さようならの前に
《でも私達は意味も無く戦ってしまっているとも思います。いえ、そう意味で意味が無いっていうことじゃなくて、なんとなく昔から続いてきた敵対関係とかを引き摺って戦っているって意味です》
《戦うことが生命としての本質だというのなら、私は戦う運命と戦う道を選びたいって思います。そして――せめて、そういう当たり前に続いてきた敵対関係を終わらせたいです》
褐色の肌に映える金色の長髪が風に靡く。蝶花の髪飾りをつけられたそれは、さながら金色の草原のようだった
色鮮やかな蝶翅を携え、ドレスと司祭服の中間にあるような霊衣で包んだその女性は、舞うようにその身を翻し、大輪の花のような笑みを浮かべるとゆっくりと口を開く
《――》
その口から紡がれた言葉は――
※
天の中心に神臓の月を抱く満天の星空の下、燐光を帯びる蛍のような生き物が飛び交う深い森の中を一つの影が神速を以って走り抜けていた
自分の力を知覚されないように細心の注意を払いながら、世界の理を否定して自身を理と変える神の如き力を以ってこの世の理の全てを超える速度で移動しているのは、大貴達と共にこの世界へとやってきた黒髪の悪魔――「瑞希」だった
「――……」
水晶を思わせる凛々しく高潔な麗貌を月光に浮かび上がらせた瑞希は、わずかにその柳眉をひそめて唇を引き結ぶ
「瑞希さん――……」
泰然とした大樹が生い茂る森の中を駆け抜けながら、その切れ長で怜悧な目をわずかに細めた瑞希の心の中に甦ってくるのは、自分の名を呼ぶ驚愕と戦慄に彩られた声だった
透き通るような透明感と優しい響きを持つその声の主は、かつて一時共に暮らしたこともある金色の髪を持つ月天の精霊――「リーネ」。
魔界へと下った瑞希の情報により急襲を受け、混乱と戦火を極める中で十世界の前身となる組織を構成していた者達は散り散りになり、そんな中で瑞希はリーネと対峙することになった
「リーネ……」
戦いの中、自身が裏切り売ったかつての仲間の一人と戦火の中で再会した瑞希は、その手に携えた双剣の柄を握る手にわずかに力を込める
「できれば、あなたとはこんな形で再会したくなかったわ」
その柳眉を一瞬顰め、凛々しく洗練された氷麗な美貌に沈痛な面持ちを浮かべた瑞希は、しかしその感情を一瞬で消し去る
「瑞希さ――っ!?」
ある意味で裏切り者である自分に相応しい状況に自嘲じみた笑みを浮かべる瑞希は、そんな自分を見てこの現状の元凶を理解したらしいリーネにその手に持った双剣の刃を突き立てる
一瞬だけ動揺した一瞬の隙を逃さずにリーネの身体へとその刃を突き立てた瑞希は、突然のことに驚愕と困惑を隠せない月天の精霊の少女に、静かで冷ややかな声を向ける
「許してほしいなんていわないわ」
「――こんな時にあの時のことを思い出すなんてね」
星天の下の森の中を駆け抜けながら、あの日の――決定的な決別の日のことを思いだした瑞希は、自嘲するように独白する
その怜悧な麗貌に垣間見えるものは、後悔や懺悔なのか、あるいはそれ以外の感情なのか――それは、もしかしたら瑞希自身にさえ分からないことなのかもしれなかった
そうしてしばらく森の中を移動していると、不意に視界が開ける
森を抜けた先に広がっていたのは、一面に色鮮やかに光る花が咲く平原。そこには、赤や青、黄色など無数の光が灯っており、幻想的な光景を演出していた
そして、その光原の中に夜天の中でもはっきりと分かる乳白色の蝶翅を浮かび上がらせて、一つの人影が佇んでいた
平原へと出たところで速度を落とした瑞希は、一面を埋め尽くしている緑を踏みしめながらゆっくりとその人影に近づいていく
「綺麗だろう? 夜光花――……日中陽光を取り込んで、夜にその花弁を光り輝かせる」
そうして瑞希がある程度の距離まで近づいた時、背を向けて天中に座す月を見上げていたその人物がおもむろに語りかける
月の光の逆立つ金色の髪をうっすらと輝かせたその人物は、その言葉と共にゆっくりと振り向いて瑞希を迎え入れる
「リーネが一番好きだった花だ」
振り向いたその人物――十世界妖精界総督「ニルベス」は、その目で愛しい人を懐かしみながら、抑揚のない冷たい響きを伴う声を瑞希に向ける
「悪いな。呼び出すようなことをして」
「いえ」
ニルベスの言葉に、その場で足を止めて小さく目礼を返した瑞希は、自分が殺したリーネを世界で最も愛している男へとその視線を向ける
「ここへ私を呼んだということは、そういうことなのでしょう?」
灯火のような花々が咲き乱れる草原でニルベスと対峙した瑞希は、夜の風にその黒髪を弄ばれながら静かな声で確認するように問いかける
「ああ」
その問いかけに、一秒以上たっぷり間を取って応じたニルベスは、自身をまっすぐに見据えている瑞希と視線を交錯させる
かつて、共に戦いで家族を失った孤児たちを守り、姫と出会うことで今の十世界の前身となる組織を作った二人。
そんな中、そこを離反し、魔界に愛梨たちを売ってそこにいた者達を殺させ――そしてニルベスが世界で最も愛する人である「リーネ」を手にかけた
最愛の人を奪ったのが、自分達を裏切ったかつての同胞であることを知ったニルベスの胸中に渦巻く感情はいかばかりか、推し量ることなど誰にもできはしないだろう
「なら、答えを聞かせてもらえるかしら」
ニルベスの射るような眼光を真正面から受け止めた瑞希は、どこか敵意を煽ろうとしているような麗笑を浮かべる
それが瑞希による挑発だということなど、ニルベスにとっては百も承知のこと。現在魔界――否、九世界に所属している瑞希にとって、十世界に所属する精霊達の総督であり、盟主たる姫の腹心であるニルベスが自分に殺意を向けることが重要な意味を持つ
なぜなら、十世界は「争いのない恒久的平和世界の実現」を理念として掲げる組織。そんな中で愛梨の腹心であるニルベスが愛しい者を殺した相手に復讐心を燃やして抹殺したというだけで、その理念を否定することができる
加えて、ニルベスが復讐心に任せて敵対行為を取ってくれれば、その命を奪う正当な理由ができる。十世界の理念に同調する腹心の一人を堂々と殺すことができる大義名分が立つ
何より、光魔神を自分達の陣営に確実に取り込んでおきたい九世界側にとっては、十世界という組織が掲げる理念の矛盾を露にすることができる
「俺は……」
氷麗で耽美な瑞希の表情の下に隠れているそんな本心には、ニルベスも当然気付いている。
愛する者を奪った者にその心のまま刃を向けるのか、十世界の理念の下にそれを許すのか――瑞希とニルベスのやり取りは、ある意味において九世界と十世界の代理戦争の様相さえ呈していた
《――心から人を愛したこともない人が、私の邪魔しないで》
対面する瑞希を見据えながら、自分の中にある感情とじっくりと心を鎮めていくニルベスの脳裏によみがえってくるのは、アリアの言葉。
愛する者を奪った者を憎み、その命を奪う――それは、遥か古から続いてきた連鎖。失った痛みを押し殺し、最愛のリーネが望んだ平和の未来のために生きてきたニルベスはその言葉に激昂を覚えた
《ただ、愛するものを失った絶望に身を焦がし、それを殺したものを殺すために生きることが、愛していた唯一の証だとでもいうつもりか……っ!》
愛するがゆえに、それを奪った者に対して狂おしいほどの憎悪を抱く。それはある意味で愛の深さの証ともいえるだろう
それは恐らくは世界の創世の頃から続いてきた争いの理にして根幹。誰もが自分の愛するもの、守りたいもののために戦い、それを失った絶望が更なる火種を生んで争いを続けてきた
それは、生存のための弱肉強食に生きる半霊命と違い、永遠にして唯一の存在となってしまった全霊命達が背負う呪いにも似た心の鎖だ
《さすがに極論かもしれないが、誰をも許すということは、ある意味で誰をも愛していないことに等しいのかもしれない》
十世界そして愛梨が掲げる「光闇を問わず、世界に生きるすべてのものが争いなく共存する平和な世界」の実現の前に立ちはだかるものこそが、その「愛」という心の壁。
今日まで失い、奪われてきたものを意識の隅へと追いやり、それをした者達を許し、すべてを清算して新しい時代を始める――愛梨の理念にはそれほどのものが必要になる
だが、そんなことが本当に可能かと言われれば首を傾げざるを得ない。時に時間がそれを和らげてくれることもあるだろう。そんな中出会った新しい誰かに支えられ、復讐の道を諦めることができる者もいるかもしれない
だが、もしも今、目の前で大切な者を奪われたのなら――十世界の理念を信じる者達は、それを許すことができるだろうか?
《いずれにしろ、叶わない願いを叶うはずがないという理由で諦められるなら、俺達は今ここにいないんじゃないのか?》
残響する言葉は、ニルベスの中で渦を巻く。確かに愛が争いを生むことは間違いない。愛梨の――十世界の理念が実体のない夢物語であることも否定はできないだろう
確かに九世界の言うことは正しい。だが、「世の中はそういうものだから」で諦めるのなら、世界には本当の意味での救いがないことになってしまう
そんなことはできないのだからと言って失われていく命を見送り、奪われた者の慟哭を聞きながら生き続ける今を変えたいと、変えることを諦めたくないと思う心を失っては、全霊命は本当の意味で神が作った戦うためだけの存在になってしまう
《とにかく、自信を持ってください。いつだって私の幸せはあなたと一緒にいることなんですから》
だが、愛梨の理念に希望を見出し、共感するニルベスの心の中には同時にかつて失った最愛の人の大輪の花のような笑みが浮かぶ
《お前を守れればいいんだ。お前が笑っていてくれるなら、それでいい、なんて言えるかよ》
最初にニルベスが望んだのは、ただ愛する人と共に生きていきたいという、些細な――本当に些細な
当たり前の幸福だけだった
同じ時間を共有し、言葉を交わし、肌を重ね、温もりを実感し、心を結ぶ。そんな誰もが思い描く当たり前の日常が欲しかっただけに過ぎないというのに
瑞希には瑞希の意志があった。リーネを殺したのも、魔界に帰化するために踏み絵のようなものであり、望んで手にかけたのではないのかもしれない。
そんな可能性は頭の中では十分に分かっている。だがそれが――そんなことが、一体何の免罪符になるということもないと心は強く叫んでいた
(――そう、俺の答えは……)
リーネ、死紅魔、アリア――そして愛梨。たった一つの想いと、多くの人達と繋いできた願いが込められた言葉がニルベスの中で次々と繰り返され、そしてそれらは一つに織り重なって答えを紡いでいく
「俺は、お前を許さない……いや、許せない」
たっぷりと時間をかけて自身の中で募った想いを整理したニルベスの言葉には、自身が出したその答えに対する強い心響が宿っていた
「……」
その言葉に怜悧な視線をわずかに細める瑞希の前で、ニルベスの腕にその精霊力が戦う形となって顕現する
「リーネは俺の全てだった。リーネは俺にとって、生きている幸福そのものだった」
「グラウニィ」――ニルベスの精霊力がその特性に合わせて顕現した盾と一体化した大剣の刃が、その心に呼応するように揺らめく光を放つのを見て、瑞希はその感情を受け入れようとするかのように一度目を伏せる
まるでニルベスの言葉と、そこに込められた心を自分の魂に焼き付けているような神妙な面差しを浮かべていた瑞希は、その目を開くと同時にその両手に自身の武器である二対一刀の細剣を顕現させる
「それを奪ったお前を許すことなどできない」
強い視線を向けたニルベスは、強く口を引き結び、砕けんばかりに歯を食いしばって言い放つ
感情のままに声を荒げそうになる自分自身を律しているかのように、強く抑制された声音でそう言ったニルベスの拳は、力の限りに握りしめられていた
今ここで感情のまま刃を向けることは、瑞希に応戦する理由を与えることであり、十世界の理念を否定することになってしまうかもしれないもの。
自分を信じてくれた人、自分が信じてきた思い――今ニルベスの心を占める感情は、十世界の一人として築いてきた信頼を失うことになるかもしれない。捨てることに等しいのかもしれない
それは、おそらく瑞希の思う壺だろう。だがそれでも、ニルベスは今日まで自分の心も最も大切な部分に残り続けてきた最愛の人への個人的な思いを切り捨てることはできなかった
「オオオオオオオオッ!!」
慟哭のようにさえ聞こえる咆哮と共にニルベスから放出された精霊力は、まるで太陽からこぼれた様な眩い光を放って輝く
その煌めく精霊力の光は、ニルベスの手にある盾剣の刃へと宿り、夜の大地に太陽と見紛うばかりの光を生みだした
星と月の青白い光に浮かび上がる夜色の森が、突如噴き出した光によって照らし出される様は、一瞬の夜明けを思わせる
その輝きから一瞬遅れて届いた風圧が、大地を埋め尽くすように茂る木々を大きく揺らし、木の葉を天空へと舞い上げていく
「――……!」
光の嵐が視界と知覚を埋め尽くしてい吹き荒れる中、静かに佇む瑞希は、わずかにその目を驚愕に見開く
その瑞希の視線の先には、精霊力の残滓が満ちる中、手甲のような盾剣の刃を天に向けて掲げたニルベスが佇んでいた
「だが……だが、俺は! それでもお前を殺さない!」
自身に向けられているであろう瑞希の視線の意図を察したのか、ニルベスはその表情を俯けたまま、血を吐くようにそう言い放つ
怒りと共に刃へ込められたニルベスの精霊力は瑞希へと向けられることなく、まるで長い間鬱積していた鬱憤を晴らすかのように、妖精界の夜天へと解き放たれていた
全霊命の力である神能には、それを使った者の意思が宿っている。この場を満たすニルベスの精霊力から知覚できるものは、最も愛しい人を奪った者への強い憎悪、最もかけがえのない人を失った悲しみ、もう二度とその人に会うことができない絶望――そして何より、その人への深い愛だった
「……」
ニルベスの心の痛みそのものである精霊力を知覚し、わずかにその表情に沈痛な色を浮かべた瑞希は、その手に持つ二本の刃の切っ先を地面へ向ける
「私を……許すというの?」
まるで戦意を下げるように刃を下げた瑞希の視線に、まだ自身の中に残っている迷いを絞り出そうとしているかのように、着かれているわけでもないのに短く荒い呼吸を繰り返していたニルベスは、ゆっくりとその顔を上げる
「俺は、お前を許さない」
静かに問いかけられた瑞希の言葉を、やや強くした語気で否定したニルベスは、その腕に顕現させていた盾剣を消失させると、大きく息を吸って心を鎮める
「……だが俺には、今、かけがえのないものがある」
一言そう言って話を切り出したニルベスは、自分に向けられている瑞希の視線に小さく首を横に振ってみせる
「姫の事ではない」
「あなたの言う『かけがえのないもの』は、愛梨――十世界のことなの?」と言わんばかりの瑞希の視線を否定したニルベスは、しかし一瞬の間を置いて自嘲を浮かべてさらにもう一度……今度は自分の言葉を否定するために小さく首を横に振る
「いや、確かに姫のことなのは間違いない。だがそれ以上に、それはリーネが望んだものだ」
感情を込めながらも、抑制された響きを以って発した言葉を、ニルベスは最愛の人の仇である瑞希に聞かせる
今のニルベスにとって、最もかけがえのないものは、十世界が掲げる理念の実現。なぜならそれは、リーネが生前に望んでいたことなのだから
自分の憎しみのままに敵を討つのではなく、最も愛する人の心を受け継ぎ、託された願いを実現させることを決意したニルベスは、固く握りしめていた拳をわずかにほどいて、ぎこちない――少々無理をしていることが分かる作り笑いを浮かべる
「月並みな言い方になるだろうが、お前を殺してもきっとリーネは喜ばない。いや、むしろ怒るような気がするんだ……あいつは、お前と仲が良かったからな」
ニルベスの記憶の中では、リーネはよく瑞希と行動を共にしていた。元々人懐っこい性格のリーネだったが、大勢いる当時のメンバーの中でそれだけ瑞希を気にかけていた
今となって思えば、どこか人の心を見透かすような一面を持っていたリーネは、瑞希に自分達とは違う何かを感じ取っていたのではないかと思える
だがそれは、自分達を裏切るような不穏なものではなく、もっと別の――それこそリーネが放っておけないと思うようなものだったに違いない。何故なら、瑞希と一緒にいるリーネの笑顔は心を許した気の置けない人にしか見せないものだったからだ
「――……」
その言葉に、自分に向けられていたリーネの屈託のない花のような笑顔を思い出しながら、瑞希は愛する人を失った痛みに向かい合うニルベスの姿を瞳に映す
「もちろん、俺が俺の気を晴らすためにお前を殺すという選択肢もあるだろう……だが俺は、俺自身の心を晴らすよりも、リーネに愛される俺であり続けたいと思う」
この世で最も愛する人を奪った者を前にしているのだ。その心を少しでも晴らすために、瑞希を殺そうとしても、誰にもそれを咎めることはできないだろう
だが、それでもニルベスは自身の憎悪を殺し、リーネにとって誇れる自分であろうとすることを選んだ。――ただ、自分が愛していることを理由に愛する者を奪った仇を取るのではなく、自分を愛してくれたその人が求めてくれていた自分であり続けることを選んだ
「だから俺は、あいつに会った時に、あいつがやっぱり私が思っていた通りの人だったと言ってくれる俺として生きることを決めた。そうすることが、俺ができるリーネへの供養で……俺のリーネへの愛の証だと思う」
まるでここには存在しないリーネと手を繋ごうとするかのように胸の前で握りしめたニルベスは、その拳を見つめながら自分の決意を言葉にする
「そう……」
大切な人を奪った者と失った過去、自分の現在を受け入れて自身の心に向かい合ったニルベスの揺るぎない決意が込められた声に、瑞希は静かに目を伏せる
「残念ね。十世界の理念を崩す絶好の機会だと思ったのだけれど」
もはや、自分んが何を言ってもその決意を揺るがすことは難しいと判断した瑞希は、観念したような麗笑と共に皮肉混じりの言葉を向ける
(ありがとう。ニルベス)
しかし、その言葉の裏で瑞希はニルベスに感謝していた
ニルベスの言葉は、決して自分を許したというものではないことを瑞希は分かっている。ニルベスはニルベス自身と愛するリーネのために、自身の最愛の人を殺した仇を殺さずに憎み、その憎しみを心の内側へ留めることにしたのだけに過ぎないのだ
瑞希を殺さないのは、リーネを裏切りたくないから。リーネに失望されたくないから。そして、その憎しみに身を任せず、瑞希を許したように振る舞うのは今の大切なもののため
(あなたがそう言ってくれるのなら――私を殺さずに憎み続けてくれるのなら……)
許しの憎悪を向けてくれるニルベスに感謝の気持ちを向け、その視線と声の下に本当の気持ちを隠して相対する瑞希は、その瞳に一瞬だけ自嘲の色を浮かべる
(私は、私の罪に呪われ続けることができる)
恐らく、殺すよりも自分を苦しめることになるであろう答えを出してくれたニルベスの言葉にわずかに口元を綻ばせた瑞希は、その目を伏せてこれから自分が背負うことになるものを噛みしめる
「それを、お前に伝えたかった。十世界、九世界という立場ではなく、俺が俺自身として出した答えを」
ニルベスが出したその答えは、自分が望んでいたものだったとも、そうではなかったともいえる。自分の心に自傷じみた自嘲を浮かべる瑞希は、そんな自分の感情を心の奥へと追いやり、怜悧な視線をニルベスに返す
「……わかったわ」
真っ直ぐに誇らしく向けられたニルベスの目には、後悔や迷いは微塵も感じられない。その目に宿った心を感じ取った瑞希は、眩しそうにその目を細めてその身を翻す
ニルベスの答えを聞いた以上、もうここにとどまり続ける意味はない――頭の後ろで束ねられた夜の闇よりも黒い髪が翻り、瑞希の背が言葉にせずとも別れを告げる
「待ってくれ」
しかし、そんな瑞希を呼び止めたニルベスは、肩ごしに向けられた麗悧な視線に口を開く
「最後に一つだけ聞かせてくれ」
再び向かい合おうとする様子を見せず、背を向けたままわずかに顔と視線だけを向けてくる瑞希にニルベスは真摯な声で問いかける
「リーネは、最期に何か言っていたか?」
ニルベスにとって瑞希は、愛するリーネを殺した仇であると同時に、最愛の人の最期を看取った人物でもある
愛する人が最期に遺した最後のなにかを知りたいと思うニルベスの言葉を受けた瑞希は、その瞳にその時の光景を思い返して目を伏せる
《瑞希さ――っ!?》
瑞希の情報により、魔界軍の急襲を受けた十世界の前身となる集団は、戦乱の中で分散し、混乱を極めていた。そんな中、忠誠を試されるために同行していた瑞希がその集団の中で最も親しくしていたリーネと対面してしまったのは、運命の悪戯といえるものだったのかもしれない
偶然か必然か、あるいは天罰か――その戦乱の中でリーネと再会した瑞希は、ほぼ正確に自分がしたことを察して、悲しげな表情を浮かべている月天の精霊の身体に自身の武器である二本の刃を突き立てた
「許してほしいなんて言わないわ」
最も親しくていた――友人と呼んでも刺し障りないであろうリーネの身体に刃を突き立てた感覚を腕に、その刃の傷口から立ち上る血炎を目に焼き付けながら、瑞希は冷え切った声音で言う
覚悟はしていた。愛梨たちを裏切った自分を信頼するために魔界が踏み絵を科したその瞬間から、こうなることを――これまで共に暮らしてきたかつての同胞を手にかけることを覚悟していた瑞希は、わずかな動揺も見せず、研ぎ澄まされた刃のように隙の無い硬質な視線と声をリーネに向ける
「……嘘、ですね」
しかし、その身体を刃で貫かれたリーネは、そんな瑞希の言葉に、口端から血炎を零しながら、沈痛な面差しで囁きかける
「本当にそんな風に想っているのなら、どうしてそんなつらそうな顔をしてるんですか?」」
自身の身体を貫く双剣の刃に手を添えたリーネは、何も知らない者から見れば普段と変わらないようにしか見えない瑞希の麗貌を見て、その心を案じていた
「今の瑞希さんは、まるで迷子になった子供みたいですよ?」
まるで魂そのものである武器に触れることで、瑞希の心に触れようとしているかのようにさえ見えるリーネは、その柳眉を苦痛と憂いに顰めて囁きかける
「――!」
自分を殺そうとしている――否殺す人物に、怒りも憎悪も向けることなく気遣いの言葉を向けるリーネの姿に、瑞希の心はわずかながら、確かな痛みを覚えずにはいられない
裏切られ、今まさに自分の命を奪われようとしているというのに、それに対する怒りも憎悪も感じさせないリーネは、わずかに唇を引き結んだ瑞希に優しく微笑みかける
「不思議ですね。死ぬのは怖いです。でも、瑞希さんのことは憎くないんです……」
「なぜ、そんな顔ができるの? 私が憎くはないの?」と叫ぶように訴えてくる瑞希の瞳に、リーネは身体を貫く二本の刃の痛みに耐えながら、穏やかな声でそれに答える
瑞希にその身体を貫かれたことで、リーネは確かに死を確信し、恐怖していた。だが、リーネの心には死の恐怖こそあれど、自分を殺す瑞希に対する怒りや憎しみは不思議と存在しなかった
「お友達だから、ですかね?」
「……!」
精霊力が弱っていくのと同時に、確実に迫ってくる死の気配を感じ、わずかに表情を強張らせるリーネは、少しだけ困ったような笑みを瑞希に向ける
「えっと……じゃあ、最期に、お願いしていいですか?」
友の刃によって自身の命が消えようとしている中、それに対する恨み言や怒りを微塵も感じさせない声でそう言ったリーネは、双剣の柄を握っている瑞希の手に自分の手を重ねる
「ニルベスは助けてあげてください。ニルベスには生きて、幸せになってほしいですから」
その表情に浮かぶのは、瑞希に対するものではなく置いて逝ってしまう大切な人へと向けられる謝罪と寂しさの色――そして、その人の幸せを願ってやまない一人の女の愛慕だった
溢れだす感情を抑えているのか、あるいは死の恐怖からかかすかに震えるリーネの手を介してその心を感じ取る瑞希は、自身へとまっすぐ向けられるその縋るような視線に、心の奥に棘が刺さったような痛みを覚えていた
「約束ですよ? もしもニルベスに酷いことしたら、絶交ですからね」
優しく――どこまでも、優しい響きを持つ声で自分を殺した瑞希に絶対的な信頼を向け、じゃれるような声音で微笑みかけたリーネは、その命が尽きるのと同時にその存在を神能へと還していく
実体を失い、ただ力の残滓となって世界に溶けていくリーネの儚げな姿は、散り行く花を思わせる切ない心響を残していく
そんな中、先ほどまでリーネだった力の残滓に包まれていた瑞希は、消えゆくその存在の欠片から、その最期の心を感じ取ったような気がしていた
ごめんなさい、ありがとう――と
※
「あなたの事を愛してるって」
リーネとの別れを思い返しながら、瑞希は背中越しにニルベスにその最期の想いを伝えると、止めていた足を前へと踏み出す
「そうか……あいつらしいな」
それを聞いたニルベスは、リーネの最期の時へと想いを馳せ、どこまでもリーネらしいその時を思い描いて愛おしさに満ちた、哀切の笑みを浮かべる
「ありがとう」
わずかに震えるその言葉を背で受けた瑞希は、それに答えることなく月下に照らし出されている花園を後にする
まるで過去を背負いながらも、振り返ることをしないその生き方を表すような凛然とした面差しで、まるで決別するようにニルベスの許から離れていく
「ありがとう……ね」
それからしばらく歩いてニルベスが見えない位置にまで来た瑞希は、その氷麗な凛貌に切ない笑みを浮かべて小さくその言葉を独白する
「まったく、揃って最後の言葉がそれだなんて、嫌な人達だわ」
その存在が完全に消失する前に感じたリーネの心とニルベスの二人の言葉を思い返し、自責と自嘲の入り混じった笑みを浮かべていた瑞希は、ふとその足を止めてその麗貌を普段通りの凛々しいものに変える
「……迂闊だったわ。私としたことが今まであなたに気付かなかったなんて」
切れ長の怜悧な視線を向けた先――夜天の闇に染め上げられた森の大樹には、やや童顔気味の黒髪の青年がもたれかかるようにしていた
瑞希に見咎められ、静かな憤りを感じたその視線を受けた神魔は、森の闇の中らから月星の白光の許へその姿を現して言う
「瑞希さんが力を抑えて城を出ていくのが分かったからね」
「随分と信用がないのね」
自分が元十世界――十世界創始者であることは、すでに大貴達に知られている。対面する神魔をその視線で射抜く瑞希は、わずかにその瞳に憂いを宿す
自分が十世界の前身となる組織に所属していたということを知られた時、大貴やクロス達とは違い、神魔は自分が何も話さないことを認めてくれた
単純にそこまで自分の事情に興味がなかったというのもあるのだろうが、「信頼は行動で示せ」とばかりの神魔の態度に、瑞希の心はわずかばかり救われていた
だが、そんな神魔が魔力を抑えてまで自分を追跡し、監視していた――それを知った瑞希は、当然だという気持ちと共に、どこか自分が信じてもらえていないやるせなさを感じずにはいられなかった
「そうじゃないよ。万が一彼が瑞希さんを殺そうとしたら倒さないといけないからね。さっきは、うっかり飛び出しそうになったけど」
しかし、そんな瑞希の気持ちを込められた言葉に、神魔は普段と変わらない穏やかな表情を浮かべて応じる
神魔の言うあの時とは、先程対話していたニルベスが自身の感情を発散させるために精霊力を放出した時のことだろう
「こう見えても僕、結構人見知りなんだ。で、あんまり担当の人に変わられると、居心地悪くて仕方ないんだよね。それに何より瑞希さんのことは嫌いじゃないから」
弁解というほどでもなく自身の行動の理由を説明する神魔の言葉に、瑞希はその口元をわずかに綻ばせる
瑞希が自身の力を抑えて城を離れた時、神魔は直感的にニルベスと会うのだろうと考えた。そもそも、かつての同胞であり、それ以前にもニルベスに対してリーネを殺したことを告げていた瑞希がそこまでして出ていく理由となれば、それが真っ先に浮かぶに決まっている
だからこそ、神魔は桜との一時を中断してまでその後を慎重に追った。その理由は、概ね神魔自身が告げたものと同じだ
「なるほど、ものは言いようね」
それが嘘なのか本当なのかは分からないが、自分のことが嫌いではなく、これからも一緒に行動していきたいと言われれば、瑞希としても悪い気はしない
その言葉が真実であってくれれば嬉しいという希望的観測と、それは自分の考えすぎだと自身を自制しながら瑞希は普段の凛麗な表情を崩さずに言う
「嘘は言ってないよ。まぁ、信じる信じないは瑞希さんの自由だけどね」
あの時と同じように、信頼を求めることなく屈託なく笑って言う神魔の言葉に、瑞希はその目をわずかに細める
「そういうことにしておきましょうか」
そう言って神魔に微笑みかけると同時に目を伏せた瑞希は、そのまま歩き去ろうとしてふとその足を止める
「?」
歩みを止め、俯きがちに佇む瑞希を見て訝しげに神魔が眉をひそめていると、一瞬躊躇したような間を置いて引き結ばれていた唇を開く
「――ねぇ、もしも私に危険が迫ったら助けてくれるのかしら?」
「万が一彼が瑞希さんを殺そうとしたら倒さないといけないからね」という神魔の言葉が本当だとして――という仮定の下、瑞希は自分のことが嫌いじゃないという先程のやり取りを思い返しながら問いかける
それは瑞希からすれば戯れのような意味をなさないものであり、同時に自分の存在を認めてくれる人に対する自身の価値の証明を求めるものだった
「もちろん」
視線を向けることなく、ただ声だけを向けて問いかけたその声に返された普段通りの気負いのないその言葉に、瑞希はその柳眉をわずかにひそめて神魔を一瞥する
「そう。では、期待しないで待っていることにするわ」
そう言って歩み始めた瑞希と、その後に続いて歩き始めた神魔を、更けていく妖精界の夜天とそこに煌めく月星が包み込むように見守っていた