この想いが届かぬように(後)
それは、ほんの数日前のこと。まだ十世界に加わる意思の無かった恋依は、いつものように助力を乞い、組織への勧誘のためにやってきていたクラムハイドを素っ気なく袖にして静かに湖畔の石に腰かける
「虚空様も、なぜ彼を野放しにしているんでしょうね?」
三十六真祖の一人であり、現在の三巨頭の一角をなす大妖怪でありながら世界を裏切り、十世界に協力しているクラムハイドに対し、なんの行動も起こさない妖界王・虚空の真意を考え、そして分かりきっている一つの結論に至る
「まぁ、現状で十世界と事を構えても、いいことなんてないのでしょうけどね」
世界の恒久的平和を掲げている十世界は、原則として力による統治を好まない。無論、それほど志の高い者ばかりではないが、少なくとも、組織の中心である奏姫とその側近たちにはその意思がある
異端の神さえも取り込んでいる十世界とことを構えてもいいことなどない。今は多少の裏切りに目を瞑ってでも反撃の時を待つのが最善であるのは恋依にとっても明確な事実だった
「……懲りないですね」
そうして湖面に映る自分の姿を見ていた恋依は、自身の背後に立った人物を知覚して辟易した様子でため息をつく
「鋼牙くん。何度来ても――」
背後に現れた人物の力を知覚で捉え、認識している恋依は、クラムハイドと共に妖界を裏切ったかつての同胞――鋼牙に背中越しに言葉を向ける
「お願いします、恋依様。俺に、力を貸してください」
「……珍しいですね、あなたがそんな畏まった言い方をするなんて」
自分の言葉を遮った鋼牙の言葉に、驚きを禁じ得ない様子で背後へ視線を向けた恋依は、そこで地に両手をつき、額を地面に擦りつけんばかりに下げているその姿に、目を瞠る
妖界城にいた時から鋼牙は、粗暴というか不遜な一面がある人物だった。無論、常識的な上下関係は維持していたし、言葉遣いも多少砕けてはいたが敬語を使っていた
しかし、ここまで真摯かつ丁寧に接する鋼牙を見たことが無い恋依は、その姿に面喰いながらも、只ならぬ様子に対面するように座って次の言葉を促す
「クラムハイドは、いよいよ十世界の妖怪共を率いて城に攻め込むつもりです」
十世界に所属する妖怪の中でも屈指の力を持つ鋼牙は、事前にクラムハイドから聞いた計画を打ち上け、真剣な眼差しを注ぐ
「それで私にどう協力しろというのですか?」
額を地につけてまで鋼牙が自分に求めてくる「協力」という言葉に、恋依は普段通りの独特の間を持つ甘い声で応じながらも、その瞳には真祖にふさわしい為政者の色を宿している
この場合の協力は単純に二つ。十世界の仲間として妖界城に責めることを協力するのか、あるいはそれを阻止するために協力するのか
いずれにしても、鋼牙が何らかの覚悟を以ってこの場にいることを理解している恋依は、穏やかな声音でその考えを問いただす
「はい。まことに手前勝手な話ですが、貴女には、戦闘になった時に、俺が萼のところに行けるように場を取り繕っていただきたい」
「どういう、意味でしょう?」
自分がどれほど愚かしく、独りよがりな頼みごとをしているのかが分かっているからこそ、鋼牙は最大級の敬意を払いながら、懇願する
鋼牙の口から出たその名前に、恋依が思案気に眉をひそめると、その真意を確かめようとしているかのように、まっすぐに注がれるその瞳の奥へと意識を向ける
「俺は……」
地面に爪を立て、土を握りしめながら声を押し殺す鋼牙は、自分の心の在り様を確かめようといている恋依の視線に、嘘偽りのない自分自身の本当の気持ちを口にする
「俺は、萼に惚れてます」
※
「萼は、妖怪と悪魔の混濁者。その人柄も力も認められていても、やはりどこか、城の中で浮いているところがある……俺は、あいつの寂しそうな顔をずっと見てきた」
自分の気持ちを吐露した鋼牙は、歯を食いしばると血炎に焼かれるその身体を震わせて神魔と大貴に視線を向ける
妖界王の気まぐれによって生かされた萼は、実力もあり、場内や真祖達からも確実に信頼を勝ち取っている。
しかしその出自――妖怪と悪魔の混濁者であるということに対する本能的な嫌悪感を完全に消すことは難しく、また本人にもそれに対する負い目があった
特に何があったというわけではないが、その様子を見ていれば、どこか周りと壁があるような――世界に馴染めていない面は確かにあった
「だから、これが絶好の機会だった」
眼前に壁の様にそびえたつ妖界城を見上げた鋼牙は、拳を握りしめると沈痛な面持ちで言う
その声は、静かでありながらまるで慟哭にも似た悲痛な響きを帯びており、そこに鋼牙がどれほどの想いを込めていたのかが窺える
「クラムハイドの策によって、この世界が危機に陥る中、あいつが世界のために戦い、そして俺を討てば誰もが、あいつの存在と力を今以上に認めてくれる」
心の底から発せられたようなむせぶようなその声を聞いた大貴と神魔には、このたった一度の機会に命さえかけて臨んだ鋼牙の壊れた願いの残響のようにも思えた
「しかも都合のいいことに、今城の中でまともに戦えるのは、虚空とあいつだけ。今俺が乱入し、虚空を守れば、確実に俺の命があいつに花道を敷いてやれる」
事はある意味で鋼牙の思うままに進んだ。そして唯一の懸案事項であったクラムハイドも先ほどその存在を消滅している
あとは、十世界の妖怪たちの中でも幹部クラスにあたる自分を萼が討ち取れば、彼女は世界を守った英雄の一人として周囲の妖怪たちに今以上に認められ、世界に受け入れてもらえるはずだ
「あいつ自身が、混濁者であることを受け入れ、そして世界に受け入れてもらえることを知れば、きっと今以上に幸せになれる」
「なんで、そこまで……」
生まれこそは不遇だが、少なくとも今はそれなりのものを得ている萼に対し、いかに好意を寄せているからと言って、命を賭してそこまでするのかが理解できず大貴は声を詰まらせる
「確かに……」
そんな大貴の言葉を受けた鋼牙は、全くだと言わんばかりにどこか自嘲じみた笑みを浮かべると、何かを諦めたような笑みを浮かべて独白するように呟く
「俺には、これしか方法がなかっただけだ。――あの日から」
「あの日?」
そう言い放った鋼牙の脳裏に甦るのは、自身が十世界に入ることとなった日の記憶だった――。
鋼牙がまだ妖界に所属していた頃、その時にはまだクラムハイドも妖界側におり、十世界の妖怪の筆頭は、三十六真祖の一人乱世の実弟である双閣だった
元々鋼牙は、自ら望んで城に仕えていたのではなく、はるか昔に少々暴れすぎて労働奉仕を命じられた妖怪だった。
城で働くようになって、その凶暴さと戦闘欲はなりを潜めていたが、それに目を付けたのが、十世界につくことを決めたクラムハイドだった
「――驚いたぜ。あんたは、裏切りする奴じゃないと思ってたんだがな」
「正しい世界の姿を取り戻すには、向こうにいた方がいいという結論に達しただけだ」
十世界を勧誘を受けた鋼牙から皮肉交じりに向けられた言葉に、事もなく応じたクラムハイドは、静かな中に揺るぎない決意が宿った声で言う
「断ったら?」
クラムハイドの真意を測り兼ね、おどけたような口調で冗談混じりに言った鋼牙の言葉に、クラムハイドは抑制の利いた声で淡々と応じる
「特に何もする気はない。他の真祖や妖界王に報告しようが自由にしろ」
十世界につくことを隠すつもりなどないクラムハイドの言葉を聞いた鋼牙だが、同時に真紅の月を思わせるその瞳に宿る凶悪な意志を垣間見て背筋を凍らせる
(本気か……ただ、こいつは碌なことを企んでねぇな。十世界に理念に同調したなんて、殊勝な顔をしてねぇ)
鋼牙が知っているクラムハイドという人物は、法と理に厳格で、実力も指折りの真祖であり、世界を裏切るなどということは絶対にしない。
しかし、そのクラムハイドがそれをすることを決意した背後には、十世界の理念に同調した以上の特別な理由があるであろうことを推測するのは難しいことではなかった
「ただ、私と来た方が、お前にとっても面白いことになると思うぞ?」
この当時、鋼牙はすでに萼に想いを寄せていたが、目の前で自分を十世界に誘うクラムハイドはそれには気づいておらず、鋼牙は今でも嫌々世界に仕えていると思っていると考えていた
今から人を呼んでも間に合うかは分からない。何より現時点で妖界の中で絶大な信頼を得ているクラムハイドが裏切ったなど、軽々と信じてくれるとは思えなかった。
何しろ、こうして目の前にしていなければ、城内で決して優等生ではなかった自分でさえ思いもよらなかったのだから
(だが、これは放っておくわけにはいかないな)
クラムハイドが何を企んでいるかは分からなかったが、只ならぬことをしようとしているのは分かる。
仮にこのまま自分が誘いを断っても、いつかクラムハイドは世界に牙を剥き、城に仕えている萼の前に敵として立ちはだかることになるだろう
その時、万が一にも萼に危害が及び、その命を奪うようなことがあってはならない。故に鋼牙には、眼前にいるクラムハイドを看過することはできなかった
(なら、俺がすることは一つだ)
自分の力ではクラムハイドを止められない。このまま見過ごしても、いつかクラムハイドは自分たちの脅威としては立ちはだかることは必至
ならば、クラムハイドと行動を共にし、どのように世界を害そうと考えているのかを見極め、味方のふりをしながら、必要に応じてそれをさりげなく邪魔をすることで間接的に萼を守ることが自分にしてやれるたった一つのことだと、鋼牙は決意を固める
(俺は、これからの己の命を萼のために使う……!)
「いいね――俺も混ぜろよ」
鋼牙が浮かべた獰猛な笑みは、愛する人のために、愛する人の敵になることを決めた愚かな男が、自分へ向けたものだったのかもしれない
「――貴様達も精々気を付けることだな。十世界の中には、クラムハイドみたいに組織を自分の欲求を果たすための隠れ蓑にする奴がいる。そしてそれはおそらく……想像以上に根深い問題だ」
「……!」
自分の記憶を鼻で嗤った鋼牙は、怪訝そうに視線を向けてくる大貴と神魔に気付くと、自嘲混じりに笑みを浮かべる
「ところでこの話は、お前たちの胸に秘めておいてくれないか? 敗者からの無様な頼みだが、萼には知られたくないんでな」
自分が戦う理由を告白し、これまで見せてきたものとは全く違う鋼牙の表情を見た大貴は、自分の所為で萼を傷つけたくないというその思いに、静かに目を伏せる
鋼牙にとって、十世界についたのは行動を起こすきっかけに過ぎない。ずっと考えてきた萼への贖罪。偶然が重なったことで十世界という舞台に立つことを選んだ鋼牙は、混濁者であることから世界に馴染めていない萼のために自分が力を尽くすことを決意した
奏姫の意思を否定するつもりはない。確かに今の世界にどこか退屈していたのも事実だ。
しかし、だからと言って妖界を裏切るほどの意思はなかった鋼牙は、そうせざるを得ない状況になったことで、逆に自分ができる――否、したいことをするために十世界を利用することを決めたのだ
「……ああ」
そんな鋼牙の真意を知らずとも、大貴は萼を傷つけたくないというその意思は伝わっていた
それに応え、押し殺したような声で答えた大貴に、隣に立つ神魔も、大貴に続いて同意を示す首肯を返す
「これで俺の話は終わりだ。もう満足だろ? だからそこをどけ」
それを受けた鋼牙は、その手に再び自身の武器である大型ナイフを顕現させ、先ほどまでの自罰的な笑みから死をも決意して戦いに臨むそれへと変える
「お前、まだ……」
鋼牙が未だに戦意を失わず、萼に討たれるために戦うという目的を捨てていないことを理解した大貴が息を呑む
「俺がこの話をしたのは、もうお前たちと戦う力も時間も残っていないからだ。俺は、ここであいつに殺されるために、今日まで生きてきた。――俺には、こんなことでしか萼を幸せにしてやれねぇからな」
その様子を見た鋼牙は、さも当然のことのように言い放つと、その傷ついた身体で武器を構え純然たる殺意と戦意に満ちた妖力を吹き上げる
戦いに負けたからといって、目的を諦めるつもりは鋼牙にはない。
萼に討たれる――そのたった一つの目的のために、悠久の時を十世界として、世界と萼を敵に回して生きてきたのだから
「なんで? もっと他に方法があるでしょ?」
「そうだ。それに、そんなことを萼が望むと思うのか!? あいつだって、好き好んでかつての同胞を手にかけるようなことはしないはずだ!!」
瀕死の状態になって尚、その歩みを止めようとしない鋼牙が放つ狂気にさえも似た信念を前に、神魔と大貴が声をあげる
「ハン、そんなこと分からねぇだろ?」
「分かるさ! 少しの間一緒にいただけだが、萼はそんなことを思う奴じゃないってことは分かる!」
鋼牙が戦う理由を知った今ならば、こんな方法以外に取るべき手段があるようにも思える。
萼に気持ちを伝えることもせず、ただ愛する人が世界に受け入れられるためだけに自分の気持ちも伝えず命さえも懸けるなど、大貴はもちろん神魔にさえ真意を測りかねる行為だ
加えて仮に鋼牙がそれでよかったとしても、萼がそれを望むとは思えない。
今は九世界と十世界という立場にいる以上敵対せざるを得ない関係にあるが、かつての同胞である鋼牙を手にかけることを萼が心の底から望んでいるとは思えなかった
そうでなければ、自分の両親を見殺しにしたという玉章が、妖界のために生きることはしなかったはずだ
「――俺なんだよ」
あってないような短い期間しか一緒にいなかったにも関わらず、萼を信じ、断言して見せた大貴の言葉を聞いた鋼牙は、唇を引き結び、自嘲しているようにも聞こえる声で絞り出すように言葉を発する
「?」
その身に刻まれた傷よりも、痛みを覚えているようなその姿に一瞬眉をひそめた大貴と神魔に、鋼牙は慟哭にも似た声を上げる
「あいつの――萼の両親を殺したのは俺なんだ」
「……!」
まるで血を吐くように発せられた鋼牙の告白に大貴と神魔が息を呑む
「あいつの目の前で、これでもかってくらいに斬り刻んで殺した。俺はあいつにとって、憎むべき親の仇だ。そんな奴が、どの面下げてお前に惚れたなんて言うんだよ!?」
自嘲混じりの笑みを浮かべ、叫ぶように声をあげた鋼牙は、その言葉で自分自身の心を抉り、己の身に刻まれた罪の痛みを苛まれる
かつて、玉章に匿われていた萼の両親を討伐するために、虚空、クラムハイドらが筆頭として率いた部隊の中には、当時妖界に所属していた鋼牙もいた
そして、虚空とクラムハイドによって玉章とその伴侶、子供たちが倒される中で標的である萼の両親を殺めたのが、他ならぬ鋼牙だったのだ。
当然その時の鋼牙には萼に対する特別な感情などはなく、本来ならばそのまま終わるはずだった、しかし、本来混濁者として処分されるはずだった萼を虚空が気に入り、城に招いたことで事態は一変する
混濁者という両親が犯した存在の罪を背負い、疎まれながらも凛々しさを失わずその力と人柄で城の妖怪たちに認められていった萼の姿を見ていた鋼牙は、その姿に徐々に心惹かれていった
しかし、自分の中で萼への想いが強くなるほど、鋼牙を襲うのはその両親を手にかけた自身の罪だった。
王の命令だった。世界の法だから――確かに言い訳をしようと思えばいくらでもそれはあった。
しかし、それは混濁者であることをハンデとせずに生きてきた萼に対して言っていい言葉ではない
故に鋼牙は、自身の恋慕の情と、愛する人の両親を殺した仇であるという事実の狭間で苦しんできた。
そして、逃れられぬ力によって十世界に取り込まれたことを機に、自分の想いを押し殺したまま萼の幸せを願うことを決意したのだ
「確かに、君の言うことは分かる――でもそのために殺されてあげるっていうのは、君自身の言い訳で甘えだよ?」
愛する人の家族を殺めた仇である自分が、どんな顔でその想いを告げればいいのか――鋼牙が背負う痛みと十字架に一定の理解を示しながらも、神魔は非難の色が込められた静かな声で告げる
もしも自分が殺めた者の大切な人に好意を抱いたとき、その相手に想いを告げることができるかと言われれば、神魔にも自信はない。それにどんな答えを出すのかも人それぞれだろう
しかし、自らの想いを告げるでもなく、その想いを殺すでもなく、ただ己の気持ちを満たすために一方的に敵になり、その命を差し出すというのは、ただの逃避でしかないはずだ
「――かもな。俺は、あいつに拒絶されることにビビッてるだけなのかもしれねぇ……みっともないことこの上ねぇな」
そんな神魔の言葉の意図を正しく受け取って目を伏せた鋼牙は、自身の血炎にまみれている手と、そこに握る武器を一瞥して自嘲する
殺した相手の娘だから自分を恨んでいるはず。だから、自分がこの想いを伝えていいはずがない――ずっとそう考え、萼の気持ちを確かめるでもなく、その心に寄り添うこともせずにいたのは、ただ拒絶されるのが怖かっただけなのかもしれない
否定されるころを恐れ、嫌われるのことを避けるために、体の良い理由をつけて萼自身から逃げる理由にしていたのは、結局自分を守るためだったのかもしれない
「――だがな」
心のどこかで諦めていた選択肢を冷徹に思い起こされ、自傷するような笑みを浮かべた鋼牙は、今となっては栓無きことでしかない可能性をかき消すように、咆哮を上げる
「だが、もう後には退けねぇんだよ」
「――っ、待て」
瀕死の身だとは思えないほどの妖力を放出した鋼牙が一直線に自分に向かってくるのを見て、大貴は黒白の力を纏わせた太刀でその両の斬撃を受け止める
「俺は、俺の命を使って、あいつに花道を敷いてやるって誓ったんだ。だから……だから邪魔するんじゃねぇよ!!!」
まるでその存在そのものを構築している妖力までもを使い尽くさんばかりの鋼牙の姿は、鬼気迫る形相で調和と中和の太刀に阻まれたその刃を全力で押し切らんとする
鋼牙にとって十世界にいる意味とは、今日のこの日、萼に殺されるためだけのものだった。そしてクラムハイドが志を挫かれて死んだ今こそがその最初にして最後の好機。
虚空と萼の二人だけが揃っているという現状は、おそらく二度と来ないであろう絶好の機会。まさに運命が導いてくれた今ならば、ごく自然に、何の憂いも憂いなくその刃にかかることができる
「待てって言ってるだろ」
(こいつ、この傷でなんて力だ……!)
満身創痍の身とは思えない力に驚きを禁じ得ない大貴は、力任せに刃を振り回す鋼牙の攻撃を阻みながらも、死をも恐れぬその気迫に気圧され、徐々に押されていく
確かに鋼牙の願いは理解した。しかし、いかに過去に負い目があるからといって愛する者に殺されるために戦うその在り方を正しいとは認められない
「もう、俺には待ってやるほどの時間もねぇんだよ!!!」
まるで自身の魂さえも燃料としているかのように力を解放し、渾身の力を込めた斬撃を振るう鋼牙の目に映っているのは、目の前にいる大貴ではなく、その背後にそびえたっている妖界城の中にいるたった一人の女性
無限の力である神能を持つがゆえに、瀕死であろうが死なない限り従前の力を振るうことができる全霊命としての特性を以って両手に持つ刃を神速で振るう鋼牙の渾身の斬撃が世界に双牙の痕を刻み付け、聖魔の力を纏った大貴を弾き飛ばす
「っ、この……!」
鋼牙の斬撃によって弾き飛ばされた大貴が即座に体勢を立て直し、反撃に転じようとした瞬間、その肩に背後からそっと手が添えられる
「……神魔?」
「ねぇ、大貴君。これから僕がすることは二人だけの秘密にしてほしいんだ」
大貴の肩に手を置いた神魔がは、その耳元で囁くように言うと、答えを待つよりも早く漆黒の魔力を纏って鋼牙へと向かっていく
「お願いだよ」
「?」
すれ違いざまに残された言葉の残響に大貴が訝しげに眉をひそめる先で、漆黒の魔力を纏った神魔は刹那すら存在できない神速で鋼牙へと肉薄し、漆黒の魔力を纏う黒刃の大槍刀を一閃させる
「はああっ!」
「ガッ!」
容赦ない一閃がまるで世界を断絶せんばかりの威力を以って奔り、それを受け止めた鋼牙の限界まで傷ついた身体を、その衝撃が駆け抜けて悲鳴を上げる
大槍刀の斬撃を受け止めた衝撃によって、体中に奔る激痛に鋼牙が苦悶の表情を浮かべる中、神魔は漆黒の魔力を纏わせた刃を力任せに振りぬき、その身体を力任せに背後の妖界城へと叩き付ける
「なっ……!」
(神魔、お前まさか……)
神魔の斬撃によって力任せに吹き飛ばされた鋼牙が、漆黒の流星となって妖界城の壁を貫いて城内へと放り込まれるのを見た大貴は、その意図を察して瞠目するのだった
※
「じゃあ、あなたは……」
恋依から一通りの話を聞いた玉章は、驚きを禁じない様子で声を漏らすとその視線を妖界城から感じられる、その人物の妖力に意識を向ける
「ふふ、馬鹿みたいでしょう? 好きな人に殺されるために敵になるなんて」
自嘲気味に笑った恋依は、その目を細めると、自分の前で懸命に頭を下げていた鋼牙の姿を思い出して肩を竦める
「でも、あまりにも駄目すぎて、放っておけなくなっちゃったんですよね」
結局最後まクラムハイドの目的が分からなかった鋼牙は、ついに総攻撃を打って出ることを決意した十世界を止めるために恋依の力を借りることを考えた。
「本当は、頃合を見計らって私が十世界の妖怪たちを一網打尽にする手筈だったんですが、まぁ、もう必要はなさそうですからね」
穏やかな笑みを浮かべた恋依が、すでに崩壊している戦場に視線を向けると、その意図を察した一同はその姿に視線を落とす
すでに崩壊した十世界の戦線は、持ち直すことはできない。十世界に所属している妖怪の大半は討たれ、仮に生き延びたとしても復興には短くない時間が必要になるのは明白だった
「このことは、あなたたちの胸に秘めておいてあげてください。そうでないと、鋼牙君がしようとしたことが無駄になってしまいますから」
「でも……」
恋依の言葉を聞いた詩織は、たまらずに声をあげようとする
鋼牙が戦う理由が本当だとしても、そんなものはただの自己満足だ。独りよがりで自分勝手で、萼の気持ちなど考えてもいない
本当に萼を想っているなら、こんな形ではなく、真正面から向き合うことで償わなければ意味がない。――こんな終わり方では、どちらも救われない
「貴女の言いたいことは分かります。でも、私も女の子ですから……たとえ間違っていても、そこまで想ってもらえる萼ちゃんが少しだけ――ほんの少しだけ羨ましかったんですよ」
詩織の言わんとしてることを正しく察している恋依は、鋼牙の過ちを認めながらも、それでも救いようがないほどに愚かなその行動に力を貸すことにしたのは、一人の女としての小さな憧れがあったからなのかもしれない
「さすがは、あなたのお孫さんですね」
そう言って視線を向けた恋依の言葉を受けた玉章――九世界で最も多くの伴侶を持つ絶世の美女は、その傾城傾国の美貌を優しく綻ばせて応じる
「ええ」
そうして天を軽く仰いだ玉章は、記憶の中にある鋼牙の姿を思い返すと、その愚かさに小さく肩を竦める
「……馬鹿な坊やね」
そう言って遠くにいる鋼牙を見るようにその目を細めた玉章は、その瞳に鋼牙を幻視すると、紅で彩られた花のような唇に笑みを刻む
「ありがとう、私の大切な萼をそこまで愛してくれて」
※
「ぐ……ッ」
その頃、神魔によって妖界城へ叩き付けられた鋼牙は、その威力のままに城内へと押し込まれ、崩れ落ちる瓦礫の中で身を起こす
「――っ!」
(この妖力は……)
血炎を上げる身体で身を起こした鋼牙は、次の瞬間知覚が捉えられた妖力に目を瞠り、俯いていた顔を上げる
そこにいたのは、鋼牙が求めてやまなかった人物――萼と、この世界の支配者たる妖界王・虚空の姿。
「鋼牙……!」
刹那、萼と視線を交錯させ、時さえも止まったように感じられていた鋼牙が目を瞠る中、背後から聞こえてきた鋭い声がその意識を現実へと引き戻す
「しまった! 逃げてください」
「――!」
(そうか、そういうことか……)
自分が貫いてきた城壁の向こう――大きく開いた穴に映る妖界の空に浮かぶ神魔と大貴の姿を見止めた鋼牙は、この意味を正しく理解して獰猛な笑みを浮かべる
「邪魔するんじゃねぇよ!!!」
咆哮と共に自身の武器であるナイフに妖力を纏わせ、それを斬撃の波動とした放った鋼牙は、それが神魔と大貴に炸裂して極大を爆発を引き起こしたのを見て笑みを深くする
(ったく、下手な演技しやがって)
戦いの最中に起きた事故を装い、自分を萼の許へ送り届けた神魔の演出に不敵な笑みを浮かべた鋼牙は、そのまま獰猛な笑みを浮かべた表情で虚空を睨み付ける
「覚悟しろ、虚空!!!」
(礼は言わねぇぞ、光魔神、悪魔の小僧。これは、お前たちが勝手にやったことだ)
自分を見る萼と虚空の視線を受けながら、咆哮を上げた鋼牙は、全身から殺意を解放して地を蹴る
(だが、折角の心遣いだ。最期にありがたく乗ってやるよ――よく見とけ)
獲物を見つけた捕食者を彷彿とさせるその獰猛な笑みは、目的を果たすことができる歓喜のそれ。しかしその目的に、鋼牙と萼達では大きな齟齬が生じていることに気付いているのは、それを仕掛けた側である神魔達と鋼牙自身だけだ
(俺の一世一代の芝居だ!!!)
全身に殺意と妖力を纏い、虚空に向かって肉薄しようとした虚空は、予想通り横から伸びてきた太刀の一閃を、その刃で弾いて距離を取る
刹那の斬撃を交わした鋼牙が怒気を孕んだ視線を向けると、虚空との間に割り込んだ萼が静かに澄んだ水面のような瞳に怜悧な光を宿し、その武器である太刀を携えて佇んでいた
「随分彼らに傷めつけられたようですね。そんな身体では、私にさえも勝てないでしょう? 逃げてはいかがですか」
構えた太刀の様に、鋭い抜身の刃を思わせる冷ややかな声を向けた萼の言葉を受けた鋼牙は、声を荒げてその刃の切っ先を向ける
「ハッ、笑わせるんじゃねぇよ! 最高の獲物が目の前にいて逃げるわけがねぇだろうが!! それに、てめぇごとき最初っから敵じゃねぇんだよ!!」
言い終わるが早いか、その刃を構えて地を蹴った鋼牙は、虚空を狙っているかのように見せかけて萼を意識に留めながらその殺意を振るう
「くたばれよ、虚空!!!」
「させません」
妖力を帯び、巨大な牙のごとき刃と化したその武器を手に虚空へと肉迫しようとする鋼牙を、萼の鋭い刃が弾く
その妖力特性である刃妖力の結界は、その領域に触れるものを容赦なく斬り裂く力を有するが、鋼牙の妖力特性である硬化の力の前にはそれを発揮することができずに沈黙する
「あなたに、虚空様が倒せると思っているのですか?」
「それがどうした!? 俺はクラムハイドみてぇに十世界の理念も何も興味ねぇんだよ! 俺はただ俺の思うままに戦いたいだけだ!!!」
仮に万全の状態であったとしても、鋼牙では虚空に――最強の妖怪に勝つことはできない。その分かり切った力の差を提示する萼は、投降を促していた
憎むべき仇であるはずの自分であっても、かつての同胞として情けをかけるその優しさに口元を歪めた鋼牙は、互いの武器の刃がぶつかり合って力を鎬を削る中、獣の笑みを浮かべて萼を見据える
「どうだ、萼ァ? てめぇも俺の下につかねぇか?」
まとわりつくような醜悪な声音で紡がれた鋼牙の甘言に、萼の柳眉がその心境を表すかのように不快げに歪められる
刃を挟んで至近距離で鋼牙と視線を交錯させる萼は、まるで周囲の光を呑み込む闇を思わせるどす黒い感情で作られた表情を浮かべるかつての同胞の視線を真正面から受け止めていた
「憎いだろう!? この世界が! てめぇの両親をぶっ殺し、好きで生まれたわけでもない混濁者ってだけでお前を虐げてきたこの世界が!
そんな奴らのために、お前が何を我慢する必要がある? お前が誰に、何の責めを負う必要がある!? 俺は知ってるんだぜ? お前の優等生ぶったその顔の下は、俺と理不尽な世界への恨みで満ちてるってなァ!!!」
咆哮と共に、至近距離で発せられた鋼牙の言葉は、萼の心を揺らすように響き、その身に刻まれた罪と、意思の下に押し殺してきた感情を否応なく認識させる
異なる存在との交雑を禁じるがゆえに、両親は命を落とし、その間に混濁者として生まれたというだけで言われなき罪を強いる。
誰も望んで混濁者に生まれたわけではない。誰も好んで存在を見止められたくなかったわけではない。何一つ罪を犯していないというのに、萼の存在は両親と世界の理によって生まれた瞬間から罪に穢れていた
「知ったようなことを言わないでくれますか?」
決して忘れることのできないであろう傷口を刃の様に抉る鋼牙の言葉を聞きながらも、萼は微塵も怯まずに静かな声で応じて刃を一閃させる
「――っ!」
刹那、その神速の斬撃が鋼牙を弾き飛ばし、互いにその衝撃を利用して距離を取った因縁で結ばれた二人の妖怪は、すぐさま肉迫して目にも止まらぬほどの神速の斬撃を嵐のように放つ
「確かに私は、この世界の法に両親を殺められ、自らの存在の咎と共に生きてきました。そのことに何も思わなかったかといえば嘘になります
しかし、自らが犯していない罪にまみれた存在である私だからこそ、法を――世界の理を守ることの意義と尊さが分かるのです。世界が間違っているなどと言って、私は私を擁護するつもりはありません
そして、徐々にですが、私には私のことを信頼し、認めてくれる人達ができたのです。そんな私が彼らの信頼を裏切るような真似をすると思いますか?」
時すら存在する余地を許さない速度で行われる斬撃の応酬の中で、萼は事前に向けれた鋼牙の言葉の刃を斬り返していく
しかし、それは鋼牙にとっては予想通りの答えだったといってもいい。それは、決して答えの出ない問いだろうが、今の萼ならば自分の言葉に惑わされることなく、これまで自身の力で築き上げてきた信頼と、それに裏打ちされた自信を以って自分に敵対することを確信していた
萼は、自分を認めてくれないからと言って世界を否定したりはしない。むしろ、その存在を以って、世界に己を認めさせるのだ
(――あァ。お前は、そういう女だよな)
神速の斬撃と、その中に織り交ぜられる妖力の砲撃の応酬の中、鋼牙は自分が愛したままの姿でそこにいる凛々しく気高い萼の姿に、小さく口元を綻ばせる
自らの不遇に決して屈しないその姿にこそ、自分が惚れた萼の原点があることを解していた鋼牙の耳に、予想だにしなかった言葉が届く
「あなたもその一人だったのですよ?」
髪に隠されていない目から注がれる萼のその真剣な眼差しは、決してお世辞や冗談ではないことを如実に物語っていた
「クク……相容れねぇなぁ、優等生! やっぱり俺たちは相容れねぇよ!!」
萼から向けられた思いもよらない言葉に面喰った鋼牙は、驚愕を露にして目を丸くしてその斬撃をさばいていたが、やがてその肩を小刻みに震わせて嗚咽にも似た笑い声を零す
「……残念です」
自分の言葉を一笑に付し、咆哮を上げる鋼牙を怜悧な視線で射抜いた萼は、静かに目を伏せると、その手に携えた太刀――自身の妖力が戦う形を取った武器の切っ先を向けて神速の刺突を放つ
鋼牙の斬撃を縫うように放たれた萼の太刀は、その全霊の妖力と妖力特性を纏って奔り、眼前に立ちはだかっていたその身体を一閃の下に刺し貫く
「ガ――ッ!」
妖力特性によって硬化された鋼牙の身体すら貫いた刃を携える萼は、躱しきれなかった斬撃で受けた傷口から血炎を立ち昇らせながら、視線を合わせることなく言葉を紡いでいく
「昔からあなたはそうでしたね。自分勝手で、粗暴で乱暴で、横暴で慇懃無礼で――」
太刀の刃が胸の中心を貫くほど肉薄しているため、まるで鋼牙と抱擁を交わしているかのような体勢になっている萼は、かつての同胞を殺めた己の罪を噛みしめるかのように沈痛な面持ちで言葉を発する
あえてそうしているのか、視線を合わせないようにして語りかける萼の脳裏には、妖界城に来てから過ごした鋼牙との思い出が、まるで昨日のことのように甦っていた
生真面目な萼と、自由奔放な鋼牙。両親の仇であるということもあったのだろうが、少なくとも人格としても二人は面白いほどに相容れない存在だった。
そんな性格の不一致も手伝ったのだろう。二人はことあるごとに衝突を繰り返し、周囲にいる者たちが仲裁に入ることも少なくなかった
「そんなあなたが、私は大嫌いでしたよ」
今では、遠い昔のこととなってしまった記憶を思い返しながら言った萼の表情には、まるで悪友を失ったかのような一抹の寂しさが浮かんでいる
「あぁ、俺もだ」
(あぁ、これでいい)
その言葉を聞いた鋼牙は、己の目的が果たされたことに心の中で満足ながらも、敵としての関係を崩さないよう、努めて怒りの表情を保つ
「俺も、お前が大嫌いだったよ」
志を遂げていながら、志半ばで散っていく者の無念を表情に浮かべる鋼牙は、満たされた心で萼に憎悪の視線を向けながら、満足げに心の中で語りかける
(萼。お前は、ちゃんと俺のことを憎んでるか? 俺は、ちゃんとお前の敵でいられたか?)
自分が望んだとおり、この命に萼の手で幕が引かれたことに満足する鋼牙は、命が尽き、自身の身体が形を失って妖力へと還っていくのを感じながら、最期に自分の目的と本心が知られていないことだけを祈って静かに目を伏せる
「――チッ、この、クソアマが……」
この想いと目的が知られてしまえば、すべてが無意味になってしまうどころか、萼を深く傷つけてしまうだろう
自分は、あくまでも萼の両親を殺した仇であり、世界と王に弓を引いた裏切り者――そうやって終わらせることが、最期まで勝手を通した責任だ
(萼……)
願わくば、自分の命が、せめて萼のこれからの人生に幸せを与えることができるように。そして、萼が本当の意味で自分の幸せを手に入れられることを祈りながら、鋼牙はその想いを胸に秘めたまま存在を喪失させていく
(俺の気持ちは――届かなかったか?)
届かないことを願う想いが残滓として宙を舞う中、萼は、鋼牙という存在を構築していた妖力の残滓が蛍の様に舞う中で、一人静かに佇み続けていた