世界を滅ぼすもの
《力を授けてあげましょうか?》
(誰……?)
不意に脳裏に響いたのは、高い女性の声。幼さを感じさせながら、大人の女性の匂いを同居させるその声に思い当たる節がないアリアは、警戒心に彩られた声で、それに問い返す
「力が欲しい」と確かに願った。しかしそれは、あくまで心の中で思ったにすぎず、決して思念通話で誰かに意識を飛ばしたわけでも、声に出したわけでもない
そんな自分の心の声に、それが聞こえたと言わんばかりに絶妙の間で響いた声に対し、アリアは警戒心を最大まで引き上げて、その正体に思案を巡らせる
《私は夢想神。夢を司り、夢を叶える神》
(円卓の……!)
故に、まさか名乗るとは思っていなかった正体不明の声に、アリアはその正体と合わせた二重の驚きを覚える
最強の異端神「円卓の神座」№8。夢と幻想を司る神――「夢想神・レヴェリー」。この世界に生きる者ならば知らぬ者はいないその名に、アリアは息を呑む
《そう。あなたの強い願いが私に届いたの。そして、私もそれに応える気分になった……だから、あなたに力をあげる――》
脳裏に響く声は、その声を聞いたアリアが真っ先に覚えた疑問――「なぜ、円卓の神座が、自分に声をかけてきたのか」ということを簡潔に説明し、そしてそれが実に他愛もない理由であることを認識させる
その言葉を信じるならば、夢想神が自分に力を貸す気になったのは、ただの気まぐれや暇つぶしの類。――しかし、それが逆に信憑性を感じさせる
そして、これからの自分の対応が、夢想神の機嫌に直結することになることをアリアは否応なく自覚して気を引き締める――たとえそれが気まぐれであろうと娯楽であろうと、神位第五位に等しい力を持つ夢想神の力を借り受けることができるということは、蒐集神から姉を助けだすことを目標としているアリアにとって、まさにその願いを叶える千載一遇のチャンスなのだから
(本当に……?)
息を呑み、姉を助けだす一縷の期待に胸を膨らませるアリアは、緊張にわずかに強張った声で、意識に響く夢想神に問いかける
《ええ――ただし、一つ条件があるの》
無論、アリアもただでそれをもらえるとは思っていない。当然、こういう流れになるであろうことは予想に難くなく、その言葉を「やはり」といった様子で受け取る
(なに?)
息を呑み、その条件を尋ねたアリアはその時、姿も見えない夢想神が、その言葉に小さく口端を吊り上げて笑みを浮かべたようにさえ感じていた
夢想神の言葉がどの程度信用できるかは定かではない。ただ、そんなものにさえ縋らなければ、ウェンディを蒐集神から救い出すことができないという事実だけがアリアを突き動かしていた
ここで無理難題を吹っ掛け、自分がそれを拒否することを楽しむ可能性もある。息を呑み、その条件を待つアリアに向けられた答えは少々意外なものだった
《私のお願いを叶えてくれること》
(お願い?)
条件というからには、対価やそれに見合うだけの何かを求められると思っていたアリアは、あまりにも要領を得ない内容に、思わず聞き返す
(そう、お願い)
話の腰を折られ、どこか気の抜けた様子で怪訝そうに返されたアリアの言葉に応じた夢想神は、微笑を帯びた声音で自身の条件を説明していく
《なにも、そんな難しいことではないわ。私がお願いしたことを優先的にやってくれればいいだけ――簡単でしょう?》
意識に響く夢想神の言葉に、わずかに一抹の不快感を覚えたアリアは、わずかにその柳眉をひそめてそれに応じる
(……つまりあなたの手足となって働けということね?)
下手な応対をして機嫌を損ねてしまえば、夢想神の助力を得られなくなってしまうかもしれないという重圧に耐えるアリアは、自身の失言でようやく見えた光明を失ってしまうかもしれない恐怖に耐えながら、しかし一切気後れせずに言う
まるで自身の覚悟を見せつけるように、強い意志を以って向けられるアリアの言葉に耳を傾けていた夢想神は、そうして気を張っていることを面白がっているような緊張感のない軽い声を返す
《少し違うわ――時々、ちょっとしたお願いを頼みたいだけ。もちろん、四六時中お願いをこなさせるつもりはないから安心して》
どこか嘘のような軽い声に心の耳と意識を傾けるアリアだが、今の自分はただそれに縋ることしかできない弱者でしかない。
そして、そんな自分が力を得るには、ある程度の代償は必要不可欠であり、そして自分に一定以上の交渉権がないことも正しく理解している。
その言葉を全て信じたわけではない。
しかし、蒐集神を倒し、姉を助けだすための力が手に入るのならばアリアにそれを断る意志はなく、そしてその条件ならば落としどころとして妥当だろうと結論付ける。
(――分かったわ。そんなことでいいのなら)
息を呑み、わずかに緊張に強張らせた声を心の中で返すと、夢想神はアリアとは対照的な優しく明るい声でそれに答えた
《あなたならそう答えてくれると思っていたわ。――ありがとう、約束ね》
※
「――『奪神之望夢』!」
純白の斧を持つ白装束の姿となったアリアは、自らに宿った神の力――夢想神の神片の力を感じながら、強く言い放つ
「……っ!」
(この力……は夢想神の!)
そして、その姿を変え神位第六位に等しい力を手に入れたアリアの力を知覚した理想郷は、胸を貫かれ血炎を上げる腹部の痛みの中でその正体を理解して目を細める
(『幻想の住人』か!)
そしてまた、それを知覚した剣王はアリアの身に宿った夢想神のユニット――心に寄生し、その願いを媒介としてこの世界に顕現する夢の力に列なる存在――「幻想の住人」の力に、その瞳のない目で天を睨み付ける。
(奴め、この戦いを見ているのか……! だが、一体なぜ? 何のために……?)
夢想神は、夢と空想の神であり、それそのもの。
心や願い、想いそのものである夢想神は、その存在を知覚できなくすることができ、そしてそれは夢想神と同等の力を持つもの――神位第五位以上の神の力を持つ者にしか捉えることができない。
神に等しいとはいえ、神位第六位相当でしかない、この場にいる異端神と神片では、その存在を知覚できないのは必然だった。
(この力があればいける。蒐集神を斃して、お姉ちゃんを助けられる……!)
自身に宿った神の力を確かめるように知覚と意識を巡らせ、存在の根幹から変質し、新たな霊衣を纏った自身の姿へと視線を向けていたアリアは確信と共にその視線で理想郷と剣王の間にいる標的へと視線を向ける
「へぇ……」
そしてその瞳に、地に倒れ伏した蒐集神を捉えたアリアはその口端が自分を見て吊り上がり、新たな宝物を見つけて嗤ったのを見ると同時に、感情に任せて地を蹴る
「蒐集神。お姉ちゃんを返してもらうわ!」
純白の三日月大鎌を手にしたアリアは、これまでの自分の速さが止まっているのではないかと思えるほどの速さで、自身の標的――蒐集神へと肉薄する。
それと同時に振り下ろした純白の三日月鎌は、しかし蒐集神の鼻先でその切っ先を止め、わずかにその身を傷つけるには至らない。
何故なら、アリアの斬撃は咄嗟に割り込んできた剣王の十字大剣によって受け止められてしまっていたのだから
「っ!」
同格の神の力を持つ剣王が自分の攻撃を阻むことができるのは必然――失念していたわけではないとはいえ、今まさに自身の願いの実現に王手をかけたアリアは、それに忌々しげに歯噛みして声を荒げる
「邪魔しないで!」
「――……」
その言葉に沈黙を返した剣王は、瞳のない目にアリアの姿を映して十字剣の一薙ぎと共に力任せに弾き飛ばす
「――っ!」
(さすがは戦の神の眷属。とんでもない力ね……)
必然的な話ではあるが、それぞれの神は司る事象と理を持ち、それに準じた能力を持っている。故に戦の神である覇国神に列なる剣王の方が、夢と空想の神である夢想神の眷属となったアリアよりも単純な戦闘力に長けているのは必然的な要素でもある
しかし、その差は全霊命と神の間に存在する格のように、決して絶対的な隔たりではなく、十分に対抗することができるものだ
(でも、やれる……!)
これまで、どれほど願おうと、命を懸けた程度では覆すことのできない「神」という絶対的な存在の絶望に抗ってきたアリアにとって、その程度の差はなんら障害となるようなものではなかった
「蒐集神は渡さない。そいつには、ここでお姉ちゃんを――いえ、本の中に封じた人達を全員解放してもらうわ」
力強い声と共に神速で移動し、純白の三日月を振るったアリアの斬撃を十字剣で受け止めた剣王は、戦と夢の神能がぶつかり合い、相殺された力の波動に煽られながらその瞳のない目をわずかに細め、剣呑な光を宿す
(さて、どうしたものか……)
※
場を満たす神の力に知覚を震わされる中、視線を巡らせた神魔はこの場から縣が消えているのを見て、眉をひそめる
(居なくなってる……あの神器の力でさっさと逃げたのか)
鼎には自身の存在を一定時間位相へとずらす力を持つ神器――「神測証」を持っている。
その力を考慮に入れ、警戒をするが一向にその存在を捉えられないことから左腕を欠損し、蒐集神とアリアを含めて三人の神片がいるこの戦場の混乱の中、本来の目的であった神眼の奪取を諦めて撤退したのだろうと推測された
(どさくさに紛れて殺しておこうと思ったけど……仕方がないか)
今回はいくつかの偶然が重なって事なきを得たが、鼎の狙いが神眼である以上、それを持つ詩織に危険が及ぶ可能性は十分にある。
ならば、後顧の憂いを断つためにも蒐集神によって小さくない傷を負った今のうちにその息の根をとめておきたかったというのが神魔の偽らざる本心だ
しかし、さすがというべきか鼎はすでにその神器の力を使って退散した後。一歩遅れたことを悔やみながら、しかし過ぎたことを悔やんでも仕方がないと、意識を切り替えた神魔は隣にいる桜に視線を向ける
「桜。今のうちに――どうしたの?」
神の力を得たアリアが出現したことで戦場の混迷がさらに極まり、蒐集神が動けなくなっている今こそが絶好の撤退の機会。
それを促そうとした神魔は、桜がその傾城傾国の美貌を不安に曇らせて周囲にしきりに視線を巡らせているのを見て訝しげに問いかける
「……お姉さんたちの姿が見えません」
その問いかけに周囲へと意識と知覚を向けている桜が言うと、神魔はその不安の理由を理解して「ああ」とため息を零す
「もう逃げたんだ……」
その言葉に知覚を傾けた神魔は、蒐集神と剣王、理想郷に加えアリアを含めた四人の神の力に満たされた空間の中で二人の神能が消えていることに気付く
あまりにも強大な神の力の中、知覚が麻痺していたために気付かなかったロードと撫子の離脱に神魔は、小さくため息をついて桜を見る
「ま、あの二人は不法入界だからね。どさくさに紛れて逃げたかったんでしょ? ほんと、撫子さんも大変だね」
本来全霊命が支配する八つの世界は、他の世界と必要最低限の関わりしか持っていない。そして、他の世界に別の世界の全霊命が無許可で入ることは原則として禁じられており、見つかれば排除され、命を奪われても止むを得ない
そして、ロードと行動を共にしていたことがある神魔は、経験的に二人がその正規の手順を踏んで、この妖精界にいるとは到底思えなかった
「ですが、きっとお幸せなのですよ。愛しいお方に煩わされることはお姉さんにとって、きっととても嬉しい事なのだと思います――わたくしもそうですから」
口元に手を当て、花のように微笑んだ桜が撫子へと想いを馳せているのを見た神魔は、頬を紅潮させ、愛おしさを噛みしめるように胸にそっと手を添えている伴侶にやや不満気な視線を返す
「僕、そんなに桜を煩わせてるっけ?」
「いいえ、ですからですよ。わたくしは、もう少し神魔様のお世話をさせていただきたいと思っておりますから」
慈愛に満ちた瞳を向けた桜の淑やかに微笑に釣られ、頬を赤らめた神魔はそんな自分の反応を隠すように視線を逸らして、わざとらしく話題を変える
「ま、それはそれとして、なんであの二人妖精界にいたんだろ? 偶然かな」
あくまで照れ隠しとして振った話題だが、神魔にとってロードと撫子がなぜこの妖精界にいた理由はそれなりに気になっていることであるのは間違いない
何か目的があったのもしれないが、ロードの性格を考えれば、ただの気まぐれともいえるため、必ずしも何か理由があると断言はできないのだが
「ふふ……そうですね、今度お会いした時に伺ってみましょう?」
照れ隠しをしている神魔を見て、愛おしさに胸を満たされる桜は淑やかに微笑むと、優しい声音でそれに答える
「とにかく、ここから離れよう」
「はい」
神魔の言葉に淑とした立ち振る舞いと声音で応じた桜の腰帯には、撫子から与えられた花鳥のお守りが結わえつけられ、その動きに合わせて小さく揺れていた
※
「はあああっ!」
鋭い裂帛の声と共にアリアが振るった純白の三日月鎌は、剣王の十字大剣によって弾かれ、その衝撃波が天を穿つ
神の神能に宿る純然たる殺意は、全霊命のそれを遥かに上回り、物理の世界へとその意思を顕現させ、天地を砕き震わせる
「こ、の……ッ」
眷属としての差が生み出す基礎的な戦闘能力にわずかに気圧されながらも、アリアは金色の鎧をまとう純白の翼を広げ、輝く極光を波動として放つ
神の力を得て昇華した全てを滅ぼす極大の白光は、戦の神力を纏わせた剣王の一閃でかき消されて相殺される
「――!」
しかし、それは次の一手を打つためのアリアの布石。破滅の白光を打ち砕いた剣王は、天空を舞う純白の星々を瞳のない目に映す
(これは……!)
「私の標的は蒐集神一人。でも、それを邪魔するのなら容赦しない――!」
夢の神の力を得て神の領域へと到達した光を星のように従えるアリアが、冷光に染まった瞳で静かに言うと、その光が天を舞い、剣王へと襲い掛かる
「!」
神速で舞う白光星がまるで生きているかのように縦横無尽にて天を翔け、全方位から剣王へと向かっていく
網の目のように張り巡らされる白光の軌跡をかいくぐり、十字大剣で相殺した剣王は眼前に迫る三日月大鎌の斬撃をその刀身で受け止め、火花を散らした
「!?」
二つの神能が砕け散り、そこに込められた純然たる殺意が破壊の衝撃となって砕けた瞬間、アリアの姿が消失し、剣王の十字剣の刃が空を切る
(これは、しまっ――)
空を切った刃に目を瞠った剣王が背後を振り向くと、そこには純白の三日月大鎌を手にしたアリアがその刃を高らかに掲げているところだった
夢想神の力に列なる眷属――「幻想の住人」は、必然的にその存在そのものが「夢」の顕現。その存在は現実と夢の間を行き来することができる
実体を夢へと書き換える幻想の住人の特性の一つ。夢が持ついくつもの概念の一つ「届かない夢」の性質のままに、夢を夢幻のまま終わらせるその形は現実の介在を許さない
「お姉ちゃんを返してもらう!」
自分が願ったたった一つの夢と共に、アリアは高く掲げた大鎌を渾身の力を纏わせて振り下ろす
「――やなこった」
しかしその瞬間、蒐集神の身体から、漆黒の影が吹き出し、純白の三日月は地面へとその切っ先を突き立てる
「なっ!?」
そこにいたはずの蒐集神が実体を消して黒霧と化したのを見た理想郷は、腹部から立ち上る血炎を抑えながら声をあげる
「待ちなさい、蒐集神!」
何度も蒐集神と相対している理想郷は、蒐集神が持っている離脱と逃走の手段を熟知している。しかし、神の力を得たとはいえ今のアリアにそれに対処するだけの知識と力は備わっていない
アリアが姉を取り戻すために作った隙が、逆に理想郷と剣王を遠ざけ、蒐集神に絶好の逃走の機会を作り出してしまったのだ
「どこに消えたの?」
「上です!」
アリアがこの戦いに最初から参加していれば、この黒い霧が最初に姿を現した時のものだと気付いただろう。しかし、途中から参戦したアリアには当然知る由もなく、理想郷声に反応して天を仰ぐのが精一杯だった
そうして天を仰いだアリアは。背から伸びる金属質の双腕の爪を空に突き立て、天にぶら下がった蒐集神と視線を交錯させる
「助かったぜ? あのままなら俺は理想郷に捕まってたからな。みすみす宝を前に逃げるのは癪だが、またあの退屈な日々に戻るよりはマシだ」
両の腕を斬り落とされ、穿たれた胸から血炎を立ち昇らせる蒐集神は、自分を睨み付けて悔恨の念に駆られるアリアを嘲笑うと、その鋼の腕を使って時空を開く
「待ちなさい!」
時空の門を開いた蒐集神は、己を逃すまいとするアリアが純白の三日月大鎌を構えたのを見て口腔から極大の破壊砲を放つ
「――ッ!」
それを白月の大鎌で防いだアリアが、その破壊光を斬り捨てたのと、時空の門の中へと蒐集神が姿を消すのはほぼ同時だった
「あばよ」
まるで神経を逆撫でするような捨て台詞を残した蒐集神が姿を消すと、そこには妖精界の透き通った青空だけが残される
それを見たアリアは蒐集神に逃げられた口惜しさに歯を食いしばり、その拳を強く握りしめながら、しかし微塵の気後れもない瞳で先ほどまで姉の仇がいた空を睨み付けて口を開く
「この程度で逃げられると思ってるの? どこまでも追ってやる」
《そこまでよ》
「――!」
蒐集神を追って時空の門を開こうとした瞬間、アリアの心の中に先程聞いたばかりのあどけない少女の声が響く
(……何の用?)
その声の主――「夢想神・レヴェリー」に不満の色を露にしたアリアが憮然とした様子で問いかけると、その心に余裕に満ちた声音が返される
《ご挨拶ね。その力を上げるときに約束したはずよ? 私のお願いを聞いてもらうって》
(今は忙しいの! 私はあいつを倒さないといけない! ちゃんと後で約束は果たすから――)
当然夢の神片をもらった対価は覚えている。しかし、あと一歩でウェンディを取り戻せるところまで来ていながらみすみす蒐集神を見逃すことはできなかった
約束そのものを反故にするつもりはないが、今の好機を逃すことはできない。その意志を心で訴えるが、与えられた側の都合など与えた側には関係がない。その答えは冷ややかで冷酷な言葉だった
《なら、その力を返してもらうしかないわね》
「――っ!」
自分の身に宿った夢想神の神片の力――これがあるからこそ、蒐集神から姉を取り戻す光明を見出すことができる。もし、これを失ってしまえば新たな神の力を手に入れられる機会はいつになるかも分からないばかりか、下手をすると永久に手に入らないことも考えられる
自身の目的のために神の力を必要とするアリアにとって、そうまで言われてしまえば、返す答えは決まっているようなものだった
「……わかったわよ」
《ありがとう。じゃあ、早速――》
不満を露にするアリアの様子など気にも留めず、その心に響く夢想神の声は、弾むようい明るい。その声音はアリアには、あてつけのようにさえ聞こえていた
「光魔神!」
そしてしばしの沈黙の後に発せられた、アリアの怒号にも似た声に呼ばれた大貴は、目を瞠ってその声の主に視線を向ける
「……!」
言葉を交わしたことはおろか、今の今まで面識さえなかった相手に名指しされた大貴が視線を返すと、アリアは強い語気で言い放つ
「私はこれから、妖精界王城に神器を奪いに行くわ。邪魔をしたかったら追ってきなさい!」
「!」
自身の目的の達成を目前で邪魔されたことへの八つ当たりが混じった叩き付けるようなアリアが強い声で告げた言葉に、大貴はもちろんその場にいる誰もが驚愕に目を瞠る
「アリア!」
「アリアさん!」
その言葉にクロスとマリアが非難混じりの声をあげて思いとどまらせようとするが、アリアは眉をひそめて視線を逸らす
「……ごめんさない。でも、神の力をもらい続ける条件なの。お姉ちゃんを取り戻すまでは失えない」
クロスとマリアに背を向け、金色の鎧を纏った純白の翼を広げたアリアの前に、乳白色の翅を持った一人の男が立ちはだかる
「待て!」
「……誰?」
突然自分の前に立ちはだかった蝶翅の人物――日輪の精霊を見て怪訝そうに眉をひそめたアリアに、その人物は静かに抑制された声で答える
「ニルベス。十世界妖精界総督だ」
「……で?」
十世界と名乗ったところで一瞬反応したアリアだったが、自分にまっすぐ視線を向けてくるニルベスに、続きを促すようにやや不機嫌そうに言う
アリアとしても、妖精界王城衝撃など神の力を手放さないために嫌々しているにすぎず、気乗りがしない上、そのためにあと一歩のところで蒐集神を諦めなければならなくなってしまった不本意さがある
それらが一緒くたとなって胸中を占めている今のアリアには、元来の直情的な性格もあって好意的な応対などとてもできる心情ではなかった
「あいつは理想郷様に任せてくれ。奴自身にその存在の在り方を悔い改めさせることが姫の願いだ。
それに、いくらその力のためだからと言って、この世界に迷惑をかけるようなことをするべきではない――そんなことをして助け出したとしても、君の姉は喜んでくれないだろう」
アリアを前にしたニルベスは、その心に訴えかけようとしているかのように瞳のその奥へと己の想いを言葉と共に届けていく
「――……」
先ほどまでのやり取りを見ていたニルベスが、自分と蒐集神、そして姉の関係をある程度推察できていても不思議ではない
見透かしたように自分の痛いところをついてくるニルベスの言葉に、アリアはわずかにその表情に渋いものを浮かべさせられる
アリアにその表情を作らせたのは、ニルベスの言葉の後半部分――「自分の目的のために妖精界王城を襲撃するべきではない」、「姉が喜ばない」というところ。
前者はアリア自身も望むところではなく、後者は否定しきれるものではない。ただ、自分もまた妹として姉を蒐集神に囚われたままにしておくことができないだけだ
「……あいつは、多くの人を捉え、その力を奪う――全霊命を踏みにじり、辱める悪神よ。生かしておく意味はないわ」
不本意さと憮然さを混在させた声でやや不機嫌さを露にしたアリアが言うと、ニルベスはその中に垣間見えるわずかな迷いを読み取り、その痛みに語りかける
「君が大切な人を奴に奪われたのであろうことは想像に難くない。だが、そんな憎しみではなにも解決しない。復讐は君を傷付けるだけだ」
ニルベスの言葉は、ニルベス自身のそれであると同時に、誰もを許し、全てのものと共存することを願う奏姫の――十世界の理念そのもの
姫と志を同じくする者であるニルベスの言葉を聞いたアリアは、その表情を乾いたものに変えると冷ややかな言葉を返す
「そう。あなた可哀相な人ね」
「何?」
感情を逆撫でするためや一時の感情ではなく、心の底から発せられているとわかる言葉に眉をひそめたニルベスに、アリアは憐れみとも侮蔑とも取れる感情のこもった冷ややかな瞳を向ける
「だって、そんなずれたことを言えるなんて……本当に心から人を大切に思ったり、好きになったことがない人の証拠だから」
「――っ!」
もはや話す価値がないと切り捨てるアリアの言葉に、ニルベスの脳裏にかつて愛した――否、今でも思い続けている女性の影がよぎる
平等に人を想うということは、全ての個人を差別し、順序をつけること。最愛の人、気の置けない友、反りが合わない人――好意から敵意までを向ける相手がいるということ。
しかし、誰もに同じ感情を向けるということは、そこにいるその人物を見ていないことの証明ですらない。
上っ面の名称のみを見て、その心や在り方を意に介していない――それは、無関心にも等しいものでしかない
これ以上無駄な話をするつもりがないと言わんばかりに、一全霊命に過ぎないニルベスでは反応もままならない速度でその傍らをすり抜けたアリアは、すれ違いざまに耳元に囁きかける
「――心から人を愛したこともない人が、私の邪魔しないで」
捨て台詞にも似た言葉を残し、遥か後方へと移動しているアリアを知覚したニルベスは、背後を振り返ることもできず、拳を握りしめて強く歯を食いしばる
《随分痛いところを突かれたようね》
その時、魔力に乗せられた思念の声が届き、俯いていたニルベスは顔を上げてその視線を声がした方へと向けて声の主を見る
「……瑞希」
今のアリアはこの場で最も注目される存在となっている。その前に立ち塞がり交わした言葉を聞かれていたのは、ある種の必然ともいえる。
故に瑞希がアリアとの会話を聞いて、自分に声をかけてきたのもニルベスにとっては合点のいくことだった。
ただ一つ驚いていることがあるとすれば、十世界創始者であることを公にしたくないはずの瑞希が自分に話しかけてきたことだけだ。
《それで、どう? あなたのリーネへの気持ちを侮辱された気分は?》
「――……」
十世界創始者の一人である瑞希は、自分と自分が愛した女性のことを知っている。その口から出た愛する人の名に、ニルベスは沈黙を返す
それはまるで、堰を切って噴き出そうとする愛する人への想いを踏みにじられた怒りをかろうじて抑え込んでいるように思えるものだった
ニルベスも、アリアの言うことは分かっている。愛する者と名も知らぬ他人の命を天秤に掛ければ、多くの者が前者にその心を傾ける
しかし愛する者を失ったからといって、その喪失感と悲しみを感情のままに振りまき、他人にぶつけていいわけではないはずだ。
それを向けられた相手にもまた、自分がその人を愛したように愛する人や愛してくれる人がいるのだから。
だからこそニルベスは、リーネを失った痛みを心の奥に抱きながら生きてきた。――その生き方は間違ってはいないはずだと信じて。
《私がリーネを殺したわ》
「――!」
その時、瑞希から告げられた事実にニルベスはその目に一瞬確かな憎悪と怒りを浮かべる。
しかし、まるでその感情に心を委ねることを拒むように、視線を逸らしてそれを収めたニルベスは自分に言い聞かせるように口を開く。
「……踏み絵だろう? 魔界王か誰かに強制された」
瑞希が愛梨のことを好意的に思っていないことはニルベスたちは分かっていた。
九世界の側にいることと先ほどの言葉から、瑞希が自分たちを魔界に売ったことも想像はつく。
そして、瑞希がリーネを殺めたのも、十世界の味方ではないことを証明し、十世界への退路を断つためのもの――罪という名の罰であることも分かる。
しかしその結果もたらされた悲劇は、ニルベスにとって――否、姫にとっても忘れることができるはずもない結末だった。愛する人を失い、戦意のない者達を多く失ってしまった
それでも、その痛みを理由に世界を否定することはしない。全てを肯定し、誰もを許し、そして世界から争いと悲劇を取り去る――それこそが、愛梨の願いであり、そしてリーネが求めたものであると信じているから
《冷静なのね。もう少し感情を露にすると思っていたのだけれど……あなたは間違っていないわ。怒り狂ったところで死んだ人は帰ってこないし、何も変わりはしない――精々気が晴れる程度かしらね》
そんなニルベスの心に届く瑞希の声は、感情の籠らない冷ややかで冷たいもの。しかし、ニルベスの心に宿った怒りの火を消すどこか、油を注ぐようにその意識の中で残響する
愛する者を殺められた者に対して、淡々と向けられる他人事のような響きは、忘れえぬ痛みを思い起こさせ、そして否応なく喪失の痛みが思い起こされていく
《けれど――あなたのそれは間違っていないというだけでしかない》
「――……」
心に響く瑞希の声に、「間違っていないことは正しいことではない」というその意図を読み取ったニルベスは、その眉間に皺を寄せる
愛する者を失った痛みのまま、憎悪に狂うことは決して正しいことではないだろう。かといって、死んだものは死んだと割り切ることも難しい。
心に刻まれる痛みは、その人を愛した想いに比例する。
誰もが人を愛し、誰もが異なる人を愛する。
愛するものを守るために誰かの愛するものを奪い、誰かが痛みを抱え込む。
失うことを望むものなどいない。
それでも誰もが愛するもののために刃を構えてしまう――それは、心を持ち、命があるがゆえに生じてしまう矛盾だ。
姫が十世界に願ったのは、そんな矛盾を断ち切る世界。
そして愛梨と志を同じくするニルベスは、己が痛みの全てを背負い、誰かをその痛みから救うために戦うことを決めた。
《あの天使の子ほど、怒り狂えとまでは言わないわ。けれど、もしそんな理由でその痛みを忘れられるのだとしたら、あなたがリーネに向けていた愛情は――》
あの天使――そう言って、先程言葉を交わしたアリアを思い起こさせた瑞希は、一拍の間を置いて冷ややかに言い放つ
《気のせいだったのかもしれないわね》
「――っ!」
《反論があるなら、いつでも私を殺しに来なさい》
目を見開いたニルベスの意識に、瑞希の冷ややかな声が浴びせられる。それは、ニルベスを誘う瑞希の罠であり、それに従うことはある意味で十世界――姫の理念を忠臣が否定することをも意味している
リーネへの想いも、姫への忠誠も偽りではない。だからこそ、その二つの想いの間で板挟みになったニルベスは、時空の門を開くかつての同胞の姿をただ見送ることしかできなかった
※
「アスティナ様……っ」
アリアが一瞬で飛び去ったのを見たアイリスは、その目的地――妖精界王城にいる自分たちの王を案じ、空間を超える扉を開く
「すみません! 城へ戻ります!」
アイリスの言葉を聞いた大貴は、アリアが自分へと向けた言葉を思い返して、その声に答える
「俺も行く。どうやら、俺も呼ばれたみたいだからな」
「ありがとうございます」
大貴の言葉にアイリスが感謝の言葉を述べると、十枚の白翼を広げたリリーナが、この混乱の中でも響く透明な声でそれに続く
「無論、私達も参ります」
リリーナ、そしてグレイシアを筆頭とする妖精界王に仕える精霊達が応じる中、ライルが声を上げ、自身が率いる月天の精霊達に檄を飛ばす
「我らも行くぞ。アスティナ様に何かあっては一大事だ」
「くそ……っ」
次々と妖精界王城へと続く空間転移の扉が空中開くのを見て苦々しく声を発したクロスに視線を向け、マリアはその表情を曇らせる
クロスとマリアは、アリアがウェンディをどれだけ慕っていたのかも知っている。だからこそ、その暴走にも似た行動を内心で否定しながらも、非難しきることができない
英知の樹に入ってまで、蒐集神を探し続けていたアリアを止めることはできないかもしれない。それでも、クロスとマリアはアリアとウェンディ、そしてその命と想いを斬り捨てることはできなかった
「くそ……っ、俺たちも追うぞ」
「はい!」
アリアのためにその目的を阻み、できるならば思いとどまらせたいと考えているクロスの声に、マリアは同意の声を返す
《シャロット、クーウェン、ドルク》
(ニルベス様)
その頃、精霊力に乗せて意識に届けられたニルベスの声に、シャロット、クーウェン、ドルクをはじめとする十世界に所属する精霊達が各々の反応を返す
《先に、妖精界王城へ向かってくれ。俺も後から行く》
消沈しているのか、迷いがあるのか――思念に届くニルベス声に普段の覇気のない事を感じ取りながらも、シャロットはその命に従って静かに応じる
「……はい」
それに続き、十世界の精霊達が空間転移の門を開いていく中、空中に一人佇むニルベスは、自身の心の中にあるリーネと愛梨、そしてアリアと瑞希の言葉を思い返しながら黄昏れた表情で天を仰ぐ
「俺は……どうすればいいんだ、リーネ」
※
「……行ったようだな」
「はい」
天を埋め尽くしていた全霊命達が一通り転移し、先程までの戦いが嘘のように静けさを取り戻したのを見届けたロードの言葉に、撫子がわずかに憂いを帯びた淑声で応じる
その声に視線を向けたロードは、普段慈愛に満ちた清楚で淑やかな笑みを浮かべている撫子の傾城傾国の美貌が翳っているのを見て、わずかに目を細める
「〝例のもの〟は渡したか?」
撫子の憂いの理由を知っているロードがそれとなく声をかけると、その隣に淑やかに咲いていた大和撫子は、その目を伏せて小さく答える
「はい。せめてあれが、桜さんにとって幸のあるものであればよいのですが……」
「妹思いだな」
労わるような優しい口調でロードが言うと、撫子は何もなくなった空に戻し、そこにかけがえのない実妹――桜の姿を幻視して、その花弁のような唇から旋律のように美しい声を紡ぐ
「――桜さんは、本当に綺麗になっていて、見ているだけで心の底から神魔さんを慕っているのだと分かりました」
永い時を経て再会した桜は一人の女性として美しく、魅力的な人物に成長していた。その立ち振る舞いや一挙手一投足から感じられるのは、ただ上辺だけのものではなく神魔という最愛の人への想いと、満たされた幸福から生まれるもの
神魔をよく知っている撫子は、神魔にならば桜を安心して預けられると思っているし、二人の関係を心の底から祝福し、その幸福を心から祈っていた
だが、だからこそ撫子は、神魔と桜を想ってその心を痛める
「ですが、だからこそ……何も言えませんでした」
薄い紅に彩られた唇を軽く引き結び、その柳眉をひそめた撫子は沈痛な面持ちで静かに言うと、その視線をロードに向ける
「やはり、まだ神魔さんを殺めないのですね」
「ああ。まだ早い」
桜が神魔をどれほど慕っているかを分かっているからこそ、神魔を殺すが来ると分かっているが故にその美貌を憂いに翳らせる撫子に、ロードはその表情を崩すことなく淡々とした声音で応じる
「そうですか……もう、手遅れだと分かってはいるのですが、桜さんがどれほど心を痛めるのかと思うと……」
桜は神魔を心から愛している。――ほんの少し言葉を交わしただけで、ありありとそれが伝わってきたからこそ、撫子は最愛の人を失う妹の悲しみを想い、その運命にどうしようもなく心を痛める
「だとしても神魔は生かしておくわけにはいかない。今はまだ、器として未完成だが、時が満ちればあいつには死んでもらう――そうしなければ、この世界に次はないんだからな」
「……はい」
自分を気遣いながらも、神魔を生かすという選択肢を選ぶことが許されないことを告げるロードの言葉に、撫子は静かに応じる
その瞬間、二人の背後の時空が歪み、そこに二人の人物が顕現する。
一人は朱桃色の髪を揺らす平和の慈母「理想郷」。
そしてもう一人は、理想郷と同じ神の眷属――戦乙女を思わせる霊衣に身を包む神庭騎士の一人――「シルヴィア」だった。
二人が背後に現れたことに気付きながらも、それを意にも介さずその視線をここにはいない神魔へと向けたロードは粛々と言葉を紡いでいく
「何しろあいつは、この世界に存在してはならないもの。存在するだけで世界を滅ぼす――」
「『世界を滅ぼすもの』だからな」