監獄の中の神たち
金属が軋むような重厚な音とは裏腹に、高さ十メートルはあろうかという不自然なほどに大きな扉が軽やかに開いていく
簡素な白地に金色の装飾が施された観音開きの扉は、二つの空間を隔てる境界。それが開かれれば、この場所と神獄の内側と繋げることになる
「――!」
扉が開かれて神獄が解放された瞬間、その内側に押し込められていた圧が噴き出し、扉の前に佇んでいた真紅達一同の髪を煽るほどの衝撃となって突き抜ける
それは、神獄の内側に満ちる空気が孕んだ気配。志向性はもちろん、指向性もなく意図的に外界の者を害する意思のないものでしかない
だが、その気配は真紅をはじめとした十世界の死神達に戦慄を覚えさせるには十分すぎるほどの力を持っていた
「これが、神を閉じ込めた監獄の空気か……」
「気を抜けば、魂が押しつぶされてしまうほどの圧――懐かしいな」
神獄の中から迸った神の監獄の空気にわずかに目元を強張らせた斬黒の傍らで、遥か古にヘイルダートの悪夢の事変でこの空気を体験している夜半も、薄ら寒いものを覚えているであろう表情で言う
夢想神の神片の力を持つ夜半がみせるその緊張の声音は、これから向かう神獄の危険さを物語るには十分すぎるもの。
それがわかっているからこそ周囲にいる死神達は、無意識の内に緊張を高め、これから向かう場所の脅威を痛感する
「神獄の中がざわついていますね」
「荼毘と八宵か……おそらく、この中に住まっている者に、刺激を与えていたな」
怜悧な目を細めた鈴音の声に、真紅がその三つの目を剣呑に細める
荼毘と八宵は、交渉が決裂した場合、自分達が足止めしても即座に突破されるであろうことを察し、あらかじめ、神獄の中にいる者達に外から攻撃を仕掛けておき、戦意を煽っておいたのだ
「――最初から、俺達が止まらないことも止められないことも分かった上で立ちはだかったという訳か。まったく、見事なものだ」
荼毘と八宵が仕掛けておいた本当の罠に自分達が囚われていることを理解した真紅は、その忠臣に心からの賞賛を送る
確かに、これで神獄攻略の難度は格段に上がった。とはいえ、ここで諦めて退くという選択肢も、機を改めるという選択肢もない
「皆、気を引き締めろ! 神獄は、かの神を封じるために司法神によって作られたもの。入ることは容易だが、出ることは極めて困難な迷宮だ!」
夜薙を封じ込めた宝玉を鎖牙から受け取った真紅は、背後にいる死神達に向けて強い声で言葉を贈る
拳を突き出し、声を張り上げて真紅が鼓舞するのは、この場に集った死神達の信念と戦意、そして十世界とその盟主たる奏姫・愛梨の願いを実現するという確固たる意思だ
「だが、恐れずに進め! その果てにこそ、姫と我らが望んだものがある! 我らの目的は一つ。この神獄に眠る『邪神』の骸を手に入れることだ!!」
力強く言い放った真紅の言葉に、沈黙と力強い声が返される
「いくぞ!」
それぞれの反応を返す十世界の死神達を横目にしていた夜半は、わずかにその目を細めると、先陣を切って歩を進めた真紅の後に続くのだった
※
「これは」
神殿が突き刺さる大地に降り立った大貴たちの目に飛び込んできたのは、血炎を上げながらその場に身を横たえている男女二人の死神の姿だった
神能で構築された身体が崩壊していないことから、命に別状はないだろうが、しばらくはまともに戦うこともできないであおるほどに痛めつけられていることが分かる
「――よォ、おやじ」
大貴達が降り立ったことに気付いたのか、岩に背を横たえていた男の死神が、その視線をゆっくりと向けてかすれた声で笑う
「荼毘、八宵!」
その言葉を受けた冥が、地面に横たわっている女性の方の死神を抱き起したのを見た荼毘は、それを見て肩を竦める
「オイオイ、ここは満身創痍の息子を抱きしめるところだろ」
自嘲気味に笑い、本心ではそう思っていないことを暗に告げながら冗談交じりに言う荼毘に、冥は安堵の笑みを浮かべて言う
「親の言うことにも、王の命令にも背いたドラ息子に差し出す手は持ち合わせてねぇよ」
「手厳しいな」
荼毘に向けられる冥の穏やかな声音は、その生存に心から胸を撫で下ろしているからこそのもの
それを聞けば冥の本心は十分に伝わってくる。だからこそ息子も、それに肩を竦めて答える
「よく生きていてくれた」
荼毘と八宵の二人に向けてそう言った冥は、同時にこの場にいない真紅達を探して、その三つの視線を地面に斜めに突き刺さった神殿へ向ける
「あいつらは、もう中だ――抜けるあてはあるのか?」
「さぁな。やってみるしかねぇだろ」
すでに神殿の中に入った真紅達を、その三つの瞳に幻視する冥は、荼毘の言葉にわずかに口端を吊り上げて笑う
その笑みが冥界王・冥が道化の本性の下に隠し持っている最強の死神――暗殺殺戮者の者であることを知っている死神達は静かに、それを見た大貴達は背筋に冷たいものを覚える
「さて、行くか。俺の見立て通りなら真紅はしばらく夜薙を殺さないはずだが、だからといって時間がないのも事実だからな」
夜薙の存在に封じられている神器「融神器」は、比較的誰にでも使うことができる特性があるもの。すぐにでも夜薙を殺して神器を取り出すということも可能性としてあり得るが、冥はその心配は小さいとも踏んでいた
その理由の一つは、暫定的な協力関係を築いているとはいえ、真紅が夜半を心の底から信用しているわけではないこと。神器を取り出した瞬間に横取りされたり、いざ融合の時になって邪魔されるのを拒むためだ
(――真紅の目的は神の力を手に入れること。そして蒐集神に囚われたシェオルを救い出すこと。そしてこの場所を選んだというなら、必然的に奴の目的とする力は決まってくる)
神獄の神殿の中にいる真紅へと、届くはずのない視線を注ぎながら佇む冥は、その先に立つ人物の姿を見て口端を吊り上げる
「それに先客も待ちわびてるようだ」
「――……」
その視線の先――神獄の扉の前でさながら門番のように佇んでいる人物を見て、シキトが一歩前へと歩み出す
「冥様。奴は俺が」
その視線の先に待ち構える因縁の相手――鎖牙の姿を見て言うシキトの横顔を見る冥は、その三つの瞳に込められた強い意志に頷く
「あぁ、頼んだぜ」
その言葉を聞き終えるが早いか、その手に自身の冥力を鎌の形として顕現させた武器を取ったシキトは、同時に黒杭を具現化した鎖牙へと向かって地を蹴る
「鎖牙!」
「シキト!」
互いに視線を交わし、声をかけて名を呼び合ったシキトと鎖牙は、神速で肉薄して互いのその武器をぶつけ合う
知覚はできずとも、そこに存在する冥力がぶつかり合うことで、それを形成する神格を帯びた純然たる殺意が現実世界に事象として破壊をもたらし、天と地を揺るがす
「うし、行くぞ」
「ああ」
シキトと鎖牙が刃を合わせたのを見た冥に促され、その傍らを通りぬけて神獄へと向かう大貴は、小さな違和を覚えて左右非対称色の瞳を持つ目を細める
(あいつ一人だけか……?)
鎖牙が入り口に残ったのは、確実にシキトと戦うためであるのは間違いないだろう。だが、それでは到底自分達を足止めすることはできない
ここに入るまでに、もう数人――下手をすればもっと大勢の相手と戦うことになることを想定していた大貴は、その思惑を外されて拍子抜けすると同時に緊張感を高める
(足止めの必要もないってことか? それとも、なにか理由があるのか)
シキトと鎖牙が刃を合わせてから、時間にして一瞬の刹那。間と呼べるほど確かな時さえ介在しない内に、巨大な門の前で立ち止まった大貴は訝しげに目を細める
その眼前では、神獄の内部へと繋がる巨大な門がうなりを上げながら開き、同時に冥と同行してきた死神達が前へと歩み出す
「いいか。光魔神たちは、門をくぐったら最初の部屋で待機だ」
「っ、けど……」
背中越しに向けられた冥の言葉に、大貴が思わず反論じみた声を上げる
「勘違いするな。神獄は、通常の全霊命には限りなく踏破不能に近い迷宮なんだ。俺達死神を除いてはな」
「?」
しかし、その言葉を最後まで続けさせることなく矢継ぎ早に続けられた言葉に、大貴が怪訝そうな表情を見せる
「神獄の中は無数の模造世界が不規則につながった迷宮になっててな。一時たりとも同じ形状はしていない。しかも中は『慾界神・ディザイア』の眷属で満ちてるっておまけつきだ」
「それって、確か――」
入ってすぐの場所で大貴達に待機を命じた冥は、その理由を簡潔に説明する
「そうだよ。『慾界神・ディザイア』――円卓の神座№5だ。元々ここは、慾界神とその眷属達を封じ込めるために司法神が作ったものだからな。
だから、この中では奴らに見つからない死神でなければ踏破できない。まあ、不可能じゃねぇが、うようよと跋扈してる奴らを殺しながら進まないといけないから、いくらなんでも多勢に無勢だ」
神獄が神の監獄と呼ばれているのは、その内側に文字通り、「神」を監禁しているからだ。
かつて、法を司る神である円卓の神座№11「司法神・ルール」が円卓の神座№5「慾界神・ディザイア」を封じ込めるために作られているため、神威級神器の使い手や、夜半のような神片達の力を使って、一朝一夕に踏破することができない
司法神による「断罪」と「判決」を受け、存在をその内側に縛りつけられている慾界神とその眷属達は、この神獄から出ることができず、それが結果的にこの神の監獄の防衛として成り立ってしまっている
そのため、神獄に不用意に入り込めば、慾界神の眷属達に襲われることになる。その中を戦って切り抜けるのはかなりの難度を極めるだろう
つまり、この中で目的地にたどり着くためには、全霊命にさえ知覚されることがない死神が中を移動し、目的地へと誘導するのが最も安全で確実な手段だと言える
「だから、この神獄で起きたヘイルダートの悪夢では、俺達死神が重要な役割を果たした。光の軍勢達も俺達の力を必要としたんだ」
扉が開くと同時に、その内側へと足を踏み入れた冥は、空間で隔てられているために知覚できないものの、この神獄が収監している者達の存在感によって鉛のように重くなっている空気の中を進みながら言う
「ってわけで、おそらく奴らはほぼ確実に中で分散して目的のものを探してるはずだ。そういうや、あの時いた天使やら悪魔やらがいないのが気にかかるが――仲間割れでもしたか?」
神獄の周囲に先日の戦いの時にはいたはずの死神以外のメンバー――天使の「シャリオ」悪魔の「紅蓮」、堕天使の「ラグナ」、戦兵の「ジュダ」の四人の姿が見えないことを訝しんで冥が眉を顰める
この神獄を安全に攻略するには、先程大貴に告げた様に死神以外の全霊命を同行させるのは都合が悪いことを真紅達は知っている
真紅達が自分達と同じ攻略法を取っていれば、ここに彼ら死神以外の全霊命がいないのは不自然だった
「――やっぱりそうか」
その疑問を訝しんで即座に思念通話を荼毘へと飛ばした冥は、その答えを聞いて口端をわずかに吊り上げる
「他の仲間達どころか夜死までいなかったか……なるほど、奴らは一枚岩ってわけじゃなかった……なるほど、あの生真面目な夜死を丸め込めないと踏んで、後を託したわけか」
扉が閉じていなければ神獄の外と仲の空間は繋がった状態のため、思念通話も問題なくできる
荼毘との思念通話で、シャリオ達他種族の全霊命達はおろか、夜死の不在までも確認した冥は、小さかった可能性に、新たな一縷の可能性の光が差したような感覚を覚える
「そういえば話が途中だったな。つまり、俺達が迷路みたいになってる空間を移動しながら奴らを捜索し、遭遇したら、お前達に空間の道を開いて導く。それがこの冥宮の最も確実で安全な攻略法だ」
荼毘からの報告を受けた冥は、背後にいる大貴達に向けて先程中断していた話の続きを簡潔に結ぶ
神獄は、外界と空間を繋ぐことはできないが、その内部空間同士とでなら空間転移が可能だ。
常にその形を変化させているため、空間座標を目印にする空間転移は難しいが、自分のいる空間へ呼び寄せることならばできる
「今も昔も、ここに入った連中の目的は、その性質を利用してこの中に隠れている神――闇の神位第二位『邪神・ヴィシャス』だ」
「完全神……!?」
神妙な面差しで言い放った冥の言葉に、大貴は思わず息を詰まらせる
光魔神でありながら、光魔神としての知識を持たない大貴には神のことは詳しく分からない。だが、神と呼ばれる存在は、その神格によって神位第一位から神位第六位までに分けられていることは知っている
「円卓の神座」と呼ばれる最強の異端神たちの強さが、おおよそ神位第五位程度。現在九世界に存在する最強の存在である反逆神・アークエネミーでさえ神位4位には届かない
その中で神位第二位ともなれば、その力は想像もつかないが、いかに強大な存在であるのかは容易に想像できる
「神位第二位は、『副絶対神』とも呼ばれる、光と闇にたった一柱ずつしか存在しない神です。創界神争の終結と同時に、多くの神々はこの世界を去りました
ですが、邪神は光の完全神『聖神・セイクリット』との戦いで、その存在を神器へと変えていたため、この世界に残されたのらしいです」
そんな大貴の言葉に、これまで沈黙を守っていた瑞希が涼やかな声で答える
それが仲間たちと打ち合わせを始めた冥の邪魔をしないようにとの配慮であることを察した大貴は、その言葉に覚えた疑念を口にする
「らしい? そういう言い方をするって珍しいな」
親から子へ記憶以外の情報を継承することができ、ともすれば九世界創世期の頃から生きている者さえいる全霊命達の情報はかなり正確なものが多い。
これまでも、人の感情のような読み切れないもの以外はかなり正確な情報を持っていたように思っている。にも関わらず、今回に至っては「らしい」という言い回しをしていることが大貴に小さな疑問を抱かせていた
「何分、私も生まれていないほどの昔の話ですから。それに、神位第一位《絶対神》同士の戦いとは違って完全神同士の戦いは、あまり判然としないのです。
相打ちになったとか、聖神が邪神様を封じたところで力尽きたとか――唯一分かっているのは、邪神様が封じられたものが、伴侶によってこの神獄に持ち込まれたという事実だけです」
悪魔という闇の全霊命であるからか、闇の神である邪神にだけ、様と敬称で呼ぶ瑞希が大貴にその理由を説明する
創界神争は、神による唯一の戦争であり、世界最初にして最大規模の戦争でもあった。だが、その戦争の勝敗は、結局のところ光と闇の神位第一位「創造神・コスモス」と「破壊神・カオス」の勝敗に等しい
なぜなら、神位第一位たる絶対神こそが世界最強の神。それ以下の神が全勢力を率いてもその前には微塵の勝機さえ生まれないのだから
即ち、破壊神が創造神に敗れ、封じられた時点で闇の勢力の敗北が決まった。だからこそ、その結末は九世界の全ての者が知っているが、その反面絶対神の戦いの影で行われていた大半の神々の戦には、その勝敗が分からないものが多い
敗れた神は勝利した神によって神器に封じられる。自分の戦いもあるうえ、神が戦う場所では通常の全霊命はもちろん、神格の及ばない神々も、その力に巻き込まれることを避けるために距離を取っていたため、多くの場合それだけが神々の戦いの勝敗の証明だった
必然、絶対神に次ぐ神格を持つ邪神と聖神の戦いでは、それが顕著だった。邪神と聖神の二柱ともが生きて帰らなかったために、その戦いの結果を誰も知らないのだ
「……伴侶?」
しかし、瑞希によって語られた神々の戦いの情報の中で大貴の耳に最も強く残ったのは、その一言だった
「そうです。元々全霊命は、神のユニット――即ち、眷属ですから。神のために戦う兵であると同時に、その伴侶にもなりえるのです」
九世界では、異なる全霊命同士、あるいは全霊命と半霊命の婚姻と交雑は禁忌とされている
だが、神と全霊命だけはその例に当てはまらない。何故なら、全霊命は神に列なる神の眷属であり、子孫を作ることができない神ために伴侶になることまでをも求められて生み出されているからだ
「――……」
「ってわけだ。本当なら荼毘と八宵にも道案内を頼もうと思ってたんだが、こうなった以上何とかするしかねぇだろ」
そうして言葉を交わしていた大貴に、死神同士の打ち合わせを終えた冥の急かすような声がかけられる
神獄に関することでもあったため、ここまでばいいとしても今はこれ以上その話を長々と
続けている時間はない。今は刻一刻を争う状態なのだ
「ああ」
自分達が優先するべきものが何なのか分かっている大貴は、冥の言葉に気を引き締め直して頷く
「うし、行くぞ。腹括れ!」
「はい」
「その必要はございませんよ」
冥の言葉に死神達が答えた次の瞬間、その意気に冷や水をかける様な言葉と共に、目の前の空間が揺らぎ、そこから一人の人物が姿を現す
空間の門から現れたのは、腰まで届くほどの癖のない桃白色の髪に、純白の三対六枚の翼。その身を包む霊衣は白を基調とした清楚で無垢な美しさでその美女の魅力を引き立てている
長いスカートの中に隠されている白いブーツヒールの踵が硬質な床に下ろされて音を立てる中、六枚の白翼をたたんだその天使は、透明感のある穏やかで優しい笑みをそこにいた全員に向ける
「――!」
(なんだ、この強大な光力は……!?)
六枚の翼を持つ桃白色の髪の天使の姿を見て、自分を除く全員が目を瞠るのを見た大貴は、そのわずかに警戒しながら意識を向ける
その存在から放たれる光力は、強大でありながら澄んでおり、その人物が現れただけで場の空気が浄化されてしまったかのように感じられた
「『ルシア』様」
その姿を見たクロスの口から畏敬の念を帯びた声が漏れたのを聞いた大貴は、知覚を刺激する光力を放つルシアと呼ばれた天使へと視線を向ける
「誰だ?」
「十聖天の一人だよ。邪神の伴侶」
この場にいる中で唯一その正体を知らない大貴が、誰かの答えを求めて発した言葉に応じたのは、神魔の静かな声だった
「こいつが……!?」
先程話に出ていた闇の神位第二位「邪神」の伴侶。闇の神の伴侶と聞いていたため、てっきり闇の全霊命だと思っていた大貴は、天使――それも、最強の天使である十聖天の一人がそうであることに驚きを隠せなかった
「皆様は私がご案内いたしましょう」
大貴と神魔が小声でやり取りをするのを見は買ったかのように、ルシアは自身の胸にその手を乗せて穏やかな声で進言する
「どういう風の吹きまわしだ? 前の時は姿を見せなかったくせに」
ルシアの口から発せられた思いもよらぬ言葉に、冥が警戒と疑問、不信感の入り混じった声音で訊ねる
かつてヘイルダートの悪夢と呼ばれた事変を引き起こした者達も、邪神の力を求めてこの神獄へと足を踏み入れた
だが、複雑に入り組んだ神の監獄たる冥宮は、結局そのすべてをことごとく退け、オルセウスを筆頭とする光と闇の同志達によって事変は収束した
その時にさえ姿をみせることがなかった邪神の伴侶「ルシア」が自分達の前に現れれば、それに疑問を抱くのは当然のことだろう
「――私にも思うところがございますので」
至極もっともな冥の言葉に目を伏せたルシアは、簡潔に自分の言動の理由を説明する
「……?」
その言葉に、全員が訝しげな反応を返すのを見たルシアは、浮かべていた微笑を消して凛然とした面差しで視線を巡らせる
「信じる信じないは自由ですが、私はこの冥宮を知りつくしています。あなた達が望む場所にあなた達を運ぶことも造作もないこと――どうなされますか?」
その言葉を受けた冥は、背後にいるメンバーへ視線を向けると、その表情に浮かんだ一つの意思を確認して口端を吊り上げる
「聞くまでもないだろ?」
邪神は闇の全霊命の神。そしてルシアは始まりの天使の一人。光と闇、どちらの味方でもあり、どちらの敵ともとれるその存在は信じるに値し、信じるに値しない
だからこそ一刻を争う今、その提案を聞いた冥は、自身の拳を手のひらに叩きつけて、口端を吊り上げる
「――」
全員の意思を代表して答えた冥の了承の言葉を聞いたルシアは、桜色の花唇を綻ばせると穏やかな声で語りかける
「さぁ、どちらへいかれますか?」
※
神獄最奥部。――そこは、室内でありながら、まるで生物の体内のようになっている空間だった
一面を覆い尽くす天上や壁、床は半霊命の臓器を思わせる脈打っており、そこに満ちる空気は気のせいか生臭い生物の吐息のようにさえ思える
適度な弾力を持ちながらも、歩行を阻害しない適度な硬さを持つ床を踏みしめながら歩く夜半は、自身の進行方向から漂って来る力を知覚して口端を吊り上げる
神獄へ潜れば、中で分散して捜索することになることはこの冥宮の事を知っている者からすれば容易に想像できることだ
それを利用して単独行動を取った夜半は、首尾よくその最奥部に足を踏み入れていた。その背には夢想神の神片である大剣が浮遊しており、夜半がすでに神の力を発現させていることを証明していた
「今ごろ、真紅達は血眼になって邪神の骸を探しているんだろうな」
神獄の中を探し回っているであろう、真紅を代表とする十世界の死神達の事を考えて他人事のような笑みを浮かべて呟く
その無関心な言葉は、もしそれを聞いている者がいれば、夜半が邪神の力を手に入れることに執着しているようには感じないほどに淡泊なものだった
「さて、真紅は予定通り邪神の力を手に入れられるか……」
しかし、夜半の口から発せられたその声は、淡泊なものではあっても無関心なものではなかった
元々夜半と真紅の関係は同じ目的を共有する仲間などではなく、各々の目的のために一時的に協力する関係だ。
真紅の計画が成功すればいいという程度には思っているが、失敗してもなんら問題はない。なぜなら、夜半の目的は、真紅が狙う邪神とは違う〝神〟だったのだから
「――まあ、俺はもう一つの目的の方を果たすだけだが」
そう呟いた夜半の眼前が開け、そこに広大な空間が広がる
夜半の目の前に広がっているのは、以前体組織のようなもので構築された世界。しかし、そこにあるのは、悍ましくも荘厳な部屋だった
数百メートルはあろうかという高い天井には、骨のようなもので作られた白いシャンデリアが一つぶら下がっており、そこから放たれる淡く優しい光が万遍なく室内を照らし出している
その背後には、室内の悍ましさとはかけ離れた荘厳で神々しい造りの白い檻が置かれており、その中では強大な瘴気が渦巻いて外へと流れだしていた
「――あれか」
周囲蔓延する目に見えるほどの瘴気は、檻の中に閉じ込められたものが発する怨嗟の念。神能でもなく、ただ発せられる感情が具現化しただけのそれが夜半に戦慄を覚えさせる
(封印されているはずなのに、この圧。――さすが、と言ったところか)
さらにその瘴気は、封印と結界の力を持つはずの檻から漏れ出しているほんの一欠しかない。思わず竦んでしまいそうになる自分に自嘲した夜半は、瘴気が充満した室内に蠢く無数の異形達の姿を見て剣呑に目を細める
それは、異形とはいえど決して醜悪ではない者達。人型のものもいるが、そうではない者もいる。角のある者、翼がある者など様々で、一貫性の在る姿形をしていない
しかしその存在から感じられる神能が、それらが間違いなく同じ力を持つ同種属の存在だと教えてくれる
「……あれが、かの神の眷属か」
三つの目を細めた夜半が独白すると、風もないのに一瞬瘴気が揺らぐ。すると、その瘴気の中に見えていた影の一つがゆっくりと顔を上げ、神片の力によって夢と化して知覚を逃れているはずの夜半を直視する
「何者ですか?」
「――!」
瘴気の中に陰となって見える異形から発せられたのは、その外見からは想像もできないほどに澄んだ女の声だった
自分の存在に気付かれた夜半は、隠れることを止めて顕現すると、瘴気が満ちた広大な室内へと足を踏み入れる
姿を見せた夜半が室内へ足を踏み入れると、瘴気の中にいる異形達がその瞳を向けて、舐めるように観察してくる
姿形に一貫性がないその異形達ではあるが、唯一共通しているのは、その瞳が白濁色をしているということだ
「その力――夢想神の神片の宿主ですね。とりあえず、今は歓迎の言葉を述べましょう。ようこそ、我ら〝欲望の化身〟とその神の住まう場所へ」
室内へ足を踏み入れた夜半に、最初に何者かと尋ねた十枚を超える翼を持つ存在が、瘴気の中からその姿を現す
夜半の前に晒されたその姿は、まるで夜空を閉じこめたように、所々輝いている足元まで届く先端が軽くウェーブした青紫色の髪が印象的な豊満な身体つきの美女だった
どこか穏やかそうな面差しに、白い瞳を抱く目。ロングスカートのドレスにショールを羽織ったような霊衣を纏うその姿は、先程までの異形のそれとは全く異なっているもの。――異形の外貌を隠すいわゆる人化形態だ
(こいつが、「欲望の化身」の神片の筆頭――「母欲王」か)
目の前の女性が放つ神位第六位相当の神能と、他の眷属を横目に真っ先に対話に出てきたことから、その正体を推測した夜半は、目の前の一人を加えれば、この室内に四つ感じられる自身と同等の力に緊張しながら、可能な限り不遜に話を切り出す
「俺は夜半。今日は、そこにいる神と話をさせてもらいに来た」
決して軽んじられないよう、対等な立場の交渉者を演じる夜半は母欲王の背後にある瘴気の発生源たる檻へと一瞥を向ける
「……要件を言ってみなさい」
その言葉に白濁の瞳を抱く双眸を剣呑に細めた母欲王は、しばしの沈黙を置いて重い口を開く
この場にいる全員尾代表たる者の言質を取った夜半は、その背後にある檻の中にいる神へと視線を向けて、その要件を宣言する
「慾界神。お前を――いや、お前達を解き放ちに来た」




