翅をもつ者たち
世界と世界の狭間に存在する空間の中に生じた仮初の世界――「時空の狭間」。数多存在する世界を映し取ったその世界は、知的生命体が存在しないにも関わらず文明的な街並みが広がり、上に向かって昇る水や、変わらない光景など、おおよそ大半の人間が抱く「世界」という概念と法則から切り離されたような幻想的な光景が広がっている
そんな狭間の世界の一つ。豊かな緑に覆われた世界の中で、二つの存在が時間や距離といった概念の介在しえない神の速さを以ってぶつかり合い、世界にその力――神能の火花をまき散らしていた
全てを超える神速で繰り出されているために、まるで夜天に煌めく星々のように絶え間なく世界を満たす力の波動の中、それを打ち破った一つの影が放った白光の虹の束が天空を舞い踊る
無数の帯となって迸った白虹の極光が相手を直撃し、極大の爆発の中にその存在を呑み込む
その神能に指向性を与える意思だけで、時空間を揺らすほどの衝撃を物理世界に顕現させる神格を帯びた力の爆発を振り払ったその人物は、白虹の波動を放った相手を見据えて苦々しげに言い放つ
「チィ……相変わらずしつこい女だ」
そう言ったのは、鬣の様に逆立った白髪を持つ男。限りなく白に近い灰色の霊衣を纏ったその男は、その背中から生えた金属質の二対目の腕を揺らしながら、その薄翠の視線を朱桃色の髪をなびかせる女性へと向ける
「あなたを自由にさせないことが、我が神が彼女達と交わした盟約であり、今の私に与えられた使命ですので」
そんな白灰色の髪を持つ男の苦々しげな視線に応じた朱桃色の髪の女性は、黒のリボンで三つ編みのように束ねた髪をなびかせ、紅晶のごとき刃を持つ大槍刀の切っ先を向ける
「クク……まぁそう言いながら、何万年、何億年も面を合わせて殺し合っていると、逆に愛着も湧いてくるってもんだ。なァ、『理想郷』?」
白灰色の髪の男の声を受けた朱桃色の髪の女性――理想郷は、本心ともからかっているとも取れるその言葉に、その儚貌を微塵も変化させずに、静かな声で応じる
「私は、そうは思っていませんよ。あなたがおとなしくしていていただければ、私は我が神の許へと戻ることが叶うのですから――『蒐集神』」
理想郷の視線を受けた白灰色の髪の男――神位第六位以上の力を有す異端神の一柱、蒐集神・コレクターは、不敵な笑みを浮かべてその手に漆黒の表装を持つ本を顕在化させる
「それは無理な相談だぜ、理想郷! それは俺に死ねって言ってるようなもんだ! もしもお前がそれをしたいなら、俺を殺すしかねぇぜ!!」
蒐集神が声を上げた刹那、その周囲の空間が歪み、そこから多種多様な無数の武器が出現し、一斉に理想郷へ向かって宙を奔る
「――!」
神速で世界を射抜き、まるで意志を持っているかのように縦横無尽に天を翔ける武器の群れを一瞥した理想郷は、それに全く動じた様子を見せないばかりか、迎撃する様子さえも見せずに自身に向かってくる武器の雨に向かっていく
まるで命を投げ出すようなその行為も、長年刃を交えている蒐集神と理想郷にとっては、いつもの光景。
傍から見ている者がいれば、悲劇的な結末を予見し言葉を失うようなその未来を杞憂だと斬り捨てんばかりに、蒐集神の放った無数の刃は、理想郷へと近づいた瞬間、その刃を止め、その形状を失う
「――ハッ!」
神能で形作られた武器の数々が崩壊し、力の残滓となって漂う様を見ながら、不敵な笑みを浮かべた蒐集神は、その手に持つ本の中から巨大な盾を顕現させて、神速で肉薄していた理想郷の刃を受け止める
「!」
自身の刃を受け止めた盾にその柳眉をひそめた理想郷は、次いで知覚が伝えてきた力の脈動に目を瞠り、後方へと飛び退く
その瞬間、先ほどまでまるで天女のような霊衣を纏う理想郷が存在していた空間を、地面に映る蒐集神の影から伸びた漆黒の槍が穿ち、朱桃色の髪をなびかせる美女の影を紙一重で掠めて空を切る
「まだまだァ!」
影からの槍が回避されたことを知覚で理解している蒐集神は、しかしそんなことなど意にも介さずに咆哮を上げると、その背後に顕現した巨大な鎧がその腕に持つ眩い光を放つ聖剣を理想郷に向けて叩き付ける
天使を思わせる純白の翼を持つ金色の鎧が放った神速で横薙ぎを大槍刀の柄で受け止めた理想郷の視線は、蒐集神を捉えて離さない
聖大鎧の大剣の刃は、理想郷の周囲に顕現した透明な領域に接触した状態でとどまり、その中にいる朱桃色の髪の乙女を斬り裂こうと軋みを上げている
「――チッ、やっぱ、お前とは相性が悪いな」
自身が顕在化させた鎧の攻撃を容易く阻んでいる理想郷を見た蒐集神は、一向に通らない己の攻撃を見て辟易したように息をつく
「だから私があなたの抑止としてここにいるのですよ」
気が遠くなるような長い年月を戦い続けている蒐集神と理想郷は互いの能力を一から十まで把握している
分かりきっていることとはいえ、長い年月理想郷と戦い続けている蒐集神は、自身の存在欲求を封じ込めるために遣わされた神使である朱桃色の髪の乙女に剣呑な光をその目に宿す
「モテる男はつらいぜってことだな」
「憎まれっ子世に憚る、の間違いでしょう!?」
自身の周囲に暗黒色の空中機雷を顕現させた蒐集神を見た理想郷は、その武器の能力を知っているがゆえに、即座に鎧の大剣を弾いて白灰色の異端神へと肉薄し、自身の身に宿る神能の力を極大の破壊の波動として解放する
「――チィッ、やっぱ、警戒してやがるな」」
大槍刀の斬閃から放たれた理想郷の白虹の極撃を舌打ち混じりに回避した蒐集神が苦々しげに吐き捨てると、朱桃色の髪を持つ儚貌の乙女は長年の怨敵へと肉薄してその刃を閃かせる
「何度も同じ手で逃げられるわけにはいきませんからね」
長年戦い続けている理想郷と蒐集神だが、一時も休まずに戦い続けているわけではない。稀に――とはいっても、数千万から、数億年に一度だが――本当に極稀に蒐集神が理想郷から逃げおおせることがある。
そうなった時、蒐集神は、その存在としての欲求に任せ、己の存在意義を成すために九世界で様々な行動を起こしている
しかし、何度も蒐集神に逃げられ、裏をかかれてきた理想郷とて、その教訓を活かして白灰の異端神を二度と逃さぬように戦っている
「本当に、面倒な奴だなお前は!!!」
歓喜とも激昂とも取れる声と共に、その手に持つ本の力を発動させた蒐集神は、背中から伸びている金属質の腕で理想郷に攻撃を仕掛ける
それを迎え撃った理想郷の大槍刀の緋晶の刃と鋼の腕が持つ鋭い爪がぶつかり合い、二人の間で力の火花を散らす
「俺は、俺の存在意義――『蒐集』に従って、世界にある価値あるもの全てをこの手に集め、揃えたいだけだって言っているだろうが! 珍しい物やを力、そして神器も全て!
俺には十世界や英知の樹のような大層な目的があるわけじゃない。むしろ、俺はただ純粋に集めて揃えたいっていうだけだぜ? そんな思想家たちよりもそっぽど健全だろうが!?」
互いの神能をぶつけ合い、そこに込められた純然たる意志が火花を散らす中、蒐集神は、自身の攻撃が届かない不可視の領域に守られている理想郷を見て言い放つ
異端神の人柱である蒐集神・コレクターは、その名の通り「蒐集」の神。珍しいもの、価値があるもの、特定のカテゴリーに当てはまるもの――そういったものを集め、揃える意思を司る神だ
蒐集の概念そのものと言ってもいい蒐集神は、さまざまなものを集める癖があるが、その中でも特に熱心に集めるものが、「珍しい力」――中でも神器をはじめとする神の力は蒐集神が好んで集めているものだ
「それが、厄介だと言っているのです。あなたの欲求は留まるところを知らない。あなたを野放しにすれば、やがて世界の大半があなたの持つ本の中へ取り込まれてしまうでしょう」
蒐集神の言葉に応じた理想郷は、大槍刀の刃を一閃させて、白灰髪の異端神を弾き飛ばすと、白虹の波動を放つ
世界に恒久的な平和をもたらそうとする十世界のように高い理念があるわけでもなく、世界の英知を解き明かすという英知の樹のような確固たる目的が在るわけでもない。ただ集め、コレクションすることに執着する蒐集神は一見無害に思える
しかし、この神が世界から警戒されているのは、その強すぎる蒐集欲求とその能力そのものを危険視されているからだ
「クク、確かにそうかもな。だが、俺も集めるものくらいは選ぶんだぜ? 俺は俺が欲しいと思ったものしか集めない。お前が邪魔さえしなければ、最強の神器とそれに守られているという究極の神器もとっくに俺のコレクションに加わってただろうにな」
理想郷の攻撃を回避した蒐集神は、自分が節操なくものを集めていると思われていることに対して、不満とも抗議とも取れる声をおどけるような口調で言い、その視線に剣呑な光を宿らせる
「だが、簡単に集まらないのも一興だ」
静かな声でそう言った蒐集神は、手にした本の中から身の丈にも及ぶ巨大な矛を取り出してその存在を構築する神能の力を解放する
「とはいえ、いつまでもお前の相手をしてやる気もないがな」
「――!」
最後に逃げられてから数千年、そろそろ長年蓄積されてきた存在欲求の不満に憤りを募らせている蒐集神を見据えた理想郷は、結晶の刃を持つ大槍刀を構えて静かにそれに応じるのだった
※
「わぁ」
時空の門を抜けた詩織は、桜が作り出した結界の中から、周囲に広がっているこの世界の風景を視界に収め、その表情を輝かせる
眼下に広がっているのは、まるで鏡で作られているのではないかと思えるような大地。その地面には、青く澄んだ世界の空とそこに浮かぶ白い雲、そして世界に光を満たす太陽がはっきりと映し出されており、まるで地面の中にもう一つの世界があるかのような錯覚を覚える
詩織の知識に照らせば、一面がウユニ塩湖のようになった大地の上には、山々よりも巨大でありながら繊細に形作られた白亜の神殿が佇んでおり、その巨大な姿を鏡のような大地に映している
「綺麗……ここが、妖精界なんですね」
どこまでも広がっているように見える鏡のような大地を抱くこの世界――九世界の一つ「妖精界」を見て詩織が感極まった声で言う
「はい。この妖精界は、光の全霊命――精霊が治める世界。そしてここは、日輪の精霊王……即ち、妖精界王様がおわす居城です」
「日輪の精霊王?」
詩織の言葉に応じたマリアの言葉に怪訝そうに眉をひそめた大貴が視線でその意味を問いかけると、それを聞いていたクロスが答える
「精霊は、『日輪』、『月天』、『湖』、『森』の四つの種族に分かれていて、その四人の王が精霊王――つまり、神から最初に生まれた最強の精霊だ
この妖精界はその四人の精霊王によって統治されているが、その中でこの妖精界の代表である妖精界王を務めているのが、日輪の精霊王である『アスティナ』様だ」
光の全霊命である妖精界の支配者――「精霊」には、神から生まれた最初にして最強の力を持つ四人の精霊「精霊王」と呼ばれる原在を有す多種族存在だ
四人の精霊王を筆頭とし、日、月、湖、森の四種族にコミュニティを形成し、それぞれがこの世界を統治しているが、この妖精界の王――妖精界王は、日輪の精霊王が務めている
「こういう風に、一つの全霊命の種族の中に、明確な分類で種族が存在するのは、精霊と地獄界を総べる鬼だけなんだよ」
その言葉を聞いていた神魔が、クロスの言葉を受け継いでそう締めくくる
天使ならば翼の枚数、悪魔ならば角があるなど、同じ種族の中でも肌の色や部位の違いがあることは珍しくないが、精霊のように明確な「種族」として存在のは九世界を総べる八種の全霊命の中でも光と闇にたった一種ずつしか存在しない
具体的な例を挙げるならば、円卓の神座№9覇国神の力に列なるユニットである全霊命――戦兵と斥候のようなものだ
「まあ、そうは言ってもそこまで大きな違いがあるわけではないんですけどね」
眼下に広がっている天を映す鏡のごとき大地と、そこにそびえる居城を見て微笑んだマリアが言った瞬間、その場にいた詩織以外の全員がわずかにその眉をひそめる
「――!」
「この力は……!」
鏡の大地に建つ遠近感が狂うほど大きな城へと近づいた瞬間、突如知覚が捉えた力に驚きをその表情に浮かべている全員を見回した詩織は、一人だけがその意味を理解できていない自分にその答えを与えるように、手近に居た双子の弟に説明を求める
「大貴?」
その言葉に詩織の疑問の意図を理解している大貴は、左右非対称色の瞳に妖精界王城を映して簡潔に応じる
「光力だ。これは確か天界で会った――」
「リリーナ様の光力だ」
大貴が言葉を止めたところに、割り込んだようにも引き継いだようにも見えるタイミングでクロスがその力の主の名を告げると、詩織は目を丸くする
「リリーナ様……って、確か天界のお姫様でしたよね? それが何で……?」
「皆様の身元を保証し、光の世界との橋渡しをするためですよ」
天界の姫――つまり天使であるはずのリリーナが、なぜこの妖精界にいるのか分からずにその場にいる全員に問いかけた詩織の言葉に、心を洗うような澄んだ心地よい声が応じる
「!」
その声に視線を向けた詩織の前に、天に揺れる緋色の髪を孔雀の羽を思わせる翡翠色の装飾で彩り、花を思わせる純白の霊衣を纏う十枚翼の天使が、この世のものとは思えないその絶世の美貌に大輪の花の様な笑みを浮かべて浮かんでいた
「リリーナ様」
「お久しぶりですね……といっても、天界で皆様を見送ってから、さほど時間も経っていませんが」
マリアの声に応じるように自分の言葉に苦笑を浮かべたリリーナは、以前天界で見送ったメンバーが全員そこにいるのを見て、安堵したように慈愛の微笑みを浮かべる
「そういえばそうですね、でもなんか色々大変だったから、妖界に随分と長くいた様な気がします」
妖界での激しい戦いと日常から、随分と長い間いたように思うが実質的に妖界に滞在していた時間は一週間にも満たない
そのことをリリーナの言葉で思い出して感慨深そうに目を細めた詩織の言葉を受けた天界の姫天使は、その澄んだ瞳で妹のように思っているマリアへと視線を向ける
「そうですか。できれば、そのお話も伺いたいですね、マリアちゃん」
「はい、是非」
実の妹のように想っているマリアに微笑んだリリーナは、大貴達に向けた視線で背後にある妖精界王城を示して、その美声で語りかける
「さ、下に参りましょう? 妖精界の皆様もお待ちかねですよ」
※
「あれは……」
再会したリリーナに先導され、妖精界王城を取り囲む巨大な門の前へと移動すると、そこには一人の女性が静かに佇んで光魔神たち一行の到着を待っていた
全霊命の例にもれず均整の取れた現実味の薄い美貌。腰まで届く橙色の髪を二つに結わえた大きな瞳を持つその女性は、桜やリリーナと比べるとわずかに幼く思える
その外見だけでいえば、青春を謳歌する少女の年頃に見える。しかし神能の力によって永遠の時を生きる全霊命にとってそんなものが意味をなさないものであることを詩織は十分に理解していた
「お待ちしておりました。光魔神様ご一行ですね」
(わぁ、本当に妖精だ)
鈴の音の様な明るく高い声で出迎えてくれた橙色の髪の少女を見た詩織は、その姿に思わずり心の中で歓喜の声をあげていた
魅力的な可愛らしい容姿もさることながら、詩織の目を最も強く引いたのは、その背から生えている蝶のそれを思わせる翅だった。
詩織の知識にある蝶や蛾のような鮮やかな紋様が浮かんでいるわけではないが、その透けるような乳白色の翅は鱗粉を纏い、陽光を反射させてまるでそれ自体が輝いているかのように優しい光を帯びている
(天使は白い翼で、精霊は蝶の翅ってことか)
おそらくはそれが精霊と呼ばれる全霊命の身体的特徴なのだろうと判断した大貴は、蝶翅をもつ橙色の髪の少女をその左右非対称色の瞳で観察していた
そんな大貴の視線に気づいているのかは分からないが、リリーナに先導されて到着した光魔神一行を見た精霊の少女は、胸に手を当てて恭しく頭を下げる
「お初にお目にかかります。日輪の精霊『アイリス』と申します。この世界での皆様の案内役を務めさせていただきます」
そう言って微笑んだ橙色の髪を二つに結った精霊の少女――アイリスは、背後にそびえたつ門に手を向けて視線を向ける
「立ち話もなんですから、とりあえず城の中へどうぞ」
鏡の大地に建つ妖精界王城の内部は、まるで神殿のようになっており、荘厳なシャンデリアに照らされている天上の高いエントランスには一面に赤絨毯が敷き詰められ、窓の上部にあるステンドグラスからは底を介して取り入れられる鮮やかな色の光で満たされている
汚れ一つない磨き上げられた柱や壁は、うっすらと場内を映し出しており、そこはまさにおとぎ話に語られる城というイメージがそのまま具現化したような空間になっていた
「あれが光魔神か」
「本当に光と闇の力を同時に持っているぞ」
「この城の中に悪魔を招き入れることになるとは……」
「それにあの半霊命の子って、あれじゃない?」
大貴達がアイリスに先導されて城内に入ると、エントランスの上部からその様子を伺う城仕えの精霊たちがその姿を興味深げに観察して小さな声で囁き合う
「すみません、この城内に他の全霊命の方がいらっしゃるのは珍しいもので」
「いや、まあこのくらいは仕方がない、です」
城内の精霊達からの好奇の視線を受けた客人たちが居心地が悪そうにしているのが分かるのか、背中を向けたまま申し訳なさそうに言うアイリスに、大貴は前の二つの世界での出迎えを思い返してぎこちない敬語で応じる
「無理に敬語を使わなくてもいいですよ?」
「どうも――……」
大貴の言葉遣いに浮かんでいる明確は不慣れさに苦笑交じりに応じたアイリスは、肩越しに視線を向けて鈴のように澄んだ声で語りかける
「本来ならば、妖精界王様にお会いしていただきたいところなのですが、実は今お客様がいらしているのでもうしばらくお待ちください」
「客?」
その言葉に瑞希がわずかに眉をひそめると、それを受けたアイリスは苦笑に似た表情を浮かべるが、その目にはわずかに嫌悪感や敵意に似た感情が宿っていた
「まぁ、客などという言い方が適切とは思えないのですが……」
「?」
言葉を濁し、まるで自分の表情から本心を読み取られることを拒否するように視線を逸らしたアイリスの背後で周囲に視線を巡らせていた詩織は興味深げに声をかける
「色々な翅の人がいるんですね」
アイリスの翅を見てから、精霊と呼ばれるこの世界を総べる全霊命達に関心を抱いたらしい詩織は、城内にいる精霊たちを見回してその形状の違う翅に関心を抱いていた
大貴達を興味深げに観察する精霊たちには、見たところ三種類の翅を確認することができた。一つはアイリスの様な蝶の翅。一つは蜻蛉を思わせる四枚の翅を持つ者、そして四枚の翅を持つが、そのうち上の二枚が甲虫のそれのように硬質のものになっているものに大別されている
「ああ、私たち精霊は種族ごとに翅の形状が違うんです。私みたいなのが日輪の精霊。細長い四枚翅を持っているのが湖の精霊、そして同じく四枚翅で上二枚が甲羅のようになった、いわゆる鞘羽を持つのが森の精霊です」
周囲を見回した詩織の問いかけに、アイリスは簡潔に自分たち精霊の種族の特徴を説明する
「へぇ……えっと、じゃあ月天の精霊はどういう翅なんですか?」
それは、詩織からすれば、単なる好奇心から来る他意などなにもない質問だった
あらかじめクロスから、精霊には四つの種族があると聞いていた詩織は、アイリスが説明してくれた「日輪」、「湖」、「森」以外にも「月天」という精霊がいることを知っている
そして精霊たちは翅の形状が種族を判別する明確な特徴になっていることを聞いた詩織は、唯一説明されなかった月の精霊に興味を示した――ただそれだけのはずだった
「――?」
しかし詩織が月の精霊について質問した瞬間、アイリスが一瞬その気配を強張らせたのを大貴は見逃さなかった
「……月の精霊は、総じて褐色の肌をしていて、私たちみたいな形状の翅に、色鮮やかな紋様があります」
一瞬の間を置いて詩織の問いに背を向けたまま答えたアイリスだが、その声は先ほどまでとは違うわずかな硬さが宿っていた
「申し訳ありません。事前に何の説明もしていなかったもので……」
「いえ、お気になさらず」
アイリスの背後からリリーナが申し訳なさそうに謝罪をするのを見て、詩織と大貴は怪訝そうに顔を見合わせる
「?」
大貴と詩織が理由を求めるように周囲に視線を向けると、同じ光の全霊命であるクロスとマリアはもちろんのこと、神魔と桜、瑞希もそれを心得ていたようで特にこれといった反応を見せずに歩いている
月の精霊について質問させてしまったことを詫びるようなリリーナの言葉といい、それに対して見せたアイリスの反応には、「月の精霊」がこの妖精界の中で、何か特別な事情を持っていることを推測させるには十分すぎるものだった
リリーナの言葉から、おそらくは折を見てその話をするつもりだったのだろうが、聡明な天界の姫もまさかこのタイミングで詩織がそれについて質問するとは思っていなかったのだろう
全霊命達に囲まれている中で、ここまで全く物怖じせずに親しい神魔やクロス達ではなくアイリスの方へ質問できる豪胆ともいえる詩織に、自身が評価を見誤っていたと判断したらしいリリーナは、そのまま歩く速度を落として後方を歩いていた大貴たちの一団に肩を並べる
「申し訳ありませんが、月の精霊についてはあまり聞かないでいただけませんか? これは我々光の世界にとっては、とても繊細な問題なもので」
「え?」
前を向いたまま、詩織――厳密には、おそらく事情を知らないであろう大貴と詩織に向かって聖なる声音で話かけたリリーナは、案の定帰ってきた疑問の声に声を潜めて説明の言葉を返す
「月の精霊は、かつての大戦の時、光に属する者でありながら闇に寝返り、彼らを同胞と信じていた妖精界に甚大な被害をもたらしました。以来、月の精霊は光の全霊命の中で微妙な立ち位置にいるのです」
「!」
声を潜めてはいても、おそらくアイリスには話の内容が聞こえているだろう。しかし、アイリスはリリーナの説明の言葉を咎めることなく、無言のまま大貴たちを案内している――そしてそれは、リリーナが話していることが事実だという無言の肯定に他ならなかった
「精霊はもちろん、光の全霊命の中にも、彼らを裏切り者と呼び、堕天使や混濁者のように嫌っている者さえいますので、申し訳ありませんがご配慮ください」
リリーナのそれは、注意を促すような優しい声でありながらも、実質はそのことについて不用意に踏み込むな、という警告に近い
「……すみません」
美しい歌を紡ぐリリーナの清らかで澄んだ声で注意を促された詩織が目を伏せると、それを聞いた天使の姫はその太陽の様な絶世の美貌にわずかに憂いを浮かべてアイリスの後ろ姿に視線を向ける
「いえ――難しい問題ですから」
リリーナが浮かべるその表情と声からは、精霊の間にあるこの確執をなんとかしたいという祈りにも似た願いが見て取れる
月の精霊が光の軍勢を裏切り、闇の側について戦ったのは、遥か古のこと。しかし光の全霊命でありながら闇の全霊命の側につき、多くの同胞を殺された恨みは未だ精霊達の心に深い溝を刻み込んでいる
九世界の歴史を創世まで遡っても、個人的なレベルではまだしも光と闇の全霊命が、軍勢単位で相反する側の者たちに力を貸したのは、後にも先にもこれ一度きり。その事実と怒りは精霊ばかりではなく光の全霊命達の中に未だ根付いている
妖精界王アスティナの計らいで、表立った反抗や排除の動きはないが、その心までも帰ることが容易ではないことはリリーナにも十分わかっている
「この九世界の歴史で唯一、光が闇の側に立って同じ光の同胞たちと戦争をしたその戦いをさして、我々はこう呼びます――」
殺されない限りに最盛期を保って生きることができる不滅の存在であるがゆえに、その心の傷を刻み続けている精霊たち――アイリスの背に視線を送りながら、リリーナは大貴と詩織に向けて静かな声で言葉を紡ぐ
『世界三大事変・ロシュカディアル戦役』
渦巻く強大な力の渦を振り払い、その中から姿を現した朱桃色の髪を持つ天女のごとき乙女――理想郷は、この時空の狭間に自分一人だけがいることを知覚で確認してその柳眉をひそめる
「しまった……」
先ほどまで自分が足止めしていた存在――蒐集神・コレクターを取り逃がしてしまったことを理解した理想郷は、即座にその意識を自身の神へと繋いで謝罪の言葉を述べる
「申し訳ありません、護法神様。蒐集神を取り逃がしてしまいました」
《――……》
その力を以って、本来は全霊命にも不可能な世界と時空を超越する思念を解して、応える自身の神――円卓の神座№10、護法神・セイヴからの命令を受けた理想郷は、厳かな声音でそれに応じる
「畏まりました。では、司法神様に連絡の後、蒐集神を追います」
そう締めくくって言葉を終えた朱桃色の髪の乙女――護法神・セイヴ神片ユニットが一角。「理想郷・ユートピア」は眼下に広がる狭間の世界を見据え、いずこかの世界へと姿を消した蒐集神をその視界に幻視する
「一体どこの世界へ……?」