小さな卓
世界と世界を隔てる空間の中に存在する時空の狭間。世界を映し、ありえない光景さえ実現させるその狭間の世界の一つを、十世界盟主たる姫――奏姫「愛梨」が歩いていた
その背後に控えるのは、身の丈にも及ぶ長杖を携え、種族の特徴である瞳のない目を持つ中性的な容姿を持つ覇国神の神片の一人「賢聖」。
一面を色とりどりの花が埋め尽くし、強い風も吹いていないというのに花弁を舞い踊らせている花園の世界を歩く愛梨は、鼻腔をくすぐる花々の香りを味わってその足を止める
「賢聖さん。ここで大丈夫です」
「はい」
愛梨に肩ごしに視線を送られた賢聖は、一礼するとその場で立ち止まり、すでに到着している英知の樹の許へと歩いていく
一面に咲き誇る花畑の中に不自然に置かれているのは、九世界が警戒する二つの組織の長が座るにしては少々簡素に思える円卓。
おそらく英知の樹が持ち込んだのであろう白塗りの椅子とテーブルには、すでに両肘をついて一人の男が愛梨の到着を待ちわびていた
「お待たせいたしました」
「いえ、時間通りですよ」
愛梨が待たせていたことを軽く謝罪すると、それを受け取った男は姿勢を正して答える
元々この会合は英知の樹が十世界に打診する形で実現したもの。愛梨の到着自体が予定の時間よりも少し早い
それよりも早く男が来ていたのは、ただ単に主賓として客を待たせるなどいう礼を失したことをを行わないためだ
「どうぞおかけください」
「では」
男に促された愛梨は、その言葉に一礼を返して向かい合う場所に作られた空席に優美な所作で腰を下ろす
「この度は、二人きりで話し合いたいというこちらの無礼なお願いを受け入れていただき申し訳ありません。
申し遅れましたが、私が英知の樹の首領を務めている『フレイザード』です」
「いえ、私もあなたとはお話したいと思っておりましたから」
そう言って笑った英知の樹首領――「フレイザード」に、愛梨もまた友好的な笑みを向けて応じる
一面を花畑で彩られた狭間の世界の大地に作られた会合の場には、十世界盟主である愛梨と英知の樹首領であるフレイザードの二人だけしかいない。愛梨が連れ来た賢聖のように、最低限の護衛などもいるにはいるが、二人からは遠く離れた場所でこのやり取りを見守っているだけだ。
だが、九世界で最も力を持つ二大組織の頂点が護衛もつけずに二人だけであうなど、常識的に考えてそんなことなどありえない。
普通ならばこんな要求は突っぱねられるところだろうが、そんな無茶な要求も九世界の誰をも信じようとする愛梨だからこそ受けたといえる。
もしこれを提案したのが十世界側で受けるのが英知の樹側だったならば、こうはならなかっただろう
「それは光栄です。十世界の盟主であるあなたにそう思っていただいているとは」
白々しさすら感じさせる口調で答えたフレイザードに、その対面する位置に座っている愛理はその表情を崩すことなく真剣な眼差しを向ける
「では、早速ですが一つお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「ええ」
微笑を浮かべたフレイザードに一言断りを入れた愛梨は、一拍の間を置いて先に述べた通りに問いかける
「あなたの目的は何ですか?」
自身の挙動の全てを見逃すまいとするかのような愛梨の透明感のある双眸を向けられたフレイザードは、その表情から薄い笑みを消して答える
「神の力をすべて集め、神へと至ること。神が定め、被造物に架せられたこの世のあるあらゆる不条理から脱却することです」
英知の樹が九世界から警戒されているのは、神器を集め、その力を使える者を一定数以上保有しているからだ
だが、英知の樹が神器を集める理由は、ただ神の力が欲しいからというだけではない。神の力を集めることですでにこの世界にはいない神が定めた真理の戒めから逃れることこそが、その真の目的だ
世界を創造し、あらゆる命を生み出した神々は創界神争が終結した後、不可神条約を以って九世界の在り様をずっと見ている。だが、作られたからといって作ったものの言いなりにならなければならないという訳ではないはずだ
神に作られたからといって、神の定めたままに生きることを良しとせず、神の力を得て被造物の戒めを解き放ち、自分達の存在を世界に確立させることこそが、英知の樹の大きな目的なのだ
「それは、本心ですか?」
当然のように淡泊な声音で答えたフレイザードの言葉に、愛梨は真摯な眼差しを向けて問いかける
「無論」
フレイザードがそれを首肯するのを見た愛梨は、心まで見透かすような透明感を持つ瞳を向けて、ゆっくりと口を開く
「あなたの神格としての言葉と受け取ってもいいのですよね?」
その言葉に、初めてその眉を動かしたフレイザードは、自身へと視線を向ける愛梨を見て口端を吊り上げる
「――やはり、気付いていたか」
微笑じみた言葉を零したフレイザードは、先程までの理知的な瞳に獰猛な獣のような光を宿したその双眸で愛梨を見る
十世界盟主である愛梨は、恒久的世界平和という世界の大半の者からすれば実現しえないとしか思えない理想を語り、人を愚かなほどに信じようとする癖があることで知られているがただの愚者ではない
愛梨を見るフレイザードの目には、その事実を指摘したことに対してむしろ当然だといった感情が浮かんでいた
「私は、こう見えても神の巫女と呼ばれる存在です。巧妙に誤魔化していても、あなたが誰なのか分からないはずはありません」
フレイザードの視線に晒された愛梨は、心身ともに全く揺らすことなく、普段通りの落ち着いた声音で答える
奏姫愛梨は、九世界を創造した光と闇の神々の力に列ならない異端の存在。「神の巫女」と呼ばれる四姉妹の末妹だ
神の巫女とはその名の通り、光、闇、異端、全ての神に仕える巫女。全ての神に通じる巫女の一人である愛梨は、目の前にいるフレイザードという存在の本質を正しく見通していた
「それが分かっていて、ここに来たとはな」
恐らく遠目で自分の存在を見、知覚した時にはすでに看破していたであろうに、それを分かった上で無防備に自分に許へとやってきた愛梨に、フレイザードが小さく鼻を鳴らす
「あなたの本当の目的を知りたいと思っていますから。まずは言葉を交わさなければなりません。例え、あなたの望みが――〝全て〟なのだとしても」
嘲るようなフレイザードの言葉を受けた愛梨は、あくまでも己の在り様を崩さない純粋な信頼を込めた微笑で答える
相手が何者であろうと、まずは言葉を交わし、心を繋ぐ努力をすることを信条とする愛梨にとって、この対応は当然のことだった
「なるほど。――だが、それは失策だ」
愛梨の十世界盟主たる所以でもある無防備にして信頼と慈愛に満ちた笑みを受けたフレイザードがそれを小さく笑い飛ばした次の瞬間、その表情からは全ての感情が抜け落ちていた
「!」
友好的など感情など皆無であることが一目でわかるその無機質で冷たい瞳を向けられた愛梨は、次の瞬間自身の両側に出現した光の板を見て目を瞠る
それは、光で構築された半透明の板。厚みはほとんどなく、まるで神能を凝縮して作り出した障壁や結界を思わせるものだった
「これは……っ!」
自分を挟むようにして顕現した長方形の光の膜板を見た愛梨は、反射的に武器である長杖を顕現して立ちあがるも、成す術もなくその光の板に挟まれる
「……!」
その光景を見て口元を緩めたフレイザードだったが、その愉悦の表情は一瞬にしてかき消される
なぜなら、愛梨を押しつぶすようにして挟んだその光の板が内側から力づくで破壊され、無機質なガラス質の音を響かせたからだ
だが、その光の板を破壊したのは愛梨ではない。その二メートルを超える背丈を持つ巨躯で愛梨を包み込むようにして佇んでいる一人の大男だった
頭から王冠のように生えた天を衝く太くねじれた大角。筋骨隆々とした体躯に、漆黒の髪を逆立たせ、口元をそれと同じ髭で覆ったその大男は、口端から牙をのぞかせながら瞳のない目でフレイザードを睨み付けていた
「覇国神さん」
その身体に庇われた愛梨が顔を上げ、力任せに揮われたであろうその左拳は、光の板を破壊したときのまま空中に置いているその大男を見て声を漏らす
愛梨を庇うように顕現したその大男こそ、最強の異端神である円卓の神座に名を列ねる十三柱の神の一角。№9を与えられた戦の神「覇国神・ウォー」だった
「無事か、姫」
「はい。ありがとうございます」
その巨躯で包み込んだ華奢な姫を瞳のない目で一瞥した覇国神は、肩に巨大な角のような鎧を持つ軍服に来た陣羽織を翻しながら、フレイザードを睨み付ける
巨大な角、左右の口端から天を衝いて生える牙、瞳のない眼。紺色の軍羽織を揺らめかせながら、殺意とは別種の威圧感で逆立つ漆黒の髪を怒気で研ぎ澄ませるその様は、まさに、戦場に征つ修羅か羅刹――戦の神に相応しい覇姿だった
「なるほど、『界略軍棋』――賢聖の力か」
突如顕現した覇国神に睨み付けられながらも、座っていた場所から後退して佇むフレイザードは、それを涼しい顔で見ながら淡泊な口調で言う
突如愛梨の許に覇国神が出現した理由を施行したフレイザードは、遥か遠くにその眷属たる神片――「賢聖」がいるのを見て取って、その手段を正しく洞察していた
覇国神の神片の一人「賢聖」の能力である「界略軍棋」は、世界を盤、自軍を駒としてそれを自在に移動させる力を持つ
戦の神の眷属にしか使えないという欠点こそあるが、その力の発動領域は、世界の壁をも越える。その力を使って自身の神である覇国神を愛梨の許へ顕現させたのだ
(あらかじめ、準備をしていたな)
自身に注がれる覇国神の双眸と、愛梨の視線を受け止めるフレイザードは、心の中で淡泊に独白する
いかに賢聖とはいえ、あの一瞬で覇国神をここに呼び出して愛梨を守るという判断を選択を下すのは難しい
それができたということは、あらかじめこちらからの提案を鵜呑みにせず、いつでも覇国神を呼び出せるように準備していたということだ。おそらく、進言すれば反対されると分かっていたため、愛梨にも内緒で戦の神の眷属の判断でそうしたのだろう
「忠臣だな」
呆れたようにため息をつくフレイザードを睥睨する覇国神は、その口をゆっくり開いて重低音の声を叩き付ける
「どういうつもりだ?」
語調そのものは荒げられていないが、そこに込められた覇国神の覇気がフレイザードに叩き付けるような圧力を送ってくる
まるで魂を焼き切らんとしているかのような覇国神の言圧に耐えるフレイザードが静かに目を伏せると、その背後に時空の門が開く
突如空間中に出現した影のようなそれは、まるで世界を蝕むような蠢く黒の塊。そして、その中からゆっくりと這い出すように一つの影が姿を見せる
腰まで届く白い髪に、切れ長の目。その目尻からは刺青とも紋様とも取れる一本のラインが、顎まで伸びてい
その身を包むのは、袞衣と着物の中間にあるような合わせ襟の霊衣。薄翠色を基調に、白に装飾で飾られた全体的に薄い色合いで統一された霊衣を翻した美青年は、ゆっくりと地に足をつけて覇国神に微笑を傾ける
「――『鏡界神』」
覇国神の低く抑制された野太い声でその名を呼ばれた白髪の青年は、それに微笑を浮かべて微笑む
「やはり、同じ円卓とはいえ、戦の神であるあなたには勝てませんね」
その人物――最強の異端神、円卓の神座№7「鏡界神・ミラー」の穏やかな風貌を見た覇国神は、その様子に不快感を露にする
「そんなことは聞いていない」
「やれやれ。相変わらず厳格というか、短気というか」
怒気と覇気が入り混じった視線を叩き付けられた鏡界神は、それを酷薄な笑みで受け流すと、その視線を覇国神から愛梨へと移して口を開く
「分かっているでしょうが、〝写し鏡〟ですよ。彼女の力――全ての神器を使うことができる能力を、写し取ろうと思いましてね。危害を加えるつもりはありませんよ」
円卓の神座№7「鏡界神・ミラー」はその名の通り、「鏡」――この世界と共に存在するこの世ならざる世界「異次元」、「並行世界」を司る神だ
その力の神格の象徴である「鏡」の力は、対象を写すことで、その存在ごとその力を写し取るができる。さらに〝合わせ鏡〟を用いれば、自身にその存在の力を重ね写すことができるのだ
この世界に同一に存在しえない存在としての力を異次元の鏡によって写し奪ろうとしていたことを全く悪びれた様子もなく応えた鏡界神の言葉に、覇国神が眉間の皺を深くする
「そういう問題ではない」
「……さて、どうしましょうか? 覇国神に見つかってしまった以上、もう奏姫の力を奪い取るのは不可能だと思いますよ」
今にも自分達を殺しに向かってきそうなほどの気配を放っている覇国神を冷ややかに見据えた鏡界神は、その視線をフレイザードへと向けて白々しい口調で言う
極めて特殊で異様な力を備えている鏡界神だが、戦の神である覇国神と戦うのは分が悪いことも自覚している。その言葉を受けたフレイザードは、それに肩を竦めて応じると自分の番だとばかりに一歩踏み出す
「十世界盟主、奏姫・愛梨殿。率直に申し上げますが、我ら英知の樹と〝同盟〟を結びませんか?」
「このようなことをしておいて同盟だと!?」
先手を打って、愛梨の能力を奪い取ろうとしたフレイザードのぬけぬけとした言葉に激昂した覇国神の咆哮によって世界が揺れる
「覇国神さん。……ありがとうございます。大丈夫ですから」
今すぐにでもフレイザードと鏡界神に襲い掛からんとしていた覇国神を軽く制した愛梨は、その怒りに感謝の言葉を述べて微笑むと、十世界盟主としての毅然とした美貌で答える
「お話を聞かせてください」
その言葉に覇国神はわずかに渋い顔を浮かべ、鏡界神は微笑を崩さず、フレイザードは予想通りの反応に口端を吊り上げると、「では」と前置きしてから口を開く
「あなたは、全ての神器を使うことができる。神の力を集めている我々にとってその力は恨めしく、喉から手が出るほどにほしいものでもある
世界に散った神器の力をすべて集めれば、不可神条約によって締結されたこの世界で、あらゆる不条理を破棄できるでしょう。あなたの願いを成就することも不可能ではないのですから」
愛梨が持つ「全ての神器を使う能力」は、神器を集める英知の樹からすれば、フレイザードが述べたように喉から手が出るほどに欲しい力だろう
おおよそ分かっていたことではあるが、先程話し合いを反故にすることもいとわない強引な手段を用いてまでその力を手に入れんとした理由を述べられた愛梨は、理解を示すように一度だけ首肯する
「あなたの願いには矛盾がある。この世の全てのものは平等たりえない。それであるがゆえに、争いが起こるのです」
そして、愛梨のその反応を見たフレイザードは、対話という体面を保つためか、あえて敬語を用いて話を切り出す
「あなたの思い描く争いのない平和な世界に、人々は満足できるでしょうか? 片や永遠を生きる存在、片や百年足らずで老いさらばえて滅びる存在。前者が後者に優越感を持たず、後者が前者に劣等感を抱かないと?」
口端を吊り上げ、問いかけるように愛梨に言葉を投げかけるフレイザードだが、それは質問というよりも弾劾のようなものだった
平和、平等という美しい言葉で隠されてしまうこの世界の残酷な現実を明るみに出すフレイザードの言葉が並べられ、容赦なく愛梨に向けられていく
「ならば、あなたのいう世界を実現するには永遠の命をもつものからそれを奪うか、それを持たないものに永遠の命を与えなければならない
そして、仮にどちらかをなしたとして、それで彼らは納得するでしょうか? 不死を失ったならば、やがてかつて持っていた力を求めるのは必然、不死を手に入れたならば己の存在を見失うのが必定でしょう?」
この世界には様々な存在がいる。全霊命、半霊命はもちろん、同じ半霊命であっても、人間界の人間のように優れたものから、ゆりかごの人間のように劣ったものまで、あまねく存在が許され、多種多様な生活を営んでいる
だが、それを知る者達は何もねたんではいないのかといえば、それは断じて否だ。永遠の命を持たぬものはもつもの羨み、弱いものは強いものを妬む。
そういった感情もまた、争いの引き金になる。この世界から争いを失くそうと思うならば、それを失くさなければならないはずだ
「それは平等ではありません」
そして、その問いかけに返された愛梨の言葉にフレイザードはその笑みを深める
この世には何一つ同じ存在はなく、誰一人同じ人物はいない。愛梨が目指す世界平和は、誰もがそれを認め合い、許し合い、そして分かり立って作り上げるものだ
そしてそれは間違っていない。だが、ただ美しいだけの非現実的な理想に、正しすぎる正論は矛盾を生み出すことにしかならない
「そう。ですが、それができない以上、誰もが誰かを許すことはできない。時間と共にそれは、綻び――やがて破綻する」
まるでその時が来ることを確信しているかのように、フレイザードは言い放つ
「……ムゥ」
だが、フレイザードが言い放った予言のようなその言葉を聞いて小さく呻いた覇国神は、それがあながち間違っていないということも理解していた
仮に一時愛梨が唱える平和が実現したとしても、それが長く続くのかは別の問題だ。異なる種族、異なる存在達の心は、やがて時間と共に軋轢を生み、わだかまりを広げ、そして崩壊する――それは、戦と征服を司る覇国神には容易に想像がつく未来でもあった
「だからこそ神の力が必要なのですよ。神が残した争いの芽を、争乱の種を取り除くには、神自身の力が必要不可欠です」
「分かるでしょう?」と言わんばかりに、得意げな笑みを向けて手を差し伸べるフレイザードは、愛梨に同盟を求める
「そのために、この世界に在る全ての存在に神の力を与える。そのためには鏡界神の力、そしてあなたの力が必要不可欠です」
「……姫の力を複製してばら撒くつもりか」
フレイザードのその言葉に、覇国神はその意図を察して苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる
異次元平行世界を司る鏡界神ならば、写し取った愛梨の力をさらに写し、多くの者に与えることができるだろう。そうなれば、誰もが神器を使う力を得ることは想像に難くない
「我々を信じて、あなたの力を渡してください。そうすれば、我々はあなたの理想に全面的に協力いたしましょう」
差し伸べた手と共に、不敵な笑みを浮かべたフレイザードは信頼が込められた言葉を愛梨へと向ける
一言一言選んで告げられたその言葉は、愛梨に信頼を求めるもの。誰よりも人を信じたいと願う愛梨の心に訴えかけるものだった
「それは……できません」
だが、たっぷり一拍の間を置いて返された愛梨の言葉に、フレイザードはその表情に険を帯びさせる
「やはり、その力を失うのは惜しいか」
「違います」
まるで自分を侮っているかのようなフレイザードの言葉に気を害した様子もなく応えた有井は、真剣な眼差しを向けて言う
「もし、この力が世界から争いを失くし、平和をもたらすために必要だというのでしたら、喜んで差し上げましょう
ですが、あなたの目はそのようなことを思っていない目です――〝世界の全てを手に入れる〟と私に訴えていますよ」
自分を見るフレイザードの表情を抜け落ちているのを見た愛梨は、その目をまっすぐに見据えて粛とした声で語りかける
「――なるほど。ただ人を信じたがるだけのお人好しではないということか」
自分の瞳の奥にある神格を正しく読み取ったらしい愛梨の言葉に、フレイザードは敬語を崩して冷淡な声を返す
「なら、交渉は決裂だな」
「いいえ」
手を下ろし、淡泊で無機質な口調で言ったフレイザードに、愛梨は自身の胸に手を添えて慈愛に満ちた笑みを浮かべて微笑む
「分かり合えるまで話し合いましょう。あなたの想いを、あなたの願いを、包み隠さず教えてください。私も、私の想いを伝えますから」
あくまでも分かり合おうとする姿勢を崩さない愛梨の言葉を受けたフレイザードは、ことここに至ってまだそんな綺麗ごとを並べる様を嘲るように声を漏らす
「クク……いや、それは無駄だ。俺が欲しいのは、お前の力であってお前の心ではない」
呆れているとも感心しているとも取れる声音で言ったフレイザードの言葉を真正面から受け止めた愛梨は、鏡の異端神と共に立つその人物に穏やかな声で語りかける
「全てを手に入れても、ただ虚しいだけです。皆で分かち合うことこそ尊いのだと私は思います」
「他の奴が持ってないものは羨ましいだろう? ――特に、何ものでもない俺はな」
自分の事を肯定しつつ、それとは違う考えを伝えてくる愛梨に、フレイザードは誇りに満ちた自嘲を浮かべて言う
「あなたはあなたですよ」
「なら、俺は誰かが持っている特別を好意的に受け止めることはできないな」
その意味を正しく理解している愛梨が小さく首を横に振って微笑みかけると、フレイザードは、「もうこれ以上の話はこりごりだ」と言わんばかりに首を振って背を向ける
「その力を渡す気になったら、いつでも呼べ」
話はこれで終わりだと退去を促す意味で背を向けたフレイザードの言葉には、暗にもう会うつもりはないという意思が込められていた
その様子を見た愛梨は、そこで喉まで出かかっていた言葉を呑み込む。それは、これ以上話を粘っても逆にフレイザードを頑なにするだけだと分かっているからだ。
対話には縋りつくことも必要だが、引き際も重要であることを心得ている愛梨は、背を向けたフレイザードに少しだけ寂し気な笑みを送って、優しく声をかける
「またいつでも呼んでください。私達はいくらでも言葉を交わせるのですから」
その言葉に沈黙を返された愛梨は、背を向けたままのフレイザードに軽く一礼して、隣に立つ覇国神に微笑みかける
「行きましょうか、覇国神さん」
「覇国神。あなたもこちらへ来ませんか? そうすれば、あなたの好きな戦を好きなだけできますよ」
愛梨と共にそこから立ち去ろうとしていた覇国神は、背後からの鏡界神の言葉に足を止め、肩越しに瞳のない視線を向ける
「見縊るな。一度定めた主を変えるほど、落ちぶれておらん」
そう言って愛梨と共に歩き去ってく覇国神の後ろ姿を見送っていた鏡界神は、十世界の二人に背を向けてママ佇んでいるフレイザードに視線を向ける
「惜しかったですね」
「奏姫の力が手に入れば最上だったのだがな。まあいい……これで、こちらのアリバイ作りは成功したからな」
その言葉に嘆息したフレイザードは、目的の半分を達成した満足感と不満を感じながら淡泊に言う
「手筈はどうだ?」
「ええ。ちゃんとあなたに頼まれた仕事はやっておきましたよ」
フレイザードの視線を受けた鏡界神は、得意気な笑みを浮かべて小さく肩を竦める
「気付かれていないだろうな?」
その言葉い念を押すように確認するフレイザードに、鏡界神はその穏やかな笑みをわずかに深めてみせる
「もちろんですよ。夢である夢想神より、異次元である私の方が知覚されません。彼女が眠りについている今、私を捉えることなどできません」
異次元の神である鏡界神は、夢想神などと同様にその存在を知覚されにくい特性を持っている。しかし、夢というこの世に存在するものである夢想神よりも、この世に存在しない異次元である鏡界神の方が、その特性と力は強い
先日妖精界で反逆神と戦った傷の所為で夢想神が深い眠りについている以上、今の英知の樹に鏡界神を知覚できる存在はない
「――ならばいい。王路も夢想神も、まさか自分達の企みが我らの手の内などとは知る由もないだろうな」
愉悦の表情を浮かべたフレイザードは、花畑に覆われた世界の空を仰ぎ、まるでこれからの未来を見据えようとするかのように目を細める
「一つ目の鍵は解き放たれた。」
その存在のままにあろうとするフレイザードの独白を聞く鏡界神は、それに同調し、愉しむように笑みを深めるのだった
※
時空の狭間のとある世界――そこに映える大樹に突き刺さるようにして存在する神殿の様な建物こそ、英知の樹の本拠地である「博界館」だ
「……夜半は失敗したか」
博界館の一角にある部屋に座って独白した男――「王路」は、英知の樹においてフレイザードに次ぐ権威を持つ三人の一人だ
誰もいない室内で虚空に向かって紡がれた王路の言葉は、しかしただの独り言や独白のようなものではなかった
「そういうことッスね」
誰もいない空間から返された能天気な声に、王路はその目をわずかに険しくする
傍から見れば誰もいないようにに見えるだろうそこには、しかし夢想神の宿主である王路にははっきりと見ることができる存在がいた
小さな耳を持つ中性的な顔立ちの人物――夢想神のユニットである「幻想の住人」の一人である「ルートラ」。
冥界で起きたことを一通り報告をしたルートラがわざとらしい仕草で肩を竦めると、それを見た王路は小さく息をつく
「邪神の力さえ手に入れば、計画を終わらせることさえできたかもしれんというのに――」
「そうですね。それに、慾界神の勧誘も失敗しちゃいましたし」
異なる存在を一つに束ねる融神器が失われたことを知り、嘆息混じりに言う王路にルートラは淡泊な口調で答える
椅子に腰を下ろして言う王路の口調は穏やかなものだが、顔に浮かんでいる険しい表情がその内側に秘めた強い決意と焦燥を物語っていた
「だが、まだ道はある。そうだろう、〝菖蒲〟……」
まるで自分に言い聞かせるように小さく独白し、己を律する王路の姿を見るルートラは、静かに瞼を落とす
「宿主」
指を絡めた左右の手に力を込めていた王路は、背後から聞こえた声に視線を向ける
そこに片膝を立てて跪いていたのは、頭部が兎のようになっている存在――ルートラと同じ「幻想の住人」だった
「どうした?」
「それが……」
目を伏せ、言葉を濁した兎人の言葉に只ならぬものを感じ取った王路は、思わず目を瞠り弾かれたようにその場から立ち上がる
「我々が気付いた時には、このありさまになっていて」
「馬鹿な……いつ、誰が、どうやって!?」
隣に立つ兎人がその機嫌を窺うように恐る恐る弁解する声など耳に入らない様子で佇む王路の前には、何もない空間が広がっていた。
だが、王路が驚愕を露にしているように、この場所に何もないことこそが異常だった。
「〝鍵〟が解き放たれた……!?」
この空間には、以前妖精界で捕らえた「鍵」――「ジェノバ」と呼ばれていた悪魔を封じた結界が置かれていた。
だが、幻想の住人達の監視の目があったにも関わらず、その鍵が消えていたのだ。
通常の全霊命には知覚できないはずの夢の住人たちの目をかいくぐり、誰にも気づかれずに消えたとなれば、何者かが手を下したとしか思えない
「――ッ」
何もない空間の静寂は恐ろしいほどに穏やかだったが、そこには確実に自分達の計画と目的を知り、それを阻んだ何者かの存在があることを確信させる
拳を握りしめて唇を引き結んだ王路は、不気味なほどの静寂を守っている空間を前にして、胸を締め付ける様な不吉な予感を覚えざるを得なかった