大いなる世界
世界と世界の境界――あまねく世界の景色を映して存在する「時空の狭間」と呼ばれる世界を移動する、天空大陸。それを都市として作り変えた十世界の本拠地たるその場所に、覇国神と賢聖を伴って愛梨が帰還する
「お疲れ様でした、姫。いかがでしたか?」
別の時空の狭間で英知の樹の首領との会合を終えて帰還した愛梨を恭しく出迎えた先導者は、その成果を訊ねる
その問いかけを受けた愛梨は、先程の英知の樹首領とのやり取りを思い返して、わずかにその美貌を翳らせる
「人と分かり合うのは難しいですね。……特に、その方に何を置いても成したいことがある場合には」
その言葉を聞いた先導者は、会合の結果が芳しいものではなかったことを察して静かに目礼することで了解の意を示す
分かりきっていることだだが、言葉と言葉は伝わるというのに、言葉を心に伝えるのは難しい。まして、その言葉で心を変えるというのならばなおのことだ
「ですが、これで終わりではありません。今回の事をきっかけに、彼らともっと言葉を交わすことができるようになればと思います」
今まで神器を巡っての〝敵対〟以外の一切の接触がなかった英知の樹との対話に、新たな関係の進展を望む愛梨は、その声音に希望の色を込めて言う
先程の会合そのものが、愛梨の力を奪い取ろうとしたフレイザードの罠だったのだが、それを分かった上でさらに分かり合おうとする愛梨の横顔に、覇国神は小さく息をつく
「これからも色々ご迷惑をかけると思いますが、よろしくお願いしますね」
呆れているとも、「らしい」と思っているとも取れる覇国神のため息を聞いた愛梨は、自分よりも背の高い戦の神の瞳のない目を見つめて微笑む
「ところで、御戻りになったばかりのところ申し訳ないのですが、例の件についてお耳に入れたいことがございます」
「はい」
身体を起こした先導者の言葉を受けた愛梨は、その表情を引き締めると話の続きを促す
「おそらく間違いはないと思われますが、やはり確認を取ってみないことには確定できかねます。覇国神に斥候を派遣させるか、死神を使うかして調べて裏を取るのがよろしいと思います。許可を頂けるのであれば、悪意でも構いませんが」
「そうですか――」
情報が足りていないという先導者の報告を聞いた愛梨は、柳眉を顰めて思案を深める
「折角ですが、ヘイトさんの提案は却下です。潜入調査をすれば、皆さんへの心証が悪くなるばかりでしょうし、話し合いによって分かり合うことを目的としている十世界の言葉がただの詭弁に成り下がってしまうでしょう」
戦の神に列なる斥候、あるいは死神は知覚されない特性を持つ隠密能力に長けた全霊命だ。先導者がそのメンバーを示して進言したということは、極秘裏に裏付け調査を行うことを求めているということ
だが、自分達がしようとしていることは物証を集めることではない。そんなものを集めて、相手に突きつけることなど考えてもいない愛梨は、そう言ってこの場にいる二人に声をかける
「ですので、こういう場合は私の方から出向くのが筋というものではないかと思います」
「――」
「また始まった」と言わんばかりにその表情を渋いものに変えた覇国神と先導者の視線に笑みを浮かべて応じた愛梨は、自身の胸に手を当てて己の意思を伝える
「参りましょう――『聖人界』へ」
※
空に開いた時空の門から姿を現し、地に足をつけた詩織は、眼前に広がっている光景を瞳に映して感嘆の声を漏らす
空間の門を介して出現したその場所は、小高い丘のような場所であり、そこからは眼下に広がる世界を一望することができた
「ここが、聖人界ですか」
真っ先に目に飛び込んでくるのは、これまで巡ってきた世界と同じ豊かな自然に満ちた風景。青々とした木々、透明なほど澄んだ水、遠く見える山、空に浮かぶ大地。――溢れんばかりの輝きに満ちた世界の空気に肌を撫でられた詩織は、心地よさそうに目を細める
「ええ」
その言葉に淑やかな笑みを浮かべた朱髪の天使――天界の姫である「リリーナ」は、その指である一点を指し示す
「あれが、聖人界の中枢――『聖議殿』です」
その指が指し示している方向へと視線を向けた詩織は、そびえ立つ山脈の彼方にぼんやりと見える影を見止めて、その目を細める
そこには、遠目からでも分かるほどに白い街のようなものが佇んでいた。周囲に満ちる自然と比べれば明らかに人工的なそれは、巨大な山脈の中腹から上を丸ごと切り落として作ったような大地に堂々と鎮座していた
「――あの街……」
「どうしたの、大貴?」
遠目に見える聖人界の中枢を見て大貴が左右非対称色の双眸を訝しげにひそめたのを見て取った詩織は、その様子に首を傾げる
「いや、なんでもない」
その問いかけを受けた大貴は、詩織へと視線を一瞥すると一瞬だけ迷ってから自身の感じたものを心の内へしまい込む
「なによ、気になるじゃない」
それを見ていた詩織は、それを気にしながらも今無理矢理に聞き出す必要もないかと、その視線を遥か彼方に在る白い街へ向ける
「それにしても、なんか、随分遠いですね」
「随分、離れたところに出たんだな」
その言葉を聞いた大貴も、それに同意を示してこの場所へと続く空間の道を開いた人物――「リリーナ」へと向ける
これまでに訪れた九世界では、いずれもその世界の王の城からさほど遠くない場所に時空の門を開いていた。
王城をはじめとした九世界、とくに全霊命の街には、最低一人は空間転移を阻むための結界を作っている人員がいるため内側には転移できないとしても、その近くに出ることは全霊命の時空間移動なら不可能ではないはずだ
「この世界の場合、私達があの近くに転移すると、少々揉める可能性がありますので」
その至極もっともな大貴の問いかけを受けたリリーナは、どこかばつが悪そうな、申し訳なさそうな表情で曖昧な笑みを浮かべる
「――なるほど、ヒナが言ってた通りか」
その様子を見た大貴は、左右非対称色の双眸で遠くに見える白い街を見据えて独白する
「人間界王様が何か?」
光魔神である大貴は、人間界王「ヒナ・アルテア・ハーヴィン」が持つ「至宝冠・アルテア」を介し、時空を超えても思念による通話を行うことができる。
リリーナが冥界を訪れてから約二日の休養期間を置いているのだから、その間に話をしていても何ら不思議ではなかった
『次は聖人界ですか』
大貴の脳裏に甦ってくるのは、冥界で休息をとっていた頃、至宝冠とのつながりを利用して、時空を隔てた異なる世界にいるヒナと交わした会話だった
「ああ。ただ、どうも様子がおかしんだよな」
冥界でのことのあらましを簡単に説明し、ヒナの近況を聞くという無難な前置きをした大貴は、自分が感じていた疑問を口にする
『と仰いますと?』
至宝冠を介して伝わってくるヒナの声に、大貴は次に聖人界に行くと聞いた面々が浮かべていた反応を思い返しながら言う
「なんていうか、神魔辺りが露骨に嫌そうな顔してるんだよ。それどころか、冥や冥界の死神達も、なんか同情するような視線を送ってきてたし……」
神魔が浮かべた露骨な反応は、大貴の記憶にはっきりと焼き付いている。それ以上に、そういう反応を表に出すようなタイプには思えない桜や瑞希、同じ光の全霊命であるクロスやマリアまでもが、若干その表情に複雑な感情を宿していたのが特に印象的だった
『なるほど……それは、やむを得ないでしょうね』
「聖人界ってのは、なんか訳ありなのか? 嫌われてるとか」
思念を介して通じ合うヒナが同調の意を示したのを聞いた大貴は、その理由を訊ねる
次に行くことになっている聖人界は、光の世界。闇の全霊命である神魔、桜、瑞希は百歩譲って分かるとしても、種族は違えど同じ光の存在であるクロスやマリアまでもがそうであるとは思えない
だが、もしもそういう感情をあの場にいた全員が抱いているのだとすれば、大貴が即座に思いつく理由はそういうものだった
『リリーナ様達からはなにも?』
「ああ」
しばしの間沈黙していたヒナに尋ねられた大貴は、それに簡潔に応じる
その時の大貴は、渋面を浮かべていた理由を訊ねたにも関わらず、誰一人としてそれに明確な反応を返してくれなかったことを思い出されていた
『でしたら、私も明言は避けさせていただきたく存じます。おそらく、皆さんは大貴さんが私達の意見を聞くことで、先入観を植え付けたくないのでしょう』
「……だろうな」
全員が自分の問いかけに明言を避けた理由をヒナと同じもので想像していた大貴は、それに同意を示す
仮に神魔やクロス達が次に行く聖人界の事を良く思っていなかったとして、それを大貴に吹聴すれば少なからずそういう印象与え、そういう先入観が先になってしまうのが想像に難くない
あくまでも、大貴自身の目と心で感じ取ってほしいと考えているのならば、現状での沈黙も納得がいくというものだ
『ただ、一つだけ申し上げるならば――』
そういった気遣い――都合とも言うのかもしれないが――が分かる大貴がため息混じりに言うと、至宝冠を介してヒナの声が伝わってくる
『次に赴かれる聖人界は、九世界の中でも少々異質と申しますか……難しい世界です。くれぐれも、お気を付けください』
言葉を濁し、言葉を選びながら言ったヒナの言葉からは、人間界王としての配慮と大貴への気遣いが感じられた
「いや、詳しいことはなにも。自分の意見を聞いて俺がそういう先入観を持つのも良くないだろうって言ってな」
「それは、賢明なご判断です」
冥界でのヒナとのやり取りを思い返しながら言った大貴の言葉に、リリーナも肯定的な微笑を浮かべて言う
「では、ゆっくり聖議殿へと向かいましょうか」
そう言って全員に視線を巡らせたリリーナは、その緋色の髪に隠された背中から生える五対十枚の純白の翼を広げた
ゆっくり向かうとはいっても、「聖議殿」は、徒歩で歩けば一週間かかっても着かないほどの距離にある
要は、自分達の接近を向こうが把握しさえすればいいのだから、大貴達は詩織を結界で守りながら、時間と空間を超越する全霊命としての移動速度で聖人界の中枢へと向かう
「!」
神速で移動する結界の中から、聖人界の景色を見ていた詩織は、その目に止まった光景に思わず息を漏らす
「山って、動くんだ」
呆けたような、感嘆したような声で紡がれた詩織のの視線の先では、巨大な山がゆっくりとした速度で動いていた
だが、よく目を凝らして見れば、それは周囲の山とは少々異なっていることがわかる。自然そのものを乗せて動く山のふもとには巨大な柱があり、その進行方向には鎧質の亀のそれに似た頭部が伸びていたのだ
「あれは、この世界の半霊命である『巨獣』です。聖人界の生物は、大型のものが多く、世界最大級のそれになるものが多いのですよ」
「へぇ……」
太く短い足で地面を踏みしめながら歩く、亀を思わせるその生物を横目にしたリリーナの言葉に詩織が簡単と驚嘆の入り混じった声を漏らす
山を背負い、大地を往く亀は近くではその全容がしあきに収まりきらないほどに大きい。全長数十キロにも及ぶであろうその規格外の大きさに、詩織はただただ口と目を丸くするばかりだった
この聖人界と呼ばれる世界の半霊命――「巨獣」は、九世界でも屈指の大きさに育つ特性を持っていることで知られている
全霊命と人間界が収めている九つの世界を含み、星の数ほど存在する世界の中で、巨獣は最も大きくなる種が多く、平均的に見ても他の世界より大きい
中には大陸並の大きさを持つものや、ゆりかごの世界における惑星や恒星以上の大きさを誇るものまで、多種多様で巨大な生命が存在し、生態系が形作られている
そしてそれは、同時にその巨大な半霊命たちの営みを支えられるだけの豊かさがこの聖人界という世界にあることを意味していた
「道理で。なんか、やたらでかい樹ばっかりが生えてると思った」
その説明に耳を傾けていた大貴は、合点がいったように呟く
小高い丘に出たため、最初は気づきにくかったが、移動してみると周囲に生えている木や草の大きさがかなり大きいことがわかる
辺りに当たり前のように生えている木々は、一本一本が直径数百メートル、高さにして千メートルを超えているのではないかと思える。さらにそれを踏まえて周囲を見れば、遠目には山よりも高くそびえる大樹さえ見て取ることができた
「本当だ、凄……っ」
大貴に言われて、その大きさに気付いた詩織が声を上げるのを背中で聞いたリリーナは、その視線の先にある聖人界の中枢を見据えて口を開く
「聖人界は、九世界の全霊命が治める世界の中で唯一、議会制民主主義を取る世界です。この世界の王は『界首』と呼ばれ、聖議殿で開催される『中央界議』を統括しています」
簡潔に並べられたリリーナの説明を聞いた大貴は、左右非対称色の双眸をさりげなく神魔へと向ける
(その辺が、神魔達が渋い顔をしてる理由なのか?)
「聖人界」は、九世界の頂点である九つの世界の中で、唯一「民主主義」を取る世界。「王」という単一の存在ではなく、この世界を総べる「聖人」という全霊命がその総意によって運営する世界だ
その中でこの世界の王に当たる「界首」は、世界の代表ではあるが、それはあくまで世界の意思の代行表示者という役目として知られている
「そういう世界は珍しいのか?」
聖人界という世界が異質である理由を判断しかねる大貴は、とりあえずこれまでの世界と最も異なっている世界制度について訊ねる
「いえ。絶対数は多くありませんが、少ないわけでもありません」
だが、大貴のその言葉にリリーナは淡泊に答え、その疑問を解消するように、マリアがその言葉の続きを受け取る
「九世界の大半は、王制か多くても十人前後の支配者による一極統治が基本ですから」
全霊命と人間が治める九つの世界を含め、数えきれないほどに存在する九世界の世界では、民主制の政治よりも王制、ないしは多くても十人程度の選りすぐられたメンバーで世界を運営する体制が一般的だ
それは神能がそうであるように、霊的な力を持ち、神格が髙ければ高いほど、この世の概念を超越することが可能になるからだ
即ち、単身で世界や国家を殲滅しうる力を持った存在がいること。そしてその世界に複数種の高位知的生命体が存在している以上、世界や国家の中枢を広げるなど状況判断を狂わせるような要因になりかねないからだ
「そうなんですね」
マリアの言葉に感嘆の声を漏らした詩織に、大貴も小さく首肯して言う
「そりゃそうだろ。地球みたいに、人間は人間とだけ政治してりゃいいってわけじゃないんだからな」
「まあ、王制だろうと民主制だろうと一長一短だから一概にどうとは言えないけどね」
その言葉に神魔が軽い口調で続くが、それは大貴が自分の反応や考えていることに意識を向けてきていることに気付いているからこそ、あえて発せられたものだった
「ま、全霊命が議会で何を話し合うことがあるかって話だけどね」
王制は独裁を招くが、民主制は衆愚政治を招く。民主制では、多数票さえ獲得できれば、為政者としての能力や器がなくともその地位に着けるが、王制もまた親の情や欲望から能力がない者が王に据えられることはある
全霊命と半霊命ではもちろん、同じ半霊命であっても世界の状況などでその事情は大きく変わるだろう。世界の運営方法に関しては、どちらがよくて正しいなどということはない
(――これじゃなかったか)
神魔の言葉を聞いて、分かったような分かっていないような相槌を打つ詩織の横で、大貴は世界の運営方法が嫌われているのではないことを感じ取って進行方向へ視線を向ける
(まあ、行けば分かるってことだろうけどな)
先程よりも、確実にその大きさを増している、山脈の上に鎮座する白亜の街城を見た大貴は、これまでとは何かが違う聖人界の気配に、気を引き締め直す
「わぁ、近くで見るとすっごい大きさですね」
そのまま神速で移動した大貴達は、数分後には聖人界の中枢である「聖議殿」の許へと辿り着いていた
半分切り取られた山脈の上にあった時点で想像できていたことだが、間近で見る聖議殿は、詩織の視界からではその全容を窺うことができないほどに巨大だった
(まるで壁っていうか、山を麓から見上げてるみたい……)
その巨大な城を前にして内心で感嘆の声を呟いていた詩織と目に、白亜の外壁に作られた神々しい巨大な門扉が映る
「止まれ」
それは、重厚で厳かな男の声。その声に応えるように移動速度を抑えた大貴達は、聖議殿の中へと続きく扉を前に広がっている広場のような場所にゆっくりと降り立つ
「――……」
(こいつらが聖人か)
そこに降り立った大貴は、顔を上げて門の前に立っている門番らしき二人の男を見止めて心の中で呟く
(大きい)
遠くらその存在を知覚していた大貴とは違い、間近に着てようやくその姿を視認した詩織の心中には、目の前に建つ存在――「聖人」を見た第一印象が強く焼き付けられていた
この世界を総べる全霊命である「聖人」は、天使のように白い翼があるわけでも、精霊のように翅があるわけでもない。
全霊命特有の非現実的なほどに整った容姿をしている以外は、人間界の人間のような外見をしており、特筆すべき特徴は見られなかった
――ただ一点。平均身長が三メートル以上にもなるということを除けば。
「お勤めご苦労様でございます。すでにお聞き及びと存じますが、私達は光魔神様をこの聖人界へと案内してきた者でございます」
一歩前へ進み出たリリーナが恭しく頭を下げて要件を告げると、門番を務める二人の聖人がその手に槍と薙刀を顕現したままその姿を睥睨する
警戒――あるいは、敵意と言い換えてもいいかもしれないが、武器を顕現させたままで話していることと、そういった感情を感じさせる声音で話す門番の聖人二人は、三メートルを超える巨躯も手伝って見下ろされる様な圧迫感と威圧感を放っていた
「話は聞いている」
一応相手が天界の姫であるというのに、不遜な態度を崩すことなく応じた二人の門番はその視線を大貴へと向けてその目を剣呑に細める
「――それが光魔神か」
「……!」
その言葉にその場にいる全員が、わずかにその眉をひそめて一瞬だけ不快感を示す。確かに歓迎すべからざる訪問者ではあるのかもしれないが、敬意や体面的な立ち振る舞いが一切ないその姿に、大貴は平静を保ちながら頭の中で分析する
(ああ、そういうことか。なんとなく分かった)
頭を下げたリリーナが一瞬その肩を小さく強張らせたのを見逃さなかった大貴は、二人の門場の態度と口調で、聖人界を神魔達が嫌っていた理由をおおよそ理解できた
(あの目、相当俺達のこと嫌ってるな)
自分達を見る聖人の瞳には、友好的な感情など毛程も見ることができない。むしろそこに映っているのは、軽蔑や嫌悪といった感情だった
「お話は、すでに通っていると思うのですが、界首様への御目通りをお願いいたします」
大貴は客人である以上に、九世界にとって価値がある存在。それを分かっているはずなのに、一切不遜な態度を隠さない聖人に対する不満を抑え込んだらしいリリーナは、友好的な笑みを浮かべて言う
「少々お待ちを。ただいま、案内の者を呼びますので」
そう言ってリリーナに応えた聖人の門番が、思念通話をしたらしいのを見た詩織は、たまたま近くにいた大貴に声をひそめて囁きかける
「なんか、ちょっとピリピリしてるわね」
「口を開くな」
瞬間、聖人の門番二人から殺意と怒気に塗れた視線が低く抑圧された声と共に詩織に叩き付けられる
「ひッ」
世界で最も神格の高い全霊命の純然たる殺意を叩き付けられた詩織は、魂すら一瞬で塵に帰してしまいそうな圧力に顔を引き攣らせる
詩織の存在には、人間界でヒナからもらった装霊機が融合し、世界や霊格の余波から詩織を守っているが、直接それを向けられた耐えるほどの性能は持ち合わせてはいない。
そのため、聖人の殺意に晒された詩織は、自身の死――あるいはそれ以上の存在の消失を確信していた
「そのような威嚇はおやめください」
しかし、その殺意が一瞬すら満たない時間で詩織の存在を消失させる前に、それをリリーナの優しい光力の光が相殺する
「……ぁ」
自身が滅びたかと思った詩織を救ったのは、肩に触れているマリアと桜の神能による護りの力によるもの。更に神魔の大槍刀とクロスの大剣が壁になるように刃を交差させ、聖人の視線から詩織を遮っていた
もし一瞬でも反応が鈍ければ、詩織は神格を持つ殺意によって、成す術もなくこの世界から魂ごと滅し飛ばされていたか、あるいは自身が抱いた死のイメージによって命を落としていただろう
(こんなの、はじめてだ)
感謝の言葉を伝えるほどの余裕もないほど、死の実感に囚われていた詩織は、恐怖に強張った表情で神魔とクロスの刃を見つめながら、愕然とした意識の中でその事実を実感していた
(ゆりかごの人間が九世界でよく思われてないのは知ってた。でも、こんなに露骨に対応されたのは初めて――)
詩織――即ち、ゆりかごの人間は、神敵である「反逆神・アークエネミー」の眷属。九世界の存在にとって、悪意であるその存在は明確な〝敵〟だ。
世界が交流を望まず、距離を置いて接触を拒む程度には悪意の存在が忌み嫌われていることを知識としては知っていた。だが、これまで訪れた全ての世界、これまで関わった全ての人はそれを露骨に見せることは無かった
「穢らわしい悪意が」
忘れていたわけではなかった。自覚もしていた。――だが、初めて向けられた悪意の存在に対する殺意に似た嫌悪感に晒された詩織は、今まで自分がどれほど幸せだったのかを否が応でも理解せざるを得なかった
神魔も、クロスも、桜も、マリアも、瑞希も、リリーナも――これまで触れ合ってきた全ての人達は、内心ではどう思っていたか分からないが、少なくともゆりかごの存在ではなく、詩織という個人の人格に敬意を払って接してくれていた
だが、目の前の聖人は違う。ゆりかごの人間という詩織の存在に対し、露骨に唾棄する様な感情を向けてきたのだ
「――姉貴」
「大、丈夫……」
詩織に声をかけた大貴は、恐怖で青ざめた顔で答える震えた声に、その双眸を憤怒に染めて聖人を睨み付ける
(――の野郎)
ここにいるメンバーは、少なからず、聖人たちの詩織に対する行動に非難の色を示し、不快感を露にしている。
だが、それを三メートルを超える巨躯で睥睨する聖人たちは、そんなことなど意に介した様子もない。むしろ、「悪意となぜ平然とした顔で行動をしているのだ?」といわんばかりの、理解に苦しんでいるような表情を浮かべていた
「そこまでです」
その時、この場の緊迫した空気を感じ取ったのか、凛とした女声が響き、それに次いで二人の聖人たちが守っている門が内側から開けられる
「……!」
それに気づいた門番の二人が両側へと移動して頭を下げると、そこから姿を現した一人の女性がリリーナ達を見て軽く目礼する
それは、銀色の髪を後頭部で一つに結いあげ、白を基調とした霊衣に身を包んだ聖人の女性。門を守る二人よりはわずかに低いが、その身長は詩織の倍ほどはあるだろう
全霊命特有の非現実的な程に整った美貌で大貴達と向かい合った銀髪の女性は、理知的な光を宿す切れ長の目で視線を送り、翡翠色の瞳に異世界からの来訪者を映す
「ここは矛を収めていただけませんか? 我々としても、ここであなた方と事を構えるようなことはしたくありません」
政治を担う者としては仕方がないのかもしれないが、一切自分達の非を認めるつもりはない淡泊なその言葉に、大貴はわずかに眉をしかめる
「――……」
「私は界首・シュトラウス様の秘書を務めております、『スレイヤ』と申します」
首を折る気がない意志をその双眸から感じ取った大貴達が、苦々しい思いを噛み殺すように武器を消し去ると、「スレイヤ」と名乗った巨人の女性は半身引いて城の中を見せる
「では中へどうぞ。ご案内いたします」
城の中へとついてくるように促したスレイヤの言葉に、リリーナが前へ進むと、それに倣って全員が後に続く
(道理で神魔達が嫌がるわけだ。思えば、天界王が先に闇の世界から行くように言ったのも、聖人が原因だと思えば、納得がいく)
眼前に見えるリリーナの朱色の髪と純白の翼を見ながら歩く大貴は、少なくとも第一印象ではこれまでで最悪となった聖人界と聖人について思案する
思い返してもれば、天界王・ノヴァと謁見したときにもなにか問題がある様な口調で、光の世界からではなく、闇の世界から回るようにと求めてきた
冥界でも「調整がついた」などとリリーナが言っていたことやヒナの言葉などを踏まえれば、この聖人界が九世界で少々異質なのは間違いない
(……これは、面倒なことになりそうだな)
この聖人界でのこれからが前途多難だと考えながら、歩を進めた大貴が門をくぐった聖人界の中枢である聖議殿の外周を囲う壁をくぐった瞬間、門を守っていた聖人がその武器である薙刀を振り下ろす
「っ!」
まさか、こんなことをするとは思っていなかった大貴は、一瞬で高まった聖人の神能と純然たる殺意が狙った背後の人物――自分の双子の姉へと視線を向ける
神格が許す限り、あらゆる事象を超越する神速で振り下ろされた刃は、地響きを立てて目も眩むほどの眩い光を生じさせる
「……!」
だが、聖人が振り下ろしたその刃は、詩織の頭上より高い場所で、横から差し出された暗黒を纏う大槍刀によって受け止められていた
聖人と同じ身の丈――即ち、三メートルを超える長大な薙刀による斬撃を片手で持った大槍刀で軽々と受け止めて見せた神魔は、桜の結界で守られた詩織と、武器を構えるもう一人の門番へと刃のような視線を向ける瑞希を背に、金色の双眸を静かな怒りに染め上げる
「どういうつもりだ?」
白目の部分を漆黒に染めた金色の双眼で睨み付けられた聖人は、その純然たる殺意が込められた魔力にわたずかにたじろぐ
神魔の魔力が自分よりも圧倒的に強大な神格を帯びていることを知覚した聖人は、その殺意に一瞬怯むが、即座にその色を消して言う
「なに、悪気はない。目の端に汚らわしい害虫が映れば、反射的に叩き潰すだろう? それと同じだ。うっかり手が出てしまった」
その巨躯もあるが、それ以上に精神的に高みから見下していることがありありと伝わってくる視線を詩織――神敵たる悪意の眷属へ向けた聖人の蔑言に神魔の声が一段と低くなり、その殺意が一層重厚なものに変わる
「へぇ……」
その言葉に、神魔の魔力にいつ目の前の聖人を殺してもおかしくないほどの殺意が宿ると、もう一人の門番もその身体から戦意に満ちた光の力が解き放つ
「……!」
三人の悪魔と二人の聖人の神能がせめぎ合い、そこに込められた純然たる殺意が世界を軋ませる中、大貴はこの一触即発の状況に思わず息を詰まらせるのだった