献花
遠くから眺めていた。
手を伸ばせど太陽は遠く、手に入れたつもりでもその掌に収まることは無い。だというのに、目を逸らそうと、遠くへ離れても同じ強さで照らしている
それでありながら、その美しさに心惹かれ、手折ってしまえば一時だけしかその美しさを留めず、すぐにでも枯れてしまいそうな儚さから目を離すことができなかった
《真紅》
瞼を閉じれば思い返されるのは、純白の髪を翻し、優しさに満ちた三つの目を深い思慕に細めた美女――二大冥王の一角である「シェオル」の姿
優しく微笑む笑顔に、自分の名を呼んでくれる鈴を転がしたような心地よい声音。その姿を見て、話しかけられ、言葉を交わしている間、真紅の胸は高鳴り、自分の秘めた想いが伝わってしまうのではないかと内心で冷や冷やしたものだ
それでありながら、一度戦場に立てばその強さは苛烈の一言。その意思によって自在に形を変える漆黒の影そのものである武器を従えて戦場を征くその白い姿は、恐ろしさと美しさを内包した幻想的なものだった
(今でもこうしてこれまでのように接してくれるのは、ありがたいような……少しばかり気まずいような)
だが、真紅のその想いはシェオルに届くことは無かった。複数の伴侶を持つことができる九世界だからといって、その想いが必ず実現することはない
《ありがとう。真紅の気持ちは嬉しいけど、私は冥が好きなの――少なくとも、今は冥以外にそんな気持ちを持てないかな》
冥への深い恋慕の情がありありと浮かんだ表情と声音で失恋してからも、シェオルの真紅への態度が変わることは無かった
それが嬉しくもあり、気恥ずかしくもあり、自身もまた無言の頂点として冥の傍にいた真紅は、自分の愛しい人が別の人に愛情の籠った視線を送る姿を何千年と見続けてきた
シェオルへの想いは消えることは無かったが、遠くからその幸せそうな姿を見ていられればいいのだと自分に言い聞かせ、真紅は祝福と嫉妬の入り混じった複雑な視線を送り続けていたのだ
だが、そんな日が終わりを告げる日が来る。今思えば、それは必然だったのだろう。目に見えないウイルスサイズの常時顕現型武器を持つ冥、影そのものである特異型武器を持つシェオル、そして自身の身体そのものを武器とする特異型に加え、神器までをも持つ真紅――そんな希少な力をもつ者達が集まっていれば、かの蒐集の神を呼び寄せずにはいられなかったのだろう
蒐集神との戦いと恐怖は今でも色褪せることなく真紅の心の中に刻み付けられている。だが、それ以上に忘れられないのは、自分を庇ったために蒐集神に囚われてしまったシェオルの事だった
神威級神器「死神羽」を発動した冥に守られて、ようやく命からがら逃げおおせることが精一杯だった真紅は、自身の無力さに憤りと絶望を禁じ得なかった
冥と真紅が逃げた後、かろうじて理想郷が到着したらしく、蒐集神の魔の手から逃れることはできたが、その代償は大きすぎるものだった
蒐集神から逃げる際、冥はその身体に深い傷を負っており、しばらくまともに動くことができなかったほどだ
傷が癒えた時には、すでに蒐集神は今までのように理想郷の監視下に置かれており、真紅の再三にわたるシェオル奪還の進言にも、冥は首を縦に振らなかった――否、振れなかった
城を飛び出した真紅が向かったのは、蒐集神の襲撃を受けた場所。シェオルを守れず、失ってしまった場所だった
愛する者に守られ、ただ囚われることを見ていることしかできなかった事へと無力感と絶望感、それに対するやり場のない怒りに身を焦がしながら、いつまでそうしていたのか分からない
《あら、あなたは――》
だが、そんな真紅に声をかけてきたのは、金糸の髪を揺らして花のように微笑む女性――「奏姫・愛梨」だった
《こんなところでどうしたんですか?》
当初は声をかけられることさえ煩わしく、邪険に扱っていた真紅だったが、愛梨はそれで諦めることなく根気よく、丁寧に接し続けた
真紅の心に踏み込み過ぎないように、それでいてその心に寄り添えるように、その傍らに腰を下ろし、世界から争いを失くしたいという自分の夢や理想を目を輝かせて語り、しかしままならない現実と、守れなかった己の弱さを嘆いてその美貌に影を落とす
そんな愛梨を接していた真紅は、いつの間にかその胸に詰まっていた様々な気持ちを言葉にして吐き出していた
自分の想い、無力感、絶望、怒り――そんな想いが込められた言葉を何も言わずに聞いていた愛梨は、ひとしきり話を終えた真紅に、優しく微笑んでそっと手を差し伸べた
《私と行きましょう、真紅さん》
そう言って愛梨が向かったのは、蒐集神と理想郷が戦いを繰り広げる結界世界だった。恐れることなくそこを訪れ、蒐集神と相対し、シェオルを始めとする捉えたもの達の解放を訴えたのだ
結局皆で分かち合うことの尊さを懸命に説いた愛梨の気持ちが蒐集神に伝わることは無かったが、それでも真紅はそんな愛梨の姿に胸を打たれた
説得するどころか、逆に蒐集神に狙われそうになって理想郷に救われるが、それでも腐らず、諦めず、何度も説得した愛梨を止めた真紅は、心からの感謝を告げた
愛梨の口から出るのは、自らの言葉が及ばないへの謝罪の言葉ばかり。だが真紅の目には、愛梨のその姿が後光によって照らされ、輝いているようにみえた。
それは、ただ単純に背に太陽の光を背負っていたからに過ぎないのだが、それを見た真紅は、無力の中でもその心の清らかさを失わなないその姿に、一瞬にして目と心を奪われていた
(そうか。この気持ちは……)
その時から真紅は気づいてしまっていた。自分の中にあるシェオルと同じ想いを目の前にいる愛梨に対しても抱いてしまっているのだということに――
※
(これが、俺の末路か……)
黒化し、自身そのものを武器と化していた身体をさらに上回る力で斬り裂かれた真紅は、その三つの瞳に今日までの己の人生を映しながら、自嘲混じりに笑う
(シェオルを引き換えに生き延び、姫の意思に反してこんなことをしてその願いを叶えようとしても結局、何一つ叶えることができないとは……)
武器と化した身体を砕かれたことによる反動、そしておびただしい血炎が立ち昇る中、視界が空の領域を広くして倒れていく中で、静かに瞼を伏せる
(――無様なことだ)
二人の女性を等しく愛した心で命を賭けようと、何も手に入らないとばかりにその願いを砕かれた真紅は、シェオルと愛梨をその心に思い浮かべて地に背をつける
「悪いな」
仰向けに倒れた真紅は、その声に閉じていた瞼を開いて三つの視線を自身の頭上――こうして倒れるまでは背後だった方向へと向ける
今まさに己を下した太極の力を太刀から立ち昇らせながら、左右非対称色の黒白の翼が生えた背を向けて立っている大貴は、肩越しに視線を向けて一瞬戸惑った口を開く
「でも俺は、お前のやり方を認められなかったんだ」
大貴自身、真紅の行動に一定の理解と共感はある。真紅と比べれば一瞬にさえ満たない人生しか過ごしていない自分が、そこに込められた想いを軽々しく理解した気になって否定するなどおこがましいというものだ
そんな大貴の意思が込められたその一言は、ままならぬことばかりの世界に対して弓を引いた真紅を肯定するためのものだった
「お互い様だ。俺も、多くの者の意思を犠牲にしてここにいる――それに、お前にも意地の悪い質問をしたからな」
その言葉に込められた大貴の意思を受け取った真紅は、その三つの瞳を遠くどこまでも続いている空へと向けて答える
「?」
敗北したことへの絶望や自分を斃した大貴への賞賛も恨みもない淡泊なその声音は、ただ遠く尊く高い場所にいる存在に届かない喪失感を漂わせていた
「例えお前が光魔神であろうと、九世界と十世界の理念を統一することはできない」
その言葉の真意を掴みあぐねているのか、わずかに目を細めた大貴に対して一瞥も向けることなく空を見続ける真紅は、どこか達観したような声音で言う
「どうあがいても、俺達は絶対神の掌の上で踊っているに過ぎないんだからな」
先日神器によって作り出された世界の中で大貴と問答を交わした時のことを思い返した真紅は、万象を一体化させる光魔神として九世界と十世界の双方を肯定したことへの皮肉めいた答えを返す
この世界とそこにある全てのものは、干渉せず鑑賞している神の理から逃れることができない。例え全てを統一する光魔神の力を以ってしても、絶対神によって設定された愛と自由に満ちた残酷なほど平等な世界を変えることなどできはしない
結局、神の力を求めた真紅も、神の力を以って世界を変えようとする大貴も、例外なく神の頂点に位置する絶対なる存在の手の上で踊っているに過ぎない
「……そうか」
真紅のその言葉は、死の間際の負け惜しみなどではない。ただ、誰もが知っている事実を述べただけなのだと察した大貴は、その言葉を素直に受け止めて目を伏せる
「それならそれでいい。でも、思えば俺は異端の神なんだ。だから、本当の意味で神じゃない。なら俺は、異端の神として、本当の神にはできないことをやってみることにするさ」
真紅の沈黙が自分の言葉を待っているのだと察した大貴は、小さく肩を竦めて言う
異端神は、神に等しい力を持っていても厳密には神ではない。このまま仮に真の光魔神となったとしても、それは世界を創造した真の神とは比べるべくもない存在でしかないだろうことを大貴は薄々心のどこかで感じ取っていた
しかし、ならばこそ正しい神によって作られた世界と理の中で、異端の神としてできることをしたいと考えている
「そうか。精々足掻いてみせろ」
大貴のその言葉に死を感じながら笑ってみせた真紅は、どこか救われたような表情をしていた
「俺が死ねば、界棋盤が残る。それは、お前への餞別にくれてやろう――お前の力があれば、使えるかもしれないし、使えなくてもさっきのように力の足しにはなるだろう」
「――ああ。ありがたくもらっておく」
自身が命を奪った真紅の最期を欠片も見逃すことがないように、左右非対称色の双眸にその姿を焼き付ける大貴は、命を賭けて戦った者同士だからこその敬意を以って応じる
「姫は、太陽のような人だ」
生命と存在の限界を超え、自身の身体がその輪郭を失い始めたのを見て取った真紅は、まるで自分の魂が天の上へと導かれているかのように青い空へと吸いこまれいていく赤い血炎を見ながら、不意にそんな言葉を口にする
なぜ真紅がそんなことを突然話し出したのか一瞬分からなかったが、大貴はそれが真紅が愛梨の事を託すためだと気付いてその話に耳を傾ける
「誰をも平等に照らし、温かく微笑みかけてくれる。だが彼女がどれほどそうしても、多くの者は太陽を見つめない」
天にはさまざまな光がある。それらは誰にでも平等に降り注ぎ、誰をも同じように照らしてくれている。だが、月や星は見上げてみることができるが、太陽を直視することはない。何故なら、太陽は眩しすぎてそれえをまっすぐに見据えれば、誰もが目を背けてしまうからだ
そういう意味で、十世界盟主たる「奏姫・愛梨」はまさに太陽の様という形容が良く似合う人物だった。この世からあまねく戦を失くすため、誰にでも平等に微笑みかけるその姿は、尊く、気高く、美しい。だが同時にその在り方は、多くの者にとって直視に耐えないものでもあった
「――……」
天を見つめ、その中心に座して世界に等しく光をもたらす光源――「神臓」を見据える真紅は、その三つの目を細める
全霊命の目ならば、太陽を直視することは苦ではない。だが、真紅が言いたかったのはそんなことではなく、愛梨という輝ける存在の孤独さだ
「姫には必要なのかもしれない――あの人を覆い隠し、翳らせてくれるものが。彼女の光が世界を干上がらせてしまう前に」
その三つの目で、世界を照らし出す眩い太陽を見据える真紅は、その光に愛梨という存在そのものを重ねると、その輝きを遮ろうとしているかのように静かに目を閉じる
「俺には、できなかったが」
最期に自嘲するように笑って見せた真紅は、命が尽きるのに合わせて崩壊を始めた身体が溶けていく感覚に浸りながら、静かに最期の時に身を委ねる
(ああ、そうだ。俺はただ、誰にでも向けるものじゃない姫の笑顔を、俺だけのために向けてほしかったんだ)
身体が冥力へと溶け、心が消えていく中で真紅がその心に描いたたった一つの想いは、誰にも届くことはなかった
その存在の全てが神能へと還ると、まるでそこに何もなかったかのように消え去ったその場所に真紅が存在していた証として残ったのは、一枚の長方形の板。
まるで満天の星空を内包したような黒地に揺らめく無数の白い光を内包したそれを、白亜の額が縁どっているそれこそが、真紅の持っていた神器「界棋盤」だった
「――これがあいつの神器か」
それを手に取った大貴がその盤を握りしめた時、その周囲を覆う景色が崩れ、神器によって生み出されていた世界が消え去る
「大貴君」
神器によって作られていた世界が消え去ったことで、神獄の中へと戻った大貴を、神魔が出迎える
「神魔」
その声に視線を向けた大貴の手に一度その金色の瞳を向けた神魔は、その様子を見て半ば確信した様子で訊ねる
「倒したの?」
「ああ」
「誰を」の部分を端折って訪ねてきた神魔に、大貴は簡潔に戦果を返す
何かを手に入れるために戦ったわけではない。ただ、相容れることのない信念を賭けて刃を交えて勝利したに過ぎない大貴の胸には歓喜などではなく、ただ真紅への心のからの哀悼の意があるだけだ
「そっか……」
そんな大貴の心情を察したかのように神魔は、顕現させていた大槍刀の切っ先を下げると、小さく口元を緩めて笑う
「なんだよ?」
「いや、強くなったんだなって思ってさ。もう僕じゃ逆立ちしても勝てそうにない」
その様子に怪訝そうに左右非対称色の瞳を向けた大貴に、神魔は冗談めかした口調で応じる
だが、声音こそ半分冗談めいていても、神魔のその言葉は本音から発せられたものだ。大貴は「光魔神・エンドレス」。異端とはいえ、神位第五位を超える力を持つ神の一柱だ
ただの一介の全霊命でしかない神魔は、いずれ大貴が自分よりも強くなることをして知っていた。だからこそ、その胸中にあるのは一抹の寂しさと、来るべき時が来たという感慨だった
「いや、まだまだ足りない」
しかし、そんな冗談めかした神魔の言葉を抑制した声で否定した大貴は、神器を握るその手に力を込めて答える
「俺は、もっと強くならないといけない。太極で、神にはできないことをするために」
それが絶対神と、それに列なる神々とは違うことをその異端の神の力で行うという意味であることを正しく理解している神魔は、光魔神として、そして一人の人格として導き出した大貴の言葉からその成長を感じ取って優しく目元を緩めるのだった
「……そっか」
※
死そのものである黒い槍に貫かれ、地面に縫い付けられた刃渡り三メートルになろうかというほどの大剣がその輪郭をおぼろげにしていた
それは、その形を成す〝力〟が死によって失われようとしていることの証明。――その身を神格の力で構築された全霊命以上の存在の死の形だ
(俺の夢が、〝死ぬ〟……!)
その様子を、同じく地面にその身を横たえながら見ていた死神――「夜半」は、その剣によって与えられていた神の力が消えていくのを実感していた
その剣は、英知の樹に所属する夜半が円卓の神座№8「夢想神・レヴェリー」から与えられた神片。他の全霊命の存在――心に宿りその夢を糧に顕現する夢想神の眷属「幻想の住人」の中で神に等しい力を与えてくれるものだ
そして、夜半に神に等しい力を与えてくる夢想神の欠片たるその剣に引導を渡し、死を与えようとしているのは、神威級神器によって神位第六位に等しい力を得た冥界の王――最初にして最強の死神「冥」の武器だった
「随分手こずらせてくれたな」
死の神の力の断片を持ち、死という概念と事象そのものである神力を与える神器「死神羽」を発動した冥は、普段のおどけた態度の下にある最強の暗殺者としての顔で冷ややかに言う
「――これで、お前も終わりだ」
神格を得たウイルスサイズの常時顕現型武器によって作り出した黒槍で、神片と共に地面に縫い止められた夜半は、もはや成す術もなく与えられる死を待つばかりだった
「く……ッ」
自身の身体に浸透する「死」を感じながら冥に恨めしげな目を向けた夜半が歯を食いしばる
その身体を縫い止めているのは、肩口に突き刺さった黒い槍一本のみ。全霊命の生命力を考えれば、通常なら死に至るような傷ではない。
だが、「死」の神の力の欠片である神器「死神羽」を発動した冥は、神位第六位に等しい神格を得ると同時に、その力の一端を行使している
そして、死そのものであるその力は、対象を確実に絶命させる力を有している。いかに神片の力を得て冥と等しい神格を持っているとはいえ、この世に存在する以上逃れることはできない死の力を受けた夜半は、その力の源である夢の神の化身と共に確実な死を与えられることが確定していた
「く、クク……」
もはや自身の死を確定の物として受け止めた夜半は、悔しさに噛み締めていた唇を半ば強引に笑みの形に変えて声を出す
「なにがおかしい?」
その様子に不快気に眉をひそめた冥が三つの目で視線を突き刺すと、夜半の身体を漆黒の死が塗り潰していく
今まで意図的に抑えていた死の侵食を解き放ったことで、苦痛もなにもなく、ただ無機質に「死」という事象を与えるその力がその威を示す
「終わり? いや違う。なにも終わらないさ。いや、俺を終わらせることで、この世の本当の終わりが近づくだけだ」
漆黒の死の力に呑まれ、苦痛のない恐怖の中で命を失っていく恐怖の中で、夜半は引き攣った笑みを浮かべながら、冥に攻撃的な言葉を言い放つ
そうして言葉を交わしているうちにも容赦なく広がっていくのは漆黒の斑紋。まるでその身体を塗り潰すように広がっていくそれは、神器の力によって与えられた死の力そのものだった
「この世界には、この世界を滅ぼす呪いが刻み付けられている。このままでは、この世界は滅びの時を待つだけだ」
まるで嘲笑するような夜半の言葉が、決して単なる負け惜しみや、口から出まかせなどではないことを知っている冥は、その言葉を感情の読めない無機質な瞳で受け止める
「ヘイルダートの悪夢の時も、今回も――いや、俺は常にこの世界を破滅から救うために戦っている。そのために奴らに手を貸し、ヘイルダートにあったこの神獄を起こした
貴様たち九世界の王が沈黙を守り、何もしてこなかったから俺がやったんだ! お前達に世界を見殺しにされる前にな!」
死の力に蝕まれながら、夜半は声をあげて自らの信念を語り、冥界王の怠慢を糾弾する
大地に斜めに突き刺さっていることからも分かるように、この神獄という冥宮は本来この大地にはなかったものだ
本来この神殿があったが場所こそが「ヘイルダート」。九世界三大事変の一つであるヘイルダートの悪夢の名前の由来となっている最後の戦いの場所だ
「お前達は、何を恐れている!? 何も恐れることは無いはずだ! この世界を滅ぼす歪みの正体は――ガッ」
その言葉が最後まで発せられるよりも早く、その喉を黒い剣で貫いて止めた冥は、夜半の姿を純然たる殺意だけを映す鉄面で睥睨する
「……誰に聞いたかは知らねぇが、色々と余計なことを知ってるらしいな」
《やはりそうか! お前達が恐れているのは、かの神のふっか――》
喉を潰されながらも、思念通話を介してその意識を送り込んでくる夜半との接続を強引に遮断した冥は、意識を送り抑えていた死の力を解き放つ
瞬間、その身体に突き刺さった武器から広がっていた黒の侵食速度が圧倒的に早まり、瞬く間に夜半の全身を死へと染め上げる
「ここで死ぬお前が気に掛ける必要はねぇよ」
死の黒に呑まれた夜半を感情の映らない殺意の刃瞳で見下ろしていた冥がその宣告を告げ終えると同時、同じく地面に縫い付けられていた大剣の神片に終焉をもたらす
黒く染まっていたその身体が溶けるように消滅し、夜半と夢の欠片が力へと還って溶けていくのを見届けた冥は、小さく息をついてその身を翻す
「――お前は、自分がこの世界を変えられると信じてたんだな」
先程まで夜半がいた場所に肩ごしに視線を向けた冥は、もはや聞こえているはずもない弔悼の言葉を一人で呟くと、遠くを見ているような目で軽く空を仰ぐ
「だが生憎、俺はそんな風には思えねぇんだよ。シェオルを奪われて何もできずにいる俺にはな――」
※
「――……」
神器の世界から還ってきた大貴が神魔と言葉を交わしているのを息を潜めて遠くから見ていた夜薙は、命が助かったというのに浮かない表情を浮かべていた
《ねぇ、お姉ちゃん。お姉ちゃんはオルセウスの事が好きなの?》
その脳裏には、かつて夜薙ぎの姉――「椎稲」と交わした言葉が甦っていた
「……何言ってるの、夜薙?」
現在ヘイルダートの悪夢と呼ばれている戦いの中、天使をはじめとする光の存在と行動を共にすることが多くなった椎稲は、夜薙の質問に呆れた様な声を出す
「ええ? でも、一緒にいるときすごく楽しそうな顔してるよ」
からかい半分だったというのに、まるで憐れむような視線を向けてくる椎稲に夜薙は頬を小さく膨らませて抗議する
「それは否定しないけれど、私は死神でオルセウスは天使よ? 特別な感情なんて持つわけないでしょう」
「――……」
さも当然のことだと言わんばかりに涼しい表情で答えた椎稲は、まだ腑に落ちないといった視線を向けてくる妹に、根負けして小さくため息をつく
「誰にも言わない?」
このままでは収まりがつかない上、妹に勘違いされたままになると思ったのか、椎稲は、観念したように前置くと、夜薙の耳元に囁く
「私が好きなのは――真紅様よ」
「え!?」
姉の告白に思わず間の抜けた声を発してしまった夜薙は、ほんのりその頬を朱に染めている姉の顔を凝視して三つの目を白黒させる
同じ無言に属する者として接点は小さくないのだろが、その事実に全く気づかなかった夜薙は、その事実に驚愕を隠しきれなかった
「まあ、あちらは私の気持ちになんて気付いてくれていないでしょうけど……」
その心がシェオルにだけ向けられていることを知っている椎稲は、自嘲するように寂し気な笑みを浮かべると、どこにいるか分からないその人物を、死神の特徴である三つの瞳に幻視する
ほんのりを朱に赤らめた椎稲の横顔は、実の妹である夜薙ですら見たことがないような、恋する乙女の顔になっていた
「そんなことより、あなたこそシキトが好きなんでしょう」
恋でその美貌を化粧した椎稲に目を奪われていた夜薙は、報復とばかりに虚を突いて姉から返された問いかけに顔を真っ赤に茹だたせる
「っ!」
「なら、ちゃんと気持ちを伝えなきゃ。お姉ちゃんは応援してるんだから」
分かりやすいほどに真っ赤になった夜薙は、小さく笑みを零しながら指でつついてくる椎稲の顔を見て、恨めし気に視線を向ける
(そのシキトが好きなのは、お姉ちゃんなんだけど……)
他愛もない姉妹の会話を交わした夜薙は、互いに別の人を想っている人に想いを寄せているという皮肉な事実にやるせない感情を抱かずにはいられなかった
「――本当、なんでこんなことになっちゃったんだろう
胸に手を当てた夜薙は、唇を噛み締めると、自身の存在に融合した神器――「融神器」を掴むようにその手に力を入れる
いつの間にか失ってしまった大切なもの。変わったこと、変わらないこと――様々な運命の悪戯の記憶が夜薙の脳内を流れては消えていく
戦いのヘイルダートの戦いの最中手に入れた融神器を託された夜薙は、その後次の戦いへと赴いて行った椎稲の最後の姿を思い返して瞼を伏せる
(真紅はシェオル様を失なって、お姉ちゃんは死んで、シキトと鎖牙は戦って――私は、何もできず、全部終わった後にまたこうして生き残って――)
「私達は、結局なにを手に入れたんだろう……?」
自身の信念を守るために戦ったことには悔いも迷いもない。しかし、戦いが終わってみれば、失ったものを数え、残ったものを慈しむことだけが残っている
何かが欲しかったわけではない。だが、何もないことに喪失感を覚えずにはいられない――そんな相反する思いを噛み締める夜薙は、答えのない答えを誰かに問いかけるように独白する
「大勢は決しましたね」
「!」
その時、背後から聞こえてきた声に目を瞠った夜薙は、弾かれたように背後を振り向く
(いつの間に――)
知覚に捉えることができなかった何者かの存在に驚愕を覚え、その姿を視界に捉えようと身を捻った夜薙の胸に、狙いすましたかのように漆黒の光が突き刺さる
「な……ッ!?」
(黒い、翼……?)
胸の中心を黒い光で貫かれた夜薙の瞳に映ったのは、一点の曇りもない黒よりも黒い翼と、翻る桃白色の長い髪、そして白い肌に映える薄朱色の唇が浮かべた微笑だった