想いの距離
天空の中心で輝く神臓の月光が窓から差し込む妖精界王城の一室――神魔と桜が借りている部屋へと通された詩織は、薄暗い室内に幻想的に浮かびあがる桜色の髪を見て、おもむろに口を開く
「すみません、こんな時間に」
「いえ」
睡眠が娯楽でしかない全霊命にとって、訪問の時間など問題ではないのだが、詩織のそれは「神魔との二人の時間に」という意味も兼ねたものであることを桜は正しく認識していた
「どうぞ、適当なところに座ってください」
その声に自分に向けられる怒気を孕んだ小さな棘を感じながらも、桜は普段と変わらない淑やかな所作で詩織に応対する
「いえ、このままでいいです」
桜の申し出を断った詩織は、まるで溢れだしそうになる感情を抑え込もうとするように唇を引き結び、努めて冷静に口を開く
「どうして、隠してたんですか……?」
(やはり、その話ですか)
詩織の言葉に、その要件が自分の予想通りのものだったことを理解した桜は、薄紫色の瞳を抱く目をわずかに細める
詩織が話題にしているのは、今日反逆神が大貴に告げてしまったことで露見したゆりかごの真実――「ゆりかごの世界と、そこに生きる存在の全てが神敵たる反逆神の眷属である」こと。
ゆりかごの世界の一つ「地球」に生きる人間が悪意の眷属であることを知らされた詩織がそれをただ寛容に許容することがないであろうことは、桜には予想がついていたことでもあった
「わたくしが地球へ赴いたときには、すでにそのように話が進んでおりましたので詳細は分かりかねますが、神魔様にしろ、クロスさんにしろ、その必要がないと判断したからそうなさってのでしょう……あの当時は、このようなことになるなど夢にも思っておりませんでしたから」
問い詰めるような鋭い詩織の視線を向けられた桜は、それをまっすぐに受け止めると、全く動じた様子もなく普段通りたおやかな声音で応じる
桜が地球――当時神魔達が居候していた界道家にいったのは一番最後。その時には、地球人が悪意の眷属であるという話をしない方向でまとまっていた。
奥ゆかしく慎ましい性格のサクヤには、よほど間違っていると感じない限り神魔の決定に異論を挟むことなどない
何より、当時はあの場にいた全霊命の誰もが光魔神、詩織と共に九世界を巡ることになるとは夢に思っていなかった。
自分達の要件を済ませばそのまま地球を去るつもりだったクロス、マリア、神魔、桜が、「地球の人間は、九世界で神敵と呼ばれて忌み嫌われている反逆神の眷属なんですよ」などとわざわざ言う必要などなかったのだから
「そんなことを聞いてるんじゃありません!」
さも他人事のように言う桜に、思わずわずかに語気を荒げてしまった詩織は、感情的になってしまったことを反省して渋面を作り言葉を続ける
「……どうして、あの時、私にそのことを教えてくれなかったのかって聞いてるんです!」
詩織の言う「あの時」とは、地球にいたころ、桜が神魔への恋心を諦めきれずに苦悩していた自分に「二人目の伴侶として認める」条件を出した時のことだ
基本的に九世界は「多夫多妻制」。つまり、本人たちの了解さえあれば、伴侶を複数人持つことが許されている
人間と悪魔――種族も、生き方も、生きる時間も全てが異なる存在である神魔への恋心に苦しんでいた詩織に、桜は二人目の伴侶になるという情けをかけてくれた
「確かに、神魔さんを諦めきれなかったのは事実です。でも、私、諦めようと思ってました。でも、桜さんにああ言ってもらって、もう少しだけ想っていてもいいんだって、思ったんです」
だが、過去に自分に向けられた桜の言葉は、今の詩織には自分を嘲笑しているようにさえ思えるものでしかなかった
「なのに、どうしてあんなこと……私が、神魔さんに振り向いてもらおうとしているのを見るのが楽しかったですか? それとも、あなたの大切な神魔さんを、私みたいな女が傷つけるのが許せなかったんですか?」
その胸中に憎悪にさえ似た憤りを渦巻かせながら、詩織はこみ上げてくる涙に瞳を濡らしながら、桜に訴えるような声で言い放つ
ただでさえ、神魔へ向けられている詩織の感情は、全霊命と半霊命という道ならぬ恋心
死ぬまで全盛期を保ったまま永遠に生きることができる全霊命と、百年ほどで老いさらばえて死んでしまうゆりかごの人間
九世界においてその交わりは禁忌とされ、それを犯せば命さえ奪われる上に、男女として愛し合えば、神格を受け止めきれず自分は命を落としてしまう
「だったら、そう言ってくれればよかったのに。これじゃあ私――」
感情と共にあふれ出す涙を抑えきれず、詩織の目から大粒の涙がこぼれる
詩織が抱く禁断の恋心は、もしも叶ってしまえば神魔も桜も、自分自身さえも傷つけて殺してしまうもの
ならば自分自身よりも神魔を大切に思っている桜が、まだその気持ちに気付いていない神魔のために自分を遠ざけようとするのは不思議なことではない
だが、それならせめてはっきりとそう言ってほしかった。すぐには諦めることも忘れることもできなかっただろうし、未練を断ち切ることはできなくても、この想いを心の奥に閉じこめてしまうことはできたのだから
「私……私、馬鹿みたいじゃないですか」
切ない痛みに締め付けられる胸を手で押さえた詩織は、震える喉から嗚咽にも似た声を絞り出して恨めしく桜に言い放つ
詩織がずっと胸に抱き続けてきたのは、ただでさえ叶う余地のなかった恋心。断ちきらない思いを胸に、桜の言葉に一縷の可能性を見いだしていきてきたのだ
それにも関わらず、自分が世界で最も忌み嫌われる存在である「神敵」の眷属なのだとしたら、そんなかすかな願いは断ち切られたも同然
暗闇の中に差し込む一条の光を支えにしていた詩織にとって、反逆神が告げた真実は、その心を折るに十分すぎる残酷なものだった
「詩織さんは、本当にそう思われているのですか?」
しかし、そんな詩織の感情の吐露を受け止めた桜は、その美貌を全く曇らせることなく、静かな声音で応じる
その声は、いつもと同じように落ち着いた静かなものだったが、心なしかその中に悲しみのような響きを感じさせるものだった
「……っ」
その言葉に唇を引き結んだ詩織は、視線を逸らして沈黙することで答えとする
詩織自身、そんなことを思いたいわけではない。だが、真実を知ってしまった今、あまりにもかすかで脆いものを支えにしていた詩織には、桜の言葉は――否、神魔の言葉でさえ信じ切ることができないものになってしまっているのは紛れもない事実だった
信じたいけど、信じきれない。思いたくはないけれど、脳裏から放れない――そんな詩織の想いをその様子から組み取った桜は静かに目を伏せる
「あなたには、わたくしの言葉が皮肉や嫌みに聞こえたかも知れません。ですが、わたくしはそれでもあなたには可能性があると思ったからこそ、あの条件を提示したつもりです」
いつものように淑やかで優しく紡がれているはずの桜の声は、しかしいつも以上に詩織の心に強く響いてくる
「なぜなら、きっとあなたは、わたくしとは別の意味で神魔様にとって特別なのですから」
どこまでも清楚で淑やかな桜に優しく諭すように言われると、詩織の瞳がわずかに動揺に揺れる
正確にいえば、桜はいつ誰が神魔に気持ちを向けてもおかしくはないと思っている。男女の機微など当人にさえわからないのだから、いつなにがきっかけでそういう気持ちが芽生えるのかわからないからだ
確かに詩織は悪意であるゆりかごの眷属。だが、同時に神魔がかつて守りたかった女性――「風花」に似ているという面を持っている。
それはつまり神魔が意識的に詩織に意識を傾ける理由であり、気持ちが変わる可能性を多分にはらんでいるということだ
神魔が詩織と風花を同一視しているということはない。だがそんな些細な理由から気持ちが変わることもある。
少なくとも、何の理由もない相手よりは遙かに可能性が高い――そう考えたからこそ、桜は詩織に条件を提示したのだ
「以前にも似たようなことを申し上げたとは思いますが、忘れないでいただきたいことがございます」
これまで向けていた優しく微笑みを消した桜は、表情と声音をわずかに固くする
まるで温かい春風の中に、突然冬の名残を思わせる冷たい風が混じったような感覚に、詩織は反射的に身を強ばらせていた
「わたくしは別にあなたを神魔様の伴侶として迎えることを歓迎してるわけではないのですよ」
「っ」
その言葉に息を呑んだ詩織に、桜は再びその表情を暖かな春の日差しのように綻ばせ、一輪の花のような淑やかでたおやかな所作で微笑みかける
「わたくしだって、やきもちくらいは焼くのですから」
「――……!」
口元を手で隠した桜が、まるで他愛もない世間話をしているように言うと、詩織はその言葉に思わず息を呑む
忘れていたわけではない。だが、桜の優しさに甘えて無意識のうちに心のどこかに追いやっていたその事実を改めて突きつけられた詩織は、明らかな動揺と困惑を隠せずにいた
九世界は「多夫多妻制」。互いに愛し合いさえすれば、何人でも伴侶を持つことができる。
だが、だからといって自分の愛する人が自分以外の相手を愛することを諸手を上げて歓迎しているというわけでもない
ましてや、それが全霊命と半霊命、神に列なるものと神敵という禁忌のものであれば、何よりも神魔を大切に想っている桜が歓迎しているはずなどない。
それでも桜が自分が二人目の伴侶になる提案をしてくれたのは、あくまでも、「その禁忌を分かった上で神魔が望むなら」という前提があるからこそのもの――桜が、心から何よりも神魔の幸せを願っているからこその提案であり、妥協案にすぎないのだ
「詩織さん。あなたは、神魔様を愛することを諦める理由を探しておられるのですか?」
そんな当たり前の事実を再認識させられ、居竦んでしまっている詩織に優しく呼びかけた桜は、自身の存在の真実に混乱しているであろう気持ちを理解していながら、残酷に自身の気持ちを語りかける
「っ」
淑やかで優しい声音でありながら、冷酷な響きをもって発せられたその言葉は、刃となって詩織の心を深く抉る
桜にとって詩織は、自分が愛する人に想いを寄せる相手。――よく言えば好敵手、悪く言えば邪魔者だ。悪意であるゆりかごの世界の住人であることはもちろん、今は自分が独占している神魔との間に割って入ってこようとしている
邪険に扱うつもりは毛頭ない。だが、桜にとって詩織という情けをかけることはあっても、少女は励ます必要も、その背を押す義理もない相手でしかない
「違うのでしょう? すでに全霊命と半霊命、世界で禁忌とされている想いを成し遂げようとなさっているのなら、自分が悪意であることなど、もはやあってないようなものであるはずです」
そう。桜にとって、詩織が求めているものは決して自身のためにならないもの。それどころか、愛してやまない神魔を危険に晒すかもしれないものでしかない
「違いますか?」
それでも桜は、自身の存在の真実を受け止めきれていない詩織に、決してそれが上辺だけの取り繕ったものではないことを伝えるための言葉を届けようとする
「違います! だって……だってそれは、私の力でどうにかなることじゃないじゃないですか!」」
しかし、冷静に静かに紡がれる桜の言葉に、詩織は昂ぶった感情に彩られた声をあげる
全霊命と半霊命という存在の違いは覚悟の上。だが、その存在と価値観の違いによる気持ちの相違は、相手を理解しようと努力することで通じ合わせることができるかもしれない
だが、自身が神の絶対なる敵対者の眷属であることは、努力では覆しようもない事象だ。――桜は全霊命と半霊命の違いと変わらないと解釈しているのだろうが、ただでさえ望みの薄い可能性に縋ってきた詩織には、それは看過することのできないものだった
(綺麗で、おしとやかで、神魔さんと同じ悪魔で、自分の大好きな人から大切にしてもらってる――)
「桜さんに、私の気持ちは分かりません……!」
桜と自分の違いに胸を締め付けられる詩織は、まるでれによって絞り出されているような悲壮で悲痛な想いを言葉に乗せて絞り出す
「……そうですか」
そんな詩織の言葉を受けた桜は、それを噛みしめようとしているかのように瞼を伏せる
詩織の言葉を自身の中に染み渡らせるように、しばしそ言葉の余韻に身を委ねていた桜は、閉じていた目と共に、可憐な唇を開く
「その程度で諦めてしまえるのなら、あなたの気持ちはその程度のものだったということです」
「!」
花弁を思わせる艶やかな唇から紡がれた厳かな響きを持つ言葉に唇を引き結んだ詩織は、それに反論を試みる
「諦める理由ばかりを数えておられる方に、神魔様が心を向けてくださるとは思えません」
「……っ」
しかし、有無を言わさずに続けられた桜の言葉は、その優しい薄紫色の瞳に宿った鋭い光と共に詩織を射抜き、その声を封殺する
桜の言う通り、自分は諦めたいわけではない。そんなことは、分かっていたはずだった。
だが、全霊命と半霊命という存在の違い、愛し合えば傷つけてしまうだけの一方的な愛情、そして、神敵の眷属であること――次々とまるで自分の気持ちを叶えないように立ちはだかる壁の前に自身の自信が揺らいでいた
「ち、違……ッ」
いつの間にか――否、あるいは最初からどうしたら神魔に気持ちを振り向いてもらえるのかというよりも、諦める理由を数えるばかりになっていたことに気付かされた詩織は、桜の言葉に懸命に反論しようとする
だが、あまりにも的を射たその言葉に返すべき反論を見つけることはできず、その想いはただ喉で詰まるだけだった
「ですが、わたくし達がそのことを隠していたことも事実です。それが、あなたを苦しめているのなら、謝らなくてはなりませんね」
届かない想いに苦しみ、自身ではどうすることもできない恋心に苦悩する詩織を瞳に映す桜は、静かにそう言ってゆっくりと頭を下げる
「申し訳ありませんでした」
最弱の半霊命にして神敵の眷属であるはずの自分に深々と頭を下げ、枝垂桜のように桜色の髪を揺らす桜の姿に、詩織は言いようのない敗北感に打ち据えられる
立っていることもままならないのではないかと思われるほどに脚を震わせ、今にもこの場に崩れてしまいそうなほど顔を青褪めさせた詩織に、ゆっくりと頭を上げた桜の視線が突き刺さった
「ですが、いずれにしても、あなたのお気持ちは神魔様には伝えないでください」
自身が神敵であることに絶望し、自棄になってその気持ちを伝えないように釘を刺した桜は、詩織に視線を向けてからその身を翻して背を向ける
窓から差し込む月光に照らし出される桜の艶やかで美しい桜色の髪を前にした詩織は、しかし返す言葉の見つけられず、ただ強く唇を引き結んで佇んでいることしかできなかった
「――ッ」
まるでもう話は終わったと言わんばかりの桜の背を見つめていた詩織は、その身を翻すと逃げるように部屋を出ていく
「酷い女ですね、わたくしは……」
窓の外に出た詩織の足音と存在が遠ざかっていくのを背中で感じながら、桜は窓から見える神臓の月を見上げて小さな声で独白するのだった
(私、最低だ。こんな時まで自分の事ばっかり……)
桜たちの部屋を逃げるように飛び出した詩織は、先ほどまで交わしていた桜の言葉を思い返しながら、溢れだす涙を袖で拭う
自身の想いが通じない理由にばかり目を向け、神魔の気持ちも桜の気持ちも考えていなかった自分が惨めに思えてならない。桜は、神魔のことを――その幸せだけを願い続けていたというのに
(やっぱり無理だったんだ。こんな私が、あんな素敵な桜さんに愛されている神魔さんに好きになってもらうなんて……っ)
慟哭に染め上げられた心と嗚咽を押し殺した詩織は、まるで桜から逃げるように、妖精界王城の廊下を駆けていくのだった
※
『なるほど。そのようなことがあったのですか……』
世界を隔てていても意識を通じ合わせる力を持つ至宝冠を介して大貴の話を聞いた人間界王「ヒナ・アルテア・ハーヴィン」は、わずかにその声音を曇らせていた
それは、真実を伝えなかったことに対する罪悪感と、その事実に傷ついているであろう大貴を慮ってのものだ
「なぁ、ヒナ。あいつが言っていたことは本当なのか?」
反逆神の話――自分達が生まれ育った宇宙という名のゆりかごの世界が、その悪意の力に列なる者達が住まう世界であるという内容を思い返しながら、大貴はいつもよりも重く感じられる口を開く
『……はい』
そして、その問いかけに返ってきたヒナの答えは、反逆神の言葉が真実であることを再確認させられるものだった
『私達人間は、悪意の増殖とその目論見を阻むために現在ゆりかごの世界と呼ばれている世界へと赴き、そこに生きる知的生命体と接触を図りました
ですが、結果はゆりかごの存在から悪意を取り除くことはできない。関係を維持し続けても、世界にとって不利益しかもたらさないという結論に至り、その関係性を絶つことになったのです』
大貴が真実を知ってしまった以上、その事実を隠しておく必要がなくなったヒナは、その問いかけに答えていく
ゆりかごの世界とは、人間の戦いによって生じた異空間に反逆神が介入して生み出された「悪意の王を蘇らせるためのゆりかご」にして、悪意の産物
その中に満ちるのは物質に比重が置かれた界能だが、それは同時に悪意の神能である反逆の影響を受けており、その中に存在するすべての生命を神敵の眷属たらしめている
はるか昔、反逆神がゆりかごの世界を作り出した際人間界の王や、他の半霊命世界は悪意の目論見を阻むために、その中に生きる生命体に接触し、悪意からの脱却を図った
無論、その中にはゆりかごの世界を自分達の世界の管轄に置こうという野心を持った世界も少なからず存在した。だが、そうして干渉と観察を続ける中で、結局ゆりかごの生命の中にある悪意は、御することも消し去ることもできないという結論に至り、九世界との交流は失われてしまった
『申し訳ありません。隠すつもりはなかったのですが……ゆりかごの世界との断交は、私が生まれるよりも遥か昔のことですので、私自身あくまでも知識としてしか知りませんでしたし――」
そこまで言って言葉を止めたヒナは、一瞬の間を置いてため息にも似た声を続ける
『いえ、今更言い訳をしても仕方のないことですね』
「いや、謝らなくてもいい。知らずに済むなら、知らないままいいこともあるんだろうしな……むしろ、姉貴と普通に接してくれたことにこっちが感謝しないといけないくらいだからな」
意識を介して伝わってくるヒナの言葉を聞いていた大貴は、先程何を言おうとしていたのかをおおよそ正しく推察して答える
その話をしなかったのは、ゆりかごの人間である詩織――光魔神の姉のためであると同時に、同じくゆりかごの世界出身である光魔神に気を遣ったというありきたりなもの以外にも理由がある
そもそも、誰しも望んで神敵の眷属として生まれてくるわけではない。そして、それはまた生まれてきたことを否定する理由でもない
詩織がゆりかごの人間であることは、詩織自身を否定する理由にはならないし、変わりたいと望んだところで変えられるものでもない。そんな、本人の意志で変えられないもので、全てを杓子定規に測るようなことをする意味などないからだ
『……ありがとうございます』
そんな人間界としての事情を理解してくれた上、感謝の言葉まで返してくれた大貴の言葉に、ヒナの頬は無意識のうちに赤らんでいた
「地球がそういうもので、俺達が悪意だったって言われてもこんな風に冷静に対応できるなんて、俺も随分と光魔神じみてきてるのかもな」
至宝冠を介して聞こえてくるヒナの言葉を聞いた大貴は、その左右非対称色の目を瞼の裏に隠して自嘲するように独白する
自分が生まれ育った地球という場所が悪意の巣窟であり、そこに生きる人々が神敵の眷属であることを知ったというのに、今の大貴はそれを冷静に――どこか客観的に受け止めることができてしまっていた
光魔神となったその存在はすでに悪意から解き放たれている。生まれ育ったゆりかごから離れた存在となってしまったことをごく自然に受け入れている自分に大貴は否応なく気付かされてしまう
『そうかもしれません。ですが、大貴さんは大貴さんです』
いつの間にか心までも光魔神のそれに近づき、つい最近までの自分と変わってきていることを感じ取っているだろう大貴の言葉に、ヒナはいつものように優しい声で答える
『悪意は神敵であると同時に、すべての存在が持つ自由の象徴でもあります。それは全霊命であろうと変わりません
この世界に生きる誰の心の中にも、神……あるいは世界の理や理不尽なまでの合理性に対する反抗心は存在するのです。自然の摂理とは違う社会形態を構築する「文明」や、世界の摂理とは異なる生活体系である「法律」。それらもまた抗議的な意味では、神への敵対の一端であるともいえます』
「――……」
自分の在る姿にわずかに迷いを見せる大貴は、己の意識に届くヒナ言葉にその目を細め、左右非対称色の瞳にその時を映し出す
妖界にいた時、十世界の妖怪達を率いた「クラムハイド」は、かつて命を落とした愛するものをこの世界に蘇られることを目的としていた
しかし、死んだ者は蘇らないというのは、この世界の摂理そのものだ。死によって生の価値は確かなものになり、たった一つしかない命はその尊厳の尊さの象徴ともいっても過言ではないもの
そんな生と死の理を崩すという行いは、神への敵対行為に他ならない。――つまり、神に最も近い存在である全霊命といえど……否、神に最も近いからこそ、神は全霊命達に神に敵対する意思を与えたのかもしれない
故に全霊命達もまた、その存在の内に反逆神が司る神敵の悪意を宿しているといえる。それはつまり、神敵と忌み嫌われる反逆神と異端神の一柱である光魔神が全く相容れない存在ではないことの証明でもあった
『ですからその心に悪意があることは悪ではありません。その悪意を正当化するために世界を否定することが悪なのです。
大切なのは、自分がどういう存在なのかではなく、自分がどうありたいと願い、どう行動するのかではないでしょうか?』
神が定めた世の理に背くことが悪意ならば、この世界には悪意が満ちている。自然の理を受け入れず、その摂理から自分達を守るために作られた文明や法律もある意味では悪意に近いもの
誰もが等しくこの世界に生き、誰もが等しく愛するものと持っているからこそ誰もが世界の合理的な理不尽を呪い、理不尽な合理を求めてしまう。
悪意とは、自分の想いや大切なものを愛するがゆえに、そのために他者のそれを踏みにじることを正当化し、背負うべきものに背を向けてしまった時に生まれるものなのかもしれない
「俺がなりたい光魔神、か……」
(俺は、どんな光魔神になりたい……?)
意識の中に響くヒナの言葉に光魔神の姿となっている自分の手に視線を落とした大貴は、それを噛みしめながら自分自身に問いかける
『――……私も同じです』
「?」
その時、そんな大貴の自問を見透かしたかのようにヒナの優しい声が意識に届く
『私も子供の頃は早く大人になりたいと思っていました。ですが、いざ成人の時が近づいてくると、今まで以上の王族としての責任や、そうなった自分の未来に漠然とした不安を覚えてこのまま時間が止まればいいのにと思うようになっていました』
「――……」
人間界の王となったヒナが語る今日までの心の道程に、大貴はその話に耳と意識を傾ける
『世の中には二通りの生き方があります。一つは変えられない生き方。そしてもう一つは変えられる生き方です
自分が人間であり、人間界王の娘として生まれたことは変えらることができません。ですが、そこから先――自分の生き方は私の心一つで変えられると信じてきました』
命あるものはこの世に生まれた瞬間から、変えられないものを背負っている。血筋や家柄、種族――ゆりかごの人間として生まれた詩織も、自身が望んでもいない光魔神の力を宿した大貴も、それを変えることはできない
だが、ゆりかごの人間として、光魔神として、どのように生きていくのかを選ぶことはできる。ただその存在を漫然と享受するのも、しないのも自由だ
『自分の未来に不安を覚えるのは、きっと、誰でも同じです。今だって――』
そこまで言葉を続けたヒナは、そこで言葉を止める
未来は分からないからこそ希望に満ち、手に入らないこともあるからこそ恐ろしい。ヒナも大貴と共に生きる自分の未来を思い描くからこそ、それが叶わなかった時のことが頭から離れず、不安に胸を締め付けられてばかりいる
『大切なことは未来を恐れて現在で立ち止まらないこと。自分の心に向き合うこと。そして、思い通りにならないことにぶつかっても、今を踏みしめて未来へと歩み出すことです』
大貴と自分の未来を思い浮かべて頬を赤らめたヒナは、その考えを一旦意識の端へと追いやると、改めて自分が伝えたいと思っていることを言葉をして紡ぐ
自分の未来を悲観して今に立ち止まっていても、未来が良くなるわけではない。また、心を奮い立たせて行動を起こしても自身が思ったような結果を得られないかもしれない
望むことを諦めないこと、望んだことが手に入らなくとも諦めないこと。今を生きるということは、未来を生きるということに等しい
『私も、自分がしたいこと、してきたことが正しいのかは今でも分かりませんし、これからも変わらないとは限りません。
それでも、私は思うのです。きっと私は、私のために……そして、誰かのために自分の未来を思い描くのだと』
至宝冠から伝わってくるヒナの言葉と心を自分の中に染み渡らせながら、大貴はその言葉の意味を噛みしめる
『あなたは一人ではありません。きっと、あなたがなりたいあなたは、あなた自身ではなく、あなたの周りにいる人が答えをくれるのではないかと思います』
優しい声で、優しい大貴が自分の存在と向き合い、心から望む道へと進むことができるように、ヒナは一言一言に想いをこめながら届けていく
『忘れないでください。あなたは一人ではありません。迷った時は、一度立ち止まって周りを見てみてください。それでも駄目なら私が一緒に考えます』
たとえ何があっても自分が傍にいる。――至宝冠の力によって繋がっているからではなく、自分でそう願いながらヒナは大貴に語りかける
『ですから――』
大貴が光魔神としての自分の在り方を求めるように、ヒナにも自分が望む自分の姿がある。今ヒナが大貴に贈るこの言葉は、そんな願いが見え隠れするものだった
「大貴と共に歩むことができる自分」。――たとえ、共に戦えなくとも、その力になることができなくとも、その心に寄り添い、その心を傾けてもらえる。それは、ヒナ・アルテア・ハーヴィンが人間界王として一人の女性として求めるものだった
『ですから、大貴さん。あなたが大貴さんであることを、忘れないでいてください』
「……ああ。ありがとな」
至宝冠を介して伝わってくるヒナの言葉の温もりに、大貴はその表情は自然と柔らかいものに変わる
光魔神は人間の神。しかし光魔神になったからといって、突然威厳や悟ったような立ち振る舞いができるわけでもない。
そうなりたいわけではないが、せめてもっと毅然とした自分でありたちと願っている大貴は、そんななりたい自分を思い、それには程遠い今の自分を歯痒くも受け入れながら至宝冠を通じて繋がっているヒナに語りかける
「俺ばっかり愚痴ってるのは悪いな。ヒナは何かないのか?」
『私ですか? 私は――』
世界を隔てながらも、まるで向かい合うように言葉を交わし、絆を深めながら大貴とヒナの夜は更けていくのだった
※
「どこへ行く?」
その頃、夜天の星を大地に映す妖精界王城の中から外へと出た橙色の髪を二つに結った精霊の少女――アイリスに背後から重低音の厳かな声が掛けられる
「!」
その声にゆっくりと後ろを振り向いたアイリスは、そこに腕を組んで立っている人物――妖精界王・アスティナの側近であり、護衛でもある精霊「カリオス」を見て息を呑む
「お父さん……」
わずかに強張った声で呟いたアイリスは、心の中の澱みを吐き出そうとするかのように小さく息を吐くとゆっくりと身体を反転させて父「カリオス」に向かい合い、揺るぎない強い意志を込めた瞳を向けるのだった