風花の残香2
どこまでも広がる果てのない白の空間。――建造物はおろか、地形の隆起さえ何一つ見られない世界の中で、二つの漆黒がせめぎ合い互いを喰い合っていた
神速で交わされる大槍刀と銀の杭槍の斬撃が空間を軋ませながら奔り、容易く世界を滅ぼせるほどの力が込められた魔力の波動が形を変え、軌道を変え乱舞する
理性と本能を一体として有する全霊命だからこそ纏いえる純然たる戦意に染められた魔力と刃の応酬の中、その渦中にいる二人は対照的な表情を浮かべていた
「風花、なんで君が……」
槍のごとき長柄に、身の丈にも及ぶ巨大な大剣のごとき刃を備えた武器――大槍刀を振るう神魔は、痛みを堪えているような沈痛な面持ちで優しい微笑を浮かべる風花を見据え、血を吐いてしまいそうなほど苦しそうに声を絞り出す
死んだはずの人。自分が傷つけた人。守れなかった人。守りたかった人。己の無力と愚かさを再認識させてくれた人。――神魔にとっての風花は、ただ過去に親しかったというだけの人物ではない
彼女がいたからこそ今の自分がある。――少なくとも当人はそう思っているほど、風花という存在は神魔にとって、その人生の根幹に棘のように残り、その影をちらつかせる特別で大切な人だ
(君は、あの時僕が死なせたはずなのに……!)
唇を引き結び、全ての法則を無視した軌道で奔る大槍刀を神速で振るいながらも、胸を貫かれるような痛みに苦しむ神魔を見つめる風花は、しかし慈愛に満ちた優しい表情で語りかける
「随分強くなったんだね。初めて会った時は、私の方がずっと強かったのに」
自分の姿を見て苦しむ神魔を見つめる風花が微笑んでいるのは、決してその姿を楽しんでいるからではない
対峙する神魔の姿に過去を懐かしみ、再会の喜びを噛みしめ、神魔が自分が知っている神魔のままであることに心から歓喜しているからこそ、付近師であると分かっていても緩んでしまう頬を止めることができずにいたのだ
――そう。どれほど本人が負い目を感じていようと、風花にとって神魔という人は――初めて心から愛した、愛しくて愛おしいかけがえのない人なのだから
「……あれから随分経つからね」
胸に突き刺さった棘を抉るような優しい風花の声に、唇を噛みしめながらも無理矢理に浮かべた笑みで応じた神魔が大槍刀を一閃させると、漆黒の斬軌が白の世界に刻み付けられる
その黒の斬撃を舞うような動きで回避した風花は、赤紫色の髪を風に舞う花弁のように翻らせ、淡い香りと共に白銀の一撃を神魔に見舞う
「そうだね、でも優しいのは変わってない」
「――っ!」
神速で放った自身の刺突を、神魔が大槍刀の刀身で受け止めたのを見た風花は、自分のために傷ついている想い人をいやそうとしているかのように、包み込むような花笑を浮かべる
「私が死んだのは、あなたの所為じゃないよ? 誰があなたをそう責めても、私はそんな風に思ってない。――だから、そんなに自分を傷つけないで……約束したでしょ?」
「ッ!」
優しく紡がれた風花の言葉に、神魔の脳裏には否応なくあの日の――最期の一時が思い返され、その苦く痛い記憶にその瞳がわずかに揺れる
「覚えてる? 一緒に暮らすようになったあの日のこと」
神魔が垣間見せた動揺を正確に見抜いた風花は、春風のような穏やかな声音で目の前にいる大切な人と、二人が共有する記憶へと語りかけるのだった――
風花達三姉妹と出会った翌日。夕食も三姉妹に御馳走になった神魔は、他愛もない話をしながら四人で一晩を過ごしていた
その存在を構築する神能の持つ「常に最盛期と最上の状態を維持する」効果により、睡眠さえも娯楽に過ぎない全霊命にとって、一夜を明かすことなどなんら苦になることではない
食事と会話を通じて、瞬く間に親しくなった神魔と風花たち三姉妹は、この一晩の間にまるで長い間行動を共にしていたかのように打ち解けていた
「朝か……」
「あっという間に時間が経っちゃったね」
性格の相性が良かったらしく、昨夜あったばかりとは思えないほど打ち解けた神魔たちは、天空に浮かんでいた月が徐々に太陽へと変わっていくのを見ながら苦笑を交わす
世界の中心に座し、世界の全てを照らし出す世界の光の根源――神器・神臓の光が夜の帳に覆われていた世界を取り払い、いつもと同じ、しかし同じ日は決して来ない一日の夜明けを告げる
「……神魔さんは、これからどうするの?」
夜の帳が取り払われていくのを見ていた風花は、ふとその表情を翳らせて対面する位置に座っている神魔に視線を向ける
元々風花たちが神魔を引き留めたのは、自分たちの不手際を謝罪するためだった。過ごした時間はほんの短い間だったが、長年の友人のように親しく気の置けない関係になった神魔とこのまま別れてしまうことは風花にとって名残惜しく、呉葉も紗茅も神魔に懐いているように思える
神魔と別れる。――その考えが浮かんだ瞬間、自身の胸に突き刺さるような痛みを覚えた風花は、このまま離れてしまうのは嫌だという思いに突き動かされて思わず問いかけていた
「これから……?」
「そう、これから」
別れたくないが、しかしすでに一度引き留めていることもあってこれ以上引き留めるのは迷惑になってしまうだろうと考え、遠巻きに伺う風花の心情など知る由もない神魔は、その言葉に小首を傾げながら思案を巡らせる
「え……っと、多分今まで通りに気の向くまま風の向くままにすると思うよ」
風花の問いかけを受けた神魔は、あまり考えていなかったこれからの自分の予定を思い浮かべるが、元々当てのない一人旅。――厳密にいえば、今まで行動を共にしていた人たちから追い出されて、一人になった旅。
力を磨く、見聞を広める以外に明確な目的があるわけでもなく、取り立てて急ぐほどでもない用事しかないため、これからのことを聞かれても返答に困るというのが本音だった
「一人で?」
そんな神魔の様子を見ていた風花は、しばし逡巡した様子を見せるが、やがて意を決したように表情を引き締めると、半ば身を乗り出すようにして問いかける
「え、あ……はい」
まっすぐに自分を見つめてくる風花の必死な様子に、これまでに味わったことのない威圧感を覚えた神魔は、思わず面喰って半身を引いてしまう
その眼力に気圧されるように半ば強制されたように頷いた神魔の答えを受けた風花は、目を輝かせて何かを言おうとするが喉まで出かかった言葉を詰まらせるように言い澱む
「……っ」
「?」
先ほどまでの押しの強さはどこへ行ったのか、突如顔を赤らめて口ごもった風花は、怪訝そうな神魔の視線にさらされながら、しばしの逡巡と葛藤の後意を決して口を開く
「そ、それなら、私たちも一緒についていっていい?」
「え?」
突然の風花の提案に、神魔だけではなくそのやり取りを見ていた呉葉と紗茅も目を丸くして姉の姿を見つめる
自分の大胆な提案に顔を赤らめている風花は、自身に注がれる神魔の視線に耐えかねたのか、まるで紅葉のごとく朱に染まった頬を伏せると、慌てた様子でまくしたてるように言葉を続ける
「あ、も、もちろん神魔さんさえよかったらって言うだけのことで、無理なら断ってくれればいいんだよ? ――ただ、一人よりも、大勢でいた方が楽しいと思うし……あの、その……はぅ」
弁明しているのか言い訳しているのかはわからない言葉を震える声で立て並べ、真っ赤に茹った顔を赤紫色の髪に隠す風花の語調は、徐々にその語尾を小さくしていき、最終的には言葉にならない言葉を発して潰えてしまう
羞恥のあまり、続ける言葉を失って細い指先を合わせ、忙しく絡ませる風花を見つめる神魔の傍らで視線を交錯させた呉葉、紗茅は、その一瞬で意思の疎通を測り、瞬時に結論を導き出すと小さな首肯で結論を確認し合うと同時に即座に行動を開始する
「突然のお願いで恐縮ですが、もしよろしければお願いできませんか?」
一瞬にして風花と共闘の意思を固めた呉葉は、突然の申し出に戸惑いを隠せないといった様子の神魔に優しい声音で語りかける
「え、でも……」
「わ、私もお願いしたいです。もっと神魔さんとお話ししたいですし、これでお別れなんて嫌です」
呉葉に続き、打てば響くようなタイミングで懇願した紗茅は、細くしなやかな指を持つ手に力を込め、神魔を見据えたまま恥じらいを振り払うようなやや強い語気で言い放つ
「紗茅ちゃん……」
「――というわけで、どうやら姉と妹があなたを気にってしまったみたいです。こういう言い方はよくないかもしれませんが、ご迷惑でなければ精一杯自分の気持ちを伝えた姉と妹の願いを叶えてあげてください」
三姉妹からの突然の要望に困惑を浮かべる神魔に、誤解を与えるような言い回しをした呉葉に、風花と紗茅がただでさえ赤かった顔をさらに赤くして抗議の視線を向ける
「迷惑でなければ――」という言い回しをすれば、優しい神魔ならば、本心ではそう思っていなくとも「そんなことはない」と答えてしまう可能性は無きにしも非ずだ
しかし呉葉はそれがわかっていても尚、姉と妹が抱いている甘く切ない願いを叶えようと建前ではなく本心で答えてほしいという願いを言葉に込めて神魔に問いかける。――例えそれが、当人たちが求めたものでなくとも。
言葉にならない抗議に、口を開閉させていた風花だったが、自分に注がれる神魔の視線に気づいて、弱々しい声音で語りかける
「……だめ、かな?」
その頬をこれでもかと赤く染め、不安と恥じらいに潤んだ瞳で上目づかいに神魔を見つめる風花は、その声をわずかに震わせながら恐る恐るといった様子で問いかける
この時、風花をこれほど大胆な行動に駆り立てていたのは、少なくとも意識された上での恋慕の情などではなく、好奇心とも言うべき意識だった。
三姉妹の中でも最も人見知りが激しく、簡単に他人に懐かない紗茅が瞬く間に心を許して打ち解けたことといい、風花にとっても神魔は不思議と何か感じるところがある人物だった。
居心地の良さと同時に、「もっと一緒にいたい」と自然に思えている己の感覚の正体を確かめたいという衝動に突き動かされるように、風花は意を決して同行を申し出ていたのだ
そんな心情がわかっていなければ誤解をしても仕方がない――甘えているとも、縋っているとも取れる風花の瞳見る神魔は、しかしそれに動じることなく、呉葉、紗茅と順に視線を動かすと、そして自分の答えを祈るように待っている三姉妹の長姉に優しく微笑みかける
「ううん、そんなことないよ。僕も、折角風花さんたちと仲良くなれたんだから、このままさよならするのは寂しいと思ってたんだ」
自分に向けられている三姉妹の視線に優しく微笑んで応じた神魔が答えを言い終わるよりも早く、風花と紗茅の表情が輝きを帯びる
「本当!?」
「ありがとうございます」
今にも神魔に飛びつきそうなほど目を輝かせ、全身で喜びを表現している姉と妹の様子に、呉葉は微笑を浮かべて囁きかける
「よかったわね、二人とも」
そんな呉葉の独白は風花と紗茅の耳には届かなかったが、神魔と同行できることになった三姉妹の喜びは一様に一入で、そこにいた四人はこれからの新しい生活に胸を躍らせていた
自由気ままに永遠とも思える日々を送る全霊命達の世界では、こうしてたまたま出会った相手と生活を共にすることは、たとえ異性同士であっても珍しいことではない。
その関係はすぐに終わってしまうことも、しばらく続くこともあり、異性同士ならばより親密な関係――伴侶などになることもある。
しかし少なくともこの時点で、風花にはそこまでの考えはなく、そして神魔も特にそういった意識があったわけでもなかった
「じゃあ早速――ッ!」
話がまとまったところで、三姉妹を代表した風花が気合に満ちた歓喜の声をあげようとした瞬間、その知覚が捉えたものに、呉葉と紗茅が天を仰ぐ
「この魔力……」
「?」
目を瞠った風花に続くように、魔力を知覚した方向へと意識と視線を向けた呉葉と紗茅が身に纏う剣呑な空気に、神魔は訝しげに首を傾げる
(どうしたんだろ? なんか気まずい知り合いなのかな……?)
風花たちが知覚している魔力は、無論神魔も知覚しているが、それからは敵意や殺意のようなものは感じられない
ならば考えられる可能性の中で最も可能性が高いのは、この魔力の主が風花たちの知り合いであり、かつあまり接触したくないような事情を持った人物であるということだろう。
「昨日、姉さんが神魔さんに魔力を使ったことで彼の知覚に捉まったのね……迂闊だったわ」
もはや逃げられないほどに近くに感じられるその魔力を知覚しながら天を仰ぐ呉葉は、その眉をわずかにひそめて忌々しげに呟く
今になって突然その人物に見つかった理由を、昨日風花が神魔に対して迎撃行動をとったために発した魔力が原因であると推察した呉葉は、剣呑にその眉をひそめる
通常、いかに全霊命の知覚能力が優れているとはいえ、この果てしなく広い魔界という世界の中から、星の数よりも多い他者を除いて限られた者を見つけ出すのは困難を極める
しかし、戦闘時などに純然たる殺意や戦意を纏って発した神能ならば、通常時よりも格段に知覚しやすくなるのはこの世界の常識だ
昨日の時点で、風花や紗茅の力が知覚された可能性を警戒せずにこの場を離れなかった己の迂闊さと油断を悔いながら見つめる呉葉の視線の先に、神速で飛来したその人物の姿を視界に映す
「風花、やっと見つけたぞ!」
全霊命が神能の力を以って生み出す、時間さえも置き去りにし、空間さえも乖離した神速で降り立ったその人物は、そこにいた神魔たち四人を見据えて静かな声で言い放つ
そこにいたのは、濡れたような漆黒の光沢を放つ髪を持った悪魔の男。全霊命特有の整った顔立ちは屈強や精悍というよりは、中性的かつ理知的でその切れ長の瞳には澄んだ緋色の瞳が輝いている
殺されるまで最盛期を保ったまま生きることができる全霊命にとって当てになるものではないが、聡明さを感じさせる若々しい容姿を持つその青年は、静謐な佇まいの下で渦巻くその魔力を放ちながら、風花たち三姉妹と一定の距離を取る
荒れ狂う海流を鬱に抱きながらも、それが表に現れない――例えるならば、凪いだ海を思わせる魔力を纏う来訪者へ、神魔は一定の警戒心と金色の視線を向ける
《――誰?》
先ほどの言葉から、風花に用事があるであろうことは容易に察しがついたが、その人物がなぜ呉葉、紗茅達からも距離を取られているのか測りかねた神魔は魔力を介して交わされる視線の通話によって三姉妹に問いかける
来訪者の悪魔に風花に対する敵意がないことを知覚で察した神魔は、あえて臨戦態勢を取らずに場を生還しながらも、苛立っているその姿にあらゆる事態に対応できるように最低限の警戒を持って望んでいる
また神魔の知覚は、周囲にいる風花たち三姉妹からも、黒髪の青年に対する敵意や嫌悪感といったものが感じられないことを伝えてくる
それらを総合すれば、風花たちと黒髪の青年は、嫌いではないが対応に困っているといったような状態にあるであろうことが推察できる
《……『霊雷』さん。私たちの幼馴染、みたいなものです》
魔力を用いた思念会話を受け取った風花たち三姉妹は、一瞬逡巡して言葉を詰まらせるが、やがて意を決したように紡がれた紗茅からの返答が神魔に届く
神魔に答えた紗茅の思念は、この場では黒髪の来訪者――霊雷以外の全員で共有されている。必然的にそれを聞いている風花と呉葉は、その答えにわずかにその表情に苦い色を浮かべる
《――っ……》
しかし、そんな風花たちの様子に気づくことなく、三姉妹と霊雷の関係を理解した神魔は、それであるがゆえにさらに訝しげな表情を浮かべる
《幼馴染? それが何で?》
敵意を持たない幼馴染同士――それだけを聞けば、風花たちの反応は過剰に思えるが、三姉妹が何の理由もなく霊雷にこのような態度を取るとは思えない。
さらにその理由を問いかける神魔の思念に、視線と意識を霊雷から離すことなく佇んでいた風花たち三姉妹は、一瞬の沈黙を置いて応じる
《彼、姉さんにぞっこんなんです》
《でも、お姉ちゃんはその気がないみたいで……》
嘆息混じりに発せられた抑揚のない呉葉の言葉が脳裏に響き、それに続くように語尾を濁して届いた紗茅の説明で、おおよそ合点がいった神魔は、霊雷へと視線を向ける
《――なるほど》
神魔ならば、回答の拒否をしたとしても気分を害するようなことはなかっただろうことは三姉妹が認識を共通にするところだ
しかし、自分たちは今まさに、今日から神魔と行動を共にすることを決めたばかり。ここで自分たちの事情を隠すことは不義理になってしまうと考えた風花と紗茅はそれに答えることを決め、当事者である風花もそれを黙認したということになる
《……もしかして、揉めてる?》
意識の中で交わされた一瞬の会話で、風花たち三姉妹と霊雷のおおよその関係を把握した神魔は、その中心人物である長姉へと視線を向けて呉葉に問いかける
神魔の問いかけに、風花はそれを口にするのを憚っているのか、その表情を困惑に曇らせて曖昧な笑みを浮かべることでそれに応じる
《――まぁ、よくある感じです》
風花にしては珍しく歯切れの悪い声音で返された言葉を意識内で聞いた神魔は、霊雷から視線を離すことなく静かに独白する
「……なるほど」
全霊命――特に悪魔をはじめとする闇の全霊命には、大切なもののためならば、それ以外のすべてを斬り捨てることができるという傾向がある。
ある意味において天使たち光の全霊命よりも純粋な闇の全霊命達は、しかしそのあまりにも純粋すぎる一途で強い想いゆえに、たった一人の大切なもののために、その何百、何千、何億倍という犠牲さえも厭わないという危険性を孕んでいる
しかし、それほど一途に相手を想い、変わらぬ愛を捧げ続ける全霊命だが、当然その想いが常に報われるとは限らない。
相手を想う気持ちがあろうと、相手がそれに答えてくれるとは限らない、あるいは自分が相手に好意を抱くとは断言できない以上、その想いが一方通行になってしまうことは少なくないことだ。
多夫多妻制という想いさえ通じ合えば何人でも伴侶を持つことができる社会体制を持っているとはいえ、全霊命にとって伴侶を持つということは、その命を共有するということに等しく、容易くその心を許すことはない。
結果的に噛みあわないその想いが戦いの火種になることは少なくなく、全霊命が戦う理由において、こうした想いのすれ違いによるもの――下世話な言い方をすれば、痴情のもつれと呼ばれるものは上位三つに数えられるほどに多い。
故に神魔にはそのやり取りで、霊雷が風花に向ける好意が一方通行になっているのだということを容易に察することができた
「――そこにいるのは誰だ?」
現に霊雷は、風花たちの中に見慣れぬ人物――神魔に対してその整った目に不快げな色を浮かべながら、威嚇するような攻撃性を孕んだ声を発する
霊雷にとってみれば、自分が好意を向ける風花と親しげに話している異性。自分の想いは拒絶されているというのに、その相手が見たこともない男と一緒にいるところを見て面白いわけがない
とはいえ、話を聞き、判断するくらいの分別を見せる程度の冷静さは失っておらず、敵意を隠さず、苛立ちを見せながらもその答えを待つ
「彼は私のお客様だよ」
今にも噴き出しそうな憤りを募らせている霊雷の声にもまったくひるむ様子を見せず、風花は神魔を一瞥して力強い声音で宣言する
「霊雷君こそ、私が招いたお客さんに、そんな失礼なこと言わないで」
「く……ッ」
声を荒げることこそないが、確実に怒気を帯びている風花の声を受けた霊雷は、わずかに怯んで半歩後ずさる
気圧されたというよりは、好意を寄せている相手の不評を買ってしまったことに対する己の失態に動じている霊雷が思考を巡らせ、反論を述べる前に畳みかけるような声が風花から放たれる
「私たち、これから彼と一緒に暮らすから。――だよね?」
「え? あ、うん」
霊雷に見せつけるように、あえてその身を寄り添わせて微笑みかけてきた風花の視線に、神魔は反射的に頷く
「な――んっ、だと……ッ!?」
しかし当然ここにいたるまでの経緯を知らない霊雷は、その胸の膨らみを腕に押し付けるようにして身体を絡めている風花と、それをされてもこともなげにしている神魔を前に、顔を青褪めさせてよろめく
「だから、もう私に構わないで。霊雷君は霊雷君のことを大切にしてくれる人を探した方がいいよ」
大胆に腕を絡め、その体を密着させている風花の言葉に打ちのめされた霊雷は、気まずい場面に居合わせてしまったという表情を浮かべている神魔を睨み付け、やり場のない怒りをぶつける
「待て。貴様と風花はどういう関係だ? まさか、伴侶なのか!?」
風花と霊雷に板挟みにされた神魔は、居たたまれずにこの場から立ち去りたい気持ちでいっぱいになるが、それを見る当人たちはそうは思わない
風花と腕を絡め、平然としている神魔の姿を見て、嫉妬と羨望の情に駆られる霊雷は、軋む歯の音を響かせつつ、破裂しそうになる激情を寸前のところで抑え込む
「――……っ」
「伴侶なのか?」という問いかけを向けられ、頬を赤らめさせて恥じらいに目を伏せる風花とは対照的に、神魔はそんな言葉に微塵も動じた様子を見せずに応じる
「それは誤解ですよ、僕と風花さんたちは、そんな関係じゃありません」
敵意をむき出しにする霊雷に、神魔が自由になる方の腕を軽く上げて戦意がないことを示すと、その腕を自身の両腕で抱きしめている風花は素っ気ない答えに唇を尖らせる
「けち」
確かに自分たちはそんな関係ではない。しかし、それを肯定されるのも反応に困るが、こともなげに否定されるのも不服という複雑な乙女心を抱く風花は、霊雷を見据える神魔に恨めしげな視線を向ける
だが、神魔が風花を特段意識していなくとも、最も意識している霊雷がその表情に気付かないはずはない
自分には向けられたことが無い恥じらいに彩られた風花の乙女の表情に、嫉妬心を掻き立てられた霊雷は、臨界を超えた怒気に彩られた魔力を解放する
「なにがそんな関係じゃないだ――――ッ!」
今まで一定の距離を保っていた霊雷が激情に突き動かされるように足を踏み出そうとした瞬間、その眼前に真紅の茨がバリケードとなって立ちはだかる
その魔力が戦う形として顕現した太刀を手にした霊雷は、この真紅の茨の正体を瞬時に察し、その原因である風花の妹――呉葉へと向ける
「……そこまでにしていただけますか?」
霊雷が視線を向けたのとほぼ同時、その手に顕現した武器――真紅の鞭を手にした呉葉が冷涼な視線と共に静かに声を向ける
霊雷が風花と幼馴染であるということは、当然呉葉や紗茅とも知己の仲であるということ。そんな霊雷にとって、眼前に張り巡らされた真紅の茨が呉葉の武器「紅蔓」であることを理解するのに刹那ほどの時間も必要なかった。
「呉葉か……!」
呉葉の武器である「紅蔓」は、真紅の鞭。使用者の意思によって自在に伸縮するその鞭は、地中を通って、霊雷の眼前で茨のバリケードを構築していた
自身を阻む目的で紅茨のバリケードを構築した呉葉に視線を向けた霊雷に、緋色の髪と妖艶な色香を持つ三姉妹の次女は、白い肌に生える花弁のような唇を開く
「口論程度までなら傍観に徹していてもよいのですが、さすがに刃を彼に向けられるのを容認するわけにはいかないので」
穏やかな声で語りかけながらも、武器を手にした呉葉が紡ぐ言葉には、霊雷に対する強い牽制の意思が含まれている
「そういうことです」
呉葉が真紅の鞭でバリケードを展開するよりも先に自身の武器である薙刀を顕在化させていた紗茅は、その切っ先を向けたまま静かに声を向ける
昨日は神魔の接近に気付かずに失態を晒した紗茅だが、実は知覚能力そのものは三姉妹の中で最も優れている。
しかしその知覚の高さが生来の非好戦的な性格と相まって今回の霊雷のように、敵意や害意、あるいはそれに準ずる理由で力を行使する意志が無い場合にそれを捉え損ねることが多々ある
つまり、昨日紗茅が神魔を知覚し損ねたのは、皮肉にも神魔が紗茅に対して一切の敵意や害意を持っていなかったことが原因だ
「私たちは別に、あなたを毛嫌いしているわけではないわ――分かってくれるわね?」
明確な殺意や戦意はなくとも、霊雷の魔力が一定以上の攻撃の意志を宿していることに一定の警戒を見せる呉葉と紗茅は、牽制を保ったまま穏やかな声音で距離を保ったうえでの対話を要求する
「――ッ!」
風花の妹である呉葉と紗茅が幼馴染の自分に牽制の意思を向けているのを見た霊雷は、自分とは全く違う――歓迎とも取れる意思を以って三姉妹の輪に受け入れられている異分子に視線を向けて、唇を噛みしめる
無論霊雷も本気で神魔を殺そうとしているわけではない。風花に好意を寄せる霊雷にとって最も避けねばならないのは、自身の株を下げるようなことをすることだ
風花が自分の客人だと言っている神魔に対し、嫉妬を露にして敵と刃を向けることがいかに愚かしいことが分からない霊雷ではない。現に、呉葉も霊雷が本気で神魔を攻撃したり、殺傷する意思がないことを知覚した魔力で察していたからこそ、牽制に留めているのだ
「君たちは、風花とその男との関係を認めているというのか……!?」
なぜ自分は駄目で、その男はいいのか――血を吐くような思いで風花と神魔に視線を向ける霊雷の慟哭にも似た言葉に、呉葉は一抹の同情を以って冷酷に断じる
「愚問ですね。それは二人の問題です」
「その通りです」
抑制の効いた静かな声音で応じた呉葉に続き、紗茅がそれに同意する言葉を発すると、霊雷は強く唇を噛みしめる
「――ッ」
実のところを言えば、呉葉と紗茅にとっては、風花さえよければ、神魔でも霊雷でも、あるいはその両方と伴侶になろうと何ら問題はないと考えている。
少なくとも呉葉にとって霊雷は、幼いころから知っているし、それなりに好感を持てる人物ではある。もしも姉が「この人と一緒になる」といって霊雷を連れてきたならば、歓迎することができる程度には、その人となりを認めているつもりだ。
しかし現実には、風花は、幼いころからの知己の仲である霊雷よりも昨日会ったばかりの神魔に対して情を移している。この後風花の意思が変わるかは分からないが、少なくとも現段階で姉がそういう感情を抱いていない以上、今の嫉妬に満ちた霊雷に対しては一定の警戒心を向ける必要があった
「も、もう、呉葉達ったら……神魔さんが勘違いしちゃうじゃない」
闇の全霊命の一途さと、それに伴う危うさ、危険性を十分に承知している呉葉と紗茅が霊雷を牽制するのを見ていた風花は、赤らんだ頬を緩めて、困惑と恥じらいの入り混じった表情を浮かべる
あまりにも露骨な呉葉と紗茅の態度に、自分が好意を寄せていると思われるのではないかと頬を赤らめた風花は、その言葉とは裏腹にどこか嬉しそうに神魔の腕にその身体をすり寄せる
「大丈夫だよ。ちゃんとわかってるから」
しかし、その言葉を額面通りに受け取ってしまった神魔がこともなげに応じると、その腕に身を寄せていた風花の表情が一瞬にして沈鬱なものへと変わる
「……でしょ?」
乙女心を全く理解していない神魔の言葉に、先ほどまで夢見心地だった風花は一気に現実に引き戻されてため息のような沈んだ声で応じる
確かに神魔とは特別な関係ではないが、こうも素っ気なく応じられては風花の女性としての沽券にかかわる部分があるのは否めない
もう少し自分を女性として意識した反応を内心で期待していた風花は、目に見えて自身に対する自信を喪失していた
「貴様、風花の何が不満なんだ!?」
そうして表情を曇らせた風花と対面していた霊雷は、自分が好意を寄せている女性を異性として意識していない神魔に対して激昂する
自身がもしも今の神魔の立場だったなら、感激のあまりに舞い上がっていたであろうことを容易に想像した霊雷は、羨望と憧れのこもった怒号を発していた
「なんで怒られてるの?」
しかし、そんな霊雷の複雑な感情など全く知る由もない神魔が、意味の分からない単語に訝しげに眉をひそめると、その腕に身を寄せた風花は、不満に頬を含ませて視線をあさっての方向へ逃がす
「知らない」
「……?」
いつの間にか風花までもが機嫌を損ねていることに、首を傾げた神魔を睨み付ける霊雷はこれ以上想い人の前で失態を晒すわけにはいかないと考えて戦略的撤退を選択する
「くそ……ッ、俺はまだ諦めないからな!」
つい感情的になってしまったが、元から戦う気がなかった霊雷は、手にしていた武器の顕在化を解除すると、神魔を睥睨して吐き捨てるように言い放つ
想いが通じなかったからと言って、その想いを簡単に割り切れるわけではない。特に、永遠を生きることができる故に、感情の変容と起伏が半霊命よりも極端に小さく、遥かに緩やかな全霊命にとって一度抱いた強い感情や想いは中々断ち切ることができないものだ
わかっていても、諦めることなどできるはずがない。風花への断ち切れない想いに未練を残しながらも、霊雷は後ろ髪を引かれる思いで天空の彼方へと飛び去っていく
「……忙しい人だね」
「はは、悪い人じゃないんだけどね」
神速で空の彼方へと飛び去った霊雷の姿を見送った神魔が独白すると、その腕に身を寄せた風花は乾いた笑みを浮かべる
「とにかく、今のうちに出発しましょうか」
「そうだね」
霊雷の魔力が遠ざかって行ったのを確認した呉葉の言葉に風花が頷くと、神魔は未だ自分の腕に身を寄せているその姿に困惑気味に視線を向ける
「……風花さん、そろそろこの手を話してくれないかな?」
霊雷に対する過剰な演技だと思っている神魔の声を受けた風花は、その腕を離すことはせずに素知らぬ表情で口を開く
「風花」
「え?」
その言葉の意味を測りかねている神魔の怪訝な声に応じるように桜色の視線を向けた風花は、うっすらと朱に染まった頬で優しく微笑みかける
「風花って呼んでほしいな。……私も神魔って呼ぶから」
わずかに恥じらいを帯びた風花からの提案を受けた神魔は、自身にまっすぐ向けられる乙女色の視線をしばしの間見つめ返す
もっと親しくなりたい――ささやかで切ないそんな願いが込めれた風花の視線を金色の瞳で受け取った神魔は、そこに宿る感情には気づくことなく、そのお願いに対して一瞬の思案を巡らせる
腕と同様に金色と桜色の瞳を交錯させて見つめ合う神魔と風花。そして、それを見守る呉葉と紗茅の間にしばしの沈黙が流れるが、当人たちにとっては永遠とも思えた刹那の静寂は、神魔の静かな声音で破られる
「風花」
「……はい」
神魔の優しい声を受けた風花は、自身の願いが聞き届けられたことに対する喜びと、それ以上に満たされた心情を現しているかのように思わず表情を綻ばせる
大輪の花を思わせる満面の笑みを浮かべて応じた風花が神魔の腕を引くと、その動きに合わせて翻った赤紫色の長い髪から、優しい香りが漂う
「……」
決して強く主張せず、しかし意識の中に刻まれるその香りは、儚くも心地よい余韻を残して世界に溶けていくのだった――。
この時から、神魔と風花たち三姉妹は行動を共にすることになる。時にはただ景色や、流れていく季節を楽しみ、時にはともに手を取り合って戦い、諦めずに風花を追ってきた霊雷と神魔は、いつの間にか悪友のような関係を築いていった。
数えきれないほどの長い時を共に過ごす中で、好意が恋慕の情へと変わった風花は神魔に恋心を抱き、呉葉と紗茅は神魔のことを「兄」と呼ぶようになる。
知らない者が見れば、家族と思われるのではないかというほど親密な関係を築いていた神魔たちは、変わることはあっても、終わることなど思いもよらないほど満ち足りた日々を過ごしていた
神魔は風花たちと過ごす日々に安らぎを覚え、風花は神魔と心を通わせることを願い、呉葉と紗茅はそんな二人を見守るように寄り添い続ける――誰もが、この日々が続いてほしいと願ってやまなかった
「――あれから、随分経つんだな……」
世界の天上に輝く神臓の月の光を見上げながら、これまで過ごしてきた幾星霜の時を思い返しつつ、風花は感慨深げに独白する
長いようで短く、いつの間にか一緒にいることが当たり前になっていた神魔との日々は、風花にとってかけがえのないものになっていた
「でも、神魔とは全然進展してな――っ!?」
直接告白することはしていないが、言動の端々に自分の気持ちを込めて接しているというのに、全く気付いてくれない神魔のことを思ってため息をついた瞬間、風花は世界に奔った異常を知覚して目を瞠る
風景はなんら変わっていない。しかし、先ほどまで感じられていたこの魔界に生きる半霊命達の界能や、全霊命の神能が知覚できなくなっていたことで、自身の身に起きたことを把握する
「これは、空間隔離……!」
神能を用いて、世界を複製して隔離する全霊命の奇跡。通常は世界に影響を与えず戦うためや、恋人たちが愛を語らうために用いられるもの。
しかし、それが今、自分を隔離するために発動されたことを理解した風花が、瞬時に自身の武器である銀杭を顕現させると、その背後にこれまで感じたことのない魔力が出現する
「誰!?」
突如出現した魔力の主――おそらくは、自分を空間隔離で閉じ込めたであろう張本人に、警戒心と銀杭の切っ先を向けて風花は低い声で牽制する
そこに佇んでいたのは、腰まで届く漆黒の髪を持つ絶世の美女。夜の闇よりも黒く、清らかな清流よりも夜月に輝く漆黒の髪を持つその美女は、総じて整った顔立ちを持つ美人揃いの全霊命の中でも、滅多に見ることができないほどの美貌に微笑を浮かべて静かに佇んでいた
「武器を収めてください。戦う意思はございません」
同性の風花でさえ目を奪われるほどの美貌はもちろん、それ以上に清楚で慎ましい奥ゆかしさに満ちた立ち振る舞いを見せる美女はそう言って穏やかに微笑みかける
「あなたは一体……?」
(凄い綺麗な人。確かに敵意はないけど……)
警戒を解くことなく銀杭を構えている風花を、凪いだ水面を思わせる瞳に映した黒髪の美女は、まさに傾城傾国と呼ぶにふさわしいその美貌に慈愛に満ちた微笑みを浮かべると、淑やかな所作で軽礼し、薄い紅で彩られた花弁のような唇から静やかな声を紡ぐ
「お初にお目にかかります。わたくしは、神魔さんの古い知り合いで、『撫子』と申します」
「――ッ!」
――そして、終わりの時は確かな足音を響かせながら刻一刻と近づいていた。