誘いの夢
眼前に広がっているのは純白の空間。遮蔽物どころか大地の起伏さえも存在しない、白く、どこまでも白く果てしない虚ろな世界。
「ここは?」
気が付いたその瞬間に、この空間に立っていた詩織は、声さえも吸い込まれていくような果ての無い世界の中で声をあげる
「神魔さん! 大貴! 桜さん! クロスさん! マリアさん!」
呼びかける声も虚しく、残響さえ返さない白の空間は無情にも静寂を以って詩織に応えるばかり。それはまさに白い奈落のようにすべてをその内へと呑み込んでいく
何度読んでも声は届かず、どれほど見回しても白以外は存在しない。そんな空間でひとしきり声をあげた詩織は、疲れ切ってその場に崩れ落ち、自身の無力に唇を噛みしめる
「なんなの、ここ? 夢? 今までこんなことなかったのに……」
静寂と白だけが存在する空間に独りだけ存在している孤独と不安に打ちひしがれ、精神を削られる詩織はそれに耐えかねるように、温もりを求めて声を零す
「神魔さん」
(――っ!)
意識せずに真っ先に発せられたのが神魔の名前であると認識した瞬間、詩織の胸中にはこの空間がもたらしているものとは違う虚しさがこみあげてくる
「本当、私ってどこまでも……」
自分が抱く想いと、それが許されな現実に葛藤し、苦悩する詩織は諦めることも全てを捨てて挑むこともできずにいる自分に自虐的な笑みを向ける
自分が抱く神魔への感情は、世界にとって許されないもの。そして、神魔が言っていた世界の歪みが事実であるならば、この想いは世界に存在してはならないもの
この想いが実を結んだとしても、それが神魔を傷つけてしまうならばこんな想いはなくてもいい。人生で失恋することなどよくあることだと諦めようとしても、自分の心を満たす想いを消しさることはできない。懸命に断ち切ろうとも未練がその心を繋ぎ止めてしまう
「なんで、こんなことになっちゃったんだろ……」
断ち切ろうとしても断ち切れない願いがあるということは、それが仮に一時の迷いであろうともそれだけ自分が神魔を強く想っている証――それを自覚しているからこそ、詩織は選ぶことのできない想いに苦悩しているのだ
目を瞑ればありありと思い出せるのは、想いを寄せる悪魔の青年とその伴侶たる桜色の髪を持つ絶世の美女。自分など足元にも及ばないほどの美貌と、女性としての魅力を持ち、何より心の底から神魔を愛している
自分では勝ち目などない。神魔を守ることも、支えることも、共に戦うことも何一つできない自分が桜と肩を並べ、あるいは凌駕するなど不可能に決まっている
《私は、桜さんみたいには思えませんから! ……桜さんにだって負けません。私は、神魔さんが好きだから! 私は、神魔さんを一人占めしたいんです!! 私に情けをかけた事、きっと後悔させて見せます!》
かつて、桜に向けて言い放った自分の言葉を思い返した詩織は、自身の眦に雫が浮かんでくるのも構わずに俯いて唇を血が出るのではないかというほど強く噛みしめる
(私、馬鹿だ。そんなこと、できるはずないのに――)
すべては自分の劣等感が生み出した虚言。自分では何一つ桜に勝っていない。肩を並べてさえいない。共に過ごす中で思い知らされる神魔と桜の強く深い愛情と絆の前で自分のそれは、ただただ滑稽で矮小なものでしかなかった
「私も、悪魔になれたらよかったのに」
それは、自身の道を見失い、失意に打ちひしがれた詩織の心が見せた儚い願い。せめて自分がゆりかごの人間ではなかったなら、せめて今よりは神魔との距離が近づたはずだという幻
同じゆりかごの世界――地球出身でありながら、その身に光魔神の力を宿していたがゆえに全霊命となり、神魔たちと肩を並べ、成長していく双子の弟の姿を見てきたからこそ生まれた些細な嫉妬
だが、そんなものは夢幻。所詮叶うはずのない願いでしかない――普通ならば。
「あなたの願い、叶えてあげましょうか?」
「!」
不意に響いた澄んだ鈴の音を思わせる声に顔を上げた詩織は、白の空間の中空に浮かび、微笑みをたたえている少女を見て目を瞠る
見た目から推察できる齢は詩織とほぼ同じほど。一目で全霊命と分かる均整の取れた現実味のない幼さを残す美貌に足元まで伸びる長く艶やかな黒髪。
その身に纏う巫女服や司祭服を思わせる霊衣は、ただでさえ浮世離れしたその存在感を、さらに幻想的で神秘的な領域へと昇華させていた
「あなたは……?」
目元に浮かんでいた雫を拭い、警戒心を露にしてその姿を見た詩織に、長い黒髪をたなびかせる少女は微笑をたたえたまま軽く一礼して言葉を紡ぐ
「始めまして。私は、異端神円卓の神座№8。夢想神・レヴェリーと申します」
「円卓の神座!? どうして……?」
最強の異端神「円卓の神座」――光魔神と同じ存在を前に、驚愕を露にした詩織の言葉が「どうしてこんなところに円卓の神座がいるのか」であり、「どうして誰にも気付かれていないのか」という意図であることを正しく理解しているレヴェリーは、その口元に微笑を刻んでそれに答える
「私はその名の通り、夢と幻想を司る夢幻の神。悪魔や天使、精霊の知覚で捉えられるような存在じゃないの」
円卓の神座の一、夢想神・レヴェリーは夢と幻想を司る神。故にその存在を捉えることは、全霊命の知覚能力では不可能。同等の異端神や神でさえ、よほど気を付けて探索しない限り見逃すほどのものだ
現に、妖界において神魔に接触を図った際、幻とはいえ、その存在と神能を知覚できた者はあの場には誰一人として存在しなかったのだから
「そんなことはどうでもいいでしょう? それよりも、私はあなたの願いを叶えるためにここにきたのよ」
「え?」
微笑と共に紡いだ言葉を受けた詩織が目を丸くすると、レヴェリーは穢れない無垢な笑みを浮かべて確認するように問いかける
「あなた、全霊命になりたいのでしょう?」
「そんな、こと……」
「できるはずない」――そう続けようとした詩織は、しかしその先の言葉を紡ぐことができずに口ごもってしまう
自分の身近に「大貴」という実例があったこともその理由の一つだが、詩織が言葉を続けられなくなった最大の理由は自身の心が分からなかったからだ
神魔へ向ける想いが偽りなどではない自信と確信はある。それは断言できる。もしも自分が神魔と同じ全霊命だったならば、人と悪魔、全霊命と半霊命という禁断の愛に苦しむことはなかっただろうというのも本心だ
しかし、だからといって本当に自分が全霊命になりたいのかと言われれば正直二つ返事で答える自信はない。戦うのは怖いし、神魔たちを見ているとはいえ、人間でなくなってしまうことに一抹の不安がないわけでもない。――決して偽りや建前ではない自分の願いが、自分の本心であるのか自信を持てない
「そうね。夢を現実に変える力を持つ私にもできないことはある。確かに、私には存在の壁を越えて別の存在に変えるなんて能力はないわ」
言葉を発することができず、やや俯きがちに目を伏せた詩織を見たレヴェリーは、その姿から何を感じたのか、静かに目を伏せると抑制された声で淡々と言葉を続けていく
全霊命を半霊命に変えることはその逆も含めて、いかに夢を現実にし、理想を実現させる力を持つ夢想神であっても不可能。なぜなら、この世には叶えられる願いがあるのと同じように、それ以上に叶わない夢もあるのだから
そんな夢そのものである夢想神には、存在の壁という生まれもって確定している絶対事象を超越した奇跡を叶えることはできない
しかし、レヴェリーは叶わない願いを叶えるために詩織の願いを聞いたわけではない。レヴェリーには自身にはできなくとも、その願いを叶える手段を提示することができる
「けれど、神器ならどうかしら」
「神器……」
これまで何度か耳にしたその言葉に、詩織は息を呑む
「神の力の断片。その能力の欠片。ならば、存在する可能性はあるわ――この世には、確かに存在の壁を超えることができる存在がいるのだから」
詩織の意識を奪うような所作で人差し指を立てながら、厳かに言葉を紡ぐレヴェリーは、自信と確信に満ちた笑みをたたえて語りかける
神器とは、神の力の欠片。つまりそれは、神器の力が神の持つ権能の力の一部が形になったものであることを意味しており、詩織の身体に取り込まれた「神眼」、十世界や英知の樹が持つすべての神器もその例にもれない
そして、神の力とはすなわち絶対神のそれであることを意味し、そしてそれはこの世界に存在するすべての能力でもある。ならば、たとえ神ではなくともその力を持った存在がいる以上、その力を持つ神器があるはずであるというのは、推測なのではなく確信に近い事実だ
「神の巫女の三女――十世界盟主・奏姫の姉である『舞姫』は、自身をあらゆる存在へと変える能力の持ち主。現にこの世界には、それと全く同じ力を持つ『スティファグマ』という神器もあるわ――もっとも、これは今どこにあるのか不明だけれどね」
食い入るように自分の言葉に聞き入っている詩織を見て満足げに口元を綻ばせたレヴェリーは、スティファグマ――自身を全霊命、半霊命含めてすべての存在へと変えることができる神器――の話に眼下のゆりかごの世界の少女が小さくない反応を示したのを見てその目をわずかに細める
神より生まれし異端の存在。その中で異端神に次いでその名を知られる「神の巫女」と呼ばれる四姉妹は、異端神だけではなく、光、闇を含めたすべての神に仕える巫女でもある。
その四女。現在十世界の盟主を務めている「奏姫・愛梨」がすべての神器を使う能力を持つように、三女「舞姫」は、舞の中でその人物になりきり演じるように、自身を全ての存在として変化させる能力を持つ
そして、かつてその能力と全く同じ「スティファグマ」という神器が存在したのだが、現在その所在は不明となっていることは夢想神だけではなく、多くの者が知るところでもある
「けれど、その可能性を持つ神器の一つがこの妖精界にある」
「――!」
もちろん、レヴェリーの目的はどこにあるかもわからない神器の話をして、詩織をぬか喜びさせることではない。スティファグマの話は、あくまでも自分が語った能力を持つ神器の可能性を詩織に信じさせるための前置きでしかない
レヴェリーの本題はここから。自身の知識と神の知識を以って詩織に己の言葉に一抹の可能性を見出させた夢と幻想の神は、人が望む願いを――夢を明確な形として提示する
「『界上解杖』。妖精界王が持つこの神器はあらゆる領域を超越する能力を持っているの。つまり、存在の壁も凌駕することができる可能性がある」
「……っ」
詩織が息を呑んだのを見て取ったレヴェリーは、そのあどけない美貌に刻んだ笑みを一瞬だけ深くすると、神妙な面持ちで言葉を付け足す
「けれど、神器は誰にでも使えるわけではないし、それを手に入れたからといって、その力を使うことはできない。それを使えるのは、その所持者である妖精界王・アスティナと奏姫・愛梨の二人だけ――そして、彼女達があなたのためにその力を使ってくれるとも限らない」
一時の夢を見せ、しかし揺るぎない事実を以って現実へと詩織の意識を引き戻したレヴェリーはゆっくりと降下して純白の大地に足をつける
自分とほぼ同じ背丈と年代をした眼前の少女が纏う現実離れした超然たる雰囲気に息を呑む詩織に、花のように表情を綻ばせたレヴェリーがその澄んだ声で言葉を紡ぐ
「この事実をあなたには自覚しておいてほしいの。なぜなら、私はあなたを利用したいわけではなく、お互いの目的のために協力をお願いしに来ているのだから」
「――!」
可憐な唇に指を添え、その外見のように無垢でありながらどこか大人の女性を思わせる蠱惑的な色香を纏って微笑んだレヴェリーはその司祭服のような霊衣の裾を翻らせながらまるで体重など存在していないような軽やかな足取りで詩織に歩み寄る
「今の私は、夢を介してあなたに話しかけているに過ぎない。だから私にできることは限られている――私にはやらなければならないことがあるから」
「やらなければならない、こと?」
そのあどけない表情の下に見え隠れする神にふさわしき威厳と思慮に満ちた感情を読み取った詩織が、半ば気圧されるように応じる
「ええ。私の目的は『光魔神を完全に覚醒させる』こと。そのためには、彼に強大な試練を設ける必要がある」
「!」
詩織の心を射抜くような視線で簡潔に宣言したレヴェリーは、まるでその魂や存在そのものに自身の願いを刻む込もうとしているかのように言葉を続ける
「そのために、あなたには界上解杖を手に入れてほしい。そして、それが封じている私たちの眷属――円卓の神座№3『自然神・ユニバース』を解き放ってもらいたいの
少々強引な手段であることは否めない。それによって小さくない犠牲も出るでしょう。けれど、私は一刻も早く世界の脅威を取り除かなくてはならないの」
「……!」
(それって、まさか……)
レヴェリーの「世界の脅威」という言葉に、詩織の脳裏に神魔が語った世界の歪みの話が鮮明に呼び起される
今もまさに世界を蝕んでいるという世界の歪み。異なる存在に愛を育み、子をなす理に反した矛盾は世界を歪め、やがて取り返しのつかないことになりかねない――そんな言葉が脳裏に反響し、詩織は唇を引き結ぶ
(もしも、もしも私のこの想いが世界の歪みによって生まれているなら、それが正されてしまったら、私の神魔さんへの気持ちはどうなるの? もし世界の歪みが正されてしまったら、もう永遠に私の気持ちは神魔さんに届かなくなってしまう……)
抑揚なく紡がれるレヴェリーの淡々としたその言葉が、詩織の心の奥深くに刺さっていた恐怖を駆り立て、焦燥にその感情を焦がす
異なる存在の間に生まれる愛と子供が世界の歪みであるならば、それが正されてしまった時自分が神魔に抱いている想いはどうなってしまうのかという恐怖、自分の気持ちが永遠に届かなくなってしまうことへの絶望が詩織の意識を侵食していく
もちろん、それが正されなければいいとは思っていない。しかし、歪みの中で生まれたものであったとしても、自分のこの尊い想いをその所為だなどということで終わらせたくはなかった
「本当は、あなたに私の眷属を託してもよいのだけど、半霊命――ましてやゆりかごの人間では、その力を振るえないからこうしてお願いさせてもらうことにしたの」
夢想神・レヴェリーの力に列なるユニットは、他人に寄生し、その心を糧に成長するという特性を持っている。必然、その存在の維持と顕現には強い霊格と神格が求められ、神能以上の神格が必要になる
そのため、レヴェリーは半霊命――あまつさえ、最弱と呼ばれるゆりかごの人間である詩織にこのような形で接触し、対話しているのだ
「どうして、私に……?」
その説明に疑問を覚えた詩織が怪訝そうな表情で、自身のユニットを植え付けられるであろう神魔、クロス、桜、マリア、瑞希のといった全霊命達ではなく、最も役に立たない自分を選んだ理由を問いかける
「こんなお願いを聞き入れてもらえるのは、光魔神の周囲にいる者の中ではあなただけだろうから」
先日神魔に別の形で協力を願い出たが断られた事実を伏せたレヴェリーは、小さく肩を竦めると警戒心を完全には解いていない詩織をその瞳に映す
レヴェリーが神魔に勧誘を断られた理由を詩織に話さなかったのは、単にこの九世界におけるあらゆる事柄の物差しを持たない詩織が、周囲に意見を求めてそれに流されないようにするためだ
あくまでも詩織個人の意思を尊重するレヴェリーは、神魔やクロス達に言われるまま自分の提案を拒否するのではなく、詩織が自分自身の意志で自分の言葉に答えを見出し行動に移してもらうことを願っている
「そして、あなたが私の力になってくれるなら、私もあなたの願いに全力で応えましょう。たとえ、界上解杖ではできなくとも、夢想神の名に誓って必ずあなたを全霊命にしてみせる――」
詩織をまっすぐに見据え、その心を揺るぎない決意で見つめるレヴェリーはその儚げな美貌に神としての威信を宿して宣言する
「忌まわしきゆりかごの存在からあなたを解き放ってあげる」
「……え?」
「?」
しかし、そこまで宣言したレヴェリーは詩織が零した声に、自分の言葉の意図が伝わっていないことを認識して訝しげに眉をひそめる
詩織が全霊命になりたいと願ったのは、神魔にその身も心も近づいて、結ばれることを願ってのこと。
しかし、レヴェリーは詩織がゆりかごの人間をやめるために全霊命になりたいと願っていると認識していた
自分と詩織の間に存在する認識の齟齬を感じ取ったレヴェリーはしばし怪訝そうに目を細めていたが、やがて合点がいったように不敵な笑みを刻む
「あら、これは失礼。もしかして、知らないのかしら?」
「なんの、ことですか……?」
自分の言葉の意図を全く理解していない詩織を見たレヴェリーは、自身の推測が間違っていなかったことを確信して肩を竦める
「なるほど」
小さくそう独白したレヴェリーは、何一つ知らずにいる詩織を見て、その幻想的な容貌に憐憫とも同情とも、嘲りとも取れる笑みを浮かべる
「優しさもその使い方を間違えれば、人を傷つける暴力になる――残酷なものね」
「だから、いったい何の……!」
思わず声を荒げようとした詩織を、感情のこもらない無機質な視線で沈黙させたレヴェリーは、目を伏せるとその身を翻して微笑みかける
「ここで私があなたに真実を教えるのは簡単なこと。けれど、あなたは自分の目で見た方がいいわ――あなたが信じた者達の許しがたい裏切りを」
「裏、切り……?」
その言葉に詩織が言葉を失う中、レヴェリーは空中にゆっくりと浮き上がると足元まであるその長い黒髪をさながら翼のように翻らせる
「私に協力してくれる気になったら、心の底で強く祈りなさい。あなたの心に印をつけたから、心から強く祈ってもらえれば、私はいつでもあなたの心に降り立つことができる」
そう言い残し、その存在を幻の様に消失させたレヴェリーの姿を見送っていた詩織の耳に、まるで残響の様に幻想の声が折り重なって紡がれ、一つの言葉となって届く
「あとはあなたの心掛け次第――これから、どんな生き方を選ぶのかも、ね」
※
「――ッ!」
眠りから覚醒し、目を覚ました詩織は月の精霊王城客間の天井をしばし見つめ、周囲に視線を巡らせるとゆっくりと布団から身を起こす
「……夢……」
鮮明に記憶に残っている夢想神・レヴェリーとの会話を思い返した詩織は、ゆっくりとベッドから降りると、カーテンを開く
常に薄暗く、分厚い雲を縫うようにして木漏れ日の様に降り注ぐ太陽の光を窓の外に見つめる詩織は、夢でありながら、現実よりも現実的な夢を思い返して静かに目を伏せる
「私、は……」
小さく独白した詩織は、夢の中で会った夢想神の言葉を思い返しながら、自身の心の迷いを振り払うように小さく首を振ると、その霊格に融合している人間界の機械――装霊機を起動させる
自身の霊格に融合し、その界能を動力とし、意識と思念で操作することができる装霊機の機能によって一瞬でその服を着替えた詩織は、やや重い足取りで個室の部屋を開ける
「おはようございます」
「おはよう」
詩織が部屋を出たのは、朝方としては決して遅い時間ではなかったが、すでに詩織以外の全員が揃っており、それぞれの反応で出迎える
その中にいる想い人――自分の苦悩や葛藤などは知る由もないであろう神魔に視線を向けた詩織は一瞬だけその表情を翳らせてゆっくりとその輪へと近づいていく
「どうした姉貴? なんかあったか?」
そんな詩織を見て普段と違う雰囲気を感じ取ったらしい大貴が怪訝そうに問いかける
「え? そう、そんなことないと思うけど……」
いくら双子の姉弟として、これまでの十五年の人生の大半を共有しているからといって、決して人の感情の機微に敏感な方ではない大貴にまで自身の動揺を悟られると思っていなかった詩織は、その言葉にわずかに慌てながらも、平静を装い努めて明るい声で答える
大貴程度が気付くのならば、詩織の様子がいつもと違うことに詩織と面識が浅いアイリスはまだしも、桜やマリア、瑞希といった女性陣が気付かないはずはない
現に瑞希は、一瞬気にかけるようにその麗悧な視線を送ったものの、必要以上の詮索をするのを憚ったのかその視線を逸らして無言を以って応じる
そして、詩織の想いと苦悩の原因を知っている桜とマリアは、昨日神魔が語った世界の歪みに関する話のショックをまだ引き摺っているのだろうと考えているらしく、質問をすることはない
(あの夢のこと、話すべきなのかな? でも……)
脳裏によぎる夢の中でのレヴェリーとの会話を思い返しながら、詩織は迷いを隠せずにわずかにその表情を翳らせる
レヴェリーのことをそのまま話してもいいが、彼女が言っていたいくつもの言葉が詩織の脳内を巡り、その言葉を喉の奥で押し留めてしまう
もし、世界の歪みの話が事実ならば、自分の想いはどうなるのか? もしも本当に全霊命になれるのならば、自分の想いが神魔に通じるのではないか? そして最後にレヴェリーが言い残した「裏切り者」という言葉。
これまで伊達に一緒にいたわけではない。その時の話をすれば、神魔たちや桜は、正しく詩織の願いを否定するだろう。しかし、詩織はたとえその選択が過ちだとしても、自身の心を満たす想いを捨て去る覚悟を持てずにいた
「それで、今日はどうしますか?」
その時、不意に大貴に向けて発せられたアイリスの言葉が思案を巡らせていた詩織の意識を奪い、場の空気をわずかに塗り替える
意図したわけではないのだろうが、アイリスの言葉に無数の考えを意識の奥へと一端保留した詩織はその声を受けた大貴に視線を向ける
「そうだな……」
アイリスに問いかけられた大貴が、今後の行動に対する思案を巡らせようとした瞬間、その場にいた詩織を除く全員が小さく目を瞠り、弾かれるように同じ方向へと視線を向ける
『――ッ!』
「?」
突然自分以外の全員が同じ方向へと視線を向けたのを見て取った詩織がわずかに驚きを浮かべながら訝しむ中、険しい表情を浮かべる大貴達はその知覚に捉えられた力を認識して目を細める
「この、精霊力は……!」
※
「何の用だ」
その頃、月天の精霊王城の前では、来訪者を前に守衛の役割を務める月天の精霊二人が、巨大な槍と矛を携えて鋭い視線を送る
「シャロット」
そこに佇む褐色の肌に鮮やかな蝶翅を持つ月天の精霊――十世界に所属する「シャロット」は、敵意をむき出しにする同胞を前に、その静かな佇まいを崩すことなく応じる
「敵対する意思はないわ。ただ、少し話をしたい人がいるだけ」
「話をしたい人……?」
精霊力に戦意を乗せ、いつでもその刃を振るえるようにしている守衛の精霊達とは対照的に、微塵の恐れも見せず、ただ静かに佇んでいるシャロットは、まるでその狼狽した姿を嘲けるように、その硬質な麗貌に微笑を刻む
次々に城に仕える月天の精霊達が現れ、自分を取り囲んでいくのを横目に、シャロットは最初に相対した二人の守衛に意識を向けて言葉を紡ぐ
「異世界からの客人」
周囲を取り囲まれているにも関わらず、動揺した様子も見せずに抑制の利いたよく通る澄んだ声を淡々と紡いだシャロットの言葉に、守衛を務める精霊達はその武器を握る手に力を込める
「通すと思うか」
今にも戦闘の火蓋が切って落とされそうな緊迫感が奔り、守衛の精霊達が放つ純然たる殺意が神格を持つ霊の力によって物理世界に影響を及ぼし、大地を震わせるとシャロットはその目に剣呑な光を宿して小さくため息をつく
「私は十世界だから、あなたたちに敵対する意思はないわ。けれど、おとなしく殺されてあげるわけにもいかない。だから――」
前もって戦闘の意志がないことを念押ししたシャロットの声に応じるように、その左腕を覆う手甲が可変して腕を包む込むと、その両側の装甲の内側から半透明の翼が伸びて巨大な弓を形作る
「必要最低限の自衛はさせてもらうわ」
手甲が変化した蜉蝣を思わせる弓に手を添えたシャロットに守衛の精霊達が戦意を高めた瞬間、その背後から低い声が響く
「待て」
その言葉に背後を振り向いた守衛の精霊達は、そこに立つ人物――ライルを見止めて臨戦体勢に入っていた意識を緩める
「ライル様」
「武器を収めろ」
ライルの言葉に一瞬顔を見合わせた守衛の精霊達だったが、再度視線で促されると各々が持つ武器の切っ先を下げて、戦意を収める
とはいえ、武器の顕現は解除されておらず、その警戒心が完全に解かれていないことを如実に物語った入るが、シャロットもライルもそれにまで言及する事はなくその視線を交わす
「――……」
シャロットとライル――妹と兄の視線がまるで互いの心中を伺うように交錯し、沈黙を守る二人が作り出す戦意とは別の緊張感を伴った重苦しい空気が、しばしの間その場に静寂をもたらす
言葉を交わすことなく対峙する兄妹の姿は、まるで九世界と十世界の対立を代弁しているかのようにさえ思える
「一応声をかけてみよう。お前はそこにいろ」
やがて、その沈黙を破るように発せられたライルの言葉に、シャロットは軽く目礼を返す
「ご厚情痛み入ります」
言葉も思念通話も交わさず、視線だけで意思疎通を図り、どこか他人行儀な言葉を交わした兄妹を見ていた守衛の精霊達が思わず諫言を述べようとするが、その知覚が取られたものがその言葉を中断させる
「!」
「……と思ったが、呼ぶ手間が省けたらしい」
守衛の精霊達が気付いているということは、当然その場にいるシャロットとライルもそれに気づいているということ
元々シャロットが出現した位置は、通常の全霊命の知覚が認識できる距離。そして妖精界王城で面識があることを鑑みれば、これはある意味で必然的な事態だったと言えるだろう
「『あなたの武器』久しぶりに見たよ……シャロット」
シャロットの常時顕現型の武器であり、通常左腕を覆う鎧の形状を取っているそれが、弓の形態になっているのを見たアイリスが懐古の念と、親しかった過去を重ねて複雑な心情を浮かべた表情で語りかける
「……アイリス」
その言葉を聞いたシャロットは、自分に対する贖罪の色を帯びているアイリスに事も無げに応じると、一度目を伏せ、かつての親友と共に降り立った目的の人物へと視線を向ける
「あなたが瑞希ね」
「――?」
昨日会ったばかりだというのに、名を呼ばれた事に瑞希が剣呑に細めるのと同時、それを訝しんだ全員が疑問に満ちた視線を言葉を交わした二人に集中させる
「ええ」
しかし、他の面々ほど驚きを露にしていない瑞希からは、まるであらかじめ覚悟していたような――それでいて、どこか諦めにも似た雰囲気が漂っていた
その意味を理解できない面々の中で、ただ一人瑞希の事情を共有しているシャロットは、自分に向けられる麗悧な視線に怯むことなく、抑制の利いた声で語りかける
「ニルベス様から伺いました。あなたが、十世界創始者の一人だと」
「――っ、なっ!?」
シャロットの口から発せられた言葉にその場にいた全員が驚愕を露にし、ただ静かに佇んでいる瑞希へと視線を向ける
その沈黙と反応を見て、返答を期待できないと考えたのか、シャロットはその目をわずかに細めて言葉を続ける
「ですから、確認させていただきにまいりました。あなたのお心を」
シャロットの言葉を受けた瑞希は、その水晶のように澄んだ硬質で怜悧な瞳に、対峙する月天の精霊の姿を映す
その瞳が映すシャロットの姿に、かつて自身が十世界に所属していた際に見た「奏姫・愛梨」を幻視し、重ねた瑞希は感情を宿さない表情を浮かべるのだった