その行く手を阻むもの
天を覆う雲の切れ間から差し込む木漏れ日の中、その白銀の髪を風になびかせて天を仰ぐ月天の精霊の王――「イデア」は、遥か彼方へ見据える目をわずかに細め、その金暁色の瞳に一抹の憂いを宿す
「天の鳴動が鎮まっていく……ですが」
先ほどまで渦を巻き、天を覆い、地を震わせ、世界を呑み込んでいた余りにも強大な力の猛威――神の力が収束していくのを感じ取ったイデアだが、それが全てこの妖精界から消えたわけではないことも同時に感じ取っていた
蒐集神、剣王、理想郷の異端神と神片の戦いは、遥か遠く離れた位置にある月天の精霊王城まで届き、その圧倒的な力を知らしめていた
それほどに強大な力であるからこそ、知覚が及ばぬほど離れた位置の戦いもおおよそ察することができたイデアは、蒐集神が退散したことでひとまず世界の危機は去り、そして新たな憂いが残されたことも手に取るように見て取れた
(あの力は、幻想の力……夢想神は一体何の目的で……?)
突如出現した夢の神能――それによって戦局は大きく傾いた。それが夢想神の神片であるということは精霊の原在であるイデアには想像に難くないことだ
問題は、夢想神がなぜ、なんのためにこの世界にいて、なんのためにその力を与えたのかということだ
「どうやら、夢想神の狙いは妖精界王城の地下にある神器らしいぞ? いや、もしかしたらそれが封じているものの方かもな」
「――っ!?」
その柳眉をひそめ、今この世界に起きている事柄に思案を巡らせていたイデアは、背後から聞こえた声に驚愕を露にして背後を振り返る
(この力は、魔力!? そんな馬鹿な、わたくしがこの距離まで気付かなかったなんて――!?)
精霊は九世界を総べる八種の全霊命の中で最も特に知覚能力――とりわけ、その効果範囲が広い。その王の一人であるイデアは、他の精霊に比べてはるかに広い知覚領域を有している
その自分が全く気付くことなく、背後――それも、声をかけられてようやく知覚した瞬間には自身のほぼ真後ろまで近づかれていたことに驚きを禁じ得なかったのだ
「あなたは方は――! ……そういう事ですか」
信じ難い事実に、動揺しながら背後を振り向いたイデアはそこに立っていた人物を見止めると、反射的に取ろうとしていた自衛行動を収め安堵にも似た理解のため息をつく
そこにいた二人の悪魔――「ロード」とその伴侶である「撫子」を見て取ったイデアは警戒を解くと同時に、微笑を浮かべる
「あなた方がここにおられるということは、そういうことなのですね?」
イデアが確認するように視線を向けると、それを受けたロードは不敵な笑みを浮かべたまま沈黙を以って応じる
《また駄目だったようだな》
静かに目を伏せたイデアの脳裏に甦るのは、あの日の記憶――守らなければならなかった人を自らの手で殺め、自身の愚かさを呪っていた時のこと
そこに現れたロードは、項垂れるイデアを金色の視線でまっすぐ見つめながら、たった一人残された月の精霊王に淡々と言葉を投げかけていく
《お前はあれの――「世界を滅ぼすもの」を知ってしまった。なら、俺達に協力をしてもらいたい》
《なぜ、今頃になって……っ》
裏切り者の汚名を覚悟で行った戦争、そして結局全てを失ってしまった失望感と無力感――自身のやるせない思いを吐露するイデアの姿に、ロードはわずかにその目を細める
感情に任せているように思えるイデアの言葉からは、しかし行き場のない感情の発散の意図は見て取れても、怒りや憎悪の感情は感じられない
そのことから、イデアはその理由を分かっていて、それでもなお自分を抑えきれないのだろうということを容易に察することができた
《「不可神協定」だ。神の意志は世界に干渉できない――だが、もう保たない》
だからこそロードは、粛々とその理由を並べることでイデアに感情の整理をさせる。そして、ここで自分が接触を図った意図も。
《この意味が解るな? 次の次はない》
《――!》
感情の抑制された声で淡々と言葉を発するロードへと視線を向けたイデアは、その意味することを正しく理解し、金暁色の瞳に静かな決意を宿した
「そうですか……あの方々の中におられるのですね――あの方の後継者が」
「そうだ。『玖琅』を継ぐもの……新しい、そして最後の「世界を滅ぼすもの」だ」
遥か古に交わされたやり取りを思い返して静かに問い返したイデアの言葉に、ロードは静かに肯定の言葉を返す
「そうですか……ならば、行かねばなりません」
ロードの言葉に目を伏せたイデアは、かつて自分が守れなかった人――「玖琅」の姿を瞼の裏に思い浮かべ、決意の言葉と共にその極彩色の紋様に彩られた蝶翅を広げる
イデアの意志に呼応するように精霊力を纏った月天の精霊の証である色鮮やかな紋様が浮かんでいる蝶翅から鱗粉が舞い、まるで虹の中にいるように褐色の肌の美女を包み込む
自身の蝶翅によって作り出された虹の鱗粉の中に佇むイデアは、遥か古に守れなかったものを守り、置いてきたものを取り戻すために戦場へと向かう決意を言葉にする
「――世界の滅びを守るために」
※
天空へとそびえ立つその白亜の姿を鏡面の大地にその姿を映す巨大な城――「妖精界王城」を取り囲む空に無数の扉が開き、そこから次々と何人もの全霊命達が姿を見せる
この妖精界王城から派遣されていたグレイシアを筆頭とする精霊達に、大貴達一向、更にはライルが率いる月天の精霊達。果ては十世界の精霊達までがその姿を現す
「なんとか、先に着けたみたいだな」
眼下に見える妖精界王城に異常がないのを見て取り、大貴が安堵に胸を撫で下ろすのを見たクロスがそれに答える
「あっちは、妖精界王城の正確な空間座標を知らないからな。だが、すぐにここに来るぞ」
空間転移には、基本的に転移先の空間の座標を知っている必要がある。無論、ある程度という縛りで転移することも可能だが、よほどのことが無い限りは
「お戻りになられましたか」
そうしていると、穏やかな声音と共にその乳白色の蝶翅に白く輝く光の鱗粉を纏わせた金橙色の光を帯びる白髪の美女――妖精界王・アスティナが大貴達の許へとやってくる
「アスティナ様!」
その姿を見て狼狽した様子で声をあげたアイリスを軽く手で制したアスティナは、その麗貌に王の威光を宿して厳かな声音で応じる
「分かっていますよ」
アイリスに言われずとも、世界を呑み込むほどに巨大で強大な「神」の力ならば否が応でも知覚できる
加えてあの場にはグレイシアをはじめとした妖精界王直轄の部隊が赴いていたのだ。思念通話によって、アスティナがある程度の事態を把握していても何ら不思議なことはない
「しかし、どうされるのですか? 彼女は夢の神の力を得ています。たとえあなたでも……」
全てを承知しているアスティナの言葉を聞いた天界の姫は、しかしその表情に険しいものを宿したままで問いかける
今のアリアは、夢想神から神片の力を得て神位第六位相当の力を得ている
それは、もはや通常の全霊命では及ばない次元の力。仮に九世界を総べる八種の全霊命が総力を以って戦っても傷一つ負わせることができないほどのものだ
そんなリリーナの言葉が意味するところを分かっている全員の視線を受けたアスティナは、それにわずかに困ったような笑みを返す
「そうですね……彼女の狙いが本当に神器ならば、最後の手段を使うしかないかもしれません」
神から生まれ、神に最も近い全霊命である原在――「日輪の妖精王・アスティナ」は、故に神威級の力を持つ神器を使うことができる
本来は蒐集神のように世界に害を成す異端の神などに対抗する手段なのだが、現在それは、妖精界王城の地下で自然神を封印するために使われている
しかし、アリアの目的が本当に神器にあるのならば、成す術もなく奪われようと、自分でその戒めを解いてその力を使おうと、自然神を封じている結界が失われるという結果は同じ
ならば、万に一つの可能性に賭けてでも、その力を使う――アスティナの声と表情にはその決意が宿っていた
「そうですか。わたくしも可能な限りご助力させていただきます」
アスティナの言葉に込められた王としての責任と覚悟を感じ取ったリリーナは、それに言及すること無く目礼と共に貴淑な声音で応じる
「ありがとうございます」
それに花のように微笑んだアスティナはその視線を大貴へ向けると、先程までの緊張感や張り詰めた空気のない柔らかく優しい声で微笑む
「月の精霊の方々にお会いして何かを得られましたか?」
この場にそぐわないとも思えるアスティナの言葉は、大貴には月天の精霊との関係の修繕を願う心の声のように聞こえていた
その言葉に月天の精霊達と交わした言葉、そしてイデアやアイリス、シャロットのやり取りを思い返した大貴は、アスティナに視線を向けて目を伏せる
「ああ。上手く言葉にはできないけど、すごく大切なことを教えられた」
誰かを大切に想うから相手を許せないと思う。だが、同じように誰かを想うからこそ相手を大切だと思う
心の亀裂は埋められない。だが、相手を想う心と言葉があれば、その亀裂を結ぶ橋を架けることはできる――少なくとも、そうありたいという願いを見てきた
「そうですか。それは何よりです」
その言葉に優しく表情を綻ばせたアスティナに、大貴はどこか照れくさそうに視線を逸らしながら口を開く
「ただ――」
「?」
今回の事で思い知ったのは、思うほど簡単に世界は変えられないということ。
信じていた者達に裏切られ、大切な者を奪われた日輪の精霊達を始めとする精霊達も、大切な者のために仲間に背を向け、しかし何も守れずに傷ついてきた月天の精霊達も誰も悪くはないのに、誰もが痛みと恨みと罪を背負ってしまっている。長く続いてきたその連鎖をなかったことにはできない。
しかし、それを受け入れ、乗り越えて新しい関係を作ることもできる。少なくとも大貴はアイリスとシャロットを見てそう思うことができた
「いつか、昔よりも仲良くなれるといいな」
《今度こそ、本当の友達になろう》
差し伸べた手と共にアイリスが言った言葉を思い返しながら、少し照れくさそうに言った大貴の言葉に、アスティナは一瞬だけ目を瞠り、そして慈愛に満ちた聖母のような笑みを浮かべる
「はい」
そのやり取りを見ていた瑞希は、自身の結界の中で気を失っている詩織を一瞥すると、その視線をマリアへと向ける
「マリアさん。彼女の守りを代わってもらえる? もしも、ニルベスが来た時に私が相手をしないといけないから」
「いいんですか?」
その言葉が意味するところを瞬時に察したマリアが、案じるように問いかけるが瑞希はそれにわずかに口端を吊り上げて応える
「愚問ね。世界のためとか、そういうことではなくて、けじめはつけなければならないでしょう? ――たとえ、彼がどんな結論を出すとしても」
かつて志の違いから十世界と袂を分かち、その知己の仲間たちを売り、ニルベスの愛する人を殺して今ここに立っている瑞希が示す覚悟に、マリアはその想いを汲んで静かに頷く
もしもニルベスが愛するものを殺した瑞希を許すならば、瑞希はその罪と許された痛みを背負い続ける
もしもニルベスが愛するものを殺した瑞希を憎むならば、瑞希はニルベスを手にかけて新たな罪を背負う――どちらに転んでも傷つくことしかできない分岐点に立ち、それを求める瑞希の姿からは、覚悟と同時に、罰を望む心が垣間見えるように思えた
「……わかりました」
※
《あなたには、光魔神を覚醒させるお手伝いをしてほしいの》
蒐集神を追おうとして引き留められたアリアは、心に響く夢想神の言葉に知覚を巡らせる
(光魔神? ……言われてみれば、確かに光と闇の神能を持った人がいるわね)
終始蒐集神にばかり意識を向けていたため、他への注意が散漫になっていたアリアは、言われてみて大貴――光魔神の存在を明確に意識していた
《ふふ》
(何がおかしいの?)
全く気付かなかったわけではないが、害意さえなければ気に留める必要がないと意識の外へ追いやっていたアリアは、心の中に響く夢想神の笑みを露にする
《感心しているのよ》
気分を害したらしいアリアの言葉に、からかっているとも本心とも取れる口調で答えた夢想神は、神妙な声で話を続ける
《さて、話は戻るけれど、私の神能は夢を現実に変えることができる
そしてあなたは、蒐集神に囚われたお姉さんを助けることを願って私の力を手に入れた。だから、あなたの力は封印の解放に特化しているの》
(なら、さっさとあなたがやればいいじゃない)
もしその言葉が本当ならば、光魔神を覚醒させたがっている夢想神自身が、その夢を現実に変えれば問題ないはず
そんなことを自分に頼む必要性を理解できないアリアが言うと、夢想神はその質問にさも当然のような声で答える
《それは無理。だって、そんなことができたらとっくにやってるから。彼が真の力を解放できない理由は分からないけど、たぶん反逆神が絡んでいるわ
神として格下の私じゃ、反逆神の力を打ち消すことができないもの。実際にこっそりやってみたから間違いないわよ》
アリアが思いつくことくらい夢想神はすでに試みている。しかし、夢を現実に変えるその力を以ってさえ、大貴を完全に覚醒させることは叶わなかった
その理由は判然としないが、先代の光魔神を殺し、最近まで封じていたのが反逆神であることを考えると、そこに原因があることを推察することができる
そうなると、円卓の神の中で光魔神、無極真と並ぶ最強の異端神の一人である反逆神の力を打ち消すことは神として格下になる夢想神には不可能だ
(あなたにできないなら、私にもできないでしょう? だって神片の私はあなたの下位互換みたいなものなんだから)
夢想神にできないことが、その神片にできるはずはない。そんな当たり前の話をもったいぶってされることに眉をひそめるアリアの心に、幼さを感じさせる声音とは裏腹な落ち着いた口調が返される
《そうね》
そこで一拍の間を置いた夢想神は、要領を得ない話に眉をひそめるアリアに諭すように言葉を続ける
《でも、考えてもみなさい? 光魔神は円卓の頂点よ。もし、あなたが彼の覚醒に一役買って恩を売れば、あなたの目的に力を貸してくれるかもしれないでしょう?》
完全に覚醒した光魔神の力は、神位第四位「至高神」と神位五位「主神」の中間ほど。神位第六位に過ぎない蒐集神を遥かに上回る
こんな話をしてくる以上、全くそういうことには協力する気がないであろう夢想神とは違い、うまくすればその力を借りることができるのではないか――その提案は、アリアにとって安易に切り捨てることができないものだった
(――なにをすればいいの?)
※
ここへ来る前の夢想神とのやり取りを思い返しながら、これまでの自分のそれとは比べ物にならないほどの速さで飛翔していたアリアは、不意に自身の進路に立ちはだかる二つの存在を知覚して、眉をひそめる
(この力……堕天使?)
自身の知覚が捉えた二つの光魔力――堕天使の神能に、アリアは怪訝そうな表情を浮かべる
大貴達のような例外を除けば原則として、全霊命は他世界に干渉しない。交流も必要最低限しかないため、滅多に他種族の全霊命と遭遇することがないのが現状だ
例外があるとするならば、十世界や英知の樹などだろうが、知覚でその動きを見ている限りそういうもののようにも思えない
(なんでこんなところに? まぁ、私には関係ないけど――)
「っ!」
自身の進路に知覚した二つの光魔力――堕天使の神能を一瞬訝しんだアリアだったが、突如その思考を遮って空中で急停止する
夢想神の神片の力と融合した今のアリアの神速は、意図的にそうしない限りは全霊命にさえ知覚できないほどの領域に到達している
その速さを以ってすれば、自身の進路に立ち塞がる堕天使を素通りすることなど訳もなく、またわざわざ止まる必要性がなかった
現にこのままその傍らを素通りしようと思っていたのだ。間近でその二人――厳密にはその片方の小柄な少年の姿を見るまでは。
「オルク……?」
空中に浮かぶ四枚翼の堕天使の姿を見止めたアリアは、その容姿と、光魔力に変わっているとはいえ、わずかに天使だったころの光力の波長の面影を残している神能に自身の記憶を刺激され、思わず足を止めてしまった
前髪だけが黒く染まった金髪に、漆黒の縁取りがされた白いコート――天使から堕天使になったことで霊衣も若干変化しているが、その幼さを感じさせる面差しや光力だったころの面影を残す光魔力から伝わってくる存在の印象には、見間違えようのない「オルク」の存在が残っていた
「アリア……久しぶり。やっと会えた」
困惑した様子で声をかけたアリアの声に気付いたオルクは、その姿を見て一瞬驚いたように目を丸くするが、すぐにそれが誰なのかに気付いてあどけない笑みを浮かべて感慨深げに声をかける
記憶の中にある天使だった頃のオルクの姿を、堕天使としての今のオルクに重ねたアリアは、その姿に一瞬ばつが悪そうに視線を逸らす
「あんた、その羽……」
しかしだからと言って、その話題に触れないことはアリアの性格上できるものではなかった。
目を合わせるのも憚られるように、視線を逸らしがちに話を切り出したアリアに、自身の背に生える二対四枚の黒翼を一瞥したオルクは昔と変わらないあどけない笑みを浮かべる
「うん。僕、堕天使になったんだ」
そうして事も無げに堕天使になったことを告げたオルクは、その目に映るアリアの姿に、自分の時とは裏腹に懐かしさと寂しさを混在させた笑みを浮かべる
それは、全てを投げ棄てたアリアの姿を嘆いているようにも、遥かな高みに至ったかつての旧友の姿を遠くから見つめているようにも見えた
「アリアこそ、その姿と力は? 神器の力?」
それに、まるで自身の願いのために全てを投げ出した自分が咎められているような錯覚に陥ったアリアは、しかし平静を装って事も無げに応じてみせる
「……夢想神にもらったのよ」
「そっか」
昔のように話すこともできず、かといって沈黙にも耐えられないといった様子のアリアは、寂しげな表情を浮かべているオルクから、その同伴者へと視線を向ける
「そっちの人は?」
「ザフィールさん。僕が今お世話になってる人」
「そう……」
オルクに紹介されたザフィールと、軽く社交辞令的な目礼を交わしたアリアは、一瞬訪れた静寂に耐えかねるようにとりあえずとばかりに口を開く
「よく、私がここにいるってわかったわね」
「蒐集神がこの世界にいるって聞いたから、アリアなら必ずこの世界に来るだろうなって思って」
世間話をするように向けられたアリアの疑問に、オルクは肝心な部分をはぐらかして答えるが、それだけで答えとしては十分だった
「なるほど」
自分が英知の樹に入ったのは、単に蒐集神と出会う確率が高くなること、そして神器を手に入れやすくなるということが理由に過ぎない
それを知っているオルクならば、蒐集神が現れた場所さえ知ることができれば、この世界に来ることは難しいことではないだろう
「――……」
その時、不意に訪れた再びの静寂と、自分に向けられるオルクの視線に耐えかねたアリアは、不機嫌ともぶっきらぼうとも取れる声で問いかける
「あんた、なんで堕天使になったの?」
自分の記憶の中では白い翼だったオルクがいつの間にか黒い翼へと変わっている――さすがに、それを気にしないことはできず、かといって理由も聞かずに受け流すこともアリアにはできなかった
「えっと……まあ、色々とあって」
アリアの言葉を聞いたオルクは、一瞬言い澱んだ後に困ったように苦笑して、ばつが悪そうに人差し指で頬を軽くかく
その所作を見たアリアはその眉をわずかにひそめ、長年の付き合いで知り尽くしているオルクの癖――自身の失敗をごまかすときのそれを見て、呆れたようにため息を吐く
「あんたのことだから、どうせしょうもない理由なんでしょ? 例えば、その場の勢いとか」
「手厳しいな……しかもまったくの的外れじゃないっていうのがまたなんとも」
自身の癖を見抜かれていると知らず、おおよそ堕天使になった理由を言い当てられたオルクが驚きと共に居たたまれなさそうな表情を見せると、アリアは小さく肩を竦めてその口元を綻ばせる
「あんたのことはお見通しなのよ。オルクって、結構単純で分かり易いし……それに、伊達に幼馴染みじゃないんだから」
「……だね」
アリアとオルクが交わす笑みは、二人に共に幼馴染として天界に暮らしていた頃を思い出させるに十分すぎるものであり、そこには懐古と相手に対する罪悪感にも似た感情が宿っていた
一瞬、友人よりも近く、恋人よりは遠い昔の関係に戻った二人だったが、オルクはその目で神の力を手にしたアリアを見据え、静かに問いかける
「――アリアはこれからどうするの?」
「決まってるでしょ、蒐集神からお姉ちゃんを取り戻す」
自身にまっすぐ向けられる揺るぎない決意を宿したアリアの視線と言葉に、オルクはわずかにその目を細める
「変わらないね、アリアは。……昔から、ウェンディさんが大好きで、まっすぐで、強くて……で、気持ちが先走りすぎて失敗する」
ただ単に幼馴染というだけではなく、腐れ縁と言えるほど幼いころから共に過ごしてきたが故に、オルクとアリアは家族を除けば、一、二を争うほど時間を共有してきた
そんなオルクの半ば断言するような言葉が決して間違いではないと分かっているアリアは、それに一瞬自嘲じみた笑みを浮かべる
「……だから、言うよ。アリア、君のやり方は間違ってる」
一拍の間を取り、真剣な眼差しと共に向けられたオルクの言葉に、アリアは自身の記憶の中にある幼馴染の姿を思い返して小さく微笑む
「ふぅん、そんな顔もできるんだね……ちょっと、男らしくなったじゃない」
アリアの記憶の中にあるオルクは、良く言えば優しく、悪く言えば気が弱い性格で、常に相手の顔色を窺っているようなところがあった
それを変えたいと思っていても、少し強く否定されるだけで諦めてしまうようなオルクは、気が強いアリアにいつも言いたいことを言えずにいた――そんな頼りない一面があるオルクが自分を強く否定してきたことに、アリアはまるで手のかかる弟が成長したような喜びを胸の奥に灯った小さな温もりと共に噛みしめる
「――でも、駄目。たとえこの道が間違っていたとしても、私はお姉ちゃんを助けるって決めたんだから」
やや語気を鋭くしたアリアが、その強い意志を示すと、オルクはわずかにその表情を悲しげに歪め、その手に三つの刃を持つ円輪を顕現させる
「なら僕は、君を力づくでも、止める。あの日できなかったことをやるんだ」
《アリア! 駄目だよ英知の樹に行くなんて! そんなことしても、ウェンディさんは喜ばないよ!》
《お姉ちゃんは関係ないでしょ。オルクも! 私はもう決めたの。私に構わないで。それでも私を止めたいって言うのなら、力ずくでやってみたら?》
(ふぅん、中々いい顔するじゃない……あの日、オルクがこうしてたら、私は今どうしてたかな……?)
オルクの言葉に、アリアの脳裏には決別の日の記憶が甦り、その時の光景が今の状況と重なっていることに運命の悪戯を感じざるを得なかった
結局その時、オルクは戦うことをしなかった。ただ飛び去る自分の背に向けられていたオルクの視線を思い出しながら、アリアはわずかにその目を細める
そうしてオルクと決別した日、アリアは胸に小さな棘を刺さったような痛みを覚えた。罪悪感にも似たその痛みに、アリアはもしかしたら自分はオルクに止めてもらうことを望んでいたのではないかという考えを一瞬芽生えさせていた
(って、何感傷に浸ってるんだろ、私。これは私が決めたこと。誰の所為でもない、私自身の願いなのに)
よく言えば素直。悪く言えば直情的な自分の性格の悪癖を正しく理解しているアリアだが、だからといってそれを理由に姉を助けにいかないという選択肢はなかった
自身が選んだ道を後悔しているわけではない。しかし、今立ち止まってその戻らない時を振り返れば、それが最善だったかどうかまでは分からない――今となっては、どうしようもないことだが
「……やってみなさい」
まるで試しているようにも、煽っているようにも聞こえる静かなアリアの言葉が発せられると同時、オルクはその身体から漆黒の光が解き放たれる
オルクの武器である「コルヴラミナ」は、三刃のブーメランと、刃を重ね合わせた円柄の剣の二つの姿を持つ武器。
アリアの言葉と同時に刃を重ね合わせて剣の形態へと変えたオルクは、四枚の黒翼を広げて神速で天を奔り、渾身の光魔力を纏わせた刃を袈裟懸けに振り下ろす
刹那で肉薄したオルクの動きなど見えているにも関わらず、アリアはそれに対して回避はおろか、防御するそぶりさえ見せずにそれを迎え入れる
ある意味で他者との衝突を避けようとする臆病とも心優しいとも取れるオルクが放った光魔力は、アリアを止めたいという一心で放たれた全力の一撃。
天から振り下ろされた刃は、回避さえしないアリアの肩口に炸裂すると天を穿つ黒光を放ち、世界を闇色の光が呑み込む
「――ッ!」
しかし、その一撃を放ったオルクは自身が放った刃がアリアの肩口に触れた状態で止まっているのを見て目を瞠る
「無理よ」
アリアはオルクの一撃を防いだわけではない。ただ平然と佇んでいただけのアリアに対し、渾身の力を込めて放たれたオルクの刃は、その白い柔肌にかすり傷ひとつつけることができなかったのだ
神能をはじめとする霊の力は、自身の力の及ぶ限り自身が望んだとおりの事象と現象を顕現させる力。
そして、全霊命達はその力の特性を利用して「自身は無敵――何人、いかなる手段を以ってしても傷つかない」という事象を引き起こしている。
全霊命同士の戦いにおいてそれが通用しないのは、同格の神格で攻撃されれば矛盾の原理によって傷を受けてしまうからだ。
そして、アリアとオルクの間に起きた事もそれと同じこと。
夢想神の神片の力を得て、神位第六位に等しい力を得たアリアには一介の全霊命に過ぎないオルクの力が届かないのだ。
「あんたじゃ、私を止められない」
渾身の攻撃が一切通じないほどの神格の違いを見せつけたアリアが、静かにその横を通り過ぎていくのを感じながら、オルクは自身の無力に打ちひしがれて唇を噛みしめる
「――っ」
オルクと共にここにやってきたザフィールは、アリアを止めるそぶりさえ見せず振り返ることもなく飛び去っていくのその後ろ姿を見送る。
尤も、ザフィールの力を以ってしても今のアリアを力ずくで止めることなど到底不可能なのだが。
そして、一瞬で自身の知覚が及ばないほどの距離へと飛び去ったアリアから、力なく項垂れているオルクの許へと移動したザフィールの耳に、何もできなかった堕天使の少年の自嘲じみた声が届く。
「……僕は、何をやるにも遅すぎるんですね」
その言葉にその険しい表情をかすかに綻ばせたザフィールは、力を落としているオルクの肩にそっと手を乗せ、重厚な声音で語りかける。
「そんなことはない。まだ、いくらでもやり直すことはできる」
慰めとも励ましとも取れるザフィールの言葉は、自身の愚かさと無力さを噛みしめているオルクに優しく染みわたっていくのだった
※
「あれが、妖精界王城」
オルクとの会話で一時の時間を取られたが、神の領域へと足を踏み入れたアリアにとって、妖精王城への道のりは、そんな寄り道など些細な問題にしか思えないほどに短いものだった
瞬く間に鏡の様に天を映す大地にそびえ立つ荘厳な白亜の城――妖精王城を射程に捉えたアリアは、その周囲を警戒している精霊と月天の精霊達、リリーナ、光魔神一行、そして十世界までもが待ち受けているのを見止める
(やっぱり、空間転移してきた人達はもう到着してるわね、光魔神もちゃんといる)
その中に自身の――正確には、夢想神の標的である光魔神がいることを知覚したアリアは、内心でほくそ笑む
(――予定通りね)
《ええ》
妖精界王城の正確な座標が分からなかったために自力で飛翔し、かつオルクによって一瞬の足止めを受けたアリアよりも、空間を超越して転移してきた大貴達が早く到着するのはある意味で必然の事
だが、それ以上にアリアが空を飛んで移動してきたのには、夢想神によって提示された条件――「光魔神をこの妖精界王城へとおびき寄せること」――があったため、その時間を稼ぐという意味合いもあったのだ
(ちょっと気が乗らないけど、お姉ちゃんを助けるためなら――)
アリアにとって、英知の樹は蒐集神を探し出し、自身が戦うための神器を探し出すのに効率がいい組織でしかない
だからこそ、それ以外の神器には興味もなければ、英知の樹が掲げる理念に関心はない
だが、それが自身の目的に必要であるのならば、その程度のことを成すことに躊躇いはなかった――少なくとも、それだけの覚悟を以って天界を離れ、オルクにも背を向けたのだ
(神器も奪ってやるし、光魔神も覚醒させてやるわよ)
神片幻想の住人となった自身の新たな武器――純白の三日月大鎌を携えたアリアは、その進路を塞ぐように立ちはだかる軍勢を前に静かな闘志にその心を燃やすのだった
(さて、彼女はうまくやってくれるかしら)
その様子を夢の姿で睥睨していた夢想神は静かに目を伏せると、その目を一旦遮断してその場から存在を消失させる
(やはりあなたは私が見込んだとおりの人ね。とても一途でまっすぐ……だから、とても愚かしいほどに愛おしい。なにしろ――)
元々夢として妖精界へ来ていた夢想神はアリアに向けていた目を外し、新たな場所へと移動しながら自身が選んだ新たな宿主の天使に想いを馳せる
アリアには気まぐれと言ったが、そんな理由で自分の大切な神片を預けたりするはずがない
夢想神が神片の宿主としてアリアを選んだのは、自身が利用するのに都合がいいと判断したからに過ぎない
「目の前の大切な人さえも見落としてしまうのだから」
姉を大切に想い、姉を救うことを目的とする、優しく、純粋すぎるがゆえに直情的で――故に、視野が狭くなりがちになる欠点を持っている
小さく口端を吊り上げた夢想神は、その目を開くと眼前にいる人物――自身の主である「王路」と視線を交わす
「目障りなだけだと思っていたけれど、蒐集神もたまには役に立つわね。おかげで――」
その幼さの残る外見に、大人びた妖艶な色香を纏わせて目を細めた夢想神は、その視線を王路の背後にいる人物へと向ける
アリアに力を与えた以上、夢想神は当然蒐集神の戦いの一部始終を観察していた
そして蒐集神は他の神と決定的に違う面が一つだけある。それは、宝を嗅ぎ分ける力。自分が欲するものに貪欲で敏感なその鼻は、知覚とは異なる概念で宝を探し当て、嗅ぎ分ける力を持っており、それは夢想神も認めるところだ
あの時、蒐集神が自身のコレクションに手を加えるべく手を伸ばしたのは、大貴、詩織、リリーナ、桜、撫子、鼎、ジェノバ、マリアの八人。
光魔神、神器を宿す詩織とマリア、神器持ちの鼎。それ以外に関しても、神器を持っていた可能性や、あるいはそれ以外の要素――容姿や歌声などが理由であることが推察できる
その中で夢想神が注目したのは、蒐集神が一瞬見せた反応。その人物が現れた瞬間、蒐集神は不敵な笑みを浮かべ、そしてその力をさらに行使して見せた
そしてそれを訝しんだ夢想神は、その人物の意識の中へ入り込み、神魔にしたようにその記憶を覗いたことで、その人物こそが自分達の探し求めるものであることを突き止めたのだ
「ようやく、一つ目の〝鍵〟を手に入れることができたわ」
奇跡の様な偶然に歓喜し、その声を彩った夢想神の視線の先には、アリアを追って現れた英知の樹に所属する悪魔――「ジェノバ」が、漆黒の結界の中に封じられていた