交錯
世界と世界の狭間に存在する仮初の世界――通称「時空の狭間」。数多星の数ほど存在する時空の狭間の一つ――無数の大地が浮かぶその世界には、巨大な建造物を乗せた浮島が存在する。
その巨大な浮島そのものを神殿と化しているそれは、荘厳さと崇高美を兼ね備えており、不用意に近づくことさえ躊躇われるような威厳を纏ってそこに存在している
九世界中立殿『大界議場』。――それがその浮島に存在する巨大建造物の名称だ。
その名の通り、この大界議場は九世界での絶対的中立を貫き、光や闇といった概念はもちろん九世界を総べる全霊命達の諍いを持ち込むことも干渉することも許さない不可侵にして絶対的な協定に守られた場所だ
そしてこの場所こそ、九世界に住まう者たちが条約を結び、協定を定める九世界全ての者たちが批准する法を作るための最高位立法府。
混濁者の排除、多種族との交雑の禁忌をはじめとし、世界を定める絶対的にして不変の協定を定めるこの場所は、たった一柱の異端神によって支配され管理されている
大界議場内に存在する空間。周囲を取り囲む空白の議席を見渡せる半透明の球体の中に向かい合うように並べられた三つの椅子が置かれ、それぞれに顔をヴェールで隠した白髪の女性、仮面で顔を隠した黒髪の男、天秤を思わせる兜をかぶりマンとに似たローブに身を包んだ長い髭を持つ老人が座っている
「先ほど、理想郷から連絡がありました。蒐集神が彼女を振り切って逃亡したそうです」
静かな声で口火を切った白髪の女性の言葉に他の二人が頷き、仮面をつけた男が記憶を遡っているような抑制の利いた声で独白する
「随分と久しぶりのことだな」
蒐集神が己を抑える役目を与えられた理想郷を巻いて世界にその力を向けたことは歴史上何度かある。以前に蒐集神が逃げたときのことを思い出しているであろう男の言葉に、長い髭を鋼の様な指でなぞる老人がその兜の下に見える目をわずかに細める
「なれば、世界とそこに住まう者たちに危険が及ぶやもしれぬな」
「まったく、護法神も理想郷一人に任せず、聖戦や聖騎士と共によこせば、神位第六位相当の蒐集神ごとき容易く屠れるだろうに」
苦々しげに吐き捨てた仮面の男の言葉に、ヴェールで顔を隠した白髪の女性は半透明の布の向こうにみえる怜悧な瞳に慈愛の色を宿す
「それは仕方のないことです。確かに蒐集神は世界にとって危険な存在ではありますが、だからと言って滅ぼしてもよいというわけではありません
法を司る我々が、罪を見ることによって法を定めるのと等しく、世界にとって害をなすものがあるからこそ世界が存在し、存続しうるのですから」
蒐集神の力は、神の領域の最下級――神位第六位と同程度。そして必然的にその相手を務めている理想郷もそれに等しい力を有している。
理想郷は、円卓の神座№10。護法神・セイヴの力に列なる七人の神片ユニットの一人であり、もしも本気で蒐集神を斃そうと思うならば、他の――もっと戦闘能力に特化した神片と協力すれば可能だろう
確かに蒐集神は世界から危険視されている存在だが、だからといってそれを滅ぼしてもよい理由になるかといえば、それは必ずしも肯定されるべきことではない
悪があるがゆえに正義が存在し、善を解するためには悪を知らなければならない。蒐集神はその名の通り、蒐集の神。少々やりすぎるきらいはあるが、それはこの世に生きる多くの者が持つ自然な意識だ
蒐集神を肯定することは、ある意味において自身の中にある世界の理や法に反する意識と向き合うことに等しい――自らの中にある悪を肯定できないものに真の意味での平和や調停を作り上げることは叶わないだろう
「温いな。世界を脅かすものに存在する価値はない」
「あなたは苛烈すぎるのですよ」
しかしそんな言葉の意味を分かっていながら、世界という理――一つの巨大なシステムを守り、その中で生きる者たちにはそれにそぐわないものは排斥するという意思を見せる仮面の男に、白髪の女性はため息交じりに応じる
「いずれにせよ、彼奴が逃げたのならば、世界に対して警戒を促すのが世界の法を司る我らの役目だ」
二人の会話に耳を傾けていた髭の老人が場を諌めるように言うと、仮面の男と白髪の女性はそれに無言のまま首肯の意志を示す
「では、一致ということでいいな」
二人に視線を向けた髭の老人が席から立ち上がったを皮切りに、仮面で顔を隠した黒髪の男とヴェールで顔を隠した白髪の女性がそれに続くように立ち上がる
『法の制定者』
他の二人が立ち上がったのを見て取った髭の老人は、一度目を伏せてから厳かな声音で自身の名を宣言するように告げる
『法の守護者』
髭の老人――法の制定者に続き、顔をヴェールで隠した白髪の女性が澄み切った穏やかな声で自身の名を紡ぐ
『法の執行者』
その二人の言葉に続き、仮面で顔を隠した黒髪の男が刃のように鋭い声で自身の名を名乗ると、それを受けた法の制定者は、高らかにその手を天に掲げる
『我ら、司法神・ルールの名に於いて――』
老人の厳格な声、女性の澄んだ清らかな声、そして男の好戦的な鋭い声が声を重なり、三人を内包した宝玉がその下層で眠っていたものに吸収される
三人が吸い込まれたのは、その身に結晶の様な鎧をまとった巨大な人型の存在。身の丈十メートルはあろうかというその存在は、その背に星のように輝く宝珠を宿した天極を背負い、その頭上に背の天極と同型の天輪を浮かべている
三人のリーダー格らしき老人――法の制定者に酷似した顔を持つ神の偶像を思わせるその巨人は、三人を宿した宝玉を鳩首すると同時にその身体にある無数の宝珠を輝かせ、その眼を見開く
水晶質の天輪と天極を持つこの巨人こそ、最強の異端神の一柱。――円卓の神座№11「司法神・ルール」。
法と秩序を司る異端の神である司法神は、その身に「法の制定者」、「法の守護者」、「法の執行者」という三つの魂と人格を有す存在。
三人の意見を戦わせ、相違を乗り越えた先にある総意によって自身を律し行動する司法神は、自分達の意志に基づいて世界に向けてその総意を示す
『界厳令を発表する!!!』
世界に数多存在する世界の中で、八種の全霊命と全霊命に最も近い半霊命である人間が総べる特に霊格の高い九つの世界――九世界。
その中で光に属する全霊命である精霊が総べる妖精界の一角、天を映す鏡のような大地の上にそびえたつ神殿、妖精界王城の一室では蝶を思わせる白い翅を持つ日輪の精霊――アイリスが甘く優しい香りを漂わせる紅茶を大貴達に差し出す
「どうぞ」
「ありがとうございます」
アイリスが差し出してくれた紅茶の香りに鼻腔をくすぐられた詩織は、癒しの効果でもあるのではないかと思えるほどに心の奥まで染み入ってくる心地よい感覚にその表情をわずかに蕩けさせる
「ん~。いい香り」
本来ならばこの世界を総べる妖精界王に会うところだが、今は来客中ということで大貴たちは、時間を潰すために、地平の果てまで広がっている天を映す鏡面の大地に抱かれた幻想的な光景を見渡せるテラスで一服していた
「それに、すごく景色もいいし」
「ありがとうございます」
腰まで届く橙色の髪を頭の後ろで二つに結ったアイリスは、詩織に微笑んで応じると自身も手近な席に腰を下ろす
「本来ならもう少し、凝ったおもてなしをさせてもらいたいところなのですが、普段通りならそろそろ彼らも帰る頃ですので――」
「いえ、ありがとうございます」
御茶だけしか出していないことを謝罪するアイリスの言葉に感謝の言葉を述べる瑞希の傍らで、大貴はその言葉にわずかな疑問を覚えて口を開く
「普段通り――って、その客っていうのはそんなにしょっちゅう来ている奴なのか?」
「十世界、ですね」
これまでの経験から、「間もなく客人が帰る時間だ」と判断しているようなアイリスの口振りにその意図を問いかけた大貴に答えたのは、橙色の神の精霊ではなく優麗な仕草で紅茶を一口含んだ瑞希だった
「!」
カップからその唇を離し、静かに紡いだ瑞希の言葉に大貴が目を瞠り、それにつられるようにして神魔たちの視線が黒髪の麗魔に集められる
「よく分かりましたね」
客が十世界の者であることを、それを知っているリリーナ以外の人物が言い当てたことにアイリスが賞賛の言葉を向けると、それを受けた瑞希は事も無げに応じる
「妖精界王様らしき精霊力の周囲に、無数の精霊力が感じられますから」
この城内には、必然的に精霊の持つ神能――「精霊力」が満ちている。そして常識的に考えれば、その中で一際大きなものが神から生まれた最初にして最強の四人精霊――「精霊王」のものであり、この城内で最も強い精霊力を持つ者こそが「妖精界王」ということになるだろう
そして、その周囲に無数の精霊がいる――ならばその相手は光魔神の来訪を差し置いても合わなければならないような相手。そう考えれば必然的にその相手が十世界に所属する十世界であることが推察できる
「なるほど。でも、少しばかり確信に遠いような気がしますが……」
とはいえ、最も強い精霊力の周りに精霊たちがいたとしてそれを十世界だと判断することには少々無理があるかもしれない。現に同じようにその力の分布を把握できているであろう神魔たちやクロス、大貴もその結論を提示はしなかった
「そうですね。勘の様なものですね」
確信が弱い推論を述べた瑞希を試すようにも聞こえるアイリスの言葉に、黒髪の女悪魔はその麗貌の象徴ともいえる切れ長の目をわずかに細める
(この精霊力は……)
アイリスの言葉にその表情を微塵も変化させずに応じた瑞希だったが、無論「勘」などという不確定なことで答えたわけではない。瑞希がそれを答えることができたのは、妖精界王の来客が十世界である確信があったからだ
しかし、その確信を離すことなくカップの中身を含むことで文字通りお茶を濁した瑞希にその視線を向けていたアイリスは、それ以上そのことを追及するようなことをせずに言葉を続ける
「この妖精界を任せられている精霊――『ニルベス』は、十世界に所属する精霊達を総べる総督であると同時に姫の理念の信奉者です。
奏姫の意志を忠実に守る彼は、実力ではなく言葉で十世界の理念に我々を同調させるためにこうして足しげくアスティナ様を訪ね、いつも追い返されています」
その知覚で城内にいる相手――ニルベスを捉えるアイリスは、わずかにその宝石のように輝く澄んだ瞳に敵意にも似た色を浮かべる
十世界に属する精霊たちを束ねる精霊である「ニルベス」は、十世界の理念を忠実に守る奏姫・愛梨の信奉者にして腹心の一人。
九世界の理に反する組織を自分たちの目的のために利用したり、単純に愛梨個人に対する好意で所属している者が多い十世界の構成員の中で、ニルベスは愛梨の掲げる「世界の恒久的平和」という理念に心底傾倒している数少ない一人だ
世界から争いが消え、すべての存在が手を取り合う未来を望んでいるニルベスは、その理想の実現のために手始めに自分の所属する世界から十世界に協力してもらおうと、アスティナを訪ねて協力を求めては追い返されることを繰り返している
「つまり、本当の意味での十世界メンバーってことか」
そのアイリスの言葉を聞いた大貴は、これまで出会った十世界のメンバーとは違い、本当の意味で十世界の理念を体現しようと考えている存在に対して自分が一抹の興味を持っていることを自覚してその目を伏せる
これまで大貴が出会ってきた十世界のメンバーは、紅蓮を筆頭に組織をただ自分の目的のために利用しようと考えている者達だった
だが、この世界の十世界を総べるニルベスは真の意味で十世界の理念を成そうとするもの――人間界で会った、あの奏姫・愛梨と志を同じくする者だ
大貴が十世界を巡っているのは、神魔と桜をだしに魔界王が光魔神を九世界側に引き込み、十世界に敵対させるため。しかし大貴自身は十世界の――愛梨の理念に否定的ではない。
九世界と十世界――どちらも等しく正しい理念の中で自分はどうするべきか、大貴は他の誰でもない自分の目と心でそれを見極めたいと考えていた
「神魔様」
十世界という組織の本質を見極めようと考えているであろう大貴の姿を一瞥した神魔がわずかに目を細めたのを見た桜は、その姿に憂いを帯びた瞳を向ける
「大丈夫だよ、桜」
その視線に気づいた神魔は、不安そうに自分を見つめている桜を安心させるように優しく微笑んでその視線を大貴へと向ける
神魔と桜がここにいるのは、大貴――つまり光魔神を九世界側の陣営に引きずり込むための餌として魔界王にその存在の有用性を認められたからだ
そして万が一大貴が十世界につくことを決めたならば、神魔たちはその命を奪うことになるだろう。神魔も桜もいざとなれば自分たちがそれをすることができるであろうことを自覚しているが、だからといってそうしたいわけではないのも本心だった
「はい」
「大貴ならば十世界についたりしない」、「いざとなれば、躊躇わずに大貴を殺せる」――そんな意味が込められた神魔の「大丈夫」という言葉を受けた桜は、「たとえどんな結果になろうとも、わたくしはあなたについていきます」という自身の意志と願いを静かに首を垂れることで示す
(神魔さんと桜さん、何を話してるの?)
その様子を横目で見ていた詩織は、自分が想いを寄せる人が心を通わせている自分ではない人といる姿を見て、胸に奔る痛みに目を細める
元々神魔と桜は愛し合う者同士。対して自分は後から勝手に横恋慕しただけの邪魔者だ。しかしどれほど想っていても、自分と神魔は人と悪魔という愛情が生まれない異なる種族であり、同時に結ばれれば命を落としてしまう全霊命と半霊命という関係。
心から互いを愛し、想い合っていることが分かる神魔と桜を見るたび、本当ならば潔く身を引いた方がいいのかもしれないという考えと、理屈では割り切れな恋慕の情に胸を痛める詩織は、何時の間にか視線で追ってしまっている神魔の姿に表情を曇らせる
(私に、何ができるんだろう……?)
以前桜は、「もしも自分に神魔を惚れさせることができたなら、たとえ世界を敵に回してでもその力になってくれる」と言っていた。しかし、あれから自分と神魔の関係が進展したということはなく、共に過ごす中で桜との心の距離を痛感させられることばかり。
大貴のように戦う力があるわけでもなく、ただの足手纏いでしかない自分に何ができるのか。そして桜が言ってくれたように自分に神魔を振り向かせることができるのか、不安と無力感だけが詩織の胸中で膨らみ、渦巻いていた
(私は、どうしたら――)
感情の茨に自身の心を締め付けられ己の意志に迷う詩織は、その表情を曇らせ、無意識のうちにカップを持つ手に力が入る
己の進むべき方向、やるべきことを定めきれず、ただ諦めたくないという一心の詩織が唇を引き結ぶと、不意にその視線を城内に映したアイリスが口を開く
「……どうやら、話し合いが終わったようです」
「――!」
ここからでは分からないが、知覚でそれを知ったのであろうアイリスの言葉に意識を引き戻された詩織が顔を上げると、橙色の髪を二つに結った蝶翅をもつ精霊はその視線を大貴に向ける
「どうされますか?」
アイリスのその言葉が「十世界が去るのを待って会いに行きますか?」という意味だと理解している大貴は、一瞬の思案の後躊躇いがちに自身の意志を示す
「俺は――会っておきたい」
城から十世界が去るまで待つのではなく、城に十世界の者がいる今の段階で妖精界王に会いに行くという意志を示した大貴に、小さく頷いたアイリスは腰を上げる
「かしこまりました」
妖精界城の内部――意匠が施された巨大な扉が開くと、その中から数人の精霊達が姿を現す。扉が開くと同時に姿を見せた逆立つ金色の短い髪を持つ日輪の精霊は、扉の先に立っていた人物たちを見て静かに目を細める
「これはこれは……まさかお出迎えしてもらえるとは思わなかったな」
「姫の側近って奴に興味があったからな」
その一言で、おそらくは逆立った金髪の精霊がアイリスの言っていた十世界の精霊達の長「ニルベス」であろうと当たりをつけた大貴が抑制の利いた声で応じる
「それは光栄だな。もしかしたらそいつから聞いているかもしれないが、俺が十世界に所属する精霊を総べる役目を姫から仰せつかっている『ニルベス』だ」
「光魔神――大貴だ」
アイリスを一瞥してから自己紹介をした金髪の精霊――ニルベスに簡潔に応じた大貴が意を決したように前へ歩を進めると、ニルベスの背後にいた褐色の肌の女精霊が二人の間を遮るように立ちはだかる
「やめろ、シャロット。光魔神殿は俺と話がしたいだけだ」
「……はい」
腰まで届く長い銀色の髪を頭の後ろで一つに束ねた褐色の肌の女精霊――「シャロット」は、ニルベスの言葉に一瞬不満げな色をその怜悧な瞳に宿すがすぐに目礼してその身を翻す
そうして背を向けたシャロットが不意に足を止め、肩越しにその怜悧な視線を向けると、それを受けたアイリスは反射的に身を強張らせる
「――」
シャロットの感情の見えない瞳を見たアイリスは、一瞬たじろいだように身を震わせるが、すぐに意を決したように唇を引き結んでそれを真正面から受け止める
(褐色の肌の精霊――あれが、アイリスの言っていた月の精霊か)
褐色の肌に、紋様の浮かんだ蝶翅。――アイリスが言っていた月天の精霊の特徴を持ったシャロットの後ろ姿を一瞥した大貴は、ニルベスとの距離を詰めその視線を交錯させる
「姫から組織に誘われたらしいな?」
「ああ。答えは保留にしてある」
大貴と視線を交錯したニルベスは、大貴が本心本音での会話を求めていることを察し、堅苦しい言葉遣いは不要とばかりに切り捨てて自分自身の言葉で答える
「なるほど。それで、今もその考えは変わらないと?」
「ああ。まだ決められない」
今の世界のままあり続けようとする九世界と、かなうはずのない理想を実現しようとする十世界――決してどちらが間違っているということではないだろうが、九世界の方が現実的な実利に基づいてはいるだろう
だとしても大貴が今九世界の側に身を置いているのは、大貴にとって価値のある友人――神魔達やクロス達がこちらの側にいるからだ
「焦る必要はない。十世界も一枚岩ではないし、姫の理想もどこかで無理がたたる――棒ほど願って針ほど叶うというわけではないが、我らの理想も九世界の運営も完全無欠というわけにはいかない
我らの理想もいい面ばかりではない。ある意思が生じれば、それを否定する概念が生まれるのは陽のあるところに影ができるがごとき必定。――それを見極めて答えを出すといい」
未だ己の選ぶべき道を定めきれず、未知の道に迷っている大貴の言葉を受けたニルベスは、抑制の利いた厳しくも優しい声音でまるでその身を支え、背を押すように語りかける
十世界の理想は確かに素晴らしい。誰もが手に手を取り合うことができる恒久的平和世界。――しかしそれが絵に描いた餅であることを、誰が分かってしまう
心あるが故に人は争い、戦うがゆえに人は己の存在を証明することができる。たとえ戦いをやめても別の何かで争い、そしてそれは自分たちに牙をむくことになるだろう
それが分かっているから――仮に十世界が思い描くように世界を一つに統一しても、結局は別の問題が顔を出すことが分かっているからこそ九世界の王達が十世界の理念を支持しないのだと十世界に所属する者達は知っている
だが、実現しないからと言ってそれを理由に夢や理想を諦めるのかと言われればそれは否だ。恐らくは願ったほど、夢を見ていた時ほど叶った後の世界は美しくならない
それでも、今この世界に生きている者たちの前に二つ道が示されていることは変わらない。今のまま世界を存続させるか、愛梨の意志に従ってこの世界を新たな在り方へと変えるか――それは、今世界に生きている者たちが、過去を顧み、未来を願って考え選ぶものだ
「――あんたは、十世界を選んだんだな」
大貴の言葉を受けたニルベスは、どこか自嘲するように小さな笑みを浮かべるとその瞳に自らの過去を映して語りかける
「ああ。多くの仲間を戦いで失った。愛する者を、大切な家族や仲間を失った。そして戦う意思を持たないものに力を振るう奴も見た――矛盾しているようだが、戦わないために戦う意思を俺は失いたくないんだ」
そう言って目を伏せたニルベスは、どこか自嘲するような笑みを浮かべて大貴に静かな声を向ける
「難しいものだな。我々は心あるがゆえに誰かを否定をすることによって、その相手の心と考えを肯定している。だが、その相手の考えを否定すれば、多くの場合その相手は敵になる
心あるがゆえに我らは分かり合うことができ、心あるがゆえに我らは分かり合うことができず、そしてそれであるが故に我らは――生きている」
人を否定することは、自分とは違うその人物を肯定していること。人は皆同じではなく、誰もが違うがゆえに誰もが相手を理解したいと願い、心があるためにそれが叶わない――そのニルベスの言葉は、大貴に向けられたものでありながら、この場にいるすべての者に向けられたものでもあった
「……そうだな」
「人を理解するということは、人を理解できないことを理解すること」――以前、神魔に言われた言葉を思い返しながら大貴が静かに応じると、それを見たニルベスは今日のところはここまでと判断したのか、その視線を背後へと向ける
「では、また来る」
その言葉を受けた日輪の光を込めたような黄金色とも橙色とも取れる白に近い髪を揺らす女性が、穏やかな中にも強い意志を瞳に宿して応じる
「何度来ていただいても、私どもの考えは変わりません」
日輪の精霊の特徴である白の翅を持つ女性の抑制の利いた声を受けたニルベスは、その視線に怯むことなく優しい声で応じる
「それでも、何度でも来るさ」
そう言って背を向けたニルベスが歩き出すと、褐色の肌を持つ月天の精霊――シャロットと、恐らく十世界に所属しているであろう数人の精霊達がその跡に続く
「…………」
その様子をわずかな憂いに満ちた表情で見ていたアイリスの視線に、ニルベスの傍らを歩いているシャロットが応じる
「――っ」
視線が交錯した瞬間アイリスが一瞬肩を震わせ、まるで逃げるように視線を逸らすと、シャロットはその様子を素っ気なく見つめて静かに目を伏せる
「……?」
そのやり取りに気付いた神魔と桜、クロスとマリア、詩織が訝しげに眉をひそめる傍らでニルベスたち一行は大貴たちとすれ違う
「――」
大貴達と十世界の精霊達がすれ違う瞬間、ニルベスと瑞希は一瞬視線を交わし、そのまま互いに相手を見送ることなくその姿を背中で感じながら目を伏せる
「……」
(やりづらそうな奴だな)
十世界の精霊達を率いて歩き去っていくニルベスの後ろ姿を肩越しに見送る大貴は、先ほどのやり取りを思い返して辟易した様子でため息をつく
異なる信念を持つ心は、決して交わることのない平行線のようなもの。確かに人は言葉で分かり合い、心を通わせることができる
しかし同時に、本当に大切なものは言葉などでは決して譲れないのも事実。愛する者が皆違うように、誰もが幸せを祈っているように――幸せになりたいと思った瞬間に、自分に関係ないどこかの誰かが不幸であることを許容してしまっているように。
九世界と十世界。共に世界の安寧と平和を願っていながら、その形が違うがゆえにわかり合うことのないであろう志をニルベスから感じとった大貴は、その姿にかつてあった十世界盟主、奏姫・愛梨を重ねてこれまでと同じようにはいかないであろうという確信に似た予感を覚えていた
「お待たせして申し訳ありませんでした。光魔神様ご一行ですね」
その時、十世界と邂逅したこの場の思い空気を和ませるように、澄んだ温かく透明な声が優しく穏やかな声音で言葉を紡ぎ、大貴達の意識を回帰させる
「はい」
その言葉に一同の引率係でもある瑞希が応じると、その声の主――先ほどニルベスと話していた黄昏と暁を内包した白色の髪を持つ見目麗しい精霊がその目元を優しく綻ばせる
全霊命特有のどこか現実味のない神秘的な美貌。限りなく白に近い腰まで届く長髪はうっすらと金とも橙とも取れる色合いをしており、日輪の精霊にふさわしくまさにその内側に太陽を内包しているかのような錯覚さえも覚える
まるで何者かの手によって作られたように整えられている女性特有の優しい曲線を描くその身体は一つの芸術品のように美しく、清楚な色香と慈愛に満ちた母性が形を持っているかのごとき美しさを誇っている
その黄金比の様な身体の曲線を際立たせるドレスに似た桜色の霊衣と天女の羽衣を思わせる乳白色のストールは、まるでその女性を一輪の花のように飾り立ていた
「お初にお目にかかります。私は『アスティナ』。――この妖精界の王を任せていただいております」
胸元に手を添えて陽光のような温かさと輝いているようにさえ見える微笑を浮かべた女性――妖精界王・アスティナは、軽く一礼すると先ほど出てきた室内へと視線を向けて誘うようにそっと手で指し示す
「折角ですから、中でお話ししましょうか」
「――フッ」
妖精界王城を後にしたシャロットは、不意に自分の前から聞こえてきた小さな笑みに訝しげに眉をひそめて自身の先にいる人物――ニルベスに声をかける
「珍しいですね、なにかいいことでもあったのですか?」
その表情こそ見えないが、その声音からニルベスの機嫌がいつになくいい事を察したシャロットは、妖精界との話は全く進展していない上、なにか喜ぶようなことがあったとも思えないその笑みにわずかに眉をひそめる
背後から怪訝そうに向けられたシャロットの言葉に、ニルベスは、いつの間にか零れていた自身の笑みに気付いてその目を細める
「いや、少し懐かしくてな」
「?」
その言葉の意図を理解しかねるシャロットが首を傾げると、その考えを察しているらしいニルベスは背中を向けることなくその疑問に答える
「あの黒髪の女悪魔だ」
「ああ、光魔神の近くにいた……?」
ニルベスの言葉を受けたシャロットが先ほどすれ違った光魔神の一団の中にいた黒髪の麗魔――瑞希の姿を思い返してそれに応じると、前方から「あぁ」というそれを肯定する声が返されてくる
(ニルベス様が、十世界に所属してもいない悪魔と敵対関係ではない知己の仲? 一体どういう……?)
普段のニルベスならばしないであろうその雄弁な姿に、シャロットは「懐かしい」と言っていた言葉が皮肉でもなんでもなく、好意的な響きを持っていることに気付いて推察を巡らせる
「彼女の名は瑞希。俺と同じ――」
その瑞希という悪魔と一体どういう関係なのだろうかと考えていたシャロットに、前を行くニルベスはその答えを尋ねられるまでもなく、むしろ聞いてほしいと言わんばかりに言葉を続けた
「十世界創始者の一人だ」