冥宮
天の中心に座していた神臓が月から太陽へと変わっていくにつれ、冥界の――九世界の空が夜を終えて白んでいく
そんな、昼と夜の境界の時間帯。冥界王城の前の広場には、すでに出発を前にした影がまばらに揃っていた
「そろそろか」
それを見たシキトは、事前に取り決めておいた集合時間が近くなっているのを感じ取って、抑圧していた戦意を高めていく
本来、全霊命にとって睡眠など娯楽でしかない。それでも一晩という時間を取ったのは、昨日の激しい戦いによる消耗を確実に回復し、十全の力と意思で戦うための休息の時間を取ったためだ
「はぅあ」
静かに猛るシキトの姿に、顔の半分を束ねた前髪で隠した死神――「ユニ」が怯えた様な声を上げてよろけると、それを見ていた穏やかな雰囲気の空木が苦笑を浮かべる
「珍しくやる気だね」
「え、っと……夜薙ちゃんのため?」
空木の言葉を聞いたユニは、上ずった声で訊ねる
その姿は、まるで狩人に怯える獲物のよう。人見知りや恥ずかしがり屋という枠に収めるのは、少々弱々しすぎる
「だね……それと――」
そんなユニのおどおどとした口調や態度に優しく応えた空木は、その三つの視線をシキトへと向けて剣呑に細める
「男の矜持ってところかな」
普段の冷めたものとは違うものを、知覚できずとも感じさせるシキトの姿に、空木は優しさの中に凶刃の如き感情を見せる
「いいね、今の彼となら、ちょっと戦ってみたいかも」
「ひぃッ」
おとなしそうな風貌とは裏腹に、やや好戦的な面がある空木の姿が興味を示すのを見て、ユニはその身体を限界まで縮めながら、ゆっくりと距離を取っていく
「……何やってんだか」
それを半ばあきれた様子で見ていた大貴の隣では、早朝の時間帯で寝ぼけ眼の詩織が小さく欠伸を噛み殺していた
「ふぁ……」
「気の抜けるあくびだな」
口を手で隠しながらも、隠しきれない欠伸をする詩織に、大貴は視線を逸らしたまま、からかうように言う
「――っ、しょうがないでしょ? 私は全霊命と違って寝ないと駄目なんだから」
その言葉に顔を赤くした詩織は、周囲に聞こえないように声をひそめて、光魔神の姿となっている実弟に抗議の声を上げる
「それに、睡眠不足はお肌の大敵なのよ」
「随分と気楽なもんだ」
詩織の緊張感のない言葉に大貴が辟易していると、その近くに立っていたクロスが周囲を見回して口を開く
「あとは神魔だけか」
大貴の護衛として認識されているとはいえ、闇の世界の一つであるこの冥界の住人達と必要以上に親しくなろうとは考えていないのだろうクロスは、マリアと共に可能な限り大貴の傍にいるようにしていた
ここに揃っているのは、大貴、クロス、マリア、詩織、瑞希、冥、時雨、シキト、ユニ、空木、ヘドと数人の死神達
ここにいるメンバー全員が全員戦いに赴くのではなく、見送りも含んでいるのだが、共に向かうはずの神魔はまだ姿を見せていない
「苛立つことではないでしょう? 集合時間まではもう少しあるのだから」
その言葉に、瑞希が静かな声で応じる
回復さえすれば、あとは時間を持て余すばかりの大貴やクロスとは違い、神魔は桜という伴侶と過ごしている。何をしているのかは分からないが、今回は居残りとなる桜と少しでも時間を共有していたいと考えるのは当然だろう
「……分かってるよ」
その言葉に含まれている皮肉――マリアと関係を持てば、神魔の事情もよく分かるわよ――に気付いているクロスは、その言葉に苦々しげに顔をしかめて視線を逸らす
当然それは、クロスだけではなくマリアにも伝わっている。だが、互いに気持ちを伝えることができず、共に互いが自分のことをどう想っているのかに気付いていないクロスとマリアは、照れながらもばつが悪そうに相手から視線を外すだけだった
「――それに、心配はいらないみたいよ」
その様子を、切れ長の怜悧な視線で横目にしていた瑞希は、その知覚が捉えたものを見て麗貌に微笑を刻む
「お待たせしました」
瑞希のその言葉に答えるように、冥界王城の扉が開くと、そこから十分に休息をとったことが一目でわかる神魔と桜が姿を現す
「……うわ、本当に伸びてる」
それを見た詩織は、神魔の隣――わずかに半歩程下がった場所を目を奪われるほどに洗練された淑やかで美しい所作で歩く桜の髪を見て思わず声を零していた
桜の象徴ともいえる、艶やかな桜色の髪は、昨日の戦いで半分以上斬り落とされ、肩程までの長さになっていたが、一晩立っただけで以前と寸分違わぬ長さに戻っていた
「うーし、全員そろったみたいだな」
それを見て、少し離れた場所で時雨と並んで腰を下ろしていた冥は、ゆっくりと立ち上がってその場にいる全員を見回す
「野郎ども。準備は万全か!?」
「はい!」
笑みを浮かべた冥の意気揚々とした声の下には、強い戦意の刃がさながら暗器のように隠れている
死神の王に相応しい立ち振る舞いを見せる冥の言葉に、その場にいた全員たちから覇気に満ちた声が返され、冥界の朝焼けを焦がす
「俺達の目的は、あくまでも夜薙の奪還! 無理に戦う必要はない! 目的を間違えるなよ? だが、戦うなら勝て! いいな!?」
その声に満足気に笑みを浮かべた冥は、威厳に満ちた力強く野太い声で、この場にいる全員を鼓舞する
「目的地は、『神獄』だ!!!」
そう言って腕を一薙ぎした冥の動きに合わせて、その眼前に巨大な時空の門が開く。それは、冥が示した目的地――「神獄」へと通じる道だ
「――!」
それを見たシキトは、無言のまま歩を進めると躊躇うことなくその中へ身を投じる
「あ」
「待っテ」
それを見たユニとヘド、空木と次々に死神達が空間の門へと入っていくのを見たクロスは、マリアを一瞥する
「俺も行ってくる」
「気を付けて」
マリアに見送られたクロス、そしてそれを見ていた詩織は、大貴がそこへ向かって歩き出したのを見て声をかける
「じゃあ、大貴気を付けて」
「ああ」
詩織の言葉に肩ごしに視線を向けた大貴に続いて瑞希が、射干玉の黒髪をなびかせながら時空の門をくぐったのを尻目に、詩織は神魔の許へと駆け寄っていく
「神魔さん」
逸るその気持ちを代弁するかのように、小走りでその距離を詰めた詩織を見咎めることなく桜は、普段通りの淑やかな表情で見守っていた
歓迎しているようには見えず、かといって気分を害しているようにも見えない桜の薄紫色の瞳は、まるで風に揺れながら咲く一輪の花のよう
(私らしく、私らしく……)
そんな桜の凪いだ視線の中で神魔と向かい合っている詩織は、呼吸を整えながら心の中で自分に言い聞かせる
鎮まっていく呼吸とは裏腹に、高鳴りを止めてくれない緊張の中で意を決した詩織は、神魔をまっすぐに見据えて口を開く
「桜さん、心配性だからあんまり無理しないでくださいね。それに――私も、心配してますから」
「――うん。ありがとう」
いつも戦いに赴く者達を見送ることしかできず、ただ守られるばかりの無力感を胸に秘め、その身を案じながら送り出す詩織の言葉を聞いた神魔は、一瞬虚を突かれたように沈黙し、たっぷり一拍の間を置いてから目元を綻ばせる
「どうしたんですか?」
自分にさえ分かるその間を訝しんだ詩織に尋ねられた神魔は、わずかにその口端を吊り上げて笑う
「詩織さん、なんか雰囲気変わったね」
「え?」
思いもよらない言葉に息を呑んだ詩織に、神魔はその金色の双眸で観察するような視線を注ぎながら優しく微笑む
「なんていうか、会った頃の感じに戻ったっていうか……詩織さんらしくなった」
「!」
その神魔の言葉に、詩織は思わず息を詰まらせ、胸の前で組んだ腕に力を込める
「あれ? なんか違うかな……ま、いいや。何が変わったとかうまく言えないけど、そういう感じの方が詩織さんらしくていいと思うよ」
目を瞠る詩織の前で、自分の言葉が不十分だと考えて思案を巡らせた神魔は、やがてそれを諦めて小さく肩を竦めて笑いかける
《わたくしのようであろうとする方を神魔様は愛してくださいません》
自分に注がれる優しげな神魔の双眸を受け止める詩織の脳裏には桜の言葉が甦り、想いを寄せる人が、いつも本当の自分を見てくれていたことが、嬉しくてたまらない
(桜さんの言った通りだ。……こんな、こんな簡単なことでよかったのに……)
神魔に愛される桜のようになろうとするのではなく、自分を好きになってもらうようにすること――こんなにも簡単なことが、これほどに難しかったのだと、ようやくスタートラインに立った自分を実感していた
「ありがとうございます」
歓喜の感情と共にこみあげてくる涙を噛み殺し、感謝の言葉を述べる詩織から視線を逸らした神魔は、そのやり取りを数歩離れて見守っていた自分の最も大切な人に声をかける
「じゃあ、桜行って来るね」
「はい。お気をつけて」
神魔と桜の間に多くの言葉はいらない。先の休憩の時間を使って、たっぷりと語るべきことを語ってきたというのもあるが、身体を重ね、心と心を繋ぎ、魂と魂を結んだ二人は離れていても繋がっているからというのも大きい
重なり合う二人の視線が語るのは、互いを想い、互いを案じ、互いを信じるもの。
戦いに赴く神魔は残してく桜に危険がないことを願い、神魔を送り出す桜は神魔が少しでも傷つかないようにと願う――そして何よりも、二人は生きて再会することを自分自身に誓っている
そうしてしばしの間視線を交わしていた神魔は、漆黒の霊衣を翻すと、開かれた空間の扉へと足を踏み入れていく
神魔が入り、全ての者を送り出したことで空間の門が閉じられると、最愛の伴侶を見送った桜は隣に佇んでいる詩織に視線を向ける
桜から少し離れた場所で神魔を見送っていた詩織は、これまで堪えていたものが溢れだしたのか、その目尻に輝く小さな雫を浮かべていた
「……ずるいなぁ」
自分以上に自分を見てくれていた神魔の言葉を思い出した詩織は、許されざる恋慕が、さらに強くなっていくのを嬉しさと寂しさの入り混じった笑みで独白する
「あんな風に言われたら、諦められなくなっちゃうじゃないですか」
九世界において、自分達地球人は忌み嫌われる悪意の存在。そして悪魔である全霊命と人間である半霊命の交雑は禁忌
それが分かっていてそれを諦めきれなかった詩織は、神魔の言葉で自分がさらに胸に秘めた想いを強くしていることを確信する
嬉しくてたまらないのに、寂しくてつらい――許されざる想いの狭間で揺れ動き、涙を浮かべる詩織の姿を見つめる桜は、その美貌を物悲しげに綻ばせて微笑むと、ゆっくりと震える小さな肩に寄り添うのだった
※
「『神獄』――『ヘイルダートの悪夢』の決戦の地。その事変によって散った数多の者達が眠る墓標」
洋上から降り立ち、苔むした大地を踏みしめた真紅は、眼前に広がっている光景を見て、感慨深げに呟く
その目の前に広がっている荒野と歪な形で崩れた山脈には冥界の草木が自生し、かつての大戦の跡を生態系の勢力図で塗り潰している。そしてその山脈の一角に、明らかに異質な――苔も生物も感じられない神殿のような建造物が、大きく斜めになって突き刺さっている
ここは、「屍海」と呼ばれる冥界の海の一角にある極めて毒性の強い海にある大陸の一つ。大地としての大きさはさほどではないが、ヘイルダートの悪夢最終決戦の地として九世界史に刻まれている場所。
そこに突き刺さっている巨大な神殿こそ「神獄」。ヘイルダートの悪夢の際に呼び起され、その戦いの果てにこの地に堕ちた〝神の監獄〟だ
「懐かしいだろう、夜薙。お前の姉が死んだ場所だ」
十世界の死神達を従えて荒野に近い大地を進む真紅は、地面に突き刺さったまま劣化はおろか、汚れ一つさえもない神獄を見ながら声をかける
「――ッ」
その声を受けた夜薙は、冥力の球体へと封印された状態で唇を引き結ぶ。夜死を突き落としたことで、夜薙を拘束する役目は皮肉にもかつての親友である鎖牙へと変わっていた
「帰ってきたぞ、椎稲」
その言葉を聞いていた鎖牙は、その表情に懐古と哀愁の念を浮かべると、誰にも聞こえないような小さな声で独白する
神獄を見る死神達の反応は様々。かつての事変の跡地に想いを馳せる者、無関心を決め込む者、観光気分でいる者――そして、これから自分達が成すことへと思いを馳せて意識を昂ぶらせる者。しかしその中で一人だけ不満を滲ませた人物がいた
「オイ真紅。その女はさっさと殺して、神器を取り出した方がいいんじゃないのか?」
鎖牙に封印させたまま、夜薙を連れていることに夜半が不満を見せる
真紅と夜半の計画の要である神器「融神器」は、夜薙という存在と融合してしまっており、全霊命の力では分離させて取り出すことはできない
夜薙を愛梨に差し出さない以上、融神器を取り出すためにはそれが融合している身体の方を破壊する以外にはないのが現状だ
「――そういう訳にはいかないらしい……」
その言葉に夜薙を封じ込めた冥力球を一瞥した真紅は、自分に返される鎖牙の三つの視線を見て口端を緩める
鎖牙が真紅へと向けるその三つの目は、夜薙の命を奪うことに対し、顕著な反対の意思を示していた
「鎖牙……」
それを見た夜薙が封印の中で独白すると、鎖牙は一度だけ三つの視線を向けて、抑揚のない声で言う
「勘違いするな。お前はシキトを吊る餌だ――あいつと戦うためには、まだ生かしておく」
シキトと戦うため――決着をつけるために、夜薙の生存を必須のものと考えている鎖牙はそう答えるとその足で強く地面を踏みしめる
「真紅」
「なに。逃がしさえしなければ、いつ殺しても同じことだ。それに、鎖牙には神獄の入り口を守ってもらう。そこからは自由にすればいいだろう?」
その様子を見て不満の声を発した夜半に、真紅は肩を竦めて答える
今の鎖牙の目的はシキトと決着をつけること。ならば、入り口で待ち構えるのが最善の手段であるのは間違いない。ならば肝心の夜薙と神器の方は、入り口で受け取ってから対処すればいいだけのことだ
「チッ」
その言葉に忌々しげい舌打ちをした夜半の言葉を背中で聞いていた真紅は、浮かべていた薄笑を消し去ると、その手を漆黒へと染め上げていく
「それより、そろそろ気を引き締めた方がいい」
そう言って自分自身の身体そのものを武器とする特異型武器の力を発現させた真紅は、血管を思わせる赤い光線が入った黒い腕を軽く振るう
瞬間、武器として硬化した真紅の拳が空中でなにかを捉えて炸裂し、激しい衝撃音と共に、衝撃波で大地を揺り壊す
「――この辺りからは、奴らの狩場だ」
硬化した手の平から伝わってくる衝撃を三つの目で一瞥した真紅は、険しい表情で人影さえ見ることのできない荒野を見る
真紅がそう言った時には、すでに神獄を背にして佇む一人の女が二メートルはあろうかという刀身を持つ太刀を手に、真紅達の進路を塞いで佇んでいた
腰まで届く長い紫紺色の髪を後頭部で束ね、その髪を束ねる半透明のヴェールが幻想的な雰囲気を高めている
その身に纏うのは、羽衣を思わせる緋花のショールの下に巫女服に似た赤と白の衣を重ねる霊衣。足に履いた黒塗りの木履下駄で地面を踏みしめて立つその姿は、目を奪われるほどに美くしく、それでいて、命を吸い取られる様な恐ろしさがあった
「『八宵』」
目の前に佇む人物の名を呼んだ真紅に、八宵と呼ばれた女性は死神の証である三つの視線を返し、そして紅で彩られた口端をかすかに吊り上げる
「真紅。私達は冥界王様からの命を受けています。夜薙を置いてここから立ち去りなさい」
優しく微笑んでそう語りかける八宵だが、その瞳と声音は絶対零度の殺意を帯びており、そこに込められた強い意志を感じさせる
「『無言』の一人……!」
目の前に現れた冥界王直下の最強の死神の一人を前に、真紅の背後にいる死神達から、少なからず同様の声が上がる
「神獄は、ヘイルダートの悪夢の決戦の地。そして、俺達が目的とするものがある場所だ。この程度の護衛がいるのは当然だろう」
そんな死神達の反応を嘲笑うように鼻を鳴らした夜半は、その手に顕現させた自分の武器である鎌を振り翳す
刹那、その鎌の刃が、結界に拘束した夜薙の傍らに立つ鎖牙の間近で衝撃波と金属音と立てて弾かれる
「――ッ」
「油断するな。あいつは、私達と言ったんだぞ」
その攻撃に反応さえできていなかった鎖牙が目を瞠る中、夜半はそれを感情の欠落した低い声で窘めると、その視線を先程の攻撃が飛んできた方へ向ける
「――ガッ!?」
しかし次の瞬間、断末魔のうめき声をあげて死神の一人が崩れ落ちる
音もなく、気配もなくその命を絶たれた死神の男が膝を突き、天を仰いだまま冥力の残滓となって崩れていくのを見た夜半は、その眉間に空いた穴を見て息を呑む
「――っ!」
(これは……そうか。「無音の攻撃」、「死角のない全方位からの暗殺」。ここを守っているのは――)
その特徴的な必殺の攻撃の痕を見た夜半は、自身の知識の中に在るその人物を即座に結び付けて、重い口を開く
「荼毘」
「……冥とシェオルの息子か」
重厚な声で紡がれたその名を聞いた真紅は、目の前の八宵へと意識を向けたまま周囲へと注意を傾ける
「一弔あがり」
そのころ、真紅達の同行を、はるか離れた山の影から見ていたその人物は、その手に携えた長い砲身の黒銃を構えて口端を吊り上げる
その銃の砲身の先端は、さながら竜の顎のよう。そしてその持ち手からは金属質の尾のようなものが伸びている――それは、まるで銃の形状をした生物のようだった
死神の証である三つの目を隠すサングラスに隠されていた瞳は、深い紫。逆立った黒髪に、ファーのついたコートを思わせる闇色のコート
口に咥えたキセルから紫煙を燻らせながら笑うその男こそ、冥界王冥と、その伴侶シェオルの息子にして、無言に名を列ねる死神――「荼毘」だ
「――さァ、次だ」
十世界に所属する死神の一人に死を与えた荼毘は、静かに嗤うと再び三つの目を隠すサングラスをかけてその銃口を向ける
「油断するな。荼毘の狙撃があるぞ!」
無言の一人に名を列ねる荼毘は、九世界最高の狙撃手。全霊命には滅多にいない銃型の武器「黒葬・〝絶〟」を持ち、知覚すら叶わない冥力を持って、不可視の弾丸で命を奪う暗殺者だ
「――荼毘にばかり、気を取られていていいのですか?」
「!」
真紅が声をあげ、周囲にいる全員に声をかけた瞬間、その眼前には身の丈にも及ぶ太刀を手にしたもう一人の死神――八宵は滑るようにその懐へと入り込んでいた
「チッ!」
神速で振り抜かれた刃を硬化した腕で受け止めた真紅は、そのまま反対の手に顕現させた太刀で八宵に斬撃を放つ
紅い光が血管のように走る真紅の刃を流れる様な動きで回避して見せた八宵は、舞うように回転すると同時に、長く伸びた刀を振りぬく
八宵の手に握られた太刀は、元々二メートル近い刀身を持っていた。だが、神速で交わされた刹那の瞬きさえ介在しえない攻防の中で、その刀身はメートルなどという単位では利かないほどに長く伸びていた
「はッ」
裂帛の声と共に、見渡す限りの大地を薙ぎ刈って平らにしてしまえるであろうほどに長く伸びた刀身が神速で振り抜かれる
刀身の先端まで万遍なく、一片の隙もなく冥力を通わされた八宵の斬撃を真紅の手のひらから生えた刀が受け止め、相殺された神格の意思が大地に亀裂を走らせる
知覚こそできなくとも、それが全霊命として最高位に近しい神格を帯びた神能同士の衝突であることは、その場にいる全員が理解している
真紅が防いでいなければ、この場にいる大半の者達が、八宵のこの一振りで身体を両断され、命を落としていただろう
その事実を理解し、表情を強張らせる同胞たちの視線を背に受けながら、純然たる殺意を乗せた冥力同士をせめぎ合わせる真紅は、長刀を持つ八宵と視線を交錯させる
「久しぶりに見たな、お前の『地平閃』を」
「手の内を知られた相手と戦うのは、難儀ですね」
自身の武器が持つ、刀身を伸ばす力を知っている真紅を見て微笑を浮かべた八宵だが、その表情には余裕すら見て取ることができる
それを訝しむ間だと与えず、八宵がその頭を軽く傾けると、そこから荼毘が放った不可視の弾丸が真紅の頭部へと撃ち込まれる
「――!」
知覚のできない冥力で構築された、全霊命にさえ見ることができない不可識の弾丸が炸裂し真紅の身体がわずかにぶれる
だが、この程度で真紅を斃せたとは八宵も荼毘も思っていない。現に、衝撃波が炸裂し、空間がひび割れる様な衝撃をまき散らしたそこから現れた真紅の頭部には、弾痕はおろか、血炎さえ見て取ることはできない
「この――」
咄嗟にその頭部を武器化して防いだ真紅が八宵の斬撃を阻むのを見て、その後方にいた十世界の死神の一人がその手に凝縮した冥力を放つべく、先程の狙撃があった方向へと向ける
「よせ」
しかし、その攻撃を阻んだのは、他でもない真紅だった
「弾道からでは、荼毘の位置は割り出せない。その方向に攻撃を仕掛けたところで無意味だ」
「!」
その言葉に、今まさに冥力砲を放とうとしていた死神は、それを中断して手を下ろす
無言の一人でもある荼毘が、そんな簡単な手段で封殺できるはずはない。狙撃の暗殺に長けた荼毘の神速の弾丸は、まっすぐには飛ばない
攻撃された方向から軌道を逆算し、その方向に攻撃を放ってもそこに荼毘本人がいることは滅多にない。その攻撃が直線ばかりではない上、荼毘自身も死神の特性を生かして誰にも知覚されず移動するのだから当然と言えば当然だが
「それにしても、冥も酷なことをする。たった二人で俺達を――いやあいつを足止めしろと言うのだからな」
そのやり取りを背に、八宵と刃を交える真紅は、時折来る荼毘からの狙撃を自身の冥力の砲撃や武器での投擲で相殺しながら言う
真紅の視線が訴えるのは、背後にいる夜半の存在。夢の神の神片を持つ夜半は、いかに無言に名を列ねる死神であっても、足止めすらできないだろう
まして、今ここにいるのはたった二人。大半の無言を冥界王城に残した状態でこのメンバーを足止めするのは限りなく不可能だと言わざるを得ないだろう
「冥様はそのようなことを命じると思いますか?」
真紅の言葉を静かな声で否定した八宵は、冥力の猪鼻を散らせた斬閃の越しに酷薄な笑みを浮かべる
幽幻のような存在感に映える真紅の紅で飾られた唇が笑い、八宵は怪訝そうに眉を顰めた真紅に語りかける
「私達が冥様に命じられたのは、先程の通告をあなたに告げることだけ。その先の戦闘は、私達の独断です」
神片に勝てないことを知っているからこそ、冥は二人に戦っての足止めなどは求めていない。この通告に応じない場合は即座に退却するようにと命じていた
「何のために?」
「少しでも時間を稼げればいいでしょう? ただでさえ、あの冥宮を抜けるのは容易ではないのですから」
剣呑な真紅の視線と言葉に、八宵は「何を分かりきったことを」と言わんばかりに笑いかけて自在に伸縮する斬撃を放つ
真紅達が目指す神獄は、全霊命でさえ攻略が難しい迷宮になっている。そこを容易に抜けられないことを知っているからからこそ、冥は短いながらも休息の時間を取ったのだ
それを分かっていたからこそ、真紅は二人の足止めを無駄だとし、それが分かっているからこそ、八宵と荼毘はその足止めさえもが有効だと考えていた
「――まったく、とんだ忠臣の親不孝者だな」
それを見ていた夜半が薄く笑ったのを八宵の間合いの存在しない攻撃を捌きながら感じ取った真紅は、一瞥さえも向けずに言う
「殺すなよ」
抑揚のない低い声で釘を刺す真紅の言葉を聞いた夜半は、単身で二人の無言を封殺しているその背中に不適な笑みを送る
「随分と未練があるらしいな」
シェオルは、真紅が想いを寄せてきた人物。例え、冥との間にできた子とはいえ、想いを寄せる人物の血を引く者を殺めることには幾許かの抵抗があるだろうと語っているかのような視線だった
「無益な殺生は、姫が望むところではない。精々動けなくなる程度に痛めつけるだけにしておけ」
しかし真紅は、そんな挑発的な夜半の言葉に眉ひとつ動かさず、無機質な声音で至極もっともな理由を返す
十世界の目的は「世界の恒久的平和」。そして盟主である愛梨は、戦いを好まず、可能な限りの犠牲を望んではいない
ならば、ここで屍を積み上げることは十世界の理念に反する。姫への忠義を尽くす真紅ならば当然の答えだともいえる――少なくとも建前の上では
「まあいい。今回の俺は、お前の協力者だからな」
その言葉を信じながら、決して信じ切っていない様子で答えた夜半は、鼻を鳴らしながら答えると、自身の存在に宿った夢神の眷属にして、欠片なるものを呼び覚ます
「――悪運が強かったな」
※
「神獄」。かつてのヘイルダートの悪夢の戦いの中でも崩壊することなくその形を留め、傷一つない神秘の神殿の奥――そこには、およそ建物の中とは思えない木漏れ日に照らされる静かな湖畔が存在している
凪いだ透明な湖。一面を覆う緑の絨毯と、新緑の並木――生命の息吹に満ち、静寂と安らぎに包まれたその空間に、一人の天使がいた
「――いつ以来でしょうね。ここに侵入者が入ってくるのは」
神獄の門が開かれたことを察し、静かに天を仰いだのは、白を基調とした着物とドレスの特徴を併せ持つ霊衣に身を包む三対六枚の翼を持つ美しき女天使
腰まで届く、癖のない桃白色の髪。全霊命特有の現実離れした幻想的な美しさを持つ整った美貌がたたえる優しげな面差しは、その人物の深い包容力と慈愛を感じさせる
前髪の左側に飾られた花と羽を合わせた様な髪飾りを、室内を満たしている陽光に輝かせるその天使は、静かにその瞼を伏せて、花弁のような唇から春風のように澄んだ声を紡ぎ出す
「――『邪神』様」
その人物が佇む透明な湖畔の下。そこには、暗黒色の結晶体が穏やかな清水に包まれて鎮座していた