太陽と月の下に凛花咲き誇る
「十世界創始者……随分と大仰な言い方をしてくれるわね。ニルベスから聞いたのでしょうけれど、私は十世界に戻るつもりはないわよ」
シャロットから向けられた心の底まで見通そうとするかのような視線を受けた瑞希は、自身が十世界創始者であることを暗に認めたうえで麗凛な声で答える
「なぜですか?」
微笑をたたえ、余裕さえも感じられる瑞希の態度に一瞬だけその目に剣呑な光を宿したシャロットが問いかける
シャロットだけではなく、大貴達を含めた全員の視線が自分に集まっているのを自覚しながらも、瑞希は微動だにせずに小さく肩を竦める
「私、姫のやり方が嫌いなの」
その水晶を思わせる麗貌に微笑をたたえた瑞希は、悪びれた様子もなくシャロットの質問に答えると、自身の記憶を見つめ直そうとするかのようにその瞳を瞼の裏に隠す
「十世界――あの頃は、そんな名前でもなかったけれど、元々は戦争や戦いで身内を亡くした者達が暮らす共同生活体でしかなかったわ。
そもそも、それでさえ私にとってはどうでもいいものだったのだけれど、私がそこにいたのは唯一の肉親だった兄がそうしたいと願っていたからだもの」
「十世界」。――光と闇を含め、すべての存在が手に手を取り合い恒久的平和を確立することを願う組織としてその名を知られているその組織は、最初からそのために創設された組織などではなかった
戦うために生み出された神の映し身である全霊命の歴史は、九世界の歴史であり戦乱の歴史そのものでもある。
同じ全霊命以外に生命を脅かされない世界最強の存在。衰えることを知らないその存在は、殺されるまで最盛期を保ったまま永遠を生きられることを約束している。
生命として限りなく完全に近いがゆえに、力が最もその存在価値を証明する要素である全霊命は、光と闇、同族、時には複雑に絡み合った勢力と戦ってきた
当然、そんな中で愛しい者、親しいものを失ってきた全霊命には、孤児が少なくない。
そんな中、光、闇を問わず、戦いで命を落とした幼い子供たちを世界の狭間にある一角で守るように育て始めた集まりこそが、後の十世界と呼ばれるものの原型だ
「妹の私が言うのもおかしな話だけれど、私の兄の『蘭』は御人好しな性格でね。自分たちと重なったという理由もあったのでしょうけれど、そういう戦いで身内を亡くした孤児たちを種族問わずに面倒を見るような人だったわ」
そう言って目を伏せる瑞希の表情は、兄を慕う妹のそれであると同時に、兄を持て余す妹の苦労を感じさせるもの
しかし、それには決して嫌悪感などは感じられず、そういった良い面、悪い面を含めて、瑞希が純粋に妹として蘭へと向ける好意に彩られていた
全霊命には二通りのタイプがいる。後顧の憂いを断つために、子供だろうと戦意がない相手だろうと敵対する存在の命を奪うものと、今自分を害する意思のない存在を殺さない者
いつか、その見逃した相手が強大な力を手にし、自分や自分の大切なものを殺す可能性を考えればある意味で必然的な考え方であるそれを瑞希の兄である蘭は良しとしなかった
子供には罪はないと、いつか奪われるかもしれないことを恐れて殺すことはできないといい、見逃すどころか、その身の上を案じてしばらくの間面倒を見るほどの御人好し。――そんな兄に内心で辟易していた瑞希がそれでもその傍らにいつづけたのは、自分と兄もまた戦いの中で取り残されたたった二人だけの肉親だったからだろう
「そんなことをしている内に、同じようなことをしているニルベス達と出会って一時的に行動をを共にするようになった――それが今の十世界の原型。そして、あなたたちが言うところの十世界創始者と呼ばれるものの正体よ」
そうして同じように孤児たちを放っておけずにいたニルベスのような人物たちと出会い、瑞希はそれに巻き込まれるように徐々に大きくなっていった十世界の前身たるその集まりは、ある時その最大の転機を迎えることになる
「けれど、兄たちは間違えた――あの時、姫と関わったために」
淡々と紡いでいた言葉が一瞬にして感情を失い、凍てつくような冷たさに彩られた瞬間、その言葉に耳を傾けていた全員がわずかに表情を強張らせて息を呑む
その切れ長で怜悧な瞳に、敵意とも嫌悪とも取れる感情を帯びた剣呑な光をわずかに灯した瑞希からは、これまでとは決定的に相反する感情が滲み出ていることをその場の誰もが感じ取り、そしてそれが誰に向けられているのかも同時に理解させられる
同じように孤児たちを放っておけずにいたニルベスのような人物たちと出会い、徐々に大きくなっていった十世界の前身たるその集まりは、少しでも戦いに巻き込まれる可能性を減らすために、光の世界でも闇の世界でも――それどころか、九世界でさえない「時空の狭間」にその拠点を置いていた
そして、そんな世界で彼ら――瑞希達、世界の戦乱の中で大切な家族を失った者たちは、奏姫・愛梨と出会うことになる。そして、それこそが十世界の始まりだったともいえる
「姫の理想論は、とても聞こえのいいものだったわ。けれど、私は彼女の言い分が好きになれなかった」
どこか嘲笑を帯びているような瑞希の声に、シャロットはその心中を見透かそうとしているかのような視線を送り、端的に問いかける
「なぜ?」
そんなシャロットの抑揚のない声を聞いた瑞希は、軽く天を仰ぐと、どこか寂しげな笑みを浮かべて薙ぎの水面を思わせる透明な声で言葉を続ける
「みんなが手を取り合って作る争いや差別のない優しい世界――それは、とても素晴らしいものでしょうね。でも私は、そこに人の心があるようには見えなかった
人が人を好きになるように、人が人を嫌いになることなんて当たり前のこと。家族を殺した相手を心から許すことなんてできないって思っていたし、そんなつもりもなかった」
姫――愛梨が語った理想は、とても尊く素晴らしいものだったことは否定しない。しかし、それは理想でしかないとしか思えなかったのも事実だった
誰もが同じようにすべての人を愛することなどできない。恋人と友人と家族と他人。命の価値は等しくても、その存在の価値はその人が自分にとってどの位置にあるかで変わってくるもの。人を好きになれるように、人は人を嫌いにもなれば、憎みもする
美しい物だけを肯定し、醜いものから目を逸らように排斥しようとする――しかし、それは誰もが等しく持っている心を否定したのと同義でしかなかった
「人を好きになることを強制するなんて、支配や独裁と大差がないでしょう? ――まあ、私の考え方がひねくれているだけなのかもしれないけれど」
言葉の後半に自虐とも自嘲とも取れる笑みを浮かべて肩を竦めた瑞希は、その視線でシャロットを射抜くと感情のこもらない淡々とした声音で言葉を紡いでいく
「そんなわけで、私は姫を好きになれなかった。でも、兄やニルベス……他の仲間達はみんな姫に引かれていったわ。
彼女が神の巫女であったことも理由なのかもしれないけれど、ままならない現実の中に夢を見ようとした――いえ、彼女の理想を守りたかったのかもしれないわね。少なくとも、そう思わせるだけのものを持っている人だったから」
そう言った瑞希の表情からは、愛梨に対する嫌悪と拒絶の意志が滲み出しつつも、どこか奏姫に対する敬服と畏敬の念を感じさせるもの。
おそらくは、誰もが分かっていた。姫――愛梨の理想論は所詮夢物語でしかなく、決して結実しない幻想の絵空事でしかない、と。
それでも瑞希の兄「蘭」やニルベスといったシャロットが言うところの十世界創始者の面々はその言葉を信じた。――否、その夢物語を心から祈る愛梨という一人の存在を守ることを願った
それは恋慕の情の様な盲目的なものではなく、現実を否定しようとするような背信的なものではなく、力ある者に依存するような弱さではなく、愛梨を神格化するような崇拝とも違う――おそらくは、優しい夢を信じたいと願う囁かな祈りだったのかもしれない
その是非は分からない。ただ、少なくとも「奏姫・愛梨」という人物は、現実の前にそんな夢物語の絵空事が無残に散るのを分かっていても尚、手を差し伸べたくなるほどに人を惹きつける魅力を備えた健気で一途な人物だったということだ
「――……」
そんな瑞希の言葉に耳を傾けていたシャロットは、十世界に所属する者としてその言い分に心当たりがあるのか、あるいは瑞希の言葉を自分の中で消化して信じるべきかを思案しているのか、その目を閉じてしばしの瞑想に耽る
シャロットが生み出した沈黙に、その場にいる全員が呼吸を忘れてしまうのではないかというほどの重苦しい空気が生まれ、そしてしばらくの後その静寂は、それを生み出した本人によって破られる
「一つ、お伺いしたいのですが、私の記憶には今の十世界に蘭という方は存在しません」
「兄は、もうこの世界にはいないわ」
シャロットの言葉に瑞希は視線を伏せて、その事実を淡々と告げる
「……それは、失礼な質問をいたしました。では、あなたはもう十世界に戻るつもりはないということですね?」
瑞希の言葉を受けたシャロットは、ひとまずその言い分を信じることにしたのか、念を押すように確認の言葉を向ける
その瞳に鋭い意志を乗せているシャロットを見た瑞希は、小さく肩を竦めると微笑を浮かべると冷淡な声で粛々と応じる
「愚問ね。なんのために、私がしたくもない過去の話を懇切丁寧にしていると思っているの? 彼らに私が十世界ではないということを理解してもらうためよ」
そう言ってその視線を背後にいる大貴達と月天の精霊達に向けた瑞希の言葉からその真意を読み取り、シャロットは合点が言ったように声を漏らす
「……なるほど」
シャロットによって十世界の創立に携わり、一時とはいえ十世界に所属していた事実を知られてしまった瑞希にとって、今最も優先するべきなのは、その信頼を損ねないことだった
自分がなぜ、十世界に関わり、その創立に携わり、何を思って行動し、なぜ離反したのか――隠し通せるものなら通しておきたかったその事実は、瑞希にとって話したくもないことであり、知られたくなかった事実でもある
それでも、その理由を求められてもいないのに必要以上に自分の口から語ったのは、大貴はもちろん共に行動をしている神魔、クロス、桜、マリア、詩織、そしてその話を聞いていた九世界の一角である月天の精霊達に弁解を測り、少しでも心証を悪くしないための配慮を図ったからだ
「シャロット!」
瑞希の言葉に理解を示し、思案を巡らせていたシャロットは、話が一段落したのを見て取ったアイリスからかけられた声にその意識を向ける
昔からよく聞いていた鈴の音の様な耳に心地よいアイリスの声で久しぶりに自分の名を呼ばれたシャロットは、それに懐古の念を抱きながら、感情の読み取れない凪の水面を思わせる瞳を向ける
「私、あなたにずっと謝りたかったの。私の所為であなたは――」
まるで鏡のように自分の姿を映し出すような、透明で澄んだシャロットの瞳を覗き込んだアイリスは一瞬言葉を詰まらせるが、意を決して今日まで心の奥に閉じ込めてきたその想いを言葉にして紡ぐ
一時の感情に任せ、何一つ非の無いシャロットに心無い言葉を向けてしまった後悔と懺悔。そしてもし許されるならば、かつてのような関係に戻りたいという願いがその言葉にははちきれんばかりに込められている
傷つけてしまったことを恐れ、その心を傷つけてしまった事を悔い、嫌われるのを恐れて――幼いころに結んだかけがえのない関係が失われてしまう可能性に怯えて今日までずっとそれを言えずにいた自分の弱さを振り払うように、自身の心を言葉に映したアイリスは、真っ直ぐな視線で自分の親友を射抜く
「……アイリス」
その視線でアイリスの心を全て察したのか、シャロットは小さくその表情を綻ばせると優しい声音で語りかける
「あなたが気負う必要はないわ、アイリス。私は、あなたの事を微塵も恨んでいないし、怒ってもいない。ただ、この世界を変えたいと思っているだけよ」
その優しさと純粋さゆえに、アイリスが自分で自分を傷つけている事を見抜いているシャロットは、そんな心の枷を取り払うように穏やかな声で諭すように言葉を織り上げていく
「何の、ために?」
久しぶりに言葉を交わした親友――シャロットの声音や口調が自分の記憶の中にある姿と寸分違っていないことに、懐古の念を覚えながらも、アイリスは懸命に踏みとどまりながら問いかける
懐かしさと自責の念を堪えながら問いかけたアイリスの言葉を受けたシャロットは、一度目を伏せて言葉を切ると、抑制の利いた声で言葉を紡ぐ
「……過去の痛みから未来を守るため」
月光の様に冷たくも優しい光を宿した矢の様な視線でアイリスを射抜いたシャロットは、その声音をいくばくか和らげて言葉を続ける
「月天の精霊が、過去に犯したことを弁解するつもりはないわ。それは事実だもの。けれど、その時の怒りや悲しみは、その時に生きていなかった者、戦いに参加しなかった者も問わず、すべての月天の精霊に呪いの様にまとわりついている」
アイリスに語りかけていながらも、その場にいる同胞達や大貴達にも語りかけるその言葉は、しかしシャロット自身が自分のために紡いでいるものでもあった
アイリスと同じようにロシュカディアル戦役で家族を失ったシャロットもまた、その痛みに翻弄された一人だった
直接自分が原因でないにも関わらず、その当時ロシュカディアル戦役に参加した者、しなかった者はもちろん、その子供たちまでもが月天の精霊というだけで、その名に刻み付けられた裏切り者の烙印がついて回る
無論、妖精界王をはじめとする精霊達を含め、すべての光の全霊命を裏切り多くの犠牲を出した月天の精霊達にはそれだけの非があることも分かっているし、そう思ってしまう者たちの気持ちも十分に理解できる
アスティナは月天の精霊のために心を砕いてくれたが、表面上は大きな騒動にならなくとも、水面下で、そしてすべての者の心の奥底でロシュカディアル戦役は未だに続いているのだ
「あなたも言っていたでしょう? 月天の精霊があんなことをしなければ、私たちはもっと普通に友達でいられたって。――まったくその通りよね」
自嘲じみた笑みを浮かべ、その切れ長の目で沈痛な面持ちで唇を引き結んでいるアイリスに語りかけたシャロットは、まるで友と同じ道を歩くことができないことを嘆いているような悲しげな瞳を隠すように静かに目を伏せる
アイリスが感情を露にして嘆いていたように、シャロットもまたその麗凛な表情の下で、自分たちの運命と世界を憂いていた
ロシュカディアル戦役で家族を失った自分にとってかけがえのない親友であったアイリスは、その戦いで同じように家族を失った日輪の精霊。そして、ロシュカディアル戦役を引き起こしたのは、自分達月天の精霊――それを知ったシャロットが苦悩しないはずはなかった
「私は、あなたよりも早くそのことを知っていた――いえ、あなたと出会った時にはすでに知っていたといううのが真実ね。けれど私は――」
そこまで言ったシャロットはアイリスから視線を逸らして目を伏せると、まるで子供の頃の自分を嘲笑っているかのような薄ら寒い笑みをその表情に浮かべると、その続きを心の中で言葉に変える
(あなたと変わらないまま友達でい続けたかった)
シャロットはその事実をアイリスと出会う前から知っていた。――否、知っていたからこそ、アイリスと出会うことができた
家族を失った理由を知り、自分達月天の精霊がなぜ疎まれているのかを知り、しかしそれでも自分には関係のないことで苦しまなければならない理不尽が許せなくて、ライルの目を盗んで月天の精霊に与えられた領土を抜け出し、そしてアイリスと出会ったのだ
だが、そうして会ったアイリスは、シャロットにとってかけがえのない友となった。そして、そんなアイリスの何も知らない、無邪気で無垢な笑みを見ている内に、その心を罪悪感が苛んでいった
アイリスは「父がなぜか月天の精霊を嫌っているから内緒で会っている」と言った。その理由はシャロットにはすぐに理解できた。しかし、分かっていながら、その理由を口にすることはできなかった。
それを教えてしまえば、今の自分たちの関係が壊れてしまう。友達ではいられなかくなってしまうと幼心に分かっていたから――そんなものが、一時の気休めにさえならないと知っていながら。
「だから私は、そのしがらみから世界を解き放ちたい。だから十世界に入ったの」
抑制の利いた声の中に、強く鋭い意志を宿したシャロットの言葉に、アイリスはその瞳をわずかに揺らす
「――……」
その宣言を聞いた大貴達は、それに各々の表情で理解の色を示す――中でも、もっともシャロットに共感し同情している詩織とマリアは、自分の中にある痛みにわずかに表情を翳らせる
その身にいわれのない罪を呪いの様に引き摺り続けている月天の精霊として生まれてきたからこそ、シャロットは自分の手でそれを解き放ちたいと考えた
そんなシャロットの想いは、人と天使の混濁者という存在として生まれただけで、その存在を否定され続けていたマリアにとって、そしてゆりかごの人間でありながら全霊命に特別な想いを抱き、それが許されないことだと知ってしまった詩織には、心を射抜く槍のように深く深く染み入ってくる
「それはダメ」
しかしその時、これまでシャロットの声に耳を傾けていたアイリスが意を決し、唇を引き結んで言葉の刃で場の空気を切り開く
「!」
その言葉に大貴が視線を向ける中、アイリスはその乳白色の蝶翅を熱い雲間から差し込む光に輝かせて、陽光の様に強い温かく力強い意志でシャロットを見つめていた
「……なぜ?」
その言葉にわずかにその柳眉を不快気にひそめたシャロットが問いかけると、アイリスは一度息を吐いてから口を開く
「十世界は、月天の精霊達の過ちを赦してくれる組織。でも、それは甘えでしかない。私達は、乗り越えていかないといけないの――過去の憎しみと、わだかまりと、心の距離を」
シャロットへの罪悪感に胸を痛めながら、しかし友としてその道の前に立ちはだかることを選んだアイリスは自身の胸に手を当てて訴えかける
「あなたとこんなことになって、私はずっと考えてた。どうしたら昔みたいにシャロットと仲良くなれるのかって」
唇を引き結び、沈鬱な表情を浮かべたアイリスは、それでもその心に訴えかけようと視線を外すことなく言葉を紡いでいく
シャロットに心ない言葉を向けてしまったことを後悔し続けてきたアイリスは、それでもかつてのような友達に戻れることを願ってきた
十世界に入り、遠くなってしまったとはいえ、その気になればいつでも会いに行ける距離にいるシャロットに会いに行けなかったのは、後ろめたさと自分達の友情を拒絶させることを恐れた自分の弱さであることをアイリスは正しく自覚し、しかし今それを乗り越える決意を以ってこの場に立っていた
《なら、ちゃんと謝らないとな。許してもらえなくても、何度でも。それに、あのシャロットって精霊も、たぶん仲直りしたいと思ってるんじゃないか? だって、そう思ってなきゃ、十世界になんて入らないだろ?》
シャロットに訴えかけるアイリスの脳裏によみがえるのは、昨夜自分のことを打ち明けた際に大貴が言った言葉。
(私は間違えてた。シャロットの気持ちを。――そして、私自身の気持ちを)
大貴に言われるまでもなく、アイリスは可能性の一つとしてそれを選択肢に入れていた。十世界は全てを許し、認める組織。
光も闇も、禁忌も罪も――混濁者という禁断の存在さえ受け入れる組織にシャロットが身を置いた理由は、ロシュカディアル戦役の罪を雪ぐためなのではないか、と。
もしもそうなら――軽率な言葉を発し、友情を壊してしまった自分のことをシャロットが許してくれるつもりでいて、十世界に身を置いたならば自分はその前に立ちはだかるべきではない。
もしもその願いが叶ったならば、自分とシャロットはもう一度友達に戻ることができる――そんな想いが自分の足を止め、決意を鈍らせていたことに、アイリスはその時気付いたのだ
(私達は、許してもらっちゃいけなかったんだ。私たちは謝らなきゃいけなかった――心の底から。たとえ許してもらえなくても)
だからこそ、アイリスはシャロットの前に立ちはだかる決意をした。「ちゃんと謝らないといけない」という大貴の言葉に背を押され。「許してもらえなくても」という言葉に、拒絶されることを恐れていた自分を叱咤して
(だから――)
本当はもっと早くに切り出すべきだった。しかし心の奥にあった大切な思いと自分の弱さが言葉を止め、最後の一歩を踏みとどまらせてしまっていた
(私は、伝えなきゃいけない。私の想いを)
だが、シャロットの言葉を聞いた今なら――今だからこそ言わなければならない。自分が願い続け、シャロットが願ってくれた「仲直り」を本当の意味でするために。
「でも、気付いたの。あの時の私達は、本当の友達じゃなかったんじゃないかなって。月天の精霊が嫌われてるからってこっそり会ってたあの頃の私たちは、まだ本当の友達じゃなかったんじゃないかって」
噛みしめるように発せられるアイリスの淡々とした言葉は、しかし慟哭にも似た響きを以って淡く優しかった過去の思い出を引き裂いていく
心の中にある、幼く何も知らずにいたころの友情を否定したアイリスは、その原因となった痛みを許すのではなく、それを受け入れて本当の関係を作り上げることを心の底から願って言葉を紡ぐ
「たとえあなたが月の精霊でも、私は本当の友達だって胸を張るべきだったの。痛いことから逃げても、何もよくならない。――きっと本当の友達ってそういうもの」
「友達」という言葉と、それが持つ意味を噛みしめるように微笑んだアイリスは、まるで天に輝く太陽のごとく、温もりに満ちてシャロットに語りかける
幼い頃に作り上げた仮初の友情を恐し、光の全霊命を裏切った月天の精霊の一人としてシャロットを認め、友として信じる。
誰に恥じるでもなく、シャロットを友だといい、それを否定する者がいれば自分が守る。自分だけはシャロットを友達として信じ続ける決意をその魂に刻み付けてアイリスは、許しを求めようとする友の前に立ちはだかっていた
「だから私は、あなたのやり方を否定する」
力強く宣言したアイリスは、小さく目を瞠っているシャロットをまっすぐに見据え、愛おしむように一言一言を噛みしめながら、ゆっくりと言葉を重ねていく
「月天の精霊の過ちも、過去のしがらみも全部受け入れて、全部乗り越えて――そうやって、私達は本当の友達になるの。ね?」
大輪の花のように華やかに、天から注ぐ要綱の様に優しく温かな微笑みを浮かべたアイリスは、そっとその手をシャロットへと伸ばして、そして今の自分の気持ちを心のままに言葉に変える
「もう一度……ううん、今度こそ本当の友達になろう」
まっすぐに瞳を交わし、心からの言葉を声に乗せるアイリスを見たシャロットは、その姿に一瞬目を奪われたように目を瞠り、次いで微笑を零して微笑み返す
「相変わらず、あなたは優しくて、甘いわね。まるで、夢を見る少女のようだわ」
瑞希と言葉を交わしていた時とは別人のように思えるような穏やかな響きを伴った声で語りかけたシャロットは、しかしすぐにそれを「けれど」という言葉を以って打ち切って話を続ける
「九世界は、強すぎて正しすぎる――私達には、許しが必要なのよ。たとえそれが、甘えでも、逃げることでしかなく、何の解決にもなりはしない間違いだったとしても」
アイリスの言うことはとても正しく、優しく強い――しかし、世の中にはそれだけで乗り越えられないものもあれば、それができない者もいる
己の痛みを乗り越えるために前へ踏み出すことができず、最も手近で分かり易いに敵意を向けてしまうことをただ間違っていると断じることは、同じ立場にいるシャロットには到底容認できることではなかった
「大切な者を奪った月天の精霊を裏切り者として嫌悪することも、月の精霊だというだけで、何もしていない罪を背負って生きることを耐えがたく思って、自分たちを受け入れてくれる人を頼り、世界を変えようと求めることを、私は簡単に否定することはできない」
実感に満ちて紡がれたシャロットの言葉が、静かに空気に染み入り、それを聞く者達に切ない残響を残して溶けていく
そして、そんな空気を凍てつかせるように、シャロットはアイリスへまっすぐ視線を向けると抑制の利いた静かな声に確固たる自身の決意を乗せて語りかける
「私を止めたいなら、力ずくで止めることね」
「――っ」
その言葉にアイリスが唇を引き結び、それを拒否するように目を伏せたのを見たシャロットは、その表情を綻ばせる
「……いつでも待っているわ」
まるで、それを望んでいるかのようにさえ聞こえる言葉を紡いだシャロットの表情は、まるで望んでいた答えを手に入れたような清々しささえ孕んでいた
「話は終わりです。お手間を取らせました」
その表情に浮かべていた優しい笑みを瞬き一つほどの間を置いて完全に消し去ったシャロットは、その視線を一連の流れを見守っていた兄――ライルへと向けて軽く目礼する
「折角だから、一つ聞いていいかしら?」
「なんでしょう?」
兄に簡単に礼をしたシャロットがそのまま帰還しようとしたその時、沈黙を守っていた瑞希がそれを引き留めるように声を発する
「ニルベスは、私を恨んでいた?」
「……どういう意味ですか?」
自分の問いかけにシャロットが訝しげにその柳眉をひそめるのを見た瑞希は、それだけで自身の問いかけに対する答えを得て理解の色を示す
瑞希の問いかけは謎かけでもなんでもない単純な質問。それにシャロットが思い至らなかったということは、ニルベスが何も語っていないことを瑞希に理解させるに十分な反応だった
「――私は、これでも労働奉仕の刑期中の身よ。あなたたちが言う十世界創始者であるが故の、ね」
シャロットの問いかけに、瑞希は小さく肩を竦めると微笑を浮かべて淡々とした声音で言葉を紡いでいく
九世界での罪の裁きには、原則として「無罪」、「極刑」、「労働奉仕」の三つしか存在しない。その理由は至極簡単であり、世界で最も神に近い真核を持つ神能は、その発動を外的に封じることができず、全霊命を牢獄に拘束しておく術が存在しないからだ
例外的に「封印」という方法も存在するが、それをするには封じられる対象と同等以上の力を持つ者が常時その力を以って封印を維持させ続けなければならない。つまり、強大な存在を封じようとすればするほど、それに準じた戦力を割かれてしまうことになる。そんなことはよほどの事情がない限り不利益にしかならない
そう言った事情から、全霊命に下される罰はその三つに限定され、労働奉仕は犯罪に対する酌量の余地を世界のためにその命を懸けて戦うことで還元するものだ
「なぜ、私が極刑ではなく、労働奉仕なのか分かるかしら?」
まるで「あなたはニルベスのことを何も知らないのね」と嘲笑っているとも、その信頼を揺るがそうともしているようなどこか挑発的な笑みで言う瑞希の言葉に、シャロットはその表情をわずかに固くして耳を傾ける
瑞希が労働奉仕の刑を受けているのは、十世界の創立に携わったから。ならば当然その罪を魔界の王である「魔王」は承知している。
たとえ瑞希が言ったことが事実でも、十世界の創立に携わった以上、本来ならば極刑に処されて然るべきともいえるほどの罪になる。しかしそれでも瑞希が労働奉仕へ減刑されているのは、それなりの理由があるからだ
「……まさか」
瑞希の言葉に耳を傾けていたシャロットは、その口調からそれには自分に聞かせたいような理由があるのではないかと推察していた。そして、それは先程の瑞希の言葉――「ニルベスが恨んでいたか?」という言葉に繋がっているのだとすれば、その理由は限られてくる
「そう。売ったのよ。十世界を」
「――!」
シャロットがその可能性に行き着いたであろうことを見て取った瑞希が不敵な笑みを崩さないままで発したその事実に、その場にいた全員が目を瞠る
しかし、当人である瑞希は悪びれた様子も見せず、その氷麗な美貌を崩すことなく淡々と言葉を重ねていく。
「結果、魔界は十世界の本拠地を襲撃し、兄たちが守ろうとした孤児たちはそのほとんどが命を落としたわ――奏姫を仕留められなかったのは知っていたけれど、彼が生き残っていたのなら、私のことをどう思っているのかが気になったから」
本心はどうか分からないが、罪悪感のようなものを感じ取ることはできない瑞希は、どこか皮肉じみた言い回しでシャロットに問いかける
煽っているとも、しかしそれによって自身への敵意を芽生えさせるような思慮が滲んでいるとも取れる瑞希の声にシャロットはしばしの沈黙を置いて口を開く
「なぜ、そのようなことを?」
「なぜ? 決まっているでしょう」
シャロットの質問を受けた瑞希は、抑制の利いた静凛な声音で粛々と言葉を紡ぐ
「奏姫の理想が夢ならば、夢が現実を傷つけることがあってはならない。夢のために現実を――今確かに世界に生きている者たちを犠牲にすることはできない。なら、そんな夢は終わらせなければならない。優しいだけの夢に焦がれることを許してはならないもの」
「――!」
《理想を掲げなければ、現実は良くならない。理想を求めるあまり現実を疎かにしては意味がない。現実はままならないけれど、変えた所で良くなるとは限らない。変えなければ変わらない問題があるけれど、変えた所で別の問題がある――つまるところ、どちらがいいのかという程度の事に過ぎないわ》
その言葉を聞いた詩織の脳裏に、かつて瑞希が言っていた言葉が甦る。
《ゆりかごの世界の人間であるあなたは、どちらを選ぶのかしら?》
人間界で神魔と桜が十世界盟主・奏姫と戦った際、その信念の違いに戸惑う詩織に答えた瑞希の言葉の意味と重みが、その心に圧し掛かってくると同時に、記憶の中で少女があどけなく笑う
《あなたの夢を叶えてあげる》
夢を実現しようとする愛梨と、夢が現実を壊すことを是としなかった瑞希、そして、夢に縋ろうとする自分。――詩織の中でその心が渦を巻き、自身の行くべき道へと深く深く影を落とす
そうして答えの無い悩みに囚われる詩織を尻目に、シャロットは強い意志のこもった視線を送ってきている瑞希に静かな声で応じる
「……私見ですが、ニルベス様があなたを恨んでいるようには見えませんでした。むしろ、再会を喜び、懐かしんでおられたように思います」
怒りなどではなく、その言葉の意味と正義を正しく理解し、それを許容しているようにさえ感じられるシャロットが、どこか聖母にも似た深い慈愛をたたえた笑みで応えると、瑞希は自身の記憶の中にある愛梨やニルベスの姿を思い返して、静かに目を伏せる
「そう」
まるで、十世界が自分の知っているままで変わらずに安堵しているようにも、懐かしんでいるようにも聞こえる響きを持つ瑞希の声を受けたシャロットは、もう一度目礼すると鮮やかな紋様を持つ蝶翅を羽ばたかせて天に舞い上がる
「似ているわね」
(似てる)
「似ていますね」
この世界で生きていくために夢を選んだ者、現実を守ろうとした者、叶えたい願いを諦めきれない者――瑞希、詩織、シャロットはどこか自分に近い願いを抱いている己達に選ばなかった選択肢の果てにある自分を重ねていた
「彼に伝えておいて。『リーネ』を殺したのは私よ。いつでも殺しに来なさい、って」
「リーネ?」
中空へと舞い上がったシャロットをライルが制し、月天の精霊達の追撃を止めるのを横目に瑞希は静かな声で伝言を託す
しかし、その言葉にシャロットがわずかにその柳眉をひそめたのを見て取った瑞希は、その氷麗な美貌に浮かべた微笑を崩すことなく言葉を続ける
「本当に何も聞いていないのね。リーネは、ニルベスが世界で最も愛した人よ」
「!」
瑞希の言葉に、さしものシャロットも動揺を浮かべる中、大貴の脳裏には妖精界王城でのニルベスの言葉が明確に甦っていた
《ああ。多くの仲間を戦いで失った。愛する者を、大切な家族や仲間を失った。そして戦う意思を持たないものに力を振るう奴も見た――矛盾しているようだが、戦わないために戦う意思を俺は失いたくないんだ》
(あれは、そういう意味だったのか……!)
ちりばめられていた点が線によって結ばれ、一つの事実となっていく感覚を覚えながら、大貴は中空に浮かぶシャロットへ視線を向ける
瑞希からニルベスの過去と事実を告げられたシャロットは、さすがに一瞬困惑をのぞかせたが、すぐに平静を取り戻すと、静かな声で答える
「分かりました。ですが、ニルベス様がそれをなさることはないでしょう」
その事実の暴露が、十世界――ニルベスに己を狙わせ、戦いに仕向ける意図があることを察したシャロットは、まるで「仕掛けてこい」と言わんばかりに不敵な笑みを浮かべている瑞希の氷麗な笑みに答えつつ、一抹の不安を拭えない表情を残して天空の彼方へと飛び去っていく
刹那さえ存在せず、距離など存在しないかのように思える神速ではるか彼方へと飛び去っていくシャロットの姿を見送っていたアイリスを一瞥した大貴は、その視線を何ごともなかったかのように平然とたたずんでいる瑞希に向ける
「話を聞いてもいいか?」
「そんなことを言われても困るわね。今話した以上のことは答えられないのだから」
小さく肩を竦め、まるで他人事のように答えた瑞希に、クロスは不信に満ちた視線とわずかに苛立ちを帯びた視線を向ける
「クロス」
天使である自身と敵対する悪魔であり、自分の過去や言いたくないことを言えるほど親しい関係でもない瑞希がそれを離さなかったことを咎めるつもりはないが、それでも憤りを隠せない様子のクロスをマリアが静かな声でたしなめる
その声に渋々といった様子でクロスが、その感情を映してわずかに荒ぶっていた光力を抑えると、大貴は再度瑞希に向かい合って声をかける
「なんで隠してた、っていうのも野暮だよな」
「ええ。私たちはそこまで親しくないでしょう? それに言いたくないこともあるから」
その氷麗な表情を映したような凍えるほど冷ややかな声で言った瑞希に、大貴は「だろうな」と簡潔に答えると、しかしそこで詰問をやめることなく質問を続けていく
「なんで、お前は――」
「やめなよ」
瑞希の真意を問いただそうとする大貴の言葉は、それを見ていた神魔の静かだが冷たい響きを帯びた声で遮られる
「神魔……」
その声に視線を向けた大貴は、自分達に向けられている神魔の感情の籠らない視線にその先の言葉を呑み込む
自身に注がれる冷ややかな視線に大貴をはじめ、一同の視線が集中したのを見た神魔は、小さく疲れた様なため息をついて口を開く
「信じるってことは、疑わないってことじゃない。――まあ、さっきのやり取りを見ていれば、瑞希さんの事を当面は信用してもいいでしょ? 本人が話したくもないことを無理に聞き出すのは、時には余計なお世話だろうしね」
「……っ」
最後の言葉が、自分に釘を刺す意味で発せられたことを理解している大貴は、自分が積極的に世界に関わろうとする動機を知っている神魔の言葉に、静かに目を伏せる
(少し、焦りすぎてるってことか……)
大貴をはじめ、ほぼ全員へ視線を配ってこれ以上の問答を終了させた神魔へと視線を向けた瑞希は、その氷麗な表情に雪解けを思わせる微笑を浮かべる
「ありがとう。優しいのね」
どこかその言葉通りではないような含みを帯びている声で感謝の言葉を述べた瑞希をその金色の視線で射抜居た神魔は、そこに宿した疑念と敵意を隠すことなく忠告する
「勘違いしないでね。僕は別に君を庇ったわけじゃないから」
「分かっているわ」
神魔が決して自分のために大貴達の追及を止めたのではないことを十分に理解している瑞希は、小さく笑みを浮かべてそれに答える
信じるということは疑うということではない――神魔が言ったように、信頼と盲目的な許容は同一のものではない
神魔は、あくまで一定の信頼の下に瑞希に話したくないことを話すことを強要していないだけ。もしもそれが信頼に足らず、自分達に害をなすものと判断すれば、いかに魔界からの監視員だとしても容赦なく殺すと言っているのだ
つまり、「一応信じてあげるけど、本当に信じたわけじゃない。だから、本当に信頼されたいなら行動と結果で示せ」――と。
「心配しないで。あなたの信頼には信頼で応えて見せるから」
必要以上に踏み込んでこない他人行事な信頼を送ってくる神魔に、好意的な笑みを向けた瑞希はその言わんとしていることを正しく理解して答える
「……そう」
その言葉に目を伏せた神魔は、静かに目を伏せて瑞希から視線を逸らす。そして、その様子を見ていた桜は、神魔の背後から瑞希と視線を交錯させる
自身に注がれる桜の視線を受けた瑞希は、それに小さく目礼で応じると、どこか寂しげな色をその水晶のような瞳に宿す
漆黒の髪の隙間から覗く瞳がほんの一瞬だけ映した瑞希の本心を見ていたものは、この世界を満たす優しい風だけだった――