雲晴れて月光輝き
妖精界のとある場所に生えた巨大な樹上。夜天に煌めく星々に包まれているような錯覚を覚える一際高いその大きな枝に、二人の人影が並んでいた
大樹の太枝に肩を並べて座って夜の星を見ている二人の背には、色鮮やかな紋様を持つ蝶翅があり、二人が月天の精霊であることを如実に物語っている
「ほれ」
そんな二人の内の一人――白銀の髪にビーズの様な装飾が施されたバンダナとマフラーが特徴的な霊衣を纏う男はその手の中に一組のグラスを呼び出すと、その一つをもう一人の男に軽く投げて渡す
「久しぶりに一杯やるか」
投げ渡されたグラスを受け取った大柄で引き締まった筋肉質の逞しい肉体を持つ男は、そこに映る自分の顔を見て小さく笑みを浮かべる
「ああ。不思議と今日は酔えそうだ」
「全霊命は酔わないけどな」
大男が感慨深げに呟くと、グラスを投げ渡した白銀の髪の精霊は苦笑を浮かべ、琥珀色の液体が入った大瓶の口を向ける
神能の特性である常時最盛と最良の状態を保つという特性によって、全霊命は酩酊成分などの影響を受けることはない
そのため大男の言った酔うという言葉は、雰囲気に酔う、あるいは感慨に浸るという意味であることを冗談っぽく返した銀髪の髪の男も十分に承知していた
「これは、妖精蜂の蜜酒か……確か、酒造はお前の趣味だったな、ライル」
「ああ」
グラスに注がれていく琥珀色の液体を見て目を細めた大男は、それに感慨深げに目を細めて白銀の髪の男――ライルを見る
妖精蜂は、この妖精界に生きる半霊命――「宝獣」の一種で、この世界に多く生息する小さな虫だ
それが花蜜を集め、蓄えたそれから作られたものこそが、今ライルが持っている蜜酒であり、この妖精界のものは九世界でも高品質で上品な味がするとして知られている
はるか昔、この酒を呑んだライルがその味を気に入り、自身の趣味として作っていることを知っていた大男は、その懐かしい頃に想いを馳せて目を細める
「少しは腕を上げたのか?」
傾けられた瓶の口から流れる琥珀色の液体が、グラスに注がれていくのを見ながら大男は、懐かしげに言ってライルに視線を向ける
「それは味わってからのお楽しみだ」
「そうだな」
その言葉に頷いた大男は、その手から瓶を受け取ってライルに蜜酒を注いでいく
夜天の忠臣に鎮座する白月を背に、グラスに注がれた蜜酒に円月を映す二人の姿は、まさに月天の精霊といった存在感を醸し出していた
「……ふぅ」
互いのグラスを琥珀色の蜜酒が満たすと、ライルと大男は互いのグラスを軽く触れ合わせてガラス質の高い音を奏でると、その琥珀色の酒を喉の奥へと流し込む
蜜酒を飲み、その香りと味を堪能しようとしているかのように目を伏せている大男に、ライルは穏やかな声音で問いかける
「どうだ、ドルク?」
「あぁ、腕を上げたな」
ライルの声に、伏せていた目を開いた大男――十世界に所属する月天の精霊「ドルク」は、記憶の中に残る味と、今の蜜酒の味とを比較して感慨深げに表情を綻ばせる
記憶の中にあるそれと味が違う酒は、ドルクに懐古の念と共に離れていた歳月を感じさせる。グラスを満たす琥珀色の蜜酒の水面に自身の姿を映すドルクは、これまでの時間を噛みしめるようにその味を堪能していた
「こうして、向かい合うのはいつ以来かな?」
そんなドルクの言葉に、してやったりといった表情を浮かべたライルが軽く天を仰ぐ
「さぁな。だが、もう思い出すことも億劫なほど前だったことしか覚えてない」
かつては当然のように過ごすことができていた二人の時間、――しかし、変わらないと思っていたその時は失われ、今再びこうして過ごす一時はライルとドルクにとってとても懐かしく新鮮なものだった
「あぁ。けど、因果なもんだ」
思い出すことも億劫に思えるほど遠い記憶に意識を向けていたライルは、ふと過去を思い返していたその瞳をドルクへと向けて苦笑を浮かべる
「そうだな。世の中、何が起こるか分からないな」
ライルの視線で何を言おうとしているのかを理解したドルクは、軽く揺らして波紋を立てたグラスの中身を軽く煽ると、自嘲とも取れる笑みを浮かべて目を伏せる
「お前がリーネと同じ組織に所属したのを知ったときは驚いたよ。お前は、リーネのやりたいことを否定してたからな」
互いに向かい合うことなく、肩を並べながら時折視線だけを交わすライルとドルクは、運命の悪戯ともいえる現在に苦笑を浮かべる
「不思議なものだ。俺は、月天の精霊が世界からいつまでも裏切り者の目で見られることが許せなかった。だから、それに甘んじて受け入れているこの世界から飛び出したんだ」
琥珀色の液体を一口含み、それを飲み干したドルクは染み渡るその味を堪能しながら感慨深げに呟く
ドルクは、遥か昔の事である月天の精霊の裏切りが、それを知らない世代であるはずの自分達に未だに、そしていつ終わるともしれぬ形で向けられていることを常々不満に感じていた
だが、月天の精霊王をはじめとした月の精霊達が、そんな自分達の境遇を受け入れ、あまつさえ改善しようとさえしていないことに耐えきれなくなって、月の精霊と袂を分かつたという過去がある
「そうだったな。月天の精霊が罪を背負い続けることが許せなくてここを出ていったお前が、お前が認めなかったリーネと同じ組織に属してるんだから、分からないものだな」
そんなドルクの横顔を一瞥したライルは、苦笑じみた笑みを浮かべる
だがドルクは、自分とは違い月天の精霊としての在り方を変えるのではなく、日輪の精霊であるニルベスと恋に落ち、あまつさえ戦いで家族を亡くした子供たちを光、闇問わずに守ろうとした実妹――「リーネ」の生き方には否定的だった
月天の精霊も未だ戦争の被害者であり、同情する余地があるのは分かる。だが、リーネがやっていることの先に幸せがあるとは思えなかったからだ
そして、現にリーネは命を落とした。――それも、自分達の同胞だった者の裏切りによって。
だが、そうして異なる道を行き、生き方を選んできた兄と妹は、結果的に同じ十世界という組織に所属している
「あぁ。どうやら、運命の女神は皮肉が好きらしい」
それは、必然と呼ぶべきか、運命の悪戯というべきか――いずれにしても皮肉が効いていると、ドルクは琥珀色の蜜酒に映る自分自身を見つめながら感じていた
「だが、それはお互い様だろう? ライル」
そうしていたドルクは、一瞬その表情に険しい色を浮かべたライルを見て目を伏せると、夜天の中心で輝く月へと視線を向ける
「お前の妹のシャロットは――……」
※
「どこへ行く?」
「……お父さん」
妖精界の夜を照らし出す月を背に、妖精界王城の上空で対面する父カリオスと対面するアイリスは、その強い視線に息を呑む
妖精界王の護衛を務めているだけのことはあり、カリオスの力は妖精界王城に仕える精霊達の中でも最上位に位置する
その力強い存在感と苛烈な精霊力の波動は、同じ日輪の精霊でありながら、まるで大地を涸らす日照りを思わせるものがあった
「シャロットのところ」
そんな父の威圧に怯みながらも、アイリスは息を一つ呑んで気を引き締めると、決意の込められた強い視線と声をカリオスに返す
「……十世界、ということか?」
決して声を荒げることなく、しかしその強い眼光をさらに険しくしたカリオスの声には、アイリスへの牽制と苛立ちにも似た感情が宿っていた
「違う。私は、シャロットに会いに行くだけ。一人の友達として」
カリオスの問いかけは、「十世界に入るのか?」という意味にも聞こえる。アイリスはそれに大きく首を横に振って答える
カリオスは、ロシュカディアル戦役において光の世界を裏切った月の精霊に最愛の妻――アイリスの母を殺されている
決して癒えることない心の傷と共に、九世界に所属する者として十世界に所属する者と繋がりを持とうとする娘を引き留める父としての純粋な思いから、カリオスは静かな声でアイリスに答える
「ダメだ」
やはりとも、当然ともとれる父の答えを聞いたアイリスは、真っ直ぐにカリオスの目を見て、自分の気持ちを言葉に変えて訴えかける
「お父さんの気持ちも分かる。私だって、お母さんを殺した月の精霊は許せない。でも、シャロットはその人じゃない。私の大切な友達なの」
胸に手を当て、懸命に言うアイリスの言葉と姿は、まるで自分自身の願いと父の思い、そして九世界の理と十世界との関係に対する自分の心をありのままに伝えようとしているかのようだった
「月の精霊を許して欲しいっていうんじゃない! 出来れば、そうして欲しいけど、できないならそれでもいい! でも、いつまでも昔のことで責め続けても、私達は何も変われないし変わらないの!
だから私達は許し合わなきゃいけない。過去は過去として、でも未来に向けて生きて行かないといけない。だからお願い」
これまで同胞だと信じていた者達の敵対に加え、月の精霊達に自分達の大切なものを奪われた心の痛みと喪失感が完全に払拭することは難しいだろう
特に父が死んだ母のことをどれだけ愛していたのかを知っているアイリスは、憎んではおらずとも月天の精霊へ抱いているであろう複雑な感情には十分理解を示すことができる
父ほどではなかったかもしれないが、アイリスも母のことを大切に思っていたのだから。だが、それがアイリスが止まる理由にはならない
「私は本気だよ。決めたの。シャロットのことを堂々と胸を張って友達だって言うって。だから、私は行くよ……たとえ、力ずくでも」
だが、だからといって父のために自分の友達を諦めのはもう嫌だと、アイリスは過去の己を振り返りながら訴えかける
「今度こそ本当の友達になろう」――シャロットに向けた自分の言葉の通り、自らの意志を示したアイリスは、その手に白磁の弓を顕現させていた
「……」
その言葉の通りに実力行使もいとわない意思を宿した強い視線を向けてくるアイリスを見たカリオスは、小さなため息と共に物憂げに目を伏せる
普段と変わらない精悍な表情からは、怒りや娘の言葉に応じて刃を抜くような戦意は宿っていない。だがアイリスは、そんな父の表情がどこか困っているようにも見えた
「そんな必要はないと言っている」
そうしてアイリスと対峙しながらしばらく沈黙の中で思案を巡らせていたカリオスは、ゆっくりとその重い口を開く
「シャロットと友達じゃ、いけないってこと?」
その言葉を、「友達に会いに行く必要はない」というような意味で受け取ったアイリスが憤りを滲ませた声で言う
低く発せられた威嚇に似たアイリスの言葉をそよ風のように聞き流したカリオスは、その目に娘の姿を映すと抑制の利いた声を向ける
「違う。逆だ」
「?」
その言葉に怪訝そうな表情を浮かべたアイリスは、しかし月明かりに照らし出されている父の横顔に、なぜか胸を締め付けられるような不安を覚えていた
「彼女は……シャロットは――」
※
「――……」
妖精界のとある場所。星々が瞬く夜天を映し出す泉のほとりに佇むシャロットは、湖面に映る自分の姿を見て、わずかにその表情を綻ばせる
普段の澄ましたそれとは違うシャロットの柔和な表情は実に自然で、まるで今までの表情が作り物だったのではないかと思えるようなものだった
そして、その時シャロットはどうしようもなく油断していた。――否、その表情からすれば、浮かれていたのかもしれない
「――っ!?」
気付いたときには手遅れだった
意識の隙を衝かれたシャロットは、その身を揺らす衝撃を受けて始めて、自身の失態を理解する
「な……っ!?」
身体に奔った衝撃に誘われるように瞠った目を下げ、視線を落としたシャロットが見たのは、自身の胸を貫き、己の血炎を纏っている一つの刃だった
(これは、「テンペスティア」――!)
自身の胸を貫く刃――まるで布のように柔らかくしなり、月の光さえ通してしまうのではないかと思えるほどに透き通ったそれを見たシャロットは、見覚えのあるその武器を見て視線を背後へと向ける
そこまでに要した時間は一瞬にも満たないほど。身体を貫かれるのとほぼ同時に、口端から血炎を立ち昇らせながら弾かれるように背後を見たシャロットの目に映ったのは、星明かりを遮る木々によって深い闇に包まれた森の中から放たれた伸びている刃だった
(どう、して……っ)
自身を貫く武器が誰のものなのかを知っているシャロットは、膝から崩れながらその刃が伸びている方向へと視線を向ける
「――ッ!」
動揺と困惑を隠せないシャロットの視線の先。深い闇を抱く森の中らから、泉のほとりを埋め尽くすように生えている青草を踏みしめて姿を現したのは、襟足が肩まで届くほどの淡金色の髪を夜風に遊ばせ、立襟のコート風の霊衣を纏った切れ長の目を持つ眉目秀麗な精霊の男だった
「随分油断していたようですね、シャロット。精霊力を消して後をつけていた私に気付かないとは」
その言葉と共に知覚にかからないために、限界まで抑え込んでいた精霊力を解き放ったクーウェンの声は、どこかシャロットに対する棘を孕み、隠しきれない敵意と害意を感じさせるものだった
その背に生える四枚の翅は、金属のそれを思わせる光沢を帯びた一対の上羽と、半透明の下羽――いわゆる「鞘羽」と呼ばれるものであり、その翅を持つ者が森の精霊であることを表すもの
半透明の布刃の剣を携え、膝から崩れ落ちたシャロットの許へと歩み寄った金髪の精霊は、地に伏したその姿に冷ややかな視線を送りながら睥睨する
「クー、ウェン……一体、どういうつもり?」
崩れそうになった身体を、足を踏ん張って支え、その腕に手甲と一体となった自身の武器を顕現させたシャロットは、穿たれた胸の痛みに柳眉をひそめて苦悶の表情を浮かべながら、それ以上の憤りが込められた視線をクーウェンへと向ける
「どういうつもりとは、心外ですね。これは必然だと思いますが?」
口端と胸の中心から血炎を立ち昇らせるシャロットに、怜悧な視線を向けられたクーウェンは、どこかわざとらしく肩を竦めて、冷酷な視線を返す
「なん、ですって――……?」
穿たれた胸の中心と口端から血炎を上げながら、苦悶の表情でその人物――十世界に所属する精霊の一人である「クーウェン」を見るシャロットは、その言葉にわずかに怪訝そうに眉をひそめる
いかに不死性の高い全霊命と言えど、核がある胸の中央を穿たれた状態では、もはや応戦することは難しい
その存在を構築する神能がその形を失い、血炎となって夜空に溶けていくのを視界の端に捉えながら、シャロットはその真意を問い正すための睨むような鋭い視線を向ける
「大した役者ですね」
その言葉に眉根を寄せるシャロットの姿を見たクーウェンは、まるで意志を持っているかのように動く布刃の柄を持つ手で軽く頭を掻きながら言葉を続ける
まるで世間話をするような軽妙な声音で語りかけたクーウェンの言葉には、どこか嘲るような攻撃性が宿っていた
「私に言わせれば、ニルベスもドルクも理解に苦しむ。あなたのような者を、平然と組織の中に受け入れているのですからね」
崩れそうになるのをすんでのところで踏みとどまり、手甲弓から生み出された金属質の槍を地面に突き立てて身体を支えたシャロットが射るような視線を向ける
瀕死の重傷を負っているにもかかわらず、全く覇気の衰えを知らないシャロットの視線に、クーウェンは感嘆と冷淡の入り混じった声で応じて目を細めた
「……っ」
辟易しているようにも、呆れているようにも聞こえるクーウェンの言葉に、シャロットはその表情を苦悶とは違う感情で強張らせていく
「ここまで言えば、私が何を言いたいのか分かりますよね? なぜならあなたは――」
クーウェンが手にする剣の柄から伸びる布刃は、まるで自分の意志を持っているかのように、さながらとぐろを巻いた蛇のようにその身体を包み見込んでいた
※
「――彼女は、九世界のスパイだ」
「!」
父、カリオスの口から告げられた言葉に、アイリスは驚愕を隠せない様子で目を見開く
「ごく一部の者しか知らないことだが、彼女――シャロットは、十世界に組する振りをして我々にその内部情報を調査し、流してくれている」
目を見開き、驚きを露にするアイリスに、カリオスは淡々とした口調でシャロットの正体と真実を告げていく
その精悍な顔に浮かぶ真摯な眼差しは、それが嘘や方便などではないことを如実に物語っており、アイリスはそのことに動揺と困惑を禁じ得なかった
「だから、そんな必要はないと言ったのだ。わざわざお前が彼女と何かするまでもなく、最初から彼女は我々の側の者だ
そして、だから逆だと言ったのだ。お前と彼女が友達である必要があるのではなく、お前と彼女の関係がうまくいっていない方が都合がいい。なぜなら、彼女はそれを理由に十世界へと入ったのだからな」
「――!」
淡々とした口調で紡がれていくカリオスの口から伝えられるシャロットの真意に、アイリスは大きく目を瞠る
「このことを言うべきかは迷ったのだが、彼女を友達というのなら、知っておいた方がお前のためになるだろう」
シャロットが九世界からのスパイであるということは、妖精界でも限られた者しか知らないこと。その真実をアイリスに伝えるべきか迷ったカリオスだったが、それをあえて言ったのはシャロットのことを友だという娘のためだった
「なんで、どう、して……?」
突然のことに困惑し、胸中に湧き上がっているであろう疑問を零したアイリスに、カリオスは抑制の利いた厳かな声でそれに粛々と答える
「彼女の意志だ」
アイリスと視線を交わし、その乱れた心を鎮めるように重厚な声音で応じたカリオスの脳裏には、かつてライルと共に妖精界王の許を訪れ、その旨を伝えてきたシャロットの姿が甦っていた――
※
《――実は、とある月の精霊から、一緒に十世界へいかないかという誘いを受けました》
ある日、突然兄ライルと共に妖精界城を訪れたシャロットは、玉座の間でアスティナを前に恭しく頭を下げながら静かな声で進言する
その時は、月天の精霊の裏切りと母の死の真相を知ってしまったアイリスとシャロットの関係がぎこちなくなって、距離が離れてしまっていた
そんな中、妖精界の一角にある月の精霊達の里で暮らしていたシャロットは、同じくロシュカディアル戦役からの罪を背負い続ける現状に不満を抱く別の月天の精霊に十世界に誘われたのだ
「そうですか。それで、あなたはどうなさるおつもりなのですか?」
シャロットからの突然の進言を受けたアスティナは、その言葉に柳眉を切なげにひそめて静かな声で問いかける
十世界に行くつもりならば、勝手にいけばいい。現に今までそんなことをして十世界へ行った者など一人もいなかった。それをあえて登城し、王に面会を求めてまで言う必要性など微塵もありはしないない。
だからこそ、玉座の間で兄ライルと共に跪いているシャロットが別の意図を持ってここに来たであろうことはアスティナ達にとっては想像に難くないことだった
「はい。私は、これを受けようと思っております」
そうして、顔を上げてアスティナ達を見ながらそう言葉を続けたシャロットは、一拍の間を置いて自身が内に秘める決意を述べる
「私には十世界へ赴くだけの理由があり、その理由を並べ立てれば彼らの信頼を得ることも容易いでしょう。ですから、そうしてできる限り十世界の懐に潜り込み、可能ならば――盟主を仕留めます」
玉座に座すアスティナへと視線を向けたシャロットは、その怜悧な視線に強い決意と殺意を宿し、抑制の利いた声で言う
「……!」
(なるほど、私のことも知っているということか)
その視線はアスティナに向けられているが、その言葉は妖精界王の玉座の傍らに立っているカリオスに向けられていた
そして、それに気づいたカリオスは、今目の前にいるシャロットという月天の精霊が、アイリスの友人であり、自分のことを聞いていることを理解する
「赴くに足る理由、ですか」
「はい。私はとある日輪の精霊と友人なのですが、ロシュカディアル戦役の一件で関係が少し疎遠になっております」
アスティナの問いかけに、シャロットはその表情を微塵も崩さずに静かな声音で答える
「なるほど……」
その答えに合点がいったように呟いたアスティナは、「友人なのですが」というシャロットの言葉に、彼女自身の中ではその人物へ向ける友愛の情が、今でも変わらないものなのだと理解していた
シャロットが十世界に赴くに足る理由――それは、月天の精霊であるがゆえに、日輪の精霊である親友アイリスとの関係がぎこちないものになってしまったことだった。
アイリスの母は「ロシュカディアル戦役」において、闇の世界に寝返った月天の精霊によって殺され、母への愛と父のやり場のない感情を知ったアイリスは、そしてこの世界に残された微妙な関係性の均衡に苛まれていた
母を大切に想い、父を思いやり、シャロットをかけがえのない友人であると思っているからこそ、アイリスは自分の思いに絡めとられてしまったのだ
「確かに、十世界は来るものを拒まず、離脱も自由な組織だ――表向きは、な。だが、奏姫を慕う者達は、必ずしもそうではない」
自分の境遇を逆手にとって十世界に潜入し、可能ならば盟主――「奏姫・愛梨」を殺すと宣言したシャロットに、カリオスは感情のこもらない無機質な声で淡々と語りかける
盟主である愛梨の方針で、十世界という組織は特に踏み絵や、特別なことをせずとも入ることができる――そもそも、十世界は組織ではなく、愛梨の下に集った者達の集まりでしかないのだから、それも必然といえば必然だろうが。
いずれにしろ、十世界という組織は、入ることも出ることもさほど難しくはない。その特殊な体系は、世界の恒久的平和を謳うからこそのものでもあると言えるだろう
「彼女は、それを望まないでしょう。ですが、たとえそうだとしても彼女を慕うもの達は、彼女を害する存在を許さないはずです」
そんなカリオスの言葉を肯定するアスティナの言葉は、あえてそう言うことでシャロットを思いとどまらせようとしているようにも聞こえるものだった
十世界という組織の最大の長所にして短所は、組織に所属する者の大半が、愛梨の理念ではなく、愛梨個人を慕っているということにある
世界の恒久的平和になど興味はない。ただ、愛梨という一人の存在を好ましく思っている者が大半を占めるからこそ、時にその意思を無視ししてでもことを成そうとする者が存在する
愛梨は、たとえ自分を殺そうとするものでも受け入れようとするだろう。だが、愛梨を慕う者達の中には、そんな害意を持った者を容認することなど到底できない者もいる
「覚悟の上です」
十世界の理念の裏に潜む、暗い感情を危惧するアスティナの言葉に、シャロットは微塵も揺らぐことのない意思を宿した声で応じる
「しかし……」
「御心配には及びません。どうか、今度はこの世界のために裏切らせてください」
それでも、なおも渋っている様子のアスティナに、シャロットは怜悧な眼差しで言う
それは、聞きようによっては、かつて月天の精霊が妖精界を裏切ったことを、やや皮肉交じりに言っているようにも思えるものだった
「お願いします、アスティナ様」
だが、アスティナに真摯な眼差しを向けて懇願するシャロットからは、そんな感情は微塵も見て取ることはできない
むしろ、かつてロシュカディアル戦役の時に裏切りによって失墜させてしまった信頼を、同じ裏切りによって挽回して見せると言いたげな気概さえ感じられた
「……なぜ、そこまでしようとするのですか?」
この世界における月天の精霊の信頼の回復、あるいは単純に十世界の排除――その思惑は判然としないが、頑なに十世界に潜入しようとしているシャロットの真意を測り兼ねたアスティナは、その柳眉をひそめてその意図を尋ねる
「私には、かけがえのない大切な友人がいます。日輪の精霊の彼女は、ロシュカディアル戦役から続く確執と、その優しさ故に苦しんでいるのです」
アスティナに答えながら、誰よりもその言葉を伝えたいカリオスへ自分の声でアイリスの気持ちを伝えるシャロットは、優しくその目を細めていた
まるでその優しさを慈しむように、そんな友人の生き方を誇るように、不器用で純粋なその心をいたわるように――シャロットの声は穏やかに、その人への深い親愛の情を示すように響いていた
「ですが、彼らのやり方は認められない人を一方的に許すだけにすぎません。私達は許し合うことをしなければならない
私は、許せないのです。お互いの心の確執に向き合い、苦悩する者達を許すことで貶めようとするあの組織のやり方が。そして何より、私と彼女の関係を憐れんだことを」
共に向けていた優しい声音から、攻撃的にも聞こえる抑制された硬質的な声音に変えたシャロットは、アスティナへ視線を向けながら言葉を続けていく
十世界は確かに、許す組織。愛梨の理念の下、混濁者のような禁忌の存在も、月天の精霊達の過去の罪も全てを許し、その人を認め、受け入れてくれる。
だがそれは自分を否定する世界から目を背け、そんな自分を許してくれる居心地のいい場所へと逃げるようなものでしかない
それは、この世にある正しさに苦しみ、自らの存在に向かい合って苦悩するその人を、許すことで否定するようなものでしかないとシャロットは考えていた
そして、何よりシャロットが許せなかったのは、月の精霊との関係に苦悩し、自分との接し方に迷っているだけの親友との関係をすでに壊れたと決めつけ、戻れないと思っていること
「自分達は何も悪くないのに、過去の罪を引き摺る世界の所為で友達の関係がぎくしゃくしてしまって気の毒だね」と言わんばかりの考え方の方だった
「確かに、過去の出来事から、私達の関係が今一時的に変わってしまっていることは否定しません。ですが、私はいつかそんな過去も含めて乗り越え、また元通りの……いえ、今まで以上の関係になれると思っております」
胸に手を当て、その目を優しく綻ばせるシャロットは自信と確信を持って、アイリスが出してくれるであろう答えを告げる
この世界には、自らが犯したわけでもない罪を背負い、生まれながらに世界に認められない者達がいる。異なる存在の混血たる「混濁者」、かつての裏切りの罪を背負い続ける「月の精霊」
望んでそう生まれてきたわけではない。ただそう生まれてしまったというだけで、世界に生きる者から否定的な視線を向けられるその苦しみは筆舌に尽くしがたいものがある――それは、月天の精霊であるシャロットも身に染みて分かっていることだった
十世界はそんな自身に覚えのない罪を許し、認めてくれる。それは、これまで存在だけで否定されてきた者達にとっては、非常に居心地が良く、心安らぐものだろう
だがそれでは物事の本質は何も解決していない。今禁忌とされていることを、「悪いことではないですよ」と言うのではなく、禁忌を分かった上で互いに理解し合う世界が必要なのだ
――シャロットは、十世界に「そんなことは関係ない」と、わざわざ許してもらわなくとも、自分とアイリスのように「そうだとしても」と、互いを認め合い、絆を結ぶことができると確信していた
「ですから、私は十世界をこのまま残しておくわけにはいかないのです。否定されるものは、許さない限り認められないと思っている彼らを」
そう言って、ある種の傲慢だと十世界を切り捨てたシャロットは、月天の精霊である自身の存在に誇りを持ってアスティナに、再度強い決意が込められた眼差しを送る
「私達は許し合わなくても認め合うことができます。私達は認め合わずとも分かり合うことができます。――この世界に十世界など必要ありません」
その言葉を告げたシャロットの目に宿る意思は、たとえ拒絶しても自らの意志で十世界へと赴くであろうことをアスティナ達に、漠然と確信させるものだった
「……決意は変わらないのですね」
その眼差しに宿る意思を見て取ったアスティナは、最後の確認の意味を込めて声で問いかける
シャロットに注がれるアスティナの瞳には、危険を冒すことへの憂いと共に、変わらぬ友愛の信念を貫くその姿に日輪と月天の精霊の新たな関係の希望を見て取った喜びが宿っていた
「……はい」