残されたもの
神獄の中に無数に存在する監獄世界の一つ――一面に広がる荒野を夜の帳が閉ざした世界。神臓とは異なる月を抱き、世界の輝きではない星々が瞬く夜の帳の下、どこまでも広がる枯れ果てた大地の上では相殺された冥力が天で光るそれよりも儚く強い星を生み出していた
その指の間に無数のクナイ型の投擲ナイフを顕現させるのは、冥界王に仕える死神「無言」の一人である「空木」。自身の神能そのものが武器として具現化されたナイフは、無数に同型のそれを生み出せる能力を持っており、空木はそれに自身の冥力を纏わせて投擲する
空木の手を離れたナイフは、そこに込められた冥力と純然たる殺意の意思によって、まるで生きているかのように縦横無尽に天を駆け、神速を以ってその標的へと向かっていく
「――ッ!」
空木が放った投擲ナイフが向かった先にいるのは、十世界に所属する死神「斬黒」。その存在が具現化した大鎌を手にした斬黒は、小さく舌打ちをすると冥力を纏わせた刃で、空木のナイフを迎撃する
神速でぶつかり合う無数の投擲剣と大鎌の刃によって、相殺された冥力の衝撃波が一瞬の間すら置かずに連続で生じ、人影のない空虚な荒野の大地に金属音と破壊音を響かせる
「フフ、君強いね」
「いや、マジであんた目ヤバいっすね」
戦喜の色を浮かべる空木にその三つの目で見据えられた斬黒は、そこに感じられる殺意と喜悦が等しくなった悍ましい感情に、表情を強張らせる
(こいつ、こんな性格だったのか……なんか、性質の悪いにあたったかも)
おおよそ世界を守るために戦っているとは思えないその顔に内心で辟易しながら、武器を構えた斬黒が空木を三つの目で射抜いた瞬間、天空に巨大な時空の門が開く
「――!」
天空に開いた門を同時に見上げた空木と斬黒の目に、そこから出現した無数の影が映る
「……冥、それに光魔神か」
そこに現れたのは、両手を組んで不敵な笑みを浮かべている冥界王冥と、光魔神、さらには神魔、クロス、ユニ、ヘドという九世界と冥界のメンバーと桃白色の髪を持つ三対六枚の翼の天使
そして、その七人に加えてもう一人――冥の傍らにいる黒い髪を結い上げた死神の女を見止めた斬黒は、瞳に映るその姿に小さく目を瞠る
(夜薙)
その人物――「夜薙」の姿を視界に収めた斬黒は、全てを理解してその冥力に宿していた純然たる殺意を収めていく
「さて、何も言わなくても分かるな?」
この場所に夜薙がいる理由など一つしかない。勝者の笑みを浮かべて言った冥の問いかけに、その武器である大鎌の切っ先を下げた斬黒は疲弊した様子で肩を竦める
「あー。この場合どうなるんですかね?」
夜薙がここにいるということは、自分達の計画が水泡に帰したということ。そして、現状をかんがみるに、おそらく真紅と夜半という計画の要はすでにこの世にいないとみていいだろう
仮にここで暴れたところで自分が冥に勝てるはずがないことを自覚している斬黒は、この後の自分の運命を訊ねずにはいられなかった
「心配するな。俺達は空木を拾いに来ただけだ」
暗に「自分は殺されるのか?」と尋ねてきた斬黒の問いかけを一笑に伏した冥は、その指で空木を指さして見せる
「どうせ外に出る備えはしてきてるんだろ? まあ、それがないっていうなら、一緒に連れてってやってもいいぜ?」
冥達もそうしていているように、常に空間で隔てられた世界が座標を変えている神獄は、攻略することこそ困難だが、帰還そのものは難しいことではない
当然真紅達も、ことが終わった後にここを脱出するための散弾は立てていた。今冥達がルシアと共にこうして神獄の中を巡っているのは、単に冥宮の中に散っている仲間を回収して撤収するためでしかない
「随分寛大なご処置ですね」
本来なら十世界に所属する自分がここで殺されても仕方のないことだと分かっている斬黒は、そうすることをしない冥に半信半疑で皮肉混じりに言う
今ここで自分を見逃すことが冥――あるいは十世界にとってメリットになるとは思えない斬黒は、その真意を伺うべく慎重に言葉を選んで尋ねる
「お望みなら、今ここで殺してやってもいいんだぜ。まあ、俺としてはこのままお前が尻尾撒いて逃げると思ってるけどな」
その言葉の意味を正しく受け取った冥は、斬黒の不信感を全て理解したうえで口端を吊り上げて笑う
真紅達本来の目的を果たすためには、夜薙に融合している神器「融神器」を手に入れなければならない
だが、肝心の夜薙は今や最強の死神である冥の傍らにおり、自分一人では天地がひっくり返っても奪い取ることができない状況にある
である以上、姫や十世界の理念を裏切ってまで行動した信念に殉じるか、生き残る道を選ぶかしか斬黒には選択肢が残されていなかった
「なら、そうさせてもらいますよ」
一瞬ほどの逡巡もなく、自らの命を選択した斬黒が肩を落とすと、冥は満足気に目を細めて笑いを噛み殺す
「お前ならそう言ってくれると思ってたぜ。それに、その方が面白そうだしな」
その悪戯めいた笑いは、物事を自分が楽しいかで判断する冥の悪癖が顔を出していることがありありと分かるもの
その判断を内心では支持している大貴はそれに平然と耳を傾けているが、神魔とクロスはどこか不満を覚えながらも、冥界王の判断を享受して渋い表情で逸らしていた
確かに、自分が面白いと思うことを行動の最優先に置く冥だが、冥界とそこに属する死神達を預かる王として、そうするべきだと判断したならば自分の意志を二の次にして世界のために行動するだろう
それをしない理由は至極単純。今回、真紅は英知の樹と内通し、姫と十世界を裏切ったばかりか、その理念に背いて神との融合を試みている。それに追従した斬黒達は真紅亡き今となっては、組織での立場が危うくなっていることだろう
姫の性格を考えれば、十世界に居続けることは可能だろうが、姫を信奉する者達を中心にその目は冷たいものに変わり、針の筵になるだろうことは想像に難くない。何より、もはや今回のような事態が起こらなくなるという確信が冥にはあった
「それに、夜薙の中に神器はもうない」
「!」
その言葉に目を瞠った斬黒に答えるように、背後にいたルシアがおもむろに手を差し伸べると、そこに光の結界に閉じ込められた一メートルほどの大きさの杯が顕現する
それは、金色の縁取りと紋様が描かれた穢れのない純白のトロフィー。翼とも蔦とも取れる衣装が施された二つの取っ手が付いており、器本体には桃色の、左右の取っ手にそれぞれ青と翠の宝玉がはめ込まれていた
「融神器……」
その純白の杯を見た斬黒は、それが紛れもなく神器「融神器」であることを確信し瞠目する
存在に融合した神器を取り出すのは、全霊命の力を以ってしても不可能。全ての神器を使うことができる能力を持つ愛梨ならば可能だろうが、それができないからこそ真紅達は夜薙を捕らえ、その命を奪うことで神器を取り出すしかなかったのだ
「一体どうやって……?」
「それは秘密だ」
信じ難い事実を目の当たりにして驚愕を露にする斬黒に不適な笑みを向けた冥は、融神器がルシアの手にあるという事実を前にして静かに宣告する
「これで、この馬鹿げた戦いも、お前達の野望も終わりだ」
もはや自分には――もう、誰にも融神器を手に入れることができないという事実を見せつけられた斬黒は、軽く空を仰ぐと魂が抜けたような自嘲を浮かべる
「……やれやれ」
自分達の野望が潰えたその事実を実感し、静かに独白した斬黒の静かなその言葉は、神獄の中に反響し、溶けていった
※
地面に斜めに突き刺さった神殿――神の監獄「神獄」の外では、片腕を失ったシキトが開かれたままの扉を見据えていた
「――どこへ行く?」
その中が異世界へと通じている扉の奥を三つの目で見据えていたシキトが意を決したように一歩を踏み出すと、それを身体を休めていた荼毘が呼び止める
「中に。まだ、中には冥様達がいますから」
「その傷でか? 行っても足手纏いになるだけだ」
神獄の中へと視線を向けながら言うシキトの予想通りの答えを聞いた荼毘は、辟易とした様子でため息をついて言う
先程の鎖牙との戦いで腕を失ってしまっているシキトも、荼毘の言葉の意味は分かりきっているだろう。だが、その事実を分かった上でシキトはその重い口を開く
「分かってます」
喉まで出かかった「でも」という言葉を呑み込んだシキトは、拳を握りしめて佇みながらその三つの視線を伏せて歯噛みする
神獄は、千を超える世界の形をした独房が常にその繋がりを変え続ける迷宮。しかも中には、慾界神の眷属達がまるで支配者のごとく君臨している
その厄介さは、以前椎稲と共にヘイルダートの悪夢でその中で戦っていたシキト自身が身に染みて分かっていることだ。だが、真紅達に連れ去られた夜薙のことを考えるといてもたってもいられなかった
(――くそ。鎖牙に偉そうに言っておいてこのざまか……)
先程の鎖牙との戦いで「冥を信じている」という旨の言葉を発したにも関わらず、いざ戦いが終われば不安に駆り立てられる自分を内心で嘲笑う
夜薙の身体に融合した神器を取り出すには、その命を奪い存在を消失させるしかない。鎖牙の言葉を信じるならば、少なくとも神獄に入るまでは夜薙は生きていたはずだが、それがいつまで続くのか分からない
もし、この迷宮のような監獄の中を抜けるのに手間取れば――あるいは、鎖牙の目を離れた時点でその命を奪っていたかもしれない
次々に湧き上がってくる考えに不安が募り、シキトの頭の中には「もう夜薙には会えないかもしれない」という考えが浮かんでは消えていく
「……待つっていうのは、つらいもんだな」
そんな考えを振り払いながら、開いたままになっている神獄の扉を見るシキトは、何もできず、ただ待つことしかできないつらさを噛み締めながら、小さな声で独白する
(こんな思いを、ずっとあいつはしてきたのか――)
「――!」
三つの瞳に夜薙の姿を幻視し、その姿を見るような遠い目で神獄の中を見つめていたシキトは、神の監獄の扉が開いたのを見て身じろぎする
「あー。ようやく出られたか。神獄はどうも窮屈だったからな」
冥界の空気を吸い込み、大きくのびをした冥が神獄の世界から帰還すると、第一の世界があるエントランスの奥から、それに続いて次々に人影が姿を見せる
冥、ユニ、ヘド、空木、瑞希、クロス、神魔、大貴――次々と現れるその姿を見ていたシキトは、そこに紛れて現れた黒髪の女死神を見て声を震わせた
「夜薙」
「!」
シキトの存在に気づいた夜薙が目を瞠るのを横目で見ていた冥は、その背を軽く叩くようにして声をかける
「行ってやれ」
「はい」
その言葉に目礼した夜薙は、その場から飛び出すようにして扉の前で佇んでいるシキトの許へと駆け寄っていく
「おーおー、熱いね」
その様子を見てにやけた笑みを浮かべていた冥の背後で、フロアを叩くヒールの硬質な音が止まる
「私はここで」
その言葉にその場にいた全員が視線を向けると、大貴達をここまで送り届けた桃白色の髪の天使――「ルシア」が軽く一礼する
「あァ。助かったぜ。まさか、あんたに助けてもらえるとは思わなかった」
「――いえ、ただの気まぐれです。たまには人と話してみたくなりまして」
気さくな笑みの裏で、その真意を探ろうとしているような含みのある視線を向けてくる冥に、ルシアはその静かな面差しを崩さずに目礼する
冥は死神の、ルシアは天使の原在。共に九世界の創世時から存在する二人は、当然というべきか多少の面識がある
そんなかつての出会いの記憶を懐かしむように視線を交錯させているルシアと冥の様子を見ていた大貴は、おもむろに口を開く
「なあ、あんたは、どうしてこんなところにいるんだ?」
神の監獄「神獄」。――かつて、世界を欲望のままに手中に収めようとした慾界神とその眷属を封じた場所
欲望の神が封じられ、その眷属が跋扈する監獄。そして、複数の世界が常に形を変えて繋がり合う迷宮のような構造から考えられる最も単純な理由は、何かから隠れているか、身を潜めなければならない理由があるかのどちらかだ
「ここにはあの方がおりますので」
「とぼけてやるなよ、ルシア。光魔神が聞きたいのは、あんたほどの奴が、なんでここに隠れてるのかって理由のほうだろ?」
その問いかけに答えたルシアに、冥が不敵な笑みを返す
この神の監獄の中にルシアの伴侶――「邪神」の骸があることは、大貴も聞いて知っている。ならば、ここにルシアがいる理由は分かっている
大貴が訊いているのは、全霊命でさえ踏破が容易ではないこんな場所に、ルシアが隠れていなければならない理由のほうだ
「――」
その言葉に、その微笑を張り付けたまま沈黙するルシアが、今まで見せなかった動揺を浮かべるのを見た冥は、おもむろに話を切り出す
「邪神の骸を外には出せないのか?」
その言葉にルシアがその理由を問う様な鋭い視線を向けると、冥はわざとらしく肩を竦めて答える
「他意はねぇよ。ただ、邪神といえば闇の神の第二位。俺達闇の全霊命にとっちゃ、特別な存在だからな。ちゃんとした形で祭るなり、なんなりした方がいいんじゃないかと思ってな」
「夫をそういう形で晒されるのは、好みません」
邪神は闇の神の第二位。闇の神に列なる闇の全霊命達からすれば、その存在は特別なものであるのは間違いない
冥の言い分は分からないわけでもないが、その伴侶として選ばれたルシアはそれを拒否する言葉を静やかに返す
「そうか」
闇の神とその伴侶たる光の全霊命。闇の神に崇敬の念を向けるならば、その伴侶にも等しく敬意を払う必要がある。かつて敵として相対し、今も尚敵としてある天使を神の伴侶として見るという数奇な関係を感じながら、冥は口端を吊り上げる
「どっちにしろ助かったぜ。あんたがいなければ、夜薙を助けられなかったかもしれねぇ――礼を言うぜ、ルシア様」
軽い口調でおどけるように言いながらも、心からの感謝を伝える真摯な瞳を向けてくる冥が悪戯めいてた笑みを向けてくると、ルシアはそれに苦笑を浮かべて応じる
「からかわないでください」
そう言ってその美貌を綺然としたものに変えたルシアは、その視線を冥、神魔、大貴、ユニ、ヘド、空木、クロス、瑞希と順に向けて微笑む
「お気をつけて」
「――?」
そういって、再び神獄の中へと帰っていったルシアの後ろ姿を見送った大貴は、その様子に眉を顰める
軽く頭を下げたルシアの別れ際の言葉は、普通に考えればこれからの旅路の無事を祈るもの。だが、そこからは、それ以外の何かがあるように感じされた
そしてそう感じたのは大貴だけではなかったらしく、神魔やクロス、冥達ここにいる全員もまた腑に落ちないような表情で、ルシアが消えた空間に視線を送っていた
※
冥から許可を得た夜薙は、その足で神獄の前に立っているシキトの前に移動すると、その身体の傷を見て表情を曇らせる
自分の姿をまっすぐに見据えながら待っているシキトの左腕は途中から切断されて消滅しており、その身体に刻まれた、未だ癒え切らない傷がここで行われた戦いの激しさを物語っていた
「心配かけちゃったね」
その痛々しい傷に視線を奪われていた夜薙は、自身に注がれるシキトの視線に気づいて顔を上げると、互いの三つの目を交錯させて感謝と喜びに彩られた微笑みを浮かべる
ここでシキトが戦っていたこと、そして誰と戦っていたのかということは、ここに戻ってくるまでの間に冥達から聞いて知っている
本人は決して認めないだろうが、夜薙にはシキトが少なからず自分のために戦ってくれたことは分かっている
自分のために傷ついたシキトかけるべき言葉を一瞬だけ逡巡した夜薙は、今伝えるべき言葉は謝罪ではなく、感謝と互いに生きて再会できた喜びだと考えて、その気持ちを素直に言葉にして伝えたのだ
「……お互い様だ」
その言葉の裏に在る夜薙の意図が伝わってしまったかは分からないが、シキトはその鉄面をわずかに崩し、笑っていると泣いているとも取れる瞳で答える
それは、夜薙の生存に心から安堵すると同時に、鎖牙をその手にかけてしまったことへの罪悪感を内包しているからだと、夜薙にはすぐに分かった
「鎖牙は?」
ここにシキトがいることがその答えではあるはずだが、夜薙はあえてその戦いの結末を訊ねる
今回の戦いは、自分の中にあった神器をめぐっておきたもの。ならば、その当事者であり元凶である身として、何があったのかをシキト自身の口から聞きたかったのだ
「椎稲のところへいったよ」
そんな夜薙の思いを知ってか知らずか、シキトは訊ねられるままに目を伏せて答える
「ま、メイドの土産が俺の左腕じゃ、不満だろうけどな」
「……そう」
それは、かつての友がこの世を去ってしまった哀悼の笑みであると同時に、親友を手にかけたシキトを案じるものだ
その夜薙の力のない声を聞いたシキトは、その曇った表情を晴らそうと空を見上げて苦笑する
「今頃、こってり絞られてるだろうさ」
「そうだね。お姉ちゃん、怒ると怖いから」
その言葉に、どこか寂しげな表情を浮かべて苦笑した夜薙に一転して真剣な眼差しを向けたシキトは、神妙な面差しで言う
「生きててくれてよかった」
その真っ直ぐな言葉の声音に小さく目を瞠った夜薙は、想い人の真剣な眼差しを注がれてわずかに紅潮した顔をわずかに伏せて答える
「ありがとう。私も、シキトが生きててくれてよかった」
緊張と恥じらいを誤魔化そうとするかのように、横髪の毛先を指で擦るようにいじりながら素直に表すことができない喜びを伝える
真紅達に囚われていた間、いつ神器を取り出されてしまうのかという不安に襲われていた夜薙にとって、生きてシキトに再会できたことは心から嬉しいことだ
だが同時に、シキトは最終的に親友である鎖牙を手にかけた。親友を殺めたシキトの心情を慮れば、素直にただ喜べばいいというものではない
「ああ」
それでも、喜び一色ではない表情の中に安堵の色を浮かべる夜薙の言葉に、シキトもまた同じような表情で答える
やや俯きがちになりながら、時折視線を向けて自分の様子を窺ってくる夜薙の姿をまっすぐ見つめていたシキトは、しばしの沈黙の後、その口を開く
「俺は、今でも椎稲の事が好きだ」
「知ってる」
突然の言葉に一瞬目を瞠った夜薙だったが、その真剣な眼差しに答えるように自虐的な身を浮かべて微笑む
シキトが未だに椎稲のことを愛しているなど、ずっとその姿を見て思い続けてきた夜薙には言われるまでもなく分かっていたことだ
「でも、お前の気持ちに気付かないほど鈍くもない」
「!」
しかし、次いでシキトの口から告げられた予想だにしなかったその言葉に、夜薙はその蜜の目を驚愕に瞠って顔を上げる
自分の気持ちを知っているという言葉を聞いて頬を赤らめている夜薙と視線を交わすシキトは、普段と変わらない淡泊な表情と声音で自分の気持ちを伝える
「けど、椎稲の事を想ったまま、あいつが死んだからってお前の気持ちに答えるのは、不誠実だと思ってた。
それに、俺は椎稲を想いながら、お前も同じように想えるほど器用じゃないからな――いや、それは言い訳だな。ずっと、お前から逃げてきたんだ」
自分のことを自虐的に言いながら、真摯な瞳にその強い決意を滲ませたシキトは、一言一言確かめるように言葉を選びながら夜薙に語り掛ける
「夜薙。こんな俺でもいいか?」
「!」
そして、一拍の間を置いてから告げられたシキトの言葉に、夜薙は息を詰まらせる
「それって……」
まるで告白のようなその言葉に、夢のような喜びを覚えた夜薙が、再度確認するように問いかけるとシキトはそれを肯定するように小さく頷く
「椎稲の代わりにってわけじゃないじゃない。今まで、椎稲しか見て来なかった俺でも、少しこれからの自分に目を向けてみたいと思ってるんだ……いつまでもこんなことしてたんじゃ、椎稲に嫌われちまうからな」
「――……」
例え新しい目的を見つけても、椎稲の事を忘れるわけではない。椎稲との約束にこだわり続けてきた自分を変える決意を見せたシキトの言葉に、夜薙は恨めし気な視線を向ける
(結局、お姉ちゃんか)
その言葉から伝わってくるのは、結局、今でもシキトの心にいるのが椎稲であるということだけ。そんなことは分かっていたが、先程の告白に等しい言葉の後に、それを面と向かって言われれば面白くないのが女心というものだ
「だから、一緒に見つけてくれないか? 俺の新しい生き方ってやつを」
そんな夜薙の感情に気付いているのかいないのか、シキトはまっすぐにその目を見て訴える
真剣で真摯なその言葉は、不器用ながらもシキトが椎稲ではなく自分を見てくれたことということの証明であると分かっている夜薙は、そんな人を今でも想い続けている己に辟易したように大きくため息をつく
「仕方ないな。……ただ、覚悟してよね」
開き直ってそう言った夜薙は、目の前にいるシキトの胸に人差し指を立ててその心を覗き込もうとするかのように、上目遣いに微笑みかける
「後悔するくらい、幸せにしてみせるから」
(すぐにお姉ちゃんより、私に夢中にさせて見せるんだから)
シキトと、シキトの心を支配している椎稲に宣戦布告した夜薙は、満面の笑みを浮かべて言う
「……ああ。お手柔らかに頼むよ」
そんな夜薙の言葉に、その鉄面鉄扉の顔をわずかに綻ばせたシキトは、小さく笑みを零す
「俺達は、それぞれ大切なものがある。でも、自分に向けられた同じ気持ちには意外に鈍いもんだな」
「誰が、鈍くないんだか」
しみじみというシキトの言葉を軽く一笑に伏した夜薙は、ようやく自分を見てくれた想い人を見つめて微笑む
「でも、仕方ないことだとは分かっていても、ちょっと遣る瀬ないよね」
「そうだな」
夜薙の言葉に、シキトはまっすぐな気持ちだからこそ、ぶつかり合わずにはいられない皮肉を感じながら答える
シキトと鎖牙に想いを寄せられていた椎稲は、それに気づかず、真紅を想っていた。そして真紅はシェオルと愛梨を想い、届かない思いに殉じて戦った
どれほど想っても、相手が人である以上それが必ずしも届くとは限らない。それは、当たり前のことだが、そんな気持ちがすれ違い続けた現在という結果を作ってしまったのも事実だ
「随分と楽しそうですね」
「――!」
そんなシキトと夜薙のやり取りを遠巻きに見ていた大貴達は、突如その静寂を破った声にその意識と視線を向ける
そこにいたのは、先端が黒くなり、鹿の角のように硬化して反り返った長い白髪を持つ温厚そうな面差しの青年だった
司祭服と着物を合わせた様な霊衣は白を基調としており、そこからわずかにのぞいている黒光りする硬質な足は、まるで杖のように思えるものだった
(この力の感じ……!)
だが、その温厚そうな青年を前にした大貴は、その存在が放つ神能を知覚すると同時に、警戒心を最大級まで引き上げていた
そしてそれは、大貴だけではなく冥も神魔達も同じ。存在の根底から這い上がってくるような嫌悪感と忌避感を掻き立てる吐き気がするような気配がどんな存在のものなのか知らない者はこの場には――否、この世界にはいない
「お初にお目にかかります。十世界所属――『平等を謳うもの』と申します」
そんな大貴達の反応を見て気分を良くしたのか、その人物――円卓の神座№2「反逆神・アークエネミー」に列なる神片ユニットの一人「平等を謳うもの」は、丁寧な口調で名乗ると、恭しく頭を下げて見せた
※
神によってつくられた神とその眷属を閉じ込めるための監獄――「神獄」。その中にある穏やかな湖畔を擁する世界の中で、ルシアは水面に立ったまま手を差し伸べるように伸ばし、そのまま掌を開く
その動きを合図に、ルシアの手の平の上で空間が揺らめき、そこから光の結界に閉じ込められた純白の杯――神器「融神器」が出現する
無垢な命を象徴するかのような純白に、金色の縁取り。そして左右の取っ手が弧を描くその様は命を宿す器を彷彿とさせ、新たな存在を誕生させるその力を示しているようだった
「誰が誰に憧れようと、誰も誰かになることはできない。己は常に己であり、私達は各々が各々として生きる――それが、この世に在るということです」
この世にあるあまねく存在は、等しく尊いがゆえに異なり、望むと望まざるとに関わらず、時に許容しがたい違いや差を生み出す
当たり前だが受け入れ難く、けれど決して違えてはならない「存在」という唯一無二の価値を重んじて静かなに言葉を紡いだルシアは、手の平に乗っていた融神器を軽く宙に放り投げる
「己自身も含め、全ての存在の尊厳を踏み躙るこんなものは、この世に必要ありません」
瞬間、厳かな響きを帯びた声音と共に、漆黒の閃光が閃くとともに融神器は切り刻まれ、そのまま全霊命が息絶えた時と同じようにその形を失って消失する
神器が力へと還り、消失するのを見届けたルシアは、純白の翼を軽く折りたたむと、安らかな湖畔の中で静かに目を伏せる
「とはいえ、本当はこんなものを使う必要などないのですけれどね。――ですが、これでしばらくはここも静かになるでしょう」
辺り一面を穏やかな自然を満たす湖畔に佇むルシアは、まるで誰かに語り掛けるように言う
「もっとも、仮に融神器を使ったとしても、彼らが望んだ力など手に入らないのですが」
今回のように顔を出すことは無かったとはいえ、ルシアはヘイルダートの悪夢の戦いの事も知っている。そしてそれがどうあがいても叶わないことも。
「なぜなら、ここにあるのは〝骸〟などではないのですから――」
この神獄へ侵入してきた者達の願いの全てを知りながら、ルシアはその視線を足元に広がっている透明な水をたたえる泉へと向ける
その視線の先にあるのは、湖畔の中に沈んでいる漆黒の結晶。ルシアの伴侶にして、闇の神の神位第二位「邪神・ヴィシャス」の骸――だと思われているものだ
「ねぇ、『邪神様』」
湖面に立つルシアが声をかけた瞬間、黒結晶から闇が零れ、一つに集まったそれが一つの眼を形作る
その瞳を湖面から受け止めたルシアは、黒結晶の前に出現した目を見てその美貌を花のように綻ばせて微笑みかけるのだった