太陽は月を誘い、月天は日輪を導く
「……危険だと、止めたのだがな」
ひとしきりシャロットの過去を話し終えたカリオスは、その時のことを思い返しながら、アイリスに視線を向ける
「本当は止めるべきだったのかもしれない。確かに彼女の進言は危険でこそあれ、我々にとって都合がよかったことも否定はしない
俺が何を言っても、お前には言い訳にしか聞こえないかもしれないが、我々は彼女の意志を汲んだつもりだ」
独白するようにそう言って、アイリスへと向けられたカリオスの瞳は、何よりもその心境を雄弁に物語っていた
そこに見える心境は、シャロットをスパイとして送り込んだことに罪悪感を抱いているようでもあり、同時にそれを止めなかったことを後悔していない――むしろ、絶好の好機だったと考えているようにも思える
シャロットの真意はどうであれ、その申し出はアスティナ達妖精界――否、九世界そのものにとって確かに都合がいいものだったのは否定できない
仮に十世界と戦ったとしても、反逆神という現在世界最強の存在を擁している十世界に、九世界は絶対に勝つことができない
愛梨の戦いではなく話し合いでその理念を実現するという方針が無ければ、もしかしたら九世界はすでに十世界に掌握されていたかもしれないという危機感は、世界の王をはじめ、大半の者達が共有する認識だ
そんな中、自らの意志で十世界へと潜入するという者が現れた。それも、十世界に入り、恒久的世界平和というその理念に同調するに足る十分すぎる理由を以って――。うまく立ち回れば、十世界の中で愛梨に最も近い場所へと近づける可能性がある。「普通に潜入するよりも、より友好的だろう」そう考えるのは、ごく自然なことだった
(シャロット……)
父の口から語られた真実を噛みしめるアイリスは、今日までのシャロットの姿を思い出して、疑問と混乱にも似た困惑に彩られた意識と感情の中で、不思議と腑に落ちるものがあった
シャロットは十世界に潜入したスパイ――そう思って思い返してみれば、その行動の中には確かにそれを肯定するに足るともいえる事柄が存在した
例えば光魔神が月天の精霊王城へと赴いた際、十世界の本拠地からシャロットがやってきた時。そして、その後十世界の本拠地へとシャロットが帰っていく時の事。
その時、シャロットは|世界の理を超越する神速を以って、自力で飛翔移動していた。だが、そもそも全霊命は、その神能の特性によって、空間座標さえ把握していれば同じ世界内なら空間を超越して移動することができる
特に距離がある場合は、飛ぶよりも早く移動できるため、その手段を用いるのが一般的だ。その時のシャロットの目的地は月天の精霊王城と十世界本拠地。共に勝手知ったる場所なのだから、空間跳躍によって移動するのが自然だ
だが、シャロットはそうしなかった
わざわざ時間のかかる神速移動を行い、出発から到着までの時間を作ったのは、思念通話によってこれから向かう目的地にいる協力者――おそらくは、月天の精霊王や兄に連絡するため。
思えばシャロットが英知の樹の鼎に襲われた時も、イデアは即座にそれに反応し、その危機を自分達に知らせてくれた。
いかに九世界最大の知覚範囲を持つ精霊の王であっても、あの距離までそれを知覚できていたというのは、今から思えば不自然極まりない。
――つまりそれは、思念通話を解して精霊王達と連絡を取り合っていたということであり、アスティナもイデアもシャロットがスパイであることを分かっていたということだ
「どうやら、思い当たる節があるようだな」
そんなアイリスの様子を見て、シャロットがスパイであることが腑に落ちたらしいことを見て取ったカリオスは、厳かな声音で語りかける
「本当、に……シャロットは……」
父の言葉から想起された様々な事柄が頭の中で一つに束ねられ、アイリスの中でシャロットの真実が確信へと形どられていく
「そうだ」
「で、でも、なんで……どうしてそこまで?」
自分が、ただ自分自身の弱さに悩み、立ち止まっている間にシャロットは未来を見据え、前を向いて歩いていた
その事実と、それに今日まで気付けなかった自分の愚かさを悔いるアイリスは、その表情を困惑と動揺で彩る
カリオスが語ってくれた十世界へ潜入した理由も、理解はできる。だが、そこまでの必要性があったとも思えない
十世界への誘いを断り、これまで通り月天の精霊の里で暮らしていてもよかったはずだ。にも関わらず、なぜシャロットがそこまでして、十世界を滅ぼそうとしたのかアイリスには分からなかった
「さぁな。月天の精霊が――いや、自分達が九世界の味方だと証明したかったのかもしれない。あるいは、少しでも早くお前と元通りの関係に戻りたかったのかもしれない。なんにせよ、俺達には分からないことだ」
そんなアイリスの疑念に、夜天の中心で輝く月を一瞥したカリオスは、そこにかつて玉座の間で見たシャロットの瞳を重ね合わせて独白する
危険を冒してまで、十世界への潜入と諜報を行うことを進言したシャロットの真意は、結局のところ本人にしか分からない
ただ、その言葉からは月天の精霊によって変わってしまったこと、自身が月天の精霊であることで変わってしまったことを取り戻そうとする願望のようなものがあったように思える
「ただ、一つだけ言えることがある」
「……?」
一度視線を伏せて話を仕切り直したカリオスは、厳かな声音でアイリスに語りかけながら、その意識を過去へと傾ける
※
「一つだけ、聞かせてくれ」
妖精界王城へ登城したシャロットの決意を聞いたカリオスは、アスティナに発言の許可を得るとその真意を見逃すまいと鋭い視線を向ける
「君を追って、君の友が十世界に入るのではないかとは考えないのか?」
シャロットが十世界へと潜入したい意志は伝わってきた。だがそのようなことをすれば、月天の精霊との関係に迷うシャロットの友人――アイリスがその後を追って十世界に入る可能性は十分に考えられる
カリオスは基本的に不器用で口下手だが、不器用は不器用なりにアイリスのことを思っているつもりでいる
友人であるシャロットが十世界に入れば、それを自分の所為だと責め、月天の精霊が世界に認められるためには十世界の理念が必要だと考えるかもしれないという危惧は拭えなかった
「大丈夫です」
しかし、そんなカリオスの憂いを見通しているかのようにその怜悧な目元を綻ばせたシャロットは、わずかに細めたその目に抱く瞳にかけがえのない友の姿を思い浮かべる
「きっと彼女なら、〝私のやり方は間違っている〟と言ってくれるはずですから」
静かな声音で応じたシャロットの声は、微塵の憂いも、かすかな不安も感じられない穏やかで、どこか誇らしげな響きを伴っていた
※
「彼女はお前のことを友として、心から信じていた。父である私よりも、ずっと強く、深く……な」
その時のシャロットの表情を声音を思い返しながら、カリオスはアイリスに淡々と語りかける
カリオスにとって月天の精霊は、心から認めることが難しい存在であることに変わりはない。妖精界――引いては、光の世界を裏切り愛する者を奪った月天の精霊の行動は、今でもカリオスの心に深い影を落としている
全ての者がそうだったとは言わない。今の月天の精霊達の全てが憎いとも言わない。それでも、カリオスは、自分が月天の精霊に対する壁を取り去れずにいることを理解していた
「彼女は、自分の存在とお前との友情を信じ切っていた――」
シャロットが告げたその胸に秘めた思いを言葉として伝えていくカリオスは、その視線で月光に照らし出されるアイリスを見据える
だが、同時にアイリスとシャロットは、自分とは違う想いで結びついているのだということも認めていた
自分が月天の精霊への許さざる思いを断ち切れずにいるように、アイリスは、月天の精霊である友への思いを断ち切れずにいるのだと分かっていた
「ただ、お前が、お前達の友情を信じていなかっただけだ」
シャロットの言葉を思い出しながら、アイリスを見据えるカリオスは低く抑制された声で、父として優しく、そして厳しい声を向ける
「……!」
父から向けられたその言葉に、アイリスはその目を大きく見開く
アイリスは――否、アイリスだけが気付いていなかった。アイリスとシャロットはこの世界に残された月天の精霊という存在に対するしがらみなど超えていることを。
シャロットは、父であるカリオス以上にアイリスのことを信じていた。だが、その信頼に自身を責めていたアイリスは気づくことができずにいただけだったのだ
「アイリス。きっと彼女はお前を信じ、待ち続けていたはずだ、そんな彼女にお前はどう答える? つまらない負い目で、お前自身が勝手に遠ざけてきた彼女の意志と信念、そして友情にどう報いるつもりだ?」
真っ直ぐにアイリスを見据え、低く厳かな声で語りかけるカリオスは、父として娘に何を成したいのかを問いかける
十世界の情報を得続けるためには、シャロットが十世界にいた方が都合がいいことは言うまでもない。真実を知った今、アイリスがシャロットを十世界から抜けさせたいのか、今のままの関係を維持するのかは分からない
ただ、アイリス自身がシャロットとどのような関係を築きたいのか、自覚している必要があることだけは間違いない
「わ、私は……」
将来まで見据えたシャロットのとの友情を問われたアイリスは、その心を見届けようとするカリオスの視線に唇を引き結ぶ
《――アイリス》
「!」
そして、カリオスの言葉に答えようとした瞬間、アイリスの脳裏に思念を介したシャロットの声が響いた
「シャロ、ット……?」
「どうした?」
言葉を止め、困惑した様子で周囲に視線を巡らせるアイリスに、カリオスは訝しげに眉をひそめる
「シャロットからの思念通話が……」
「なに?」
十世界にスパイとして潜入しているシャロットが、アイリスに直接思念通話を用いるなど、それだけで異常事態であることは間違いない
自分がスパイであることをカリオスが教えているとは知らないはずのシャロットが、いくら友人とはいえアイリスに思念通話を用いるリスクを冒す必要などない
《どうしたの、シャロット?》
にも関わらず、その危険を冒してまで思念通話をしてくるということは、シャロットに何か異変が起きたということ。それが分かっているアイリスは、その顔をわずかに青褪めさせながら、心の中でシャロットに問いかける
《今日、会う約束……やっぱり止めましょう》
動揺に彩られた困惑の声を聞いたシャロットは、思念を介して静かな声音で今夜の約束を取りやめる提案をする
時折不自然に途切れ、何かを懸命に堪えながら無理に平静を装っていることがありありと伝わってくるシャロットの声音に、アイリスは心の中で声を荒げる
《どうして!? なんで突然そんなこと……》
《……ごめんなさい》
その疑問には答えず、謝罪の言葉共に一方的に思念通話を遮断したシャロットに、アイリスは否応なく不安を掻き立てられる
「ごめん、お父さん。私、行くから!」
突然のことに、「シャロットの身に何かあったのではないか」――そんな考えがよぎったアイリスは、もはやいてもたってもいられず、これまでの問答を投げ捨てて天に佇むカリオスの前で空間の扉を開く
「――……」
精霊力を使って開いた空間に飛び込み、その姿を消失させたアイリスを無言で見送ったカリオスは、その目を伏せて瞼を固く閉じる
その表情に浮かぶかすかな沈痛の色は、アイリスに対するものともシャロットにとも取れる後悔と懺悔のようにもみえるものだった
※
「――ッ」
地面に倒れ、その身を自身の身体からあふれ出す炎の如き全霊命の血――血炎で飾り付けたシャロットは、その柳眉を苦悶にひそめて満天の星が輝く空を見上げる
自分をスパイだと見抜いていたクーウェンの急襲を受けたシャロットは、応戦してみたものの最初の一撃で不覚を取った傷は深く、あっという間に追い詰められてしまった
クーウェンの刃や精霊力によって、まるで炎に焼かれているかの如く全霊命の血である血炎に包まれるシャロットは、徐々に消失していく自身の力を知覚して自らの死を悟っていた
「……ようやく、この時が来ましたね。あなたのことはずっと目障りだと思っていのですよ」
シャロットの命の灯火が限りなく小さくなったことを知覚し、その死を確信へと変えたクーウェンは、その傍らに降り立って冷ややかな声で言う
シャロットが九世界から送り込まれてきたスパイであることは随分前から把握していた。しかし、シャロットの実兄であるドルクはもちろん、妖精界の総督を任されたニルベス、十世界盟主である愛梨までもそれを黙認することを是とした
スパイであることが分かっていたにも関わらず、それを意にも介さないどころか好機だと考えたのは、十世界の理念を九世界に伝える好機だと考えたからだが、そんな考えにクーウェンは今日まで歯痒い思いをしてきた
「奇遇ね……私もよ」
自身を睥睨するクーウェンの視線に、シャロットはその怜悧な目を細めて応じる
その声は、瀕死の状態まで傷ついたために弱々しいものになってこそいるが、クーウェンに向けられる目に宿る光は、強い意思の輝きを失っていない
「あなた、なぜ十世界に所属しているの? 悪いけれど、あなたからは十世界に所属している理由が感じられないわ」
瀕死の間際にありながら、しかし微塵も自身の死の恐怖を見せることなく向けられるシャロットの淡々とした声に、クーウェンはその目を冷ややかに細める
「あなたはこの世界に不満があるようには見えないし、それに足る過去も聞いたことがない。ましてや十世界の理念に同調しているようにも見えない。かといって、姫個人にも情があるようには見えなかったから……一体あなたの目的は何なの?」
自身に向けられるシャロットの視線に、クーウェンはしばしの沈黙を以って応じる
クーウェンがシャロットの存在を危険視し危惧していたように、シャロットもまたクーウェンの存在を危険視していた
十世界に入る者には入るだけの理由がある。「十世界の理念に同調した者」、「愛梨個人が気に入っているという者」、「様々な思惑から十世界という組織を利用しようと考えている者」――大まかに分ければその三つだが、クーウェンからはそのいずれも感じることができなかった
十世界の理念を成そうとはせず、愛梨にそこまでの情を向けているようにも見えず、かといって何か目的があるようとも思えない――そんな立ち振る舞いをするクーウェンは、シャロットにとって非常に不気味な存在だった
「大した理由はありませんよ。まあ、強いて言うなら――」
しばしの沈黙――それは、自身の思惑を冥土の土産に話すのか思案した場だったのか、互いに相手を嫌っているがゆえに相手の不自然な振る舞いに気付くという同類の皮肉を感じていたからだったのかもしれない
いずれにしろ、時間にすれば一秒にも満たない間に神速で思案を巡らせていたであろうクーウェンがおもむろに口を開く
「勝つためですかね」
その言葉にシャロットは、自分でも気づかないような訝しげな表情を無意識に浮かべていたのかもしれない
その言葉を向けたクーウェンは、シャロットに視線を向けるとその口端を吊り上げて不敵な笑みを浮かべながら、聞かれるまでもなく淡々とその疑問に答えていく
「分かっているでしょう? 反逆神、覇国神がいる以上、戦力として十世界は九世界に勝っている。仮に戦いになれば即座に攻め滅ぼされる
そう。すでに九世界は、十世界に実質的に敗北しているようなもの。ならば、勝てる方に付くのが賢い身の振り方というものではないですか? なにしろ、どんな信念も死んでしまえば無意味なのですから」
「なるほど、あなたらしい卑屈な意見ね」
冥土の土産と言わんばかりにクーウェンの口から語られた十世界に所属する理由に、シャロットは合点がいったように呟く
「誤解のないように言っておきますが、私は十世界の理念に関してはさほど興味はありません。肯定もしなければ、否定もしません。
しかし、ただ利用しているだけのつもりもないつもりです――こう見えて、姫個人のことはそれなりに気に入っているのでね」
どこか嘲笑しているようにも聞こえるシャロットの言葉に耳を傾けたクーウェンは、そんな声音に気分を害した様子も見せずにわざとらしく肩を竦めてみせる
クーウェンには、ニルベスやドルク、シャロットのように今の世界を変えたいわけでもなく、現在の九世界を守ろうとする王たちのように今の世界に取り立てて執着があるわけでもない
そんなクーウェンにとっては妖精界も、九世界も、十世界の目的も、姫も、全てが等しく等価値であり無価値。
クーウェンは、世界や自分の生き方に命を懸けるほどの信念や執着がない――否、正しくは自分が生きているということに絶対的な執着と価値を見出している人物だ
そして、だからこそ自分の立ち位置を脅かす害意のある敵を身中に飼っているクーウェンや姫のやり方を許容できなかった
「意外ね、あなたにそんな殊勝な考えがあるとは思わなかったわ」
クーウェンの言うことは間違っていない。信念のために命を懸けるのも、命のために信念を捨てるのもその人の自由だ
自身が勝者の立ち位置でありたいというクーウェンらしい戦う理由に納得しながら、姫を気に入っているというその考え方にシャロットは静かな声で言う
「ずっと、この手で葬り去りたいと思っていました――小癪な裏切り者を」
そんなシャロットの言葉を冷ややかな面持ちで受け止めたクーウェンは、待ちわびたこの瞬間を噛みしめながら布刃の剣を握る柄に力を込める
シャロットがスパイであることを知っていたクーウェンが、その事実を明らかにして十世界から追放しなかったのは、今この時のため――即ち、自身の手で裏切り者を抹殺するためだった
「最期に、言い残すことはありますか? もっとも、裏切り者の言葉など誰にも伝えるつもりはありませんがね」
星明かりを反射して輝く布状の刃を持つ剣の柄を下げたクーウェンは、そう言って瀕死の状態で血炎の中に沈むシャロットを睥睨する
「……ふふ」
その時、まるでその身を焼かれているのではないかと思うほど、その身体からおびただしい量の血炎を立ち昇らせているシャロットの口から小さな笑みが零れる
それは、まるで闇討ちをしてまで自分を排除しようとしたクーウェンを嘲笑しているようにも聞こえるものだった
「何がおかしいのですか?」
今まさに死を迎えようとしているというのに、笑みを零したシャロットを訝しむクーウェンは、慈悲のない冷酷な視線でその姿を見下ろしながら問う
「いえ、私らしい終わり方だと思って」
冷ややかに向けられたクーウェンの声とは対照的に、シャロットはどこか自嘲じみてこそいるが、なぜか晴れやかに感じられる優しい声音で答える
(うまくいかないものね……親友を裏切った罰かしら)
静かに目を細めるシャロットの目に、もはやクーウェンの姿は映っていない。視線こそクーウェンに向けられているが、その瞳には遠く、しかし同じ空の下にいるかけがえのない友が幻視されていた
《もう一度――ううん、今度こそ、本当の友達になろう》
自身の血炎で紅く染まる視界の中、以前アイリスから向けられた言葉を思い出したシャロットは、その口元を優しく綻ばせる
(……ごめんなさい、アイリス。それは無理よ)
今この場にはいないアイリスに心の中で語りかけたシャロットは、その唇を微笑みの形に変える
(だってあなたは、私にとってはずっと私の本当の友達なんだもの)
改めてそんな言葉をかけてもらわずとも、シャロットは今日まで一瞬たりともアイリスを友達ではないと思ったことはない
アイリスの気持ちは嬉しいが、一瞬たりとも友達であることを疑ったことが無いシャロットにとってそれは応えることのできない問いかけだった
(あなたは気づいていないでしょうけれど、あなたはいつだって私の太陽だったのよ)
心の中でアイリスへの思いを噛みしめながら、シャロットはその意識を遠い過去へと遡らせていく――
月天の精霊として生まれ、生まれながら裏切り者の烙印を押されて育ったシャロットは、時折妖精界王城の近くへやってきては、遠巻きに鏡面の大地に立つ白亜の城を見つめていた
今にして思えば、いくら力を抑えていたとはいえ、実力的にも未熟な幼い自分を優れた戦士である妖精界王城の精霊達が知覚できなかったはずはない。
無視されていたのか、気にも留めていなかったのか、あるいは関わらないようにしていたのかは分からないが、いずれにしてもシャロットは遠くから羨望の眼差しを妖精界王城を行き交う三種族の精霊達に向けていた
憎かったわけではない。ただ月天の精霊以外を知識としてしか知らなかった幼いシャロットには、自分達以外の精霊達が親しく戯れている光景が純粋に羨ましく、その日もいつものようにそうしていた
だが、その日は違った
「こんなところで何してるの?」
「!」
妖精界王城の精霊達に気を取られていたシャロットがその声に反射的に視線を向けると、そこには自分と同い年くらいであろう日輪の精霊の少女が立っていた
腰まで届く橙色の髪を二つに結わえ、水晶のように澄んだ穢れない純粋無垢な瞳を向けている少女は当然見たこともない人物だった
だがシャロットは、自分に向けられているその笑顔がまるで日輪のように煌めく満開の花のように感じられていた
「あなた、月の精霊でしょ?」
その笑みに目を奪われていたシャロットを訝しんだのか、少女はその褐色の肌と鮮やかな紋様を持つ蝶翅へ交互に視線を向けて問いかけてくる
「……っ」
その言葉にシャロットは、視線を反らして自分に屈託のない笑みを向けてくる日輪の精霊の少女の様子を窺う
目の前の少女の問いかけともいえない問いかけにすぐに答えることができなかったのは、シャロットの中に月天の精霊という自身の存在に対する負い目があったからだった
全霊命は記憶以外の知識を親から継承する。つまり目の前の少女も、月天の精霊が過去に何をしたのかを情報として持っている
そんな少女が裏切り者の月天の精霊を見てどのような反応をするのかと考えると、シャロットは無意味だと分かっていてもそれに答えることができなかった
「? ……!」
そんなシャロットの姿をしばし見つめていた日輪の精霊の少女は、何かを思案するような表情を見せると、何かに気付いたように瞳を輝かせる
「私はアイリス。あなたは?」
おもむろに自己紹介をした日輪の精霊の少女――アイリスに、シャロットは自身に注がれるその期待に満ちた輝く視線に面喰ったように目を丸くする
その時のシャロットは、なぜ突然アイリスが自己紹介をしたのかが分からず戸惑ったが、後にそれは初対面の自分に話しかけられて照れているのだと勘違いしていたのだと気付く
どうやら、声をかけたというのに反応が薄いことを見て、目の前の月の精霊――シャロットが、引っ込み思案で人見知りをする性格なのだろうと間違って結論付けたアイリスは、その緊張を解くために突然自己紹介をしたのだ
「……シャロット」
だが、この時にはそんなアイリスの考えなど分からなかったシャロットは、その光り輝く瞳に気圧され、半ば無意識に自身の名を名乗っていた
「そっか。ねぇ、シャロットちゃん――」
そうして、その名を知ったアイリスは屈託のない満面の笑みを浮かべると、シャロットと名乗った月天の精霊の少女にそっと手を差し伸べる
「私と友達になろうよ」
「……!」
純真無垢に向けられたアイリスの言葉と大輪の花のようなその笑顔は、シャロットにとって太陽と比喩しても遜色のないほどに眩しいものだった
その太陽のような笑みに、誘われるように恐る恐る手を伸ばしたシャロットは、差し出されたアイリスの手にそっと手を重ねた――
※
(ねぇ、アイリス)
アイリスと初めて会った時のことを思い返し、その目元を優しく綻ばせたシャロットの視界には、自身にとどめを刺すべく刃を振り翳すクーウェンの姿が映っていた
(あなたは私にとって、ずっとかけがえのない一番の親友なのよ)
《――アイリス》
それに自身の死を覚悟したシャロットは、その思念を精霊力に乗せてはるか遠くにいるアイリスへと届ける
《シャロット……?》
《今日、会う約束……やっぱり止めましょう》
最後にアイリスと思念通話をしたのは、もはや思い出せないほど遠い昔の事――。そのため、突然の思念通話に動揺と困惑を隠せないアイリスに、シャロットは静かな声音で今夜の約束を取りやめる提案をする
顔を見ることができずとも、アイリスの混乱した表情を容易に想像することができるシャロットは、苦痛を押し殺し、できる限だけ平静を装って話しかける
《どうして!? なんで突然そんなこと……》
その身に負った瀕死の傷の所為で、時折不自然に途切れてしまう自身の声を聞くシャロットは、自分に向かって振り下ろされるクーウェンの刃が己の身体に突き立てられる前に最期の言葉を残す
《……ごめんなさい》
アイリスへの言葉を残し、思念通話を一方的に切断したシャロットにクーウェンの布刃が突き立てられる
「――さようなら」
突き立てた布刃の剣を引き抜き、夜陰の空にシャロットの血炎を蛍のように舞い散らせたクーウェンは冷ややかな視線を逸らすと、その身を翻らせてその姿を消失させる
「……」
そしてその傍ら、血炎を立ち昇らせるシャロットは、小刻みに震える手をゆっくりと空へ伸ばす
(本当、私らしい最期ね……)
天に浮かぶ月を掴みとろうとするかのように差し伸べられた自身の手が、その輪郭を失いおぼろげにか組むのを見たシャロットは、心中で自嘲する
(結局私も失敗してしまったわね……後悔はしていないけれど、最後まで友達を傷つけてしまうなんて、本当に私は友達甲斐のない女だわ)
自身の存在を構成する精霊力がそれを維持できなくなっている――自身の命が燃え尽きようとしていることを見て取ったシャロットは、その柳眉をひそめて今にも泣き出しそうな笑みを浮かべていた
十世界への潜入もその壊滅も結局失敗し、自分が成したのはただアイリスを苦しめ、約束を果たせず死んでいくだけ――
たった一つ変わらない信頼を胸に、たった一つ悲しみしか残していくことができない自分を嘲笑するシャロットは、解けるように崩壊し、蛍のように夜天に舞い散っていくことで幻のように形と質量を失っていく自身の身体を見て目を伏せる
(ごめんなさい……ありがとう)
初めて出会った時から今日まで、共に過ごしてきたアイリスとのかけがえのない思い出が次々と甦り、シャロットは心の中で謝罪と感謝の言葉を繰り返す
「シャロット!」
命の灯火が消え、自身の命が尽きてその存在が力へと還っていく中、瞼を閉じて最期を迎えようとしていたシャロットの耳に、聞き慣れたはずの――懐かしい声が届く
(アイリス……?)
せめて最期に一目会えたら――そんなことを思っていたシャロットは、まるで自分の願いが叶ったかのようにそこにいるアイリスを見て、一瞬幻かと疑う
(私も、嘘が下手ね……あなたに見抜かれてしまうなんて)
しかし、すぐに先ほど交わした思念通話に何か不審なものを感じ取ってやってきたのだろうと思い至ったシャロットは、心の中で自嘲を浮かべる
(いえ、違うわね……きっと、最期に一目あなたに会いたいって思ってしまった私の気持ちを察してくれたのね)
最期に思念通話を届けたのは、アイリスが自分を待たないようにするため。自身の死が逃れえぬものだと察したからこそのものだった。
そんなことをしてもいつかアイリスは自分の死を知ることになるだろう。だが、いつ、どうやって、なぜ自分が死んだのかをせめて伝えないようにしたかった――あの優しいアイリスがその太陽のような心を傷つけないように。
しかし、そう思っていながら心の中ではそう思い切ることができなかった。そんな自分の言葉に宿る思いをアイリスは感じ取ってしまったのだろう
(ごめんなさい、アイリス。本当に、私は最期まであなたを傷付けてしまったわね)
霞む視界に、今にも泣き崩れそうな表情で近づいてくるアイリスを映すシャロットは、心の中で謝罪しながらわずかにその口端を吊り上げて微笑みかける
せめて、少しでも自分の死が安らかなものであることをアイリスに伝えよとするかのように。これから生きていくアイリスが自分の死に引き摺られないように――シャロットは心から、その幸せを願って感謝と別れを伝える
(私が言えたことではないでしょうけれど、そんな顔をしては駄目よアイリス。あなたはいつものように笑っていて)
命の灯火が燃え尽きるのと同時に、一瞬にも満たない時間を以って構成を失い力へと還っていくシャロットは、自身が世界に解けていく刹那の中でかけがえのない友の姿を瞼に焼き付ける
(だってあなたは――)
自分に向かって駆け寄ってくるアイリスの口は、何か声を発しているように動いているがすでにシャロットの耳にはそれは届かない
アイリスに最期まで悲しい表情をさせてしまう自分を嘲笑いながら、シャロットは自分が残してしまったであろう心の傷を心から申し訳なく思いながら、心の中で語りかける
アイリスの笑顔が好きだった。まるで天から降り注ぐ陽光のように輝くその笑みは、月天の精霊である自分にも平等に降り注ぎ、しかし直視することができないほどに眩しかった
(私のたった一人の太陽なんだから)
アイリスが伸ばした手がシャロットに触れる瞬間、その身体は精霊力へと完全に溶け、形を失って天に向かって昇っていく
月光に照らし出されるシャロットだった力の残滓は、まるで虹のように煌めきながら天へと昇っていく――。
それは、新たに生まれ変わるために輪廻の輪に変える蝶の羽ばたきにも似て、幻想的な美しさと言い知れぬ悲しさを伴っていた
シャロットの身体を構成していた光の中、アイリスは天に昇っていくその光を見送りながら声にならない慟哭に打ち震えるのだった
「私と友達になろうよ」
幼かったあの日、差し出されたアイリスの手にその手を重ねた重ねられたシャロットは、そこから伝わってくる温もりにその表情を綻ばせる
「……ぅ、ん」
言葉というほどに判然とせず、その口から小さく声を発したシャロットの言葉に視線を向けたアイリスは、恥じらいながらも微笑みを称えているその表情を見て優しく目を細める
ずっと、友達だよ