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魔界闘神伝  作者: 和和和和
妖界編
113/305

風花の残香1







 ――それは風花の残香。


 風に舞う花弁のように儚く視界をすり抜け、その一瞬にかすかに薫る甘い香りを残していく切なくも淡い心の奥に刻み込まれた記憶――。





 地平の彼方まで広がる大地を覆う森は青々と輝き、おびただしい命をそこに抱いて果てしなく広がる大空の下で命の輝きに満ち溢れていた。


 ――ここは「魔界」。九世界の一つ、悪魔が総べる世界。


 恐ろしい印象を受けるその名とは対照的に、目を瞠るほどに美しい命を抱く生命の森が天に輝く太陽――神器「神臓(クオソメリス)」から燦々と降り注ぐ光によって照らし出され、この世界に住まうすべての命と自然を輝かせている

 世界を照らす光に満たされ、木漏れ日が差し込む雄大ではるか地平の彼方まで広がる巨大な森の中を漆黒の漆黒の霊衣を翻らせながら一人の悪魔の青年――神魔が歩いていた


 魔界に限らず、全霊命(ファースト)はその身に宿った世界最高位の霊格を持つ最も神に近い力――神能(ゴットクロア)によって全てをなすことができてしまうがゆえに、文明度はさほど高くはない

 限りなく不死に近いがゆえに医療が発達することはなく、生まれたその瞬間から最低限の知識や読み書きは習得しており、食事や睡眠が娯楽でしかないがために労働という概念さえも希薄だ


 そういった全霊命(ファースト)の世界では、王の下に仕えている必要最低限の労働者を除けば、有事の際以外には自由に生きることが許されている。当時の神魔は、そうして気ままに魔界を放浪しながら暮らしていた

「いい天気だなぁ……」

 殺されない限り永遠を生きることができる全霊命(ファースト)にとって、何もせずただ過ぎていくだけの果てしない時間を楽しむことはなんら苦痛ではない

 視界を覆う新緑と、そのところどころに見える美しく鮮やかな花の色、そして森の木々を行きかう魔界に住まう生物――半霊命(ネクスト)達を知覚しながら歩いていた神魔は不意に足を止めてその目をわずかに細める

「……魔力? この森、悪魔が暮らしてるんだ」

 自身の知覚が捉えた魔力に独白した神魔は、一瞬の逡巡の後不意にその身を翻して魔力が感じられる方へと足を進める


 ここは魔界であり、悪魔たちが住まう世界。必然的に悪魔がいることなど珍しくもなく、それに疑問や理由などありはしない

 たまたま通りかかった場所で、たまたま他の悪魔を知覚する――そんなことはよくあるどころか、何一つ珍しくもない日常のことでしかなく、神魔もここに悪魔がいること自体には何の疑問も違和感も抱いていなかった


 こうした場所で互いの存在を認識した場合にとる行動は大きく分けて二つ。関わり合いにならずに通り過ぎるか、何らかの形で接触するか。

 神魔からすれば、全く知らない人物の魔力。知人でもない他人に関知する必要など皆無だ。――しかし子の時の神魔は、まるで誘われるようにその魔力の方へと足を進めていた


 理由などはない。強引に動機づけをするならば、思い付きや気まぐれといった感覚でしかない方向転換。もしかしたら、人と話したり知人を作りたいという一抹の願望があったのかもしれない

 いずれにせよ、その時の神魔は深く考えず――否、考える理由もないような一時の気まぐれでその魔力を持つ人物との接触を図っていた



 ――それが、自分の運命を大きく変えることになるとも知らずに。



 自分がそうだったように、相手も自分を知覚しているであろうことが想像に難くない神魔は、その相手に警敵意や戦意、害意の類がないことを伝えるために魔力を抑えた状態で歩を進めていた

 そうしてしばらく歩き続けていると、突如視界が開け、神魔のが眼前に―地面から小さな滝となって湧き出した清水が溜まってできた水溜り小さな泉が姿を現した

「――っ!」

 そこへ足を踏み入れた神魔は、そこに広がっていた光景に思わず目を瞠る



 神魔の眼前――岩から湧き出した小さな滝が形作る泉の中央には、漆黒の髪を濡らして一糸纏わぬ状態でその水で体を清めている一人の女悪魔がいた

 女性特有の流れるような曲線を描く、細くしなやかで母性と包容力に満ちた白い身体を透明度の高い水が流れ落ち、それとは対照的な黒い長髪は、その美体に絡みつきながらその先端を水面を揺蕩うように泳がせている

 一身纏わぬその姿を清流の水面に映し、水と戯れるその女性は一枚の絵画のような美しさを纏って水と戯れ、輝かんばかりの芸術となってそこに存在していた


 全霊命(ファースト)は入浴や水浴びなどをしなくても常に最高の状態を維持する神能(ゴットクロア)の力によって清潔さは守られている。そのため、全霊命(ファースト)にとっての入浴や水浴びはただの娯楽や趣味のものでしかない

 だからこそ、相手がそんなあられのない姿を晒しているとは思いもよらず足を踏み入れてしまった神魔は一瞬困惑するが、そんな自分に知覚で気付いているはずの相手が何の対応もしてこないことを見て、相手が自分のことを意にも介されていないのだろうと判断する


(……邪魔しちゃ悪いかな)

 清流の泉に体を浸し、天を舞う魔界の小鳥たちと戯れている女性の姿を見ていた神魔は、静かに目を伏せてその場を離れようと踵を返す

 神魔には見も知らぬ女性の水浴びを覗き視るような無粋な趣味はない。相手が自分に興味を示さないなら、このまま離れるのが得策だと思ったのだ


「あ」


 その時、水浴びを堪能していた様黒髪の女性は、不意にその瞳で木陰に佇んでいた神魔の姿を捉える

「あ」

 自分に気付いたことに気付かれ、離れるタイミングを失って佇んでいる神魔は、呆然とした様子で自分を見つめる女性の声に視線を返す


「…………」


 二人の間に、永遠とも取れるような一瞬の静寂が訪れ、やがて神魔と自分の姿を見比べた黒髪の女性が一瞬にしてその白い頬を紅潮させる

「きゃあああっ!」

 瞬間、女性の体から漆黒の魔力が噴きあがり、清泉に巨大な穴を穿って荒れ狂う意思と力のままに水飛沫を天へと舞い上がらせる


 一着物と巫女服を併せたような白と緋色の対比が美しい霊衣を纏い、先ほどまで下ろしていた黒髪をサイドテールへと一瞬で変化した女性は、その人形のように整っている清楚で可憐な顔に、羞恥と怒りの入り混じった表情を浮かべて神魔を睨み付ける


茅早(ちはや)!」

 激情に任せて魔力を放出した黒髪の女性は、その手に自身の魔力が戦う姿へと形を変えた武器――薙刀を顕現させてその切っ先を神魔に向ける

「え? ちょ……なんで?」

 突然のことに困惑を隠せずに狼狽する神魔だが、相手の女性はその言葉が紡がれるよりも早く、斬撃と共にその刀身から漆黒の波動を解放する


 相手が自分を知覚しているであろうことを事実として接近していた神魔は、突然自分が攻撃されることに対して思い当たる理由がない

 裸を見られたくなければ、自分が近づく前に霊衣を纏っていればいい。そうしなかったのは、単に相手がそれを気にもかけていなかったからだろうと考えていた神魔にとって、この攻撃は全く予期しないものであり、理由も判然としないものでしかなかった


 しかし、神魔の困惑など知る由もなく、黒髪の女性は薙刀の刀身から羞恥とやり場のない感情に満ちた魔力を放ち、それが新緑の森から天を衝いて噴きあがり、青天の空に漆黒の槍を突き立てる

「――っ!」

 自身に向けて放たれた魔力の波動を、とっさに顕現させた大槍刀の一薙ぎで凌いだ神魔は、後方へと飛びずさりながら、漆黒の波動の中に佇む黒髪の女性の姿を見据える

(もしかして僕に気づいてなかったってこと!? 結構分かり易く近づいたと思うんだけど……)

 相手が自分を攻撃してくる理由に、まさかという考えと共に至った神魔は、自分に向けられる魔力の奔流を捌きながら、事態の鎮静化を図る



 もし半霊命(ネクスト)が見れば少々大袈裟に思われるかもしれないが、永遠の命と引き換えに、戦うことだけを存在理由とする全霊命(ファースト)にとって、一糸纏わぬ姿を見せるということは全幅の信頼を置き、その心を委ねている――自分の最も無防備な姿をさらけ出せるという意思の表明に等しいもの

 常にその身を守り、その身を隠し、本当に心を委ねた者の前でしか解けることはない防御のための自分自身――霊衣を纏わぬ姿を見られるということは、全霊命(ファースト)にとって半霊命(ネクスト)が裸体を見られる以上の嫌悪感を伴うものなのだ


 魔力を隠したわけでも、威圧したわけでもなく近づいた自負がある神魔は、相手が自分に気付いていると思っていたのだが、そうでなかったのならばこの状況にも説明がつく

(でもこの魔力の感じからして、彼女、怒ってはいるけど本気で殺しには来てない。このまま彼女が落ち着くのを待って……)

 気付かれていなかったとは思いもよらないことだったが、もし相手が自分に気付いていなかったのなら、この攻撃は裸体を見られたショックと困惑、見知らぬ人へ対する一定の恐怖心から女性が自衛行動を取っているだけ。

 それならば、相手が落ち着くのを待つのが得策だろうと判断した神魔は、その攻撃を防ぐことに徹しようと大槍刀を構える

「――っ!」

 しかしその瞬間、 神魔の知覚が別方向から神速で接近してくる強大な魔力を捉える

「――っ!」

(あの子の知り合い!?)

 自身に向かってくる強大な魔力を知覚して目を瞠った神魔が、清泉の中で魔力を纏う黒髪の女性との関係を推測した瞬間、そこに赤紫色の花が翻る

紗茅(さやか)!」

 別方向から接近してきた流れるような赤紫色の長髪に桜色の瞳を持つ女性は、泉の中で武器を持っている黒髪の女性――紗茅(さやか)と呼んだ人物から神魔へと視線を移す

「あなた、私の妹に何するの!?」

 武器を手にしている紗茅(さやか)と、大槍刀を手にしている神魔を見比べてた桜色の瞳の女性は、自身の妹に迫っている危機を誤認し、反射的に排除へと行動を移す

「覚悟!」

「ちょっ、待っ……」

 この状況を初見で見れば誤解するのは仕方がないだろうが、説明する暇もなく臨戦態勢に入られたことに動揺した神魔が弁明するよりも早く、桜色の瞳の女性の腕の中に魔力が収束し、戦うための形へとその姿を変える

「『舞花(まいはな)』!!」

 その石突の部分に円形の鏡を備えた杭にも似た形状を持つ白銀の槍を顕現させた桜色の瞳の女性は、その槍の刃に魔力を収束させる

(マズイ、この人勘違いしてる!)

 羞恥と混乱からその力を使っていた紗茅(さやか)とは違い、明確な殺意と戦意をもってその力を使う桜色の瞳の女性に、神魔はその表情をわずかに青褪めさせる

(しかも、メチャメチャ強い!!)

 その身体から放出される圧倒的な密度と霊格を備えた魔力に神魔が回避行動をとる中、桜色の瞳の女性は銀の杭槍に漆黒の風を纏わせて神速で肉薄する

「はあああっ!」

「――っ!」

(は、疾……っ)

 その切っ先を向け、瞬時に肉薄してきた桜色の瞳の女性の攻撃を感じとった神魔は、その身体から生じる魔力のすべてを防御と回避に用いる

 しかし、神魔よりも絶対値で上回る桜色の瞳の女性の攻撃を完全に回避することは適わず、その肩口に銀の杭槍の先端が突き立てられる

「――ぐ……っ!」

 魔力の結界と霊衣を貫いて刃が突き立てられた肩口に焼けるような痛みを覚え、苦悶の表情を浮かべる神魔は、その突撃の威力によって大地を抉りながら数十メートル以上吹き飛ばされる

「っ!」

 その様子を目の当たりにした紗茅(さやか)は、まるで流れ落ちる砂時計のようにその感情の昂ぶりが収まっていき、恥じらいに紅潮していたその表情を青褪めさせる

 しかし、そんなことなど露知らぬ桜色の瞳の女性は、妹を害そうとしていると勘違いした神魔へと更なる追撃を行うべく、その手に携えた白銀の杭槍に魔力を纏わせる

「まだまだぁ!」

「待ってお姉ちゃん、違うの!」

 神魔へ向けて更なる攻撃を加えようとした桜色の瞳の女性の前に飛び出した紗茅(さやか)は、その身を挺して姉の攻撃を阻む

「……え?」

 紗茅(さやか)の表情に瞬く間に戦意と殺意を消し去った桜色の瞳の女性は、妹とその妹が身を挺して庇った神魔を交互に見比べて、その瞳を丸くするのだった





「すみませんでした」

 深々と土下座をする桜色の瞳の少女の赤紫色の髪に覆われた頭部を見る神魔は、困惑混じりの笑みを浮かべる

「いえ、気にしないでください。僕にも落ち度があったんですから」

 そう言って応じる神魔の肩から立ち昇る紅い炎は、全霊命(ファースト)の身体を構成する神能(ゴットクロア)が傷口から外にこぼれることによって生じる血炎。

 桜色の瞳の女性尾の杭槍によって生じた傷から生じた傷から噴き出した血を立ち昇らせる神魔は、平伏している赤紫色の髪の女性に向けながら、その後ろにいる二人の女性に助けを求めるように視線を向ける


 あれからすぐ、紗茅(さやか)によって事情を説明された桜色の髪の女性は、その直後に駆けつけてきたもう一人の女性――燃えるような赤い髪を頭の後ろで束ね、肩を出したドレスのような服の上にケープに似た衣と共に妖艶な色香を纏った女性。

 その立ち振る舞いと存在感は、紗茅(さやか)や桜色の瞳の女性と比べて大人の女性としての魅力に満ちているが、年齢などあってないような全霊命(ファースト)は外見だけでそれを判断することはできない


「ありがとうございます。私は『風花(ふうか)』と言います」

 神魔の言葉に顔を上げた桜色の瞳の女性――風花は、その表情を安堵に綻ばせて自己紹介すると、その視線を背後にいる二人に向ける

「あの二人は、下の妹の呉葉(くれは)と、その下の妹の紗茅(さやか)です」

 風花の紹介に応じるように、呉葉と呼ばれた燃えるような赤い髪を持つ妖艶な美女と、清楚な黒髪の美女――紗茅(さやか)が交互に会釈をする

「神魔です」

 そうして三姉妹が一通りの自己紹介を終えたところで、神魔が自己紹介をすると、今まで背後で静かに佇んでいた呉葉が一歩前に出て恭しく頭を下げる

「先ほどは、姉が大変失礼いたしました。ご気分を害しておられるならお申し付けください。五体投地までなら快くやらせますので」

「いえ、そこまではちょっと……」

 平静を保ったまま、わずかばかりに甘美な毒を含んだ言葉を発した呉葉に、神魔が困惑気味の表情で応じると、妹に容赦なく咎められた風花も一抹の抗議を込めた視線を返す

「わ、私が悪いの!?」

 妹の危機に駆けつけただけだというのに、という抗議が容易に見て取れる風花の言葉を受けた呉葉は、その言葉に冷ややかな視線を返す

「違うの?」

「……そうです」

 実の姉に向けているとは思えないほど冷ややかな視線を受け、肩を落として項垂れる風花の姿には姉としての威厳はなく、むしろ呉葉の方が上に思える

 そして、その射抜くような呉葉の鋭い視線はうなだれている(風花)から、申し訳なさげに佇んでいる(紗茅)へと向けられる

「あなたもでしょう、紗茅(さやか)? 彼が近づいてきているのにも気づかないなんて、少し気を緩めすぎよ。――私たちでさえ気付いていたんだから」

「……ごめんなさい」

 呆れたような呉葉の言葉に、肩を震わせて委縮した紗茅(さやか)が今にも泣きだしそうな表情で俯くのを見た神魔は、どこか居たたまれない感情に誘われるように思わず声を発する



 神魔の行動と対応は、全霊命(ファースト)としての一般的な常識に照らしても何ら間違っていないものだった。

 自分が相手を知覚できているのだから、当然相手も自分に気付いているはず。だから警戒心を抱かせないようにして近づけば、少なくとも不要な敵対をせずに済む――それは、当たり前のことだ

 遠くにいた風花や呉葉でさえ知覚できるほど分かり易く、かつ対応しやすい状況で接近を試みてもらっていたにもかかわらず、それに気づかなかったなど、完全に紗茅(さやか)の落ち度としか言えない


 初対面である神魔には知る由も似ないことだが、紗茅(さやか)にそういった少々抜けた部分があることを知っている風花と呉葉が今回の落ち度を咎めるのは必然だった。

 何しろ、今回はたまたま神魔に敵意がなかったからよかったものの、万が一害意を持っている人物だった場合命を落としていた可能性さえあるのだ――いかに全霊命(ファースト)の知覚が優れていようと、失念してしまっていてはなんの意味もなさない



「いやこちらこそ、不可抗力とはいえ……その、覗くみたいなことしちゃって」

 危機感の欠如をやや強い語気で指摘され、申し訳なさげに俯く紗茅(さやか)を庇うように神魔が言うと同時に、その場に立ち上がった風花が一気に距離を縮める

「と、とにかく、このままでは申し訳が立ちません。大したおもてなしはできないけれど、良かったら御馳走させてください」

「え、でも……」

 瞳を覗き込み、詰め寄るように言う風花の言葉に神魔が戸惑いの声を発すると、その様子を見ていた呉葉が微笑を浮かべて声をかける

「もしご都合がよろしければ、そうしていただけませんか? 姉と妹もお詫びをしたいようですから」

「いえ、そんな……」

 自身にも落ち度があったのだから、もてなしなどされては恐縮してしまうと言わんばかりに困惑している神魔に優しく語りかけた呉葉に応じるように、紗茅(さやか)も風花に続く

「ぜひお願いします」

 風花と紗茅(さやか)の強い視線に射抜かれた神魔は、ここで頑なに拒絶するのも悪いと考えて半ば流されるように首肯する

「そうですか? じゃあ、お言葉に甘えさせてもらいます」

「ありがとうございます」

 目を輝かせた風花と紗茅(さやか)が嬉しそうに笑みを交わすのを見ていた神魔に、そっと歩み寄ってきた呉葉が二人とは別の意味を持つ同じ言葉を囁く

「ありがとうございます」

 その様子を見ていた神魔は、はしゃいでいる風花と紗茅(さやか)とは対照的に静かに佇んで対応する呉葉を見比べる

(呉葉さんだったっけ? あの人が三人の中では一番のしっかり者みたい。僕も見習わなきゃな)

 単純な感謝と喜びを表現している風花と紗茅(さやか)とは違い、そんな二人の気持ちを汲んでくれたということに対する感謝を述べた呉葉に、神魔は内心で感嘆する


 半ば押し切られた形とはいえ神魔としては風花たちの好意に応じるのはやぶさかではない。故に決してしぶしぶ了承したわけではないのだが、呉葉は姉と妹の「感謝の気持ちを伝えたい」という気持ちを汲んでくれたことに対して感謝の言葉を述べていた


「今、呉葉が一番しっかりしているって思ってませんか?」

 呉葉の対応に内心で感心していた神魔の様子を見ていた風花は、その反応に不満げに唇を尖らせて覗き込むようにする

「え!? いや、そんなことは……」

「気を遣わなくてもいいですよ。実際そうですから」

 まるで考えを見透かされているような言葉を受け、その澄み切った桜色の瞳から逃れるように視線を泳がせた神魔に、風花は妹を誇る姉としての誇らしさと、妹によって地に落ちた姉としての威厳への嘆きが同居した表情を浮かべる

「はは……」

 笑っているとも、拗ねているとも取れる表情を浮かべる風花に返す言葉に困り、神魔が乾いた笑みを浮かべていると、不意にその赤紫色の髪が羽衣のように翻る

「とにかく、行きましょう?」

 舞うようにその身を翻した風花は、神魔の手に自身の両の手を包み込むように添えると、透き通った笑みを浮かべる

 ほぼ初対面の異性であるにもかかわらず、自分に対してほとんど警戒心を持たず、また同時に自然に距離を縮めてくる風花に優しく目を細めた神魔は、促されるままにその手に引かれて歩を進める

「はい」

 優しく頷いた神魔は、手を誘うように引いた風花に合わせて舞うように翻った赤紫色の髪を見ていた神魔は、それと共に届いた微香に小さく息を呑む

「――ぁ」

 風花の髪から漂ったその甘く優しい香りは、まるで風に舞う花弁のように一瞬だけその存在を主張すると、儚く通り過ぎて消えていく

「どうしました?」

 まるで幻想のような切なく、しかし記憶に舞う風花の香りにくすぐられた神魔の声に、視線を向けた風花が怪訝そうに問いかける

 その問いかけを受けた神魔は、すでに消えているにも関わらず、今だ己の記憶の中に残っている甘く優しい香りを感じながらその表情を綻ばせる

「いえ、風花さんっていい匂いがするんだなって」

 あまり自然に、他意もなく思ったままのことを口にした神魔の言葉に不意を衝かれ、顔を赤らめた風花は、神魔の手を持つ細く手にわずかに力を込める

「――っ。もう、初対面の女の子の匂いを指摘するなんて、神魔さんは変態さんですね」

「あ、すみませ……」

 赤らんだ頬で恥じらう風花の言葉で、自分の失言に気付いた神魔が謝罪の言葉を発するよりも早く、その視界に赤紫色の花が翻る

「めっ! です」

 引いていた手を離し、神魔の眼前までその距離を縮めた風花は、身長差からわずかな上目づかいで互いの視線を交錯させると優しく窘める

 注意を促しながらも、決して怒気を孕んでいない声でたしなめられた神魔は、恥じらいを紛らわせているようにも見える風花の姿に優しく表情を綻ばせる

「すみません」

「よろしい」

 再度向けられた神魔の言葉に、満足げに花のような優しい笑みを浮かべた風花は、その赤紫色の髪を翻らせてその隣に肩を並べる

 拳一つ分ほど低い肩を神魔と並べた風花は、自分に向けられている神魔の視線に桜色の瞳で応じる。初対面とは思えないほどに親しく見える二人のそんな姿を呉葉は微笑ましそうに、紗茅(さやか)は複雑な表情で見つめていた




 ――思い返せば、この時にすでに風花は自分自身でさえ自覚しないまま神魔を特別な人物として意識していたのかもしれない。

 だが、この出会いこそが間違いなく神魔と風花、呉葉、紗茅(さやか)にとって、幸福と悲劇を孕んだ運命だったことだけは確かだった――。



 世界を照らす光源――神臓(クオソメリス)が月へと変わり、世界を照らす概念によって、空間の狭間にある仮初の世界を星の海として漆黒の夜空に映し出す。

 その下に広がる魔界の森の一角で、神魔と風花、呉葉、紗茅(さやか)の四人は料理のために起こした火を囲んでいた

「へぇ、それじゃあ神魔さんは、今一人で旅してるんですか?」

「はい」

 風花たちが森の中で調達した食材で作ってくれた料理を手にした神魔は、それを口に運びながら自分を囲むように座っている三人の少女たちに応じる

「お一人での旅はもう長いんですか?」

 何気ない会話の中で、紗茅(さやか)が問いかけると、それを受けた神魔は複雑な笑みを浮かべて料理を運んでいた手を止める

「いえ、少し前までは不本意ですけど師匠みたいな人と、その奥さんと一緒に暮らしていたんですけど、その人に『イチャイチャするのに邪魔だから後は一人で暮らせ』って追い出されまして……」

「なるほど、仲がいいんですね」

 苦笑交じりに答えた神魔の話の内容に、風花が口元を手で隠しながら優しい笑みを浮かべる


 「不本意ですけど」と前置きをしたことから、おそらくは神魔とその師匠のような人との相性が悪かったのだろうと想像することは難しくない

 しかし同時に、それを語る神魔の表情や声音には嫌悪感や敵意などが感じられないことから、好意的に思っていてもそれを素直に表せないような――兄弟に近い関係を築いているような相手なのだろうと風花は推察していた


「この料理、すごくおいしいですね」

 風花の言葉に照れているのか、ばつが悪そうに曖昧な笑みを浮かべて応じた神魔は、反応に困ったのか露骨に話題を変える

「お口に合えば幸いです」

 これ以上神魔がその話題に触れてほしくなさそうな様子を見せたため、風花はその話を打ち切って優しく微笑み返す

「じゃあ、今夜も腕によりをかけますね」

「今夜も?」

 その細く白い腕を見せつけるようにして力強く言い放った風花の言葉に神魔が首を傾げると、当の本人は意外そうに目を丸くする

「はい。駄目ですか? たった一回お食事でもてなしたくらいでお詫びをしたなんて思えませんし……」

 両手の指先を合わせながら、ほんのりと頬を赤らめる風花の申し出に、神魔は言葉を選びながら応じる

「駄目ってわけじゃないんですけど……ご迷惑じゃないですか?」

 すでに先ほどの一件のことは気にしておらず、また自分にも小さくない非があることを認識している神魔は、自分がその申し出に応じていいものかと考えて問い返す

 風花の心遣いはありがたいが、部外者であり異性である自分がその申し出を受けるのは憚られると遠まわしに言う神魔に、風花と紗茅(さやか)が弾かれたように声を発する

「そんなことありません!」

「そんなことないですよ!」

「は、はぁ……」

 声を荒げたわけではないが、強い語気で発せられた風花と紗茅(さやか)の言葉に、思わず半身を引いてしまった神魔は、二人の強い眼差しから逃れるように一人その様子を見守っている呉葉に視線を向ける

「…………」

 助けを求めるような神魔の視線を受けた呉葉は、まるで「諦めてください」と言わんばかりの表情で優しく微笑み返す

 呉葉にも見放された神魔がやや困惑した様子を見せると、詰め寄るように上半身を傾けていた風花が姿勢を正して頬を赤らめる

「も、もちろんご無理にとは申しませんが……もし、もしよろしければ、私たちの我儘にもう少しだけおつきあいいただけませんか?」

 口ではそう言いながらも、恨めしそうな視線を向けてくる風花を見た神魔は、その瞳からありありと伝わってくる感情に小さくため息をつく

「分かりました。じゃあお言葉に甘えさせてもらいます」

(ま、いっか)

 三姉妹から向けられる視線に半ば諦めの境地に達した神魔は、特に目的があるわけでも、急いでいるわけでもないのだからと自分に言い聞かせて風花の誘いに応じる

「本当ですか!?」

「ありがとうございます」

 神魔からの承諾の言葉を受けた風花と紗茅(さやか)は、安堵に胸を撫で下ろしつつ喜びに瞳を輝かせ、呉葉はその様子を見て優しくその表情を綻ばせる

「やれやれ、二人にも困ったものね。これについても何かお礼を考えておかないと……」

 姉と妹の耳に届かないように配慮した小さな声で独白した呉葉は、風花と紗茅(さやか)の我儘を聞いてくれた神魔に視線を向ける

「まあ、もしかしたらその必要がなくなるかもしれないけれどね……」

 目を伏せて静かに紡がれたその言葉は誰の耳にも届くことはなく、神魔と風花、紗茅(さやか)が交わす言葉にかき消されていく

 親しげに言葉を交わす姉と妹、そして神魔の姿を見つめる呉葉の瞳は、その光景に今日までとは違う生活を送る自分たちの未来を幻視していた







「――なんで……?」

 目の前にいる、いるはずのない人物――風花を前にした神魔は、まるで縫い付けられたようにその視線を離すことができず、記憶の中にあるままのその姿と魔力の波長に困惑と動揺を隠せずに立ち尽くす


 風花は死んだ。それは自分が一番よく知っている。


 しかし、クラムハイドによって連れてこられたこの空白の世界で再会した風花は、その魔力、居住まいなどから間違いなく神魔の記憶の中にある本人と同一人物だ。

 すでにこの世にいるはずのない人を前にして、動揺を隠せずに困惑している神魔に静かに佇んだまま視線を向けていた風花は、不意にその表情を綻ばせて穏やかな声音で語りかける

「――私がここにいることが信じられない?」

「っ!」

 聞き慣れた――記憶の中にある声そのままの言葉を向けられた神魔が目を瞠ったその瞬間、風花の手の中に魔力が収束し、それが戦うための形――白銀の杭槍へと変化する。

「でも、わかるでしょう? これが現実だって」

「――っ!」

 風花の手の中にその魔力が戦う形を取った武器――銀の杭槍を顕現したのを認識した瞬間、神魔の眼前に赤紫色の花びらが舞う

 武器を顕現させると同時に神速で距離を詰めた風花の一閃を大槍刀の柄で受け止めた神魔に、先ほどよりも近い位置で透き通った桜色の瞳が語りかける

「覚えているでしょ? 私たちが初めて会ったときのこと。――こうして、私が攻撃を仕掛けたよね」

 銀杭の一閃を見舞った風花が、初めて会った時のことを懐かしげに語る姿を見た神魔は、記憶を揺さぶる口撃に息を呑む


 再会を懐かしみ、そして死んだはずの自分が生きているという事実に困惑する神魔に微笑みかける風花は、その行動と言葉でその記憶にあるはずの己を呼び起していく

 武器を手にした風花には殺意も敵意もない。しかし風花はその行動を通して言葉よりも、その身を構築する神能(ゴットクロア)――魔力と、自分たちが築き上げてきたかけがえのない記憶で神魔に語りかけていた


「風、花……!」

 大槍刀と銀杭の刃がせめぎ合い、二人の魔力が拮抗する中で神魔は、懐かしく、心の奥底に棘のように突き刺さって抜けない風花の姿に唇を引き結ぶ


 風花は死んだ。頭では分かっているはずなのに、その姿が、些細な仕草が、その声が、知覚が捉える魔力が、今自分の目の前にいるのが間違いなく風花本人だと神魔に語りかける


「――そうだよ、神魔」

 動揺と困惑に混乱する神魔の金色の瞳を、その桜色の瞳でまっすぐに見つめ返す風花は、その表情を鼻のように優しく綻ばせて微笑みかける






 あり得るはずのない邂逅。しかし刃を合わせた衝撃で翻った赤紫色の髪から漂う儚く甘い香りは、確かに記憶の中にある風花の残香。――

 それは、過去との邂逅。神魔と風花の、過去をなぞり、そしてもう一度互いを知り、分かり合うために演出された懐かしくも新しい二度目の出会いだった





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