悪夢の亡霊
それは、遥か昔――思い出せないほど遠く、しかし忘れえぬほど確かな記憶
もはや年数で数えることが困難なほど蓄積された九世界の歴史は、多くの場合時代時代の節目によって分けられる。
そして、その最も大きな指標として用いられているのが、「創界神争」、「異神大戦」、「聖魔戦争」の「三大大戦」と「天の落日」、「ロシュカディアル戦役」、「ヘイルダートの悪夢」の「三大事変」の二つだ。
それらを発生の順に並べれば、「創界神争」、「聖魔戦争」、「異神大戦」、「天の落日」、「ロシュカディアル戦役」、「ヘイルダートの悪夢」となる
ただし、聖魔戦争に至っては、小康状態を続けながら長期間に渡って続いており、大規模なものや、王が先頭となって行われるものはほとんど無くなったとはいえ、現在も終結そのものはしていないといえる
最も新しい六つの時代の節目「ヘイルダートの悪夢」であっても、もはや億や兆ではきかないほどの年数が経過している。
しかし、どれほどの歳月に埋もれても、全霊命の記憶は、その日のことを、そして今日までの一日一日を確かに記憶し続けているのだ
※
分厚い雲に覆われた曇天の下、まるで風雲急を告げるように吹き抜ける風に、大地を覆い尽くす緑の木々が大きく枝葉を揺らす
湿り気を帯びた不穏な空気の、その森の中を一人の天使が滑るように飛翔する。光を遥かに凌ぐ神速で移動しながらも周囲に全く影響を与えておらず、あらゆる法則を振り切って速度を一切緩めることなく直角に曲がりながら木々の間を抜けていく
「どこに消えた……!?」
その手にあるのは、金色の柄に白銀の刀身を持つ両刃剣。その天使の存在を構築する光力が、その存在の特性に合わせて取った戦う形だ
「――っ!!」
それを手に、周囲に注意を巡らせていた天使に、森の木々の間を抜けて漆黒の杭が矢のように向かってくる
それを見て取った天使が光力を帯びて輝く金色の剣でそれを弾いたのと同時、森の木々の間を抜けてきた死神――鎖牙が両の手に持った杭で更なる追撃を放つ
「ぐっ」
咄嗟に天使がそれを防ぎ、ぶつかり合った光力と冥力が相殺されて火花を散らす
「チッ」
一撃で仕留め損ねた鎖牙がその威力を利用して後方へと飛び、姿を眩まそうとしたのを見て天使はそれを追撃しようと純白の双翼を広げる
知覚のできない死神を見失うことは、その他の全霊命にとって不利でしかない。当然相手が得意とする戦術に合わせるつもりなど毛頭ない天使は、鎖牙を逃すまいとしていた
「逃がす――」
しかしその天使は、「逃がすか」という言葉を最後まで発することができなかった
なぜなら、その背後から黒い刃がその胸の中心を穿っていたからだ。それに気づいたのとほぼ同時、その口から血炎が零れ、同時にその刃が振りぬかれて天使の身体を両断する
「か――ッ」
その身体を両断され、その生命活動を絶たれた天使の身体が崩れ、その存在が光力へと還元されて世界へと溶けていく中、その身体を両断した大鎌を持つ人物――シキトが佇んでいた
「冥界のこんなところまで、天使が侵入してきてるとはな」
自身が命を奪った天使が完全に世界から消失するまでそれを見届けていたシキトに、鎖牙が声をかける
「今は世界全体が微妙な情勢だからな。大規模な衝突こそないが、ロシュカディアル戦役以来、どうも色々ヤバくなってきてるような気がするな――下手したら、大きめの戦が来るかもしれないな」
鎖牙の言葉を聞いたシキトは、まるで世界に満ちる凶兆を表しているかのような重苦しい曇天を見上げて言う
創世の時代から、九世界――特に、光と闇の全霊命の間には、常に争いの空気が立ち込め続けている。
各々が九世界を創造した光と闇の神の眷属達は、まるで半霊命が他の半霊命を捕食して生きるように、互いを殺し合って敵対しながら生きていた
個人単位で見れば憎悪もあるだろうが、その存在がもたらす争いが大きなうねりとなって、世界を呑み込もうとしているような不穏な空気が九世界全体に蔓延し始めていた
「ったく、面倒臭いな」
しかし戦うことを存在の理由としているとはいえ、全霊命達は好んで戦争をしたいわけではない
個人的な戦闘ならばまだしも、大義に基づいた世界という単位での戦争は、シキトも鎖牙も――あるいは、少なからず世界中の全ての全霊命達が避けたいと思っていることだろう
「――ッ!」
瞬間、シキトと鎖牙はその会話を止めて、弾かれたように天空を見上げる
二人の知覚が捉えた力に天を仰ぐと、そこには十人からなる天使の小隊が曇天の雲を吹き飛ばして、それによって閉ざされていた陽光を冥界の大地へと降り注がせていた
「オイオイ」
澄み切った青空を背に、純白の翼を広げて冥界へと降臨してきた天使達の姿にシキトと鎖牙はその表情を引き攣らせる
「くそ……ッ」
「鎖牙!?」
苦々しげに吐き捨てた鎖牙が、天使達が降臨した方向へと駆け出すのを見たシキトは、思わず声を上げる
「様子を見てくる!」
「待てって! いくらなんでも分が悪い! 分かるだろ!? あの中には何人か、俺達じゃ手に負えないような奴が混じってる!」
いかに冥力が知覚されないという特性を持っていても、万が一見つかって戦闘に入れば、自分達では勝機はない
「言っただろ? 様子を見てくるだけだってな!」
それを感じ取ったシキトは制止の声を上げるが、鎖牙はそれに足を止めることなく天使たちの方へと向かっていく
「あの、馬鹿……ッ!」
制止の言葉も聞かず天使たちの方へと向かっていく鎖牙の後ろ姿が遠ざかっていくのを見たシキトは、苛立ちを隠せない様子で歯噛みすると、その後を追った
現在のシキトと鎖牙がこの時のことを思い返せば、口を揃えてこう言うだろう――「もしもこの時、その場から立ち去っていれば今の自分達は、こうしていなかったかもしれない」
この時の二人の選択は、それほどに二人の運命を決定づけるものだった。そして、この日が自分達の運命の節目となることを、この時のシキトと鎖牙は知る由もなかった
二人が移動を開始して間もなく――この冥界に降臨した十人ほどの天使の小隊は、まるで示し合わせていたかのように四散していく
(別れた!?)
十人からなる正体が、二人一組となって各々別の方向へと散っていくのを知覚と三つの目で確認したシキトと鎖牙は、思わずその足を止める
(ヤバい。結構強いのがこっちにくる――!)
二人の知覚が捉えているのは、二人一組となって別れた天使達の一つの組が、今まさに自分達がいる方向へと向かってきていることだった
「鎖牙!」
その二人の光力の強さを分析したシキトは、即座にその危険性を判断して隣りにいる鎖牙へと声をかける
「分かってるよ!」
鎖牙も同様の意見だったのか、シキトの言葉に答えると同時に、周囲に群生する樹の影へとその姿を隠す
この世界には、光の力は闇の力に対して約十倍の優勢を持ち、闇の力は光の力よりも強大になるという理がある。規模の闇と、それを照らす光。この相性こそが、九世界の力の天秤の軸となるものだ
そして、闇の全霊命である死神の力は当然闇。光の力を持つ天使とは相性が極めて悪い。そして、二人の知覚は、今こちらに向かっている二人の天使が、自分達の力では制することができないほどの光を持っていることを伝えてきていた
それからしばらくして、シキトと鎖牙が隠れている場所に、二人の天使が現れる。
(来たか……)
一人は、水色に近い青い髪を逆立たせた温和な印象の六枚翼の青年。もう一人は、腰まで届く緋色の髪を持つ八枚翼の女性
(力を抑えてる……気付かれないようにするためだな)
先程降臨したばかりの天使達が、ここに隠れている自分達を知覚できたはずはない。にも関わらず、二人の光力が極限まで抑えられているのを見て取ったシキトと鎖牙は、天使たちが自分達の隠れている場所を通り過ぎるのを、存在を殺して待っていた
「――!」
しかしその瞬間、緋色の髪を持つ女天使がその手に身の丈にも及ぶ斧槍として顕現させる
「なっ……!?」
瞬間、その緋色の女天使がその槍を一閃させたかと思うと、森の一帯を聖光の斬波動が薙ぎ払う
しかしその斬撃は、無暗に全てを薙ぎ払う破壊の力ではない。自身が望むままに望んだとおりの結果を事象として顕現させる神能の特性によって、攻撃すべき敵として認識した対象以外に効果を及ぼさない一撃だ
結果として、その光が収まったとき、緋色の髪の女性が放った光力の斬撃によって傷ついた森の木々は一つとしてなかった
しかし、その攻撃対象にされていた人物は違う
「痛……ッ」
咄嗟に光から逃げたものの、神格で上回る女性天使の斬撃を回避しきることができなかったシキトと鎖牙は、その身体から血炎を立ち昇らせて苦悶の表情を浮かべる
光の力が持つ浄化の特性によって、その身体を構築する闇の神能を聖浄される苦痛に顔をしかめるシキトと鎖牙の三つの目は、槍刀の切っ先を地面へ向けて中空に佇む緋色の髪の女天使と、青髪の天使を正確に捉えていた
(この女、俺達に気付きやがった……!)
(死神との戦いに慣れてるのか!?)
通常の知覚方法では知覚できないと分かった上で、死神専用の知覚対策を取っていても、本気で隠形した死神を見つけるのは難しい
単純な力の差を差し引いて考えても、これほどあっさりと自分達を見つけることができた緋色の髪の女天使には、少なくない死神との実戦経験があることが推察された
「こんなにも早く見つかるとは思いませんでしたね」
その光力を戦意で研ぎ澄ます美貌の女天使は、自分の斬撃によってあぶりだしたシキトと鎖牙を交互に見やって、ため息混じりに言う
「『エスティ』。いきなり攻撃するのは良くないよ」
槍刀を構え、二人の死神を牽制する女天使――「エスティ」は、水色の髪の天使の言葉に、わずかにその柳眉をひそめて淡泊な口調で応じる
「気配を殺して隠れていたのだから仕方がないでしょう? 正当防衛というやつよ」
水色の髪の天使の苦言にそう言って反論したエスティに視線を向けられたシキトと鎖牙は戦う決意を固めて問いかける
「お前達の目的は何だ?」
最低限の干渉しかしない九世界で、光の世界の全霊命が闇の全霊命が支配する世界に侵入する――下手をすれば、宣戦布告と取られても不思議ではない
そんなことは分かりきっているはずだというのに、あえて危険を冒してそんな行動を取った理由は、二人からすれば最優先で聞き出したい情報だった
「答えられません」
しかし、その問いかけはエスティの淡泊な声音が返されただけだった
(やっぱ、そうだよな)
エスティの答えは、シキトと鎖牙からすれば想定の範囲内であり、むしろ当然だとさえ思えるものだった
天界――あるいは光の世界にどんな意図があるのかは知らないが、一応は敵である闇の全霊命に意味もなく情報を漏らすなどありえるはずはない
しかし、次に二人に向けられた言葉は、シキトと鎖牙が全く予想していなかったものだった
「僕は君達と戦う意思はないんだ。だから、ここを通してくれないか?」
エスティと行動を共にしていた青髪の天使の言葉は、自分達が平穏に暮らしていた世界に突如侵入してきた者のそれとは思えず、そしてその顔が真剣そのもので嘘を言っていないということが二人の感情を逆撫でする
「ふざけるな。そんな理屈を信じられるわけないだろうが!」
「聞いての通りよ、『オルセウス』。話し合いは無意味だわ」
剣呑な表情を浮かべるシキトの隣で声を荒げる鎖牙の言葉を聞いたエスティは、隣にいる水色の髪の天使に目配せをしてため息をつくと、手にした槍を構える
「エスティ!」
水色の髪の天使――「オルセウス」にそう言って光力を研ぎ澄ませたエスティは、シキトと鎖牙の二人を見比べて平静な声で答える
「大丈夫よ。私達の力の差なら、半殺し程度で収められるから」
「舐めるなよ」
互いの力を知覚し合い、その力の差から端的に結論を述べたエスティに鋭い視線を返す鎖牙は、地面から無数の黒杭を顕現させて言う
エスティの言うことは紛れもない事実だが、鎖牙の三つの目にはせめて一矢報いてやろうという意気が宿っていた
「あなた達こそ、思い上がらないことね」
それを見て取ったエスティが抑制された鋭い声を発した瞬間、その姿は鎖牙の眼前まで迫っていた
「――ッ!」
(疾い……!)
時間と空間を超越する神速による移動でシキトと鎖牙を圧倒したエスティは、オルセウスに向けた言の通りに、緋色の槍を振るう
エスティが振るった神速の槍はシキトと鎖牙にまともな反応も許さず、このままいけば先ほどの言の通りに半死の傷を与えることになる軌道を描いていた
「っ!」
しかし、その刃がまさに鎖牙を捉えるかと思ったその瞬間、緋色の槍は瞬時に軌道を変えて背後に迫っていたものを迎撃し、火花と衝撃波を生みだす
『あ痛だだだだだ! 天使の攻撃は、痛ぇなァ!』
エスティの斬撃によって弾かれた三日月型の鎌が、その光力によって身を焼かれる苦痛に苦悶の声を上げる
(これは――武器?)
声を上げる武器に目を瞠ったエスティは、それを好機とばかりに反撃に出た鎖牙の黒杭を回避して後方へと飛びずさる
「油断したわ。まだ他にもいたのね」
純白の翼を羽ばたかせて空中で制止したエスティが槍を構えると同時、シキトと鎖牙の後方に、頭の後ろで一つに束ねた腰まで届く烏珠の髪をなびかせる和装霊衣の少女が降り立つ
「大丈夫?」
「夜薙……」
手にした黒鎖の鎖鎌を持つその人物にシキトと鎖牙が目を瞠る中、それを見ていたオルセウスが突如弾かれたように声を上げる
「エスティ!」
「――ッ!」
その声が届くのとほぼ同時に、それに気付いたエスティが背後へと視線を向けると、巨大な鎌を手にした女死神が今まさにその刃を振り下ろそうとしている所だった
その斬撃は早いが、エスティならば決して対処しきれない速度ではない。それを防ぐために緋色の槍刀の斬閃を放とうとしたエスティは、しかし次の瞬間霊衣の帯を掴まれて後方へと引っ張られる
「なっ!?」
それによって体勢を崩したエスティが視線を向けると、その帯を掴んだ人物――オルセウスが、その手に身の丈にも及ぶ片刃の大剣を顕現させておもむろに空間を斬りつけた
瞬間、そこでオルセウスの剣刃が止まり、同時に金属音と火花が飛び散り、相殺された神能が荒れ狂う
「――!」
何もない空中に刃を叩き付けたオルセウスに、大鎌を振るった女死神が目を瞠るのを見て、エスティは咄嗟にその槍を斬り上げる
それを後方へと飛んで回避した女死神が地面に足をつけたのを見たエスティは、先ほどのオルセウスとの攻防を思い返して、一つの結論へと至る
「なるほど。見えない刃を持つ武器……」
エスティの言葉に、わずかに目を細めた女死神は、わざとらしく肩を竦めて微笑を浮かべる
「私の『刃無』を初見で防がれたのは久しぶりです」
白いシャツに黒いパンツスーツのような霊衣。まるで死者を弔う葬送者のような出で立ちの女性は、肩にかかる程度の稲穂色の髪を揺らす
そこから除く額にある三つ目の目でオルセウスとエスティを交互に見つめた女性は、胸に手を当てて深々と一礼する
「あらためまして天界の天使様方、このような場所へようこそおいでくださいました。冥界王様直下暗殺部隊『無言』が一人、『椎稲』と申します」
皮肉交じりの言葉と共に恭しく一礼した稲穂色の髪の女死神――「椎稲」は、不可視の刃を持つ大鎌を構えて二人の天使に不敵な冷笑を送る
「そして、さようなら」
天使オルセウス。――後にヘイルダートの悪夢を終わらせることとなるこの天使と、冥界の死神椎稲出会いは運命だった。
この日を境に、椎稲とその妹夜薙。そしてその姉妹と知己の仲にあったシキトと鎖牙は世界に潜む異変へと巻き込まれ、そして結果的に現在「ヘイルダートの悪夢」と呼ばれる事変に大きく関わっていくことになる
冥界王直属の冥界最高戦力「無言」にその名を列ねる死神「椎稲」は、死神としても女性としても強く美しかった。
そして、幼い頃からの親友であり悪友であったシキトと鎖牙は、共に椎稲に想いを寄せていた。
多夫多妻制を敷き、想いさえ通じ合えば伴侶になることができる九世界の中で、二人の友は、どちらが――あるいは、どちらが先に椎稲の気持ちを射止められるのかを競い合うライバルでもあった
だが、この出会いによってこれまで変わらなかった、椎稲を中心とするシキト、鎖牙、夜薙の関係に変化が訪れることになる
オルセウスと、シキト達はそれから何度も邂逅を重ね、時に敵対し、時に協力し合いながらいつしか絆を強めていった。
特に椎稲とオルセウスは盟友とも呼べる関係になり、それをシキトと鎖牙は遠巻きに複雑な視線で見守ることが多くなっていく――
そして、オルセウスが中心となって呼びかけ、最終的に集った光と闇の仲間を束ねて「ヘイルダートの悪夢」へと立ち向かうことになるのだが、そんな日々の中で違和感は大きくなっていた
そして、決定的な変化はその心に訪れる
最初に戦う意思がないと宣言したようにオルセウスは、戦いを好まず、それどころか天使でありながら闇の存在とも友好関係を築こうとと本気で思っている奇特な天使だった
そして、そんなオルセウスと親しくなっていくに従って、シキト達の中心にいた人物が少しずつ心を動かされていったのだ――
※
「私ね。最近オルセウスの言うことも悪くないんじゃないかって思うの」
「は?」
ある時、椎稲がおもむろに切り出したその言葉に、シキトと夜薙、そして鎖牙はあまりのことに呆気にとられる
そんな三人の反応が分かっているのか、三人に顔を向けることなく指先で軽く頬を掻いた椎稲は、少し照れたような口調で軽く空を仰ぐ
「色々あったけど、こうして死神とか、そういう種族じゃなく、色んな想いを持った人と繋がり合って作り上げた今が悪くないって思えるから」
冥界に侵入してきた天使をきっかけに、それから何度かの戦いを経て世界に戦乱の種を撒こうとしている者がいることに気付いた椎稲達は、それを止めるために世界と種族を超えて戦うようになっていた
「ヘイルダートの悪夢」。世界という単位でこそ難しかったものの、個人の単位で繋がり合った死神、天使、悪魔――あらゆる全霊命達の和の中で椎稲は少しずつその繋がりを心地良いものだと感じるようになった
「もちろん、全員が全員仲良くっていうのは無理だろうけど……別に天使とか光の人達と仲良くするのも悪くないかなって思うの
だってほら。私達を神様が作ったとしても、その言いなりになって戦い続ける人生っていうのもちょっと癪でしょう? せめて、自分の戦う相手は自分で決めたい――光とか闇とかそういう理由じゃなくて」
「ま、まぁ……別に俺だって、あいつらの事嫌いじゃないしな」
「だな。まあ、いけ好かないやつはいるけどな。ま、殺してやろうとまでは思わないけど」
だが、その椎稲の思いは決してシキトたちにも理解できないようなものではなかった。むしろ、同様に共感できるものだったともいえる
シキトの言葉と、鎖牙の苦言混じりの肯定、そして夜薙の無言の肯定を背で感じ取った椎稲は、空を見上げながらその答えに安堵したように息をつく
「そうね。この戦いが終わっても、こういう関係が続けていきたいと思っているわ。だって――」
そう言って何かを思い出したように小さく苦笑した椎稲は、背を向けていた三人へと視線を送る
「オルセウスみたいに、奇特で面白い人もいるしね」
「――!」
肩ごしに振り返り、軽く舌を出して悪戯っぽく笑う椎稲の輝くような表情に、シキトは――否、シキト達は目を奪われると同時に、胸を締め付けられるような不安を抱かずにはいられなかった
(椎稲、お前まさか……)
シキトも、鎖牙も、夜薙も、椎稲の言葉の裏にある気持ちを訊ねることができなかった
それを聞いてしまえば、知ってしまえば、自分達の関係が取り返しのつかない方向に決定的に壊れてしまうのではないか――そんな不安を拭えなかったのだ
「どうしたの?」
「い……いいんじゃないか? 俺達は応援するよ。椎稲のこと。――な?」
そんな沈黙の中、真っ先に口を開いたのは鎖牙だった。想いを寄せる相手の気持ちを汲み取り、そしてその願いを祝福し、同意を求めるようにその視線をシキトと夜薙に向ける
「あ、あぁ……そうだな」
「う、うん。突然、そんなこと言うから、びっくりしちゃった」
自身の中の不安を拭い去ろうとしているのだろう。空元気だと分かる声音で言う鎖牙の言葉い、シキトと夜薙はそう答えるしかできなかった
だが、今にして思えば、シキト達はここで椎稲問い正すべきだった。
無論、そのようなことを考えることに意味はない。その時、シキトも鎖牙も、夜薙も椎稲も――誰もが、現在に向き合って自分の心でその行動を選択したのだから
だが、それでも思わずにはいられない。「もし、あの時こうしていたなら」と。――そうしていれば、きっといくつかの悲劇を避けることができたのだから
※
「椎稲は死んだんだ!」
天空から放たれた黒杭の一撃を大鎌の一撃で斬り払ったシキトは声を荒げて、その先にいる鎖牙に言い放つ
「そうだ。俺達を守って、俺達を庇って……椎稲は死んだ!」
シキトの言葉に、砕けんばかりに歯を食いしばった鎖牙は、自身の内にある感情が爆発したかのように声を荒げる
それはまるで、自身の内にある抑えがたい激情を発散させているようなその言葉は、否応なくシキトの記憶をも抉り出す
「あの日……『ヘイルダートの悪夢』が終わったあの日、椎稲は俺達を庇って死んだんだ! 俺達の、手の中で!!!」
両の手で黒杭の柄を砕けんばかりに握りしめた鎖牙が、未だ許されない後悔に引き摺られた心を露に、眼前へと飛び上がってきたシキトと、互いの武器をぶつけ合う
その目には強い後悔と罪悪感が宿っており、椎稲の死をどれほど鎖牙が責めてきたのかが伝わってくる
「俺達は、誓ったはずだ! 二人で椎稲を守る。そして、俺達のどちらかだけが……いや、例えどっちも椎稲に好きになってもらえなくても、二人でその幸せを守ろうってな!
なら、たとえ復讐だとしても、俺達があいつの想いを継がなくてどうする! 俺達は、椎稲の命を引き換えにして、生き延びたんだ! だから、あいつの想いくらい叶えてやらなきゃならない」
シキトの薙ぎ払った大鎌の刃を黒杭で受け止めた鎖牙は声を荒げ、自分達の砕け散った冥力の欠片に、椎稲の最期を看取った過去を映す
「そうだろう、シキト!?」
シキトと鎖牙は、共に椎稲に想いを寄せる親友であり好敵手。二人は椎稲のために強くなることを誓い、例えその想いが通じなくとも椎稲の幸せを願うことを誓った
それは、同じ女を愛した男と男の約束。そしてそれは、椎稲がいなくなった今も変わらなず二人の心の中にあり続ける思いだ
傷ついたシキトと鎖牙の腕の中で冥力の欠片となって溶けていった椎稲の姿と、想いを寄せる大切な人を守れなかった弱さの込められた冥力がせめぎあい、空間を軋ませる
「違う! 椎稲が望んだのは、こんなものじゃなかっただろ!!」
その言葉に歯を噛みしめたシキトは、その言葉を憤りと共に否定して、黒杭を弾き飛ばす
「――ッ!」
「あいつが……椎稲が、本当に欲しかったのは――ッ」
黒杭を弾いたその勢いのままに武器を回転させたシキトは、鎌から薙刀状の槍へと形状を変化させ、それを一文字に横薙ぎする
「こんなものじゃないだろ!」
「ぐ……ッ!」
その紫閃の斬撃を黒杭で受け止めた鎖牙がその衝撃に歯を食いしばるのと同時、シキトは武器の柄から手を離して冥力の波動を解き放つ
渾身の力で放たれたシキトの死閃の極冥砲が直撃する瞬間、鎖牙は自身の冥力で結界を構築してそれを防ぐ
「椎稲が欲しかったものは――本当に守りたかったものを……」
しかしそれを見越していたシキトは、槍を鎌へと変化させて自身が放った冥力波が相殺される中を鎖牙へと向かって突き進む
自身の神能が自身を傷つけることはない。放たれた極大の冥力砲が完全に相殺され、無力化される前にほんのわずかな間合いを神速で詰めたシキトは、全霊の冥力が込められた斬撃を逆袈裟に放つ
「――ッ!」
大鎌の刃に凝縮された冥力と冥力砲の二重攻撃によって、結界を相殺したシキトは、目を瞠っている鎖牙に渾身の拳を見舞う
「お前が壊してどうするんだ!!!」
「ガ……ッ」
結界を斬り裂かれ、半瞬反応が遅れた鎖牙は、シキトの拳の直撃を受けて後方へと吹き飛ばされる
大地へ叩き付けられ、岩盤を砕きながら数百メートルは吹き飛ばされた鎖牙は、黒杭を地面に突き立ててその勢いを殺し、同時にそれを投擲する
「っ!」
天に昇る黒い箒星を思わせる黒杭の一撃に、追撃を書けようと肉薄していたシキトは迎撃され、咄嗟に受けた大鎌の刃ごと空中で弾き飛ばされてその場に降り立つ
「随分と、説教臭いことを言うようになったじゃないか」
口端から立ち上る血炎を拳で拭ってかき消した鎖牙の言葉に、大鎌を構えたシキトは自嘲するように言う
「お前があんまりみっともないんで、ついな」
そう言って鎖牙を見据えたシキトは、今は敵対してしまっている親友にして好敵手へ向けて言葉を続ける
「お前がやってるのは、椎稲の代わりに、夢を叶えているんじゃない。それどころか、弔い合戦でもない――」
確かに椎稲は、九世界の様々な種族が手に手を取り合うことを夢に見ていた。オルセウスと出会い、その心に触れ、戦いの中で作り上げていった絆に夢を見た
だがそれは、十世界の言う形ではない。誰もが争わない世界ではなく、誰かを心を通わせて絆を紡ぐことそのものを願っていたのだ
欲しかったのは、「世界」ではない。人と人の「心」。一人でも多くの人との「絆」だった。ならばそれは、十世界では手に入らない。十世界が望む世界を作っても、おそらくは手に入らないもののはずなのだ
それを本人が分かっていたのかは分からない。しかしシキトには――鎖牙の親友であるシキトには、なぜ鎖牙が十世界に入ったのか、その心の根底にあるものが分かっていた
「ただの、下らない――オルセウスへの嫉妬だろ!」
「――……」
シキトの言葉に、鎖牙はその三つの目を剣呑に細める
いつのころからか、シキトと鎖牙は親しげに話す椎稲とオルセウスの姿を遠巻きに見ていることが多くなっていた
ずっと四人だった居心地の良い空間に張り込み、そしてその中心だった椎稲の近くにオルセウスがいる状況は、椎稲に想いを寄せているシキトと鎖牙にとって非常にやきもきしたものだったと言わざるを得ない
椎稲にとって、同等以上の力を持つオルセウスが戦いの中で、どれほどその支えになっているのかと考えれば、シキト達はそれを遠巻きに見て、自分達もそこで肩を並べられるように強くなることを誓うのが、その当時のシキトと鎖牙にできる精一杯だった
そして、椎稲が死んだヘイルダートの悪夢の終結後、最強の天使である「四聖天使」の一人として迎えられることとなったオルセウスだが、結果的にその理想として掲げていた光と闇の友好を築けずにいる
ならば、オルセウスにさえできなかったその目的を果たせば、自分という存在を椎稲に残すことができる
想い人を守ることもできず、ずっと遠巻きに見ていることしかできなかった鎖牙にとって、それは椎稲のためにしてやれるたった一つの事だったのだろう
「そうかもな」
シキトの言葉に目を伏せて自嘲混じりに答えた鎖牙は、軽く手を振るって自身の周囲に無数の黒架の叢を出現させる
「鎖牙!」
「確かに、最初はお前の言う通りだったかもしれない。そして、今もその想いがあることは否定しない。だが今はそれだけじゃない。――十世界の居心地も悪くないと思ってる自分がいるんだ」
自身の武器が無数に生える黒枷の群の中に佇む鎖牙は、懸命に自分に訴えてくるシキトへと静かな言葉を返す
「――っ!?」
確かにシキトが言うように鎖牙が最初に十世界に入ったのはオルセウスへの嫉妬だったかもしれない。今も椎稲を守れなかった自身の弱さを呪い、責め続けていることも事実だろう
だが鎖牙は、「今の自分にはそれだけではない夢がある」と胸を張って言うことができる自負があった
「馬鹿げた夢かもしれないが、それでも目を輝かせて理想を語る姫に、俺は少しだけ夢を見たくなった」
両の手で黒杭を手にした鎖牙の告白に、シキトは声を上げる
「ふざ――」
「お前には、何もないだろ」
しかし、そのあらぶった感情の込められたシキトの言葉は、鎖牙の冷響の声によって一刀の下に斬り捨てられる
「っ!」
その言葉に息を呑んだシキトを三つの目で見据える鎖牙は、冥力を纏わせた黒杭で周囲に群生した黒杭を叩く
「お前は椎稲の遺志を守り、何一つ間違っていない正しい生き方をしてきたんだろうな。――でもそれは、お前がそうするべきだと思ったからではなく、そうすることしかできなかったからだ」
冥力を帯びた黒杭で叩かれた黒杭は、その冥力を受けて共振し、そしてその振動が地面から生える黒架の群勢に次々と広がっていく
「これは……っ!」
同一の冥力から作られた全ての黒杭が共鳴し、反響するのを見て取ったシキトは、思わず目を瞠る
「分かるかシキト?」
そして次の瞬間、再び鎖牙が黒杭を叩くと同時に地面から生えた無数の黒杭が霧散して消失する
だが、それと同時にシキトの前からは全てが消失していた。鎖牙の姿はもちろん、周囲の風景、音、色までもが失われ、ただただ虚無に等しい世界だけがシキトを包んでいた
「――ッ!」
(冥力で作った不可識結界で敵を包み込む鎖牙の奥の手――!)
それを見たシキトが大鎌を構えた次の瞬間、その身体が袈裟懸けに斬り裂かれ血炎が吹き上がる
「ッ……!」
「お前は結局、ずっと過去を向いて立ち止まったままなんだ。お前だけが、椎稲の亡霊に取り憑かれたままなんだよ」
冷酷な三つの目で自分を見据え、手にした杭の先端を自分へと向けて振り下ろす鎖牙の姿を霞む三つの目で見るシキトは、同時にその脳裏に椎稲の言葉を思い出していた
《私はね。シキトや鎖牙、夜薙――せめて、私の一番大切な人達にはずっと笑顔でいてほしいと思ってるだけなの。大好きな人の幸せ。それが、私の一番の願いだから》
(ごめんな、椎稲――)
自身の血炎と共に、黒杭を振り下ろす鎖牙の姿を見るシキトは、その心の中で椎稲に謝罪し、そして最期の言葉を思い出す
《みんな、仲良く……幸せになってね》
守れなかった大切な人が残したその言葉を思い返しながら目を伏せたシキトは、結局今になっても何一つ守れない自分を嘲笑って口端を吊り上げる
「お前との、最後の約束も、守れそうにない……」