花の姉妹
《実はわたくしには、姉が一人いるのですが、その姉がとても綺麗な黒髪なんです。わたくしにとって姉は、心から尊敬する人でしたから……》
詩織の脳裏に甦って来るのは、かつて桜から聞いた言葉の一端
突如現れた漆黒の髪を持つ絶世の美女――神魔が「撫子」と呼び、桜が「お姉さん」と呼んだその人物の後ろ姿を見ながら、詩織はその姿に内心で息を呑む
(この人が、桜さんの……)
腰まで届く癖のない艶やかな黒髪を風に遊ばせるその女性は、その髪に鮮やかに映える白の着物と羽織を纏い、淑やかで慎ましくありながら、凛々しくまるで一輪の花のように佇んでいる
桜の姉というだけあってその身に纏う雰囲気は慈愛に満ち、神々しいほどの美貌を以ってそこに佇む黒髪の美女――撫子は、そこに存在するだけでこの戦場の荒んだ空気を心和むものに変えてしまっているようにさえ思えた
「桜の……」
「お姉さん?」
同じように神魔と桜の言葉を聞いていたクロスとマリアが驚愕を露にした様子で黒髪を揺らしている傾城傾国の大和撫子を見る
(確かに、雰囲気とかよく似てるな)
桜と撫子――まさに大和撫子と呼ぶにふさわしい淑やかで奥ゆかしく慎ましい存在感と立ち振る舞いを見せる二人を傍らで見比べる大貴は、その魔力の類似などから内心で得心しつつ会話に耳を傾ける
「綺麗になりましたね、桜さん。見違えてしまいましたよ」
鼎との戦いで傷ついた桜を見た撫子は、一瞬その柳眉をしかめると自分に注がれる妹の視線に優しくその表情を綻ばせる
「やはり生きていらしたのですね、お姉さん……」
優しい声音で紡がれた撫子の言葉に、桜は感極まった様子で悠久の時を経て再会した姉に視線を向ける
「これまで、何度も思念通話を送ったのに届かなくて……ですが、神魔様からあなたの事を伺って生きているのだと信じておりました」
再会した姉の姿に喜びと安堵の表情を浮かべ、しかし今日まで連絡もなかった姉を心の底から案じていた桜は、その表情を二つの感情に染める
涙を零しても、外気に触れた瞬間、それは神能へと分解されてしまうため桜の表情は感情で色づいた花の様な美しさだけをたたえていた
桜と撫子は、二人の両親である「久遠」と「涅槃」が同じ五大皇魔である「ゼノン」に殺された時以来、生き別れの状態になっていた。
思念通話も届かず、もはやその生存を絶望ししていた桜は、しかし何の因果かあるいは運命か――撫子と縁のある神魔と結ばれたことで、その過去に姉に酷似した人物がいることを知り、その生存の希望を抱き続けていたのだ
「神魔様ですか……やはり、わたくしたちは姉妹ですね」
これまでずっと思念の言葉を受け入れずにいた残酷で冷酷な自分のことを、今でも昔と変わらず慕ってくれる桜にその表情を綻ばせた撫子は、愛おしい妹と真正面から向き合ってその象徴ともいえる桜色の髪を優しく撫でる
「ごめんなさいね、桜さん」
時の隔たりや思いの距離など存在していなかったように、ただの姉と妹となって接する撫子と桜は、洗練された飾らないながらも気品に満ちた女性としての美しさを纏って、二人の世界を作り出していた
桜と撫子が持つ近寄りがたいほどの清楚さと、ずっと傍らにいてほしいと思うような穏やかで心休まる癒し、そしてその貞淑な佇まいが見せる慎ましやかな色香が調和して昇華した大和撫子姉妹は、異性はもちろんのこと同性や敵でさえも見惚れるほどの神々しさを携えていた
「神魔さんも、少し見ない間に立派になられましたね」
しばし桜と視線を交わしていた撫子は、その視線を神魔に向けて、包容力と慈愛に満ちた優しい微笑を向ける
「撫子さん……」
桜に撫子が実の姉かもしれないと聞いてから、何度も思念通話を試みたが、しかしそれが通じずにいたために、これは神魔にとっても懐かしき邂逅だった
「なんで、今までどれだけ意識を飛ばしても何の反応もなかったのに、どうして今になって――って、撫子さんがいるってことは……」
「神魔様?」
これまで一切連絡が取れなかった――意図的にこちらから接触を図られることを拒否していた撫子が突如その姿を見せたことに疑問を禁じ得なかった神魔がその表情を引き攣らせると、それを見た桜が怪訝そうに視線を向ける
「随分と、情けない姿だな神魔」
そして、神魔がそのことに思い至った瞬間、まるでタイミングを見計らっていたかのように、男性の声が落胆と嘲りの色を孕んで届く
「――っ、ロ、ロードさん」
その声に苦虫を噛み潰したような、不機嫌さを露にした表情を見せた神魔は、その金色の視線を声が向けられた方へと向ける
そこにいたのは、身長百八十センチメートルほどの長身を着物に似た黒い霊衣に包み、その上に首周りを純白のファーが覆うコートと陣羽織を合わせた様な白の縁取りがされた漆黒の羽織を身に纏う男性。
腰にまで届く漆黒の髪に、額と側頭部から伸びた計三本の漆黒の角と神々しいほどの金色の瞳。自身のそれとほぼ同じ角度で天を衝く角のような漆黒の肩鎧に、羽織の左右を繋ぐように白地に黒の分厚いマフラーを靡かせているその男は、知性と野性味が同居する整った顔立ちに静かな感情をたたえて佇んでいた
「まったく、だらしない弟子を持ったものだ」
「僕はあなたの弟子じゃないですけど?」
肩を竦めてわざとらしくため息をつき、辟易とした口調で言うロードに神魔はその目に抗議と拒絶の色を宿して冷ややかに応じる
「オイオイ、そんな口聞いていいのか? 死にかけてたお前を助けて、戦い方からなにから面倒を見てやったのが誰だったか忘れたのか?」
「僕がお世話になったのは撫子さんで、あなたじゃありませんから」
冷ややかに応じた神魔の抗議も意に介した様子も見せず、ロードはいつものように反抗的なその姿に苦笑を向ける
「ばーか。撫子が世話したってことは、俺が世話したのと同じだろ」
「全然違います。馬鹿はそっちですー」
まるで子供のような言い争いを始めた神魔とロードに、先ほどまで張りつめていた場の空気がどこか奇妙な色を帯びる中、それを見ていた撫子は口元を手で隠しておしとやかに微笑む
「ふふ、お二人は相変わらず仲がいいですね」
「違う」
「違います」
その言葉にロードと神魔が声を揃えて反論するが、撫子はそんな言葉さえも微笑ましく感じているのか微笑を浮かべて応じる
(珍しいな。神魔がこんなに顔に出すなんて……)
一方、そんなやりとりを見ていた大貴は、これまでほとんど見たことがないような神魔の姿に内心で驚嘆していた
そしてそれは大貴だけにとどまらず、クロスとマリア、瑞希も同様に程度の差はあれど目を瞠り、そしてアイリスとシャロットはこの緊迫した状況の中でみせるそのどこか気の抜けたやり取りに呆気にとられてさえいる
(あの人、ちょっと神魔さんに似てる……?)
一方その中で、間一髪のところを撫子に救われた詩織は、まるで子供の様な言い争いをしている二人を見ながら、「ロード」と呼ばれた人物にどこか神魔に似た雰囲気を感じ取って漠然とそんな印象を抱く
永遠の寿命と常に最盛期を維持する神能があるため、歳を重ねても老いたり衰えたりすることのない全霊命には無意味なものではあるが、詩織の感覚では、外見の印象だけで言うならば、神魔は二十代と言ったところ。
ロードも同じかもう少し年上――二十代後半から三十程度といった印象だが、神魔は少しだけあどけなさを残した顔立ちをしているのに対して、ロードにはそういうものはほとんどない
言い方を変えれば、少々童顔気味な神魔とは違い、ロードはそこから幼さを取り除いたような完成された大人の男といった印象と存在感を持っている――もっとも、外見から受ける印象はという話であり、内面が必ずしもそれに比例しているとも限らないのだが
「あのお姉さん……そのお方が……」
神魔と口論を交わすロードを見た桜は、その様子を微笑ましげに見つめている姉の姿を見て、恐る恐る問いかける
桜は、神魔から過去の話として自身が世話になった人――撫子のことを聞いている。ならば、必然的に行動を共にしていたこの人物のことも聞いていて然るべきだった
話には聞いていた人物を前にした桜が、恐らく間違いないと思いながらも、念のために確認の声を向けると、それを受けた撫子は、わずかに頬を赤らめて淑やかに微笑む
「ええ。神魔さんから聞いていると思いますが、わたくしが――きゃっ」
頬をわずかに赤らめながら軽くその手でロードを指示し、紹介の言葉を紡ごうとした撫子だったが、それは不意に横から差し伸べられた腕に抱き寄せられることで可憐な声に変わる
「撫子の旦那の『ロード』だ」
横から撫子の細い腰に手を回して抱き寄せたロードは、「旦那の」の部分を強調して、初対面となる桜を見据えて口端を吊り上げる
「ロ、ロード様……」
抱き寄せられた伴侶の腕の中でその身をしなだれかけるように委ねる撫子は、人前で抱擁を交わすことに対する恥じらいと、愛する人に抱き寄せられている喜びから頬を恥らいに染めてロードを恨めしそうに見上げる
「だろ?」
しかし、ロードに伴侶の手が漆黒の髪を優しくすくように撫でられながら声をかけられると、その表情を愛おしげに緩めて薄い紅で彩られた花弁のような唇を綻ばせる
癖のない艶やかな漆黒の髪は、愛撫するロードの指の間を春風のように優しく通り抜け、花の様な甘く優しい香りを残していく
「――ぁ……っ」
あのまま言葉を続けていれば、撫子は桜に「わたくしがお仕えさせていただいているロード様」――あるいは、それに近い謙虚な言葉で桜にロードを紹介していただろう
それを察していたかは不明だが、自分を伴侶として自慢してくれているような言葉を聞いた撫子は、それが自身へ向けられたロードの偽りのない心であることを感じて、幸福のあまり無意識に表情が綻んでしまうことを止められなかった
「……はい」
「――……」
(ってか、この状況でイチャつくか普通?)
そのやり取りを半目で見ている鼎は、いつの間にか完全に蚊帳の外になっている自身に一抹の哀愁を覚えながら、内心で呆れ果てる
一応は自分は神眼を奪いに来た刺客であり、本来ならば相応の危機感を以って対応されて然るべき存在であるはず
もしここで攻撃を加えても撃退するだけの自信があるのか、あるいはそれ以外の理由からなのかは分からないが、いずれにしても鼎は予想だにしない展開に思わず立ち呆けていた
だが、鼎が立ち呆けているのは、それだけが理由ではない。
ロードに自身の全てを委ねてしなだれかかっている撫子は、愛する人の温もりと手で黒髪を梳かれる愛撫に愛おしげに目を細めている
触れることさえ躊躇われるほどに神々しい美しさを持つ撫子が愛情によって解きほぐされ、それを微塵も損なうことなく花のそれを思わせる甘い蜜香を薫らせるその姿は、その場にいる全員の意識をさらってしまっていた
「――……」
ただ抱擁を交わしているだけだというのに、ロードと撫子が醸し出すそんな空気に、詩織は思わず生唾を呑んでしまう
このまま見ていてはいけないような居たたまれなさと、この先を見たいという願望がその胸中でひしめき合うその感覚は、さながら触れてはならない秘事を解き明かしているような背徳的で甘美なものに満ち満ちていた
(相変わらずだな、ロードさん)
そしてその様子を、おそらくこの場にいる中で最も冷静かつ冷ややかに見ている神魔は、懐古の念と既視感にかられながら内心で辟易したため息をつく
一時期ロードと撫子と行動を共にしていた神魔は、二人がこうして愛の蜜事を交わす瞬間を嫌というほど見ている――というよりも、ロードが半ば見せつけられていたのだ
無論、一定以上の行為を見せることはなかったが、まるで自慢の宝物を見せつけるように撫子という絶世の美女との関係を見せつけてくるロードの姿は神魔の脳裏に今でもはっきりと焼き付いている
「ご丁寧にありがとうございます。わたくしは、桜と申します。姉がいつもお世話になっております」
同性さえも魅了してしまうほどに艶めかしい色香を纏い愛おしさに満ちた表情を浮かべている姉の様子をわずかに頬を紅潮させて見ていた桜は、ふと我に帰って居住まいをただし、淑やかな所作でロードに恭しく一礼する
そうしてロードとの初対面の挨拶を交わした桜は、芍薬のように淑凛とした佇まいで、その視線をロードの腕に抱き寄せられ、頬を赤らめながらその愛撫に身を任せている撫子へ向ける
周囲の目を気にして恥じらいながらも、それ以上に最愛の伴侶の寵愛を受ける喜びにその傾城傾国の美貌を愛慕の情に彩っている撫子を見る桜は、その姿に自身と神魔とを重ねて幻視し、そして久しぶりに再会した姉の幸福をまるで自分の事の様に喜びを抱く祝福していた
「――っ!」
そうして姉妹で視線を交わしていた桜は、次の瞬間、不意に頬に添えられた手に目を瞠り、いつの間にか手の届くところに移動しているロードの姿を見て目を瞠る
(いつの間に……)
「なるほど、話には聞いていたが撫子の妹か。やはりお前の妹だけあっていい女だな」
「ありがとうございます」
軽く頤に手を添えて視線を交錯させたロードは、驚きに目を瞠っている桜にその口元を綻ばせて囁きかける
抱擁をほどかれた撫子は、肩ごしに向けられたロードの視線と桜への賛辞に、淑然とした佇まいで軽く目礼する
「どうだ? 神魔なんかやめて、俺の女にならないか?」
「あ、あの……」
一定の節度を守り距離感を保っているためか、不思議と恐怖や嫌悪感を感じさせないロードの言葉を受けた桜は、自身へとまっすぐ向けられるどこか神魔に面差しの似た男の金色の視線に、かすかに震える声を紡ぐ
しかしそれは、決してロードに一瞬でも心揺れたからではない。その視線の先――ロードの背後で、全霊の殺意を大槍刀の刃に纏わせた神魔が、それを振り上げて今にも振り下ろそうとしていたからだ
「おっと」
そしてその瞬間、純然たる殺意を纏った漆黒の魔力が神速の斬撃として放たれ、ロードはそれを危なげなく回避して軽い口調でからかうように言う
「オイオイ、危ないだろ。本気で殺しに来るなよ」
「なんのことですか?」
微塵も危機感を抱いていないと分かる表情で言うロードに、神魔は冗談や戯れとは思えない殺意に満ちた穏やかな笑みを浮かべて、大槍刀を握る手に力を込めて逆袈裟に斬り上げる
しかし、それを実力の差を見せつけるように軽々と回避してみせるロードは、神魔の姿を見てさらにからかうように言葉を向ける
「照れるな、照れるな。お義兄様って呼んでもいいんだぞ?」
「絶ッ対に嫌だ!!!」
ロードの言葉に、さらに不機嫌な表情を浮かべた神魔は、知己の仲にある人物に向けているとは思えないほどの純然たる殺意に満ちた魔力を纏わせた大槍刀を神速の速さで振るった
「あ、あの……」
漆黒の魔力を纏わせた斬撃を放つ神魔と、それを回避するロード――その様子を大貴達が目を点にして見ている中、さしもの桜も静観を決め込むことができず、「止めなくてもいいのですか?」と隣にいる撫子に伺い立てる
神魔と伴侶としてそれなりに長く生活してきたはずの自分でさえも初めて視る光景に、桜が動揺を浮かべるのを見た撫子は、そんな妹を安心させるように慈愛に満ちた美笑を返す
「大丈夫ですよ、この程度は日常茶飯事でしたから」
桜は初見であっても、神魔とロードと暮らしていた撫子はこんなやり取りを見てきている。
そのため、周囲が目を丸くするこのような光景にも動じることなく、懐古の念を覚えて思わず表情を綻ばせてしまっていた
そもそも神魔のこんな姿を桜が見たことが無いのは、そんな状態にならなかったからに過ぎない。いかに心は許しているとはいえ、神魔と桜の性格を考えれば、このような形で感情を表現する必要性に迫られるようなことがなかったという程度の事。
加えて基本的に穏やかな性格であることもあるが、神魔はそもそも簡単に他人に心を許すようなタイプではないこともその理由の一つと言える
心を許したその上で、桜や撫子とは違い、ロードのようにその想いを「力」という形で向ける相手――というよりも必要性がなかったに過ぎないのだ
「ですが……」
そう言われても、さすがに不安を隠せずにいる桜へと視線を向けた撫子は、自身にとっては懐かしい光景に過ぎないロードと神魔のやり取りへと視線を戻して、その様子を不安げに見ている妹に淑やかに微笑みかける
「心配せずとも、ロード様と神魔さんは本当のご兄弟以上に仲がよいのですよ。現にほら――」
その声に桜の視線が向けられたのを見て取った撫子は、自身の胸にそっと手を添えて、その美貌を花のように綻ばせる
「女性の好みは全く同じです」
「――ぁ」
その言葉に桜は小さく目を瞠り、自身に微笑みかけている撫子の視線に誘われるように、自分達姉妹が心の底から愛する人――神魔とロードを見る
「はい……それに、わたくしたちの殿方の好みも、ですよね」
「ええ」
神魔とロードの姿を見て愛おしそうに噛みしめる桜の言葉に、撫子は美笑を以って応じ、その視線を自分たちの伴侶に向けたまま話しかける
「まさかあなたと神魔さんが伴侶になるとは思いませんでしたが、桜さんが幸せそうで嬉しいです――それに、彼になら安心してあなたを任せられます」
(この言葉は、わたくしが言うようなことではないのでしょうが)
両親の死と同時に生き別れて以来、これまで姉らしいことなど何一つしてこなかった撫子は、心の中で自分にそんな言葉を言う資格がないことを噛みしめながら、それでも最愛の妹の愛を心から祝福していた
神魔と別れて以来、これまで幾度となくかけられてきた思念通話に撫子は答えなかった。とある手段によって、神魔と桜の動向を把握できていたにも関わらず、だ
思念通話は、伴侶でない限り世界を超えて繋がらないため、ロードと共に世界を移動していたことがその理由の一つではあるが、無論そればかりが理由ではない
今の撫子には伴侶であるロードと共に成すべきことがある。そしてそのためには、神魔と桜に接触を図るわけにはいかなかったのだ
「はい」
その美貌の下にこれまで孤独にしていた罪悪感を抱きながら目を伏せる撫子の胸中をある程度察しながら、しかし桜は微塵もそれを責めることなくその言葉に応じる
撫子のことを良く知っている桜は、今日まで姉が音信不通だったことにはなにか理由があるのだと分かっている
それが何なのかは分からないが、今はそれを問いただすよりも、久しぶりの再会の感傷に浸り、ただの姉妹として過ごしていたいという願いが勝っていた
そして何よりも、撫子と離れていた時間桜はただ孤独だったわけではない。桜にはそんな孤独を補って余りある――否、それ以上に心を満たしてくれていたものがあるのだから
「大切に……」
その目に自身の全てと言っても過言ではない最愛の人――神魔を見つめる桜は、その目を愛おしさに細めながら、思い出を噛みしめるように言葉を紡ぐ
そんな桜の胸中に去来するのは、いつまで経っても色あせず、まるで昨日のことのように思い出すことができる神魔と過ごした日々。
出会い、心を通わせ、愛し合い――そして共に過ごしてきた今日までを振り返りながら、桜はその心を満たす思いを撫子に慈愛に満ちた笑みと共に向ける
「大切にしていただいておりますから」
「――っ」
撫子に淑やかに微笑みかける桜の表情が、神魔への純然たる愛情に染まり、神魔のことを考えるだけで幸せに満たされていることを物語っていた
そんな桜の様子を瑞希の結界の中から見ていた詩織は、その隔絶した美貌に浮かぶ幸福の色に、刺すような胸の痛みと共にその表情を曇らせる
「――……」
(マジかよ、俺のこと完全に無視してやがる)
そんなやり取りの傍ら、脱力しきったどこかだらしのない佇まいでその様子を呆然と見ていた鼎は、自分が完全に蚊帳の外になっていることに内心で驚愕し、盛大にため息をついてかったるそうに声を発する
「オーイ、そろそろいいかぁ?」
どちらかといえば元来怠惰で非好戦的な性格の鼎だったが、さすがにこれ以上神眼を手に入れるのを先送りにするわけにはいかない
一応は神器を手に入れる意思のある鼎が自分を無視していた者達に痺れを切らせて声をかけると、それを聞いたロードがその口端をわずかに吊り上げて口火を切る
「なんだ、待っててくれるとは律儀な奴だな」
「まァな……っていうか、突然来たあんたらは一体何者だ?」
どこかからかうように向けられたロードの言葉を受けた鼎は、小さく肩を竦めると、苦笑交じりにその視線を突然の闖入者達に向ける
ここまで鼎が神魔とロード達のやり取りに対して静観を決め込んでいたのは、本人の怠惰な性格と自分を無視して内輪の争いを始められたことに対する困惑が原因だが、それに、自身の神器である「神測証」に対する絶対の自信があることもその要因の一つ。
たとえロードと撫子――二人の闖入者がたとえ何者であっても、神眼を入手することができるという確信に近い自信に裏打ちされたもの。
しかし、そんな鼎の自信と優位性を正しく理解した上で、ロードはそんなことなど意にも介さず、気にもかけずその問いかけに律儀に答える
「俺たちか? まあ、こいつらの保護者ってところだな」
「保護者……ねぇ」
まるで緊迫感を感じていないのか、軽く答えたロードの言葉に肩を竦めた鼎は、身の丈の二倍はある刀剣の切っ先を二人に向けて魔力を解放する
「まあ、別に構わないけどよ。――ちょっとばかり手間が増えたってだけのことだ」
この世界と界離した別の世界に自身の存在を位相させる神器「神測証」がある限り、先ほどのように効果を発揮できない状況で不意打を受けなければ自分に攻撃は当たらない
自身の持つ神器の力を正しく理解し、勝利の確信さえ抱いている鼎は、頬の傷を軽く一撫でするとその視線を長刀剣の切っ先と共にロードと撫子に向ける
(確かに……あいつの神器がある以上、正面から戦っても勝ち目は限りなくゼロに近い。一体どうする気だ……?)
先ほどまでの空気が一転、臨戦態勢に入った鼎の魔力によって研ぎ澄まされていくのを感じながら、大貴はその左右非対称色の瞳で戦場を見回す
先ほどのやり取りから考えて、鼎の持つ神器「神測証」は、自分単体にしかその効果を及ぼさない――つまり、自分ないしはその神能によって構築されているものと接触している際にその能力が発言しないという制限があるらしいことを推測できる
詩織と接触していたために能力を使えず、撫子の不意打ちの斬撃を受けたことからその推測はおそらく正しいが、しかしそれを見抜かれた鼎がそのような隙を作ってくれるとも思えなかった
「撫子、ここはお前に任せる」
しかし、その瞬間紡がれたこの場にいるほぼ全員の考えを裏切るロードの宣告に、大貴達はもちろん鼎さえも驚愕を露にする
「な――っ!?」
一対一で限りなく不利だと分かっている相手――しかも神器を使う相手にたった一人で戦うことを事も無げに言ったロードの神経は到底普通とは思えない
しかし、そんなロードの言葉を受けた撫子はそれに微塵の動揺や驚愕を浮かべることもなく、楚々とした表情であくまでも淑やかに応じる
「はい」
さも「問題ありません」と言わんばかりに答えた撫子の声を受けたロードは、辟易した様子でその視線を明後日の方向へ向ける
「俺は今戦う気分じゃない――なにしろ、無粋な野次馬共がいるみたいだからな」
「――っ!?」
そのロードが向けた視線は、その場にいた者達――大貴はもちろん、神魔やクロスをはじめとした一行に加え、アイリス達精霊、果ては鼎でさえ意図を理解できないものだった
しかし、その視線は確実にその場にいない者達に対して恐怖と戦慄を刻み付けていたことを大貴たちは知らない
※
視界に映っていたロードが自分の方を見据え、その金色の瞳を抱く目に意味深な光が宿ったのを見て取ったその人物は、驚愕のあまり目を見開いて仰け反る
「こっちを見た!? まさか、僕に気付いたって言うのか!?」
目を瞠り、動揺と困惑を露にしたのはニット帽を思わせる帽子をかぶり、オペラグラスを手にした少年――円卓の神座№2反逆神・アークエネミーの力に列なる存在「悪意を振りまくもの」が一角「傍観者」。
その名の通り傍観――世界の事柄を遠くから見ている存在であるアノンが、自身の神である反逆神が敵対する唯一の存在である光魔神に興味を持ち、観察しているのはある意味で必然と言える行動だった
事実これまでもアノンはその傍観者としての能力と、卑しい野次馬根性を丸出しにして大貴達はもちろん、世界の様々な所を見ていたのだ
「そんな馬鹿な!? ただの悪魔が神片の僕を見つけるなんて……」
そして、ロードの視線を受けたアノンが自身に向けられたその金色の視線に驚愕し、動揺を見せたのは必然ともいえる当然のことだった
何故なら反逆神の力に列なる十の眷属は全員が「神片」――即ち、神位第六位以上の力を有した存在だ
何の比喩でもなく、神に等しいその力を持つ傍観者たる自分を、ただの全霊命に過ぎない男が見つけたのだから、その驚愕は計り知れないものがある
(まさか、神器使い? けど、あいつから感じられる力確かに悪魔の魔力なのに――)
狼狽を抑えるように、心中で考えを巡らせるアノンは、再びその手に持つオペラグラスを覗き込み、すでに関心がないように黒髪の美女の後ろ姿を眺めている黒髪の男を見据える
(あいつ、何者なんだ……?)
※
「……まさか、私に気付いたというの? ただの悪魔が、夢に!?」
同時刻、ロードの視線を送られたレヴェリーは、英知の樹の本拠地の中で動揺を禁じえずにその柳眉をひそめる
「夢」そのものであるレヴェリーは、自身の意識を夢として大貴――自分達の目的である光魔神へと向けていた。そして夢そのものである夢想神は、通常の全霊命の知覚で捉えることができない
だからこそ、レヴェリーは夢の神であり神位第五位に相当する神格を有する自分を正確に知覚したロードに対して只ならぬものを感じ取っていた
ロードから知覚できる神能は、間違いなく悪魔の魔力。つまりロードは、何の変哲もない原在――神から最初に生まれた全霊命以降の世代の存在であるという世界にあるまじき事実が、レヴェリーの戦慄を加速させていた
(――いえ、一つだけあるわね。ただの悪魔が私を知覚する術が)
一瞬だけ動揺を浮かべたレヴェリーだが、すぐさまその意識を落ち着けると自身の知識の中からそれを可能にする選択肢に思い至る
普通の悪魔に夢の神を知覚することはできない。にも関わらず、その人物がその不可能を実現しているのだとすれば、考えられる可能性は一つしかなかった
(あいつの背後に、私の存在を教えることができる神がいる――!)
※
当事者たちのあずかり知らぬところで傍観者達が動揺していることなど微塵も知る由もなく、撫子はロードへの全幅の信頼を以ってその言葉に応え、身の丈ほどもある槍を携えた淑やかで凛々しい佇まいで鼎と対峙していた
「あんた、一人で俺に勝てると思ってるのか? こう見えても、俺は英知の樹の中でも特に強い神器使いの一人なんだぜ? まぁ、強いのは俺じゃなくて神器の方なんだけどな」
その絶世の美貌に穏やかで慈愛に満ちた美笑を携えたまま佇む撫子を見た鼎は、まるで世間話をするように苦笑交じりに語りかける
武器を手に佇んでいる撫子は怯えを隠しているようにも、強がっているようにも見えない。つまり、本気で自分と単身で刃を交える意思があるということだと鼎は正しく推察していた
しかし、位相存在の神器である「神測証」を有する鼎は、英知の樹が有する神器使いの中でも有数の実力者であることも事実
自分は攻撃を受けないが、こちらから相手に攻撃を加えることができるこの神器を有す以上、自身の勝利が揺るぎないものであることを半ば自負している鼎には、侮られているようにもみえるその行動に対する怒りなどより、面倒臭いといわんばかりの感情を見て取ることができた
「いえ。神器に選ばれ、その能力を行使できるのもあなたの才覚――実力の内でしょう」
「そりゃどうも」
後半を自虐的な事実――自分が強いのは神器の力によるものだと皮肉を交えて語った鼎の言葉に、撫子はその淑然としたたたずまいを崩さずに、微笑を以って応じる
「わたくしは、なんの勝算や対抗手段も持たずに神器使いと一対一で戦うなどということを了承するつもりはございませんよ?
ロード様がわたくしにあなたの相手をするように命じられたのは、わたくしならばそれができるということを信じてくださっているからです」
「――!」
淑やかな微笑を崩すことなく紡がれた撫子の言葉に、どこか気乗りがしなさそうにしていた鼎の表情がわずかに強張る
(まさか、この女……)
神器が誰にでも行使できるものではない以上、それに選ばれ、その能力を行使できるのは間違いなく本人の才覚によるもの。
仮に誰もが使える神器であったとしても、それを手に入れているということはそれなりの実力や運があってのことだと取ることもできる
故に撫子は、神器を使えるという鼎の実力と才能を否定することはしない。そして何より、ロードは勝ち目の名に戦いを撫子に強いるような人物ではない。
できると思ってくれているからこそ、この場を任せてもらっているという絶対的な信頼が撫子にはあった
「さて、神魔さん、桜さん、それと光魔神様方」
鼎から視線をわずかに逸らし、背後にいる神魔と桜をはじめとする面々に意識を向けた撫子は、淑やかな声で言葉を紡ぐ
「神器を相手にするには、三つの手段しかありません」
「三つ?」
打てば響くように大貴から返された疑問の声に、撫子は美笑を浮かべて清流のように澄んだ声でそれに答える言葉を奏でていく
「一つは逃げること、二つ目はその神器の特性を見極め、その隙をついて倒すことです」
「……!」
二つ目を言うと同時に場の空気が変わったのを感じ取った撫子は、当然自分の言葉を鼎が聞いていることも考慮に入れている
「欠片に過ぎないとはいえ、神器の力は神の力であり、その能力は絶大です。ですが、その力は完全無欠ではなく、絶対無敵というわけでもありません。
たとえば、彼の神器には自分以外に効果を及ぼせない効果対象の制限に加え、おそらく発動時間にも制限があります。そうでなれば、その力を常時発動させていればよいのですから」
「――!」
撫子の言葉に、大貴達はもちろん鼎までもがその表情を硬くする。それは、撫子の言葉が間違っていないことを証明しているようなものだった
撫子は、神魔達との戦いで鼎が見せたわずかな戦闘から、その神器――神測証の能力をほぼ正確に推測し、推察していた
もしも神測証の能力を永続的に発動することができるのならば、常時その力を発現させていればいい。存在の位相をずらすことができるその力を以ってすれば、まさに無敵というだけの力を発揮できるだろう
しかし、実際には鼎はそうしなかった。こまめに発動を制御し、自身の存在を常に位相の彼方へずらすようなことしていない。――それが意味する最も高い可能性は、それをすることに対するデメリットが存在するからだと考えるのは妥当だ
そして、事実その推測は間違っていない。神の能力の一片であり、その劣化版ともいえる神器は、神の能力ほどの全能性を有しておらず、何かしらの欠点を有しているのは九世界ではよく知られていることだ
そして神測証の制限は、自身の力で構築されたもの――使用者の神能で構築されたものしか位相をずらすことができないことと、撫子が予想した通り、発動時間、連続発動には一定の間を置く必要があること。
精々十秒しか位相をずらしていられないが、あまりにも強力な神測証の力を考えれば妥当な制限であり、そして光をも超え、距離を無にする神速で戦闘を行う全霊命にとっては十分すぎるほどでもある
「神器の力は確かに強大です。ですが、そのあまりに強大な力に冷静さを欠き、判断と思考を止めてしまえば本当に勝機を失ってしまいます」
淑凛とした声音で語りかける撫子の言葉に耳を傾けていた鼎は、その鼻を鳴らすと気怠そうな佇まいを崩さぬまま、嘲るように黒髪の大和撫子に応じる
「理屈は分かるが、口で言うほど簡単なことじゃねぇぜ?」
神器が完全無欠でないことなど、ほとんどのものが知っている常識。そしてその力を正確に把握すれば、神器に対する対処法を想定できるのは自明の理ともいえる
しかし、言うは易し行うは難し。それは口で言うほど簡単なことではない。
神器の力の制限は、決して大きなものではない。むしろ、得られる力から考えれば小さすぎると言っても過言ではないものだ
神測証のそれにしても、相手の攻撃を受けずに自分だけが攻撃できる状況を一定時間維持できる優位性を容易に覆すことなどできるはずはない
すなわち、撫子の言葉は正論であっても暴論でしかない。つまるところ、それができれば世話がないというものにすぎず、そもそもその対処法を正確に見抜くまでに自分が生きていなければ話にならないという前提もある
「そもそもあんたが神測証の能力を見抜くことができたのも、そいつらに戦わせて観察していたからだろ? なにしろ、相手の神器の力を見抜く前に死んだら終わりだからな」
撫子の理論を論破した鼎は、そんなことなど問題ではないと言わんばかりにその論拠を嘲笑と共に破棄する
神器を持つ者にとってすれば、撫子の理論は確かに注意し、警戒するべきものではあっても必要以上に恐れるようなものでもない
むしろ、今回のような事態の方が稀なのだ。通常ならば、相手が神器の制限(弱点)を完全に把握する前に、神の力の欠片が敵対するものの命を刈り取ってしまうのだから
「そうでしょうね――ですが、これができなければ命を落とすだけです。できるかどうかではなく、やらなければならないことなのです」
しかし、そんな鼎の言葉に、撫子はその美貌に静凛な表情をたたえて応えると、まるでその言葉を自身に言い聞かせようとしているかのように静かに目を伏せる
自分の言葉がいかに理不尽で困難なものであるのかは鼎に言われるまでもなく、撫子はもちろん、それを言われた大貴や神魔達にも分かりきっていること
しかし、それに答えた撫子が言ったように、それができなければ命を落としてしまうだけ。できなければ待っているのは死だけだ
「そして、これはこれからの戦いをあなた達が生き残るためには必要不可欠なことです。心に留めておいてくださいね」
自身の言葉を戒めるように言った撫子は、瞼の下に隠していた瞳を肩ごしに大貴達に向けると、まるで花のように可憐な笑みを浮かべて優しく微笑みかける
「――っ!」
撫子の言葉を聞いた大貴達は、その脳裏に人間界で戦った人物――十世界盟主である「奏姫・愛梨」の姿を甦らせていた
十世界盟主である愛梨は、この世で唯一すべての神器を使うことができる人物。そして、神魔たちやクロス達九世界に所属している者たちはもちろん、大貴にとってもこのまま九世界に組していれば、大なり小なり刃を交える可能性がある人物だ
光魔神の力が完全に覚醒すればその限りではないだろうが、現状の大貴にとって神器は脅威だ。ならばそれに対する対抗手段も心得ておく必要があるだろう
「御高説痛み入るよ。だとしても、何もできないなら、意味がないな」
撫子の言葉にため息にも似た息を吐き出した鼎は、これ以上の問答は必要ないと言わんばかりに自身の神器を起動させる
「さァ。今度こそ、神器を渡してもら――」
自身の武器である長刀剣を構え、この世界とは異なる位相の世界の存在となった鼎は、いかなる力も、いかなる攻撃も届かないその身で、再度神眼を奪取しようとしたその瞬間、魂さえも凍てつくような感覚に言葉を呑み込む
まるで凍てつくような感覚――これまで幾度となく感じたことがある本能が鳴らす死の警告を感じた鼎は、その原因である感触に誘われるようにその視線を自身の左後方へと向ける
鼎が見たのは自身の左腕。自身の意識を遮った、「腕を掴まれた感触」に弾かれるように視線を動かした鼎は、そこにあった現実を前にその表情を引き攣らせた
「――ッ!!」
鼎の腕を掴んでいたのは、まるで金属で作られているような腕らしきもの。そしてその先は空間に生じた漆黒の渦とも影ともとれるものに繋がっていた
その漆黒の影――世界を繋ぐ時空の門とは異なる漆黒を凝視する鼎の視界に、その漆黒の中から鬣を思わせる白髪とそれに伴う顔が浮かぶ
「見ィつけた」
影の中から現れた白髪の男は、鋼の腕で掴んだ鼎を見ると、その目と口を三日月形に歪めて歓喜の表情を形作る
「――っ!」
地の底から響くような狂気にも似た歓喜の声を聞いた鼎は、その恐怖にまるで時が凍てついてしまったような錯覚を覚えていた
それは、さながら捕食者に狙いを定められ、喉元に牙を突き立てられた獲物のごとき心情。そしてそれは鼎だけではなく、それを見ていた大貴と詩織――つまり、その人物が誰なのかを知らない者を除く全員も少なからず感じているものだった
「蒐集神……!」
漆黒の影の中に見えたその人物の姿を確認し知覚した神魔達の口から、誰からともなくその存在の名が紡がれていた