日の光は月光に翳る
妖精界王城の地下深くに作られた巨大な空間に妖精界王・アスティナの持つ神器の力に封じられている存在――円卓の神座№3「自然神・ユニバース」に視線を落としていた天界の姫リリーナが小さく息を呑む
その存在を構築する神能を知覚することはできないはずだが、異端とはいえ神位第五位に相当する存在がいるとされる空間に充満する霊的、物理的、精神的な圧力を敏感に感じ取って、わずかに表情を強張らせているリリーナを横目で見たアスティナは、その視線を眼下に移動させて厳かな声音で言葉を紡ぐ
「私が持つ神器――『界上解杖』は、世界の境界を超える力を持つ神威級神器です。境界を引き、その境界を超える力を有すこの神器は、存在の壁を超越することによって神に等しい力を得ることができます
しかし同時に、この神器は境界を引き、世界を隔離する力を持つ封印と乖離の能力を有しています。そし、私は、その空間乖離の力を以って、かの神を世界から界離し、眠らせた状態を維持させているのです」
「……なるほど、それで円卓の神を封じ込めていられるのですね」
アスティナの言葉の意味するところを正確に理解したリリーナは、自然神を封じている空間を発生させている杖の形をした神器へ視線を向ける
二メートルを超える長さを持つその杖は、縦に並んだ三つの輪と、いたるところに神々しい輝きを宿した宝珠を抱いており、決して複雑な意匠や装飾が施されているわけではないが、自然や生命の神秘を思わせる深い造詣を感じさせる
その杖――「神威級神器・界上解杖」は、神から全霊命と世界が生み出され、霊質から物質が生まれたように、この世に存在するあまねく万物万象を成す格の概念を司る神器。
その力は、自身に行使すれば全霊命の存在としての格を超越し、通常決して踏み入ることのできない「神の格」へと至らしめることを可能とする、神の領域を踏み越える力。
堕格反応を無効化し、界級を上げることによって、その存在の本質を存在の根源に近づけるその杖は、同時に、決して踏み越えることのできない領域を敷く力をも有している
「はい。かの神、自然神・ユニバースは異神対戦の後、大きな損傷を受けてこの世界で自己治癒のための長い眠りにつきました。元々自然の神でもあり、積極的に活動する神ではなかったことも幸いしているのでしょう。未だ、活動を再開する兆しはありません」
円卓の神座の一角をなす自然神・ユニバースは、神位第五位相当の神格を有する神。いかな神威級神器とはいえ、その力で封じ込めておけるような神ではない。だが、この界上解杖はその力によって、外の世界の力を内側にいる自然神が知覚できないように領域の境界を敷いている。
元々活動的な神ではないことも手伝い、結果として外界の異常を知覚できない自然神は、その力によってその深い眠りを守り続けている
「では、もしあの神器を取り外せば?」
アスティナの言葉と、その神器の力を正しく理解したリリーナが、自然神を封じる結界を生み出している杖を見て思案気に問いかける
その問いかけの意図を理解しているアスティナは、思案の色を宿した瞳を抱くその目をわずかに細めると、神妙な面持ちで口を開く
「正直に申し上げれば、分からないというのが実状です。界上解杖は、あくまで自然神を世界から乖離させることによって知覚を封じ、その眠りをより強く守り続けているにすぎません
それが力の発現を失えば、自然神は知覚を取り戻すことになるでしょう。ですが、だからといって必ず動くのかと言われれば正直分かりかねると言わざるを得ません」
アスティナの神器である「界上解杖」は、その力で自然神を封じ込めているのではなく、眠りについている自然神を外界から遮断しているに過ぎない。もしも自然神がその力を振り払おうとすれば、その封印はなすすべなく破られてしまうだろう
しかし、その可能性は限りなく低い。なぜなら、その名の通り「自然神」は自然を司り、時の流れるままに泰然自若として存在するもの。それであるがゆえに極めて非好戦的にして受動的な、極めて不能動的な神。
だからこそ、何か特別なことが無い限り、自らその力振るうことはなく、その活動性を逆手に取って、それに輪をかける形で封じ込めているのが現在の状況だ――つまり、封印の楔の役目を果たしている杖の神器を取り外したからといって、即座に自然神が活動を再開するかは正直分からない
「……でしょうね」
天の流れを伺い、天運を知ることが難しいのと同様に、世界の運行と流転する理そのものでもある自然神の行動を予測することは限りなく難しい――そんなアスティナの真意をその言葉から読み取ったリリーナは重い口調でそれに応じる
「ただ一つ確かなことは、これが神器である以上、蒐集神の収集対象であるということ。そして今の私たちに自然神を止める手段はないということだけです」
神から最初に生まれた原在として、世界の創世記から存在し、神の力を実際にその目で見てきたアスティナが紡いだ重く、経験に基づく実感を孕んだ一言にリリーナは沈痛な面持ちを浮かべ、眼下に封印された円卓の神にその視線を送り続けるのだった
「困ったものだな」
深い闇の中、響いたその声を受け、中空に浮かんでいた足元まで届く黒髪を揺らすあどけない少女――円卓の神座№8、夢想神・レヴェリーはその声の主――自身の宿主たる「王路」の姿を見て唇を綻ばせる
「十世界のこと?」
窓の外に広がる見飽きるほどに見慣れた代わり映えのしない時空の狭間の景色を見て独白した王路は、怠然と流れていく時を煩わしく思っているかのように眉をひそめると、余裕がないとも、焦っているとも取れる感情を平静な居住まいの下から匂わせて、愉快そうな笑みを浮かべているレヴェリーに応じる
「ああ。あいつらには、光魔神覚醒の手伝いをしてもらわなければならないというのに、その世界を任されているニルベスは奏姫の志を汲む者だ」
忌々しげに王路が言った「あいつら」が「十世界」を意味していることを正しく理解しているレヴェリーは、その言葉の意図を明確にしようとしているかのように、あえて分かり易くその言葉を咀嚼する
「そうだね。光魔神を完全に覚醒させるのに最も手っ取り早くて確実なのは、死線をくぐらせることだろうから」
王路とレヴェリーの目的は、未だ不完全な光魔神を完全に覚醒させ、その記憶の中にあるはずの「とある神器」の在処を聞き出すこと
そのためには死線をくぐらせ、自身の存在の根源に自ら近づくように仕向けるのが、最も手っ取り早い手段だ
十世界はそのためのいい当て馬だというのに、今当の光魔神が訪れている世界を任されているニルベスは、奏姫の意志を汲み、争いを好まず世界の恒久的平和という十世界本来の理念を体現しようとする穏健派だ。このままでは、天地がひっくり返ろうとも光魔神と十世界が戦うことはないだろう
「あちら側に、こちらの協力者を仕立てられなかったのも痛いな」
「そうね――まあ、世の中何もかもが思う通りになるものでもないだろうけど、あれはミスキャストだったわね」
王路の声に微笑で返しながら、わずかにその目を細めたレヴェリーの瞳が幻視しているのは、先日こちら側の味方に引き込もうと接触を図った相手――神魔の姿。
そもそも光魔神を完全に覚醒させることを目的としている王路とレヴェリーにとって、一刻も早く大貴を完全な光魔神へと目覚めさせることは急務。
しかし、それで光魔神が命を落としてしまっては本末転倒。だからこそ、光魔神を限りなく死線に近づけながらも、その覚醒の時まで守り続けてくれる人物が必要だったのだ。
そのために神魔に自身の神片ユニットを与えようとしたのだが、まさかそれを自らの手で殺めるとは、さすがのレヴェリーにも想像がつかなかったが。
「済んだことを後悔しても仕方がない。――レヴェリー。あと、何人いる?」
レヴェリーの言葉を受けた王路は、ままならない現実に悩痛な表情を浮かべると、静かな口調で背後に浮かぶ少女の姿をした幻想の異端神に声をかける
その言葉を受けたレヴェリーは、その手に八枚の花弁をも持つ花が顕現させる。その花弁の内四枚は淡い光を帯びて輝いていた
「クラムハイドに与えていた子が返ってきたけど、もう一度夢吹かせるのは時間がかかるから――未使用と使用中が丁度半々ってところね」
「四人か」
レヴェリーの手にある花が、その神片ユニットであることを知っている王路は、その言葉に静かに目を伏せると、意を決したようにその口を開く
「――仕方がない。こちらから火種を蒔くとするか」
「こちらをお使いください」
月天の精霊王城の奥――先程までイデアと会っていた玉座の間がある本殿と回廊によって繋がっている離宮へと大貴達を案内したライルは、その扉を開いて中に異世界からの客人達を招き入れる
一つの広間を共有し、いくつかの部屋が並んだ寮とも宿舎とも取れる室内は、まるで絵画の中に取り込まれたような錯覚を与えてくる
決して派手ではないが、リビング全体を照らす煌びやかなシャンデリアや華麗な装飾が施された室内は豪華でありながら、居心地の良さを損なわない調和を以って大貴達客人を迎え入れていた
「この中はご自由に使っていただいて構いません。無論、皆様のご都合さえよろしければ、今晩だけといわず、何日でもご逗留ください」
離宮へと大貴達を案内したライルは、室内に全員が入ったのを確認してそう声をかけると、その視線をアイリスに向けて言葉を続ける
「ここには、彼女も滞在していただきますので、何かあれば彼女はもちろん、この城内にいる者なら誰に声をかけていただいても構いませんので。ではごゆっくり」
そう言って身を翻したライルは、唇を引き結んで佇んでいるアイリスの手がかすかに震えているのを見て、そっとその肩に手を置く
「――君が気に病むことはない。これは、あれが望んだ結果だ」
大貴達に聞こえない声で囁いたライルが歩き去っていくと、アイリスはその存在が遠ざかっていくのを背中で見送りながら、声にならない声で慟哭し、言葉にならない思いに打ちひしがれながら佇んでいた
「世界の歪み、か……」
離宮を後にし、足を止めて振り返って独白したライルは、先程神魔から聞いた話を思い出して嘲るように鼻を鳴らす
「あの話が本当のことだとすれば、滑稽な話だな」
この世界に刻み付けられた神の力による"歪み"。そしてその権化ともいえる異なるもののとの混血として生まれた混濁者という存在。
そして生まれただけで禁忌とされ、その存在を排除されてしまう混濁者を世界に迎え入れようとする十世界。――しかし、その神魔の話が本当のことならば、十世界がしていることは世界を変えるために世界を滅ぼす要因を許し続けているということになる
「混濁者を排除しようとする九世界と、許容しようとする十世界。生まれてきたことに罪はないのかもしれない。しかし、その混濁者が世界に存在してはならないものだったとき、通すべき真理と正義はどちらにあるのだろうな」
皮肉と嘲笑を混じた独白をしたライルは、何かに想いを馳せるように目を伏せると、その身を翻して離宮を後にするのだった
その頃、離宮の中ではどこか言葉を憚るような雰囲気に包まれた空間の中、それを見かねたように小さくため息をついた神魔があえて語気を明るく強調した声で言う
「さて、ところで部屋割りはどうしようか?」
その神魔の言葉が、誰もが口を開かない中で気を遣って発せられたものだと分かっていながら、それに沈黙と静寂だけが答えとして返ってくる
「――……」
(なんか気まずい。だから、言うのは嫌だったのに)
神魔と桜が世界の歪みについて話さなかったのには個人的な事情を含めて諸々あるが、天使と人の混濁者であるマリアに気を遣ったいう側面もある。そして桜は詩織が神魔に向けている感情を知ってるがゆえにそれを肯定していた
隠していたことが良かったとは言わないが、本当のことを言ってもどうにもならないことがある。ザフィールの言葉の真偽はともかくとしても、混濁者が許されない存在であるのならそれは何をどうあがいても変わるものではない。
まして、それが神の力の影響によって生まれてくるものならば、全霊命を含めて誰にもどうすることもできないのだから。
結局、今自分たちにできることは、今存在している混濁者に対してどうするかという話でしかないだろう――だが、頭で分かっていも、受け入れられないことがあるのも事実
「はぁ……」
状況的に仕方がなかったこととはいえ、それを話してしまったことで生じているこの重苦しい空気に、神魔はわずかにその表情をひそめて、諦めたようにため息をつく
「――まぁいいや。とりあえず僕たちは休ませてもらうね」
そう言って桜に一瞥を向けた神魔は、自身の伴侶である淑やかな美女を連れ立って手近な部屋へと入っていく
(……これは)
どこか興味なさげな軽い口調に、伴侶を伴っての行動。一見場の空気を呼んでいないような行動だが、それが、神魔が作ってくれた解散の合図であることをその場にいる詩織以外の全員が理解していた
それを見ていたマリアは、神魔から聞いた世界の歪みの話を思い返し、自身の身体に流れる天使と人の血を噛みしめながらその身を翻そうとする
「――っ!」
しかし、そのまま部屋へ戻ろうとしたマリアの細腕をクロスの腕が捕まえて引き止める。それに驚いて視線を向けたマリアは、戸惑いと恥じらいに火照った表情でクロスを見つめる
しかし、そんなマリアの視線が向けられることを分かっていたのか、視線を前に向けたままでいるクロスは、ただその手を離さずに佇んでいるだけだった
その強い意志をたたえた横顔は、まるで「自分の存在から逃げるな」とマリアを叱咤しながら、同時に「俺が傍にいる」と励ましてくれているように思える
言葉にするのが恥ずかしいのだろうが、思念通話でもなんでもいいから声をかけるくらいの甲斐性を期待しつつ、それが叶わないことも半ば確信していた
(せめて、何か言ってくれればいいのに)
自身の腕を痛みを感じさせないように、しかし強い力で握りしめているクロスの腕からそんな気持ちを感じ取り、受け取ったマリアは、不器用な優しさを見せるその姿に愛おしげに目を細めると観念したように身体の力を抜く
それを感じ取ったらしいクロスが腕の力を緩めると、マリアは照れ隠しなのか、あくまでも視線を合わせてくれない想い人の横顔に小さく笑みを送ると、一歩だけその距離を縮める
(本当に、困った人)
長年の付き合い、ずっと見続けてきたからこそ、クロスがそんなことをする性格ではないことを知っているマリアは、困ったように、しかしそれでもどこか救われたような幸せな笑みを零す
混濁者であるマリアにとって、その身に宿った神器のためにただ生かされている日々は死んでいるのと変わらないものだった
しかし、そんな自分に救いの手を差し伸べてくれたのが敬愛するリリーナであり、そして生きる幸せを感じさせてくれたのがクロスだった
(そんなんじゃ、好きな人に気持ちを伝えられないんじゃないかって心配だよ?)
自身の胸に宿る想いに心を焦がしながら、同時にそれが叶わないで願いであることを知っているマリアは、少しでもクロスの存在を感じようとするかのように、その目、その空気、知覚――自身が持つあらゆる感覚の全てを傾けてその近くにいる自分を噛みしめていた
(私がいなくなる時には、ちゃんと心配させずに送り出してほしいんだから)
「私も」
クロスとマリアが言葉を出さないやり取りを交わしている傍らで、神魔と桜が部屋に入っていくのを見見送っていた詩織は、その心の痛みを映す瞳を現実から背けるように目を伏せるとその身を翻す
溢れ出そうとする感情を懸命に心の中に押し留め、慟哭を殺しているようなかすかに震える声でそう言い残した詩織は、まるであてつけるように神魔達とは反対の位置にある部屋へと入っていく
「では私も、失礼させていただきます」
そうして詩織が身を翻したのを見た瑞希がそれに続いて手近な部屋に入っていくと、離宮の広間には大貴、クロス、マリア、アイリスの四人だけが残される
神魔が作った部屋に入るという流れにも乗り損ねた四人が残った広間には、誰もが言葉を発することも躊躇うような静寂が満ち、互いが何かを伺うように他の三人に意識を配っていた
「なんか、色々難しいもんだな」
その沈黙とこの場を満たす思い空気を切り払うように、少し柔らかくした声で独白した大貴は、広間にある大きな窓を背にしてその視線をアイリスに向ける
「一つ、聞いてもいいか?」
「……私?」
熱い雲に常に覆われているために昼夜問わず薄暗く、木漏れ日の様に光が差し込んでいる空。そしてその光を吸収して虹の燐光を生み出す結晶に覆われた大地――その二つが織りなす光のコントラストを背にした大貴は、光と闇を等しくその身に内在している証でもある左右非対称の瞳でアイリスを見つめる
突然声をかけられたアイリスは、わずかに翳らせていた表情からその憂いを消し去り、まるでその心を隠そうとしているかのように明るい声で応じる
「ああ。あんた、何を隠してるんだ?」
その言葉にアイリスが小さくその肩を震わせると、それを見逃さなかった大貴は抑制の利いた声で質問を続ける
「少し様子が変だぞ?」
問い詰めるような強い口調にならないように努め、会ったばかりの人の事情にできるだけ踏み込みながらも、可能な限り不躾にならないように言葉を選んで配慮する大貴の質問に、アイリスはその表情に再び影を落とす
まるで太陽によって生じた影を思わせる表情を浮かべたアイリスは、しばし逡巡する様子を見せたが、やがて何かに負けたような表情を浮かべて小さく嘆息する
「今朝会った十世界の月の精霊、覚えてる?」
どこか自虐的にも映るその表情は、これまで心の中に貯めてきた様々な感情を誰かに話す罪悪感と、永い間蓄積され、鬱積した抑えきれない思いを吐き出す安堵感さえも感じられた
「確か、シャロットだったか?」
嘆きを堪えているとも、懺悔しているとも取れる表情と、暗い声音で語りかけられた大貴は、それを聞くことに一瞬躊躇いを覚えるが、意を決して応じる
大貴にとって面識のある月天の精霊は少ない。ましてや「今朝会った」という条件を付けられれば、思い当たるのは妖精界王城で会った十世界に所属する月天の精霊――シャロットしかいない
その大貴の答えを受けたアイリスは、小さく頷いて見せるとどこか自虐的な笑みを浮かべてその視線を大貴の向こう――窓の外に広がっている曇天の空、あるいはその先にいるであろう人物に向ける
「そう。彼女――シャロットは、ライルさんの妹で、そして私の……一番の親友だった」
(一番の親友だった、か)
その言葉に小さく眦を吊り上げた大貴は、アイリスの言葉に含まれる意味を察してその続きを待つ
「全部私が悪いの」
大貴の視線に目を伏せたアイリスは、その声をかすかに震わせながらその心を吐露し、強く唇を引き結ぶ
常に自分を傷つけるように紡がれるその言葉は、アイリスがいかにそのことで自分を責め、呪い、悔やんでいるのかを何よりも雄弁に物語っているように思え、大貴はその痛ましい姿に、傲慢とも思える憐れみを覚えていることを自覚していた
「イデア様も言ってたでしょ? ロシュカディアル戦役のこと」
大貴だけではなく、クロスとマリアも視線を送る中、そう言って問いかけたアイリスはその言葉に対する答えを聞くことなく言葉を続けていく
「私にはあなたたちがお城で会った父以外にも何人か兄弟がいて、凄く大好きなお母さんがいたの」
アイリスの言葉に、大貴の脳裏には妖精界王城で妖精界王・アスティナの護衛として傍らに控え、アイリスの父と名乗っていた金髪の精霊――カリオスの姿が思い返されていた
殺されるまで最盛期を維持したまま永遠に生き続けることができる全霊命は、その特性上出生率が高く、何万年、何億年という歳の離れた兄弟がいることも珍しくないことではない
そして、アイリスもそんな全霊命世界の例にもれず、多くの兄弟を持つ精霊であり、両親の愛情に包まれて、素直に優しく成長していた
「でも、お母さん達は殺された――ロシュカディアル戦役で裏切った月天の精霊達に」
「!」
強く拳を握りしめ、慟哭するように発せられたアイリスの言葉に、大貴とクロス、マリアはおおよその事情を察して目を伏せる
ロシュカディアル戦役――九世界の歴史上たった一度だけ起きた、光の全霊命である月天の精霊達による裏切りの戦乱。それに巻き込まれ、アイリスの母と兄弟たちは皆命を落とした
仲間だと信じ、同胞だと思っていた月天の精霊達に家族や大切な者たちを殺められた精霊達が、「自分たちも敵を殺し、誰かから愛する者を奪っているのだから、それが逆になっただけ」などという理屈で納得できるはずがない。
それが、敵に殺されたのならば、まだよかったのかもしれない。だが彼らから愛する者達を奪ったのは、ほかならぬ同胞と信じていた者達だった――その時の精霊達の精神的な苦痛を推し量ることなどできないだろう
「ロシュカディアル戦役は私が生まれてすぐの頃のことだったし、アスティナ様達の意向で月天の精霊達への差別を少しでもなくすために、ロシュカディアル戦役についてはあまり触れないようにしてたこともあって、私はそのことを知らかったの」
妖精界王であるアスティナは、イデアをはじめとする月天の精霊達との和解を望み、次世代の子供たちに憎しみを引き継がないように可能な限りの配慮を施した
永遠を生き、親から記憶以外の情報を受け継ぐことができる全霊命達から、その記憶を消し去ることが難しいことはアスティナにも分かっていたはずだ。しかしそれでも、心優しい妖精界王は心を砕いて罪のない子供たちへの云われない差別を回避しようとしたのだ
できる限り情報を伏せ、精霊達にも月天の精霊全てが裏切ったわけではないと説き続けた。しかし、残された者達が同胞でありながら自分たちを裏切り、大切な者たちを殺したことを許せるものなどそうはいない。頭では分かっていても、その心が許さなかったのだ
当時幼かったアイリスは、ロシュカディアル戦役そのものがさほど長くなかったことと、その意向もあり、母と兄弟たちは戦いの中で命を落としたと思っていた。
そんな失意の中で出会った幼い月天の精霊――シャロットと、親しくなり、長い間友人として過ごしていたのだ。その時は理由を知らなかったため、なぜか月天の精霊を嫌っていた父、カリオスの目を逃れるように――。
「だから、私とシャロットは子供の頃に出会って、すごく仲良くしてたの。子供の頃から、ずっとずっと……お父さんに内緒でシャロットと遊んでた。月天の精霊をお父さんが嫌ってるのを知ってたから。でも、結局バレてね――その時に、教えられたの。お母さんを殺したのは月天の精霊だって」
しかし、いかに全霊命とはいえ、そんな子供の浅知恵がいつまでも大人を欺き続けられるはずもなく、それを見咎められた父に反抗した際、アイリスはその事実を知ることになる――かつての同胞だった月天の精霊が裏切ったことにより、敬愛する母と兄弟たちが命を落としたという残酷な事実を。
無論いつまでも隠し通せるということはなかっただろう。遅かれ早かれアイリスはその事実を知ることになったはずだ。それを見越してカリオスはその事実を告げたのであろうし、最も納得がいかない形で愛する者を失った怒りに任せて、つい口走ってしまったのかもしれない
その真意はアイリスには測り兼ねるものだったが、愛する者を同胞と信じていた者たちに奪われ、あまつさえ、王の命令とはいえその裏切り者たちと関係を改善する体制が、その憎しみのやり場を奪っていたこともその一因だったのろう
「お父さんはお母さんのこと大好きだったし、私も大好きだった――だから、それを聞いてお父さんの怒りの理由も理解できたし、私も憎むってほどじゃなかったけど『なんで?』って思っちゃって……」
いずれにしろ、その事実は幼かったアイリスにとってショックを隠せないものであり、今までの日常を壊すに余りあるものだった
「それからはダメ。シャロットは関係ないはずなのに……ぎこちなくなっちゃって。気を遣ってくれたシャロットに言っちゃったんだ」
自身の愚かさを苛み、唇を引き結ぶアイリスは、その身を自身への怒りで打ち震わせながら震える声を噛み殺す
元来から純粋で直情的な性格のアイリスは、意識しないようにすればするほど、シャロットとの距離を作ってしまっていた。
当然それは、シャロットにすぐ気付かれ、友情と母を失った失意と、父の憎しみ――やり場のない感情を持て余し、うまく立ち回れない自身への苛立ちに苛まれていたアイリスは、その感情をついぶつけてしまったのだ
「月の精霊が裏切らなければ、お母さんは死ななかったのに。シャロットとももっと自然に友達になれたのにって」
それは、アイリスの心に残り続ける後悔と懺悔。その言葉を聞いたシャロットの表情は、今でもアイリスの心に焼き付いて離れない
分かっていたはずだった。知っていたはずだった。自分とシャロットが同じ出会ったことを。アイリスがロシュカディアル戦役で母と兄弟を失ったように、シャロットもまたその戦いで家族を失っていたことを
「言い訳でしかないけど、悪気がなかったのは本当だよ。シャロットには関係ないって分かってたし、私が生まれる前のことなんて引きずってもしょうがないって言う面もあったから。
でも、月の精霊がお母さんを殺したのは事実で、それが無ければお父さんも月の精霊達と仲良くしてて、きっとシャロットとももっと普通に、他の友達と同じように他愛もない親友でいられたのにっていう思いはあったから」
悔やんでも悔やみきれない自身の愚かさを嘲笑うようにその表情に笑みを浮かべたアイリスの独白に、大貴は合点がいったように口を開く
「だから、あんなに神魔に食いついたのか」
「うん。月の精霊の人達が何を想って戦ったのか知りたかったから……」
世界の歪み――月天の精霊王がロシュカディアル戦役を起こすに至った可能性について話すことを躊躇っていた神魔に食らいついて説明を求めていた姿を思い出して言った大貴の言葉に、アイリスは小さく首肯する
「まぁ、今更こんなことを知っても、許されるはずもないんだけどね」
今も、シャロットへの懺悔と後悔、自責の念に苛まれているアイリスが少しでもイデアの――そして当時の月天の精霊達の心を理解しようと心を砕いている姿に、大貴は優しく声をかける
「そんなことないさ。仲直りしたいんだろ?」
「それは、そうだけど……」
照れているのか、少しだけよそよそしく、同情とも励ましとも取れる声で語りかける大貴に、アイリスはその表情を曇らせて応じる
「なら、ちゃんと謝らないとな。許してもらえなくても、何度でも。それに、あのシャロットって精霊も、たぶん仲直りしたいと思ってるんじゃないか?」
「え?」
その言葉に目を丸くしたアイリスに、大貴は窓の外に広がっている黒い雲を切り裂いて差し込む陽光に目を細めて言葉を続ける
「だって、そう思ってなきゃ、十世界になんて入らないだろ?」
「……!」
十世界は光と闇、すべての存在が手を取り合い、恒久的な平和を作り出すことを目的とする組織。中にはそれを利用しているだけの者もいるが、シャロットがその理念に同調して十世界に入ったのならばそれは、平和を求めたからのはずだ
妖精界王城で会ったニルベスも、多くの者を失ったと言っていた。ならばシャロットも同じように、精霊達の間に生じた亀裂を少しでも埋めたいと願い、そしてアイリスと昔の様な友人に戻りたいと思っているからこそ十世界の門を叩いたのではないか――何の確信もないが、そんな考えが大貴の脳裏には浮かんでいた
「ま、俺の勝手な想像だけどな。でも、友達に戻りたい――戻れるって思い続けることも大事だと思うんだ。他人事みたいで無責任かもしれないけどな」
結局のところ、大貴の一方的で楽観的な、希望的観測に満ちた予想でしかない事。そんな安い慰めの言葉を送ったところで、アイリスに無責任に期待させてしまうだけなのかもしれない
それが分かっていても尚、大貴はそれを伝えることを諦めたくはなかった。一時の感情に身を任せてしまったとはいえ、これだけ罪悪感に苛まれているアイリスを見ていると、その親友であったシャロットもまた昔の関係に戻りたいと思っていると信じたかったのかもしれない
無責任な慰めの言葉をかけていると自覚しながらも、大貴が自分を案じ、自分が信じているシャロットを信じて励ましてくれていることをその声音から察したアイリスは、小さく首を横に振って空元気半分、心の底からの感謝を半分込めて笑みを浮かべる
「うぅん。ありがとう、光魔神様」
「大貴だ。それと、その喋り方の方が気楽でいいな」
「え?」
大貴の言葉に目を丸くしたアイリスは、先ほどまで自分が使っていた言葉を思い出して、慌てて口元を手で隠す
「あ。いけない、つい地で……」
感情の昂ぶりに普段通りの口調で話してしまっていたことに気付いたアイリスが慌てて体裁を取り繕うとするが、すでに出た言葉をなかったことにはできない
「別に、そんなに気を遣わなくてもいいんだぞ?」
桜やヒナ達のように、日常から敬語を使う者たちと接しているため、それそのものに違和感を覚えることはもうないが、別に畏まって話してほしいわけでもない。
それが普段の言葉遣いならまだしも、無理してまで敬語を使ってもらおうとも思っていない大貴の「普段の口調通りで話してもらって構わない」という意図を孕んだ言葉に、アイリスは少し困ったような笑みを浮かべる
「あなたが良くても、こちらが困るの。光魔神をはじめとして、別の世界からお客様を迎えるのに、地で話すことはないでしょ?」
「確かに。けど、俺としてはそのくらいの方が気が楽でいいんだけどな」
当然と言えば当然のことだが、異世界からの客人達をもてなすために敬語を使っていたアイリスに、大貴は肩を竦める
「まあ、仕方ないよ。やっぱり礼儀だから」
「そういうもんか」
苦笑を浮かべたアイリスの言葉にため息を返した大貴に、剣呑な光を宿した視線を向けるクロスは、その姿にしばし逡巡した様子を見せると、意を決した口を開く
「大貴」
ここで話に割って入る決断をしたクロスは、声をかけて意識を向けさせた大貴に抑制の利いた声で淡々と諭すように語りかける
「お前がなんで急にそんなやる気を出してるのかはこの際構わない。別に力になってやろうって気持ちは悪いものじゃないからな
ただ、正しいと信じたことをしたからって望んだ通りの結末が手に入るとは限らないってことだけは肝に銘じておけ」
妖界での出来事と決意の仔細を知らないクロスには、大貴の心境の変化の理由は分からない。だが、それが大貴の決めたことならば、それを導き、支え、尊重するのが光魔神の護衛を任された自分たちの役目だとクロスは認識している
それは、別の機会を待ってもいい事だった。その心境の変化が悪いものだとは言わない。しかし、世界は誰かの望んだ通りにはならない――良くも悪くも。
アイリスに同情する気持ちは理解できる。力になりたいと思うことは悪いことではない。しかし、力が無いために叶わない願いがあるように、力があるが故に叶えてはならない願いもある
大貴の護衛として同行しているクロスとしては、取り返しが付かないことになる前に、そして見誤らせないため、一刻も早くその志に釘を刺しておく必要があった
「お前がどういう風に世界に関わるかはお前が決めることだ。でも、その結果自分が思っていたようにはならないこともある――イデア様のようにな」
「――!」
神魔が言っていたことが事実だと仮定すれば、イデアは世界を守ろうとした。そのやり方の是非はともかく、その願いそのものは決して悪いものではなかった――否、むしろ、正しい判断だったともいえるだろう
だが、実際にはその願いは叶えられず、月天の精霊王とその仲間たちに与えられたのは、裏切り者の烙印。残されたのは、守ろうとしたはずの世界や同胞達との対立と不和だけだった
自分が思ったことと、その結果が違うということなどはよくあることだ。夢が破れるように、守りたかった人を失ってしまうように――そして、人のためを思って行った行動が結果的に人を傷つけて終わることも。
(クロス……)
その言葉が他ならぬ自分自身のことであることを知っているマリアは、その痛みを共有するようにその姿を深い慈愛に満ちた瞳に映す
正義の代償――かつてクロスは、正しさと引き換えに大切なものを失った事を知り、そして今でもその心に深い傷を残している
自身の心に触れようとしているかのように胸に手を当てたマリアは、クロスの心の救済を願い祈りを捧げる
「分かってる。けど、失敗するかもしれないって何もしなかったら、何もできないだろ」
クロスの忠告を受け入れながらも、大貴がそう応じると、二人の間に一瞬緊張のようなものが奔り、その間にある空間と時を膠着させる
「で、でも、それを気にしてたらなにもできないような……」
自身が元凶であることを自覚していることもあるのだろうが、アイリスが二人の顔色をうかがいながら、その間を取り成すように言うとクロスは静かに目を伏せて応える
「まぁ、な。ただ、そういう覚悟も必要だって話だ」
「はぁ、疲れた。まったく、なんで僕がこんなに気を遣ってるんだろ?」
そんなやり取りが広間で行われる少し前、桜を伴って部屋に入った神魔は、ままならない世の中に辟易した様子でため息をつく
いつかは話さなければならなかっただろうとはいえ、世界を歪ませる神の力とその結果についてを、その犠牲者の一人ともいえる混濁者がいるあの場で話すのは気が重いことだった
結果、危惧していた通り沈鬱な空気が場を満たしてしまい、その原因である神魔は自分に責任のあることでもなく、非があるわけでもないのにこうして心を砕くことになっている
「神魔様がお優しいからですよ」
そんな様子を一瞥した桜がその目を深い親愛に綻ばせ、絶世の美貌を花のように綻ばせると、背後からそう言われた神魔はため息混じりに肩の力を抜く
「なんでそうなるの? 僕は仲良くないからって、わざわざ敵対するような行動をとる必要がないって思ってるだけだよ」
まるで自分がマリア達を案じて気にかけているような言い方をする桜に、神魔はやや抗議混じりの言葉を返す
その言葉に嘘はない。確かに世界の歪みを話すにあたり混濁者であるマリアに一定の配慮をしたのは事実だが、神魔からすれば、究極論マリアの事情になど興味はないし、その心情などしったことではない。
しかし、自分達悪魔と敵対関係にある天使だからといって決してクロスやマリアを嫌っているわけでもない。不必要な不和や対立関係を生じさせることなど無意味であり労力の無駄と考えているだけだ
「そうですね」
しかし、そんな神魔の言葉を美笑と共に受け流した桜は、心優しい最愛の伴侶を見て信頼と信愛に満ちた笑みを浮かべる
肯定の言葉を述べながらも、桜は神魔が述べた「わざわざ敵対する必要がない」という言葉の表層を否定し、その奥にマリアをはじめとした多くの者に向けられるその優しさを見出している
「……」
無償の信頼に満ちた視線と笑みを向けてくる桜を前にした自分が無力であることを痛感している神魔は、これ以上の問答を諦めて息をつくと、些細な反撃を試みる
「桜」
「――ぁ」
優しくその名を呼んでその華奢でしなやかな身体を優しく抱き寄せると、桜色の髪が春風に舞う桜の花びらのように宙に舞い、抵抗なくその身体が神魔の腕の中に収められる
「桜には勝てないな」
「もう、神魔様ったらっ、ん……」
神魔の腕の中で優しい囁きを受けた桜は、その顔を桜の花のように色づかせ、この世で最も愛する人に淑やかにその身体と心を委ねる
その桜色の髪を梳くように神魔の手がそっと桜の首筋から頬を撫でると、その花弁のような唇から熱を帯びた甘い吐息がこぼれ、愛おしさに満ちた瞳が最愛の人を映す
「じゃあ、桜に元気づけてもらわないとね」
自分が向けた言葉を建前にして全く気落ちした様子もなく、どこかとぼけるような口調で言った神魔に、桜はその目元を綻ばせて淑やかに微笑む
「喜んで」
抱擁を交わし、その身を触れ合わせる神魔と桜は、互いの存在を己の魂に刻むかのように心を重ね、自分たち以外誰もいないこの空間でただの伴侶としての一時を噛みしめるのだった――。