変わりゆく日常
その日の夜。パジャマに身を包んだ詩織は、湯上りでほのかにシャンプーの甘い香りを立ち昇らせている濡れ髪をタオルで包んでリビングに入る
「……神魔さん」
リビングに入って詩織の目に真っ先に入ったのは、部屋に置かれているソファに腰掛けて食い入るようにしてテレビに見入っている神魔の姿。
それを見た詩織は、慌てて風呂上りの自分の身だしなみを確認すると、湯上りだからだけではない頬の赤みと、心身の火照りを隠すように神魔に微笑む
「何ですか?」
「神魔さんって、テレビ好きなんですね」
「? ……そうだね、この世界の事が簡単に勉強できるからね。それに結構面白い番組もあるし……本当に人間って面白い物を作るよね」
詩織の言葉に一瞬怪訝そうに首を傾げた神魔だが、それについて特に言及する事無く、すぐにその質問にまるで子供のように無邪気に微笑みながら応える
子供のような無邪気さと、大人の落ち着いた深みのある空気を同時に纏って優しく微笑む神魔の笑みを受けた詩織は、自分の胸が強く鼓動を刻んだのをはっきりと感じ取っていた
(っ! ……やだ、私またドキドキして……)
「そ、そういえば九世界にはこういうものはないんですか? 産業が発達しないって言ってましたし……」
胸の高鳴りを神魔に気付かれないように詩織は咄嗟に夕食の時に話していた「あまりに優れた力を持つが故に、全霊命が支配する世界では産業が発達しない」という話を思い出して懸命に取り繕って話を逸らす
「そんな事ないよ。人間界がこういうのを作ってるから」
「ああ、なるほど」
(よかった……特に変には思われてないみたい)
普段と変わらない様子で答え、再びテレビに視線を戻した神魔の様子を見て、詩織は内心でほっと一息つくと笑みを浮かべてその横顔に視線を送る
(そういえば、神魔さんは私の事どう思っているのかな……)
いつの間にか無意識に神魔の姿を目で追ってしまうようになっている詩織は、その横顔を見つめながら、ふと心にささやかな――しかし看過する事の出来ない一つの疑問を抱く
《大丈夫。詩織さんは僕が守るから》
《僕は詩織さんの笑顔も守りたいから悲しむような事はしないよ》
《僕は詩織さんを守るって自分で決めてるんだ》
脳裏に甦ってくるのは、これまでにかけられた神魔の意味深な言葉。その一つ一つが詩織の心の奥に残っている大切な言葉であり、それを思い出すだけで心が温かくなり、頬がわずかに火照ってくる
(もしかして、神魔さんも私の事好きでいてくれてるのかな……?)
そんな事を考えると、都合がよすぎると思いつつも、その淡い期待が事実であってほしいという気持ちばかりが強くなっていく
現に神魔はいつも自分を大切に守ってくれる。そう感じている詩織の思いは決して気の所為だけではなく、多感な年齢の少女がその言葉や姿を特別な意味で取る事はむしろ自然な事だとも言える
「あ、あの……」
そこまで考え、思いついてしまった詩織は、それを確かめたいという衝動を抑える事ができなくなり、意を決してテレビに視線を向けたままの神魔に声を向ける
「もしも神魔が自分と同じ気持ちでいてくれたら」そう考えると胸が高鳴り、自然と頬が赤くなってしまう
「そういえば聞きたい事があったんですけど……」
出来るだけ平然を装い、不意に思いついたように話しかける
「何ですか?」
「……神魔さん前に言ってたじゃないですか? 私の事守ってくれるって」
逸る気持ちを抑えてあくまでも不意に思いついた疑問を確認するような口調で神魔に話しかける
「ああ、そうだね」
詩織の言葉に神魔は一瞬思案するような表情を見せる
そんな神魔に詩織は駄目押しをするように出来るだけ自然な形で、神魔の自分への気持ちを確かめるための言葉を口にする
「何でですか? 大貴は光魔神だから分かるけど、何で私も……?」
クロスとマリアは現在九世界の存在するモノの中で最強の力を持ち、九世界の一つ「人間界」を支配する人間の創造主である異端なる神。だからこそ、「光魔神」である大貴を天使である二人が守るのは十分理解できる
しかし詩織は、あくまでもその光魔神である大貴の姉という立場でしかない。極端な話をすれば、九世界にとっては「光魔神の姉」以上の価値のない人物だ。しかしクロスやマリアと違い神魔は詩織を常に意識している
(どうして……? 神魔さんの気持ちが知りたい……!)
真っ直ぐ真剣に見つめる詩織の視線に神魔は一度目を伏せてから優しく微笑みかける
「……それを言うと詩織さんを困らせる事になっちゃうから」
「え……?」
そう答えた神魔の表情は少し困っているかのようで、照れているようにも見える
(それってどういうこと!? もしかして……!?)
神魔のその言葉に、詩織の心の中でほんのわずかな期待と疑念が生まれる
もしかしたら自分と同じように、神魔も自分に特別な感情を抱いてくれているのではないか。――そんな考えに不思議と胸が高鳴り、何の根拠も無い空想でしかないその考えに影響されて、心が熱を帯びるのが自分自身で分かってしまう
「そ、そうですか……じゃあ、私は部屋に戻りますね」
「……はい」
顔を火照らせ、ややぎこちない動作で反転した詩織が部屋に帰っていく姿を見送って神魔は再びテレビに向かい合う
「……僕の気持ちは詩織さんには教えられないよ。詩織さんを傷つける事しか出来ないんだから……」
そんな神魔の言葉はただ静寂の中に呑み込まれていった
※
翌日。大貴、詩織、マリアが学校へ登校すると一足先に教室にいた刀護が三人の姿を見止めて近づいてくる
「大貴! 今日の一時限目は体育だぜ?」
「……知ってるよ」
親しげに話しかけてきた刀護に大貴は静かに言葉を返す
「今年一番の勝負は俺が勝たせてもらうぜ?」
「……ああ」
「薄っ! 反応薄!」
淡白に返した大貴の反応に刀護は思わず声を上げてしまう
「あの二人って……そういうご関係なのですか?」
その様子を見ていたマリアは隣にいる詩織にそっと顔を寄せて小声で尋ねる
「ああ……何ていうかそんな感じ? 刀護君って運動もかなり出来る方だけど、大貴もアレで意外に出来てね。――刀護君は、なんか一方的に意識してるみたい」
「……はぁ、なるほど。この世界でも男の人というのは、そんな感じなんですね」
詩織の説明にマリアは表情を緩めて微笑む
大貴と刀護――二人の姿にクロスを重ねているなど、マリアの表情を見れば一目瞭然だったが、詩織はあえて何も言わずに苦笑を浮かべる
「ハハ。まあ、子供っぽいというか……ね」
「とはいっても、二人の戦績はほとんど五分だからね」
「っ、ポピーちゃん……!」
その会話に背後から声をかけてきた芥子に気付き、詩織とマリアは視線を向ける
「競技や種目ごとに勝負してるみたいだから、得手不得手はあるしねぇ。あの二人の身体能力はほぼ互角だから」
「……なるほど」
芥子の説明にマリアは小さく息をつく
体育には当然多種多様な競技があり、人には得手不得手がある。基本的な身体能力が似通っている二人の勝負は当然熾烈を極めるという事になる
「さて、どっちが勝つか賭ける?」
「勝ったら?」
「ロイヤルパフェ」
芥子の提案に詩織の瞳の奥に獲物を狙う獣の光が宿る
ロイヤルパフェとはこの界隈では有名なスイーツ専門店「ラ・サントビーブル」が出している最高級のパフェだ。選び抜かれた食材を用い、贅を尽くしたそのパフェはサイズこそ普通だが普通のそれの倍以上の値段を誇る。
「じゃあ大貴に」
「ほほう。無難に兄弟に賭けて来たわね? マリアはどうする?」
「私は遠慮させていただきますよ」
「……そ。じゃあ、不本意ながら私があの馬鹿に賭けないといけないわけね」
マリアが不参加となれば詩織が大貴に賭ける以上、芥子は刀護に賭けなければ賭けが成立しない。
もっとも実力の拮抗した二人の勝率は五分だなのだから勝敗を分けるのは運だけだ
(……これが友達というものなのですね)
そんなやり取りをしている大貴と刀護、詩織と芥子を見てマリアは穏やかな笑みを浮かべる
そしてその数時間後、一時限目の体育の開始と共に白い体操着に青いハーフパンツという出で立ちをした男女合わせて四十名ほどのクラス全員が運動場に集合する
後ろで束ねられた金色の髪が青い空に揺れ踊り、風と一体となって疾駆するマリアは目の前に置かれたバーの手前で力強く踏み切り、その細くしなやかな身体を宙に舞わせる
「…………」
その身体が三日月のように反り、二本の柱に支えられたバーの上を鮮やかに通過していく
細くしなやかな身体を大きく反らせ、金色の髪を日の光に煌めかせたマリアは日の光に照らされ、神々しいほどの美しさを見る者の目に焼きつけ、その心を奪う
「……ふぅ」
「すごーい!」
「マリアさん。綺麗ですね」
まるで重力など存在しないかのように地面に下り立ったマリアに詩織が感嘆の声を上げるとその言葉にマリアはわずかに頬を染めて恥じらいの表情を浮かべる
「ありがとうございます」
「本当に驚いたよ。あんなに軽々と……もしかして日本記録でも狙えるんじゃない?」
「本当。マリアちゃんってすごく運動できるんだね」
芥子の言葉に周囲にいたほかの女生徒達も声を上げる
(まあ、マリアさんが本気出したら世界記録だって……)
その様子を見ながら詩織は内心でそんな事を呟く
今は人間の姿を取っているがマリアの正体はこの世界において最も神に近い存在である全霊命の天使だ。その能力は物理法則など全て無視し、光よりも速く動く事ができる
今は抑えているが、本気を出せばこの星の人間が出した世界記録など足元にも及ばない成績をたたき出す事など容易なことだ
「いえ、そんな事は……」
(それに人間の姿になれるって言っても私はゆりかごの人間じゃなくて……)
「――っ!」
周囲の賞賛の言葉に恥らいながら答えていたマリアは不意に目を見開く
(しまっ……)
「……マリアさん?」
目を見開いたマリアの様子に詩織は怪訝そうに眉をひそめる
目を見開いたマリアは身体を捻り、男子生徒たちが体育をしている辺りに視線を向ける
「……どうしたんですか?」
「っ! いけないっ……!」
詩織の言葉など耳にも入らない様子でマリアは小さく目を見開く
マリアの視線の先では男子生徒が徒競走をしているらしく運動場のトラックに大貴と刀護、そして数人の男子生徒が並んでいた。
そしてドラックの内側では黒色のジャージを着て胸に笛を下げた中年の体育教師の合図を待っていた
「位置について……」
「この戦いは勝たせてもらうぜ? 大貴」
「……言ってろ」
不敵に笑って準備する刀護に大貴は苦笑混じりに答える
「よーい……」
教師はそこまで言うと胸に下げていた笛を口に加えて空気を力の限り吹き込み、空を劈く高い音を響かせる
その瞬間、その光景を見ていた全ての人間が目を見開いた
「……え?」
全員が目の前で起きた光景に目を見開く
体育教師が笛を吹き鳴らし、一斉に地を蹴って駆け出した生徒達の中で大貴は瞬き一つほどの一瞬でゴールラインを通り越していた
「なっ……!?」
一瞬でゴールラインを通り越した事が自分自身で信じられないのか大貴は驚愕に目を見開く
一瞬にして通り過ぎてしまったゴールラインを肩越しに振り返って大貴は自分に起きた事態に思考を巡らせる
(どういうことだ……!?)
「……すご……っ」
その様子を見ていた詩織は思わず言葉を呑む
「今の見えた?」
「タイムは!?」
「……いや、気付いたら通り過ぎてて……」
教師の言葉に計測をしていた生徒が呆然とした様子で言う。声が小刻みに震えているのは気のせいでは無いだろう
何しろ教師がスタートの合図の笛を吹いた次の瞬間に目の前を通り過ぎていたのだ。まるで目の前を戦闘機が通過したようなものだろう
「でも、先生。今のどう見ても一秒切ってた様な……」
「馬鹿言え! 五十メートルで一秒切ったら時速何キロだと思ってるんだ!?」
強い語気で否定の言葉を述べる教師の顔は青褪め、その言葉も引きつっている。それはさながら、自分の目で見た信じられない光景を懸命に否定し、納得しようとしているかのよう。
しかし、そんな事をしても、大貴が見せつけた速さが異常であり、正確に測定されていれば確実に世界記録を大幅に更新するほどのものだった事は誰の目にも明らかだ
「……っ」
「マリアさん!?」
周囲がざわつく中で視線を向けた詩織の目の前で、マリアの背中から純白の四枚の翼が出現する
同時に世界が空間ごと切り離された
「これは……」
切り離された空間に大貴が周囲を見回すと、そこにいたクラスメート全員が動きを止めているのが目に入る
「……空間を切り離して大貴さんと詩織さん以外の人の時間を停止させました」
「マリア……」
その言葉に視線を向けるとマリアが二対四枚の白い翼を羽ばたかせて大貴の元にゆっくりと降りてくるところだった
「マリアさん。これって一体……!?」
マリアの言葉の通り、マリアと大貴以外でこの場で動いている唯一の人間、詩織が息を切らせながら駆け寄ってくる
「申し訳ありませんが話をするために時間を停止させて頂きました。……私とした事が迂闊だったのですが、大貴さんはこれから全力を出さないで下さい。そうでないと先程のようになってしまいます」
その言葉に大貴と詩織は一瞬でゴールラインを切った大貴の姿を思い出す
「さっきのアレはどういうことなんだ!? 俺は別に何も……」
動揺を隠せない大貴をマリアが制する
「落ち着いてください。私は人間の姿になる事が出来ますが、あの姿は正確にはこの世界の人間ではなく、光魔神の力に列なる正統な人間の姿なんです」
「――っ!?」
語気こそ普通だが、明らかに動揺している大貴と詩織は、それを沈めるために紡がれたマリアの言葉に息を呑む
「そうなんですか?」
光魔神によって生み出された九世界の一つ――「人間界」を支配する真の人間は、このゆりかごの世界である人間と姿こそ似ていても全く別の存在。
故に外見こそ変わっていても、光魔神へと覚醒した大貴の身体は、このゆりかごの人間のそれから、自身の力に列なる正当な人間のそれへと変化している
「ええ。九世界の人間はこのゆりかごの世界の人間よりも高位の半霊命です。だからその能力はこのゆりかごの世界の人間とは比べ物にならないんですよ」
「ああ、だからあんなに運動できたんですね……」
マリアの言葉に詩織はマリアの運動能力と突如飛躍的に上昇した大貴の能力に納得して頷く
同じ半霊命でも人間界の人間とゆりかごの世界の人間ではその存在の格が違う。そのため容姿こそ似ていてもその能力は別格なのだ
「大貴さんも同じです。光魔神として覚醒した事でゆりかごの世界の人間としての大貴さんの存在を光魔神としての大貴さんの存在が上書きしているのです」
「……!」
マリアの言葉に大貴は息を呑む
「それってどういう意味ですか……?」
「ゆりかごの世界の人間としての大貴さんの存在はすでに失われているという事です」
「――!」
マリアの言葉に大貴と詩織は目を見開いた
「それって、つまり……」
「ゆりかごの人間だった大貴さんの存在は光魔神としての覚醒によって存在の構成そのものを書き換えられているのです。
本来全霊命が半霊命に成る事は出来ないのですが、光魔神は自身の存在を自分の力に列なる者である人間に変える得意な能力を持っていたようですから今の人間の姿を取る事ができるのですよ」
「そういえば、マリアさんが人間になれるのにクロスさんや神魔さんはいつも天使や悪魔の姿のままですね……」
マリアの言葉に詩織は家にいる神魔とクロスの姿を思い出す。
マリアは人間となって学校生活にまで侵入しているが、同じ天使であるクロスは常に天使の姿をしており、人間の姿になったところを見たことは無い
「通常、全霊命が半霊命になる事も、その逆もありえません……私や大貴さんの能力が特別なんです」
マリアが言う
神魔やクロスが人間の姿を取らない理由は至極簡単。「ならない」のではなく、「なれない」からに他ならない
「何しろ、わざわざ弱くなる必要などありませんからね」
「……確かに」
マリアの言葉に詩織は頷く
そもそも存在として限り無く最強に近い全霊命がわざわざ自分たちよりも弱い半霊命になる必要など無く、基本的にそんな能力を持っている者のほうが稀有だ
「心配しなくても、魂や中身そのものは大貴さんのままで変わることはありませんよ。大貴さんは大貴さんのままです」
「そう、なんですか? でも……」
マリアの言葉に、わずかに言葉を詰まらせる詩織は、思いもよらぬ事実を告げられた大貴を案じて視線を向ける
「……大貴」
突然、自分が人間ではなくなってしまったと言われて動揺しないはずはない。そこに佇む大貴は、一見いつもと変わらないように見える。
しかし、いくら中身は変わらないと言われてもやはりそのショックが隠しきれていないのは、詩織の目には明らかだった。
「…………」
(……そうか、何で今まで気付かなかったんだろうな……全霊命は存在の力が魂と身体そのもの……そうなった時点で俺はこの星の人間として死んでたんだ……)
マリアと詩織の話などろくに耳に入らない様子で大貴は視線を落とす
全霊命はその存在そのものを神能によって構成された存在。その霊の部分と物理である肉体を有す半霊命とは根本から異なる存在
大貴が光魔神として覚醒したあの日。大貴の存在は光魔神という全霊命として昇華され、光魔神の能力で人間になっていたに過ぎない
全霊命にとっては能力を制限する枷でしかない物理で構成された肉体は覚醒時に不要なモノとしてこの世から消滅していた。
今ここにいるのは人間の姿を取った光魔神。……光魔神を宿した人間ではないのだ
「大貴は大貴だから」
力を振り絞るように言った詩織の言葉に、大貴は視線を向ける
「……姉貴?」
「慰めにならないかもしれないけど! 余計なことかもしれないけど! 何にも分かってないかもしれないけど……知った風な事を言ってるって思われるかもしれないけど。……でも私にとって大貴は大貴。私の双子の弟だから」
安い慰めの言葉であることは詩織も十分分かっている。結局はこの星の人間である詩織に大貴の気持ちを推し量るなどは出来ない
それでも詩織は伝えたいと思ったのだ。自分の気持ちを。大貴が大貴であるという事を
「……なんだよ、それ」
詩織の言葉に大貴は呆れたような、自嘲するような笑みを浮かべる
「まあ……今はそれで慰められておいてやるよ」
「うん」
自嘲混じりに笑って言った大貴の言葉に詩織は満面の笑みを向けて微笑む
(まだゆりかごの毒は抜け切っていないみたいだけど……やはりあの話はしない方がいいのでしょうね……神魔さんもクロスさんも話してないみたいですし……)
その様子を見てマリアは小さく微笑む
「あ、そういえば……マリアさん」
ふと気付いたように詩織はマリアを見る
「何ですか?」
「前から思ってたんですけど、マリアさんはどうして人間の姿になれるんですか? 大貴は光魔神だからっていうのはわかりましたけど……」
「!」
詩織の言葉にマリアはわずかに目を細める
「……今からここにいる人たちの記憶を改竄して先程の記憶を消去します。大貴さん、これからは加減してくださいね」
「あ……あぁ……」
詩織の質問に答える事無く話を始めたマリアに二人は怪訝そうな表情を向ける
(姉貴の話を聞き流した……?)
(あれ……? もしかして聞いちゃいけないことだった……?)
そんな二人に背を向けたマリアは、その表情を一切変えず、しかしそれ以降言葉を発する事もなくその背にある純白の四枚の翼を広げた
その日の夜……界道家のリビングでは全員が集まって談話をしていた
「…………」
リビングのソファに腰掛けている神魔に詩織は恋する乙女の視線を向ける
(やっぱり、気になる)
詩織の頭の中にあるのは神魔の言葉
「どうして守ってくれるの?」と問いかけた詩織に神魔は一言で答えた
《それを言うと詩織さんを困らせる事になっちゃうから》
その言葉に詩織は胸の高鳴りが押さえられない
(だって私は……)
自分の気持ちはもう分かっている
自分が今神魔に恋をしていることくらい自覚している
しかし人を好きになった事はあっても恋人が出来たことのない詩織にはその気持ちを伝えるべきかどうかという迷いがある
(もし……神魔さんが私の事好きだから気にして守ってくれてるなら……)
そんな打算的な、楽観的な考えが頭をよぎってしまう
(我ながら何て情けない……でも)
気持ちを伝えられない自分に若干の自己嫌悪を抱きながらもその心の高鳴りは止められない
「詩織」
「きゃあっ、ってお母さん」
不意に耳元で聞こえた声に反射的に声を上げてしまった詩織に声をかけた張本人である薫は意地の悪い笑みを浮けべる
「詩織って神魔君のこと好きでしょ?」
「え!? な、何で……?」
薫の言葉に詩織は顔を赤らめて動揺を隠せずにしどろもどろする
「見れば分かるわよ。まあ、お父さんや大貴が気付いているかは分からないけど女同士だもの」
「……うぅ……」
詩織の倍は女として生きている母の目をごまかす事は出来ないと観念したのか詩織は顔を赤くしたままうな垂れる
「我が娘ながら初心で可愛いわねぇ、で? どこまで進んでるの?」
意地の悪い薫の言葉に詩織は消え入りそうな小さな声で囁くように言う
「そんなの……全然……」
「私が見たところ神魔君は微妙よねぇ」
「微妙?」
薫の言葉に詩織が問い返す
「少なくともクロス君やマリアちゃんと比べると詩織の事を特別に扱ってるとは思うけど好きなのかっていうと……ねぇ?」
「うん」
自分と同じ事を感じていたらしい母に感心しながらも詩織はわずかに頬を赤らめて薫に視線を向ける
「これはもう確かめるしかないんじゃない?」
「確かめる、って……」
「好きかどうか神魔君に聞くのよ」
薫の言葉に詩織は顔をさらに赤らめる
「そ、そんな事できるわけ……それに神魔さんは悪魔だし……」
「あら、そんな事些細な事でしょ? 詩織が本当に好きなら、お母さんは応援するわよ?」
「……っ」
薫の言葉に詩織は一層顔を赤らめて神魔に視線を向ける
「何なら私が聞いてあげましょうか?」
「え……?」
薫の言葉に詩織は軽く目を見開く
一瞬の逡巡が生まれる。好意を寄せる相手の気持ちを誰かに聞いてもらう事と怖くても勇気を出して伝える事……どちらがいいのかと頭の中で考えをめぐらせる
「いい。自分の気持ちは……自分で伝えるから」
「それでこそ、我が娘ね」
詩織の言葉に薫は満面の笑みを浮かべる
「…………」
(もう、これは見過ごせませんね……)
その様子を見ていたマリアは、ゆっくりと立ち上がると詩織の元にゆっくりと歩み寄る
「詩織さん。少々お時間をいただけますか?」
「え? ……はい」
突然のマリアの言葉に詩織はキョトンとした様子で頷きながらリビングを後にする
「……マリアちゃんどうしたのかしら……?」
普段と様子の違うマリアに首を傾げた薫は大貴の方へ視線を向ける
「大貴何か知ってる?」
その言葉に確証がない事を言うべきか一瞬迷った大貴だったが、隠す必要はないと判断してゆっくりと口を開く
「……心当たりくらいは」
「何?」
薫の言葉に大貴は体育の時間に起きた事を簡単に説明する
「あ、そういえばそうね。そういうものだと思ってたけど……」
マリアが何故人間の姿になれるのかと問いかけた時それに答えなかったことを聞いた薫は説明を求めるようにクロスと神魔に視線を向ける
「まあ、口止めはされてないが……俺が勝手にあいつの事情を話すのもな……」
「……だね」
言い難そうに言葉を濁らせるクロスと神魔に一義が口を開く
「しかし、詩織にその事を話しに行ったのならかまわないんじゃないか?」
「…………」
その言葉にクロスは一瞬逡巡する。もしマリアが詩織に「その事」を話すつもりなら確かに話してもいいかもしれない
クロスは不意に目を閉じて頭の中で思念を送る
《マリア》
全霊命の持つ「思念会話」。神能によって一度力を認識した相手に向けて思念を焼き付けた神能を送る事で会話する事ができる能力だ。
《何? クロス》
電波などを介さない思念通話は、相手が拒否するなどの特別な場合を除いて瞬時に接続される。そのため、クロスの心の声に、マリアはすぐに返答してくる
その効果範囲は限り無く広く、空間を越えた別の世界にいるか神能によって妨害されない限り必ず届くほど。当然この家の中でなら問題なく会話が出来る
《……いいよ。私もこれから詩織さんにその話をするところだから》
事情を説明したクロスに一拍置いてマリアの返答が返ってくる
「……分かった。ならこっちから話しておく」
マリアの答えを受けたクロスは大貴達に視線を向けた
一方その頃詩織とマリアは詩織の部屋に移動していた
「あの、マリアさん……?」
詩織は窓の外に広がる夜の空を見つめているマリアに問いかける
普段とどこか違う様子のマリアに不思議と胸が締め付けられるような感覚を覚える
「詩織さんは神魔さんの事好きですよね?」
「……え? なんですか、いきなり……」
不意に背を向けたままのマリアが言った言葉に詩織はわずかに頬を赤らめる
マリアにも自分の気持ちを気付かれていたのかと恥ずかしい気持ちになるが、それを次の言葉が一瞬で打ち消す
「神魔さんの事は諦めてください」
その言葉に詩織の思考が一瞬止まる
「……え?」
自分の耳にさえ届かない心の声を漏らした詩織の声は、静かに部屋の中に溶けて吸い込まれていった。