黒の戦場
真紅の神器によって作り出された摩天楼の大地。その世界を閉ざす黒が生まれた瞬間、そこに込められた滅殺の意志が込められた黒が触れた次の瞬間には、その部分がそびえ立つ摩天楼ごと完全に消失させられていた
時間と空間を超越した神速の世界でぶつかり合い、力を散らすのは二つの黒。しかしその二つの黒は同じものではなかった。
一つは闇。そしてもう一つは黒い光
まるで全てを呑み込んでしまうのではないかと思わせるほどに、一点の曇りもない純然たる暗黒と黒光が互いを喰いあうように天で荒れ狂っていた
「――ッ」
天を喰らう暗黒の太陽が顕現したと思った次の瞬間、その闇を内側から引き裂いて後方へと飛翔したのは、その背に黒く染まった天使の翼を持つ者――十世界に所属する堕天使「ラグナ」だった
その手に、自身の存在が戦う形として顕現した武器である斬馬刀を携えたラグナは、破壊と崩落へと視線向けて険しい視線を送る
(こいつ、この短期間で桁外れに強くなってやがる……っ)
苦々しげに歯噛みしたラグナは、後頭部で一つに結わえた腰まで届く金髪をなびかせながら、全てを滅ぼす黒い顎を生みだした人物――神魔を睨み付けていた
ゆりかごの世界――地球にいるときから神魔を知っているラグナは、知覚から伝わってくるその神能に驚嘆を覚えていた
最後にその存在を知覚してからほんの数日しか経っていないというのに、今の神魔の魔力は当時と比べて同一人物だとは思えないほどに増大していた
それこそ、以前は伴侶との魔力共鳴を行わなければ戦うことができなかった茉莉とも、今なら一人で互角以上に戦えるのではないかと思えるほどに
元々それだけの潜在能力があったにしろ、その力の増大速度は、あまりにも早すぎるものだった
離脱の速度を殺さずに後ろ向きに飛翔するラグナが、漆黒の翼を広げ無数の黒閃を解放すると、その霊格に則って、天を穿つ黒い光がまるで意志を持っているかのように神魔へと襲い掛かる
「――!」
それを見止めた神魔は、自身の身の丈にも及ぶ槍のような柄と両刃の大剣刃を備えた武器――大槍刀に暗黒色の魔力を纏わせてそれを一薙ぎの下に薙ぎ払う
その斬閃と同時に、ラグナへ向けて空いている手のひらを向けて、悪魔の存在を構築している神能――「魔力」を暗黒の砲撃として解放した
瞬間、神魔の直径三メートルはあろうかという極大の暗黒砲が放出され、まるで進路にある全てを闇に呑み込んでいるかのような黒が神速でラグナへと向かって迸る
そこに込められているのは、全てを滅ぼす純然たる殺意。望むままに万象を否定し世界に事象を顕現させる神能の力によって、その意を威として顕現された黒の破滅砲は神速を以ってラグナを呑み込まんとしていた
「――舐めるなよ……!」
視界を埋め尽くすほどの極大の魔力砲を前に剣呑な光をその目に宿したラグナは、身の丈にも及ぶ斬馬刀に纏わせた黒光を破壊の力渦として解き放つ
斬閃と共に刀身から放出された黒光の波動は、目前に迫っていた暗黒の砲撃と真正面からぶつかり合い、その力を炸裂させる
敵――ラグナを滅ぼすという意思を以って放たれた魔力の破滅砲は、その存在そのものである神能と接触することでその力を発現し、そこに内包されていた破壊の力を解き放つ
世界すらも滅ぼしうる破滅の力が暗黒の闇と共に炸裂してラグナの黒光を呑み込んで消滅させると同時、その魔力に込められていた純然たる殺意が物理世界へと現界し、眼下に広がる摩天楼をことごとく呑み込んで薙ぎ払い、灰塵へと帰していく
「――ッ!」
崩壊した魔力砲に込められていた力と意思に全身を打ち据えられ、その力の霊格に眉根を顰めたラグナの眼前で、未だ失われていない暗黒の闇が砕かれた
そこから現れたのは、刀身に魔力を纏わせた大槍刀を持つ神魔の姿。その目を漆黒に染め、金色の瞳でラグナを見据える神魔は、袈裟懸けに神速の斬閃を薙ぐ
「はあああっ!」
「オオオオオッ!」
神魔の肉薄に目を瞠ったラグナは、瞬時に黒光を帯びた大剣を振るって黒魔の斬撃を迎撃する
真上から振り下ろされた暗黒の斬撃と、真上へと振り上げられる黒光の斬閃。ぶつかり合った二人の刃は、互いの力を喰いあい、砕け散った力がその形を失って世界へ溶けていく
「っ!」
しかし、一瞬の均衡の後、天へと迸る魔力を纏う神魔の斬撃が力任せにラグナの黒光を打ち滅ぼすと、刃に凝縮されていた魔力が斬撃と共に放出され、大地を斬り裂いて消滅させる
「ぐ……ッ!」
その暗黒の斬撃を黒光の結界で受け止め、その力のままに吹き飛ばされたラグナは、防ぎきることができずに斬り裂かれ、血炎を立ち昇らせる左腕を一瞥して歯噛みする
痛みに眉を顰め、苦悶の表情を浮かべたラグナは、更なる追撃をするべく神速で自分に向かってきている神魔の黒目近眼に宿る殺意と戦意を見止めて、目を細める
(――強い、な)
絶大な漆黒の力を纏い、大槍刀を手にして自分を殺そうとしている相手――神魔を見据えるラグナは、しかしその心に敬服の念さえ抱いていた
(俺にも、もっと力があれば……あいつみたいに、もっと強ければ……)
ほんの少し見ない間に、まるで別人のような強さを手に入れている神魔の力と才に感服し、焦がれるラグナの目に、対峙する悪魔が大槍刀の斬撃によって放った魔力の極大斬閃が映る
(このままじゃ、殺されるかもしれないな……)
純然たる殺意を宿した神魔の魔力を知覚するラグナは、自身の死の可能性をその力の中に感じ取って目を細める
(ラグナ)
自身の死を予感したラグナの脳裏に響くのは、優しく自分を呼ぶ声。そして、自分が十世界に入り、戦う理由
あの日の絶望が甦り、かつて守ることができずに手の平から零れ落ちた大切なものを取り戻すと決めた誓いがその胸に甦る
(でも、俺はこんなところで死ねない。俺には、やり遂げなければならないことがあるんだ……!)
「――待ってろ、『ユフィ』」
神速で眼前へと迫る暗黒の斬撃を見るラグナの口が、小さく噛みしめるように言葉を紡ぐ
瞬間、先程までのそれを凌ぐ漆黒の閃光が解放され、横薙ぎに斬閃が閃く
「……!」
突如増大した力と、横薙ぎに放たれた斬撃によって自身の魔力斬が両断され、その構成を失て消滅するのを見た神魔は、追撃の足を止める
空中に佇み、先程まで以上に警戒を強める神魔は、その身体から純粋な黒光を放出しているラグナの姿に目を細める
「光魔力が跳ね上がった……!? 随分手を抜いてたんだね」
堕天使の神能――闇に染まった光の力、「光魔力」を全身から迸らせるラグナに、神魔が声をかける
先程までとは一線を画すほどに増大した光魔力を知覚し、魂の髄まで響くような威圧感を感じ取る神魔は、その力に慄きながらも無意識の内にその口端を吊り上げていた
「嫌味を言うなよ。これは、お前のおかげで得た力だ」
自身の身体から迸る光魔力で黒く煌めく自身の身体を一瞥したラグナは、神魔へと視線を向けて感謝の笑みを向ける
「それはどうも」
その身体から放たれる光魔力の威圧感に煽られた神魔は、どこか達観したような表情を浮かべているラグナを見て視線を険しくする
「感謝しているよ……少し見ない間に、こんなにも強くなったお前が、逃げてばかりいた俺の背を押してくれたんだ」
「……そんなつもりはないんだけどな」
掌の中に生み出した漆黒の光の球を握り潰して拳を作ったラグナは、その視線を神魔へと向けて言う
「俺は自分の無力を知りすぎていた。二度もなにもできなかったんだからな」
目を細め、いつか遠い日の過去を幻視しているラグナは、神魔にそう語りかける
「真正面から戦っても勝てない奴に、大切な人を奪われ、助けに行ったくせに返り討ちに合って、命からがら逃げかえった自分の弱さが嫌になってたんだ」
「……!」
「自分は弱い」。――ラグナは自身の弱さに絶望していた。一度目は大切な人を守ることできず、二度目は大切な人を取り戻すことができず、ただ強者の後ろ姿を見送り、ただ生き延びるために逃げたあの日を後悔し続けてきた
「でも、あいつを取り戻すことを諦められず、堕天使になって今日まで生きてきた。少しでも力が欲しいと思ってたくせに、あいつを助けるまでは死ねないと、強い奴との戦いを避けてきたんだ」
明言は避けているが、ラグナの言葉からはその戦う理由が素直に語られており、神魔はその言葉にわずかばかりの共感を得ていた
ラグナがそうして自分の心の内を吐露しているのは、神魔への感謝と自分の中に眠っていた力の目覚めに感慨に打ち震えているからだろう
「少し、分かる気がするよ。僕も似たようなものだから」
大切な人を一途に思っているラグナの言葉に耳を傾けながら、神魔はその姿にかつて自分が守れなかった大切な人――「風花」の姿を思い返していた
「君が十世界に入ったのは……」
その言葉を聞いていた神魔は、ラグナという堕天使について一つの確信を得ていた
ラグナにとって大切なのは、先程から話に出ている「その人」だけ。それ以外の全てはその目的を果たすための手段に過ぎない。つまり、ラグナが十世界に所属しているのは、その力を利用するためだ
「あぁ。あいつと戦うための力を手に入れるため。そして、神眼が必要なのは、あれ以来消息が掴めなくなったあいつを見つけるためだ」
神魔の言葉に、ラグナは抑制の利いた声で自虐的に言う
ラグナが十世界に入った理由は至極単純。ただ力を求め、そして二度目の敗戦以来消息が掴めない敵を探し出すためだ
神器神眼の力は、過去から未来に至るまでこの世界の全ての情報を知ること。その力があれば、行方の分からなくなった敵と大切な人を探し出すことができる
力を求めていながら、英知の樹ではなく十世界を選択したのは、全ての神器を使う能力を持つ奏姫との縁を作っておくためでしかない
「白い翼を棄てたように、俺はあいつのために――あいつを助けるためにそれ以外の全てを捨ててきた。でも俺は、俺の命だけは捨てるわけにはいかない」
神魔へと視線を向け、自ら望んで漆黒へと染めた翼を広げたラグナは、斬馬刀にその力を纏わせて強い決意の込められた声で言い放つ
自身の中に眠っていた力が呼び起された感情の高ぶりもあったのだろうが、ラグナが見せる今の姿は普段押し殺していたその本当の在り様だと神魔には思えた
「もう一度、生きてあいつと会うために。だから、俺はずっと逃げるように戦ってきた
できるだけ自分の身に危険が及ばないように。そして命以外の全てを捨てて力を求めてきたんだ――」
そう言って斬馬刀の切っ先を向けるラグナの表情と光魔力には、まるで憑き物が落ちた様な覇気が纏われていた
「だが、俺は捨ててはいけないものも捨ててたらしい」
「何? まだ戦るの?」
一つの壁を越え、更なる力へと至ったラグナの目に、先程まで以上の戦意が宿っているのを見て取った神魔は、恐怖か武者震いか――いずれにしても昂揚する自身の魂を律しながら問いかける
元々非好戦的な性格の神魔としては、ラグナと戦う理由は乏しい。避けられるならば避けたいのが本心だが、それとは別に眼前の堕天使と刃を交えてみたいという闘争心があるのも事実だった
「あぁ。お前と戦えば、俺はもっと強くなれるかもしれない。
俺が捨ててしまっていた、俺自身を信じる力を拾うことができる気がするんだ」
歓迎してはいないが拒絶もしていない神魔の言葉に、ラグナは先程までの自分からは想像もつかないほどに強大になった光魔力に戦意を掻き立てられる
「それ、全然ありがたくないね」
「そう言うな。こんな気分は久しぶりなんだ」
あの日、大切な者を守れず、自身に絶望したラグナはその人――「ユフィ」を取り戻すためだけに生きてきた
その目的のためだけに、己の誇りも白い翼も捨てたラグナは、同時に捨ててはいけない大切な想いも捨ててしまっていた。
(俺は、もっと俺を信じるべきだったんだな)
目的を果たすために力を求め、目的を果たすために戦いを避け、命を惜しんできた。だが同時に自分自身の力と可能性を信じることもできなくなってしまっていたのだ
(俺の中に流れるこの血を――)
自身の弱さに絶望していたラグナは、いつの頃からか自分の力を信じられなくなっていた。全霊命の力である神能はその意思によって顕現する力。自分の力を卑下していてはその本当の力を引き出すことができない
隔絶した神格、存在の力が生みだす絶望的な力の差――力こそが全てと言ってもいい全霊命の世界で、そんな中で自身の力を信じ切るのは難しい。
だが、自分を信じるという最も簡単で最も難しいことをすることが、全霊命にとって最も大切なことでもあるのだ
「――だから、もう少しだけ付き合ってもらえるか?」
「それ、遠慮させてもらえないの?」
軽い口を叩きながら、険しい表情で大槍刀を構えた神魔の言葉に、ラグナは「却下だ」と言わんばかりの微笑を浮かべた視線を返す
「いくぞ」
迸る光魔力を斬馬刀へと纏わせたラグナは、戦意が凝縮された視線と共に低く抑制された声で言う
「――!」
漆黒の翼を広げたラグナの姿が消失した瞬間、その姿は神魔の目前へと迫っていた
(疾い……!)
全霊命の能力は、その神能の強さに等しい。即ち、その力を増大させたラグナの能力が先程までとは一線を画すものになっていることはある種の必然
しかし、自身に肉薄してきたラグナがいせたその力は、神魔の想像をはるかに超えており、その能力の上昇に、驚愕を禁じ得なかった
「く……ッ!」
しかし、その速さも今の神魔には反応できないほどではない。時間と距離を超越する神速で肉薄し着てきたラグナが放つ漆黒の光を纏わせた斬馬刀の一閃を、全霊の魔力を込めた大槍刀の斬撃で迎え撃つ
暗黒と黒光の斬撃がぶつかり合った瞬間、そこに込められた神格が炸裂して天を穿つ破滅が振りまかれる
互いの身体にはその力が容赦なく降り注ぎ、魔力と光魔力から放たれる威圧と殺意が、心身に物理的なものと間違えてしまうほどの衝撃となって打ち付ける
「っ!」
瞬間、黒の力が相殺されて弾けるのと同時に、互いが放つ力の波動に吹き飛ばされるように、神魔とラグナは半身後方へと吹き飛ばされる
だがそれに怯むことなく、神魔とラグナは再び各々の武器を振るう。
「はあああッ!!」
「オオオオッ!!」
闘気に満ちた咆哮と共に放たれるのは、無数の斬撃。一撃一撃が必殺の殺傷力を持ち、ただ一つの例外もなく神格が許す限りの神速で放たれる斬撃は、その軌跡さえ見せることはない
全ての理を否定し、望むままに自傷を顕現させる神能の特性のままに、体勢を無視した全撃全力全霊の斬撃がぶつかり合い、暗黒と黒光が砕け散りながら荒れ狂い、迸る
相殺され、砕かれた力が互いに、相手を捉えてその身体に小さくない傷をつけていく。斬撃ともに傷をつけられた身体からは血炎が零れ、黒の斬撃と共に真紅の欠片を中空に舞い踊らせる
型もなにもないただ力任せに揮う破壊の攻撃。刃と刃がぶつかり合い、魔力と光魔力がぶつかり合い、そして互いの信念と殺意が純然たる戦意となってぶつかり合う
「――ッ!」
神速と破滅の力を以って放たれる闇と黒光の斬撃が生みだす衝撃と威圧によって身体が砕け、血炎が上がる度、神魔とラグナは痛みが死の恐怖と生への渇望、力への憧憬と相手への敬意を共有していた
まるで対話にも似た殺意の攻撃の中、その本質である勝利のためにラグナは黒翼を広げて、そこに無数の黒光珠を構築する
それはラグナの光魔力が収束された破壊の黒光。そこから放たれるのが光魔力を凝縮した破壊の極光でであることを知覚した神魔は、大槍刀の斬撃を打ち込むとともに、左手を柄から離してその掌の中に魔力を凝縮していく
瞬間、ラグナが収束した無数の漆黒の光珠から、放たれた黒閃の破壊砲撃がほぼ零距離で神魔へと注がれ、そこに込められた神格によって破滅を顕現させる
炸裂した漆黒の光は仮初の世界の天を真黒に染め上げ、黒光の無明を作り出す。まるで全てが失われてしまったかのような黒しかない純然たる黒だけが世界を包み込んでいく
「クク……」
闇のようにすべてを呑む込む黒光。自身が生み出した破滅の光を見て口端を吊り上げたラグナは、その純黒光さえをも呑み込んでその姿を現した神魔の姿を見ていた
ラグナの黒光の極光閃の直撃を受け、霊衣を焦がし、身体の所々から血炎を立ち昇らせながらも、神魔は全く堪えた様子も見せていなかった
(信じられない)
自分の攻撃が効いていない訳ではない。しかし、それを受けたはずの神魔は、身に見えて負傷しているにも関わらず、衰えることのない純然な戦意と殺意で魔力を染め上げていた
「ハアアアアアッ!!」
漆黒金眼の目でラグナを捉える神魔は、光魔力の砲撃を無理矢理突き抜けた身体で、ラグナへと肉薄し、魔力を凝縮した左腕でその顔面を鷲掴みにする
(戦いながら、どんどん強くなってやがる……!)
至近距離で黒の極光を受けることを覚悟し、それを突き抜けた神魔は、全霊の魔力を込めた左腕でラグナを捉えてそのまま力任せに地面へ向けて叩き付ける
零距離で漆黒の闇を叩き付けた神魔は、左手に凝縮された魔力を全霊の魔力砲として解き放ちながらラグナを吹き飛ばす
ラグナを呑み込んだ魔力が眼下で爆発するが早いか、神魔は更に魔力を凝縮させた大槍刀を手の中で回転させてその切っ先を闇の爆発へと向けて投擲する
「はあっ!」
漆黒の闇を帯びた大槍刀の槍撃が、そこに込められた神能の神格のままに神速で世界を貫き、その破壊の闇をさらに増大させて天を貫く闇の柱へと変える
「――……」
そこに込められた滅殺の意志によって大地と天が唸りをあげるのを睥睨しながら、神魔は投擲した大槍刀を再度その手の中に顕現させる
「まだだ……!」
神魔がその目を剣呑に細めた瞬間、天地響きの音をもかき消すように、強い意志を孕んだ抑制された静かな声が常闇の残滓の中から響く
砕けた摩天楼の瓦礫を踏みしめ、乾いた音を立てて闇の中から一歩一歩前へと歩いてきたラグナは、全身から血炎を立ち昇らせ、片翼を欠損していながらも微塵も衰えぬ戦意を神魔へと向ける
「俺は、まだ負けていない」
生命力が強い全霊命であっても、相当な深手を負っていながら、ラグナはまるで何かに突き動かされるように神魔へと闘志を叩き付ける
「折角拾った命を無駄にしていいの?」
その視線を真っ向から受け取める神魔は、先程のラグナの言葉を思い返しながら手の中で大槍刀を回転させながら不敵な笑みと共に問いかける
先程の話から判断して、ラグナには何に変えても成し遂げたいことがある。
先ほどの攻防も全く手を抜いていたわけではない。それで生き延びたということは偶然であり、これ以上の戦いは今以上にその命が危機を瀕することを意味している
神魔としても、ラグナがここで戦いを終えるつもりならば、あえて止めを刺そうとも思ってはいないし、そう言ってくれることを願っていた
「なんでだろうな……お前を前にしてると、血が騒ぐんだ」
神魔が発したその言葉の意味を正しく理解しながら、ラグナは自嘲するような笑みを浮かべて血炎を立ち昇らせている自身の手のひらを見る
それは、ラグナが生まれて一度も感じたことがないような高揚感。まるでもっと戦えと促しているような衝動に突き動かされるラグナは、不思議とそんな自分を受け入れていた
「――まったく」
その様子に辟易とした様子で苦笑を浮かべた神魔は、口端から血炎を霞のように零して、大槍刀を構える
先程のラグナの極光の無理な突破。そのダメージがないはずはない。平静を装っていても、その身体は軋み、絶え間ない苦痛が神魔を襲っていた
「死んでも後悔しないでよ」
漆黒の魔力を纏わせた大槍刀の切っ先を下げ、滅びの闇を纏った神魔の金色の瞳を受け止めたラグナは、黒い光の力を宿した身の丈に及ぶ斬馬刀の切っ先を向けて答える
「お前もな」
その言葉を皮切りに、悪魔と堕天使の漆黒の戦奏が、世界を閉ざす黒をもたらすのだった
※
漆黒の闇が束ねられた波動の壁が唸り、渦を巻いて摩天楼の大地を滅ぼしていく
その波動に一つに束ねた長い烏珠の髪と霊衣の羽織を翻らせる瑞希は、両手に携えた細剣を握る手を緩めず、凛麗な視線を眼前の闇を見据える
瞬間、その微塵も緩められることのない鋭い視線の意思を肯定するかのようにその闇が打ち砕かれ、そこから額から角を生やした瞳のない白目の男が姿を現す
「――」
自身が放った魔力の闇の直撃を受けたにも関わらず、ほとんど効果があるようには見えないその姿に不快気に眉を顰めた瑞希は、シリンダーを備えた片刃剣を手に迫りくるその人物――ジュダへと向かって地を蹴る
戦の神の眷属たる戦兵の一員であるジュダは、さながら砲弾のように重厚に力強く、瑞希は矢のようにしなやかにほぼ同等の神速を以って刹那さえ介在する余地のない間に肉薄する
「ムンッ!」
その勢いのまま、右手で力に任せて袈裟懸けに振り下ろされたジュダの剣を、交差された瑞希の双剣が受け止める
戦の神の眷属が持つ神能――「戦」と瑞希の魔力が真正面からぶつかり合って軋み、そこに込められた純然たる殺意がせめぎ合い、行き場を失って周囲の大地をその神格のままに引き裂いていく
「――っ!」
金属音と神能の火花をまき散らしながら自身へと振り下ろされるジュダの刃の重さに、瑞希はその柳眉を苦悶に歪め、それを力任せに横に薙ぐ
「!」
神能の特性によって、事象として放たれる全霊命の攻撃をいなすことはできない。迎撃か防御、あるいは回避によってのみ防ぐことができる攻撃を瑞希は自身の攻撃として巻き込むことでその軌道を逸らしたのだ
放った斬撃ごと横に薙ぎ払われたジュダはわずかに体勢を崩し、戦の眷属の証である瞳のない目に、わずかに驚愕の色を浮かべる
だが、その狼狽は一瞬にも満たない間の事でしかない。
事象そのものを力とするがゆえに、全霊命にとって体勢など何の問題でもない。刃を横薙ぎにすると同時に懐へと潜り込んできた瑞希を、ジュダは刀身を握っていない左手に込めた力の砲撃によって迎え撃つ
ジュダによって生み出された極大の爆発の威力と衝撃によって地面に足跡を残しながら後退した瑞希は、咄嗟に展開した魔力の障壁に入った亀裂と、防ぎきれずに受けた左半身の焦げ跡を一瞥してその柳眉をひそめる
(……さすがは、戦の神の眷属といったところね)
ジュダをはじめとする戦兵の神である円卓の神座№9「覇国神・ウォー」は戦の神。必然その眷属である戦兵も、それに恥じない戦闘力を有している
異端神であるが故に、光と闇の力にあるような相互関係を持たない戦の神とその眷属は、誰が相手でもその圧倒的な戦闘力をいかんなく発揮することができるという意味で最も戦闘に特化した種族といっても過言ではないかもしれない
「一つ、聞いてもいいかしら?」
先の一撃を受けて焦げて痛む腕を一瞥した瑞希が凛涼な響きを持つ声で問いかけると、ジュダはそれが回復の時間になると分かった上でそれに応じる
「なんだ?」
瞳のない白い眼で見据えられた瑞希は、その視線を外――この特殊な空間へと向けて言う
「これは、一体誰の意志でやっているの?」
「真紅の独断だ」
この世界に光魔神太刀を取り込んでの戦闘――世界の恒久的平和を求める十世界にはあるまじき行為の現況を問いかけた瑞希は、ジュダの答えにその目を剣呑に細める
(真紅が? 彼がここまで強引な手段を取るとは思えないけれど……)
十世界が十世界と名乗る以前、その創立に携わった瑞希は、冥界総督である真紅のことも知っている
だが瑞希の記憶の中にいる真紅は、姫が望まないことを行うような人物ではない。そのことが、ジュダの答えと現状への違和感を禁じ得なかった
「お前達の思うままに光魔神を躾けられるわけにはいかないらしい」
瑞希が十世界創立者の一人であることを知らなくとも、その表情から「なぜ独断でこのようなことをしたのか」という疑問を感じ取ることはできる
そんな疑問を瑞希の氷麗な表情から読み取ったジュダは、手にした片刃剣の背を肩に乗せて、口端を吊り上げて嗤う
今の九世界において最強の存在である反逆神と同等の力を持つ光魔神を味方に引き入れるための九世界の目的は十世界も気付いている
つまり真紅は、このままでは光魔神が九世界の味方になることは合っても敵になることが失くなってしまう――十世界の敵として立ちはだかる可能性を危惧しているということだろう
「……なるほど。あなた達は真紅が光魔神と話をする時間稼ぎをしているというわけね」
「まあ、そんなところだ」
端的にそれを解釈した瑞希の言葉に、ジュダはどこか真紅の行いを嘲笑っているようにも聞こえる声で応じる
「随分と余裕がないのね」
確かに、いつか誰かが問いかけなければ、大貴はなし崩し的に九世界を巡り続け、そうして作り上げた人と人との縁に縛られて、選択肢を失ってしまうかもしれない
それに対する焦燥が原因ならば、真紅のこの少々強引な手段にも合点がいく。だが、瑞希はそれに動揺を見せることなく、その涼凛な美貌に微笑さえも浮かべていた
「意外だな。もう少し、反応があると思ったんだが」
同様や狼狽を隠している様子もなく、極めて平静に応じたその瑞希の反応は、ジュダにとってはあまり面白くないものだったらしく、どこか拍子抜けしたような口調でつまらなそうに独白する
「期待に添えなかったようで、悪いわね」
取り乱すのを見たかったのか、慌てて大貴の許へと駆け寄ろうとするような光景を想定していたのかは分からないが、いずれにしても自分の反応が予想以上に淡泊だったのだろうと察した瑞希は、嗤っているようにも聞こえる静かな声で言う
「けれど、彼は――」
瑞希は嘲笑に似た微笑をジュダに向けると、知覚がはるか遠くに捉えているその存在へと意識をわずかに傾けて微笑む
瑞希の脳裏によぎるのは、今日まで監視兼護衛役として見てきた大貴の姿と心の在り様。――感情や気持ちを表に出すのは少々苦手としているようだが、瑞希は大貴の心根がとても優しく、思いやりに満ちた性格だということを知っている
そして九世界と十世界、全霊命と半霊命――その目で様々な想いを目にし、苦悩しながらも神魔やクロス、時には十世界の者達にさえ導かれて成長してきた大貴の心は誰のものでもないのだ
「もう自分で自分の生き方を決められるわ」
そう言って麗凛な視線をジュダへと向けた瑞希は、静かに目を伏せて抑制の利いた涼やかな声音で言う
「光魔神様が十世界を選ぶというのなら、それは仕方がないことでしょうね」
九世界は光魔神を味方にしたいとは思っているが、その心を掌握し、利用しようとは思っていない
大貴を正しく光魔神へと覚醒させ、その上でその心で自分達の味方になってもらうことさえできればいいのだ
そもそも、九世界には九世界それぞれの矜持がある。悪魔は悪魔の力で魔界を総べ、天使は天使の力で天界を総べる――そうやって、それぞれの世界が過剰な関係を持たず、相手を認めながらも否定し、それぞれの形で存続していけることこそが理想だ
だが、この世界にはそれを阻む要素がある。それが、「神」そして神に等しい力を持ちながらも神ではない「異端神」だ
その力を持つ十世界に対抗するために九世界も同等以上の神を必要としているに過ぎない。つまり九世界の理想は神の力に頼らないことなのだ
「信じているんだな」
「あなた達は信じていないのね」
大貴の成長を信じている瑞希と、このままでは光魔神が敵にしかならないと危惧している十世界。
九世界と十世界、各々の世界の信義をジュダと交わした瑞希は、その麗悧な視線を向けながら静凛な声で問いかける
「それよりも、あなたはそれでいいの?」
「十世界の一員としてこんなやり方を認めるのか?」という意図で向けられた瑞希の問いかけを受けたジュダは、わずかにその眉間に皺を寄せて思うところがあるのであろう表情を浮かべる
「だが、一つの選択肢でもある」
やや語気を濁して発せられたジュダの答えは、真紅の行動に賛成はしていないが、その気持ちはわかるといった印象を受けるものだった
「平和を訴えるために力がいるというのは矛盾する話ではない」
「そうね」
ジュダをはじめとする覇国神に列なる存在は、戦争の神の眷属。世界の恒久的平和を掲げる十世界の理念とは真っ向から対立するような存在ではあるが、現に覇国神は愛梨に従っている
矛盾しているようにも聞こえるが、平和と力は両立する場合がある。平和のための対話の席に相手を座らせるためには、無視できないほどの力を示す必要があるからだ
「そうかもしれないわね――けれど、その平和は姫が求めている平和とは違うわ」
「そうかもしれないな。だから、今我らはここにいる」
瑞希の水晶のように澄んだ瞳と、ジュダ瞳のない白い目から放たれる視線が交錯し、再度臨戦態勢が高まっていく
「――ッ!」
しかしその瞬間、遥か彼方で大貴の神能――「太極」の力が戦意を帯びて吹き上がったのを二人の知覚が捉える
「これは……」
「どうやら、交渉が決裂したようね」
同時にその方向へと視線を向け、目を瞠ったジュダに、瑞希が涼やかな微笑でその知覚を見て独白する
「……そのようだ」
瑞希の言葉にを抑制された声で答えたジュダは、大貴が臨戦態勢に入ったことで十世界と敵対の意志を表示したと受け取って瞳のない目を細める
その目は、わずかに寂しげな色を浮かべており、それは大貴が敵対したことを残念に思っているようにも、独り立ちした子供を見守るような優しいものにも見えた
「こうなることが分かっていたのか?」
まるでこうなることが分かっていたかのような瑞希に、視線を向けたジュダが抑制のきいた声で問いかける
「いいえ」
その言葉に目を半分伏せて否定の言葉を述べた瑞希がジュダへ向けた凛とした麗貌は、優しい笑みで彩られていた
「けれど、大切な人がいるのなら、きっと多くの人はそこに自分の価値を見い出すでしょう?」
(私のように……ね)
ジュダにそう語りかけた瑞希は、その心の中で自虐的に独白し、その麗笑に自嘲の色を加える
瑞希は大貴と人間界の新王――「ヒナ・アルテア・ハーヴィン」が恋仲であることを知っている。実際は婚約者候補という名目だろうが、二人を見ていれば想いが通じ合っているのは一目瞭然だ
道が見いだせない時、道に迷った時、人はおのずと自身の心の中にある大切な人やものに導を得るもの。ならば、どちらも間違っていない九世界と十世界の理念と信念の中でどちらかを選ぶとすれば、大切な人がいる方を選ぶという選択肢は否定できない
「さて、とりあえずどうするのかしら? あなたの役目は真紅が光魔神様に話をするための時間稼ぎでしょう? なら、交渉が決裂した今、それを果たす義理があるのかしら?」
「このまま戦い続けるのか?」と問いかけた瑞希の言葉を受けたジュダは、その眉間に皺を寄せると、手にしていた剣の切っ先を下ろす
「……好きにしろ」
おそらくここで戦いを続けていなければ、瑞希は一直線に光魔神の許へ向かうだろうことは分かっている
大貴と相手をしているのは真紅。そうなれば、ジュダに求められるのは、瑞希が行くことで真紅の命が危険にさらされる可能性と、自分が足止めをすることで大貴と真紅の一対一で戦った場合の戦績を天秤にかけることだった
そして、ジュダが結果的に下した判断は、仮に真紅が殺されることになったとしても、それはこのような強引な手段を取ったことに対する十世界の幹部としての責任だというものだった
「そう。ありがとう」
ジュダの答えを聞いた瑞希は、顕現させた双剣を手にしたまま、神器によって作られたこの空間を大貴の許へ向かって飛翔していく
「……これでよかったのかもな」
神速で飛び去っていく瑞希の後ろ姿を横目で見送ったジュダは、小さな声で独白すると同時に背を向けた