風花の残香4
魔界の空を舞う純白の翼が神速で世界を斬り裂いていく。大地を覆い尽くす、森の中を湖の中を、その翼を以って翔け抜ける
その身から放たれる神々しい光力に、魔界に住まう様々な全霊命達は下手に行動を起こしてその怒りを買ってはたまらないと、手近な樹や岩の陰に隠れて息を殺し聖なる界災――天使たちが去るのを待つ
「……行ったみたいね」
標的の人物が見つからなかった天使達がその翼を広げてさらに遠くへと探索距離を広げていくのを木陰で見送った風花は、小さく安堵の息をついて胸を撫で下ろすとその視線を背後へ向ける
「紗茅、神魔の怪我の具合はどう?」
風花が視線を向けた先には、森にそびえる大樹にもたれかかるようにしている神魔と、それを守るようにして見守る呉葉と紗茅の姿がある
この場にいる誰よりも神魔のことを案じているであろう姉の言葉を受けた紗茅は、沈痛な面持ちを浮かべて言いにくそうに言葉を紡ぐ
「正直言ってあんまりよくない。傷は浅くはないし、なにより強い光力に浸食されてる」
大樹の根に身を預けている神魔の肩口からに袈裟懸けに刻み付けられた大きな斬痕からはおびただしい量の血炎を立ち昇っており、それがその傷の重篤さを如実に表している
光の力は闇の力よりも絶対的な規模で劣るものの、闇の力に対して十倍ほどの優位性を誇っている。しかも神魔の身体を傷つけたのは、天使の中でも屈指の実力を持つレイラム。その傷が決して軽くない者であることは想像に難くないことだ
悪魔をはじめとする闇の全霊命達にとって、天使の光力をはじめとする光の神能が恐ろしいのは、単純に十倍近い補正が加わるからではない。光の力に込められた闇を払い、間を滅ぼす神聖で神々しい輝きの力が闇の神能で構築された魂や身体に多大な影響を与えるからだ
その例に漏れることなく、レイラムの斬撃を受けた神魔の身体にも光力が染み込み、その身体を構築する神能を浄化し、毒のように浸食していた
「大丈夫なの?」
「安静にしていれば、ね」
光の力に蝕まれている神魔を一瞥した紗茅は、不安の色を隠せない姉を少しでも励まそうと優しく声をかける
神能には最盛期を保ったまま、常に最善の状態を維持するという特性がある。闇の全霊命には光の全霊命のような治癒や回復の力はないが、その自己再生能力は高い。
その身体を侵食する光の力のために回復速度は通常よりも遅くなるが、安静にしていればやがてその権能によって神魔の傷が癒えることは間違いない
「けれど、そんな時間を稼ぐのは難しいわね」
「……うん」
そのやり取りを聞いていた呉葉が小声で発して抑制の効いた言葉に、紗茅はその表情を曇らせて沈鬱な表情で頷く
仮にこれが光力による傷ではなかったとしても、神魔の傷は完全に再生するまでにはしばらくの時間がかかるであろう程度には深いもの。ましてそれが光の力によるものである以上、その回復速度はさらに遅くなってしまうだろう
レイラムを筆頭とする過激派の天使たちから、神魔の傷が癒えて万全の状態になるまで逃げ続けるのはおおよそ不可能であろうことはこの場にいる誰もが理解していることだった
「ごめんね、私を庇ったから……」
神魔の頬にそっと手で触れた風花は、自分を庇ったために傷を負ってしまった想い人に、罪悪感に彩られた瞳を向けて唇を引き結ぶ
レイラムの光力に当てられ、一瞬だけ聖なる死に魅入られてしまっていた自身の不甲斐なさを悔いながら風花が小さく肩を震わせていると、その手に神魔の優しい手がそっと添えられる
「大丈、夫だよ。風花が気にすることじゃないから」
「でも……」
予想していた通りの言葉をかけてくれる神魔の優しさに、風花は自身の内から湧き上がる後悔と懺悔、感謝と喜びといった様々な感情に胸を締め付けられながら、わずかに表情を俯かせる
自分の所為で自分の大切な人が傷つく痛みに、身体ではなくその心を痛める風花を慈しむような目で見つめる神魔は、その姿に苦笑を浮かべて穏やかな声音で語りかける
「きっと、僕たちは逆になっても同じことを言うんだろうね」
神魔は風花を庇って傷ついた。しかし仮にこれが逆だったとしても、きっと風花も今の神魔と同じことを言うだろう。――確信にも似た思いで向けられた神魔の言葉に、風花は優しく微笑んで応じる
「当然でしょ?」
胸を張って確信と自信に満ちた声で応じた風花は、「やっぱりね」とばかりに苦笑を浮かべる神魔と視線を交わしながら互いに微笑みを交わす
自分を励まし、勇気づけてくれるためにそう言ってくれた神魔の優しさに心からの感謝を送りながら、風花は自分がこの人を愛しているのだという思いを新たにしていく
「…………」
そんな姉と神魔のやり取りを見ながら視線を交わした呉葉と紗茅は、一時の間でも二人の時間を作ってあげようとばかりに愛おしさに満ちた瞳で静かにその様子を見守る
しかしその一方で、紗茅は姉と見つめ合う神魔へと向けた視線に呉葉とは違う一抹の疑念の色を浮かべる
(あの時、姉さんでさえ一瞬反応が遅れたレイラムの動きに、お兄さんは確実に反応していた。皆は必死だったから気付いていないのかもしれないけれど、あの直前の一瞬、お兄さんの魔力が桁外れに跳ね上がったような……)
紗茅は、レイラムが風花に近接し、その一閃を見舞おうとした時のことを思い返しながら、胸中に湧き上がる疑念にその瞳に剣呑な光を灯す
レイラムの霊格は風花よりも上。一瞬竦んでいたとはいえ、風花にさえ反応できなかった初撃に反応したそれどころか、レイラムの神速の斬撃が振るわれるよりも早くその間に割って入っていた
普段は油断しがちだが、三姉妹の中では最も知覚能力の高い紗茅は、その場にいた誰も――おそらくは本人やレイラムさえ気付かないほどの刹那に生じていた神魔の魔力の違和感に首を傾げずにはいられなかった
風花を助けるその一瞬、神魔の魔力が一瞬さえも存在ないほどの瞬間に過剰に高まったように思えた紗茅だが、それにも確たる記憶はない。あくまでも「そんな気がした」程度のことでしかない
(きっと、気のせいだよね――だって、そんなことがあるはずないんだから……)
一瞬脳裏をよぎった疑念に首を傾げた紗茅だったが、あの場にいた誰からも同じようなことを感じ取ったであろう印象は受けなかった
仮に神魔がそれだけの力を秘めていたとしても、全霊命の力がそれほど急激に上昇するなど考えにくく、また現在ではその残滓さえ感じられないのならば、紗茅には、それが自分の希望的観測による錯覚だったのだろうという結論しか残されていない
「……ところでどうするの姉さん? 空間隔離や転移なんて使おうとすれば、確実に天使たちに気付かれてしまうわよ」
そうして紗茅が半ば強引に自身を納得させたのとほぼ同時、これまでしばしの静寂を守っていた呉葉が周囲への警戒を怠ることなく声を発する
今は魔界からの援軍を待つために、一刻でも長く時間を稼がなければならない時。しかし、いくら魔力を抑えようとも神速を持つ全霊命から長時間逃れるのは困難を極めることはわかりきっている
かといって、空間隔離や空間を介した移動を行おうとしても、その力の脈動を知覚され、レイラムの餌食になってしまうだろう。つまり、今神魔たちに残された時間も、取り得る手段も限りなく限られている
「分かっているわ。今は一分一秒でも長く時間を稼ぐの。そうすればきっと魔界からの援軍が来るから」
かつて大戦でその力を振るっているがゆえに、今自分たちが置かれている絶体絶命ともいえる危機的状況をここにいる誰よりも知っている風花は、しかしそんなそぶりは一切見せずに不安の色をのぞかせる呉葉と紗茅に優しく微笑みかける
風花たちに時間が無いように、風花たちを追うレイラム達過激派の天使にも時間はない。魔界からの増援が来れば、撤退を余儀なくされることは目に見えているからだ
互いにあらゆる事象を超越する神速を持ち、空間を超越することさえも可能な全霊命同士。その力を分かっているがゆえに、あとは時間との戦いだった
「だから、あと少しだけ……」
深手を負った神魔と視線を交わし、優しい声音で力強く言葉を続けようとした瞬間、風花の後方はるか彼方で、純白の波動が天を衝き、衝撃波が大地を揺るがす
「な――っ!?」
背後から差し込む純粋な聖光の波動に目を瞠り、視線を後方へと向けた風花は、そこに見える白い破壊の波動と、その先に八枚の翼を広げて佇むレイラムの姿を見止める
(まさか……っ!)
その姿を見て、何が起きたのかを風花が理解した瞬間、天に佇むレイラムがその手に携える白い大槍刀を一薙ぎし、新たなる白爆撃を放つ
天に横一線に刻まれた聖なる斬軌に従って新たなる破壊の白爆が生じると、それが引き起こした爆風と衝撃波の中、呉葉が激情を露にする
「なんて滅茶苦茶な! 私たちごと辺り一帯を消し飛ばすつもりだとでもいうの!?」
自分たちを見つける手間を省き、かつ増援が来るよりも早く事態を終えるために力任せに一帯を滅却し始めたレイラムに呉葉が憤りを露にしながらその妖艶で艶やかな唇を噛みしめる
加減をしていても、全霊命として最高位の力を持つレイラムの一撃は、直径数百キロを一瞬で消滅させてしまうほどの力を持っている。このままでは、あと何瞬か後にその白い波動が自分たちに襲い掛かるのは明白だった
「っ」
(駄目、間に合わない。このままじゃ……)
レイラムの戦術に神魔を一瞥し、唇を引き結んだ風花はその攻撃が自分たちに届くより先に救援が来ることは見込めないだろうことを理解して歯噛みする
《実は、あなたには今後何があろうとも神魔さんの命を守っていただきたいのです。――たとえあなたの命をかけてでも》
「このままでは神魔が死ぬ」――その考えが脳裏によぎった瞬間、不意に風花はかつて撫子に言われた言葉が甦ってくる
その時、撫子からその言葉を受けた風花は、それに対して「そんなこと、言われるまでもありません」と答えた。自分にとって神魔は命を懸けてでも守りたいほど大切で愛おしい人なのだから、そのようなことは言われるまでもない――と。
初対面でいきなり空間隔離に閉じ込められたとはいえ、普段よりも強い語気でそう言い切った風花の中にかつて神魔と共に暮らし、神魔にとっての姉や母代わりでもあったという撫子に対する一抹の嫉妬があったことは否めない。
思い返してみればその時に発した強い言葉も、あまりにも美しい撫子に神魔が心を奪われてしまうのではないかという小さな恐怖と敗北感を振り払うように、誰よりも自分自身に向けたものだったともいえる。「神魔には自分がついている。だからあなたは必要ない」――と。
《そういう意味ではございません》
しかし、そんな風花の言葉の意図を正しく解していたであろう撫子は、その言葉に薄く紅で彩られた花弁のような唇を淑やかに綻ばせて言葉を続けた
《神魔さんは、これからの世界にとって無くてはならない人なのです。彼の命は、将来的にこの世界全ての命運を左右することになります。
今は信じられないかもしれませんが、彼には命を落としていただいては困るのです。そのことを努々お忘れなきようお願いいたします》
わざわざ空間隔離を仕掛けてまで接触を図ってきた撫子の要件は、風花にとって要領を得ないものだった
詳しい説明を求めても、「今はわたくしの口からは説明できません」と返されるばかり。しかし、その傾城傾国の美貌に宿る静かだが強い眼差しが、それを嘘ではない――少なくとも軽視するべきではないと如実に語っていた
(――違う)
脳裏に甦ってきた撫子の言葉を振り払った風花は、光の浸食に苦しみ、傷口から血炎を上げている神魔を見て唇を引き結ぶ
神魔の命が世界にとってどれほど価値があるのかは分からない。撫子の真意は今でも理解しきれない。それでも、たった一つだけ胸を張って言い切ることができる――自分にとっての神魔の存在意義を。
(私が、ここで戦うのは世界のためとか、撫子さんに頼まれたからなんかじゃない。私が、ううん、私は――)
今日までずっと一方的に抱き続けてきた自分の想いを再確認した風花は、魔界の大気を浄化する神聖な白の波動を知覚しながら、神魔へと視線を移して一つの決意を固める
「呉葉、紗茅、神魔を連れてここを離れなさい。お姉ちゃんが時間を稼ぐから」
抑制の効いた声で、しかし誰の耳にも届くように響いた風花の声に、神魔と呉葉、紗茅が目を瞠り、声をあげる
「何を言っているの!?」
「駄目だよ、お姉ちゃん!」
思わず怒声を張り上げかけたのを、理性で懸命に押し留めた呉葉と紗茅のもっともな答えに、自身の言葉の無謀さを理解しながら風花は小さく首を横に振る
「駄目よ。これは私の責任だもの――彼らの家族を奪ったのが私なら、正しくそれを受け止め、そして返り討ちにする責任が私にはある。それに、このままじゃすぐにでも殺されちゃうからね」
レイラムを筆頭とする過激派の天使たちは自分たちを捜索しており、時間がないことも手伝っているのか、魔界そのものへと攻撃を加えている
本気を出していないとは言っても、レイラムの一撃はそれだけで地平の彼方までの距離と、視界を覆い尽くすほどの範囲を攻撃している。
魔界からの増援を警戒する天使たちにも時間はないが、余裕をみせるためなのか、恐怖をあおっているのかは分からないが一気に周囲を消し飛ばすような攻撃をしてきていない
だが、このままではいずれレイラムの攻撃が自分たちに届くの自明の理であり、その時まであと一瞬ほどの時間しかないだろう
彼らレイラムを筆頭とする過激派の天使たちにとって、自分が四人の中で最優先の標的である以上自分が囮になるのが最も確実に時間を稼ぐことができる
「いくらなんでも無茶よ。レイラムがいる以上、姉さんが勝てる見込みはないわ」
しかしそんな風花の提案は、レイラムとの力の差を否が応でも理解してしまっている呉葉によって遮られる
他の天使たちならばともかく、あのレイラムだけは確実に別格。いかに風花といえどまともに対峙すれば、確実に殺されてしまうだろう
姉の真意を理解していても、その命を限りなく危機に晒すようなその行為を肯定することなど呉葉はもちろんその場にいる誰にもできはしなかった
「勝てなくても、生き残ることはできるかもしれないでしょう? 大丈夫、今頃魔界だって彼らに気付いているはずよ」
呉葉の言葉を受けた風花は、誰よりも自分の命の危険を理解しながらもそれを感じさせない慈愛に満ちた優しい笑みを浮かべて微笑みかける
「それはそうかもしれないけど……」
今の自分たちではレイラムに勝てない。だからこそ風花も魔界に不法に侵入し、破壊行為を行っている状態にあるレイラムたち過激派の天使に気付いた魔界が討伐のための戦力を差し向けてくれるのを待っているだけでいい
時間を稼ぐならば、神魔が戦えない今、最も戦闘能力が高い風花がそれを引き受けるのは数少ない手段の中でも最善に近いものだと言えるだろう
「風花が残るっていうなら僕も残るよ」
風花と紗茅が感情的なそれではなく論理的な意味を持つ反論の言葉を見いだせずにいると、その沈黙と静寂を破るように神魔の声が響く
「無茶言わないで。そんな傷で残られても足手纏いになるだけだよ」
未だ傷口から血炎を上げ、その身体を聖なる光に侵食される痛みに耐えながら言った神魔を見て、風花は狼狽した様子で言う
風花にとって、今一番死なせたくないのは神魔だ。重傷を負った神魔を少しでも安全にこの場から遠ざけたい風花にとってその言葉は許容できないものがある
それ以上に神魔の傷は、強力な光力によるものであり、今天使たちと戦えば普段以上に不覚を取りかねない。類稀な復元能力を有する闇の全霊命である悪魔の再生力をもってしても完治にはかなりの時間を要することになる。今戦いに赴くのは自殺行為でしかないのは、誰の目にも明らかだった
「……かもね。でも、一人より二人の方が生還率は高いと思うよ」
「絶対にダメ」
苦悶に表情を歪めながらも、強がって笑みを浮かべる神魔を見て、有無を言わさぬほど強い語気で風花がそれを否定する
「二人ではないわ。四人よ」
「――っ」
その時、横から割り込んできた妹――呉葉の言葉に風花が視線を向けると、それに応じるように二人の妹たちが力強く頷いて見せる
「そうです。私たちが、お姉ちゃんとお兄さんを置いて逃げると思ってるんですか?」
「呉葉、紗茅……」
自分に注がれる呉葉と紗茅の視線を受けた風花は、姉妹であるがゆえに、その瞳に宿る揺るぎない意志を認識し、言葉を詰まらせる
神魔だけではなく、呉葉と紗茅までもが命を懸けて自分と共に天使達と戦う決意をしていることを否応なく理解した風花は、その瞳に優しさと寂しさを同居させる
「行こう、風花。今日もこれからも、ずっと一緒にいるために」
「神魔……」
自分を思い、優しく語りかけてくれる神魔の言葉に、自分の想いを自身の魂の奥底にまで刻み付けようとするかのように瞼を閉じた風花は、その唇を綻ばせる
(私が神魔を死なせたくないのは、神魔が大好きだから――そう。たとえどれだけ傲慢で、自分勝手だと言われようと、私は神魔に死んで欲しくない)
自身の中で残響し続ける撫子の言葉を思い返しながらも、風花はそれを否定し、自分の意思と一方的な願いによって撫子の願いの応える決断を下す
自分がそうすることを神魔は望まないだろう。自分勝手だと言われるだろう。しかし、それでも――たとえ自分の命を引き換えにしてでも風花は神魔を死なせたくなかった
(霊雷君も、こんな気持ちだったのかな)
想いを寄せる人のために自分の命を懸ける決意をした風花は、自分に特別な感情を向けてくれている幼馴染の青年のことを思い返しながら、自嘲混じりの笑みを浮かべる
(本当、私って最低……)
霊雷の想いを知っていながらそれに答えなかった自分と、一方的に神魔を想い続けている自分を重ねた風花は、心中で自虐的に独白し、傷ついた体で共に最後まで戦ってくれるという想い人の姿をその瞳に映す
「神魔」
自分にとってかけがえのない人を見つめ、愛おしさに胸を焦がしながら深い慈しみに満ちた声で微笑んだ風花は、神魔に向かい合うと大輪の花を思わせる満面の笑みを浮かべる
「――ありがとう」
風花が心からの感謝を述べた次の瞬間、瞬時に顕現した銀杭が閃き、神魔の両腕を斬り落とし、その腹部を貫く
「な……ッ!?」
こんな行動に出るとは想定さえしていなかったせいで全く反応できなかった神魔が、自身の身体に突き立てられた銀杭の刃に目を瞠る中、自分の手で大切な人を傷つけた風花はその心の痛みを堪えるように沈痛な面持ちで目を伏せる
「ごめんね」
甘く優しい香りと共にその赤紫色の髪を翻した風花は、血炎を上げながらその場に倒れた神魔に背を向けて小さく謝罪の言葉の告げる
「お兄さん!」
突然のことに動転していた呉葉と紗茅が神魔に駆け寄る中、風花は三人に背を向けたまま抑制の効いた抑揚のない冷ややかな声を向ける
「その傷じゃもう動けないでしょ? 呉葉と紗茅は神魔を連れて逃げなさい。私は大丈夫だから」
「姉さん、なんてことを――」
突如神魔に凶刃を見舞った風花を非難するように視線を向けた呉葉と紗茅は、背を向けたまま冷たく言い放つ風花の肩が小さく震えているのを見て言葉を飲み込む
(姉さん、お兄さんのために……)
風花も本当はこんなことはしたくはなかったに違いない。しかし、このままでは自分のために傷ついた神魔が戦場に出てきてしまう
そうすれば次こそは神魔が命を落としてしまうかもしれない。だからこそ、神魔が傷ついた身体を押してまで戦場に出てくることができないであろうほどに傷つけた。。確実に呉葉、紗茅と共に逃げてくれるように
それは酷く傲慢で身勝手な行為なのは風花にとっても分かっている。満身創痍といっても過言ではない身体で最後まで戦ってくれると言ってくれたこと、みんなで生き延びようと言ってくれたことには感謝と嬉しさを禁じ得ない
しかしこれまで数多の戦場を生き残ってきた風花にとって、それは神魔の死を強く感じさせるには十分すぎた。どれほどの願いを持っていようが、戦場ではそれが無慈悲に刈り取られていく現実を知っているからこそ、神魔の願いを受け入れるわけには――甘えるわけにはいかなかった
「じゃあ、あとは手筈通りに――」
「なん、で……!?」
そのまま歩き去ろうとした風花の声を遮った神魔は、呉葉と紗茅に支えられながら苦悶の表情で悔恨に満ちた声を向ける
「なぜこんなことをしたのか」ではなく、「どうして自分一人で行こうとするのか」「自分たちを置いていくのか」という非難と憤りを滲ませた視線で小さく震える風花の背を射抜くように睨みつける
そんな神魔の声を背で受けた風花は、強く引き結んだ唇を震わせ、やがてこみあげてくる感情に突き動かさせるように口を開く
「ごめんね。私、神魔を死なせたくないの。だって……」
本当は何も言わずに行くつもりだった。風花自身死ぬつもりはなかったし、今こんなことを行っても、その想いが神魔をより深く傷つけることが分かっていたから。
神魔が生きていてくれるならばこれ以上の幸せはない。神魔のために命を懸けるならば惜しくはない――これから死に向かっていこうとしているというのに、自分でも信じられないほどに穏やかな心境を抱いている風花の胸中では、その反面これから自分は死ぬかもしれないという思いが呼び水となって、ずっと秘めていた想いが堰を切って溢れだしていた
せめて最期に自分の想いを伝えたい。しかしそんなことをして自分が命を落とせば、神魔はきっと自分に対して一生消えない負い目を抱いてしまうことになるだろう。そんな相反する想いが一瞬の葛藤を生み風花を苦しめる
「風花」
自らの想いと神魔への想いの間で板挟みになり、言葉を詰まらせていた風花は、背後から聞こえてきた想い人の自分の名を呼ぶ声に息を詰まらせる
自分がもう戦えないほど傷つけたというのに、神魔が自分に対して向けてくれた気遣いに満ちた声に風花は罪悪感と今日まで一方通行で思い続けてきた愛情、そしてこれが最期かもしれないという考えが一体となって溢れだす
「だって、あなたのこと、大好きだから」
溢れだす想いに突き動かされるように、肩越しに振り返った風花は、血炎をあげて自分をまっすぐに見つめている神魔に優しく微笑みかける
「――っ!」
風花の口から出た告白を受けた神魔は一瞬目を瞠ると、今にも泣き出しそうなほどの悲哀と慈愛に満ちた表情を浮かべているその瞳を見つめ返す
「それなら、僕も……っ」
「嘘」
絞り出すように発せられた神魔のその言葉が紡がれるよりも早くその声を遮った風花は、何かを諦めたように小さく苦笑を浮かべ、その身を翻して傷ついた想い人の許へとゆっくり歩み寄る
神魔の正面に移動した風花は、その場に膝をついて視線を合わせると、それ以上言葉を発することを禁じるかのようにその指を想いを寄せる人の口に当てて微笑む
「私、ずっとあなたのこと見てたんだよ? だからあなたがそんな風に私を見てなかったことくらいわかってる」
「……!」
風花には先ほど神魔が言おうとしてくれた言葉が、自分を一人で行かせないためのものでしかないことが分かっていた
今は初めて風花の想いを知った神魔とは違い、風花はずっと以前から神魔に想いを寄せ、その姿を見てきた。自分が神魔にとって少しでも特別な存在でありたいと願い、さり気なく自分の気持ちを伝え続け、それでもそれは届かなかった
風花は知っている。自分は神魔にとって姉や妹のように気の置けない家族であり、特別な「男」と「女」では決してないのだと
「ありがとう。その気持ちは嬉しいよ。でも……」
神魔の唇に指で触れながら寂しそうな笑みを浮かべる風花は、自分のために嘘をついてくれるその優しさに感謝しながら、張り裂けそうな想いに言葉を詰まらせる
(そんな風に言うのは、残酷過ぎるよ)
嘘だと分かっていても、それが今の自分を引き留めるための方便だと分かっていても、風花はその言葉に自分が嬉しく感じていることを自覚し、自分の告白に応えようとしてくれた神魔の残酷な優しさにそれ以上の言葉を紡ぐことができずに視線を伏せる
「でも……でも、そんなの、これからだって変わっていけるよ!」
言葉を途中で呑み込み、わずかに俯いてその赤紫色の髪で顔を隠した風花の肩が小さく震えているのを見た神魔は、自分の嘘で傷つけてしまった少女に慟哭に似た声で語りかける
確かに今まで自分は風花を気の置けない友人だと思っていた。そんな自分の態度や姿が好意を寄せてくれていた風花を無慈悲に傷つけていたのだろう
しかしそれは、神魔が風花という一人の異性に対して好感を持っていないというわけではない。その想いを知った今なら、これからいくらでも二人の関係をより親密なものに変えていける。だから命を懸けるようなことはしないでほしい――それは、間違いなく神魔の本心から出た言葉だった
「そうだね。私だって命を捨てるつもりはないよ。これは絶対生き残るっていう自分への呪いなんだから」
「呪い?」
そんな神魔の言葉の真意を正しく理解する風花は、小さく笑みを浮かべると今にも泣きだしそうな表情で懸命に自分を引き留めようとしてくれている想い人に囁くように優しく語りかける
「そう。こんなこと言ったら死ねないでしょ?」
ここで死ぬつもりはない。しかし神魔とはもう会えないかもしれない。自分の伝えた想いが神魔を締め付ける枷とならないように、風花自分でかけた決意の呪い。
溢れ出す神魔への想いを抑えきれなくなった風花は、必ず生きて帰ってこざるを得なくなる誓いを自ら立てることで、ほんの少しだけ己の甘えに対して責任を取る決意を固める
「だからこれは、私の約束の呪い。必ず生きてもう一度あなたの許へ戻ってくるっていう、私の誓いなの――ね? だから私を信じて」
「……っ」
そんな風花の気持ちを汲んだのか、唇を引き結んだ神魔は、その心を映しているかのような曇りのない笑みから視線を逸らす
どちらにしても風花によって瀕死の状態にまで追い込まれてしまっている今の神魔には成す術はない。風花自身が己に科した呪いが成就することを祈るばかりだ
「ありがとう。それと神魔、一つお願いしていい?」
半ば強引に了承させた神魔も沈黙を肯定と受け取った風花は、その表情を優しく綻ばせるとその量の手で神魔の頭部を挟むようにして包み込み、まっすぐに視線を交わす
「今のは私が私にした約束。だから、今度は私と神魔の約束をしたいの」
風花から注がれる桜色の瞳を見た神魔は、そこに込められた只ならぬ感情を察し、胸を締め付けられるような不安に声を漏らす
「……なに?」
金色と桜。二つの視線が至近距離で交錯させる神魔と風花は、その眼差しの奥にある心までをも見透かそうとしているかのように見える
「これから私がどうなっても、それは神魔の所為じゃない。だから、自分を責めないで。そして私に縛られないで。そしてもしも――」
その表情に自らの咎に対する贖罪の色を宿して微笑む風花の言葉の真意は、何も言わずとも神魔には痛いほどに伝わっていた
いかに決意を固めようと、力が及ばなければ、時が足りなければ風花は命を落とす。どれほどその誓いを全うしたいと望んでも、それが叶わず反故にされてしまうことがあるだろう。
これはそのための言葉。自分の我儘のために傷つけてしまった想い人に、せめてもの謝罪と心からの幸福を祈る風花の望まない望みそのものだった
「もしも、神魔がこれから心から好きだって思える人に出会えたら、その人のこと大切にしてあげて」
「風花……」
自分が紡ごうとしている言葉がいかに身勝手で、神魔を苦しめるのかを知っている風花は、一瞬言葉を詰まらせるが、最後まで我儘を貫き通す己への責任として優しい笑みと共にその願いを声にして紡ぎあげる
その声音に一抹の寂しさと、惜別への恐怖と、神魔への謝罪、何よりもたとえ自分がそこにいなくとも訪れることを願ってやまない幸福と未来を願ってその想いを口にする
「――約束だよ」
神魔の想いを受けられるのは自分でなくてもいい。しかしそれでも自分に想いに縛られないように――いつか現れるであろう神魔が心から愛する人との縁を逃さないように、風花は優しく微笑んで身を翻す
ただその幸せを願う風花は、その動きに合わせて翻った赤紫色の髪から漂う甘く優しい香りにその心を残したまま、別れを告げるように神魔に背を向けるのだった
「――!」
地上から神速で世界を貫き、自身へと迫る漆黒の閃光を弾いたレイラムは、その攻撃が放たれた先にいる人物――風花を見てわずかに目を細める
「一人……なるほど、囮になったか」
それを見ただけで、風花が一人でいる理由をほぼ正確に推察したレイラムは、再度その腕に銀杭を具現化した悪魔を嘲笑うかのように一瞥し、純白の大槍刀に光力を纏わせる
漆黒の魔力を解放し、神速で肉薄してきた風花の斬撃を大槍刀が受け止めたレイラムは、魔界の軍勢が到着するまで、懸命に時間を稼号とするその姿に憐れみさえ感じられる視線を向ける
「……滑稽だな」
まるで感情さえも排斥されてしまったかのようなレイラムの冷ややかな瞳を見返しながら、しかし風花はそれに怯むことなく魔力の銀杭を舞い踊らせる
その身に刻み付けた神魔への呪いを遂げるべく、懸命にその力を振るう風花はレイラムの視線など意にも介さず、その心に未来への期待を思い描く
――ねぇ、神魔。もし、私が生きて帰ったら、あなたはどんな風に私を迎え入れてくれるのかな?
きっと、今までの関係ではいられないよね。どんな風に変わるのかな? きっと神魔は私の気持ちに応えてくれようと、一生懸命になってくれるよねそれで私は、そんなあなたに好きになってもらうために、今まで以上に頑張るんだ。
それでもそし私たちが恋人に慣れたら、毎日がきっと楽しいよね。もっと神魔にくっついたり、手を繋いだり――本当、夢みたい
この願いが叶うといいな。ねぇ神魔、あなたも私と同じ気持ちでいてくれるかな――
そうだと、嬉しいな
「――っ!」
呉葉と紗茅に支えられる神魔は、風花の魔力が途絶え、その存在がその名の通り風花の如く、世界に儚く溶けていくのを知覚して唇を噛みしめる
小さく漏れる神魔の慟哭と嗚咽を聞く呉葉と紗茅は、同様に最愛の姉との永久の別れに唇を引き結ぶ
身体から離れることで形を失い、光の結晶と化した涙星の煌めきを空に残しながらも、呉葉と紗茅はその意思を汲んで一度も背後を振り返ることなく、神魔と共にその場を離れる
風花の魔力が失われていくのを知覚に捉えながら、神魔、呉葉、紗茅は自分達の無力を噛みしめながらその場を離れていった。
――それは、風花の残香。記憶の片隅に残る、甘く優しい記憶。そしてそれは切なく胸を締め付ける忘れ難き痛みの傷痕。
「――君は、あの時死んだはずだ。なのになんで……」
かきむしられるようなかつての自身の無力に苛まれる神魔は、それを噛みしめようとしているかのように歯を喰いしばり、胸を締め付ける過去に痛みに強く唇を引き結ぶ
目の前にいるはずの風花は、確かに自分の記憶にある風花と寸分違わない。しかし、目の前で見ていなくとも知覚で風花の最期を看取った自分には、それがありえない事だと分かる。――なぜなら、全霊命にとって知覚とは、他の五感のいずれをもしのぐ精度と事象掌握力を誇っている能力なのだから
「神魔……」
かつて自分を守れず、自分の所為で今でも傷ついている神魔を寂しげに見つめる風花は、自分に漆黒の刀身を持つ大槍刀の切っ先を向けてくる想い人を見据える
「君がここにいるはずはないんだ、風花……!」
「そうだよ。彼女は死んだ」
「――ッ、誰!?」
自分の慟哭に応える王に突如響いたその声に神魔が視線を向けると、それに応じるように武器を下げて佇んでいる風花の隣に、足元まで届くほどの艶やかな黒髪を編み上げ、着物と羽衣を併せたような霊衣を纏った少女が顕現する
全霊命にとって外見などあてにはならないが、その姿顔立ちは女性として完全に成熟しきっていないあどけなさを感じさせるそれであり、詩織に近いように思われる
全霊命の例に漏れないどこか現実味のない左右対称の芸術的な面差しで神魔を見据える少女は、風花を一瞥するとどこか幻想的で儚げな笑みを浮かべた
突如顕現した黒髪の少女に知覚と意識を向ける神魔は、その警戒を最大限に研ぎ澄ませながら、かつて感じたことのない感覚に怪訝そうに眉をひそめる
「君は……?」
(知らない神能……それに、この違和感はなんだろう? ――まるで、ここにいるのにここにはいないみたいな……)
警戒心を緩めずに訝しげに言う神魔は、目の前にいる黒髪の少女が只者ではないことを見抜いてその目に剣呑な光を宿す
同時に神魔は、目の前にいるあどけない少女に自分が恐怖を抱いていることを自覚していた。しかしそれは、強大な力を持つ者と対峙した時に覚える恐怖ではなく、自らの知りえない未知と遭遇した形と実体のない恐怖だ
目の前にいる足元まで届くほどに長い艶やかな黒髪を持つ少女は、神魔の知識にはない神能を持つ上、今確かに目の前にいるにも関わらず、知覚能力を持ってさえ、その実体を掴むことができない
その力の大きさ、質量感どこか現実味さえ乏しく思える――いうなれば、曖昧な存在を持つ眼前の少女を見た神魔が、その得体のしれない存在に対して無警戒という態度を取ることなどできるはずがなかった
そんな神魔の様子をこともなげに見つめていた黒髪の少女は、わずかにその口元を綻ばせると平然とした声音で言葉を紡ぐ
「そんなに警戒しないで。私は敵じゃないよ――とはいっても、すぐには信じてもらえないでしょうから、まずは自己紹介から始めますね」
警戒心を露わにする神魔の考えなどお見通しと言わんばかりに言った少女は、その長い着物の縁を軽く摘まんで頭を下げる
儚げな風貌を持つ幻想的な少女が恭しく頭を下げる様には、まるでこの世のものとは思えない引き込まれるような魔性の魅惑が滲んでおり、おぼろげな存在感を持つ少女がこの場を存在するだけでこの場を支配していることを如実に表していた
「初めまして。『円卓の神座№8、夢想神・レヴェリー』と申します。以後お見知り置きを」
そう言って神魔に微笑みかけた儚げな容姿を持つ黒髪の少女――夢想神・レヴェリーはまるで夢を見ているような心地よい満面の笑みを浮かべるのだった