正義の咎罪2
狭間の世界の空に時空の門が開く。神聖なる力によって作り出された時空を超えて二つの世界を繋ぐ扉から次々に現れたのは、その背に純白の翼を持つ天使達。
一対二枚、二対四枚、三対六枚――それぞれが異なる枚数の白翼を有し、その存在から生み出される神聖な神能によってまるで輝いているかのような存在感を放つ天使達は、各々の光力を具現化させた武器を手に、天を覆う光と闇の争いの中に身を投じていく
「応援が来たのか……!」
今までは拮抗――あるいは、若干押されていた光の軍勢が勢力を増したことを、雲上を移動する浮遊大陸の一つから見て取ったクロスとシャリオが安堵と歓喜の声を上げる
「あれは……」
そして、その天使の軍勢を引き連れて現れた天使の姿に、それを知覚した全ての者が息を呑む
水晶のような半透明の刀身を持つ身の丈を超える大剣を手に、腰まで届く金色の髪を風に遊ばせたその天使の名をこの世界で知らぬ者はいない
その存在から放たれる光力は、天使たちの軍勢の中にあって一際神聖にして力強く、まるで太陽がもう一つ顕現したのではないかと錯覚するような燦然とした輝き
この場にいる全てのものを平等に照らし出すその神々しく気高い光の存在感の前に、光に属する天使達は士気を高め、闇に属する悪魔達はその身を焼く聖なる光に無意識にたじろいでしまう
その人物は神から最初に生まれた原在と呼ばれる十人の天使――十聖天」に最も近い力をもつとされる、天界最強の四天使の一人。
単純な戦闘能力ならば、現在の天界王「ノヴァ」よりも強いであろう天界最強戦力「四聖天使」の一人に数えられる天使。その名は――
「アース様!」
「くそ兄貴」
金色の長髪をなびかせるその天使――「アース」の存在を知覚したシャリオは安堵と畏敬の念を表情に浮かべ、クロスはわずかにその顔を渋いものに変える
「――……」
四聖天使の中でも最強と言われる「アース」が現界したことで、天使達が勢いを増し、悪魔達が圧倒される
すでに戦闘態勢に入っているアースの光力と、そこに込められた覇気に悪魔達が及び腰になっている中、さらに追い打ちをかけるように次々と時空の門が開いて天使たちが現界してくる
「……!」
(この光力……)
光の結界の中、自身とシャリオの光力によって深い傷を癒していたクロスは、次の瞬間に出現した光力に目を瞠る
「クロス! ……とシャリオ」
出現すると同時に、光力に乗せた声を思念と共に発する人物――腰まで届く緩やかなウェーブがかった鮮やかなブロンドの髪を頭の後ろで結い上げ、レース地のついた純白のゴシックドレスに似た霊衣を翻らせながら出現した女天使が一直線に、クロス達がいる浮遊大陸へと向かって来る
(……弟の方が適当かよ)
真っ先にクロスの名を呼び、思い出したかのように自分の名をとってつけた姉の薄情とも純真とも取れる思いに、シャリオは複雑な表情を向ける
実弟がそんな複雑な表情を浮かべているとはする由もなく――あるいは、分かっていても意に介さずに神速でクロスとシャリオの許へ向かうその女天使の前に、巨大な槍を手にした悪魔が立ちはだかる
これまでの天使との壮絶な戦いで傷を負いながらも、その身体から放たれる魔力に宿る覇気を微塵も衰えさせることのない悪魔を前にしたその女天使は、真紅の瞳を抱く目を剣呑に細めてその鈴のような声を上げる
「邪魔、するなァ!」
敵に向ける殺意とは全く異なる意思――眼前に立ちはだかる障害をただ排斥するための殲意と共に、前髪の両側に付けられた花弁を思わせる飾りを揺らしながら、天使の女性はその身体から光力を吹き上げる
その両足に収束した光力が、太腿の中ほどまでをも覆う緋紅の脚鎧として具現化し、その細い脚に似合う鋭利な脚線が斬閃を描く
それは、脚甲の形状をした武器。足を覆う緋紅の脚装そのものが打撃武器であり、ヒールになっているその踵部分は、斧刃に等しい力を持っている
「はあああッ!」
裂帛の気合と共に、その蹴撃が弧を描いて立ちはだかる悪魔達を薙ぎ払う
空を翔け、体勢を無視した蹴撃を放つ天使の女性の姿はさながら舞っているかのように美しく、生と死の境界にある戦場にあって、一際目を引く一輪の花を思わせるものだった
「激しいわね。知り合い?」
それを光の結界の中から見ていた紫紺色の髪を持つ女悪魔――「菖蒲」は、感嘆とも取れる息をついてクロスとシャリオに問いかける
それが、その女天使の戦闘の姿を指しているのか、あるいはその気迫のことを言っているのかは定かではないが、いずれにしても菖蒲の感嘆の声に宿っている別の感情に、シャリオは渋面を浮かべてしまう
「……姉です」
助けに来てくれたことへの感謝はあるのだろうが、身内であるがゆえに居たたまれないシャリオは、わずかに肩を落としてどこか恥ずかしそうに言う
思わずシャリオが敬語で紹介してしまうほど、覇気の籠った戦闘を行っている女天使を見つめた菖蒲は、その目を優しく綻ばせる
「ふぅん、弟思いのいいお姉ちゃんじゃない」
「いや、俺っていうか……」
言葉を濁し、視線をクロスへと向けたシャリオと上空で戦っている女天使を交互に見比べた菖蒲は、そこからおおよそのことを察して合点がいったように声を漏らす
「なるほど」
菖蒲が独白した次の瞬間、天空に光力の蹴撃の軌跡が巨大な三日月を作り出す
当初は天使達を圧倒していた悪魔達だったが、アースを筆頭とする天使達の加勢によって形成は完全に逆転してしまっていた
天使達に追い立てられ、必死の抵抗を試みるもその聖なる武器によって命を散らし、魔力の残滓となって世界に溶けていく者、時空の門を開いて別の世界に逃げていく者など戦線は完全に崩壊している
「はあッ!」
水晶のように透き通った巨大な刃を持つ身の丈にも及ぶ大剣に純白の光力を纏わせたアースがそれを一閃すると、その斬閃に合わせて光の斬撃が奔り、一撃の下に無数の悪魔を屠っていく
聖なる光によって浄滅され、存在と共に構成を失った魔力の残滓が世界に溶けていく中、眼前の敵を薙ぎ払った金髪の女天使は、浮遊大陸の一つに身を潜めていたクロスとシャリオの許へと降り立つ
「クロス、シャリオ……!」
二人の無事な姿を見て安堵の表情を見せた女天使だったが、クロスとシャリオを包む光力の結界の中にある岩の陰に隠れていたもう一つの影――悪魔の女の姿を見止めた次の瞬間、その表情を険しいものに変える
「やめろ、『ティファ』」
「クロス。でも……」
その武器である脚装に覆われた脚に光力を込め、敵意を露にした金髪の女天使――「ティファ」と呼ばれた人物は、クロスの言葉に不満の声を返す
「私には敵意はないわ。たまたま巻き込まれただけよ」
クロスの言葉を肯定するように軽く両手を上げ、戦意はないとばかりに肩をすくめて薄く笑う菖蒲の姿に、ティファは不信感を露にしながらも不承不承と言った様子で戦意を収める
「わかったわ。あなたのことは見なかったことにする――二人に免じてね」
「ありがとう」
納得のいっていない様子を見せるティファに、菖蒲は特にそれを意に介した様子も見せずに答える
この位置に来るまでティファが菖蒲の存在に気付かなかったのは、菖蒲がその魔力を極限まで抑え込んでクロス達が展開していた結界の中で息を潜めていたために、二人の光力によってその存在を知覚することができなかったからだ
通常全霊命達の知覚は、ある一定上の霊格以下を無意識に切り捨てている。存在そのものである神能を完全に消すことは不可能であるため、冥界を総べる死神の冥力のように知覚できない力でない限り全霊命の知覚から逃れることはできない
そのため、全霊命が他の全霊命の知覚から逃れるためには、通常ならば知覚領域から除外されてしまっているほどの弱さまで力を抑えるしかない
その反面、神能もまともに使えなくなってしまうが、そうまでして知覚から逃れ、さらにクロス達が展開する光力の結界の中で息をひそめていた菖蒲に、ティファは一応戦闘の意志がないと判断を下したのだ
「それに二人も。私の事を信じて、守ってくれて助かったわ」
戦意を収めたティファへの感謝の言葉を述べた菖蒲は、これ幸いとクロスとシャリオにも交互に視線を向けて微笑みかける
「別に」
「ま、あなたが本気で俺達を殺すつもりなら、こんな提案するはずもないだろうからね」
どこか腑に落ちない様子を見せながら端的に応じるクロスの言葉を引き継いで、苦笑混じりにシャリオが言う
それは、自分とクロスが二人がかりで戦っても勝てないであろう菖蒲の力に対する自虐と皮肉が入り混じったものだった
菖蒲がクロスとシャリオに提案したのは、自分が知覚にかからない限界まで力を抑え、クロスとシャリオの結界の中で息を殺して戦いが終わるまでやり過ごすという至極単純なものだった
あのまま刃を交えていても、実力の差から殺されたのはクロスとシャリオであった確率の方が高い。それが分かっていたからこそ、クロスとシャリオは訝しみつつもその提案を受け入れたのだ
「――さてと、怪しまれない内に、早く帰りなさい」
確かにシャリオの言葉は的を射ているが、それに「そうだ」と答えれば嫌味に聞こえるだろうし、「違う」と答えても二人の天使としてのプライドに差し障るだろうと考えたのだろう菖蒲は、曖昧な笑みを浮かべることでそれに応じ、空を見上げて優しい声で言う
その視線が指し示す狭間の空間の空では、アース率いる増援部隊がこの世界にいた悪魔達を撃退し、撤退を始めようとしているところだった
このままでは、いかに力を限界まで抑えていてもかの天使たちに見つかってしまう可能性が高い。さすがに菖蒲も天界最強の天使であるアースと戦えば勝率は限りなくゼロに近いだろうが、たとえ理由があっても悪魔を庇っていたクロスとシャリオもいい心証はないだろう
つまり、この状況で他の天使達に見つかることは、菖蒲にとってもクロスとシャリオ、それを黙認したティファにもプラスに働くことはないということだ
「――これで貸し借りなしとまでは言わない。でも、次があったらこうはならないかもしれないぞ」
菖蒲に背を向けたクロスは、悪魔に見逃されただけではなく助けてしまった自分の弱さを悔いて歯噛みする
菖蒲がその気ならば自分達は殺されていた。その提案を呑んだ以上、戦いが終わるまで菖蒲を結界で隠していたが、それとこれが対価として釣り合うとはクロスは思っていない
だが、いかに借りがあろうとも、再び敵として戦場で邂逅すればクロスは容赦なく敵対するだろうし、次にまみえた時にも今の実力差があるとは限らない
「お互いにね」
次に会うときには自分よりも強くなっているとばかりに屈辱を噛みしめるクロスの背に、好意的な笑みを向けた菖蒲は、望むところだとばかりに優しい声でその意思を受け止める
「あなたも」
クロスと交わしたその言葉を自分へと向けられたシャリオは、優しい笑みを浮かべる菖蒲をまっすぐ見つめる
「一つ聞いても?」
「できれば手短にね」
可憐な笑みを浮かべる菖蒲の顔を見つめていたシャリオは、一瞬躊躇うようなしぐさを見せたものの、意を決したように口を開く
「どうしてこの場所に留まってるんだ? ほとぼりが冷めるまで、別の世界に逃げるって手もあっただろ?」
「……!」
その問いかけに興味があったのか、クロスとさりげなくその傍らに移動していたティファも視線だけを向けてシャリオと向かい合う菖蒲に視線を送る
菖蒲がクロスとシャリオに提案したのは、戦いが終わるまで自分を匿ってほしいというもの。確かにそれ自体は戦意や敵対の意志がないという表明であるのは間違いないが、疑問も残る
悪魔に限らず、原則として九世界を総べる八種全ての全霊命は、自分達が支配している世界――天使なら天界、悪魔なら魔界――から、許可なく出ることを禁止している
それは、九世界の全霊命の管理役である天使であっても例外ではなく、巡回することはあっても滞在することはない
当然、菖蒲も悪魔達もそれが分かっていてこの「狭間の世界」に滞在していたはずであり、それには何かしらの理由があったのも推測できる
だが、菖蒲に本当に戦う意思がなかったのなら、さっさと時空の門を開いて魔界なり、他の世界なりに対比して、ほとぼりが冷めた頃に戻って凝ればいい
それをせず、天使と交渉してまでもこの世界に残ろうとする菖蒲の行動の根底にあるものが何なのか、気にならないと言えば嘘になる
「……そうね」
シャリオの問いかけを受けて菖蒲は、わずかに視線を伏せてしばし口をつぐんで逡巡する素振りを見せる
答えに窮しているとも、話す必要性を考えているとも取れる思考の間を一瞬だけ生みだした菖蒲はシャリオへと視線を向けると、その重い口を開く
「そうね……ここには、この世界にたった一つだけ残った私の大切なものがあるから」
柳眉をひそめ、憐憫とも哀愁とも映る寂しげな笑みを浮かべた菖蒲が、周囲に広がっている狭間の世界の景色に目を向けたのを見たシャリオは、その言葉が嘘ではないと感じる
「大切なもの……」
「初対面の女性の過去や秘密を聞き出そうなんて無粋ね」
その言葉に、シャリオが神妙な面差しで思案する様子を見た菖蒲は、妖艶な色香を感じさせる優しい笑みを浮かべて言うと、自分に注がれる三人の天使の視線に軽く肩を竦める
「冗談よ。そんな顔しないで……ほら、あまり私に時間を割いていては、彼らに疑われてしまうでしょう」
シャリオをはじめとする天使達の思考を中断するようにわざと話しかけ、話題を切り上げさせた菖蒲は、その視線を宙空でアースを中心に円を描くように集まり始めた天使たちに向ける
このままこの場所に留まっていては、一向に戻ってこないクロス達を訝しんだ天使の誰かが様子を見にやってこないとも限らない
そんなことになれば、せっかく戦闘をやり過ごした菖蒲にとっては本末転倒。クロスとシャリオ、ティファにとっては不利な状態にしかならない事態だ
「あんたは、いつまでここにいるつもりなんだ?」
菖蒲の言葉に背を押されるように、純白の翼を広げて空へと舞い上がったクロスとティファに続いたシャリオは、限界まで自身の存在を殺して浮遊大陸の岩陰に身を潜めている紫紺色の髪の女悪魔に問いかける
まっすぐに自分を見つめてくるシャリオの視線に、菖蒲は「早く行け」とばかりにその身を翻して背を向ける
「いつまでかしらね」
一抹の寂しさの影が落ちたように感じられる菖蒲の自嘲じみた言葉を聞いたクロス、シャリオ、ティファの三人は互いに顔を見合わせて話を終える
「もう行くぞ」
「ああ」
背中越しにでも知覚の中でも名残を惜しんでいることが伝わってくるシャリオの言葉に、菖蒲は背中越しにこの数奇な縁に対する別れを告げる
「もう会わないことを願っているわ」
一見冷たく聞こえる菖蒲の言葉は、しかしその内側に優しい響きを帯びていた
人の出会いは一期一会。しかし袖振り合ってしまった以上自分達にはわずかな縁が生まれている。
今後敵として出会うことが無いよう、そして互いの生死は分からずとも長く生き続けてほしい――そんな願いが感じられる
菖蒲の言葉に込められた他人行儀な親愛の情を感じ取ったクロス、シャリオ、ティファの三人の天使は、無言のままで表情を変えることなく、純白の翼を羽ばたかせる
「ああ」
「ええ」
簡潔な言葉の残響を、羽ばたいた翼から零れた白羽と共に残してクロスとティファが天使の軍勢へと向かって移動を始めるのを知覚する
クロスとティファに意識の欠片すら向けることなく佇んでいる菖蒲に、しばらく後ろ髪を引かれるような視線を送っていたシャリオだったが、ほんの数瞬の逡巡の後に無言のまま天へと昇っていく
「――……」
その姿を限界まで魔力を抑えた菖蒲が岩陰から見届け、自分の許へと戻ってくるクロス、シャリオ、ティがの三人を武器を収めたアースが無言で見つめる
クロス達を見ていたアースの視線が一瞬だけ、先ほどまで三人がいた場所に向けられたことに気付いた者はおそらく誰一人としていなかった
※
天界へと戻ったクロスが真っ先に向かったのは、天界王城の中にある小さな庭園だった。庭園とはいっても、まるで大地を一つそのまま切り取ったような広大な面積を持つその場所は、鮮やか緑と色とりどりの花々が咲き乱れている
一歩踏み入れば、足からは大地を覆う草丈の短い緑の優しい感触が伝わり、鼻腔にはこの場所に咲き乱れている花々の甘い芳香が漂って来る
「クロス」
天界王城の中には、玉座の間などをはじめ、許可を得ていない限り立ち入ることができない場所がある。
この庭園もそんな場所の一つなのだが、少々大きいとはいえ何の変哲もない庭がそのような扱いになっているのにはある理由があった
「マリア」
「よかった。心配したんですよ――でも、無事で何よりです」
庭園に入ったクロスは、まるで待ちわびていたかのようにそこにいた二対四枚の翼を持つ金髪の天使の少女に出迎えられてわずかに表情を綻ばせる
この庭園は、天界城に半ば軟禁されるようにして生活しているマリア――半霊命である人間と全霊命である天使の間に生まれた禁忌の混濁者の生活圏の一角に指定されている
本来ならこの世界に存在を許されない最上級の禁忌である全霊命と半霊命の混血であるマリアはある理由からこの城の中で軟禁状態で暮らしており、一部の役職を持つ天使にしかその存在を知られていない
そのため、マリアの生活圏に入ることができるのは、クロスのように許可を与えられた人物に限られているのだ
「心配かけたな」
マリアに出迎えられ、帰るべき場所に帰ってこれたという安堵感を滲ませたクロスが応じるのを背後から見ていたティファがわずかに唇を尖らせる
(何よ。帰ってくるなり、真っ先にマリアに会いに来るなんて――別に妬いてないけど)
誰に向けているのか分からない言い訳を心の中でしながらその様子を見ていたティファに、クロスと一言二言言葉を交わしたマリアが視線を向けてくる
「ティファさんも、ご無事で何よりです」
「……私は、アース様と応援に行っただけだから」
心の底から自分を案じてくれていると分かる純粋で一点の曇りもない可憐な笑みを浮かべたマリアの透き通った瞳に、ティファは不満を抱いていた自分が後ろめたく思えるような錯覚に見舞われて、ややつっけんどんに答える
《でも、私がお願いしたから……》
そのティファの脳裏に、マリアが光力を介した思念通話を届けてくる
《いいのよ。アース様の隊に加えてほしいって我儘を言ったのは私だから――今度リリーナ様にもお礼を申し上げないといけないわね》
ティファが狭間の世界に向かったクロスが所属する隊が想定以上の戦力を持つ悪魔に襲われたという事実を知ったのは、マリアから思念通話によって教えられたからだ
そしてマリアがそれを知りえたのは、たまたまその時にリリーナ――姉と慕う天界の姫と一緒にいたからだった
クロスを案じるティファの願いを受け、マリアがリリーナに懇願することで本来同行するはずではなかったティファがアースの応援部隊に組み込まれたという経緯がある
「どうした?」
思念通話によって声を出さずに意思の疎通を図っているため、互いに向き合ったままでいるマリアとティファの様子にクロスが首を傾げる
「なんでもありません」
「なんでもないわ」
クロスの声に同時に、マリアとティファはほぼ同時に視線を返して微笑む
「シャリオくんは?」
声を重ねて返された微笑混じりの言葉に首をひねって訝しむクロスを横目に、マリアは二人に対して質問を重ねる
この場にシャリオがいないことを疑問に感じるマリアの表情には、最悪の事態はもちろん、重傷を負ったのではないかという心からの不安と心配が滲んでいたが、ティファはそれを軽く一蹴する
「今日は来てないわ。でも、大きな怪我をしたわけじゃないから大丈夫よ」
「そうですか」
ティファのその言葉に、マリアは目に見えて安堵の息をつく
「心配してくれてありがとう。シャリオにはこんなときくらい顔を出すように言っておくわね」
「あ、いえ、そんなこと……私が、ちょっとだけ心配性すぎるだけなんですから」
慌てた様子で言うマリアに微笑み返しながら、ティファはわずかに細めたその目でその姿を映す
(あなたは、私達のことをいつもすごく大切にしてくれる――それは、あなたの世界にとって、私達が数少ない繋がりだから)
混濁者であり、この天界王城に軟禁されるように生活しているマリアにとって、その世界はとても狭いものでしかない
クロスや自分達を含め、その存在を知っている一部の天使達からも決して友好的な感情ばかりを向けられるわけではないマリアの小さな世界にとって、自分やシャリオがかけがえのない存在であることは想像に難いことではない
(それは素直に嬉しい。でも私は、嫌いとは言わないけど心のどこかでマリアを好きじゃないとも思ってる……それはなんで? ただの嫉妬? 単に性格が合わないだけ?
それともマリアが混濁者だから? ――もしそうだとしたら、それは私自身のため? それともクロスのため?)
だが、悪意のない純粋な気持ちを向けてくるマリアとは違い、ティファの気持ちはそれに素直に答えられるものではなかった
第一の要因は、ティファが好意を向けているクロスがマリアに対して好意を抱いているという事実。恋敵――それも、自分よりも明らかに想い人に好意を持たれていると相手に対して無条件で好意を抱くことはティファには難しいものだった
マリアが優しくいい子であることはティファも認めるところ。だが、だからこそ劣等感のようなものを掻き立てられるかのかもしれない
想い合いさえすれば何人でも伴侶を持てる多夫多妻制を敷いているからといって、同じ人に想いを寄せる人を素直に応援するのもまた感情的には難しいものだ
そして何より、マリアが天使と人間の混血であるという事実を無視することはできない。自分はもちろん、クロスやマリア本人でさえ理由は知らないが本来殺されているべき禁断の存在が軟禁状態とはいえ生かされている
混濁者という存在を忌避していることは否定しない。だが、例え互いに想い合っていたからと言って、禁忌とされている混濁者と結ばれることでクロスが不幸になるのではないかという不安、そしてもし二人が結ばれたなら、自分はどうなるのかという嫉妬などがそれに拍車をかける
(もしも、マリアが普通の天使だったら、こんな風に思い悩むことはなかったのかしら……)
嫌っているとまでは言わないが、ただ単に好ましく思っているだけというわけではない恋敵を前に、ティファは心中で複雑な思いを募らせる
「ティファさん?」
「なんでもない」
その様子を訝しんだマリアは、ティファの笑みを見てわずかにその視線を伏せる
「そうですか」
あえて追求することなくティファの言葉を受け入れたマリアではあったが、二人が浮かべている笑みにはどこか無理をして作っているような不自然さがあった
これまで確認したことこそないが、マリアはティファがクロスに想いを寄せていることを知っている
混濁者である自分とは違い、いつでも気持ちを伝えることができるティファの事を羨ましくも妬ましくも思っている自分に、マリアは気づいていた
クロスの幸せを願うなら、混濁者である自分は想いを伝えるべきではない。クロスの幸せを祈りながら、それが手に入る位置にいるティファに少しだけ憧れてしまうことは否めなかった
「こんなところで立ち話もなんですから、一緒にお茶でもしませんか? 丁度今お姉さんが来てくださっているんですよ」
女同士の間に生まれた気まずい空気を振り払うように、マリアは努めて明るい声でクロスとティファに話しかける
クロスとマリアは互いに想い合いながらも、その距離を縮めることはない。そしてティファはクロスに一方的に想いを寄せている――それは、いつの頃からか形になった関係
クロスとティファが時間を積み重ね、マリアと知り合ってから長く続いてきた当たり前のもの。だが、おそらくは誰もが気付いていた――いつまでもこの関係が続くものではないということを
クロスとマリアは想い合いながらも、互いに相手の想いには気づいていない。クロスが奥手でそちら方面に関して踏み込むことができないことに加え、マリアが混濁者であるという事実が二人の距離を近づけることを阻む
クロスかマリアがその境界を踏み越えようとした時、あるいはティファがその気持ちを伝えた時、この関係は決定的に変わってしまうだろう
そしてそれぞれが、想い人との関係を今以上に進めたいと思いながらも、この心地よい時間を失いたくないとも考えていた
決定的な一歩を踏み出すことができないまま、積み重ねられていく日々が薄氷の上にあるあやふやなものであることを理解しながら、三人はもう少しだけと、その時間を過ごしていく
だが、三人が知らないところで事態は少しずつ変わり始めていた
※
抜ける様に青い空を見上げながら、風に紫紺色の髪を遊ばせていた女悪魔――菖蒲は振り返ることもせず、背後に立った人物に声をかける
「……どういう風の吹き回しかしら」
その白魚のような指で紫紺色の髪を軽くかき上げた菖蒲が振り返ると、そこに立っていた純白の翼を持つ短髪の天使の青年――「シャリオ」は歓迎しているとは思えないその声に動じることなく、穏やかな声で微笑み返す
「あんたに、会いに来たんだよ」