心のあと
九世界の一つ人間界。――星の数ほどもある世界を総べる九つの世界「九世界」の中で、唯一全霊命ではなく半霊命が支配するその世界は、あまねくすべての世界の中で最も発展した技術立先進世界
その世界を総べるのは、異端神円卓の神座№1光魔神・エンドレスの力に列なる繁殖型ユニットである「人間」。世界で最もその数と種族が多い半霊命の中で最も全霊命に近い半霊命だ
その人間界の中枢――人間界を治める人間界王の御膝元である「王都・アルテア」。その中心に佇む巨大な城こそが、人間界王が住まう居城「人間界城」。
その城の中で一際高い塔に設けられた一室は人間界王の執務室になっており、その中では一際荘厳で重厚な机に、その机の威圧感とは対照的なほど可憐で儚げな印象をたたえた美女が腰かけていた
「…………」
その王の執務室――人間界の街並みを見渡すことができる巨大な窓を背にするように置かれた重厚で威厳に満ちた王専用の机に座っているのは、腰まで届くほど長く艶やかな黒髪の上に、腰まで届く翼を思わせる装飾を有す女王冠を戴いた美女――人間界を統治する王「ヒナ・アルテア・ハーヴィン」。
近寄りがたいほどに気高く神々しい王としての誇りと威厳を身に纏いながらも、女性らしい包容力に満ちた陽光のような柔らかく優しい笑みをその美貌にたたえるヒナは、決まだ王を引き継いだばかりでありながら、長年失われていた十二の至宝を全て手にした歴代屈指の力を持つ人間界王でもある
悠久の時を超えてこの世に再臨した王であり、光魔神の復活によって一部の者から「神の后」、「最後の王」などとまで呼ばれているヒナは、落ち着かない様子でしきりにその視線を彷徨わせていた
「……っ」
その視線が向かうのは、その頭上に戴かれた女王冠――至宝冠。そこへ視線を向けては逸らし、また戻すということをしきりに繰り返しているヒナを見た新たなる女王補佐「シェリッヒ・ハーヴィン」は、そんな姉のように辟易した様子でため息をつく
「それほど気にかかるのでしたら、御自身から連絡をしてはいかがですか?」
「え? な、何を言ってるんですかリッヒちゃん!? 私は別に大貴さんから連絡が来ないことなど、気にしてなどいませんよ!?」
具体的な内容を何も話していないにもかかわらず、自白するように言い訳をするヒナの姿を見て、シェリッヒ――リッヒは、再度嘆息する
「……気になっているんですね」
普段は聡明で思慮深いヒナが、大貴の存在を匂わせただけでそれを一瞬で失う様に、新鮮さと可愛らしさを覚えるリッヒは、自身の失言に気付いて顔を真っ赤に火照らせている姉に思わずこぼれそうになる笑みを噛み殺す
ヒナがつけている女王冠、至宝冠・アルテアは先代の光魔神が人間界のために残した十二至宝と呼ばれる宝物の一つにして、その中枢と成す「神意」の至宝。
神と人とを繋ぐその力は、全霊命達の思念通話のように、意識の中で神との対話を可能にし、光魔神――つまり大貴とならば、世界の壁を隔ててでも通信することが可能になる
大貴が九世界を巡る旅に出る日、ヒナは大貴に願った――「気が向いた時でいいから、連絡が欲しい」と。あれからまだ数日しか経っていないが、そうは言ってもやはり恋しい人と言葉を交わすことは待ち遠しいもの
大貴と別れてから、いつ連絡が来るのかと期待に胸を膨らませ、連絡が来るその時を待ちわびているヒナの恋慕の情に胸を焦がすその初々しい姿は、長年共に過ごしてきた妹であるリッヒでさえも知らなかったものであり、思いもよらぬ姉の一面に思わず表情が綻んでしまう
「リッヒちゃん……」
自分でさえ制御の利かない恋慕の情に翻弄されているヒナに恨めしそうな視線を向けられたリッヒは、これまでの姉からは想像もできないその姿に目元を綻ばせて優しい声で囁きかける
「構わないと思いますよ? 光魔神様は、そういうまめな方ではなさそうでしたし、お姉様から連絡してもお咎めになられることはないと思います」
リッヒから見た大貴は、連絡を取るにしても、あまり意味のない連絡を好まず、用事がない限りしないというタイプに見えた。
もし自分の考えている通りならば、待っているだけでは当分大貴からの連絡は期待できないと考えたリッヒは、その連絡を今か今かと待ちわびている姉に、自分からの連絡を進言する
「それは、そうかもしれませんが……だとしても、あまり私の方から連絡をすると、煩わしく思われてしまうのではないでしょうか? それに、向こうでは取り込み中かもしれません。そんな時に連絡を取って気を遣わせてしまうのも、申し訳ないではないですか」
しかし、リッヒの提案を聞いたヒナは、気を紛らわせようとするかのように机の上で重ねた手の指をせわしなく絡ませながら、一抹の期待と不安の入り混じった声で応じる
確かに、大貴の声を聞き、できればと話をしたいというのがヒナの本心であるのは間違いない。しかし恋愛に奥手なヒナは、あまり頻繁に話しかけては、大貴に煩わしく思われたり、嫌われたりするのではないかと考えると、とてもそんな積極的な行動に出ることはできない。
加えて、大貴が九世界を回っているのは、十世界と敵対するためだ。ならば、今まさにこの瞬間、命を懸けた戦いを繰り広げている可能性も少なくない。
そんな時に、自分が「ただ声を聞きたいから」などという理由で話しかけ、その身に万が一のことがあってはヒナは自分を許せなくなるだろう。
結果として、誰よりも大貴を想いやり、慮るからこそ、ヒナは連絡が来るその時をただただ待ち続けているのだ
「なるほど。では、次に光魔神様から連絡が来た時には、私の方からお願いすることにいたします――姉が寂しがっているので、何ごともなければ、最低でも一日一回、話題など何もなくて構わないので、声を聞かせてあげてください、と」
大貴のことを思いやっているのはもちろんだが、同時に嫌われたくないというヒナの乙女心を正確に読み取ったリッヒは、それに理解を示した上で意地悪く囁きかける
「な――っ!?」
その言葉を聞いたヒナは、途端にその顔を真っ赤に火照らせて、椅子から立ち上がると、机から身を乗り出すようにして口元を手で隠して上品に微笑んでいるリッヒに狼狽を隠せない声を向ける
「そ、そんなこと……っ」
(た、確かにそれは嬉しいですけど……それでは私が、大貴さんのことを待ち焦がれていると言っているようなもので……いえ、確かに待ち焦がれているのですけれど……)
恥ずかしさのあまり舌が回りきらないヒナは、その心中で誰にするのかわからない言い訳を並べながら、葛藤する
『ヒナ』
「――っ!」
その瞬間、ヒナは自身の頭の中に響いた声を目を瞠り、輝くような笑みを浮かべる
ヒナの脳裏に響いたその声は、今この瞬間まで待ち望んでいた想い人のもの。会ってからそれほど長い年月を共に過ごしたわけではないにもかかわらず、まるでずっと昔から知っているような懐かしい響きを以って記憶の奥底に強く焼き付けられているその声に、ヒナの心は否応なく高まっていた
「は、はい」
その声が頭の中に響いた瞬間、今の自分の顔を隠すように慌ててリッヒに背を向けたヒナは、至宝冠を介して伝わってくる大貴の声に堪え切れない笑みを浮かべる
「……」
背を向けるまでの一瞬で垣間見えたヒナの表情を見たリッヒは、ようやく姉の待ち人からの連絡が来たのだと理解してその様子を優しい眼差しで見守る
姉の幸福を心から願っているリッヒは、ヒナが大貴と話している間に意味もなく割って入るような無粋な真似はしない。ヒナが少しでも大貴との時間を楽しめるように沈黙を守り、そのやり取りを見守る
こんな時くらい二人きりにしてあげてもいいのではないかと一瞬考えるが、ヒナと大貴はただの恋人ではすまない。二人の語らいは文字通り、王と神の対話だ。
人間の神である光魔神――大貴との関係は、人間界そのものにとって、何よりも重要視されるもの。そのため、やや気まずいところはあるが、二人の関係が順調に進んでいるのかを確認するのも人間界王の補佐官であるリッヒの重要な役目の一つだ
『どうだ、そっちはうまくやってるか?』
「はい、おかげさまで」
背を向けていても、その弾んだ清らかな声が姉を聞けば、待ち望んでいた大貴との会話の時間に、一人の乙女として喜びを覚えているヒナの表情をリッヒははっきりとみることができる
大貴と過ごしている時だけヒナが見せるその姿は、人間界の王のそれではんなく、「ヒナ・アルテア・ハーヴィン」という一人の女性としての姿
人間の創造主である光魔神に対して、その被造物である人間が好意を抱きやすいのは間違いないが、ヒナのそれはそれだけとは思えないほどのもの
一目惚れとでもいうのか、最初から大貴に対して神への敬愛の念以上の感情を抱いていた姉の姿を見るリッヒは、自身の脳裏に浮かんだ「二人は、必然的にこうなる運命があったのではないか」という考えもあながち間違いではないのではないかと思ってしまう
「妖界の方はいかがですか?」
『あぁ、悪くない』
他愛もない世間話で互いの近況を確認し合った後、しばしの間が空いたかと思うと、至宝冠を介して大貴の声がヒナの心へと直接届く
『今、少し話せるか?』
「はい」
躊躇いがちに響いたその声に、迷いに似た感情を感じ取ったヒナはこれがただの世間話ではないと理解してその表情と声を引き締める
その表情は王としての真剣な眼差しをたたえながらも、悩んでいる大貴の力になりたいと言う一人の女性としての願望と決意が宿っていた
※
「例えば――例えば、敵が戦う理由が理解できるものであっても、許容できないものだった時、もっと別の選択肢があるはずなのに、それを頑なに否定されたらどうする?」
妖界王城の中――人気のない場所を選んで壁に寄りかかりながら、世界を隔てた先にいるヒナに至宝冠を通して話しかける大貴の脳裏には、愛する者の手によって散っていった鋼牙の姿が思い起こされていた
萼の両親を殺した罪から、自分の気持ちを伝えられずにいた鋼牙は、生まれながらに不遇な宿命を背負った想い人のために自身の命を投げ打った
そのやり方を否定するつもりはないが、もっと他に自分のできることがあったのではないか。仮に拒まれても力ずくでそちらへ――鋼牙と萼の二人が幸せになれる方法を取るべきだったのではないかという後悔は拭えない
「自分は、自分の思うことをなすために戦う」――それが、大貴が自分に課した自分の戦う理由。しかしそれは、相手にとっても同じこと。
戦いとは自分の信念を貫くために相手の信念を肯定し、否定すること。しかし自分の願いのために相手の願いを拒絶し、強制した結末へと導いていいのかという迷いが大貴の中に生じていた
『随分と抽象的な表現ですね』
神魔と交わした約束のために、そして鋼牙がかけた命の結果に報いるために曖昧な問いかけをした大貴の言葉を至宝冠を解して受け取ったヒナから、具体的な内容の説明を要求しているようにも聞こえる静かな声が返ってくる
「まぁ、な」
その問いかけに、大貴が返答に言い澱んで言葉を濁らせると、その内容を明言することに何か憚られる理由あるのだということを察したヒナは、一拍の間を置いて優しい声で語りかける
『そのようなこと、決まっております』
大貴が何に悩み、何を迷っているのかまではヒナには分からない。しかしそれでも、至宝冠を通して伝わってくる大貴の消沈した様子に、その心を支え、背を押せることを願って言葉を紡ぐ
『あなたのお心が望むままに』
「……!」
至宝冠から伝わってきたヒナの真摯な声に大貴が目を瞠る中、清流のように澄んだ声がその心の憂いを洗い流そうとするかのようにその魂の内側にまで染み渡ってくる
『戦う意志があり、そのために刃を取られる方には、皆それに足るだけの理由があります。愛する者のため。守るため。何かを手に入れるために戦う彼らの言い分には、必然的に彼らの正義があり、通すべき道理があります
彼らの身には等しく不幸な出来事や、止むに止まれぬ事情があり、戦いの果てに手に入れる目的のために命を懸ける程度の信念は持っておられるはずです』
世の中には戦うことを目的として戦う者もいるが、戦う者の多くは何かの理由があってその力を振るっている
自分や大切な人、世界などを守るため、あるいは何かを成し遂げ、手に入れるため――そしてそのために自らの命を懸け、他者の命を奪う覚悟を以って戦いに挑んでいるのだ
『あなたのようにお優しい方がそれを知った時、きっと少しでもその方のためにと思われてしまうのも、少しでもその心を汲むことを望まれるのも無理からぬことです』
そしてそれを迎え撃つ者は、それを受け止め、それから自分の大切なものを守るために戦っている。そして、それであるがゆえに、時には敵対することを望まずに刃を向けあうこともでてくるだろう
※
「ですから――」
顔は見えずとも、世界という壁を隔てていても至宝冠を介して通じ合い、まるで目の前にいるように感じられる大貴の心を感じながら、ヒナは穏やかな声で語りかける
「ですからあなたができることを、したいことをなさればよいと思います……たとえそれを相手が望んでいなくても。
境界を引くのは難しいことですが、人の心を汲み取ることも、時にその願いを否定することも、どちらも正しく人のためなのですから。あなたはそのお心のままに、その境界線を見極めてください――光と闇の境界そのものであるあなたの御心で」
自分たち人間の神である光魔神への崇敬の念と、大貴を想い慕う一人の女性としての心を籠めて囁いたヒナは、世界という壁を隔てても尚通じ合う愛しい人に寄り添うような感覚に目を細める
人の願いや意思を汲み取ることも、頑なに我を通そうとする人に、そうではない道を示すのも等しく人のため。命を懸けて貫く意思を肯定ことも、否定することも決して間違いではない――それを、選ぶ者の心が隔てる信念と現実、理想の境界を見定めることが重要になる
光魔神は、光と闇の力を等しく持つ世界で唯一の全霊命。その存在は、光と闇、相反する二つの概念が同立する境界線の化神。光と闇のどちらにもよらず、しかしそのどちらでもある光魔神――否、大貴ならばそれを見定めることができると、ヒナは信じている
※
『そうか……そうだよな。俺が、決めることだ――』
至宝冠を大貴の息を呑むかすかな仕草からでも、その表情と心の機微を手に取るように感じられているヒナは、迷いが振り払われたその声に表情を綻ばせる
『ありがとう、ヒナ』
ヒナの言葉に背を押され、一つの決意を固めた大貴は、左右非対称色の瞳で見つめていた自身の手を強く握りしめると、もたれかかっていた壁からその身を離してその身を翻すのだった
※
「――そうでしたか。あの空間の中でそのようなことが……」
「うん」
妖界城の屋上庭園を取り囲む壁際に神魔と桜は、壁を背にした体勢で肩を並べて腰を下ろしており、二人だけの時間を堪能しながら語らっていた
「お辛かったでしょう、いかに夢の存在であるとはいえ、風花さんを今度はあなた自身が手にかけられてしまうなど……」
隔離された空間の中で起こった一部始終を話し終えた神魔の横顔に視線を向け、沈痛な面持ちを浮かべる桜は、慰めにもならないと分かっている言葉を送ることしかできない自分を苛んでいるかのようにその花弁のような唇を引き結ぶ
「桜がそんな顔する必要はないよ。元々僕の身から出た錆みたいなものなんだから」
その美貌を曇らせている桜に自嘲混じりの苦笑を浮かべて応じた神魔は、軽く天を仰ぐようにして独白するように言葉を続ける
「それに、僕が風花に気を取られていた所為で桜に危ない思いをさせちゃったしね」
まるで天に昇った風花を幻視しているかのようにその瞳に一抹の罪悪感を映した神魔は、隣にいる桜に視線を戻すと、優しく微笑みかける
風花が死んでいることは分かっていた。そうでなくとも、今の自分にとって一番大切なのは桜だ。――それであるにもかかわらず、目の前に現れた風花を見て戦場に残している桜を最優先できなかった自分を責める神魔は、自分自身にあきれ果てたように自嘲を浮かべる
あの時、魔力もなにもかもが全て同じ風花に出会った時、神魔は自分の心の中に「もしかしたら生きていたのかもしれない」という考えがよぎった自覚があり、それによって迷いを生じてしまっていた
隔離された空間の向こう。強大な敵がひしめく戦場に桜を残してきていることを分かっていながら、自身の過去に足を引き止められた。
今回は運よく間に合ったが、もしかしたら取り返しのつかないことになっていたかもしれない。もしも仮にあれが本物の風花だったとしても、それが原因で桜を失うようなことになっては意味がない。――真偽いかんにも関わらず、自分はあの風花を殺し、一刻も早く桜の許に戻る必要があったのだと神魔は自分を責め苛む
「あなたは、お優しすぎるのですよ。わたくしのことなどお気になさらず、もっとご自愛ください」
夢の幻影であったとしても、風花を自分自身の手で殺めた神魔の心痛は察するにあまりある。それであるにもかかわらず、一番傷ついているはずの自分をさらに傷つけるように責める神魔に胸を締め付けられる桜は、その胸を焦がす恋慕の情に任せてその身を最愛の人に寄り添わせる
「桜……」
しなだれかかった来た桜の重みを感じて視線を向けた神魔は、自分を心の底から案じてくれているその姿に目元を綻ばせて、その桜色の髪を優しくすくように撫でる
「なんかごめんね。いつも桜に心配かけてばかりで」
大切な人の幻をその手で殺しても尚、自分のためを思ってくれている神魔に愛おしさを募らせる桜は、最愛の人の温もりに包まれながら、愛情の熱に潤んだ瞳を瞼の下に隠して小さく首を横に振る
「そのようなことはございません。わたくしが勝手に心配してしまっているだけですから……わたくしが少々心配性すぎて、神魔様にお気を使わせすぎていないかばかりが気がかりです」
心配をかけたのは事実なのにあくまでも自分が勝手に心配しているだけだと言ってくれる桜の心遣いに、思わず表情を綻ばせた神魔は、その髪を優しく撫でながら感謝の言葉を述べる
「ありがとう」
桜がいてくれるからこそ、自分は自分の大切なものを見失わずにいられる――確信に近い感情でそう考えている神魔は、桜と風花との約束の通り、これからも桜を大切にしていくことを改めて確認する
「神魔様」
そうしてしばらくその手に身を委ねる桜は、神魔が「綺麗だ」と言って気に入ってくれている自分の桜色の髪が最愛の人に愛されている感覚に目を細める
神魔が大切にしてくれるからこそ、姉の黒髪に対して小さな羨望の意識と劣等感を抱いていた桜は、自分の髪を好きになることができた。それだけではなく、神魔が認めてくれ、愛してくれるからこそ今の自分があることを桜は確信し、常に感謝と深い愛情を捧げる喜びを感じることができている
今の自分が自分であることは、神魔という存在によって成り立っているのだと考えている桜は、自分の隅々にまで刻み込まれている愛する人との想い出に、無意識のうちにその美貌に花のような可憐な笑みを浮かべていた
「今日はお疲れでしょう? よろしければ、今日はわたくしにご奉仕をさせていただきたいのですが」
本当ならばいつまでも神魔に寵愛を賜っていたいところだが、風花を殺めた心の傷が癒え切っていないであろう神魔に甘えてばかりはいられないと、桜は名残惜しさを感じながらも身体を離しながら語りかける
姿勢を正して正座した桜が、自身の脚に手を当てて促すような視線を向けると、神魔はその意図を理解して確認するように問いかける
「いいの?」
「はい、今のわたくしにはこれくらいしかして差し上げることしかできませんから」
微笑を浮かべた桜の言葉を聞いた神魔は、その場で自分の頭を丁寧に揃えられている膝の上に乗せるような体勢で横になる
「じゃあ、遠慮なく」
着物のような霊衣を纏っている桜の膝に頭を預けた神魔は、霊衣越しに感じられる桜の細くしなやかでありながら、女性らしい柔らかさを持つ美脚の感覚を堪能しつつ、鼻腔をくすぐる花のような香りに目を細める
古風で淑やかな奥ゆかしい性格をしている桜は、奉仕することに喜びを覚えるため、基本的に神魔にされるがままになることが多い。
望めば基本的に答えてくれるが、自分から何かをねだったりすることが稀有なことを知っている神魔は、珍しく桜からしてくれるという言葉に甘えることにする
「でも、桜の方からこういうことしてもらうのって、なんか久しぶりな気がする」
「そうですか? 先日もさせていただいたと思いますが?」
膝の上に乗せた神魔の心を少しでも癒せるようにと願いながら、桜は愛しい人の頭をその白魚のように細くしなやか指で慈しむように撫でながら、穏やかな声で語り掛ける
「そうだったっけ? まあいいや。やっぱり、こうしてると帰ってきたって気がして落ち着くなぁ」
桜の身体から漂ってくる花のように優しく甘い香りに包まれながら、その膝を枕にして横になっている神魔は、包み込んでくれるような安らかな安堵感を覚える一時にまどろむように目を細める
「ふふ、お上手ですね」
神魔の言葉に、花のようにその美貌を綻ばせて淑やかな笑みを浮かべた桜は、その言葉を冗談のように受け取っているように答えながらも、その頬を恥じらいと幸福で朱に染めていた
桜にとって神魔の傍らこそがいるべき場所であるように、神魔にとって、桜は帰るべき場所そのもの。桜が待ってくれている場所へと帰り、共に過ごすこんな一時こそが、神魔にとって最もかけがえのないものだ
風花は「好きな人ができたら自分の分もその人のことを大切にしてほしい」と願ってくれた。桜は「望む限り傍にいてくれる」と言ってくれた。その約束をたがえるつもりはない。しかし神魔は、その二人との約束以上に、自分自身が桜を大切に思い、守り、共にいたいと願っていることを確信している
「神魔様」
「なに?」
不意に頭上から降ってきた桜の声に、膝枕をされている神魔は一瞬怪訝そうな表情を浮かべて自分に注がれている視線に応じる
清流のように澄んだ声音で紡がれる春風のように穏やかな声音の中に、普段とは違う硬質な感情を宿して神魔に語りかける桜は、自身の膝を枕にしている最愛の人をまっすぐに見据える
「先ほど、仰ってくださいましたよね――『帰ってきた気がする』と」
「あ、うん」
何気なく神魔が言った言葉は、桜にとって何よりも嬉しい言葉といえるもの。その言葉を噛みしめているように愛おしげに語りかけた桜の言葉に、その膝の上で横になっている神魔は目を丸くして応じる
一度戦場で隔てられ、離れ離れになった事を思い返しながら、今膝の上にある重さと、触れ合っているその場所から魂の奥底まで伝わってくる温もり――神魔という世界で最も愛しい人の存在を確かに感じている桜は、慈愛に満ちた花のような笑みを浮かべ、愛おしさに満ちた声で微笑みかける
「では……これからも、ちゃんとわたくしの許へ帰ってきてくださいね」
自分が神魔にとっての帰るべき場所であることができているということへの喜び。そして、これからも変わらず帰るべき場所であり続けることをその心の中で願い誓う桜は、重くになりすぎないように気を配りながら、「死なないでほしい」という願いを口にする
「もちろんだよ」
穏やかな中に、切なさを孕んだ桜の声を受けた神魔は、淑楚な表情を崩さずにいつでも自分のことを心配してくれている大切な人を励ますように応じる
「……ありがとうございます」
永久に共にいることを心の底から願い、視線と共に桜とその心を交わす神魔は、自分を見下ろしている桜髪の美女の頬にそっと手を触れる
「――ぁ」
頬に添えられた愛しい人の手の温もりに顔を赤らめた桜は、しかしそれを自分という存在に刻み付けようとするかのように、神魔の手が触れている左側に首を傾ける
「桜」
「神魔様……」
互いに微笑を浮かべた二人の視線が絡み合い、桜の膝の上に頭を乗せている神魔は、自分を見下ろしているその美貌と、満開の桜を思わせる艶やかでほんのりと甘い香りを漂わせる桜髪を見上げる
「――……!」
春風のように優しくと麗らかな日和のごとく穏やかな桜の雰囲気に包まれた神魔が、自分に向けられる陽光のごとき視線を見つめて口を開こうとした瞬間、二人の表情が愛を語り合う伴侶のそれから、普段通りのそれに変わる
同時に桜の膝にのせていた頭を離し、身を起こした神魔は、知覚が教えるその人物が現れるのを待って声をかける
「どうしたの、大貴君?」
神魔の声を浮かべた大貴は、知覚で二人だけの団欒の時間を過ごしていることが分かっていたらしく、わずかにばつが悪そうな表情を浮かべながらも、躊躇いがちに口を開く
「悪いな……少し、いいか?」
※
「あれ? 神魔さんと大貴、なんであんなところに」
クロスとマリア、瑞希に連れられて妖界城の屋上にやってきた詩織は、その作られた庭園の端で二人、肩を並べている神魔と大貴を見て訝しげに首を傾げる
「お待ちください」
視界に想い人と双子の弟の姿を見止めた詩織が二人の許へ歩み寄ろうとすると、その進路を阻むように現れた桜が優しく声をかけ、一同を制するようにその視線を神魔と大貴へ向ける
「二人きりで大切なお話をなさっておられますから」
「大切な話?」
桜の言葉に怪訝そうに眉をひそめた詩織は、足を止めてそこから見える神魔と大貴の姿を複雑な表情で見つめていた
※
「これでよかったのか?」
「彼のこと?」
おもむろに発せられた大貴の言葉に、これまでのやり取りから鋼牙のことを指していると瞬時に理解した神魔は、再確認の意味を込めて問いかける
「ああ」
「少なくとも、彼の意志は汲んだと思うよ?」
壁に背を預けている大貴の声に、壁から城の外に広がっている妖界の光景を見ている神魔は、視線を向けることなく応じる
「ああ、でも他に方法があったんじゃないかって思うんだ。もっと、いい解決が……二人が幸せになれるような、さ」
確かに神魔は、萼のために命を懸けるという鋼牙の意志を汲んでその最期の舞台を用意した。そういう意味で鋼牙の意志を汲んだのは間違いないだろう
しかし大貴は、やはりそんな結末ではなく、二人が心を通わせる――たとえ二人が相思相愛の関係になれなくとも、せめて鋼牙の想いを萼に伝え和解することができるようにするべきだったのではないかと思う
「……かもね」
大貴の言葉に小さく独白した神魔だが、しかしそこで言葉を区切ると天を仰ぐようにして小さく肩を竦める
「ただ、僕にはそこまでしてあげる義理もなかったってだけだよ」
確かに大貴がいうように鋼牙と萼には、こんな終わり方以外の選択肢があり、自分達の行動と心がけ次第ではその未来を手繰り寄せることができただろう
しかし、神魔には鋼牙の事情にそこまで介入するほどの義理もなければ絆もない。それでもあの時、その意志を汲んでその願いを叶えたのは、神魔の自己満足による同情の念があったからだ
「お前らしいな」
非情とも思えるほどに割り切っている神魔の言葉に、肩を竦めて苦笑した大貴は、背を向けていた壁に向き合い神魔と同じ体制を取ると、視線を向けて静かな声で宣言する
「なら、もし次にこういうことがあったら、俺は俺らしくやることにするよ。どんな結果になるか分からないけど、俺にとって最善だと思える方法を探す」
大貴の決意に満ちた力強い宣言を受けた神魔は、その意志が宿った左右非対称色の瞳を金色の瞳で受け止め、まるでその心の奥を見透かそうとしているかのようにしばしの間視線を交錯させる
《あなたはそのお心のままに、その境界線を見極めてください――光と闇の境界そのものであるあなたの御心で》
強い決意と新たな戦いへの覚悟を抱く大貴の脳裏に甦って来るのは、ヒナの激励と信頼に満ちた言葉。
光と闇の良質を兼ね備え、全霊命でありながら半霊命になることができる光魔神は、まさにこの世界のあらゆる事象の境界に存在しているといってもいい
だからというわけではないが、誰もが自分の目で見ているこの世界を、自分の目で世界にある様々な事柄を見て、心で感じ、己の意志で選びたいという決意を以って語りかける
あの場で――鋼牙と最期の戦いを繰り広げてていたあの時、たとえ本人たちに望まれなくとも、力ずくででも、二人にとって最善の未来を選べなかった後悔を二度と繰り返さないように――。
「そう」
その大貴の決意の言葉を聞いた神魔は、そこに込められている大貴自身の意志と願いを正しく理解して小さく笑みを浮かべる
「邪魔するなよ?」
肯定とも否定とも取れる曖昧な返事を返した神魔に、大貴は釘をさす意味も込めて念を押すように確認の言葉を向ける
その大貴の視線を受けた神魔は、その左右非対称色の瞳に「嘘や冗談じゃないぞ」と言わんばかりの感情を宿しているその姿に小さく肩を竦めて応える
「時と場合によるけど――善処するよ」
神魔が魔界王に与えられた役目は、真の覚醒を迎えるまで光魔神を護衛することと、十世界盟主の排除でありその部下になることなどではない。
無論、最低限の気持ちは汲むが、仮にその選択が大貴の命を一定以上の危険に晒したり、自分たちの役目に反するようなものであったならば、躊躇わずに敵対するだろう
「ああ――それは俺も同じだ」
必要とあらば敵対してでもその意思を阻むと暗に宣言した神魔の言葉に、それは自分も同じだという意味と決意を以って大貴が応じる
「こちらにいらしたのですか」
丁度話が一段落ついたその時、まるで時を見計らっていたかのように、二人の許へ現れた萼が声をかける
その背後では、立場的な事情で萼を止めておけなかったことを詫びるように、申し訳なさそうな表情を浮かべた桜が「申し訳ありません」という声が聞こえてきそうな表情を浮かべている
「もういいんですか?」
背後で申し訳なさそうにしている桜に、手で「大丈夫」と軽く合図を送った神魔は、一連の騒動の収拾を図るために駆け回っていたはずの萼に確認の意味を込めて声をかける
萼は妖界王に仕え、この妖界城の執務を取り仕切る立場にある重要な人物。十世界との戦いはすでに勝利しているようなものとはいえ、まだ多くの事後処理が残っているだろうことくらいは容易に想像がつく
同時に萼が重要な要件でここへやってきたことも確実だ。なぜなら、この緊急事態。特に重要な用事でなければ、確かに格は落ちるが、出迎えの時に使わされていた李仙、リシア、弔、今際といったそれなりに親しい妖怪たちを遣わせるのが普通だからだ
「はい。後は真祖様方にお任せいたしましたので。それに、私はそれ以上に大切な役目を賜っておりますので」
案の定神魔の言葉の意図を汲み取って簡潔に応じた萼は、相対している神魔と大貴。そして背後――庭園の片隅で二人のやり取りを見守っていたクロス、詩織、桜、マリア、瑞希に対して語りかける
「これより皆様には、妖界王様に謁見していただきます」
萼が二人の会話に割って入った時点で、二人のやりとりを遠巻きに見ていた詩織達五人は、傍観に徹するのを止めて歩み寄ってきている
それを知覚で把握していた萼が背後の五人に背を向け、前方の大貴と神魔に視線を向けて話をしているのは、妖界にとって最も大切な来賓が光魔神であるからだ
「……!」
この戦いの中で繭の中から出てきたというこの世界を総べる最強の妖怪――妖界王・虚空。先日訪れた時には会えなかった世界の支配者との面会に、一同を引率している瑞希はその氷麗な表情を引き締めて応じる
「わかりました。二人とも行くわよ」
「ああ――?」
身を翻した瑞希に促され、その後に続こうとした神魔と大貴だが、自分たちを呼びに来た萼が微動だにせずに佇んでいるのを見て怪訝そうに眉をひそめる
遅ればせながらとはいえ、自分達の王に外の世界からの来訪者を会わせるのだから自身が先頭を切ってもよさそうなはずなのに、一行に動こうとしない萼を訝しみながらも、大貴と神魔はその傍らを通り過ぎようとする
「私には、気にかかる人がいました」
「――?」
その傍らを通り抜ける瞬間、二人にだけ聞こえるように声量を抑えて発せられた萼の言葉に大貴と神魔はふと足を止める
このタイミングを見計らって話したということは、自分たちに聞いてほしい話だということ。そしてそれ以上に萼の声に秘められた感情が、大貴と神魔にこの話を聞かねばならないという気持ちを芽生えさせ、二人の足をその場に縫い付けていた
「……その人は、私と違って自分勝手で、決まりやルールを守らなくて、粗暴で乱暴でぶっきらぼう――とにかく礼節や調和とは無縁のような性格の人物でした」
なぜか振り返ることが憚られ、すれ違おうとした一のまま背を向け合ってその声に耳を傾ける大貴と神魔の耳に、萼の声が届いてくる
愛しい人のことを話す惚気た声のようでもあり、活発な子供を優しく見守る母親のようにも、手のかかる弟を煩わしく思いながらも、甲斐甲斐しく世話をする姉の庇護愛とも取れる感情を宿したその声は、今の萼の心情を表しているかのように思える
大貴と神魔に背を向け、軽く天を仰いでそう独白する萼の瞳は、争いの収まった天を映していながらも、遠い日へと思いを馳せていた
《――硬ぇなァ、お前》
《あなたがいい加減すぎるのです》
《どうしてあなたはこう、いい加減なことしかできないのですか》
《るっせぇな。終わりよければすべていいだろうが!》
《オイ、萼。ちょっと用事を思い出したんで、あとは任せる》
《なっ!? ちょっと待ちなさい――》
今でも明瞭に残っている思い出の数々と共に脳内に反響するその声に、萼の唇は自然と綻び、意図せず笑みを浮かべていた
「でも、その自由さが少しだけ羨ましくて、私は彼の姿をいつの間にか目で追うようになっていました」
その人物と萼はまさに水と油。相容れない存在だった。しかし、だからこそその人物は萼の持っていないものを持っていた。――だからこそ、その姿に心の片隅にあった、自分ではない自分を重ね、憧れに似た感情を抱いていた
それに混濁者として生まれ、生まれながらその身に覚えのない罪を背負って生きてきた萼自身が抑圧してきた願いがあったことは否めない
「ですが、私には彼を許せない――いえ、彼に素直になれない理由があって、結局最後まで仲違いをしたままだったのですが」
その姿を見なくても、苦笑しているのが分かるほど感情を宿した声音で語る萼は、自分の不器用さを笑うように言ってその目を細める
萼には、この気持ちを何と呼ぶのかはわからない。常に己を律してきた自分とは違い、己の心のまま奔放に振る舞っていることへの憧れだったのか、敵視だったのか、恋慕の情だったのかさえも分からない。
自分自身でさえ分からないこの感情の正体は分からないまま。ただ一つだけ言えることがあるとすれば、その感情の正体が何であれ、その人物は萼の心に強く残る――気にかかる人物だったということだけだ
今でも鮮明に思い出すことができるその記憶は、萼にとってかけがえのない思い出――もう、この世にいないその人が残した心の跡だった
「――!」
(それって……)
それだけ聞けば、いかに大貴でも萼が誰のことを言っているのかを察することは難しいことではない。そして、それと同時にやり場のない感情が湧き上がってくる
(なら……ならもしかしたら、二人は手を取り合えたんじゃないのか――?)
もしも、萼の言う人物が自分の想像どおりであるとすれば、二人にはもっと別の――幸せな未来があったのではないか。
今となっては後の祭り。それでも、あの時選ばなかった選択肢の先にある二人が望んだかもしれない未来の可能性に気付いてしまった大貴は、己の無力さに拳を握りしめて悔恨の念に堪える事しかできなかった
本当ならば、今すぐにでも「あいつもそうだった」と言いたい。その人物が誰のためを想い、なんのために死んでいったのかを伝えたい
しかし、それではその死が無駄になってしまうどころか、男が最期まで守ろうとした萼を傷付けることにもなりかねない。結局大貴は、あの時に何もせず、何も選ばなかった今の自分にできることは、『ただ沈黙を守ること』しかかなったのだと悟った
「……なんで、急に僕たちにそんな話を?」
大貴同様その言葉に耳を傾けていた神魔は、何の前触れのなく突然謎の告白をした萼の真意を問うように、背中越しに言葉を向ける
なぜ萼がこの状況でそんな私的な感情の話をするのか。なぜ突如思わせぶりな口調でその気持ちを吐露するのか、神魔にはその理由が判然としない
まるで、自分たちが何をしたのか知っているような……悪く言えば、鎌をかけているような言葉に、神魔はわずかばかりの警戒心を抱きつつも、平静を装って応じる
「――いえ」
神魔の声を背中で聞いていた萼は、まるでその言葉の真意を探ろうとしているかのようにしばし沈黙して、その目を静かに伏せる
「ただの独り言ですよ」
「……そうですか」
もしもその表情を見ているものがいたならば、安堵によるものとも、寂しそうとも評したであろう笑みを浮かべた萼は、その限りなく白に近い金色の髪を静かに揺らす
背中を向けている大貴と神魔の気配を感じながら静かに佇む萼が、わずかに細めた目で天を仰いでいると、三人が来ないことに気付いて足を止めた詩織が振り向いて呼びかける
「なにしてるんですか? 神魔さん、大貴、早く行きましょうよ」
詩織の声に意識を引き戻された萼は、小さく笑みを浮かべると、その身を翻して神魔と大貴に肩を並べる
「そうですね。虚空様をあまりお待たせするのもよくないでしょう――さ、お二人も」
普段通りの抑揚のない声音で二人を促し、城内へとつながる扉へと向かって歩を進めた萼は、一度足を止めて背後に視線を送る
「……本当に、馬鹿な人」
わずかに眉をひそめて独白した萼の小さな声は、妖界を吹き抜ける風と、それによって巻き上げられる屋上庭園の花々の花弁と共に世界の空へと溶けていくのだった