王の誇り
神速で放たれた漆黒の刃の群れが、まるで命があるかのごとくその軌道を自由自在に変化させながら世界を奔り、その標的へと向かう
その刃が向かう先にいるもの――それは、仮面のように凹凸のない顔に血のように赤い双眸を爛々と輝かせた異形の存在。
無数に枝分かれした巨大な角を持つ鬣のごとき体毛に覆われたその身体は、まるで直立した鹿を思わせるそれであり、その身にはその体格に合わせた霊衣が顕在化している
「――ッ!」
その身に妖力とは違う神能を纏って立つその異形は、自身に向かってくる無数の黒結晶の刃を睥睨すると、まるであざ笑うかのようにその目を細めて腕を一閃させる
漆黒の刃が自身の貫こうとした瞬間に神速で振るわれた異形の腕は、それを容易く粉砕し、それだけにとどまらずにその神能の波動をその攻撃を繰り出した相手――妖界王・虚空へと叩きつける
「ぐ……ッ!」
異形の波動を叩き付けられた虚空の身体は、その衝撃によって傷つき、真紅の血炎がまるでその痛みを代弁しているかのように噴きあがる
「虚空様!」
その様子を傍らで見守っていた妖界に仕える妖怪――萼は、苦悶の表情を浮かべる王の姿に声を上げ、それを繰り出した異形とその背後で勝利を確信して佇む十世界に所属する妖怪達の長であるクラムハイドへ射抜くような視線を向ける
「あれは、もう帝紗様ではない……!」
かつて三十六真祖に名を列ね、クラムハイドの伴侶でもあった大妖怪「帝紗」。萼はもちろん、この妖界に住まう者たちから敬意をもって接されていたその面影は今の異形からは微塵も感じ取ることはできなかった
遥か古に命を落としたはずの帝紗がなぜこの世に現れたのかは分からない。しかし今の変わり果てた異形の姿から分かるのは、あの帝紗はやはり偽りの存在だったのだという確信だけだった
「ちっ」
異形と化した帝紗から放たれた神能の波動を耐えきった虚空は、血炎を上げる身体を意にも介さず、その武器――絡み合う螺旋を思わせる柄を持つ大槍刀を一閃させる
大槍刀の斬撃に合わせて放たれた虚空の妖力は、その特性である擬似堕格反応によって漆黒の結晶波へと形を変えて帝紗だった異形へと奔る
「無駄だというのが分からないのか?」
虚空が放った妖力の斬波動がまたしても鹿角の異形に打ち消されるのを見たクラムハイドは、それを見て嘲るように言う
虚空の妖力特性である擬似堕格反応は、神能に宿る意志を錘へと変えてその力を奪う力を持っている
放たれた神能はもちろん、神能で構築されている全霊命の身体や武器さえも劣化させて著しく戦闘力を殺ぎ落とすことができる
しかしその虚空の力は、鹿角の異形の前で完全に沈黙してしまっている。それは、二人の間にその特性が発言しないほどの圧倒的な神格の差があることを意味していた
「あれは、一体……?」
神から生まれた神に最も近い全霊命――「原在」という存在である妖怪の始祖、虚空をも遥かに凌ぐ神格を持つその存在に萼は驚愕を滲ませた声を漏らす
偽りの帝紗が姿を変えた鹿角の異形が纏う神能は、少なくとも萼の記憶にはないもの。しかし、その神格が相当に高いということだけは知覚が伝えてくる存在の根源的な差からかろうじて読み解くことができた
「幻想の住人か。つまり、あの帝紗は空想の産物だったということだな」
そんな萼の疑問が聞こえたのか、虚空はそれに応えるように鹿角の異形を睥睨しながら苦々しげに声を発する
「詳しいな。さすがは腐っても妖界王と言ったところか」
「買い被ってくれるな。だが、生憎と異神大戦の時に偶然知覚しただけだ」
普段三十六人の真祖に世界の運営を委ね、自身の妖力で作った繭の中に引きこもっていることへの皮肉が込められたクラムハイドの言葉に、虚空は肩を竦めるようにして応じる
そんな二人の会話を聞いていた萼は、鹿角の異形を髪に隠れていない目に映しながらその言葉に知識の中に眠っていたその単語の意味を呼び起していた
「幻想の住人……確か、夢想神のユニット」
「そうだ」
萼の独白が聞こえていたのか、眼前の敵から視線を逸らすことなく虚空は抑制の効いた声で肯定の言葉を返す
「幻想の住人は、円卓の神座№8、夢想神・レヴェリーのユニット。そしてこの力から見るに、おそらくあれは、その神片ユニットだろう」
「っ!?」
虚空の言葉に萼が動揺のあまり、普段の冷静さを失って思わず息を呑んでしまったのも無理はない
神片とは、神位第六位――「神」と同等以上の力を持つ存在。そして神の力は、同格以上の神以外のあらゆる力を受け付けない絶対の領域にあるこの世の頂点にして根源の力でもある
完全存在と呼ばれる神は、全霊命と同様にその存在そのものを神能のみで構築されているものだが、その力の神格は実質的に全霊命の上に位置している
つまり、神の力を持った存在が相手では、いかに全霊命として最強に近い虚空であろうとも手も足も出ないということになる
(やはり……つまり今は、虚空様にその力を見せつけているというわけですね)
知覚によって、帝紗が姿を変えた鹿角の異形が桁外れの神格と未知の神能を有していることを理解していた萼だが、その事実を再度目の当たりにしては動揺と危機感を禁じ得なかった
「明察だ」
神と等しい力を持つ存在が相手では、いかに九世界王でも勝ち目はない――そんな絶望的な事実を前にして身を竦ませている萼の心情とは裏腹に、同様の理由で勝利を確信しているクラムハイドは不敵な笑みを浮かべる
「いかに、貴様が神に最も近い最強の妖怪であろうと、神と同等の力を有する神片には勝てないだろう?
私は確実に勝てると思ったからこそ、妖界王に戦いを挑んだのだ――これまで世話になった礼に、せめても安らかに葬ってやろう。王ならば死に際は潔くするものだぞ?」
鹿角の異形――神片幻想の住人の背後で、勝利の確信に満ちた視線を笑みを浮かべるクラムハイドの言葉の陰で萼は唇を引き結ぶ
(私はどうすれば……仮にここで、私が命を懸けて虚空様を逃がそうとしても時間稼ぎにもならないでしょう。かといって、神に等しい神片を倒すことなど不可能)
「――っ」
(クラムハイド様。あなたが、なぜこのようなことを……)
妖界を総べる真祖の立場にありながら十世界に寝返り、神――それも異端の神の力を手に入れてまで、妖界王を殺しに現れたクラムハイドの姿を萼は怒りを隠せない視線で射抜く
クラムハイドは、真祖としてこの妖界を治める立場にあった。そしてあの日――萼の両親が断罪されたあの日に、虚空に代わって軍の指揮を取っていた人物でもある
異なる存在との交雑という、九世界の禁忌を犯した萼の両親の断罪――処刑を決定し、それを執行した張本人。世界の法と理を厳格に守っていた人物の裏切りこそ、萼にとって最も許しがたいことだった
(あなたは、法の下に私の両親を処刑したというのに――っ!)
両親は確かに禁忌を犯した。故に良心が処刑されたことは、世界の法と秩序を守るという観点から見れば、決して間違ったことではなかった。――無論、感情的なものを抜きにして客観的に考えれば。
その際に虚空に目をかけられ、混濁者という禁忌の存在でありながら妖界城に仕えてきた萼は、クラムハイド達妖界を総べる真祖の下で働く中で、その世界の法を司る者としての責任と行動に一定の感銘を受けた
だからこそ、両親への断罪は、法の守護者として陶然のことだったのだと自分に言い聞かせ、私怨を心の奥へと閉じ込めて世界のために働いてきたのだ
しかし、今そのクラムハイドが世界の理想に啓蒙され、自分の両親を殺してまで守った世界の法を自ら犯しているという事実は萼にとって許しがたい裏切り以外の何物でもなかったのだ
神に等しい神片の力の前で、自分はおろか虚空でさえも成す術もない八方塞がりの状況の中、やり場のない怒りと世界を裏切った理由を見いだせないことに対する疑念だけが、萼の胸中で渦を巻いていた
(いえ、そもそもあれだけ法に厳格だったクラムハイド様が、なぜ十世界に? 私の知っているクラムハイド様ならば、十世界の姫の理想など夢物語だと斬り捨てているはず――……夢?
もしも、もしもクラムハイド様が十世界に寝返るだけの理由が在るとするならば、それはあの方にとって何よりも大切なもののためのはず。つまり……)
「――っ!」
(まさか……)
しかし、そんな中でも萼の思考は怒りや理不尽さにだけ満たされるのではなく、長年王と真祖の下で培ってきた経験と知識が今ある事実に推論を加えて一つの形を構築していく
「まさか、あなたは、帝紗様を本当の意味でこの世に呼び戻すために十世界に?」
頭の中で、無数の事実と推測が一つの道筋を形作ると、萼は自身の脳裏に浮かんだその可能性を思わず声として発していた
「――!」
その言葉に、虚空とクラムハイドの意識が自分に向いているのを感じ取った萼は、唇を引き結んで自らの脳裏に浮かんだそれを、言葉に変える
「夢想神は、夢や理想を現実に変える能力を持つといいます。つまり、先ほどまで帝紗様だったその神片幻想の住人は、あなたの夢を媒介として顕在化している
だからこそ、その妖力も、立ち振る舞いも、記憶もあなたの中にあるあなたが思い描く帝紗様のそれでしかない――そう考えれば、およそ帝紗様らしからぬ行動にも合点がいきます」
凛々しい表情と声音で紡がれていく萼の言葉に、虚空とクラムハイドは無言で耳を傾ける
「その帝紗様が本当の帝紗様ならば、あなたの行動を窘め、力ずくででも止めたはずですから」
夢想神のユニットである幻想の住人は、夢の顕現。つまり、その存在は夢を見る人の願いに沿ってのみ形を成している
クラムハイドの記憶に準じて妖力や立ち振る舞いは再現できても、「こうあってほしい」、「こうであってほしい」という願いによってこの世界に顕現している幻想の住人は、そこに歪さを作り出し、クラムハイドにとって都合のいい存在となってしまっているのだ
「そういう意味で、あの帝紗様は所詮偽物でしかない。ならば、あなたは本当の意味で帝紗様の蘇生を望んでいるはず――つまり、すべての神器を使うことのできる奏姫の力を利用し、死者を蘇らせる神器を使わせることで」
所詮今までの帝紗が自分の願いが作り出した贋い物の夢でしかないことをクラムハイドは理解しているはず。ならばこそ、その本当の願いは夢や記憶の中にある偽りではない本物をこの世界に呼び戻すことであるはずだ
死者を呼び戻せる神器があったとしても、それを使える者がいなければ意味がない。ならば、すべての神器を使うことができる十世界の盟主である姫を利用する――そのために、クラムハイドは妖界を裏切ったのだろう
「……なるほど」
萼の言葉に耳を傾けていた虚空は、合点がいったように独白すると対峙するクラムハイドに剣呑な視線を向ける
クラムハイドがどれほど帝紗を愛し、大切に思っていたのかを知っているからこそ、虚空は萼の仮説に得心がいっていた
闇の全霊命は、大切なもののためならば、それ以外のすべてを破棄することも厭わない。ならば、クラムハイドにとって最も大切な帝紗のためならば、十世界に組みすることも死者を蘇らせるという禁忌を犯すことも厭わないだろう、と。
「だとしても、そううまくいくと思うのか? いくら十世界の姫がお人好しでも、そこまで馬鹿ではないぞ? 貴様の願いは聞き届けられない」
沈黙を守るクラムハイドのそれを肯定と受け取った虚空は、その姿に一抹の同情を孕んだ憐憫の情が宿った視線を向ける
虚空にも――否、おそらくこの世界に生きている者ならば、望まぬ形で命を落とした愛する者を蘇らせたいというクラムハイドの願いが決して分からないわけではないわけではないだろう。
しかし、たとて誰が願っていても、決して叶えてはいけない願いや望みは確かにある。命が尽きた者がこの世界に還ってくることは、生と死の理を犯す法や理念など介在する余地のない禁忌なのだから
そしてそれは、いかに十世界の盟主である奏姫であっても分かっているはずだ。つまり、十世界に組していかにその腹心にまで上り詰めようと、姫が死者組成の神器を使ってくれる可能性は限りなく低いと言わざるを得ない
「それがどうした?」
恐らく帝紗を蘇られるという願いは叶わない――そんな意図を孕んだ虚空の声を受けたクラムハイドの口から発せられた言葉は、これまで溜め込んでいた感情や鬱屈した願いを発散するような鋭いものだった
「確かに私の目的は帝紗をこの世界に呼び戻すこと。だが、だからといって姫の理想を利用しているわけではない」
「何?」
静かだが強い口調で言い放ったクラムハイドの言葉に、虚空と萼は眉をひそめ、すべてを捨ててまで死者を蘇らせるという夢を叶えようとするかつての仲間に視線を向ける
「私は、姫の『光、闇はもちろん全霊命、半霊命を問わずに世界を一つにする』という恒久的平等平和論を少なからず支持している」
「……ほう?」
確かに、クラムハイドが十世界に所属したのは帝紗を蘇らせるという目的を果たすために死者蘇生の神器を使ってもらえるだけの縁を作り上げるため。
こうして姫の願いに力を貸すのも、そうして奏姫の機嫌を取っているからという側面を否めないが、決してそれだけではないのもクラムハイドの本心だ
「姫の思い描く世界が机上の空論であることも、夢物語でしかないことも、私たちの様に世界の運営に関わってきた者はもちろん、そうでない者たちにでも分かるだろう
だが、こうして叶わぬ夢を追い、今まで築き上げてきたすべてに背を向けて初めて、私はその願いが他人事とは思えなくなってしまったの――たとえ叶わぬ夢であろうとも、それを実現させるために戦うことの意義を」
死者を蘇らせる――誰もが一度は願い、しかし倫理と理の下に否定するその願いを実現させようと戦うことを決意したクラムハイドだからこそ、同じように叶わない願いを追い求めている奏姫の心情が痛いほどに理解できる
「それは、酷く傲慢で独りよがりなものだろう。だが、現実に夢を見てはならないと、ままならぬ事実に理想を描いてはならないなどと誰が決めたわけではない。
そして、誰もがそんなことをできるはずがないと思う愚かな妄言を本気で叶えようとする姫の姿に私は感銘を受けたのだ。――『この人の力になりたい』と」
強く拳を握りしめ、鋭い視線を向けてくるクラムハイドを真正面から見据えた虚空と萼は、その姿に憐れみさえ感じられる表情を浮かべる
「それは、自己弁護だ。自ら禁忌を犯すことを、同じく世界に否定される姫の願いを解することで間接的に肯定しようとしているに過ぎない」
紡がれた虚空の言葉は、虚しく響き、その場にいる全員の耳朶に静かな残響がこだまする
奏姫の理想も、クラムハイドの死者を蘇らせるという願いも、どれも決して他者から理解されないものではない。それらは、誰もが願い、誰しもが夢見たことのある現の夢だろう
しかし、この世には叶えられてはならない願いがある。誰もが夢見るからと言って変えてはいけない道理がある。そして曲げてはならない在り方があるのだから
「相容れないな。虚空。帝紗がいる世界と帝紗がいない世界があるのならば、私はいかなる禁忌を犯してでも帝紗がいる世界を肯定する。そうではない今の世界など、私にとっては悪夢と同じだ。だから――」
理として、倫理として、世界を司る法としては正論であろう虚空の言葉に、自嘲混じりの笑みを浮かべたクラムハイドは、まるで現実を断ち切るように目を伏せて、そしてこの悪夢に終止符を告げる
「もう、終わりにしよう。私の現実を」
その言葉に応じるように、今まで沈黙を守っていた神片幻想の住人がその力を解放し、その腕に無数に刃が枝分かれした巨大な双剣を顕現させる
凶々しく変容してこそいるが、異形の手に握られている帝紗と同じ形態の武器は、その存在の根幹が帝紗だったことの最後の砦のようにも思えた
「虚空様!」
幻想の住人から放たれる神に等しき神能に、純然たる殺意と戦滅の意思が宿ったのを見て取った萼は思わず声をあげる
いかに虚空であれど、神の力には叶わない。自分たちとは次元の違うその力に知覚を塗りつぶされる萼には、数瞬先の未来に虚空が殺される光景が容易に想像できてしまった
「下がっていろ、萼」
自身の力でさえはるか及ばない次元にある神片の力と殺意に晒されながら、虚空はその格の差に震えながらも、自分を守るために今にも飛び出してきそうな萼を制して小さく言葉を紡ぐ
「――仕方がない、か」
「?」
どうあがいても絶対に勝つことのできない相手を前に、しかし微塵も恐れた様子を見せない虚空の姿にクラムハイドは、訝しげに眉をひそめる
その身に纏う妖力には怯えや翳りはなく、その目にも生きることを諦めたり、死を覚悟したという者のそれとは違う、生き続けることを心から願い、そして信じぬく力強い意志が宿っていた
「クラムハイド。貴様こそ、我ら王を見縊りすぎだ」
「なに?」
決して嘘や虚言とは思えない確信と事実を以って紡がれる虚空の声音を受けたクラムハイドは、無意識のうちに警戒するように身構えており、その姿からは、これまで神の力故に抱いていた勝利の確信が揺らいでいる様が見て取れる
そんなクラムハイドを鋭い視線で射抜く虚空は、王としての威厳と風格に満ちた声音で、相対する者たちに宣告する
「我ら九世界を総べる王が――神より生まれし、最も神に近い全霊命が、神威級の神器を使えないと思っているのか?」
「――っ!?」
(な、んだと……!?)
虚空の言葉に目を瞠ったクラムハイドは、それを否定しようとするが、妖界王が見せる自信と確信に満ちた表情に思わずその言葉を詰まらせる
「神威級神器を、虚空様が……?」
長年妖界王の腹心を務めているはずの自分はもちろん、三十六真祖の一人に名を列ねているクラムハイドでさえも初めて聞いたらしいその事実に、萼は声を静かに佇む虚空へと視線を向ける
普通ならば信じられないような話だが、虚空の言葉にはそれを完全に否定させないだけの説得力があった
(ですが、確かに筋は通っていますね)
神から最初に生まれた全霊命である原在は、文字通り神に最も近い全霊命。
そして、神器とは神の力の断片。そして全霊命の中には、神に近い霊格を以ってその力を行使することができる者がいる――ならば、神に最も近い原在がその力を行使できない道理はないだろう
「我ら九世界の王は、蒐集神など、九世界の脅威に対抗する手段として、神威級神器を保有している」
この世界を創造した光と闇の神が消えたこの世界には、真の意味での神はいない。しかし、この世界には光と闇のいずれにも属さない存在でありながら、神と同等の力を持つ存在――異端神がいる
円卓の神座を筆頭とする異端の存在の中には、九世界と友好的な関係を築く者や、不干渉を貫く者がいるが、中には反逆神のように世界に害を成し、その生存を脅かすものが存在する
九世界の王達は、そういった神に等しき力を持つ者に対抗するための切り札として、神と同等の力を得ることができる神威級神器を保有しているのだ
「だが我らはそれを使ってこなかった」
そう言った虚空は、力強い口調でその事実を断じると、その鋭い視線でクラムハイドを射抜く
「なぜだかわかるか? それは、我らが神より生まれし全霊命の王だからだ。この身を以って世界を統治し、管理してこその王。神の力に頼って世界を統治するような者に王を名乗る資格などありはしないだろう?」
九世界の王が神器を行使できるということは、王に次ぐ権力と力を持つクラムハイドでさえ知らなかった事実。その理由は単純。有史以来、王と呼ばれる存在が神器を行使して戦ったという記録と記憶が存在しないからだ
神器の力は神の力。自分たちを創造した存在である神の力を借りるということは、言うなれば親の力に頼り切って事を成すに等しい
故に全霊命の王たちは、それを良しとしてこなかった。例えば神器の力を以って王を名乗っても、それを見る者たちは「神の力を持っているからだろう」という目で王を見るだろう。そしてそれは、たとえ知覚で力の差が分かっていても変わらない。「自分にも神の力あれば」と考えるのが関の山だろう
だからこそ九世界の王たちは、自らの力のみで同胞を制し、己の力と存在のみでその上に立つ。ならばこそ民達はその力を認め、敬意を払って接してくれるのだ
「だが、貴様のように世界を脅かす輩から世界を守るためならば、神威級神器をも惜しみなく使おう。なぜならば、自らの誇りを捨ててでも世界とそこに住まう者のために戦うのが、俺の――王の誇りだからだ!!」
「――っ!」
神の力を借りて王の座に座るようなものに王の資格はない。仮に戦争や戦闘の結果ならば、九世界の王たちはたとえどれほど追い詰められ、命を落とすとしてもその誇りと信念に基づいて自らが持つ神器の力を使わないだろう――事実、そうして神器を使った王は有史以来存在しない
しかし、世界そのものを脅かす脅威を排除するためならば、その信念すら捨て去り、親の力を使ってでも戦うことこそが、王の誇りだ。
自らの誇りと全ての同胞の存在を背負って立つ王としての信念と誇りを、怒号のごとき咆哮と共に掲げた虚空に気圧され、クラムハイドは無意識のうちに半歩後ずさる
「行くぞ」
静かに抑制された声と共に、虚空の妖力が揺らぎ、その力によって異空間に封じられていた神器とその力がこの世界に顕現する
「『廃理提唱者』!!!」
その内側に封じられた神器の名が呼ばれた瞬間、虚空の妖力から噴き出した出現した漆黒の鎖が、その胸の中心に突き刺さる。
それを中心に生じた暗黒色の紋様が、さながら罪科の刻印のごとく虚空の身体に刻み込まれると同時に、虚空の妖力が有す神格が上がり、全霊命の限界を超越する
胸の中心から溢れた漆黒の烙印は、虚空の身体に紋様を刻み、同時に羽衣の様にその身体に巻き付いて衣鎧のような形を成していた
「こ、れは――っ!」
「この力は……神の」
神器を発動し、全霊命としての力の限界を超えて神の領域にまで昇華した虚空の妖力の圧力に知覚を塗り潰されたクラムハイドと萼は、その姿と力に驚愕を露にして目を瞠る
この世の全てを超越した先にある存在としての領域――神へと至った虚空の力に圧倒され、存在の格の違いによる本質から生じる恐怖を覚えるクラムハイドは、忌々しげに歯噛みしてあふれ出だす感情を声にして絞り出す
「っ、どこまで私の前に立ちはだかるんだ、虚空――っ!」
九世界の理に背いてまで手に入れた神の力を易々と行使し、自分の叶わぬ夢の前に立ちはだかる虚空に怒りを露にしたクラムハイドに応じるように、神片幻想の住人が咆哮をあげて地を蹴る
これまでの戯れとは違う全力の殺意を剥き出し、全霊命を超える神速で虚空へと肉薄した神片は、両腕に携えた双剣を振り下ろす
「はあああっ!」
萼やクラムハイドといった、全霊命として上位に位置する者たちにさえ知覚できないほどの速さと、防御や相殺すら不可能な威力で振り下ろされた神片の斬撃を虚空の大槍刀が弾き飛ばす
あらゆる事象を形作るその力はさながら天地創造のごとく、それによって敵対するものを滅ぼすその力は世界滅却に等しい。――それは、正に神の力と呼ぶに等しいものだった
「ッ!?」
そして次の瞬間、二つの刃を以って虚空に攻撃を加えた神片の両腕が崩壊し、その存在を構築する夢想の力が硝子の様に砕け散る。
何もされていないというのに、同格の力を持つ自身の身体が傷ついたことを驚嘆を隠せずに目を瞠る神片幻想の住人を見据えた虚空は、その手に携えた大槍刀に神の妖力を纏わせる
「この廃理提唱者には、闇の神位第四位の一柱である罪業神・シンの力の断片が宿っているのだ。その力を発動した今の俺は、『神の業』そのもの。
あらゆる理に背する業に刃を向ければ、咎を犯したその身が罪に囚われるは必定。その身に刻まれた罪が魂を傷つけ、お前の身体を破壊することになる」
神の妖力を纏った大槍刀を一閃させ、神撃を放った虚空は、烙印のごとき紋様が刻まれた瞳を抱く漆黒の眼で神片を見据える
神威級神器「廃理提唱者」は、闇の神位第四位の神「罪業神・シン」の力を持ち、使用者を神の咎そのものへと変える力を持っている
その力を発動させた使用者は、世界に課せられた永遠の罪業そのもの。法や倫理を犯す罪業は、近づく者を容赦なく傷つけて蝕み、その存在に罪を刻み付ける
同格の力を持つ神片にはそこまでの効果がないが、それでも業を刻まれたその身が罪に喰らわれて崩壊するのは必然のことだった
その虚空の言葉を解したのか、神片幻想の住人は、まるでそこに在る罪から逃れようとするかのように距離を取る
「どうやら、この力の危険性を理解したらしいな」
しかしそれが見えていながら、虚空はそれを追うことはせず、その場に佇んだまま両の腕を失い、血炎のように煌めく欠片――その存在を構築していた夢の断片を傷口から立ち上らせる神片へ冷ややかな視線と共に最期の言葉を贈る
「――だが、もう遅い。一度刻まれた罪業は消えることがない。それは影の様に、常にそれを犯した者と共にある」
罪業は消えることはない。たとえ法的にそれを償おうと、それをなした事実はその身に刻まれ続け、犯した罪は常に共にある――つまり、一度業に囚われた神片に、もはやそれから逃れることは叶わないということだ
そんなこととは露知らず、自分と距離を取った幻想の住人に視線を向ける虚空は、クラムハイドの夢が形となったその存在に静かに別れを告げる
「言いたいことは分かるか? ――もう、お前は終わっているということだ」
まるで追悼の念を示すかのような言葉と共に、虚空がその手に携えた大槍刀を一閃させた瞬間、幻想の住人の身体が、その軌道と全く同じ形で両断される
「――ッ!?」
自身の身体がなぜ両断されたのか理解することができないといった様子で目を瞠る幻想の住人を見据えた虚空は、大槍刀の刃を下げる
「悪いな。確かにお前の力は、神に等しいのかもしれない。――だが、夢に描かれた神が、本物の神の力を超えられるはずがない」
その身体が両断されたと同時にその命が潰え、身体を構築する夢が形を失って世界に溶けていくのを見送りながら静かに独白した虚空は、その視線をゆっくりとその背後に移動させる
「夢から醒める時だ。クラムハイド」
「そんな、馬鹿な……っ」
自身の夢が失われ、叶わぬ夢が幻となったことに呆然として立ち尽くすクラムハイドへを見た虚空は、その瞳に一抹の憐憫の情を宿してゆっくりと歩み寄る
「私は、ただ取り戻したかっただけだ。帝紗を。あの時に失ってしまった大切な人と、かけがえのない日々を!」
その身から放たれる神に等しい虚空の力に、圧倒されながらクラムハイドは慟哭にも似た声をあげる
その言葉を受けた虚空は、ただ一心に愛する者を想い続けてきたクラムハイドの姿を悼んで、わずかにその心を痛める
「そうかもしれないな」
愛する者を失った者が、その存在に執着するのは当然のことだ。想う力が強ければ強いほど、注いでいた愛情が刃となって残された者を傷つける
「死者を蘇らせたい」――その願いを正しくないと判断できても、それを嗤う者はいないだろう。
だが、それでも尚死者は死者であり続けなければならない。他の誰でもない、遺された者たちのために。
「だがそれは、現実から目を背けることだ。現実を否定するものは、夢や理想ではないだろう?」
「――っ」
力の差を目の当たりにし、動くこともできずにいるクラムハイドに王として最後の言葉をかけた虚空は、神の妖力を纏った大槍刀を天高く掲げる
「これで、終わりだクラムハイド――今日まで、世話になったな」
これまでこの妖界のために尽くしてくれた腹心に労いの言葉をかけた虚空は、それと同時に全霊命にさえ回避することができない神速で刃を振り下ろした
「帝紗――……っ」
神速の斬撃を受けてその身を両断されたクラムハイドは、静かにその目を閉じて泡沫のごとく消え去った夢を見る
《あなた》
その声は、いつも優しく自分を呼んでくれた。怒っていても、不機嫌でも、その声が自分を呼んでくれることが当たり前だった
《あなたは、とてもできる人に見えて本当は駄目な人なんですから――》
《ずっと、ずっと私が傍にいてあげますよ》
走馬灯として蘇ってくる帝紗の声は、いつものように優しく語りかけてくる
「―――っ」
こみあげてくる感情を押し殺すように唇を噛みしめたクラムハイドは、静かに瞼を閉じて、幻想に映る想い人に想いを馳せる
(すまない……)
その言葉は、この世界に帝紗を蘇らせる夢を叶えることができなかった事に対する謝罪だったのか、愛する者を失った悲しみのあまり、世界を裏切ったことを詫びるものだったのかは分からない
しかし、その命を失って世界に溶けていくクラムハイドの表情がなぜか清々しく安らかな笑みを浮かべているのを見て取った虚空は、その存在が完全に消え去る前に静かな声で別れの言葉を告げる
「もしも……もしもあの世というものがあるのなら、今度こそ帝紗と一緒になれることを祈っているぞ」