
「できれば瑞希さんを助けたいとは思ってる。このまま聖人界の思惑通りに、次の世界にいくのは逃げたみたいで気に入らないしね
でも、聖人界相手だと分が悪い。さすがに勝算が低い中で突撃してまで助けようとまでは思わないっていうのが本心かな」
実力行使は最終手段だとしても、厳格であるがゆえに、他世界の王が正規の手段で頼んでも聖人界が瑞希を釈放することは無いだろう
それに、聖人界と聖人が気に入らないといのは本心だが、多少気に入らない程度で世界そのものに攻撃を仕掛けるのもそれは問題だ。
世界という大きな枠の中で生きていれば、時には腹に据えかねることもある。それは魔界でも同じこと。世界全体の秩序を考えれば、多少の不満を堪えて呑み込むことはできる。神魔にとって、その一線は現状越えることも越えないこともできるところにあるに過ぎない
「左様ですか」
桜のため、ということを取り除いた神魔の率直な意見を聞いた桜は、瞼を伏せてそれを噛み締めると、そのまま流れるような所作で頭を下げる
「では、わたくしを神魔様の一助としてください」
「いいの?」
恭しく頭を下げる桜の言に、神魔はその視線をわずかに険しいものに変える
桜の言は、神魔が選んだ道に従うという意思を示したもの。これまでと変わらない意見を示した桜に、今回に限って神魔が鋭利さを持つ視線を向けるのは、命の危険を覚悟していることを確認するためだった
「わたくしとしても、今回の聖人界のやり方を容認することはできません」
神魔の問いかけに「はい」と頷いた桜は、神妙な面差しでそれに答えると、その美貌を綻ばせて柔らかな微笑を浮かべる
「ですが、神魔様がそれでも行かれないと仰るのであれば、わたくしもそれに従います。それも、決して誤った選択ではないと考えているからです」
神魔が自分のことを思ってくれたように、桜もまた神魔の事を思っている。神魔がその意思のために戦うというのならば自分もまたともに戦場へと赴き、戦わないというのならば自分もそれに従う――それが、桜の意思であり、結論だ
瑞希には悪いが、桜は瑞希がこのまま服役していても、助けてもどちらでも構わないと思っている。それでも一連のやり取りを下のは、あくまで桜にとって大切なのが神魔の意思と命だからだ
「わたくしは神魔様と共にまいります」
神魔と視線を交錯させた桜は、決して揺らぐことのない芯の強さを感じさせる淑やかな声で、その意思を示す
貞淑でたおやかな性格をしているからこそ、ここまで言い切った桜は決して折れない。そのことを知っている神魔は、諦めたようにため息をついて優しい声で語りかける
「桜、僕に力を貸してくれる?」
「はい」
神魔の言葉に微笑んで答えた桜は、苦笑を浮かべている最愛の人へ視線を向けて穏やかに囁く
「あなたは、お優しすぎるのですよ。特にわたくしに対して」
「はは」
些細な不満と愛されている実感に満ちた喜びを内包した桜の声に当てられた神魔は、頬が赤らんでいることを隠すように視線を逸らす
(結局、わたくし達はお互いがお互いの事を大切に想いやりすぎているのですね)
つまるところ、瑞希の事よりも伴侶の事を思いやっているだけ。――自分も神魔も同じような考えを抱いていることを再認識した桜は、口元を手で隠しながら上品に微笑む
この人だから愛しているだと、この人だから永遠に傍にいたいと願い、その幸福を祈ることができるのだと、人に聞かれれば呆れられてしまうような惚気た想いを胸に秘めた桜は、流れるような所作でゆっくりと立ち上がり、神魔の許へと歩み寄っていく
「神魔さ――」
再び、その隣りに寄り添わせてもらおうと近寄った桜は、しかし神魔の表情が不意に険しいものに変わったのを見て、その言葉を呑み込む
(魔力が震えている? この感覚は……思念通話ですね)
自身の知覚が、神魔が思念通話をしていることを伝えてくると、桜はその相手へと推察して神妙な面差しを浮かべる
今、神魔に思念通話を向けてくる人物など限られている。そしてその相手が、大貴やクロスといった同行者ならば、神魔はこのような表情を浮かべるはずはない。そう考えれば、自然とその相手の想像はつく
「――……」
口に出さずとも、思念通話をすることはできる。神魔が沈黙を守ったまま思念通話をしているのを見た桜は、その場で軽く一礼すると、その身を翻して扉へと向かっていく
神魔を気遣って部屋を出ようとした桜は、扉の前に経って、ノブに手をかけると、肩越しにさりげなく視線を向ける
背後へ視線を向けた桜の視界に映るのは、思念通話の相手と深刻な表情で話をしている神魔の横顔。自分には決して向けることのないその表情を見た桜は、目を伏せると扉を開いて部屋を出ていく
(神魔様)
流れるような優美な所作で部屋を出た桜は、扉が閉まることによって狭くなっていく室内の様子を見ながら、一人残される神魔の表情を瞳に映す
(神魔様。あなたは、本当に死紅魔様のことを――)
その横顔を見つめる桜は、神魔を案じながら無粋な音を立てることがないように、自身の倍以上も高さのある扉をゆっくりと閉めるのだった
※
他の全霊命達の倍以上の身の丈を持つ聖人が支配する聖人界は、神に最も近い存在の影響を受けているのか、世界全体の中でもあらゆるものが大きい
山や川といった自然も、「巨獣」と呼ばれる半霊命も――この世界にあるものの多くが九世界屈指の巨大さを誇る聖人界にそびえ立つ巨大な山脈があった
天を衝き、地を遮るその山脈は、さながら世界を隔てる壁に等しく感じられるその一角に一つの影が佇んでいた
「――あぁ。待っているぞ」
聖人界の風景を一望できる山に立ち、吹き抜ける風に身を晒すその人物は、そう言って言葉を打ち切ると閉じていた瞼の下に隠されていた金色の瞳で世界を映す
左右の側頭部から伸びる巨大な双角。背の中ほどまではあろうかというほどの長さを持つ漆黒の髪。鎧と衣が一体となった霊衣を身に纏い、その肩の鎧から背後へと流れている白い帯布をはためかせる死紅魔は軽く空を仰ぐ
十世界の一員として、盟主愛梨の護衛として同行してきた死紅魔は、今別行動を取って聖議殿からも、外縁離宮からも離れたこの場所に立っていた
「ついに、この時が来たか」
息を吐き出し、実感の籠った声で呟いた死紅魔は、視線を落としていた掌を固く握りしめて拳を作る
まるで運命を握りしめようとしているかのような仕草を取った死紅魔は、不意に顔を上げて視線を背後へと向ける
「お前達か」
突如背後に出現したその人物達を知覚で捉えた死紅魔は、振り向くこともせずに前を向いたまま淡白な声で言う
その声を受けたその人物達は、そんな死紅魔の尊大な態度に気分を害した様子も見せずに、ゆっくりと歩を進めて彼我の距離を縮めていく
死紅魔の背後に表れたのは、一番の男女。片方は、腰まで届く黒界に、額と側頭部から伸びた三本の黒角。漆黒を基調としてそこに白の彩りが加えられた霊衣を纏ったその男は、足元まで届く羽織を翻しながら、金色の瞳に死紅魔を映していた
もう一人は、腰の位置よりも長い癖のない艶やかな純黒の髪と、それが美しく映える純白の着物のような霊衣を纏った絶世の美女。清楚な中に可憐な大人の色香を感じさせる大和撫子然とした淑やかな立ち振る舞いを見せる女は、薄く朱の紅で彩られた花唇を微笑の形にして、包容力と深い慈愛に満ちた顔を浮かべていた
「いいのか?」
その男と女――「ロード」と「撫子」は、死紅魔と散歩程の距離を置いて立ち止まると、振り返ることもしないその背中に、構うことなく言葉を投げかける
「愚問だ。奴の事を知った時から、この時が来ることを覚悟していた――」
背を向けたままロードのその言葉を受け取った死紅魔は、その金色の瞳に凪の感情を映したまま淡泊な声で応じる
「今更神魔の命を絶つのに、憂いなどあるはずがない」
感情を映さないその平淡な言葉は、死紅魔の強い意志を表しているかのようだった
「いや、そうじゃない。今戦っていいのか? と聞いている」
「――……」
しかし死紅魔は、自分の言葉に対してロードが返してきた言葉に、眉をひそめて不快感を滲ませて肩越しに視線を向ける
神魔を殺す死紅魔決意は揺るぎない。しかし、ロードの問いかけは、死紅魔のそれは決意ではなく、そう自分に言い聞かせているだけだと言っているようにも取れる
「実子への未練を残しているのでないか」と、自分の決意を試すような物言いをされて気分が良い訳はない
しかしロードにその意図があったのかは別だが、「いいのか?」という単純な問いかけを、真っ先にそちらの意味で解釈してしまったことに、死紅魔は苦い感情を禁じ得なかった
「……少し前、十世界に面倒な奴が入ってきた。神魔を殺すと息巻いているよ――今は、何とか抑えているがな」
しかし、ここで変に取り繕っては自分の首を絞めるだけ。なにも言わないロードをへと視線を向けたまま、死紅魔は先の問いかけに答える
「ほう」
「驚かないんだな」
全く動じた様子も見せないロードと撫子を見た死紅魔は、二人がそのことを知っていたような印象にその目を険しくする
思えばこの二人は最初に会った時から、まるで全てを見透かしているような態度を見せていた――事実、今の死紅魔よりも多くのことを知っているのだろうが
(まあ、それも当然か)
二人から聞いたわけでもなく、確かめたわけでもないが、死紅魔は自分なりにロードと撫子がどういう人物なのか当たりをつけ、おそらくその通りであることをほぼ確信している
そうではなくては合点がいかないことが多すぎるし、もしそうであるのならば、二人にそれを認めさせるのは困難だろう。――何故ならそれは、神が自分達に課した「不可神」の協定なのだから
「いや、驚いているさ」
肩を竦め、わざとらしく反応して見せるロードを見た死紅魔は、聞いても無駄なことを聞くような労を払うことはせず、ただ一言簡潔に言い捨てる
「食えない奴め」
その一言で二人への不満を意識の隅へと放逐した死紅魔は、話が途中だったことを思い出して、その続きを告げる
「話は逸れたが、そいつがしびれを切らす前に俺が引導を渡さねばならないだろう?」
「お前達の方が状況と事情は分かっているだろう?」という皮肉めいた言葉を投げかけた死紅魔に、ロードはそれを見透かしているかのように口端をわずかに吊り上げて応じる
「そうか……精々殺す機を誤らないことだ。見誤れば、取り返しがつかないことになる」
そのロードの言葉は、死紅魔への忠告であり念押しであり、再確認の意味を持っている
それを分かっている死紅魔は、自分がそれを分かっていることを伝えるために、これから成すべきことを言葉にする
「殺さなくては、世界が滅びる。だが、殺してもうまく殺さなければ世界が滅びてしまう……か。――まったく、難儀なことだ」
自嘲気味に肩を竦め、己が成すべきことを言い聞かせるように口にした死紅魔は、改めて自身の双肩にかかっているものを再確認して顔を上げる
「案ずるな。必ずやり遂げて見せるさ――世界を守ってみせる」
ロードと撫子に背を向けたまま、う言い放った死紅魔は、世界を守るために、世界を滅ぼす己の息子を自身の手で討つことを、固く心に誓うのだった