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魔界闘神伝  作者: 和和和和
妖精界編
146/305

心の残響






《ニルベス》


 脳裏に響くのは、明るく屈託のない笑い声と自分を呼ぶ声。

 清らかに響くその声に呼ばれるだけで心は安らぎ、その笑顔を見られれば幸せだった。かけがえのないこの人を守りたいと願い、このままずっと愛し合っていられることだけが願いだった


 褐色の肌に腰まで届く金色の髪を蝶と花を思わせる髪飾りで控えめに飾り、その身をドレスと司祭服の中間にあるような霊衣で包んだその女性の名は「リーネ」。その背に色鮮やかな紋様が浮かぶ蝶翅を持つ月天の精霊にして、ニルベスが心から愛したたった一人の女性だ


「聞いていますか?」

 半ば呆けるように天を仰いでいたニルベスの顔を両手で挟むようにして半ば強引に自分の方へと向けたリーネは、やや頬を膨らませた不満気な表情で抗議する

「ん? あぁ、聞いてるよ」

「もう少し、真面目に嘘ついてください」

 気の抜けた声で半ば適当に答えた事が気に入らなかったのか、ニルベスの顔を覗き込みながらリーネはその頬を軽く引っ張る

「ですから、私達みたいに孤児を育てている人達がいるみたいなんですよ」


 世界の創世の時より、一度も終わることなく延々と繰り返された光と闇の争い、そしてあるいはそうではない全霊命(ファースト)同士の戦い。

 当時そういったすべてのものを含めた戦いの中で身寄りを失った子供達を守りながら行動を共にしていたニルベスとその伴侶であるリーネは時空の狭間を転々と移動しながら生活していた


「へぇ、そんな奇特な奴がお前以外にもいたんだな――世界は広い」

「酷いです、ニルベス。意地悪です」

 その言葉に感嘆の声を漏らしたニルベスの言葉に、リーネはその唇を尖らせて拗ねたように明後日の方向を向く


 事実子供たちを守っていたのはニルベスではなくリーネの方。ニルベスが戦いの中で入り込んだとある時空の狭間で、孤児達を守っていたリーネと偶然出会ったことが二人の馴れ初めだった

 月天の精霊の因縁――光の全霊命(ファースト)でありながら、闇の全霊命(ファースト)に協力して多くの犠牲を光の陣営にもたらしたこと――の所為で生まれた時から自分に責任のない罪を背負って生きてきたリーネは、そんな自分の境遇に抗うように光も闇も問わずに子供たちに手を差し伸べていた


「だって、放っておけないじゃないですか」

 その場に足を揃えて座り、明後日の方を向いたまま両手の指を擦り合わせながら言うリーネを見て苦笑を浮かべたニルベスは、その手をそっと頭の上に置いて軽く撫でる

「そうか。そう思ってそれを行動に起こせるなら、お前は大した奴だよ」

 ニルベスの手で頭を撫で回されるとその動きに合わせて首を揺らすリーネは、先ほどまでの表情を一転させ頬を赤く染めて幸せそうに目を細める

「でも、私がそうできるのはニルベスが力を貸してくれるからです。きっと私一人じゃ、何もできませんでした。ドルク兄さんは反対してましたし」

 頭を撫でてもらえる場所に世界で一番大切な人がいてくれる幸福に目を細めたリーネは、背けていた顔をニルベスの方へ向けると、愛慕の情に彩られた満面の笑みを浮かべて微笑む

「だから、とっても感謝しています。ありがとうございます、ニルベス」

 見る者の心を癒す花のような笑みを浮かべたリーネを見たニルベスは、まっすぐに隠すことなく向けられるその心に照れくさそうに視線を逸らす

「俺はそんな大した奴じゃないよ。俺はただ――」

 そこまで言葉を発したニルベスがそこで言葉を止めると、それを訝しんだリーネが怪訝そうに首を傾げる

「ただ?」

「いや、なんでもない」

 まっすぐに自分の瞳を覗き込んで来るリーネの無垢な瞳に耐えかねたように視線を逸らしたニルベスは、ややぶっきらぼうに言う

「ええ? そこで止められると私すごく気になります」

「何でもない」

 顔を赤らめたニルベスはその視線を明後日の方向へと逸らしたまま、不満気な表情を浮かべているリーネに視線を向ける

(お前を守れればいいんだ。お前が笑っていてくれるなら、それでいい、なんて言えるかよ)

 リーネの純粋な気持ちに引きずられ、自分の本心を口にしてしまいそうになったニルベスだったが、それを直接本人に言うのはやはり気恥ずかしい。

 そんな複雑な男心に首を傾げていたリーネだったが、気恥ずかしさを堪えているその表情を見てふとその表情を和らげると、そのままニルベスにその身体をしなだれかける

「ニルベスは戦いは好きですか?」

 すでに自然なものに感じられるようになった心地よい重さに視線を傾けたニルベスは、自分の肩に身体を寄りかからせているリーネへと視線を向ける

 こちらへと視線を向けることなく向けられたその声には、先ほどまでのじゃれるようなものとは違う静かな意志が込められており、リーネがそれを真剣に問いかけているのだということをニルベスに知らせていた

「……どうだろうな」

 元々頭一つ分ほど低い身長に加え、肩に寄りかかっているためにその金糸の様な金色の髪に隠された表情はニルベスの位置からは伺い知ることはできない

「ただ、好きか嫌いかはおいておいて、必要に迫られればせざるを得ないだろ。負けて失うくらいなら、勝って守り続けたいってやつの方が多いだろうしな」

 ただ、ニルベスはしばしの思案の後に返したその答えを聞いたリーネの身体が、一瞬だけ強張ったことだけを感じ取っていた


 生きることは戦うこと。戦うことは生きること。それは、この世界が生まれた瞬間から定められている絶対の摂理。神も全霊命(ファースト)半霊命(ネクスト)も、光も闇も善も悪も、人も獣も強者も弱者も――この世に存在する全ての命が等しく平等であることの証左。

 故に、最も摂理に近く最も神に近い存在であるがゆえに、全霊命(ファースト)は他のどんな生命よりも強くその理に縛られる

 愛あるがゆえに、大切なものを守りたいと願い、信念を貫き通したいと刃を取って相手のそれを理解した上で否定する――なぜなら、自分の大切なものを失うことになったとしても戦わないという選択は、大半の者にとって選び難い選択肢であるからだ


「そうですね……みんな同じですよね。私だって、自分の願いのために戦っていますし、もしニルベスやみんなが危なくなったら、きっと戦うと思います」

 ニルベスの言葉に自嘲混じりに笑みを浮かべたリーネは、自分の腕を身体を預ける最愛の人の腕に絡めて、強く抱き寄せる


 「望んで戦っているのか」――それは、ある意味必然的に、あるいは必要に迫られて行われていること。しかしそれを求めていないのかと言われれば否定しがたい面があることは否めない

 「失いたくないから戦っている」、「守りたいから戦っている」――戦う理由ならば答えられる。しかし「戦いを望んでいるのか」と言われれば、それは自分自身でさえ明瞭に出すことのできないものだった


「でも私達は意味も無く戦ってしまっているとも思います。いえ、そう意味で意味が無いっていうことじゃなくて、なんとなく昔から続いてきた敵対関係とかを引き摺って戦っているって意味です」

 思わずこぼれた言葉が、御幣を生じるように聞こえることに気付いたリーネは、慌てて訂正し物憂げな声音でその意図を説明する


 戦うには戦うだけの理由がある――しかし、その中にはその理由が形骸化されてしまっているものがあることもまた事実だった。

 世界の創生以来繰り返されてきた光と闇の争い、神に列なる存在と神敵たる反逆神の眷属の敵対――そして、遥か古の罪に端を発する月の精霊への嫌悪。

 月の精霊として生まれ、生まれた瞬間から身に覚えのない罪を背負って生きてきたリーネには、それら理由のない理由による敵対が身に染みて分かっていた


「ドルク兄さんは、遥か昔の罪が月天の精霊を苛むことを恨んで、イデア様やライル様と決別してしまいました……兄さんが間違っているとは思いませんが、そうやって力ずくで取り合った手はすぐに離れてしまうと思うんです」

 ニルベスの腕を抱きしめるように抱えていたリーネは、その手に自分の手を重ね、指を絡ませて優しく握りしめる

「だって、私達は失った痛みを理解することができるんですから。こうして重ねた手は離したくありませんしね」

 自分のそれより一回り大きく、武骨なニルベスの手に細く繊細な指を絡めたリーネはその温もりと力強さに目を綻ばせて頬を染める

 甘えるように手を繋ぎ、肩に乗せていた頭をそっと動かして吐息が届くほどの距離でニルベスを見つめたリーネは、真剣な面差しで語りかける

「戦うことが生命としての本質だというのなら、私は戦う運命(さだめ)と戦う道を選びたいって思います。そして――」

 その目を優しく細めたリーネは、ニルベスの瞳をまっすぐに見据え、その奥にあるものへと訴えるように語りかける

「せめて、そういう当たり前に続いてきた敵対関係を終わらせたいです」

 寄りかからせていた身体をそっと離し、ニルベスと向き合ったリーネは自分の願いを、自分の想いを、飾らない自分の言葉で伝える

 自分に注がれるリーネの視線を受けたニルベスは、懸命な想いが宿った宝石のように輝く瞳を見てふとその口元を綻ばせる

「うぅ、笑われました……」

 ニルベスの様子を見ていたリーネは、その小さな笑みに拗ねたように言う

 その愛らしい反応を見て再び笑みを零したニルベスは、恨めしげな視線を向けてきているリーネに優しい声音で答える

「感心したんだよ。大した奴だって。俺はそんなこと考えたこともなかったからな」

「本当ですか?」

 その言葉を不審がりながらやや上目づかいに言うリーネの瞳には、こんな自分の我儘を受け止めてくれるというニルベスの優しさに対する信頼が浮かんでいた

 構って欲しいからこそ、やや拗ねた様な態度を取り、甘えてみせるリーネの様子に苦笑を浮かべたニルベスは、その目を綻ばせて求められるままにその頭を優しく撫でる

「ああ」

 金色の髪を梳くように撫でるニルベスの手に、されるがままに身を任せるリーネは、最も大切な人に愛でてもらえる幸福に目を細める

(――本当に、大した奴だ)

 その様子を見ていたニルベスは、幸せそうなリーネの顔を見ながらわずかに心を曇らせていた


 当時、時空の狭間で孤児たちを守りながら暮らしていたニルベスにとって、それ自体に価値があったわけではない。ただリーネがそうすることを望んでいたから、ただその笑顔のために少しでも自分が力になれればいいと思っていただけだ

 守りたいものが違えば敵対する。そしてそれが相容れず、互いに譲ることができなければ、自らの命を懸けて戦い、己の力を以って相手の正義と信念を拒絶する――それは世界の創世からその理として巡ってきた摂理だ

 ニルベスもまた、闇の全霊命(ファースト)をはじめ、多くの命を奪ってきた。時には月天の精霊のような同胞達でさえ。だが、リーネに言われるまでそのことに疑問を抱くことが無かったことは、ニルベスに小さくない衝撃を与えていた――「自分達は、これほどまでに意味のない理由で意味のある戦いをしていたのか」と


「リーネは優しいな。俺なんかにはもったいないくらいに良い女だ」

 自分では思いもしなかったことを想い、自分以外の幸福を少しでも多く願っているリーネの姿は、ニルベスにはとても眩しく映っていた

「――っ!」

 しかしその言葉を発した瞬間、リーネは不機嫌そうに眉を顰め、身体を起こしてニルベスの顔を両手で固定する

「リーネ?」

 逃がさないように頭を押さえたリーネは、突然のことに目を丸くしているニルベスの瞳をまっすぐに見つめると抑制された声で語りかける

「私、そんな風に言われるのは不本意です」

 先程までの甘えるような声ではなく、低い声音で発せられたそれには、リーネの心情が強く反映されていた

「私は、ニルベスがいいんです」

 まっすぐに瞳を見据え、まっすぐに自分の気持ちを言葉として伝えるリーネは、照れているのかばつが悪いのか、視線を逸らせるニルベスに優しく諭すように自分の心を織り込んだ言葉を掛けていく

「私は、ニルベスが大好きです。もう、四六時中ニルベスのことが気になるくらいに好きで好きで仕方がないんです。

 なのにニルベスがそんな風に自分を卑下したら、ニルベスを世界で一番好きな私が可哀相な人になってしまいます」

「そ、そうか?」

 なんとなく言わんとしていることは分かるが、どうにも理解しがたいリーネの理論に、ニルベスは困惑気味に首を傾げる

 何より、まっすぐに目を見てそのような告白をされていることが、ニルベスには居たたまれないほど気恥ずかしいものだった

「そうです!」

 視線を逸らし、照れ隠し半分に言ったニルベスの言葉に、まるでその心情を見透かしたように目元を綻ばせたリーネは穏やかな声で微笑みかける

「だから、たとえ謙遜でも自分にはもったいないなんて言わないでください。どうせなら俺の自慢の女だって言ってほしいです。って、自分で言うとちょっと照れくさいですけど……」

 自分の希望を、恥じらいながら口にしたリーネは、軽く肩を竦めて舌を出すと、両手で頭を固定したニルベスに愛おしげに語りかける

「それに、ニルベスは、私にはもったいないくらいに素敵な人なんですよ?」

「……自分にはもったいないってのは、言わないんじゃないのか?」

 照れくささから逸らした視線を、戻しては離しを繰り返していたニルベスは、自分で言わないでほしいと言ったことを口にするリーネに声をかける

「愛する男性を立てるのは女の役目ですから、私は言ってもいいんです」

「……なんだ、それ」

 自分は言われたくないのに、自分は言ってもいいなどという理不尽で辻褄の合っていないことを自信満々に言うリーネに、ニルベスの口からは呆れたような、それでいてどこか嬉しげな苦笑が零れる

「とにかく、自信を持ってください。いつだって私の幸せはあなたと一緒にいることなんですから」

 整合性が取れていないのは分かった上で、それでも懸命に自分を想ってくれるリーネの言葉に、ニルベスは素直に自分の負けを認めて息をつく

「まったく、リーネには敵わないな」

 理不尽で我儘で、何よりも深い愛情に満ちている。誰よりも自分を認めてくれているリーネの言葉と気持ちを受け取ったニルベスは、不思議と自分こそがリーネにふさわしい男にならなけらばならないのだという気持ちを自然に抱いていた

「悪かった。もう言わないよ」

 目を伏せてため息をついたニルベスの言葉を聞いたリーネは、その頭を押さえていた手を離し、人差し指を立てて、まるで子供に言い聞かせるような声音で語りかける

「次にそんなことを言ったら本気で怒りますからね?」

「ああ。気を付けるよ」

 その言葉に満足気に微笑んだリーネは、その表情を月のように幻想的で、太陽のように眩く輝かせるとニルベスの腕の中に飛び込む

「じゃあ……えい!」

「おい」

 腕の中にその華奢な身体を抱き止め、柔らかな感触と優しい温もりを感じながら、ほのかに漂う香りに包まれたニルベスの声に、リーネは朱に染まった顔を上げて表情を綻ばせる

「罰として、一杯甘えさせてください。ぎゅーってしてくれるのを所望します」

 満面の笑みを浮かべ、自分の胸に顔をうずめたリーネを見たニルベスは、その愛らしい所作に思わず笑みを零して、その願いの通りに優しくその身体を抱きしめる

「……ったく、本当リーネには敵わないな」

「私、今とっても幸せです」

 ニルベスの抱擁に、幸福の海に浸るリーネの色鮮やかなその翅は、その浮かれた心を表すように開いては閉じを繰り返す

「――ニルベス」

「ん?」

 腕の中に顔をうずめているリーネに、静かに抑制された声音で呼ばれたニルベスは、それに静かな声で応じる

「ニルベスは、私の事怒っていませんか?」

「?」

 まるで自分の顔色を窺うような言葉に、その意図を掴みあぐねたニルベスが訝しげな表情を浮かべると、リーネはその表情をわずかに翳らせて言う

「だって、ニルベスは私のために妖精界王城を離れて……」

 不安気に問いかけてくるリーネが何よりも気にかけているのは、自分と一緒にいるためニルベスに妖精界王と城に仕える役目を放棄させてしまったこと。

 ニルベスは妖精界王(アスティナ)の信頼も厚く、妖精界王城でも特に慕われていた人物だった。そんな人に自分の我儘のために、それを裏切るようなことをさせてしまったこと――何より、ニルベスが本当は城に戻りたいのではないかという思いは、ずっとリーネの中にくすぶっているものだった

「なんだ、そんなことか」

 しかし、そんなリーネの不安を一笑に伏したニルベスは、自分の胸に顔をうずめて甘える愛しく愛らしい月の精霊の金色の髪に覆われた頭を優しく撫でる

「怒るわけないだろ。俺はお前といたいからここにいるんだからな」

「ニルベス……」

 囁くようなニルベスの声に、今にも泣き出しそうなほどに喜びを露にしたリーネは、そのまま世界で最も愛する人の胸にしがみつくように身体をうずめる

「やっぱり、私ニルベスが大好きです」

 そんなリーネの告白を聞きながら、少しばかり照れくさそうに表情を緩めたニルベスは、優しくその頭を撫でながら、心の中で決意を新たにする


(あぁ。俺はお前を絶対に守ってみせる)


 互いを想い、相手の幸福を願い、抱擁を交わして心を通わせるニルベスとリーネを、時空の狭間を飛ぶ小さな蛍達が祝福するように照らし出していた



                  ※



 その後、ニルベスとリーネは同じように孤児たちを守りながら空間の狭間を移動していた瑞希と(あららぎ)達と出会い、やがて同じような志を持つ者達と共にしながら――奏姫に出会うことになる

 それが後の十世界の前身となるものの始まり――この世界の意志無き意思が生み出した、戦いの歴史の遺産ともいえるものだった



《愛梨さんの願いは素敵ですね。さすがに一から十まで叶うことは無いでしょうけど、少しでもそれに近づけたら良いと思います》


 奏姫と出会い、自分以上に非現実的で、それでも変わらない願いを見たリーネは、愛梨が語る争いのない恒久的平和に自分の願いを重ねて嬉しそうに語っていた


《――それに、愛梨さん達と一緒になって、随分と楽になりました。だから、これまで私の我儘に付き合わせて苦労させてしまった分、ニルベスに一杯ご奉仕しますよ!》

 拳を握り、やたらと力を込めてそんな宣言をしたリーネに、ニルベスは「ほどほどにな」と気遣いながらも、その気持ちが何よりも嬉しかった。

 これから、少しずつ何かが変わっていくのだと思っていた。リーネとの関係も、自分達の暮らしも――そして、自分とリーネはずっと変わらずに愛し合っていけるのだとその時のニルベスは思っていた



 ――だが、リーネは死んだ



 愛梨が加わってから、半ば必然的に彼女とその思想を中心として強大化していた集団は、いつの頃からか組織ともいえる体を成し始め、九世界に警戒されるほどのものへと成長してしまっていた

 だが、当事者であるニルベス達、そして愛梨ですらその時(・・・)が来るまで、自分達がそれほどに(・・・・・)九世界にとって望まれざるものになっていたのだということに気付くことができなかった


 自分達が九世界にとって、好まざるものになっているという自覚そのものはあった愛梨達は、定期的に時空の狭間を移動しながら暮らしていた

 しかしある日、愛梨達一同が滞在していた時空の狭間のとある浮島が魔界の悪魔達によって強襲され、虚を衝かれたニルベスは、激しい戦の中でリーネとはぐれ、そしてそんな中でその死を知った


 身体を重ね、命を交換し、魂を共有した全霊命(ファースト)同士は、相手の存在を自分の内側に感じていることができる

 そして、その番たる伴侶が命を落とせば、それはどれほど離れていても、たとえ別の世界であろうと即座に認識できるため、ニルベスはリーネの死を知った


 その時の絶望をどのように表現すればいいのか、ニルベスには分からない。――まるで自分の魂の中心がすっぽりと抜け落ちてしまったような喪失感と、自分自身が生きている意味が消え去ったかのような死に似た絶望は今でもありありと思い出すことができる



                     ※



《――心から人を愛したこともない人が、私の邪魔しないで》


 脳裏に甦るのは、アリアに言われた言葉。そして同時に湧き上がってくるのは、自分のことも、自分がどれほどリーネを愛していたのかも知らずに言われた言葉へのやり場のない怒り

(ふざけるな)

 砕けんばかりに拳を握りしめ、歯を軋ませたニルベスは、冷ややかに自分を見ていたアリアの姿を思い出し、その怒りに任せて心の中で吐き捨てる

(ただ、愛するものを失った絶望に身を焦がし、それを殺したものを殺すために生きることが、愛していた唯一の証だとでもいうつもりか……っ!)


 心から愛する者がいたとして、その者を殺したものを狂わんばかりに呪い、殺意に身を任せることが愛していたことの証明だとでもいうのか

 やるせない思いを抱いたまま、その願いのために心を殺していた自分の生き方にリーネへの愛情がなかったとでもいうのか


 無知なまま、敵を討つ口実を失った人に求めるアリアにやり場のない怒りに心身を焦がしながらも、かつての同胞であった瑞希がリーネを殺した犯人であることを知った今のニルベスは、その気持ちが痛いほどに理解できていた



                       ※



死紅魔(シグマ)

 それは、リーネを失った後、愛梨を盟主として生まれた十世界という組織の中で精霊の総督という立場いついたニルベスの記憶――


 十世界は、その大半がただ単に盟主である愛梨個人のために集まった志のない者達、十世界という組織を己の目的のために利用しようとする輩が大半を占める集団。

 そんな中で十世界に所属する悪魔の№2である死紅魔(シグマ)は愛梨の腹心でもあり、十世界の中でニルベスが信頼できる数少ない組織のメンバーだった。

 

「お前は、姫の理想のことをどう思っている?」

 愛梨と志を同じくしているかまでは断言できないが、少なくとも信頼には値する死紅魔(シグマ)を二人きりになれる時を待って呼び止めたニルベスは、十世界の掲げる理念についての意見を求める


「――叶わないだろうな」


 突然のニルベスの問いかけに、その真意を測り兼ねてはいるのだろうが、死紅魔(シグマ)はしばしの逡巡の後に、十世界の中で愛梨と志を同じくする創始者の問いかけに静かな声で答える

「……そう言ったら、お前は諦めるか?」

「!」

 まるで試すような答えにニルベスが眉をひそめると、死紅魔(シグマ)は小さく息をつき、一拍の間を置いてその金色の瞳を向ける

例えば(・・・)……例えば、愛する者を誰かに殺されたとする」

「!」

 まるで自分の心を見透かしているかのような言葉に一瞬身体を強張らせたニルベスを意にも介さず、死紅魔(シグマ)は抑制の利いた声で話を続ける

「姫が言っているのは、その相手を許すこと。九世界は殺した相手を殺すのも、新しい生き方を見つけるのも自由だと言っている」


 十世界――奏姫・愛梨が掲げる理念は、争いのない恒久的な平和の実現。つまりそれは、今日までの戦いで失われてきた全ての命に対し、それを愛する者達がそれを殺した者達を許すということに等しい。

 かつてリーネが言っていた「理由のない理由」――その正体は、愛するものを失った者達が持つ復讐という「愛情」。

 自分にとってかけがえのない者を奪ったものを許せないという至極当たり前の愛が、世界の創生以来積み上げられてきた争いの歴史の中で生み出した果てしない戦意――そしてそれは、リーネを殺されたニルベスにとっては、痛いほどに理解できるものだった


「さすがに極論かもしれないが、誰をも許すということは、ある意味で誰をも愛していないことに等しいのかもしれない」

「……かもな。俺も、愛するものの仇を前に、殺意を抱かずにいられる自信はない」


 愛するものを奪われた者が、それを奪ったものを殺そうとすることを完全に否定することはできない。無論、それを大手を振って応援するというわけでもないが

 しかし、争いを止めるためには、その痛みを許さなければならない。自分にとって最も大切な愛するものを殺した相手と手に手を取り合うというのは、容易なことではないのは明白だ


 自身の手に視線を落として独白したニルベスの言葉を聞いた死紅魔(シグマ)は、静かに目を伏せるとその身を翻して歩き出す

「いずれにしろ、叶わない願いを叶うはずがないという理由で諦められるなら、俺達は今ここにいないんじゃないのか?」

 背中を向けてそう言い残した死紅魔(シグマ)が歩き去っていくのを、ニルベスはただ無言のままに見送っていた



                     ※



「俺は……」

 甦るのは、世界で最も愛したリーネとのかけがえのない大切な思い出。そして、その遺志を叶えるために十世界で過ごしてきた日々。

(リーネ、お前は俺がお前を殺した瑞希を復讐のために殺したら、あの時みたいに怒ってくれるのか……?)


 リーネへの愛情と、アリアへの怒り、愛梨への信頼、そしてリーネを殺した瑞希への憎悪――自身の中で混然一体となって巡る様々な感情の渦に、ニルベスはその眉間に皺を寄せる

 愛した者を奪った者を殺して、その痛みを晴らすのか、愛梨の心を汲み、愛する者を殺した者を許すのか。二つの道を前にしたニルベスは、今自分がどちらの道を選ぶべきなのかを迷い、悩み――そして、自分の答えを導き出す


「俺は……」

 自身の手のひらを見つめ、リーネと愛梨の顔を思い出しながら沈痛な面持ちで目を固く結んだニルベスは、まるで誰かに許しを乞うような表情を浮かべていた


「――ッ!」


 その時、あまりにも強大で、おぞましい力が突如出現し、世界を塗りつぶさんばかりの力がニルベスの知覚を呑み込む

「この力は……っ」

 自身の存在そのものが拒絶反応を示し、恐怖し、憎悪するその力は、ニルベスがこれまで何度も感じてきたものだった

 ある時、何の前触れもなく十世界に出現し、そのまま組織の中へと入り込んだ最も警戒するべき存在――「絶対なる神の敵対者」。

「ばかな、なぜ反逆神がここに!?」

 円卓の神座№2「反逆神・アークエネミー」を知覚したニルベスは、その存在が顕現した場所が妖精界王城であることを瞬時に察し、その場へ向かった十世界の同胞、そしてその場にいるであろう者達のことを瞬時に脳裏に思い浮かべる

「くそ……ッ!」

 動揺していたとはいえ仲間達だけで妖精界王城へと向かわせてしまったことを悔やみながら苦々しげに歯噛みしたニルベスは、精霊の神能(ゴットクロア)――「精霊力」を用いて作り出した空間の道の中へと飛び込むのだった



                      ※




 空間を超越し、一瞬さえも存在しないほどの間をもって目的地――妖精界王城へとニルベスが到着したときには、すでにすべてが終わっていた

 そこにあるのは、ニルベスの記憶と寸分違わぬ妖精界の風景と、妖精界王城の景色。不思議なことにそこには、反逆神(アークエネミー)が出現する前に行われていたはずのアリアとの戦闘の跡さえも残っていなかった

「なんだ、どうなっている?」

「ニルベス様」

 何が起きたのか分からず、ただただ妖精界王城の天空を埋め尽くす九世界と十世界の精霊達を見回していたニルベスの疑問に答えるように、この場にいる中で最も神格の高い精霊――月天の精霊王「イデア」がおもむろに口を開く

「シャロット」

 この場に到着したニルベスを知覚し、その姿をわずかに不安げに見つめていたシャロットは、自分の名を呼んだ声に、強張った面持ちで視線を向ける

「……はい」

 その声にシャロットが緊張と畏怖を抱くのも無理はない。何故ならその声の主は、シャロット達月天の精霊の王――「イデア」だったのだから

「確か、反逆神(アークエネミー)は今、十世界の所属しているのですよね?」

 透明感に満ちたイデアの声が、その澄んだ響きの下に強く冷たい敵意を孕んでいるのを敏感に感じ取ったシャロットは、その表情をわずかに引き攣らせていた

 イデアの声に宿る強い感情は、あくまでも反逆神(アークエネミー)に向けられたもの。しかし、そうだと分かってても、月天の精霊(自分達)の王の怒りと敵意を感じ取ったシャロットは、その存在としての根源から生じる畏怖に身を震わせてしまう

「はい」

「ならば、あなた方の手でかの神を止めることができるのではないですか?」

 間髪入れずに、鋭く問いかけたイデアの言葉は「できるのではないか?」と尋ねていながら、反逆神(アークエネミー)を止めるようにと促す半強制的なものであることは誰の目にも明らかだった


「不可能だ」


 しかし、そのイデアの剣呑で怜悧な言葉に割って入ったニルベスは、月天の精霊王の視線に怯むことなく話を続ける

「奴は、我々の言うことを聞くような神ではない。あいつに言うことを聞かせることができるとすれば、姫くらいのものだろう」


 いかに、すべての種族が手に手を取り合った恒久的平和世界の実現を理念として掲げる十世界に所属していようと、反逆神とその眷属に対する根源的な拒絶の意志が消えることはない

 十世界に所属する大半の者達は反逆神(悪意)やその眷属に近づくことさえなく、また反逆神(神敵)自身、愛梨以外の言葉になど微塵も耳を傾けない――もっとも、その肝心の愛梨の言うことさえもほとんど聞かないというのが現状だが


反逆神(アークエネミー)に関しては、何とかできないか姫に進言してみよう」

「ありがとうございます」

 端的に応じたニルベスが、十世界の本拠地へと続く空間の扉を開いたのを見て取ったイデアは、感謝の言葉と共にその真意を見透かそうとするような視線を向ける

「――あなた方はどうするのです?」

 この後の十世界の対応を訊ねるイデアの視線を真正面から受け止めたニルベスは、一呼吸ほどの間を置いて静かに目を伏せる

「いつも言っているはずだ。我々に戦う意思はない、と」

 反逆神を止めるべく愛梨の許へ続く空間の扉をくぐるニルベスは、自身の身体が空間を超える刹那ほどの間に、その視線を最愛の人(リーネ)の仇――長い黒髪を後頭部で結った女性へと向ける


「――瑞希」


 空間の扉を神速で通り抜けるほんのわずかな時間だけ、瑞希を映すニルベスの瞳に強い意思が宿ったことに気付くことができた者は、この場には誰一人としていなかった




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