撫子繚乱
「く……ッ」
自身の腹部から立ち昇る血炎――傷口から零れた全霊命の身体を構築する神能がその形状を失い、世界に溶けていく形を視界の端の収めながら、シャロットは苦悶の表情を浮かべる。
突然の攻撃を受け、反応できないままに負わされた浅くない傷の痛みに、可能な限り平静な表情で耐えるシャロットは、その後の一撃で負わされた右肩の傷とそこから立ち上っている血炎を視界に収める。
そしてその眼前に身の丈の二倍はあろうかという刀の形状とそれ以上、剣以下の刀身を備えた刀剣を肩に担いで立っている者こそ、シャロットに奇襲を仕掛けた橙色の髪を持つ悪魔だった。
「あの一瞬でいい反応だったな。半殺し程度まで痛めつける予定だったんだが……」
その精悍で野性味を感じさせる相貌に、鋭い狩人のような視線を宿した悪魔は、その橙色の髪の隙間から見える鋭い目でシャロットを見据えてため息混じりに言う。
それは、最初の接触で動きを奪うはずだった獲物――シャロットの思った以上の反応と抵抗を心底煩わしく感じているような声音で、悪く言えば手間が増えて面倒に感じているような声音。しかしシャロットには、そんなことで腹を立てているような余裕はなかった
(無傷……いえ、手応えがなかった?)
先ほどの一瞬、自身の武器である左手甲の弓の一撃で斬撃を迎撃したにも関わらず、自分だけが傷を負い、橙色の髪の男には傷一つない。
それだけならばまだしも、その奇妙な手応えにシャロットは眼前の悪魔に対して言い知れぬ恐怖と警戒心を覚えていた
一撃目で貫かれた腹部と、二撃目で斬り裂かれ、魔力で焼かれた右腕の痛みにその怜悧な美貌を歪めるシャロットは、しかしそんなものなど意識の端へと追いやり、眼前にいる橙色の髪の悪魔を最大級の警戒と敵意を込めた視線で射抜く。
九世界を総べる全霊命の中でも、最も広い知覚範囲を持つ精霊である自分が全く気付くこともできずに接近を許した上、攻撃を受けるまでまったく知覚できなかったこと。
そして先程の一撃で覚えた奇妙な違和感――それだけの事態が揃えば、眼前にいる男が普通の悪魔とは違うと判断し、通常以上の警戒を抱くのは必然だった。
(一体なんなの、こいつは!?)
その異質さはもちろん、その目的など一切が不明の悪魔に内心で毒づいたシャロットの意志に応じるように、左腕を覆う手甲弓から鋼の刃のような尾が奔る。
まるで翅を広げた蜉蝣を思わせる形状になっている腕鎧弓の尾の部分に当たる部分が伸び、鎖のような関節で繋がれた鞭のようにしなって、二又に別れた槍の切っ先を思わせる刃が橙色の髪の悪魔へと向かって空を貫く。
「――! おっと」
弓だと思っていた手甲から放たれた鞭のような神速の一閃を見切っていた橙色の髪の悪魔は、それにわずかにその気怠そうな目を瞠ると、それが自身に届く寸前、手にした刀剣の刃で弾く。
神能によって、全てを滅ぼす概念を付与された神速の鞭が弾かれ、そこに込められた精霊力が全く同質の力を持つ魔力によって打ち消された衝撃が世界を揺らす。
それと同時に神格が纏う滅殺の意志が世界に物理的な現象を引き起こして精霊界の大地を砕く。
「随分と手癖の悪いお嬢さんだな……いや、行儀の悪い武器だって言った方がいいか?」
「生憎と、あなたのような変態に礼を尽くせるほど、私はできた女ではないものでね」
肩を竦めてその目を細めた橙色の髪の悪魔は、冷ややかな口調で答えたシャロットの容赦のない言に苦笑を噛み殺す。
「変態とはまた随分な言い方だな」
「事実でしょう? まったく知覚に捉えられず、不意打ちで人の身体を貫くような悪魔なんて、ただの変態よ」
どこか覇気を感じさせない捉えどころのない飄々とした居住まいにもかかわらず、底知れない存在感を纏っている橙色の髪の悪魔は、その視線を明後日の方向へ向けて思案気な表情を浮かべると、どこか納得したような声で呟く。
「……あながち間違ってないかもな」
傍から見ていれば滑稽とも見えるその姿に、しかしシャロットは微塵も警戒心を緩めず、その右の手甲から矢を生成する。
「へぇ、便利な武器だな」
右手甲からシャロットの精霊力を顕現させて生み出されたそれは、先ほどはなった矢と同じ形態を持ちながらも、それ自体がシャロット自身の身の丈に並ぶほど巨大。
もはや矢ではなく、槍と呼ぶにふさわしいそれを手にしたシャロットの鋭い視線と殺意を受けた橙色の髪の悪魔は、口を丸くして感嘆しているとも小馬鹿にしているとも取れる無気力な声を漏らす
「で?」
「?」
肩に身の丈の倍はある刀剣を担いだ橙色の髪の悪魔の言葉にシャロットが怪訝そうにその柳眉をひそめると、その姿を睥睨していた悪魔は、懇切丁寧に説明するのが煩わしいといった口調で確認の言葉を向ける。
「どのくらい待てばいい? あんたを半殺しにすれば、目的のものが釣れるって聞いてるんだが」
「――ッ!」
(この人、まさか知って……!?)
その言葉に目を瞠ったシャロットが驚愕を露にしてその姿を見据えると、橙色の髪の悪魔は小さくため息を継いで肩に担いでいた刀剣を天高く掲げる。
「返答がないな。もうちょっと痛めつけた方がいいか? 死にたくなかったら急げよ」
感情のこもらない無機質な声で静かにそう言った橙色の髪の悪魔は、天に掲げた刀剣に魔力を纏わせて、腹部と右肩から血炎を立ち昇らせているシャロットに冷ややかな視線を向けた。
※
「捉えた」
その頃、シャロットの身に危機が迫っていることを聞き、大貴達一向と共に月天の精霊王城を離れてその場所へと向かっていたアイリスは、傷ついた親友の力を知覚してその表情を険しくする。
(でもこの位置関係……それに、シャロットの精霊力が弱ってる。このままじゃ……)
九世界を総べる八種の全霊命の中で最も知覚能力に長けた精霊であるがゆえに、この場にいる誰よりも早くシャロットの精霊力を知覚し、その生存を確認したアイリスだったが、それに胸を撫で下ろす暇も無いほど、その切羽詰まった状況に表情を険しくする。
致命傷ではないにしろ、イデアが言っていた通りシャロットは浅くない傷を負っているらしいことが、普段の清廉とした精霊力が弱り、空中に大量に抜け出ていることから推察できる。
そして、その前には武器を天高く掲げた魔力を持つ存在――悪魔がおり、今にもその刃をシャロットに振り下ろそうとしているのを知覚で捉えたアイリスはその場で急停止する。
「アイリス?」
「先に行って!」
突然飛翔を止めて中空に止まったアイリスは、怪訝そうに視線を送ってくる大貴に鋭い声で言い放つと同時に、その手の中に自身の神能――精霊力を呼び出す。
「私は、ここから先制の一撃で時間を稼ぐ」
抑制の利いた鋭い声で言い放ったアイリスの声に応えるように、その手の中に集った精霊力が自身の存在が戦うための姿となった形状――「武器」として顕現する。
「『光白冠』!」
それは、通常鏃が向けられる方向に、まるで盾のように太陽を思わせる紋様が刻まれた金色の円形エンブレムを備えた純白の弓。
白磁を思わせる滑らかな光沢を帯びた白い弓は、優しい曲線を描いており、武器というよりは芸術品のような趣を感じさせる。
自身の神能が戦うための形となった白磁の弓を携えたアイリスがその純白の弓に手を番えると、弓の先端から生じた精霊力が弦を形作り、鏃が向けられる方向にある円盾の紋様を輝かせる。
太陽にも似た円環の紋様が空中に浮かび上がり、その周囲に無数の光の球を創り出したその様は、光輪とも光の王冠のようにも見えた。
引き絞られた精霊力の弦が解き放たれたのと同時、円環の先に生じていた光球が光の矢となって天を奔り、まるで意志があるように空中を縦横無尽に駆け抜けた。
※
時空を超越する無数の神速の光矢は、一般的な悪魔の知覚範囲外から放たれたもの。だが、必然的にその距離が縮まれば、やがてシャロットの傍にいる悪魔も知覚可能な距離に入ることになる。
「――!」
故に、自分に向かって飛来する精霊力の矢を知覚した橙色の髪の悪魔はそれに不敵な笑みを浮かべると、あえてその場を飛び退く。
男からしてみれば、その攻撃を防ぐことも弾くこともできた。それでもそれを回避することを選んだのは、自分で言ったように、そもそもシャロットの命を奪うのが目的ではなかったからだ。
自分向かって神速で世界を貫く精霊力の矢が牽制の意図を持っているのならば、あえてその意志に反してまでその場にとどまっているつもりがなかったともいえる。
しかし、そんな男の怠惰な目論見は飛びずさった男に向かってその軌道を変えた精霊力の矢によって裏切られる。
「!」
(追尾型か……!)
本来、自身の放った神能の砲撃に追尾の特性を加えることはさほど難しいことではない。
自分の神格の及ぶ範囲でならば、その意志に従ってこの世界にあらゆる事象を引き起こすことができる全霊命にとって放った力の波動に「追尾」、「追跡」の特性を付与することは容易だ。
「チッ、面倒くせぇな」
自分に向かってその軌道を変えた光の矢を見て心底辟易した口調で言い放った男は、魔力をまとわせた刀剣の斬撃でその精霊力の矢を相殺する。
しかし、できるからといって、実際に神能の砲撃に「追尾」やそれに類する特性を付与することは極めて珍しい。
無限の力を持ち、その攻撃が神速で放たれる以上、砲撃も追尾するより数で圧倒するか、それを牽制として使い、肉薄してから戦闘に移るなどすれば十分だからだ。
それに加え、仮に近接戦を想定した場合、神能に追尾の意志を注ぎ込んでいる間、攻撃の側の力に影響が出るため、戦闘に支障が出ることから敬遠される傾向にあるのも事実だった。
「――!?」
そんな全霊命の常識では珍しい追尾型の攻撃を煩わしげに斬り捨てた橙色の髪の悪魔は、しかし次の瞬間、驚愕をその表情に張り付ける。
それもそのはず。天空の彼方から飛来した無数の精霊力の矢は、そのうちの数本で男を追尾しつつ、その残りがシャロットの身体に突き刺さっていたのだ。
全霊命が遠距離から攻撃する場合、その照準は知覚によって合わせられる。つまり、この矢を放った人物はその近くで自分の捉え、それを的として矢を放ったはずだ。
それが今の一連のやりとりでシャロットに命中するということは、この矢を放った主は意図的に傷ついた月天の精霊を標的として定めていたということになる。
(……どういうつもりだ?)
精霊力の矢に射抜かれたシャロットに訝しげに視線を送った男だったが、しかしその次の瞬間その疑念は、その光の矢が及ぼした効果によって解消される。
「……これは――」
自分の目の前でシャロットを貫いた精霊力の矢が溶け、その身体に溶けて行くのを知覚で見て取った男は、合点がいったようにその光景を視界に映す。
(癒しの力……それに、守りの力か)
シャロットの身体に、光の矢が溶けて取り込まれると同時、その弱っていた身体が回復の兆しを強めたのを知覚で見て取った男は、その効果に合点がいった様子でその目に剣呑な光を灯す。
「光」の特性である「治癒」を受けると逆効果になってしまう闇の全霊命とは違い、光の全霊命には治癒の力がその甲かを表し、そして光の全霊命には治癒の力がある。
当然それを理解している橙色の髪の悪魔には、目の前で起きていることがなんなのか正しく理解できていた。
「これは……」
(アイリスの)
自分の身体に溶け込んできた精霊力が誰のものかを知覚で捉え、記憶の中にあるアイリスの力を蘇らせるシャロットはその懐かしさにわずかに口端を綻ばせる。
自身の神能を砲撃として放つことができる全霊命が使う弓や銃といった遠距離武器には、通常なにかの特異な力が宿っている。
例えば単純に放出するよりもその威力が上昇する、弓や銃としてではなく剣などの別の武器の能力を兼ね備えている、などがその主たるものだ。
そしてアイリスの武器――白磁の弓である「光白冠」は、放出されるアイリスの精霊力の殺傷力を高めその威力を向上させると同時に、単純な攻撃としてではなく治癒などの力を込めることも可能になる。
アイリスの癒しの力でもその傷は完全には癒えないが、その痛みは和らぎ、何よりも懐かしい力に身が染み込んでくる感覚に、シャロットはその表情を小さく綻ばせる。
懐かしさと変わらない優しさ――その力を持つ者の存在そのものである神能から伝わってくるアイリスの心は、まるで癒しと守護の力を以ってシャロットを包み込み、安堵感を与えてくれる。
なぜなら、この力が届いたということは自分達を知覚できる射程にすでに来ているということなのだから。
「ほう、本当に来たな」
その瞬間、時空を貫いて飛来してくる無数の力を知覚し、橙色の髪の悪魔はその目を細めてそこにいる者たちの姿をその瞳の中に収める。
その視線の先――アイリスの援護射撃に続くように飛来した大貴は、左右非対称色の黒白の翼を広げ、その瞳でこの場にたった一人だけ存在している見知らぬ人物をにらむように見る。
「あいつか……!」
その視線の先にいた人物――その手に自身の身の丈の二倍はあろうかという片刃の長い剣を持ち、額にまるで光を吸収しているのではないかという異質な存在感を持つ漆黒の兜をつけた逆立つ橙色の髪を持つ精悍な顔立ちの悪魔は、その口端を吊り上げてやってきた大貴達を見据えていた。
「……マリア」
クロスに名を呼ばれたマリアは、その求めを正しく理解し純白の四枚翼を翻らせると、シャロットの許へ降り立つ。
「瑞希さん、詩織さんをお願いします」
「……ええ」
同時に、イデアに警戒を促された眼前の悪魔を見据えた桜は、自身が結界で包み込んでいた詩織を瑞希に任せる。
それは、桜が神魔と共に戦うという意思表示であることを分かっている瑞希は、抑制の利いた声で詩織を受け取ると、シャロットとマリアの傍らに降り立つ。
全霊命の力である神能は意志の力。結界を展開したまま戦っては、その双方に意識を向けなければならないためで十全の力を出すことはできない。
詩織を守る瑞希は、戦闘を見届けるためにシャロットとマリアの近くでありながら、橙色の髪の悪魔から最も遠い位置になる場所に移動したのだ。
「あなたたち……」
「そのままで。彼らに任せておけば大丈夫です」
自分を助けに現れた大貴達に意外感を禁じ得ないように目を瞠るシャロットに微笑みかけたマリアは、その傍らに膝をつき、その手から癒しの光を傷ついた月天の精霊に注ぎ込む。
そしてシャロットを治療するマリアを庇うようにしたおりたった大貴、神魔、桜、クロスは、身の丈の倍はある長刃の刀剣を携えて橙色の髪の悪魔と対峙する。
「お前、一体何者だ。なんでシャロットを狙った!?」
各々が自身の存在そのものである武器を顕現させる中、自身の武器である太刀を手にした大貴は、その左右非対称色の瞳で眼前の男に鋭い声を向ける。
「シャロット!」
「……アイリス」
そこに、先生の一撃を放ったアイリスが大貴達にわずかに遅れて到着すると、シャロットは十世界である自分の許に駆けつけてきた面々を見て呆れたようにため息をついて、その瞳に鋭い光を灯す。
「気をつけなさい。彼の狙いはあなたたちよ。それと、まったく知覚できなかったわ――気をつけなさい」
先んじて警戒の要素を簡潔に告げたシャロットの「狙いは自分達」という言葉に、大貴をはじめとする面々が各々怪訝そうな表情を浮かべる。
それを見た橙色の髪の悪魔は、手間が省けたと言わんばかりの不敵な笑みを浮かべると、その肩をわざとらしく竦める。
「あなた達っていうか、お前たちが持っているものだけどな。さすがに精霊王城まで出向いてやらかしたんじゃ、俺でも返り討ちにあっちまうからな」
そう言ってその視線を大貴達の背後――瑞希の結界に守られている詩織に向けた橙色の髪の悪魔の視線に、神魔をはじめとした全員がその意味を理解する。
「しまっ――……」
(目的は神眼か!)
橙色の髪の悪魔の目的を理解した神魔は、それと同時にその手に自身の武器である大槍刀を顕現させると、弾かれるように地を蹴った自分の動きに正確に反応して対応している伴侶に鋭く声をかける。
「桜!」
「はい」
神魔の声でその言わんとしていることを正しく理解した桜は、その手に携える薙刀に夜桜の魔力を纏わせて、命を交換した伴侶の全霊命にのみ許された「力」を発現させる。
「魔力共鳴!」
その魂を好感し、互いに伴侶と繋がっている神魔と桜の魔力が共鳴して増大し、強大な魔力の奔流となって軸感を軋ませる。
世界で最も神に近い神格を持つ神能が、最高の伴侶の共鳴によって増大し、そこに込められた純然たる滅殺の意志によって、世界を滅ぼして余りある力となって二人の武器から放出される。
力が及ぶ対象を制御できなければ、そこに存在しているだけで世界を滅亡へと誘うであろう力と纏わせて肉薄する神魔と桜を全く動じた様子もなく平然とした表情で見据えていた橙色の髪の悪魔は、静かにその口を動かす。
「――『鼎』。英知の樹のもんだ」
橙色の髪の悪魔――「鼎」が自ら名乗った瞬間、そこに共鳴する魔力をまとった大槍刀と薙刀が炸裂し、天を貫く漆黒を生じさせる。
距離など存在していないかのごとき神速は、刹那の介在さえ許さずに鼎に攻撃を炸裂させ、共鳴した神魔と桜の斬撃は確実にその存在を捉えていた。
その一連の流れを知覚で捉えていた誰もが、神魔と桜の斬撃が立ち尽くしていた鼎に命中したのを確認していた。
その存在を構築する神能を読み取ることでその動きを未来視に近い次元で確認できる知覚は、鼎が二人の攻撃を防いだ様子も、回避した様子も読み取らなかった。
「直撃」。――誰もがそう認識していた。
「!」
しかし次の瞬間、そこにいた全員は驚愕を露にして目を瞠る。
「なっ……!?」
放たれた漆黒の斬撃の中、血炎を立ち昇らせてその体勢を崩したのは、攻撃の直撃を受けた鼎ではなく、攻撃を仕掛けたはずの神魔と桜だったのだ。
身の丈の二倍ほどもある刀剣の斬閃によってその身体を斬り裂かれた神魔と桜は、その身体に生じる焼けるような痛み以上に驚愕を露にし、傷一つ負った様子もなく平然と佇んでいる鼎に視線を向ける。
「神魔さん! 桜さん!」
「なんだ、あいつ何をした!?」
攻撃を仕掛けたはずの神魔と桜が血炎を上げるのを見た詩織が結界の中から声をあげるのと同時、知覚を裏切る結末に困惑を隠しきれない大貴が動揺を滲ませた声を荒げる。
「く……ッ!」
その身に想定外の斬撃を受けた神魔は、しかしその動揺に冷静さを損なうことなく、即座に切り返した大槍刀の刃で鼎へ追撃を放つ。
桜と共鳴したことでその力を増している暗黒色の魔力を纏った斬撃が世界を斬滅せんばかりの威力で奔り、そしてただ佇んでいる鼎の身体をすり抜ける。
「……っ!?」
確かに命中したはずの自分の魔力が、まるで存在しないものに攻撃を仕掛けたように空を切ったことに神魔は驚愕を露に目を瞠る。
神魔の――否、この場にいる全員の知覚は、神魔が攻撃を仕掛けた鼎の魔力を捉え、虚像や幻影などではないことを伝えている。
斥候のように知覚で捉えられない存在であろうとそこに存在していることは間違いない。
それが、このようにそこに存在しているにも関わらず、まるでそこに空を切るように攻撃がすり抜けるなど九世界の常識の範疇を超えている。
捉えたはずの攻撃が、避けるでもなく防ぐでもなく空を切る――全霊命の感覚の中で最も鋭く優れている知覚が伝えてくる常識外の事態に、その攻撃を仕掛けた神魔はもちろん、その場にいた誰もが驚愕を隠せなかった。
「……」
神魔の攻撃をただ立ったままでやり過ごした鼎は、その視線を向けると、その鋭い目に苛立ちにも似た感情を宿らせる。
「神魔様!」
その目――初撃を受けてもなお、的確に反撃してきた神魔に煩わしげな視線を向けた鼎が、その身の丈の倍はある長剣で排除しようとしたのを感じ取った桜は、即座にその夜桜の魔力を以って自身の伴侶を後方へ押しのける。
瞬間の判断によって夜桜の壁を作って神魔を守った桜が、同時に最愛の伴侶の身体そのものを後方へ下げて、攻撃の射程から外した瞬間、その魔力の壁を通り抜けて鼎の刃が先ほどまで神魔がいた空間を断絶する。
桜の魔力の壁を貫いたのではなく、まるですり抜けるように通過して空を斬った斬閃は、しかし桜の機転によって身体ごと後方へ移動されていた神魔を捉えることはなかった。
《ありがと、桜》
《いえ、ですが神魔様……》
鼎から目を離さず、思念で感謝の言葉を伝えた神魔に応じた桜は、この一合でその異質な力をおおよそ推察してその美貌に険しい色を浮かべる。
心の中に緊張をはらんで響く桜の声を受けた神魔は、恐らく自分と同じ結論に至っている伴侶の言葉を代弁するように、重々しく口を開く。
「これは、まさか神器の力?」
これまで鼎が見せた力は、悪魔としては考えられないものだ。どれほど強力な力を持つ悪魔だろうと――たとえ、魔王であっても鼎と同じことはできないだろう。
そして、悪魔の能力を超えた力を持っているということは、その原因が存在するということ――そして、その理由として最も可能性が高いのが、神の力の破片である神器であるということは容易に想像がつく。
「その通りだ」
そして、そんな二人の懸念を確信に変え、そして絶望を与えるように、不敵な笑みを浮かべた鼎は、自身の額にある漆黒の兜を親指で指し示す。
「神器『神測証』。世界に神渉する能力を持った神器だ」
「――?」
その言葉に、その能力の意図を測り兼ねた大貴が怪訝そうに眉根を寄せると、鼎は不敵な笑みを浮かべて、それに淡々とした声音で応じる。
「まァ簡潔に説明すれば、この神器を発動している者は、この世界に対して独自の他次元的な干渉ができるってことだ。
ここに存在しているはずなのに存在していない。まるでこの世界を物語として見ているように世界に干渉している俺には、この世界に存在しているお前たちの攻撃は届かない――丁度、本の中で放たれた攻撃が、読み手を傷つけることが無いようにな」
自身の持つ神器の力を、あえて知らしめるように説明した鼎からは、その力――神器「神測証」の能力への絶対的な自信さえも垣間見える。
記憶以外の知識を継承している全霊命には、かつて世界最初の大戦――「創界神争」の中で垣間見た神々の能力についての知識がある。
無論すべての神の能力を網羅しているわけではないが、それでも神の力の欠片である神器はその能力を知られやすい。
故に鼎は自身の神器の能力を隠すより、その圧倒的な能力をあえて示すことで戦意を折ることを目的としていた。
「どういう……?」
鼎の説明に、今一つ要領を得ない様子で眉をひそめた詩織に、詩織を守る結界を展開している瑞希は、静かな声で応じる。
「つまり、彼は私達を自由に攻撃することができるけれど、私達の攻撃は一切彼に届かないということよ」
「そんな、そんなのって……っ」
瑞希の説明に、詩織はそこに続く言葉を発することができずに言葉を詰まらせて、戦慄の張り付いた表情で悠然と佇んでいる鼎を視界に収める。
その傍らで同じように橙色の髪の悪魔を見る瑞希は、その氷麗な表情の中に緊張、あるいは恐怖とも取れる感情を滲ませてその柳眉をひそめる。
(まずいわね。似たような特性を持つ神は、光にも闇にも、異端神にもいて判然としないけれど、見ている限りあの能力は単純な戦闘では限りなく無敵に近い……)
鼎が有する神器、「神測証」は、自身をこの世界とは異なる位相に存在する自分として概念定義することができる。
今この場所に存在していながら、この場所に存在していない神測証の能力者は、まるで読者を本の中の登場人物が認識できないように、全霊命の知覚からさえも完全に逃れることができる。
そして異なる位相に存在するその身がこの現実位相に存在するものからの攻撃を受けるはずもない。
この世界に存在していないものに攻撃が当たらないのは必然であるとはいえ、その神器の使用者からは一方的な干渉を可能とするというその能力は、ある意味において無敵と言っても過言ではないほどの力を有しているのは明らかだった。
「取り乱すな。神の能力ならまだしも、神器自体が神の能力の劣化版だ。つまり、あれが神威級神器でないのなら、無敵ってことはない。発動条件、効果領域、起動時間――どこかに付け入る隙があるはずだ!」
戦意こそ解いていないものの、ただ佇んでいるだけの鼎が発するその存在感に思わず息を呑んだ大貴達を叱咤するようにクロスが声をあげる。
神器は神の力の断片。必然その能力は本物の神とは比べるべくもなく劣化している。
そして、クロスの言うように神器にはその能力の行使に当たって条件や制限がかかるという欠点がある。
鼎が見せた範囲の神測証の能力から判断するに、使用者に神位第六位に匹敵する神格を与え、神に等しい力を与える「神威級」とは思えない。
ならばどこかに欠点や、つけ入る隙があるのは確かだ。
「……まァ、言ってることは分かるけどな」
クロスの言葉に、鼎が同意を示すように嘆息気味に呟いた瞬間、その漆黒の額鎧がまるで目のように開いて瞬時にその存在を世界から消失させる。
自身の存在を世界に対し他次元的に介入させるその力を発動させた鼎は、瞬時にその場にいる全ての者の知覚から消失し、次いで結界に守られた詩織の腕をその手でつかんだ姿で全員の意識に認識される。
「――なっ!?」
(そんな馬鹿な!)
自分が展開していた結界を通り抜け、背後で詩織を捉えている鼎を知覚した瑞希はその表情に驚愕を浮かべる。
「……え?」
自身の手を掴んでいる鼎の姿に、声をあげることもできないほど身を強張らせた詩織は、目を見開き、恐怖のあまりその姿から目を離せなくなってしまっていた。
加えて、今はその身に融合した人間界の超技術――装霊機によって多少軽減されているとはいえ、世界最高位の神格を持つ全霊命が放つ威圧感がその身を竦ませてしまう。
「驚くほどのことじゃねェだろ? 俺を知覚することはできねェし、結界ごときじゃ止められねぇよ」
瑞希が展開していた結界をまるで存在していないかのように通り抜け、詩織を捕まえた鼎は不敵な笑みを浮かべる。
「――ッ!」
それを認識するが早いか、自身の武器である双剣に魔力を纏わせた瑞希が反射的に背を向けている鼎に斬撃を放とうとするが、詩織を捉えていない方の手に顕現させた刀剣の刃が、その身体を貫いていた。
「瑞希さん!」
自身の身体を刀剣で貫かれた瑞希は、その痛みに苦悶の表情を浮かべながら、同時に響いた神魔の声にその意図を察して展開していた魔力の結界が消失させる。
神器の力で結界をすり抜けた鼎と違い、神魔達には瑞希の結界を素通りすることはできない。だからこそ、その援護を受けるために結界を消失させる必要があったのだ。
「じゃあ、もらってくぜ」
しかし、同じ神速を持つ全霊命同士。自分の方が速いことを確信している鼎は、目的を達したことを確定事項として皮肉交じりに言い放つ。
「く……っ!」
(だめだ、間に合わない……!)
詩織の手を掴んだ鼎が浮かべる勝利を確信した表情を見ながら、神魔は自分たちが間に合わないことを知覚で理解して強く歯噛みする。
(また、守れない……)
神魔の脳裏に、かつて守ることを願い、しかし自身の無力から命を落としてしまった風花の姿が呼び起され、今まさに鼎に連れ去られそうになっている詩織と重なる。
まるで生まれ変わりのように、風花とその雰囲気のよく似た詩織がその絶望感を加速させると同時に、詩織自身を守れない己の無力が神魔を苛む。
(い、いや……)
自分の手から伝わってくる鼎の存在を関しながら、詩織は絶対的に格上の存在を前にして竦む身体と麻痺する思考、凍結する魂の中でただ一つ心の底から願う。
このまま鼎に連れ去れてしまえば自分がどうなるのかわからない。最悪命を落としてしまうかもしれない――もう会えなくなってしまうかもしれない。
そんな恐怖に塗りつぶされる詩織は、今その心を支えている人物を強く心に思い浮かべて祈る。
(助けて、神魔さん――!)
それがどれほど許されない想いだったとしても、その心の中に確かに根付いている想いに突き動かされるように詩織は、心の底から強く願う。
その瞬間、漆黒が閃く。
「な――っ!?」
漆黒の閃光が奔り、薄い紫桃色の光を帯びた白刃が自分に肉薄しているのを知覚と視界の端で捉えた鼎は、本能的に生命の危機を感じ取り、詩織の手を離して咄嗟にその場を飛び退く。
「……っ」
自身の本能の警鐘に従い、距離を取った鼎が自身に向けられた刃の主を捉えようと視線を上げた瞬間、その背後から甘く優しい芳香が漂ってくる。
「!」
それに気付いた鼎の視界に再び漆黒の闇が閃き、命を刈り取られる根源的な恐怖が意識を凍てつかせる。
それでもその恐怖の前に硬直せずに咄嗟に身体が動いたのは、これまでに培われた鼎の戦闘経験の賜物であろう。
「……!」
並の悪魔であれば、確実に小さくない傷を負ってきたその斬閃をかろうじて回避した鼎は、自身の頬から立ち上る血炎を一瞥して、その表情を強張らせる。
「……てめぇ、なにもんだ?」
これまで見せていたどこか飄々として無気力な表情からは想像もできないほど険しい感情を露にした鼎は、自身に攻撃を仕掛けてきた相手を睨み付け、そこに咲く一輪の花を見た。
「なんで、ここに……っ!?」
「そんな、あなたは……」
神魔と桜が驚愕に目を見開く中、全員の視線を受けた黒髪の美女は、薄い紅で彩られた花弁のように可憐な唇を微笑の形に変えて、透明で澄んだ慈愛に満ちた優しい声音で言葉を紡ぐ。
「――なるほど。あなたの神器は、自分だけにしか効果がないのですね」
翻るのは、腰まで届く漆黒の髪。癖がなく、艶やかな輝きを纏う黒は目を奪われるほどに美しく、その白い肌と、その身に纏う白い霊衣によって鮮やかに映える。
その手に携えるのは、大きく湾曲した刃を持つ槍を思わせる薙刀。
桃色が強い薄紫の光を帯びた刀身を備えたそれは、まるで風車や風車のように風にその刃を任せ、大輪の花のように凛々しく咲き誇っていた。
「大丈夫ですか?」
突如現れ、鼎を退けた黒髪の美女の薄紫色の瞳は深い慈愛をたたえており、その淡い色はまるでその女性の心根を表しているかのように思えた。
その神がかっているといっても過言ではない美しさは、その場にいた全員――鼎さえも一瞬その美貌で心を奪い、まるで時が止まったような一瞬の静寂をもたらす。
「――っ」
(だれ? すごく綺麗な人……もしかしたら桜さんよりも……)
春風のように優しく温かで穏やか。清流のように澄み、明鏡止水のように透明な瞳を自分に向けている淑やかで絶世の美貌を持つ美女の姿を見た神魔と桜は、驚愕を隠せない様子で半ば無意識に声を発してしまう。
「な……」
「お……」
時が恋をしてしまったのではないかと思うほどの一瞬の静寂の中、思わずその美貌に見惚れている一同の中で、例外的に驚愕を露に目を丸くしているのは、神魔と桜の二人。
そして、そんな二人を艶やかな黒髪を揺らして肩越しに見つめた絶世の美女は、白を基調とした着物の霊衣の上に纏った羽織を風に揺れる花弁のように翻らせる。
「お久しぶりですね、二人とも」
心に染み入るように優しい響きを以って神魔と桜に届いた透明に澄んだ声音で語りかけた艶やかな黒髪の美女は、大和撫子のように淑然とした佇まいを崩さず、呆けたように目と口を丸くしている二人に淑やかな微笑を向ける。
そのあまりに神々しい美しさは、その絶世の美貌――単純な容姿から来るだけのものではなく、その大和撫子然としたその佇まいや滲みだす存在感が感じさせるものだ。
「撫子さん!?」
「お姉さん!?」
神魔と桜の二人に、驚愕に染まった声で名を呼ばれた神々しいほどの存在感をまとう絶世の美女――「撫子」は、そんな二人を見ると、薄い紅で彩られた花弁のような唇を綻ばせて、優しく淑やかな微笑に慈愛の色を宿すのだった。