妖界王
暗闇と罪過に満ちた茨の道を歩む。――しかし、その先には確かな光がある。これまでの光に満ちた世界の行く先には果てしなく続く道しかなかった。だが、この真っ暗で罪の闇にまみれた道の先には、これまでなかった光がある
「止まってください、クラムハイド様、帝紗様」
「今際とリシアか」
自分達の前に立ちはだかった二人の女妖怪――両目の周囲に若葉色の唐草模様に似た紋章を持つ金髪の女妖怪「今際」と両目の下に蒼い三角形の紋様を持つ白髪の妖怪「リシア」を見止めて足を止めたクラムハイドは、静かに視線を向ける
白髪の女妖怪リシアは、その手に手甲と盾、剣が一つになった巨大な爪のような武器を、金髪の女妖怪今際は、その身に純白プレートが何枚も繋がり、マントのような形状を取った特異型の武器を纏って静かに佇んでいる
硬質な声と、妖力の中に奔る緊張、同時にその内に秘めた戦意と敵意を感じ取りながらも、クラムハイドと帝紗は静かにその姿に視線を送る
「お前達の力はよく知っている。俺達に勝てるとでも思っているのか?」
戦意を隠さずに牽制してくる二人の女妖怪――今際とリシアに視線を向け、クラムハイドは淡々とした口調で言い放つ
クラムハイドの言葉には、微塵の驕りも、二人への侮蔑もない。妖界王に認められた三十六人の真祖の一人にして、その中でも屈指の実力を持つクラムハイドと、実力は確かでも一介の妖怪に過ぎない今際とリシアでは相手にならない
ただの事実を淡々とした口調で述べ、結果の分かり切った戦いを避けようとするクラムハイドだが、たとえ相手が格上でも今際とリシアには撤退や逃走の意志は無い
「あら、いけませんよ、そんな仰り方をしては。貴方は言葉づかいは丁寧ですが、本質がひねくれた慇懃無礼さんなんですから」
その様子を見ていた帝紗は苦笑交じりに笑みを浮かべてクラムハイドをたしなめると、その視線を今際とリシアの二人に向けて優しく微笑みかける
「二人はとてもよくできた子たちです。その誇りにかけて、私達の進路を命を賭けてでも阻むでしょう――本当に立派になりましたね」
その言葉に、今際とリシアは、半信半疑でありながらも信じざるを得ない、目の前で起きている事実を再認識して、動揺に声を震わせる
「……本当に、帝紗様なのですか?」
分かり切っていることだというのに、故人が目の前にいる事に困惑と動揺を隠しきれない今際が声を漏らすと、帝紗は優しく微笑んでその声に答える
「はい」
自分の記憶の中にある帝紗の声、仕草、言葉使い、そして懐かしい妖力――その全てが胸を打ち、今際とリシアに懐古の念と共に悲嘆の声を向ける
「では、なぜ帝紗様が……あの、清く正しく、私達に世界を守ることの尊さを解いて下さったあなたが、このような事をなさるのですか!?」
生前の帝紗は面倒見のよい人物で、今際やリシアをはじめ、妖界城に働く大半の妖怪達から絶大な信頼と好意を寄せ、姉や母のように慕っていた
清廉で、清く正しく美しく、しかし親しみやすく、優しく包み込むような雰囲気を纏っていた帝紗は、三十六人の真祖、妖怪王の中でも最も部下に愛されていた人物だった
「このような事を――たとえクラムハイド様のお言葉だとしても、あなたはこのような事をなさる方ではありませんでした!」
悲嘆にくれた声でを向けるリシアを受けた帝紗は、その表情を微塵も揺らす事無く、優しく慈愛に満ちた視線で応じる
帝紗は物腰は穏やかだが、芯は強く、一度決めたら決して譲らない頑固さがあった。たとえ夫であるクラムハイドでもそれは例外ではく、決心した帝紗がそれを譲ったという話を聞いたことがないほどだ
だからこそ、たとえクラムハイドのためであっても、真祖として誇りを持って守護し、司り、何よりも帝紗自身が愛したこの世界に敵対するような事をするとは、今際とリシアには到底思えなかった
「応えて下さい、帝紗様!!」
声を荒げた今際の言葉に、帝紗は宝石のように輝く透き通った瞳を一度瞼の中にしまうと、再度、深い慈愛を乗せた視線で眼前に立ちはだかる二人の守護者たちに微笑む
「……それが、私の選んだ道だからです」
静かな中に宿る決して揺るがない強い意志を感じ取り、今際とリシアはそれ以上の言葉を呑みこむ
帝紗が一度決心したならば、滅多な事で心変わりをさせる事は出来ない。そのためには自分達が二人を阻むのが最適だが、生憎と自分たちにその力がな事を熟知している今際とリシアは、説得する相手をクラムハイドに変えて言葉を続ける
「なぜお亡くなりになられたはずの帝紗様があなたのお隣におられるのか、我々には分かりかねます。ですが、たとえ乱世様を打ち倒された妖力共鳴とて、妖界王様にも同様に通じる訳ではありません」
荒ぶった感情と動揺を鎮めるように一度深呼吸をして発せられた今際の静かな言葉に、クラムハイドは、あえてその言葉に問いかけるように答える
「降伏を求めているのか?」
「……はい」
剣呑に目を細めたクラムハイドの問いかけに、わずかに気圧されながらも今際はそれを表に出さないように努めて、小さく首肯する
いかにクラムハイドと帝紗が妖力共鳴を行い、乱世を退ける事に成功したからと言って妖界王にも同じ手段が通じるはずがない――むしろ、妖力共鳴しか手段がないのなら確実に敗北する事になるだろう
今際としては、ここでクラムハイドが戦いをやめ、心から敬愛する帝紗を説得れる事を心から願わずにはいられなかった
「そんな意志が微塵でもあるのなら、このような事はしていない」
無論、その願いは即座に儚くも打ち消される事になるのだが。
「残念です」
その言葉に沈痛な面持ちで顔を伏せた今際は、静かに息を吐くと、その身に纏ったマントのような武器を広げて、戦意に満ちた迷いない妖力を解放する
「ならば、ここであなた方を止めます」
その言葉と同時に、リシアが爪甲に自身の妖力を纏わせ、神速の速さでクラムハイドと帝紗に向かっていく。それを援護するように、今際の背にまるで翼のように広がったマントが二本の刃となって両側から奔る
今際の特異型武器であるマントは、無数のプレートが連結した形状をしている。それを左右に開く事で盾として、さらにその連結を伸ばして刃と鞭の性質を合わせた武器へと変える機能と、プレートを分離して独立させて多角攻撃を可能とする能力を備えている
「……あなた」
リシアが地を蹴り、今際の刃鞭が自分達に放たれたのを見た帝紗が静かな声音で語りかけると、クラムハイドは血色の刃を持つレイピアを顕現させる
「分かっている、殺しはしない」
その言葉に静かに微笑んだ帝紗は、自身の武器である無数に枝分かれした刃を持つ翠緑の双剣を顕現させ、リシアの斬撃を阻み、そのままその身体を真横一文字に斬り裂く
「あ……ッ!」
その傍らで、今際の刃を妖力を纏わせた腕で軽々と掴んだクラムハイドは、その刃を力任せに引っぱり、刃と繋がっている金色の髪の女妖怪を自分の許に引き寄せる
「――っ!」
身体が引き寄せられた瞬間、今際は咄嗟にプレートを分離させるが、時すでに遅く、その眼前に肉迫していたクラムハイドが血色の刃を持つレイピアを一閃させる
真紅の斬閃と共に放たれたクラムハイドの斬撃は、その身を守るプレートごと今際の身体がを斬り裂き、血炎を噴き上げさせる
「……ッ」
この戦闘の結果は必然だ。いかに実力があろうと、今際とリシアが一介の妖怪に過ぎないのに対して、クラムハイドと帝紗は、三十六真祖に名を列ねる最強位の妖怪。それと一対一で戦って相手になるという事は無い
瞬く間に斬り伏せられ、傷口から噴き出した神能が世界に還元されることで生じる血炎を上げて地に倒れ伏す今際とリシアを一瞥し、帝紗は沈痛な面持ちで視線を伏せる
「……ごめんなさいね」
静かな声を残して、クラムハイドと共に奥へと歩いていく帝紗へ視線を向けた今際は、深い傷を負ってまともに動けなくなった身体を起こして、苦悶と悲痛に満ちた表情で悲嘆にくれる
「どうしてですか、帝紗様……まるで、今のあなたは、あなたではないあなたのようです」
存在を示す妖力が紛れもなく本人であると訴えてきているにも関わらず、自分の記憶とは違う帝紗の姿を見送りながら、今際はその姿に小さく訴えるように声を向ける
しかし、今際のその言葉が帝紗に届いたのかは、分からない。ただ、少なくともその心には届かなかった事を静かに歩を進めるその後ろ姿だけが如実に語っていた
「……虚空様……っ!」
その頃、クラムハイドと帝紗が着実に妖界王の許へと移動しているのを知覚しながら、萼は、唇を引き結んで神速で世界を駆ける
妖界城までの距離は、光と時間を超越する神速をもってすれば一秒もかからない刹那。しかし、他の全霊命達もそれに匹敵する速度で動いている戦場の中、全霊命にとってのその一秒に満たない刹那は、とても長い時間に感じられる
「――っ!」
一直線に妖界城に向かいながらも、周囲への警戒を怠ることなく移動していた萼は、その瞬間、自分に向かって飛来する、感じ慣れた妖力を近くして目を視線をその方向へ向ける
「萼ァ!!」
全身から妖力を噴き上げ、その手に大型のナイフを携えて獣の如き咆哮を上げるかつての同胞――鋼牙が自分に向かって来ているのを見止めた萼は、一瞬迎撃の体勢を取ろうとすが、さらにその背後から向かってくる黒白の力を認識し、妖界城へと向かうことを選択する
「させるか!!」
自分との戦いもほどほどに、隙を見て萼を追跡した鋼牙を追って肉迫した黒白の力を纏う人物――大貴は、自身の武器である刀に光と闇が同居する力を纏わせて、それを斬撃と共に解放する
望んだままに世界に事象を顕現させる神能の特性によって、世界にただ一つ、光と闇が同時に存在する太極の力によって織りあげられた斬撃の波動が、生きた龍の如く宙を翔けて、鋼牙の正面に回り込む
「――チィッ!」
それを知覚によって察知していた鋼牙は、己の妖力を纏わせたナイフを交差させ、その斬撃で大貴が放った黒白の斬撃を相殺する
「オオオオオオッ!!」
砕かれた光と闇が同在する力の残滓を吹き飛ばし、黒白の力を刀に纏わせた大貴が神速の閃光となって一直線に肉迫すると、その一撃を大型ナイフの刃で受けとめて鋼牙が激昂に声を荒げる
「餓鬼が! 邪魔するんじゃねぇよ!!!」
交差させた刃を力任せに振り上げて大貴の斬撃をはじいた鋼牙は、されにその妖力を乗せた刃から嵐のような斬撃を放ち、黒と白の左右非対称色の翼を持つ異端の神にその力を力任せに叩きつける
純然たる殺意に怒りを乗せ、己が興を阻む敵を滅却せしめんと力を振るう鋼牙の斬撃は、しかし、その着弾地点から渦を巻いて球状に紡がれていく万象を統べる太極の力に統合されていく
「――ッ!」
本来はあり得ない全ての力の統一を可能とする光魔神の神能――太極の力に忌々しげに歯噛みした鋼牙に、大貴は左右非対称色の瞳で鋭い視線を送る
「随分あの人にご執心だな、なんか恨みでもあるのか? それとも、フラれた腹いせか?」
黒と白、光と闇が同居する力を帯びた刃を一薙ぎした大貴が、萼を追わせないために挑発の言葉と共に視線を向けると、それを受けた鋼牙の妖力が激しい怒りと殺意に染まる
「……挑発は言葉を選べよ、糞餓鬼。殺すぞ?」
目を見開き、地の底から響く様な冷たい殺意に満ちた声を向けた鋼牙の様子に、大貴は背筋が凍るような恐怖を覚えて、手にした刀の柄を握る手に力を込める
「身に覚えでもあるのか? おっさん」
一瞬覚えた魂を冷やされるような恐怖を振り払い、その存在から光と闇が同時に存在し、同居する世界でただ一つの神能を噴き上げた大貴は、絶対零度の怒りと殺意を振り撒く鋼牙に手にした刀の切っ先を向けた
「――ようやく、辿りついたな」
「はい」
静かに感慨深い声で独白したクラムハイドと、その隣に立つ帝紗の前にそびえ立っているのは巨大な扉。
妖界王がいる玉座の間へ入るための巨大な扉の前に佇んだクラムハイドは、これから戦う最強の敵を前に、緊張と一抹の恐怖を隠しきれない様子で、しかし穏やかな声音で隣にいる愛しい女性に語りかける
「覚悟はいいか?」
「はい」
クラムハイドの言葉に、淑やかに微笑んで頷いた帝紗は、ゆっくりと差し出された愛する人の血色の刃を持つレイピアに、己の武器である翡翠色の刃を持つ双剣の一本をそっと重ねる
「いこう、帝紗。私達の未来を作るために」
「はい、クラムハイド様」
静かに声を交わし、扉の向こうにいる最後の敵へと向かう意志を互いに鼓舞しあったクラムハイドと帝紗は、自分達の力を解き放ち、互いの存在を共鳴させる
「――妖力共鳴」
妖界城が座す玉座が安置された玉座の間の扉が外側から吹き飛ばされ、共鳴し、高められた真紅と翠緑の妖力が折り重なりながら一つの波動となって、玉座の上に置かれた漆黒の繭――妖界王・虚空へと迸る
純然たる滅殺の意志と、永遠の愛を近い、命を交わし合った番いの力が、互いを高め合いながら触れるもの全てを滅ぼす斬滅の渦となって玉座の間を蹂躙する
吹き荒れる妖力に込められた意志は、己が前に立ちはだかる全ての障害をこの世から滅却せしめる滅びと破壊の力。望むままに事象を作り出し、現象として世界に顕現せしめる世界最高位の霊格を持つ神にも等しい力が吹き荒れ、真紅と翡翠の力の残滓を中空に星々の如く輝かせる
真祖である二人が共鳴させた妖力に込められた力は、並みの全霊命ならば、抗う事も出来ずにこの世界から存在ごと消滅してしまうであろう程強大なもの。――しかし、二人が相手にするのは、まさに妖怪という全霊命の頂点たる存在だ
「――っ!」
自分達の力が打ち消され、そこから妖力を帯びて妖しく光る漆黒の尾のようなものが蠢くのを見て、クラムハイドと帝紗は静かに息を呑む
「……やはり、この程度では死んでくれないか」
自分達の力の残滓の中で蠢く触手の持ち主が誰なのかを知っているクラムハイドは、やはりといいながらも、これで終わっていてほしかったという一抹の希望が打ち消された小さな絶望と共に声を漏らす
真祖の一人として、その実力を身に染みて知っているクラムハイドは、できる事ならばこの相手と――妖界王・虚空と戦うことは避けたいと、心のどこかで思っていた
「随分、手荒な目覚ましだな」
静かな声と共に、妖力を帯びて黒く艶光る触手が力の残滓となって還元され、その中から一人の人物がゆっくりと立ち上がる
「ようやく出てきたか……随分と寝坊が過ぎるな」
その人物を前に、戦意を研ぎ澄ませながら視線を向けるクラムハイドは、己の信念を阻むために倒さねばならない最大の敵を見据える
「虚空」
全霊命特有の整った顔立ちに、肩にかかるほどの淡い金色の髪。その切れ長の目の下にあるのは、隈とも取れる緋色の妖紋。金属質の額鎧からは一本の鋼角が伸びており、その目に宿る翡翠色の瞳が妖しくも美しく輝いている。
武士を彷彿とされる霊衣の両肩には左右で形状の違う鎧が備えられており、左肩の大角の装甲からは、足元まで届くマントのような衣が翻っている
その人物こそ、この世界において神から最初に誕生した、たった一人しかいない妖怪の原在――「始祖」と呼ばれる最強の妖怪にして、この世界を統べる妖界王「虚空」だ
「……懐かしいな、お前達二人が肩を並べているのは」
長い眠りから目覚めた虚空は、静かに佇みながら一段高くなっている玉座の段から降りると、静かな視線でクラムハイドと帝紗を捉えて、わずかにその口角を上げる
かつて自分に仕えた真祖の二人。しかも片方はすでにこの世にいないはずの人物――しかし虚空は、それに驚嘆を魅せる事無く懐古の色を帯びた視線を向ける
「やはり、とうに起きていたか――いつからだ?」
この世界を統べる王の眼差しを受けたクラムハイドは、その言葉とほとんど驚愕を見せない様子から、その表情に剣呑な色を浮かべ、どこか憎々しげな口調で言い放つ
いくら妖界王といえど、死者が生きて目の前にいる事に微塵の動揺も見せないはずがない。何よりも腐っても王の名を冠する男が、自分が統べる世界がこのような事態になるまで呑気に眠っていると思うほどクラムハイドは虚空を低く評価していない
虚空は当の昔に覚醒しており、しかしそれでも今の今まで、自分で作った繭の中からこの戦いを諦観していたのだ
「光魔神がこの世界に来た辺りか……?」
憤りを孕み、咎めているようにも聞こえるクラムハイドの言葉に、虚空は悪びれた様子もなく記憶を遡らせながら答える
「それから、今まで寝たふりを決め込んでいた訳か」
実は光魔神――大貴達が来た時には既に目を醒ましていたという告白に、呆れたようにクラムハイドが言い放つと、当の本人である妖界王虚空は堂々と胸を張って言い放つ
「寝たふりとは心外だな。俺は知らない人間と話せない性質なんだよ……知ってるだろ?」
自信満々に胸を張り、誇らしげに言い放つ人見知りの王に、クラムハイドは緊張感を張り詰めたまま無防備に佇んでいる虚空へ視線を向ける
「相変わらず、ふざけた男だ。こんな奴が俺達の王だとはな」
「そんなに罵られると落ち込むぞ? 俺はシャイな性格なんでな」
クラムハイドの言葉を鼻で笑い、肩を竦めた虚空は一拍の間を置いて、冷たい殺意を込めた剣呑な視線と共に、その強大な妖力を解放する
「で? これは反逆って事でいいんだな?」
紛れもなく神に最も近い全霊命――最強の妖怪から放出された最後通告を兼ねた純然たる殺意を宿した妖力が玉座の間を埋め尽くし、クラムハイドと帝紗の魂をその圧倒的な存在の力で押し潰す
「……ッ!」
虚空から放出された妖力に、神能で作られた肉体が魂と存在ごと削り取られているような感覚を覚えたクラムハイドは、その端正な顔をわずかに青褪めさせて無意識に半歩後ずさり、戦慄と恐怖の入り混じった視線を送る
心身を削られていくような感覚に身を晒すクラムハイドは、自分と同様に恐怖に表情を強張らせている帝紗に視線を向け、唇を噛み締めて怖気づいている自身の魂を叱咤する
「反逆ではない……世界の革新だ」
妖力と共に襲いかかる力の圧力を意志の力で打ち払い、力強く言い放ったクラムハイドの言葉を受け、虚空は静かに目を伏せて、絶対零度の殺意を宿した視線を向ける
「そうか……残念だ。お前達には特に信頼を置いていたんだがな」
瞬間、虚空の手の中に生じた妖力が噴き上がり、最強の妖怪の力が戦う魂の形へと変化する
「『虚空輪廻』!」
虚空の妖力が具現化し、その戦う形をとった武器は、二つの螺旋が絡み合う柄に、両刃の幅広の大剣を備えた大槍刀。
身の丈にも及ぶ長さを備え、金色の装飾を施された漆黒の刀身を輝かせた大槍刀を携えた虚空は、その柄を床に叩きつけ、この世界にあだ名す存在への明確な排滅の意志を宿した王の視線でクラムハイドと帝紗を睨みつける
「お前達が何を思って世界に弓を引くのかは知らないが、俺は寝起きの俺は機嫌が悪いぞ」
自身の武器である大槍刀に自身の妖力を纏わせる虚空の言葉に、クラムハイドは自分と王との間にある圧倒的な力の差を振り払うように声を荒げる
「なら、永遠に眠らせてやる……帝紗!」
「はい」
クラムハイドと帝紗は互いの妖力を共鳴させ、斬閃と共にそれを一つに束ねた斬撃の波動となって迸る
紅と新緑、二つの力が一つになった極大の斬撃破は神速の速さで虚空に向かって奔り、世界をも滅ぼすその力を容赦なく叩きつける
「――っ!」
しかし、クラムハイドと帝紗が放った妖力破は、虚空を捉えたと同時に漆黒の結晶となった凍りつき、力を失って砕け散る
「おいおい、何を呆けているんだ?」
砕け散った結晶が、力の残滓となって世界に溶けていく中、身の丈にも及ぶ大槍刀を携えた虚空は、ゆっくりと歩を進め、かつての配下だった番いの妖怪に視線を向ける
「忘れたなんて言うなよ? 俺の妖力特性を」
静かな言葉とと共に振り抜かれた大槍刀から虚空の妖力が斬撃となって放たれ、一直線にクラムハイドと帝紗に向かって迸る
「――っ!」
その一撃を見た番いの妖怪は、左右に分かれて神速で移動し、共鳴を維持したまま両側から同時に虚空へと攻め入る
「オオオオッ!」
「はあああっ!」
真紅の薔薇花弁と新緑の息吹を纏って自分に向かってくる二人の妖怪を一瞥した虚空は、微動だにせずに自身に妖力をその場で解放する
「はあっ!」
最も神に近い妖怪から放たれた最強の妖力が室内を埋め尽くし、暗黒の洗礼がクラムハイドと帝紗を呑みこむ
「くっ……!」
魂を凍てつかせる波動を歯を食いしばってつき抜けたクラムハイドと帝紗は互いの渾身の力を込めてその斬撃を虚空に叩きつける
純然たる殺意を纏ったクラムハイドと帝紗の全身全霊の攻撃は、無防備に立ち尽くしている虚空に炸裂し、その力をその身体に打ち込む――はずだった
「……っ!」
「惜しかったな」
しかし、自分達の刃がその身体に届いた瞬間に漆黒の結晶に覆い尽くされていることに目を瞠ったクラムハイドと帝紗に、虚空の冷ややかな声が向けられる
「っ!」
それと同時、虚空が振るった大槍刀の刃が横薙ぎに円を描いて番いの妖怪に襲いかかり、二人はそれを紙一重で回避して最強の妖怪から距離を取る
しかし、虚空の攻撃はそれで終わらない。円を描くように宙空に生み出された斬撃の軌道から放出された漆黒の結晶槍が全方位に向かって神速で放たれ、クラムハイドと帝紗に容赦なく襲いかかる
「っ、受けるなよ、帝紗!」
「はい」
クラムハイドの声に応じ、二人は虚空が放った結晶槍の雨を武器で受ける事もせず、妖力の波動と体捌きだけで回避していく
「残念、武器で受けていればそれごと真っ二つになっていたものを」
二人が自分の妖力特性を知っていることを知っている虚空は、二人がこの一撃を受けない事を分かっている上で、あえて嘲るように目を細める
「――っ」
虚空が放った結晶槍の雨をかろうじてかいくぐり、距離を取ったクラムハイドと帝紗は、自身の武器が漆黒の結晶から解放されるのを一瞥して、悠然とたたずんでいる最強の妖怪に視線を向ける
「あの時間で間に合わないか……」
まるでこちらの出方を伺っているかのように、肩に担いだ大槍刀を軽く弄びながら追撃も攻撃もしてこないこの世界の王を一瞥し、クラムハイドは苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべる
(敵に回すと厄介なこと、この上ないな……この力――疑似堕格反応は!)
神から生まれた最初にして最強の妖怪、妖界王虚空の妖力特性は、自身の神能を結晶化することであると同時に、敵に堕格反応に近い現象を強制的に引き起こすこと
そして、そもそも堕格反応とは、神がユニットを生み出したように、神格を持つ霊の力によって世界に引き起こされる現象だ。
光魔神にとっての人間のように、神には自身の力に列なる眷属――「ユニット」を生み出す力がある。世界は、すべからくこのユニット能力によって形作られており、「全く同じ存在が同時に存在しない」という因果律を守るために、霊的な格を下げることでユニットを作り出す堕格反応と呼ばれる現象だ。
これによって神は、自らの力を堕格させ、全霊命と世界を作り出し、世界はその力を堕格させて自然や半霊命を生み出し、世界に満ちる霊の力が堕格することで物質が生まれる
つまり、虚空の妖力特性はこの性質に基づき、自身の力の及ぶ範囲にある力を強制的に堕格させる力を持っている。より厳密に言うならば、神能に通っている使用者の意志を劣化させることで意志によって形作られている神能の力を弱体化、及び無力化することができるということだ
全霊命はその全てが自身の神能によって形作られている。そこに通う意識が鈍らされるということは、その力が大きく弱まるという事を意味している
無論、存在そのものを完全に劣化させるのは容易な事ではないが、神能、武器、防御力を劣化させる事はさして難しい事ではない。
想いを錘に変え、その力を奪う神能殺しの能力。――それこそが、妖界を統べる最強の妖怪、虚空の妖力特性だ
「さあ、どうする?」
「化け物め……!」
大槍刀を担いで勝ち誇ったような笑みを浮かべる虚空を見て、クラムハイドが吐き捨てるように言い放った瞬間、破壊された扉から腹心たる女妖怪が姿を現す
「虚空様!」
長い髪を翻し、悪魔と妖怪の混濁者でありながら妖界王の腹心として、三巨頭、真祖達と共にこの城を預かる女性が姿を現したのを見て、虚空は静かにその目を細める
「……萼か。待っていろ、すぐに終わる」
室内に足を踏み入れた萼を一瞥した虚空は、すぐさまその視線をクラムハイドと帝紗に移して淡々とした口調で語りかける
「それはどうかな?」
冷静に互いの力を図った上での虚空の言葉。しかし、その言葉にクラムハイドは不敵な笑みを浮かべて言い放つ
「……!」
虚言とも強がりとも取れるクラムハイドの言葉だが、虚空も萼もその言葉を鼻で笑うような事はしない
なぜなら、虚空も萼もクラムハイドがそのような性格の人物ではない事を十分承知しているし、何よりもずっと一抹の懸念が二人の頭の隅にあったからだ
クラムハイドは真祖として虚空の力を間近で見ている。帝紗との妖力共鳴があるとしてもそれだけで自分達の勝率が高くなるとは思っていないはずだ
つまり、この場で玉砕する覚悟でもない限り、クラムハイドには虚空に戦いを挑んでも勝算がない。確実に虚空を倒す事を考えているならば、何か隠し玉を持っているであろう推測は容易に成り立つ――実のところ、虚空の言葉には、クラムハイドにその奥の手を出させるという目的も存在していた
まるで何か自分の中にわだかまっていたものを排出するように、静かに息を吐き出したクラムハイドは、自嘲じみた笑みを浮かべながら淡々と言葉を紡いでいく
「やはり、このまま戦っても、お前を殺せない。それどこから次の攻撃を凌ぎきれるかも分からない。――さすがは腐っても妖界王なだけはある」
剣呑に眉をひそめ、警戒心を高める虚空と萼の視線を受けるクラムハイドは、自らの予想していた通りになった事に、どこか切ない色をその瞳に映し、永い時を経て再会した最愛の人に視線を向ける
「帝紗」
「はい」
神妙な面持ちで発せられたクラムハイドの言葉に、その言わんとしていることを感じ取ったのか、帝紗は静かに目を伏せてそれを粛として受け入れる
無償の信頼を宿した視線を帝紗と交わしたクラムハイドは、愁いを帯びた穏やかな声音で愛する人に語りかける
「……しばしの別れだ」
「?」
そのやり取りに訝しげな視線を送っていた虚空と萼の視線の先で、クラムハイドは帝紗に向けて厳かな口調で言い放つ
「解き放て……!」