界変の引鉄
世界の狭間にある英知の樹の本拠地、博界館。その一角に設けられた自身の部屋の中、「天樹管理臣」一人である王路は、堅牢な椅子に腰を下ろしていた
「――……」
自分一人しかいない静寂の中で静かに瞼を落とし、自身の胸に手を当てた王路は、ゆっくりと自分自身の内側へと意識を沈めていく
《反逆神にやられた傷が大分深いわ……悪いけど、少しの間眠らせてもらうから》
他者の夢に住まう夢想神の宿主である王路は、先日、全身に傷を負い、血炎を立ち昇らせながら帰ってきたその姿を思い返す
神の敵たる反逆神の力により、自身に与えられる攻撃や受けた傷も夢として抹消できるはずの夢想神は、その力でさえ癒えることのない損傷を受けて、息も絶え絶えになっていた
「そう簡単には目覚めないか……」
あれから一日ほどしか時間は経っていないが、自身の内側で深い眠りについている夢想神の存在を確認した王路は、眉をひそめて独白する
「死なないでくれよ、夢想神。我らの計画にはお前の力が必要不可欠なのだからな」
夢の神であるとはいえ、眠っている最中にこの言葉は聞こえていないだろうが、それでも抑制された声でそう訴えかけた王路は、その拳を握りしめて瞼を開く
「……ゆっくりと休んでいろ。その間に私は――」
強い意志の込められた視線で誰もいない室内を見回した王路は、夢想神を労いながら、己の成すべきことを宣言する
「神の眼を手に入れる」
※
夜の帳が開き、天の中心に座す光源――「神臓」が月から太陽へと変わっていくのを、月天の精霊王城から一人見つめていたイデアは、おもむろに口を開く
「今日、光魔神様達がこの世界を発たれるのですね」
「そうみたいだな」
静かに呟いた自身の言葉に答える声を聞いたイデアは、小さく目を瞠ってその視線を背後へと向けると、次の瞬間には安堵したような辟易したような息をつく
「……あなた達ですか」
そう言ってゆっくりと振り返ったイデアは、そこにいた二人の悪魔――ロードと撫子に向かい合って微笑を浮かべる
「相変わらず神出鬼没ですね。わたくしがこの距離に近づかれても知覚できないだなんて」
「考え事でもしていたんだろ」
ロードは軽く答えるが、知覚に長けた精霊の王であるイデアが、声をかけるまで全く知覚することができなかったばかりか、この城にいるはずの他の全ての精霊の近くさえかいくぐっていとも容易くこの場所へ到達するなど、信じ難いことだ
「それでは、我々としても面目が立たないのですが……」
しかし、それをさも造作もないことだとばかりに返したロードの言葉を聞いたイデアは、困ったように苦笑すると、その表情を凛々しい月天の精霊王のものに変える
「それで、何の用でしょうか?」
ロードと撫子が何の意味もなく精霊王城の警備をかいくぐってこの場に現れたはずがない。人を呼ぶでもなく、迎撃するでもなく二人と向かいあったイデアは、その真意を静かな声で問いかける
「そっちこそ、俺達に用があるんじゃないか?」
しかし、それに答えたロードの言葉はイデアの心中に残る小さな懸念を正確に抉り出すものだった
「――……」
まるで自分の心を見透かしているようなその言葉にその柳眉をひそめ、唇を引き結んだイデアは、しばしの沈黙の後にゆっくりと口を開く
「あなたは仰いましたね。彼らの中に〝全てを滅ぼすもの〟がいると」
「ああ」
厳かな声音で、淡々と発せられるイデアの言葉にロードは抑揚のない声で端的に応じる
表面上は平静を装っているイデアだが、その胸中には「全てを滅ぼすもの」に抱く複雑な思いと、言い知れぬ不安が渦巻いていた
「ならば、あの時――ロシュカディアル戦役の時のように、その身に危険が及ぶのではないですか?」
月の光のように澄んだ透明感を持つ美貌を過去の影で彩ったイデアは、声を荒げることなく抑制された声でロードに問いかける
あの時は何も知らなかった。だが、今は知っている。そして今は、おそらく世界に正しく滅びをもたらすことができる最後の機会。
ロードを含め、自分達がその事実を噤んでいるのは、不可神協定によるもの。世界が神によって導かれてはならないという摂理に基づき、神の意を汲むものはその事柄を告げることができない
しかし、この機会を逃せば世界は滅びる。「全てを滅ぼすもの」とはそういうものだ。もはや、その事実を含め、すべての真実が伝えられるべきなのではないか――そう訴えるイデアに耳を傾けていたロードは、ゆっくりとその口を開く
「かもしれないな。――だが、仮にそうだとしても、それで世界が滅びるならそれまでの事だ」
「――……」
世界が滅びることさえも世界の運命――そんな風にも聞こえるロードの言葉を聞いたイデアは、それに一定の理解を示しつつも、承服しかねると言った様子でその麗貌に不服そうな表情を浮かべる
「心配するな」
そんなイデアを見て、抑制の聞いた声で語りかけたロードは、そのわずか後方に淑やかに控えていた撫子を一瞥してその身を翻らせる
「そんなことをさせなければいいだけのことだ」
背を向けながらそう言ったロードは、イデアから向けられるわずかな不安を感じさせる視線に肩ごしに視線を返す
「それに――」
その金色の瞳に、月光の如き精霊の王を映したロードは、わずかに口端を吊り上げて不敵な笑みを浮かべる
「少しばかり試練があった方が、覚醒が早まるさ」
「待ってください」
その言葉を聞いたイデアは、その柳眉をわずかにひそめると、今まさに立ち去ろうとしているロードを抑制の利いた声で呼び止める
その声に足を止めたロードへ視線を送るイデアは、長い黒髪に覆われた背が一向に自分に背を向けないことを見て取り、息を呑んで問いかける
「……あなた方は、一体何者なのですか?」
ロードと撫子。――イデアは二人と面識こそあれど、ロシュカディアル戦役の後に初めて会い、そして幾星霜の年月を経て先日邂逅したばかりの付き合い。
人生でたった二度、今回で三度目の面会でしかない二人のことをイデア自身、全くと言っていいほど知らない。
自分達の正体を問いかけられたロードは撫子と視線を交わし、半身その身を捻ってイデアの問いかけに答える
「なに、ただちょっとばかり過保護なだけの保護者さ」
片目を閉じ、金色の視線を送ったロードの言葉に続き、撫子が深々と頭を下げると同時に、二人の存在はまるで幻のようにイデアの眼前から消失する
「――……」
一瞬にして眼前から消えたロードと撫子が先ほどまでいた場所に視線を送っていたイデアは、瞼を閉じると、沈痛な面差しでその手を胸に当てる
まるで祈るようにその場に一人佇むイデアの心中は、誰に届くこともなく少しだけ変わり始めた妖精界の中に溶けて消えていくのだった
※
その頃、同じく博界館の一角。水晶の柱に抱かれた美女が中心に立つその一室で、失った腕を一瞥する悪魔――鼎が軽く頭を掻きながら言う
「悪ィな。しくじった」
そう言って鼎が視線を向けた先にいるのは、この英知の樹の首領――「フレイザード」。
その首領から神眼の奪取を命じられたものの、それを成し遂げられなかったことを詫びた鼎に、穏やかな声が答える
「構わないさ。蒐集神が現れるなど、こちらとしても想定外だったからな」
鼎が神眼の奪取に失敗したのは、蒐集神に襲われたからだった。無論その前にロード、撫子という想定外の邪魔が入ったということもあるが、それを含めてもフレイザードは鼎の任務失敗を咎めるつもりはなかった
「君の神測証が奪われなかっただけでもよしとしないとな。それに、同様に神眼も奪われていない。
我らは何も変わっていない。するべきことは何も変わらない。――ただ淡々と、粛々と神器を集めるだけだ」
相手は、蒐集神。この世に存在するあまねく宝を集める神器使いにとって天敵ともいえる存在。それと出会って神器を奪われなかったことは僥倖というべきことだろう
そして標的となる神眼も蒐集神に奪われておらず、以前光魔神と行動を共にする詩織の中にある。つまり、何も成すべきことは変わっていない
「さすが大将。器がでけェな」
そんなフレイザードの言葉に、まるでその答えが返ってくることが分かっていたかのように鼎は不遜とも見える不敵な笑みを浮かべる
「――しかし、警戒はされたな」
確かに自分達のものも、標的としているものも含めて神器は一つも奪われてはいない。ただ一つ変わったことがあるとすれば、それは英知の樹が神眼を狙っていることを知られてしまったということだろう
当然、神眼を宿しているゆりかごの人間のガードは固くなり、警戒されるであろうことは想像に難くない
「なぁに。心配しなくても、傷が癒えりゃ今度こそやれるさ。俺の神器はそういう神器だ」
しかし、そんなフレイザードの懸念を鼻で笑い飛ばした鼎は、自身の額にある漆黒の神器――神測証を親指で指さしながら言う
自身の存在を世界の位相から乖離させる神測証の力があれば、どれほど警戒されていようと神眼を手に入れることは難しいことではない。
事実、邪魔さえ入らなければそれはあながち虚勢でもないことはフレイザードも十分承知しているところだ
「いや、君はしばらく休んでいてくれればいい。神眼の回収には別の者を回すことにする」
しかし、半ば確信にも似た自信に満ちた鼎の言葉にフレイザードは、小さく首を横に振って見せる
「あん?」
神眼の回収は別の者に任せるというフレイザードの言葉に、鼎は怪訝そうに眉をひそめる
どちらかといえば、暗殺や急襲に向いているように思える神測証の所有者でありながら、鼎自身はそういうことを好まない性分だ。
しかし真正面からの戦闘を好むとはいえ、それは粗雑な性格に起因するものであり、何より鼎は怠惰な性格でもあった。神器回収中止の判断を下したフレイザードに威嚇するような声を発したのは、別に戦いたかったわけでもなく、鼎自身の性分によるものだ
神器の適性の有無は不明だがが、もし仮に性格に神器の適性との因果関係があるのならば、そういうところが鼎が神測証を発動できる理由なのかもしれない
「そんな風に気を悪くしないでくれ。特に他意はないさ――ただ、他にやっておきたいことがあるだけだ。神眼の回収は後回しで良い」
そんな鼎に笑みを向けたフレイザードは、不敵な形に歪めた口元から小さな嘲笑を零す
「――それに、私がそんな命令を下さなくても、勝手にやってくれる奴がいるだろうしな」
「?」
フレイザードの口から漏れたその言葉は、他の耳には言葉として聞き取ることも難しいような小さな独白だった
何やら話したように聞こえた鼎が少しばかり怪訝そうに視線を向けると、フレイザードは一瞬でその表情を普段と変わらないものに変えて応じる
「なんでもない。いずれにしても、しばらくはしっかりと身体を癒してくれ――その時が来たら存分にその力を振るうことができるようにな」
「……そうかい。んじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうとするか」
フレイザードの言葉に、どこか納得しきれないような表情を見せた鼎だったが、「やらなくていいというならやらない」――そんな心情が透けて見えるような仕草で言う
「カトレア、連絡を頼む」
その様子を見たフレイザードは、その視線を部屋の片隅にいる人物へと向ける
「はい」
そこにいたのは、膝裏まで届く緩やかなウェーブのかかった金色の髪と新緑色の瞳を持ち、司祭服を思わせる霊衣を纏ったそ四対八枚の黒翼を持つ堕天使
世界を超えて、あらゆるものにその言葉と意思を届ける力を持つ水晶質の花飾り――神器「通神界路」を持つカトレアと呼ばれた堕天使は、英知の樹首領の言葉に穏やかな声音で応じる
「して、いかように?」
カトレアが淑やかな声音で、「どこの誰に」、「何を伝えるのか」と問いかけると、フレイザードは一拍の間を置いて厳かな口調で通信の内容を述べる
「十世界盟主、奏姫愛梨に。英知の樹首領フレイザードが直接の面会を求める、と」
フレイザードの口から出た言葉に一瞬その場の空気が張りつめる。
それもそのはず、十世界と英知の樹は神器を巡って対立関係にある。全ての神器を使う力を持つ神の巫女――「奏姫」である愛梨のために、十世界は神器を献上し、英知の樹は、神の力を手に入れるために神器を求める
神器を求めることは愛梨本人が望んだことではないが、愛梨を思う十世界の者達は少しでも敬愛する姫の身に危険が及ばないようにと、神器を手に入れようとするため、元々神器を集めることを目的としている英知の樹とは相容れず、時には神器を巡って争いさえ起きていた
「かしこまりました」
敵対はしていないが、互いに協力するわけでもなく利する関係というわけでもない。
そんな組織の長との接触を求めたフレイザードの言葉に小さく目を瞠ったカトレアだったが、すぐさま平静を取り戻して静かな声で頷く
「何を企んでるんだよ、大将」
そのやり取りを聞いていた鼎が、悪戯を画策する子供のような表情を浮かべて問いかけると、フレイザードは静かに冷めた声で答える
「なに。簡単なことだ」
鼎へと向けられたフレイザードの目は、何か策謀を巡らせていることを窺うには十分過ぎるほどに確かで狡猾な光が宿っていた
「――全ての神器を譲り渡してもらう」
そのフレイザードの宣言は静かに室内に響き渡っていくのを、水晶の中で眠る美女が無言のまま見つめ続けていた
※
時空の狭間――数多存在する世界と世界の間にある仮初の世界を移動する浮遊大陸の一つ。それそのものを丸ごと用いた城とも都市とも庭園とも取れるそこは、十世界の本拠地。
世界を漂い常に移動するその最も高い塔の一室は、一面を埋め尽くす花畑になっており、それが屋内とは到底思えない空間を作り出している
「そうですか、シャロットさんが……」
その部屋――自身の私室を訪れたニルベスからシャロットの訃報を聞いた十世界盟主、奏姫愛梨は沈痛な面差しで目を伏せる
「申し訳ありません」
愛梨の前に跪き、自身の至らなさと無力さを痛感して瞼を強く結ぶニルベスは、シャロットを守れなかったことを責め苛みながら血を吐くような声で言う
苦しそうなニルベスの言葉を聞いた愛梨は、その目を優しく細めると、どこか寂しそうな笑みを浮かべて小さく首を横に振る
「いえ、ニルベスさんが悪いのではありません。彼女がスパイだと気付いていながら、きっと私達の思いに共感してくださると信じて、それを黙認してきた私の責任です」
「……姫」
その言葉に伏せていた視線を上げたニルベスは、室内を埋め尽くす花畑を見つめている愛梨の姿をその目に映す
細められた愛梨のその目が抱いている瞳は、まるで散ってしまったシャロットの命を重ねて幻視しているように遠くを見つめていた
「私は知っていたはずなのです。この十世界には、平和の理念よりも私のために心を砕いてくださる方がいることを。そういう方々がシャロットさんのことを知れば、このような危険があるであろうことなど容易に想像できたはずなのです」
愛梨は知っている。今の十世界という組織にいる者達が、必ずしも自分の意志を汲んでくれる者達ばかりではないことを
十世界は、光も闇も全霊命も半霊命もなく、誰もが誰をも尊重し、許し合い、幸福に生きることができる世界を作りたいという愛梨の願いを中心に生まれた。
世界から争いをなくし、戦いで失われる命をなくし、人と人が手に手を取り合うことを望んだ愛梨の心や愛梨自身に引き寄せられた者達が結んだその手は、しかし皮肉なことに組織が掲げる理念に沿うものであるとは限らなかった
「私は、そういう方達のご好意に甘え過ぎていたのかもしれません」
自身の罪と愚かさをその心に刻み付けているかのように、己の胸に触れながらそう言った愛梨の表情は悲しみと痛みに彩られ、その声音は自分自身を嘲笑しているように響く
自分のことを思ってくれているからこそ、時に自分の意思や望みとは違う行動を取る者達がいることは、愛梨自身も承知していた事ではあった。だが、その好意と行為そのものは決して嫌なものではなかった
例えば、九世界から良く思われていない現状では、その身が少しでも安全であるようにと、神器を集めてくれる者達。
愛梨自身が神器を求めたことは一度もない。だが、その行為そのものは嬉しく、誰かと少しずつ繋がっていっているという実感もあった
今はこうでも、少しずつ変わっていける――焦らず、ゆっくりと分かり合っていけばいい。自分だけではなく、自分以外の誰かをも思いやってくれるようになってくれればいい。愛梨は、そう願わずにはいられなかった
「姫……」
全霊命は涙を流さない。しかし、軽く空を仰いで小さく自嘲じみた独白をした愛梨は、まるで涙を堪えているようにも見える
その姿にその心を案じ、跪いた体勢からその姿を見上げていたニルベスに、愛梨は静かに視線を向けて口を開く
「ニルベスさん、死紅魔さん」
目の前にいるニルベス。そしてその様子を少し離れた場所から見ていた死紅魔に呼びかけた愛梨は、どこか哀愁を感じさせる声音で呟く
「私は、シャロットが狙っているのが私の命であるならば、私は十世界盟主としての私ではなく、私自身として彼女と絆を結びたいと思っていました」
十世界の理念を謳い、体現する盟主としてではなく、愛梨という一人の存在、人間として接することを望んでいた愛梨は、しかしそんな自分の浅はかさが招いた悲劇を悔いながら、沈痛な面差しでニルベス達に話しかける
ただ、「仲良くしたかっただけ」。――打算も計算も利害もなく、ただただより多くの人と、より多くの世界と絆と心を通わせることを望んだだけだというのに、そんな簡単に思えることがこんなにも難しい事なのだと痛感していた
「自らに害を成す意思を持った方の存在を知った時、その方と仲良くしたいと思うことは許されないことなのでしょうか?」
己に害意を抱く者とは敵対しなければならないのか。――普通の者なら、当然のことだと言ってのけるであろうことに、愛梨は悲哀の表情を見せて目を伏せる
「私は、違うと思います。だって、私は今、シャロットさんがいなくなってしまったことが、こんなに悲しいんですから」
自らに害意を持つ者は、きっと敵とは限らない。何故なら、本当にそうであるならば、今自分の心はこんなにも痛んでいない。――二度と会うことができないシャロットの事を思うたびに締め付けられるように痛む心を確かめるように自身の胸に触れながら、愛梨は故人を偲んで優しく微笑む
「どうして……」
スパイとして潜入し、自分の命を狙った者の死を心から悼み、絆を結ぶことができなかったことを心から悔やんでいる愛梨の口からは、嘆いているような声色を帯びた抑揚のない言葉が零れていた
「どうして、この世界は信じることを望まない方が絶えないのでしょうね」
ただ、信じることがこんなにも難しい。ただ相容れない理念や信念を掲げているだけで、敵対する間柄にあるだけで、その人物を信じることを否定される
無論、ただ闇雲に信じればいいというわけでもないだろう。だが、信じあえるかもしれないことを最初から望まない関係に、誰もが慣れてしまっていることが愛梨にはたまらなく悲しいことのように思えてならなかった
「私は信じ続けたいです。人と人はきっと分かり合うことができる。争いをなくし、互いを思いやることができるのだと」
人と分かり合うことができる分、人とは分かり合えないと言った人がいた。人と相容れないことがその人の人格ならば、人と相容れることができることもまたその人の心そのもののはずだ
だからこそ、愛梨は心から信じている。人と人は、分かり合えないことを分かってはいても、本当は心の中で誰とでも分かり合いたいと思っているのだと。
「私は誰もが笑って暮らせる世界を作りたいです。誰も悲しい思いをしなくていいように」
自身の心の慟哭を宣言に変え、ニルベスと死紅魔に訴える愛梨は、全ての死と痛み、己へと注がれる九世界からの敵意を真正面から受け止めた上で自身の願いを確かめるように口にする
「私は信じます。きっと世界から争いをなくすことができる、と。世界中の誰もが、誰をも思いやることができるようになるのだと」
凛とした気高さと、慈愛と博愛に満ちた表情を浮かべた愛梨は、手が届きそうなほど近く、しかし手の届かない遠い想いを噛みしめるのだった――。
※
「ああっ、くそが!!!」」
「あまり騒ぐな、紅蓮」
十世界本拠地の中、逆立った真紅の髪を持つ悪魔――紅蓮が、激情に任せて声を荒げるのを見て、額に一本の黒角を持つ堕天使「ラグナ」が静かな声でそれを諌める
二人は、十世界を離反したことで死紅魔処刑された悪魔「茉莉」と行動を共にしていたチームメンバー。
茉莉に代わる新しいメンバーが補充されるまで待機を言い渡された二人は、こうして十世界の本拠地の中で時間と力を持て余していた
「んなこと言ってもよォ!」
「……そんなに気を荒げても、何も変わらないと言っているんだ」
もどかしげさと苛立ちを隠せずにいる紅蓮に抑制の利いた声で応じたラグナは、静かにその視線を伏せる
紅蓮がゆりかごの世界で会って以来、光魔神に執着していることを知っているラグナは、それに理解を見せつつ、逸る己を律していた
紅蓮が大貴に固執するように、ラグナもまた詩織が胎内に持つ神器「神眼」を求めている。目の前に、自身の願いを叶えるために有力な手がかりがあるというのに指を咥えて待っていなければならない状況に不満を募らせていた
「随分荒れているようだな」
その時、雌伏の時に甘んじている二人に笑みを含んだ声が欠けられる
「……ゼノン様」
その声に視線を向けた紅蓮とラグナは、そこにいた人物――十世界魔界総督にして悪魔の原在である「皇魔」の一人である男「ゼノン」を見て、緊張感を高める
神に最も近い全霊命にして、魔王に次ぐ力を持つ二番目に強い悪魔。その身から放たれる魔力の苛烈さと深淵さを知覚した紅蓮とラグナは、その力に無意識のうちに圧倒されてしまっていた
「……何のご用でしょうか?」
突然、何の前触れもなくその姿を見せたゼノンに、ラグナは訝しげな視線を向けて問いかける
「そろそろ、お前達も待たくたびれている頃だと思ってな」
ラグナの言葉に、不適な笑みと共に返されたゼノンの言葉に、紅蓮はその瞳に期待の色を浮かべる
「ってことは……」
「ああ――」
その紅蓮の予想を肯定する意味で小さく頷いて見せたゼノンが軽く視線を背後に向けると、それに応えるように、足音が響いてくる
「この力……」
(光力だと)
ゼノンの言葉を合図にしてこちらに向かって近づいてい来る存在の神能を知覚したラグナは、その力――純聖なる光の力にその目を剣呑に細める
「天使か」
同様に、その人物が何者なのかを知覚していた紅蓮が言うと同時に、ゼノンの背後からその人物が姿を現す
白を基調とした羽織のような霊衣に、短く刈り上げられた金色の髪。やや鋭い目に輝く眼光は、ただ強いだけではなく、まるで無明の闇を照らし出す閃光の導を思わせる
その背から天使の証である純白の翼が一対二枚生え、その存在が放つ光明の如き神聖さは、悪魔と堕天使しかいないこの空間の中で一際清浄な存在感を強調していた
「彼が、今日から君たちのリーダーになる『シャリオ』だ」
視線を一瞥したゼノンに照会された天使――「シャリオ」は、新たにチームを組むことになった紅蓮とラグナへ交互に視線を向け、人当たりの良い気さくな笑みを浮かべる
「シャリオだ。天使だから、二人からしたらちょっと複雑かもしれないが、仲良くしたいと思ってるんで、よろしく」
十世界の者にふさわしく、天使の敵である悪魔と、通常の天使が好ましく思わない堕天使を前にして一切そう言った様子を見せないシャリオは、明るい声で自己紹介の言葉を発する
「――……」
二人への配慮を兼ねて握手をしようと差し出した手を引っこめたシャリオは、軽くその短い金髪を掻くと、気を取り直して紅蓮とラグナに話しかける
「さて、早速だが行くか」
自身の声に紅蓮とラグナが反応してくれたのを見て取ったシャリオは、嬉しそうにその表情を綻ばせるとその左手に視線を落として小さな声で独白する
「久しぶりに会えるな」
視線を向けている手のひらを握りしめ、感慨深い声音で独白したシャリオは、はるか遠くにいる因縁深い人物の名を呼ぶ
「クロス」
※
「運命」
純白に覆われた室内に響くのは荘厳にして神聖、慈愛に満ちた女性の声音。
まるでその声が響くだけで、空気が――否、世界が浄化され、清められているのではないかと思えるそれが、誰もいない空間に反響して溶けていく
「決して存在しない、しかし確かにこの世界に存在する理」
その声の主――淡い燐光を帯びた癖のない長い金髪を持ち、ドレスとも巫女服とも司祭服とも取れる純白の衣に身を包んだ女性は、誰もいないその場所から、確かに自分以外の誰かに話しかけていた
「あなたがあなたとして生まれた理由。あなたがあなたとして生きる価値。そこにあなたがいる限り、運命という名の必然は必ずあなたと共にある」
清らかな小川のせせらぎの様に流れる言葉は、まるでその心を映しているのではないかと思えるほどに透明な声音で響き渡り、世界に満ちる運命という名の激流を嘆くその女性の心を表しているように思える
「あなたはまだ知らないのです、自らの存在の本質を。そして、あなたはまだ気が付いていないのです。自分が本当は何者なのかを――」
誰かを探しているかのように手を伸ばし、誰かを求めるように白魚のような細い指を開いて、何かを繋ぎ止めようとしているかのようにその手をそっと差し出しながら、金白色の燐光を帯びる金髪の女性は淑やかな声音でその目と心に映る誰かに呼びかける
「人は時に運命に抗おうとします。しかし、運命に抗おうとする行為でさえ、運命でないとは言い切ることができないのです」
まるで手の指の隙間から水が零れ落ちていってしまったように、自身の手のひらを見つめ、その手をゆっくりと閉じて拳を握った光金髪の女性は、その手を自身の胸に当てながら薄い紅で彩られた花弁のような唇から澄んだ声を紡いでいく
「故に、わたくしたちは歩みを止めることはできません」
そう言って女性が軽く天を仰ぐと、その髪が揺れ、それに合わせて零れた金白色の燐光が蛍のようにその周囲を舞って幻想的な光景を作り出す
「たとえ、わたくし達の行動の全てが、何者かの思惑の通りだと分かっていたとしても」




