復讐天使
《逃げて》
悲痛なその声は、未だ脳裏にこびりついて離れない。大切な人を守れない自身の無力、全てを奪われ、失う恐怖――それは消えることなく魂に刻み付けられている。
(やっと、やっとこの時が来た……!)
失ってから、今日までの日々を――待ちわびた今日までの日々を思い返した天使の少女――「アリア」は、自身の光力が戦う形として顕現した杖の武器を手に、純白の翼で世界を切り裂く。
「蒐集神!」
先端に大きな宝珠を持つステッキに近い形状の杖を手にしたアリアは、憎き仇の名を呼んで戦場を神速の光となって貫く。
金色の髪は活動的な印象を受けるショートカットにされており、左右の横髪だけが胸元にまで伸びている。
その金色の髪をたたえる側道部には、翼とも扇状とも白い装飾が翼のように広がっている。
全霊命特有の整った顔立ちに、強い意志を宿した大きな目を持ったその容貌は大人になりきれない少女を彷彿とさせ、袖がなく、丈の短いチャイナドレスを思わせる衣の上に、着物地の袈裟のような羽衣が翻る霊衣が、その動きに合わせてはためく。
「アリア!」
その天使の少女――「アリア」に向けてクロスが声をかけるが、それを受けた当人は聞こえているはずのその声に一瞥も向けずに、一直線に蒐集神に向かっていく。
「……誰だ?」
十字剣の刃から神能の残滓たる火花を散らせる剣王が、意識を買向けると、その刃を大剣で受け止めている蒐集神は、小さく口元に笑みを刻む。
「この光力、覚えがあるな。確か――」
蒐集神は、これまでに自身のコレクションに加えた者達――特異型の武器や神器を持つ全霊命の名前や手に入れた経緯を全て記憶している。
無論、その時に関わった人物がいればその人物も記憶しているのは必定。
もっとも全霊命としての記憶力があればこその話であり、気にも留めないような相手ならば「ああそういえばいたな」くらいのものにすぎないが。
「あの様子を見る限り、どうせお前に身内や恋人を奪われた奴だろう?」
「あァ。『ウェンディ』の妹だな」
辟易した様子で言った剣王の言葉に蒐集神は小さく肩を竦めると、その手に持つ本に軽く意識を傾ける。
「――っ!」
瞬間、自身へと向かって来た煌めく純白の光をその武器である杖で相殺し防いだアリアは、その光の残滓に目を瞠る。
「この光力……」
場を支配するあまりにも強大な神の力――「蒐集神」と「剣王」によって知覚が塗りつぶされていたために気付かなかったが、その攻撃を受けたアリアにはその光力の持ち主が誰なのか瞬時に理解できた。
なぜなら、その人物こそがアリアが探し求め、取り戻したいと願い続けていた人だったのだから。
「――お姉ちゃん……!」
それと同時に、相手をしていた神魔と桜の下から離脱したその光力の持ち主がアリアの眼前に立ちはだかって静かにその能面のような美貌を向ける。
後頭部でバレッタの様な髪飾りで止められた腰まで届く軽くウェーブがかかった金色の髪を揺らし、着物と法衣を合わせたような霊衣でその身体を包み込んだその女性は、まるで神の造形を思わせる整った美貌に穏やかで大人びた笑みを湛えていた。
まるで蒐集神に操られているとは思えないほどに澄んだ笑みを浮かべるその女性の背には、三対六枚の純白の翼が広がり、まるで一枚の芸術画のような浮世離れした世界を作り出している。
「――あの二人は……」
その様子を横目で見たリリーナは、それでほぼすべての事情を理解し、蒐集神に奪われた姉と、それを取り戻すためにやってきたアリアの姿にその美貌をわずかに歪め、歌姫として闇の存在からさえ尊ばれるほどの美声で憂いを奏でる。
「あの、マリアさん」
「クロス」
その頃、瑞希の結界の中からそれを見ていた詩織と、クロスと共闘していた大貴がほぼ同時にその姉妹のことを問いかける。
「あっちの髪の短い方の天使がアリア。髪が長い方がアリアの姉のウェンディ。二人とも、俺達とはそれなりの知り合いだ」
その声にクロスが答え、対峙するアリアとウェンディの姿へと視線を向ける中、同様にその説明をしたマリアが結界内にいる詩織に答えると、それを聞いた瑞希が合点が言った様子で独白する。
「なるほど、蒐集神に捕えられた姉を取り戻すために来たのね」
「……はい」
瑞希の言葉にその表情を翳らせたマリアは、かつて姉を蒐集神に目の前で奪われたアリアの姿を思い返して沈痛な面持ちで応じる。
「――!」
それと同時、アリアの前に立ちはだかったウェンディから光力が吹き出し、次の瞬間金色の鎧となってその周囲に顕現する。
ウェンディが展開したのは、光力によって形作られる金色の鎧。
ウェンディの身体の周囲に、まるで付き従うように浮かび、固定されたそれは身体の上部を隠す頭部のついた胸鎧に巨大な剣を持つ右腕と盾を持つ左腕、そしてその腰回りを守護する翼状の腰鎧によって構成されていた。
天空より舞い降りた金色の騎士を彷彿とさせるその姿は、確かに「特異型」と呼ぶにふさわしい形状の武器であり、蒐集神が欲するのも無理がないほどに神々しい美しさをたたえていた。
「懐かしいだろ? ウェンディの武器は俺も気に入ってるんだ」
懐かしい姉と武器を前にして目を瞠ったアリアの意識に割り込んだ蒐集神は、そう言うと同時にその感情を逆撫でするためにわざとそれと同じ武器を顕現させる。
蒐集神の武器である本「回収神」は、全霊命を捉え、その神能の所有権を手に入れ、その神格を蒐集神のものへと変える力を持っている。
そうして手に入れた神能の四形態――「神能」、「全霊命」、「武器」、「霊衣」の全てを自身のものとして行使できるばかりではなく、その神格さえも蒐集神のためのそれに変わる。
すなわち、蒐集神は吸収したものの武器を自身の神位第六位級異端神としての神格に合わせた武器として扱うことができるのだ。
「――っ!」
まるで自分を嘲笑うように蒐集神が顕現させた姉と同じでありながら、別次元の神格を有する黄金の鎧を見たアリアは、今にも唇を噛み切ってしまわんばかりに歯を食いしばり、その身体から純然たる殺意と憎悪にも等しい怒気を孕んだ光力を解き放つ。
「あんたが、お姉ちゃんの力を使わないで!」
あまりの怒りに声を荒げる事もできないほどに激昂したアリアがその身を翻した瞬間、その決定的な隙を見計らっていたかのように、その首筋に黄金の刃が肉薄する。
「ッ!」
蒐集神によって支配されるウェンディがその身体に影のように連れ従える黄金の鎧の腕が放った金色の斬閃が神速で奔り、アリアの細い首へと吸い込まれていく。
しかし、それにかろうじて反応したアリアは、その手に持った杖を一閃させて黄金の鎧が振るう巨大な剣の刃を弾き、その反動を利用してウェンディと距離を取る。
「やめて、お姉ちゃん! 私はお姉ちゃんと戦いたくない!」
光力によって構築された巨大な聖剣の一撃を弾き、防ぎきれなかった衝撃で首筋からわずかに血炎を立ち昇らせるアリアは、自身に無機質な瞳を向けてくるウェンディに訴えるように声をあげる。
一連の流れを見ていなくとも、この周囲の現状を見れば蒐集神に、取り込んだ者を召喚して戦わせる能力があることは想像に難くない。
目の前にいるウェンディは、蒐集神に囚われた姉の魂がその力によって顕現したもの。つまり、ウェンディであってウェンディではない人物であることは推測できる。
(本物のお姉ちゃんの魂は、蒐集神の本の中にある。だから、この身体は壊しても大丈夫――でも、だからって、私にはお姉ちゃんを攻撃するなんてできない……!)
たとえ頭でわかっていても、目の前にいるウェンディから知覚できる光力の波長が、そしてその一挙手一投足が記憶の中にある姉と重なり、アリアは戦意を維持することができない。
蒐集神に対する敵意は消えていないながらも、アリアの目的はあくまでも姉の救出と奪還。
その対象である姉を前にしたアリアは、困惑と動揺を隠せなかった。
《何してる、攻撃しろアリア! それは蒐集神が取り込んだウェンディを顕現させたものだ。
本体は蒐集神の中にあるんだから、それを倒してもウェンディ自身に影響はない!》
(クロス……)
瞬間、神能に乗せた思念を介したクロスの声が脳裏に響くと、アリアは頭の中に響くその声に、意識の中で声を荒げる。
《うるさい! そんなことわかってるよ! でも、そんなの理屈じゃないでしょ……っ》
最初こそ鬱積した感情を解き放つように意識を荒げたアリアだったが、その言葉は後半になるにしたがって覇気を失っていく。
その声音からは、姉を助けたいという自身の願いと、たとえ操られているとしても姉そのものであるその身体を攻撃することに葛藤していることが容易に見て取れた。
「あのシスコンめ」
「……?」
そんなアリアの答えにクロスが「そう言えばこういうやつだった」と言わんばかりに苦々しげに吐き捨てると、それを見た大貴は訝しげに眉を顰め、襲い掛かってきた天使の攻撃をその太刀で防ぐ。
「そんなことしてたら、ウェンディに殺されるぞ……」
アリアの気持ちも分からないではないが、それでは何も解決しないばかりか自身の命さえも危険に晒すことになってしまう。
助けたかった姉の手にかかって命を落としては本末転倒――それどころか、蒐集神に囚われたウェンディに妹殺しの責を負わせてしまうことになるだろう。
(そもそもあいつ、蒐集神に対抗する手はあるのか? まさか、勢いで突っ込んできたんじゃないだろうな)
何よりクロスが憂いているのは、昔から直情的な短絡的なところがあったアリアに、蒐集神に対抗する策があるのかどうかだった。
妖界で堕天使となった「オルク」と再会した際、オルクは「アリアは英知の樹にいった」と言っていた。
蒐集神に奪われたウェンディを取り戻すために、世界中に根を張り、神器を集めている英知の樹を利用しようと考えたのであろうことは想像に難くないが、神器は持ち主を選ぶ。
また、仮に神器の所有者になろうとも、神位第六位に等しい力を持つ蒐集神を斃すためには、神器全体の一%にも満たないという神威級神器が必要になる。
当然、冷静であればアリアにもその程度の常識は理解できるだろうが、蒐集神が見つかったという情報を得れば、感情に任せて突撃してきかねないという一抹の危惧は拭えなかった。
「ぁうっ!」
そして、そのクロスの懸念は見事に的中している。アリアは未だ蒐集神に対抗するだけの力を有しておらず、ただ姉を取り戻したい一心でここにやってきたのだ。
「やめて、お姉ちゃん!」
(私は、こんなことしている場合じゃないのに……っ!)
黄金の鎧を纏ったウェンディの斬閃をかろうじて凌ぎ、空中で体勢を立て直したアリアは自分に向けて放たれる純白の光の雨を光力を纏わせた杖で相殺しながら、声が届くはずのない姉に声を向ける。
英知の樹に所属しているメンバーは、世界を超えて意識を疎通させる力を持った神器「通神界路」と、その使い手である堕天使「カトレア」を擁している。
司法神の界厳令によって、蒐集神が逃げたことを知り、鼎からの通信でこの妖精界に現れたことを知ったからこそ、アリアは一目散にこの場へと駆けつけた。
(もし、あいつがまた捕まったら……お姉ちゃんを助ける機会がもう来ないかもしれない……っ!)
アリアとて、自身が蒐集神に対する何の策も有していないことなど百も承知。それが無謀というよりも自滅に近しい蛮行であることも誰に言われずとも分かっている。
仮に今自分が蒐集神に戦いを挑んでも、神の力の前では神以外の力はどれだけ集まろうと、どんな策を弄しても無力。ただただ成す術もなくその命を奪われるだけだろう。
しかし、それでも尚アリアがここへ来たのは――否、来ざるを得なかったのは姉を救いたいという一心に突き動かされたからだ。
理想郷に抑え込まれている間の蒐集神は、理想郷の能力によって作られた仮初の世界結界の中に閉じ込められており、神位第六位以上の力を持つ者でなければ知覚も外部から干渉もできない。
加えて蒐集神が取り込んだ者達を解放させるための条件や方法は今のところ不明。
おそらく蒐集神の意志でならば解放させられるだろうが、蒐集の神が一度手に入れたものを簡単に手放すとは思えない。
かといってを殺せば共に回収された者達まで一緒に消滅してしまう可能性さえある。
故にアリアは是が非でも、一刻も早く、たとえ何の手立てがなくとも姉を救うために蒐集神の許へと来てしまっていた。
(私は――っ)
黄金の鎧を携えたウェンディの攻撃をかろうじて捌くアリアは、姉自身でありながら姉ではないその力と姿に葛藤しつつ、ぶつかり合う光力が砕け散り、世界に溶けていく純白の明滅の中から自身が倒すべき本当の敵へと視線を移す。
そうして視線を動かしたアリアの目に映ったのは、ウェンディと同じ黄金の鎧を操り剣王と刃を交えている憎き仇の姿。
この場で最も大きな二つの力の片割れである以上、知覚でそれは分かっていたが改めて視覚でそれを捉えれば、姉のそれと寸分違わぬ形状の武器でありながら、蒐集神としての神能を纏い神の武器と化したそれは、奪われた姉そのもの――魂を磔にされて弄ばれる姉の憐れな姿でしかなかった。
「あんたが……」
それを見た瞬間、ウェンディによってかき乱されていたアリアの怒りが再燃し、激情となってこみあげてくる。
「あんたが、お姉ちゃんの武器を使わないで――ッ!」
声を上げ、その怒りと力の矛先を本来向けるべき相手に向けようとしたその瞬間、アリアはウェンディの金色の鎧が放った神速の斬閃が肉迫していることを知覚する。
(しま……っ)
世界の法則を超越し、自身の力こそを唯一無二絶対不変の理として放たれた光力の斬撃が自身に迫り、今まさにその刃が自身を捉える刹那にアリアが目を瞠った瞬間、黄金の鎧が不意に横から加わった強い力によって弾き飛ばされる。
「っ!」
黄金の鎧に叩き付けられた力が轟音と共に大気を揺らし、錐揉み状に吹き飛ばされるウェンディの姿を見たアリアに、それを行った人物が声をかける。
「ようやく追いついた……ったく。とんだじゃじゃ馬だな」
間一髪のところで割り込んできたのは、文字に似た紋様が書かれた金色の包帯に似た布をバンダナのようにその漆黒の髪に纏わせた緋色の瞳を持つ青年。
全霊命特有の均整の取れた浮世離れした左右対称の大人びた顔立ちに、髪に絡みつくそれに似た金色の布をマフラーのように肩にかけた漆黒の霊衣を身に纏ったその人物の存在そのものである神能――「魔力」は、その人物が悪魔であることを雄弁に物語っていた。
その手には濃紫色の刀身に金色に彩られた刃を持つ身の丈を超える大剣と、同型の両刃の剣。二つで一つ、二刀一対の武器を携えたその人物は、アリアに視線を向けてわずかに口端を吊り上げる。
「『ジェノバ』!」
その人物――ジェノバは、まるで自分が来るとは予想していなかったように目を瞠るアリアを一瞥すると、肩ごしに静かに声を向ける。
元々ジェノバは、アリアと同じく英知の樹に所属し、界厳令が発せられるまでは共に行動していたパートナーとも相棒とも取れる関係にある。
アリアがここに来れたように、カトレアの通神界路による通信を受けることができたジェノバならば、その情報からここへ来ることは難しいことではない。
「だいじょ――ぐほォ!?」
間一髪のところで割り込み、アリアを守ったジェノバが「大丈夫か」と尋ねようとしたその言葉は、全て発せられる前に苦悶の声にとって変わられてしまう。
その声を遮ったのは、アリアの一撃。その武器である杖の石突で容赦なく脇腹を抉るように衝かれたジェノバが、全く予期していなかった衝撃に悶絶していると、その一撃を放った当人からの声が耳朶を叩く。
「お姉ちゃんに酷いことしないで!」
操られているとはいえ、ウェンディの神能そのものである姉に容赦なく攻撃を加えたジェノバにアリアが抗議の声を向ける。
「ちょ、おま……これはいくらなんでも理不尽だろ!?」
「わかってる! でも……」
まさか助けたはずの味方から反撃を受けるとは思っていなかったジェノバが脇腹の痛みに身悶えながらその仕打ちに反論すると、アリアは自身の行動を反省しながら、しかし抑えきれない感情を噛み殺す。
だが、アリアとて自分の行動がいかにジェノバに対して不適切なものであるのかは理解している。
それでも、蒐集神に奪われた姉がこれ以上傷つけられる姿を見ていることはできなかった。
「……まぁ、本気じゃないだけましだろ」
「なによ、それ」
さすがに味方に全力を出してはいないアリアに、ジェノバが皮肉混じりに攻撃を受けた部分を摩りながら言うと、アリアはそれに張り裂けそうな胸の痛みを感じさせる声で応じる。
蒐集神に姉を捕えられたアリアの気持ちは、ジェノバにもある程度察することはできる。全霊命にとって命そのものである武器や身体をいいように扱われるなど、その身内や関係の深いものにとっては許しがたいものだ。
だからこそ、それ以上アリアを責めることはないし、その心情を慮って嫌味にも似た言葉で少しだけ気を遣ったりもしているのだから。
「でも、お礼は言っておくから……ありがと」
そして、アリアは自分を慰め、励ましてくれようとするジェノバの素っ気ない言葉の真意を理解し、謝罪と共に深い感謝の念を抱いていた。
自分達は名目上行動を共にしているが、仲間というわけでもなく、特に深いつながりがあるわけでもない。究極的に言えば、自分を見捨ててもジェノバにはなんの不利益も生じない。
それであるにも関わらず、蒐集神――神位第六位に等しい力を持つ存在がいる場所に、命の保証などないここへ来てくれたこと。
ただそのことにアリアは心から嬉しさを覚え、感謝を覚えずにはいられなかった。
「……」
そんな感情を悟られまいと、わざと遠回りな口調で謝意を示したアリアは、唇を尖らせながらわずかに赤らんだ顔を隠すように視線を逸らす。
そんな素直とも素直でないとも取れるアリアの姿に嘆息したジェノバは、その視線を戦場へと移し、左腕を失って血炎を上げながらも次々に敵を葬っていく鼎を横目で見る。
(鼎……フレイザードの懐刀の一人か。まぁ、あっちは俺たちみたいな下っ端の事なんて知らないだろうけどな)
英知の樹は、十世界と比肩されるほどに強大な力を持つ組織。
必然的にその構成人数もそれに見合ったものであり、個人で私兵ともいうべき別勢力を有している者もいるために、実際の規模はおそらく誰も把握し切れていない。
そして、何より英知の樹が十世界と決定的に違うのは、「組織」であるということ。
十世界の者達も、それをさして組織と表現するが、十世界そのものは盟主である「奏姫・愛梨」の許に集った者達ばかりであり、組織というよりも奏姫の取り巻きと言った方が適切な集団だ。
その結果、十世界の面々はある程度組織の面子を把握しているが、英知の樹に所属している者達は、関係のあるメンバー以外に面識がない。
鼎のように組織の上層に位置する者なら組織内で知られているが、それ以外のメンバーのことなど分からないのが実情だ。
「ところでジェノバ。一つお願いを聞いてほしいの」
自分達が同じ組織のものだとは知らないであろう鼎にしばし意識を傾けていたジェノバに、アリアの真摯な声が届く。
「なんだ?」
その声に視線を向けたジェノバの目に、真正面を向いたアリアが強い意志を宿した真剣な眼差しを向けてくる。
「力を貸して。蒐集神の呪縛からお姉ちゃんを助けたいの」
「――!」
(この匂い……)
ウェンディと全く同じでありながら、自身の力にふさわしい神の武器と化した金色の鎧を纏い、剣王と斬撃と神能の火花を散らせていた蒐集神は、瞬間その鼻をわずかに動かして目を細める。
金色の鎧だけではなく、本の中に取り込んだ全霊命達の武器を同時に使いこなす蒐集神が自身の周囲に顕現させた無数の槍を放つと、剣王はそれをたった一本の剣で弾く。
「もうやめろ、蒐集神! 我らの武器は自身の魂そのもの。それを自身の享楽のために奪い、ただの好奇心で振り回すお前の行為は、全霊命達の魂を弄ぶことだというのが分からないのか!」
「ハッ、んな説教なんて聞く耳持つかよ!」
剣王の言葉を鼻で笑い飛ばした蒐集神は、金色の鎧の剣に加え、自身の手にも漆黒の大刀を顕現させる。
「俺は、俺が欲しいもんを手に入れるんだ!」
神に等しい蒐集の神能を纏わせた金鎧と漆黒の大刀による二重の斬撃を叩き付けられた剣王は、それを自身の魂そのものであるたった一振りの十字剣で防いで、その瞳のない目を細める。
「やはり、お前には姫の想いは届かないのか……!」
無数の武器を自在に持ち替え、同時に複数行使する蒐集神の圧倒的な戦力に微塵も怯むことなく対峙する剣王は、その陰から飛び出した黒槍を回避し、天空から飛来したチャクラムを弾く。
「届いてるさ。ただ、共感はできないっていうだけのことだ!」
余裕さえ感じられる体捌きと剣術によって自身の攻撃をことごとく防がれる蒐集神は、それに口端を吊り上げて笑いながら、しかしその意識の半分を目の前の戦の神の欠片ではない別の人物に向けて小さく舌なめずりをする。
「クク……」
「?」
刃を合わせるたび、互いの力をぶつけ合い、相殺し、吹き荒れる力の渦の中で蒐集神がその口元に不意いに笑みを浮かべたのを見た剣王は、訝しげに眉をひそめる。
しかし、剣王がその笑みの理由に思案を巡らせるほどの暇もなく自身に向かって放たれた金と黒の神速の斬撃を十字剣で防ぐ。
「そういうことなら、念には念を入れるとするか」
刃が生み出す神能の火花を瞳に映す蒐集神は、刃越しに対面している剣王の耳にさえ届かないほどの小さな声で独白する。
それを合図とするように、その手に収められた漆黒の本から、異端なる蒐集の神の力がまるで心臓の鼓動のように脈動した。
※
「みなさん、急いで撤退を……」
純白の光の結界によって蒐集神に操られる天使と悪魔の軍勢から、九世界、大貴達はもちろん十世界に属する者達までもを守りながら、聞くだけで心が安らぎ、雪ぎ清められる聖声を響かせるリリーナが、十枚の翼を羽ばたかせて天を舞う。
戦場の中にあって戦う者達の心を救う声を持つが故に自然と、そして誰もがその声を愛するが故に必然的に場を統一していた天界の姫に従って全員が互いを補いながらゆっくりと移動していく。
(いける。このままなら……!)
操られているとはいえ――あるいは、蒐集神が操っている天使と悪魔の達の寸分たがわぬ力に苦戦させられながらも、決して押し切られることなく戦線を維持したまま後退していく中で大貴は心の片隅で小さく安堵する。
知覚を焼く蒐集神と剣王の力。魂を押しつぶすようなその圧力はこの場にいる全霊命達に少なくない負担を強いている。
リリーナの神声によって気力を保ち、ここからの一刻も早い離脱と生存を目的とする者達が、心のどこかでこのまま安全に離れることができると思い始めた瞬間、そんな甘い考えを一瞬で打ち消す強大な力がその知覚を呑み込んだ。
「――ッ!?」
その力に全員が視線を向ける中、蒐集神が召還した天使と悪魔の軍勢がその形を失い、神能の塊となってその存在の根幹たる魂が封じられた場所――本の中へと帰っていく。
「なんだ?」
突然のことにわずかに動揺が広がる中、全員を本の中に回収した蒐集神は、小さく口端を吊り上げて再びその力を解放する。
「来い。ウェンディ」
「な……ッ!?」
その瞬間、その場にいた誰もが目を瞠り、蒐集神の上空に顕現した三対六枚の翼を持つ金色の髪の天使――「ウェンディ」を見て息を呑む。
姿も、その存在の顕現である武器もその形状そのものは何一つ変わっていない。しかし、その身から放たれる力は、その神々しさを遥かに増し、神位第六位にさえ匹敵するほどのそれとなっていたのだ。
ただの天使でしかないウェンディが、神威級の神器を使うことなく神に等しい力を得る。
その事実と、そこから放たれる、神の領域に届いたことで神聖さがさらに高まり、まるで世界の全てを白く浄化せんばかりに感じられる光力に、その場にいる全員がまるであてられたかのように身動きが取れずにいた。
「――っ」
(武器を自分に合わせて顕現させられるなら、確かにできても不思議ではない。だがまさか、こんな馬鹿げたことができるとは……!)
蒐集神が顕現させた神と化したウェンディを見た剣王は、目を瞠って驚愕と戦慄を覚えながら苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
これまで蒐集神は、取り込んだ者の武器を自分のそれとして使っていた。
つまりそれは、本来なら自分よりはるかに劣る天使や悪魔の神格で生み出された武器を、神である自分のそれに合わせて顕在化することができるということ。
それを考えれば、先ほどまで生み出して全霊命達のように、それを自身の神格に合わせて顕現させることも合点がいく。
とはいえ、神が神を生み出す――その事実と突きつけられた現実に驚愕を禁じ得ない。
「――ぐ……ッ!」
そして、その一瞬――ほんの刹那にも満たない空白が命取りだった。神の力を得て顕現したウェンディに一瞬気を取られた剣王に、金色の鎧の斬閃が撃ち込まれ、そのままその身体が地平線の彼方へと吹き飛ばされる。
「感謝しろよ。姉の手で死ねるんだ」
「――!」
不敵な笑みを浮かべた蒐集神の言葉に続くように、魂と肉体が等しい全霊命だからこそ放つことができる純然たる殺意が、その力を染め上げてその場にいる全員を呑み込む。
(これが、本当の神の力……!)
そのあまりに強大な力を知覚した瞬間、この場にいる全員が瞬間で自身の滅びを認識してその身体を硬直させる
そもそもこれまで蒐集神と剣王は本気で殺意を放っていなかった。
なぜなら、蒐集神の目的はこの場にある神器と気に入った者を回収することであり、剣王はそれをさせずに逃がすために戦っていたからだ。
以前会ったことのある同格の存在――「悪意を振りまくもの」の一人「セウ・イーク」が放った力も、自身との核の差を思い知らせる玉夫のただの戯れ程度のものでしかない。
(今まで、俺たちへの影響を抑えてたのか……!)
その力を知覚しながら、大貴は不敵な笑みを湛えて佇む蒐集神とウェンディの力に苦悶の表情を浮かべ、竦んで自由がきかない身体へと視線を落とす。
(こ、この感覚はあの時と同じ……)
その神の力の圧力の中、自身の身体に一瞬ノイズが奔ったような乱れを感じた大貴は、その感覚にかつて感じた同じものを思い起こしていた。
それは、まだ大貴が人間であった頃、初めて遭遇した全霊命が放つ神能の力に晒された時に感じたもの。
自身よりもはるかな高みにいる存在に対する根源からの畏怖と恐怖。そしてそれは、その気配だけで――その存在を晒すだけで滅ぼす絶対的上位者の「格」の力。
今まさに自分達が、神としての蒐集神とウェンディの存在を前に、ただそれだけでその身を滅ぼされようとしているのだと理解した大貴は、懸命に意志を保って周囲に意識を巡らせる。
全霊命の力である神能は意志によって世界に顕現する力。
心を強く持てば自身の存在を維持することはできる――無論それは、自分達とは隔絶した次元にある神の力の前では風前の灯火のようなものでしかないことは十分に分かっているのだが。
それでも自身を奮い立たせ、真の神力の中で視線を巡らせた大貴は、自分と同様にこの場を満たす力の威圧に抗う者達を見る。
(姉貴……)
神魔やクロス、マリア、瑞希など、中でも親しい者を中心に視線を巡らせていた大貴の目が、瑞希の結界の中で倒れている詩織の姿を捉える。
全霊命でさえ存在を滅ぼされようとしているこの力の威圧の中、半霊命の中でも最弱の存在であるゆりかごに人間が耐えられるはずはない。
かろうじて瑞希の結界にマリアとアイリスが結界を重ね掛けすることでその命を守ってくれてはいるが、すでに詩織からは意識が抜け落ちてしまっていた。
「大切な、大切なお宝達だ。万が一のことがあっちゃいけないからなァ」
その耳に届く蒐集神の声が、この存在を滅ぼす力の圧力が蒐集神によって調整されたものであることを否応なく理解させられる。
剣王との戦っている最中に同じことをしては、うっかり加減を間違えて手に入れるべき宝を破壊してしまう可能性があったこと、そしてこの場にいる全員の武器などを確認するために、足止めを回収した天使と悪魔と戦わされていた。
今この状況が蒐集神によって作られた状況であることに気付かされた大貴は、自由が利かなくなった身体を震わせる。
(く、そ……っ)
唇を噛みしめた大貴は、気を緩めれば自身の存在を分解されかねない力の圧力の中、その左右非対称色の瞳で蒐集神を睨み付ける。
「『蒐集』」
そんな中、自身の存在が戦うために形を取った本型の武器を手にした蒐集神が厳かな声で言葉を唱えると、まるでそれに答えるように黒光を放つ。
蒐集神の意志を体現した本型の武器が、白紙のページを開いた瞬間、そこから漆黒の腕が現れ、八方へと伸びていく。
「!」
(あの手、ヤバい!)
まるで冥府に引きずり込もうとしているようなその黒い腕は、蒐集神の手。
これに囚われ、本に取り込まれれば自分が蒐集神のコレクションに加えられることになる。
見ただけでそれを理解した大貴は、その漆黒の腕に恐怖を覚えながら、自身に向かってきているそれから逃れようと神の力に当てられて萎縮している自身の身体と魂を叱咤する。
(くそ、動け……っ)
本から伸びる蒐集神の回収の手は、大貴だけではなく詩織、リリーナ、桜、撫子、鼎、ジェノバ、そしてマリアへと迫っていく。
そしてその手は、蒐集神が定めた目標を捉え、本の中へと取り込んでコレクションへと加える――はずだった。
「……っ!?」
漆黒の腕が目標に到達しようとした瞬間、それはまるで霧が晴れるように霧散し、その残骸が形を失って空に溶けていく。
それと同時に、世界を清浄な力が包み込み、蒐集神の神格が放つ威圧によって生じていた存在への圧迫が消失する。
「これは……」
蒐集神が発する力を浄化した力の波動を上書きした力を知覚し、大貴をはじめとしたその場にいる全員が視線を上げる。
「……もう追いついてきやがったか」
そんな中、射抜くような視線で天を仰ぎ、その姿を剣呑に細めた視界に収めた蒐集神は小さな舌打ちと共に苦々しげに吐き捨てる。
「あれは……」
そこにいたのは、着物と司祭を合わせた様な霊衣を纏い、腰まで届く朱桃色の髪を黒のリボンで三つ編みのように束ねた女性。
幻想的な美貌は慈愛に満ちた穏やかな面差しをたたえ、そこに浮かぶ聖母のような包容力を感じさせる微笑は見るだけで心が洗われ、安らぎの中に誘うような清らかな優しさを与えてくれる。
「『理想郷』……!」
その場にいる全員の視線を集め、意識を向けられる朱桃色の髪の美女――「理想郷」を嫌悪感に満ちた声で呼んだ蒐集神の声は、静寂に満たされた空の中に、まるで世界に知らしめるようにその名を反響させるのだった。