君を離さない
《――少し、一人にさせてくれないか?》
今も瞼を閉じれば思い出す。あの日の優しく、悲しみに満ちた愛しい人の瞳を。己の心に深く刻みつけられた懺悔を。
優しかった。――優しすぎたのだ、紫怨は。そして、弱すぎたのだ。自分は。
「茉莉!」
自分に向かってくる紫怨に視線を送りながら、唇を噛み締めて美しい音色を奏でる楽器のような特性を見せる槍を一閃させ、迎撃の魔力波を放つ
茉莉の目に映るのは、胸を締め付けるような痛みと悲しみ。そしてこんな弱い自分を懸命に求めてくれる紫怨の姿。それは、否応なく茉莉の心を揺さぶり、押さえつけていた恋慕の情に魂の根幹が揺さぶられ、愛おしさと切なさを募らせていく
紫怨と茉莉には決定的なまでの力の差がある。どれほど足掻いても紫怨は茉莉に及ばず、茉莉がその気になれば紫怨をこの世から消し去る事など造作もないことだ。
しかし、決してそうはならない。茉莉の心は紫怨を殺したくないと叫んでいる。心は紫怨を求めている。その腕の中に帰りたいと願っている。
神能は最高位の神格を持つ力だが、その力は意志によって初めてこの世界に顕現する。逆に言えばどれほどの力を持っていようと、意志が伴わなければその力を十全に発揮する事は叶わない
(本当に、私は弱い……)
心の底から戦意を持てない以上、茉莉は紫怨に本来の力を向ける事が出来ない。それは、紫怨の一撃で容易く相殺されるほどに弱く、人間界で相まみえた時から変わらない「心の差」だった
茉莉の心は揺れ続けている。本当の想いを押し殺し、理屈で押さえつけて紫怨と距離を置いても、それでもその心は愛する人ともう一度共に暮らす日を――ずっと変わらない想いを打ち消す事など出来ない
自分の強さが紫怨を傷つけ、自分の弱さが紫怨を追い詰めた。――たが、本当の自分の弱さは、あの日、紫怨に縋りつけなかった自分の心であると茉莉は十分理解している
「待って」の一言が言えなかった。「置いていかないで、一人にしないで」という願いを口にする事が出来なかった。自分の力が傷つけた優しい人を、自分の心でさらに傷つけてしまう事が怖くて、そんな些細な――小さな願いを言葉に出来なかった
「もう、追ってこないでって言ったはずですが」
その存在が武器として形を成した斧槍を掲げて向かってくる紫怨に言い放ち、茉莉は旋律を奏でる槍を以ってその一撃を撃ち払う
(少し、強くなってる……)
魔力を帯びた武器をぶつけ合い、そこから感じ取れる愛しい人の力を感じ取った茉莉は、昔のままの紫怨が昔よりも強くなっている事に愛おしげに目を細める
強くなりたいと――自分を守れなくとも、せめて共に戦える程度には強くなりたいと願って何度も手合わせした茉莉の身体と心は何も語らずともはっきりと覚えている。愛しい人の力の強さも、愛しい人の戦い方も。
記憶にある姿と寸分違わぬ戦闘法、記憶にあるそれよりを上回る速さと力。それを見れば、紫怨が自分に向けてくれた言葉を忠実に守ってくれていたことが容易に想像できる――無論、それを微塵も疑ってなどいないのだが。
「俺も言ったはずだ。お前が俺を嫌いになったなら、諦めてやるってな」
「――っ」
刃を合わせながら優しい声音で語りかけるように発せられた紫怨の言葉に、茉莉は唇を引き結んで、その瞳に動揺の色を浮かべる
自分の中にある想いを見抜かれ――否、以前よりもはるかに強い想いで求めている事を見抜かれて動揺を浮かべる茉莉は、魔力を解放して紫怨の斧槍を弾くと同時に距離を取る
紫怨への想いを募らせるばかりの茉莉にとって、紫怨に殺意を向けるなど出来る筈もない。しかし、本来の力を発揮できなくとも、茉莉の力は紫怨を圧倒する程度には高い
「私、は……」
自身の魔力の衝撃で吹き飛ばされる紫怨を見て、痛みに苛まれる心のまま駆け寄りそうになる衝動を抑えた茉莉は、懸命に愛しい人を遠ざける拒絶の言葉を紡ぐために、引き結んだ唇から沈痛な声を発する
己の心に反して、己の願いに背いて、紫怨を拒絶する言葉――「私はもう、あなたを愛していない」。その偽りの一言を必死に絞り出そうとする
「俺は、お前を愛してる」
「――っ!」
しかし、そんな茉莉の悲痛な決意も、紫怨から発せられる偽りのない言葉に一瞬でかき消され、すぐにでも愛しい人の許へ戻りたいという衝動がその心と体を突き抜ける
心と身体に刻み込まれ、今でもありありと思い出す事が出来る愛しい人の感覚が、共に暮らしていた幸せだった頃の記憶と共に甦り、茉莉は唇を引き結ぶ
死紅魔に敗れ、ゼノンに引き入れられるまで信じ、待ち続けていた愛しい人の言葉に、茉莉の心は嫌が応にも揺さぶられてしまう
(でも、だめ……私は――っ)
自身の中に湧き上がる衝動を押し殺した茉莉の脳裏によぎるのは、自分を十世界に引き込んだ人物。神から最初に生まれた最強の悪魔である「皇魔」の一人。
無理矢理入れられたとはいえ、茉莉は十世界――愛梨には好意を持っている。ただ、茉莉が恐れているのは、その大きな影の下で蠢く意志の方だ
(ここで……ここで、紫怨を退けないと……!)
自身の魔力を、美しい音色を奏でる斬撃と共に放って紫怨を迎撃した茉莉は、その脳裏にかつての己の過ちを思い浮かべる
自分の強さと弱さで傷ついた紫怨を引きとめられなかった事、そして自分の弱さから死紅魔に敗北し、紫怨との再会を諦めきれず命乞いをしてゼノンに求められるまま十世界に入った事。
それが結果的に紫怨をも十世界に入れることとなり、しかし同じ組織にいながら向き合う事を恐れ、距離を取り続けた結果が、今日の事態を作り出してしまっている
すべては、何も諦めきれず、何にも答えを出してこなかった自分が招いた結末。ならば、せめて紫怨を遠ざけねばならない――十世界の影で蠢くあの強大な闇から
(たとえ、私の命を賭けてでも……!)
茉莉の脳裏によぎるのは、先ほど思念通話でゼノンが語りかけてきた「それほどまで、男の事を忘れられないのなら、お前の手で殺せ」という言葉だった
その時は、それ以上言及される事は無かった。しかし、このまま紫怨が自分の前に立ちはだかり続け、ゼノンの目的の邪魔になり続けるのなら、十世界最強の悪魔が愛しい人の命を狙いかねない
利用されているだけの茉莉には、ゼノンの目的はおぼろげにしかわからない。しかし、ゼノンが目的の達成を至上の目標としていることだけは理解できる。その目的の進行に過剰な支障や危険がもたらされるのならば、その手が紫怨の命を脅かす可能性は極めて高くなる
もう、迷っている訳にはいかなない。もう、選ばない事は出来ない。――例え自分がどうなろうとも、紫怨を十世界から遠ざけねばならない
しかしどれほど自分に言い聞かせようと、神能はその心を顕著に現す。紫怨の為に全てを投げ打つ覚悟を以って放たれた茉莉の一撃は、しかしそこに残るほんのわずかな未練によって力を発揮できず、紫怨の斧槍によって相殺される
「お前のことだ。俺に、迷惑がかかると思ってるんだろ?」
一閃の下に魔力の斬撃を撃ち払った紫怨は、優しく悲しみに満ちた瞳で、まるでその心を見透かしているかのように語りかける
「――っ」
その言葉に一瞬唇を引き結んだ茉莉だが、すぐさま魔力を纏わせた刃を紫怨に向けて、神速で宙を翔ける
(まったく、昔から嘘が下手な奴だよ、お前は……)
悲痛な表情を浮かべる茉莉を見た紫怨は、自分が傷つけてきた愛しい女性に寂しげな笑みを向けると、ゆりかごの世界――地球で神魔に言われた言葉を思い返す
《君に足りないのは、自分の弱さを相手に背負わせる『弱さ』だよ》
茉莉の足手まといにはなりたくなかった。それは男の小さな――下らないプライドだったのかもしれない。だがそれでも、紫怨は強くありたかった。
愛する人を守れるように、愛する人を抱きしめられるように、頼られるように、背中を預けてもらえるように――勝ち負けではなく、ただ強くありたかった
だが、それは結局、自分が本当に守りたかった茉莉を傷つける結果にしかならなかった。再会を約束して別れたあの日、紫怨は茉莉の気持に気づいていた
楚々とした佇まいをみせているが、本当はとても甘えたがりで、二人きりの時にはしきりに身体を寄せ、愛おしそうに微笑んでいた姿は今でもありありと思い出せる
それを知っていながら、紫怨はそれを黙殺した。自分の弱さが茉莉を殺す事を恐れ、待っていてくれる事を信じられるが故に、その強さに甘えて愛する人に背を向けてしまった
(俺は……強くあろうとし過ぎたんだ)
愚かだった自分を嘲けるように笑みを浮かべた紫怨は、贖罪と謝罪の色を帯びた瞳を茉莉に向けて、優しく語りかける
「もういいんだ、茉莉」
その言葉と同時に、茉莉が魔力を纏わせた歌う槍を振り下ろすのを見た紫怨は、その斬撃が命中するタイミングを見計らってその手から斧槍を消失させる
「――っ!?」
紫怨の行動に目を瞠った茉莉が気づいた瞬間には既に手遅れ。攻撃を受けるようにタイミングを計った紫怨の身体を茉莉の刃が斬り裂く
袈裟掛けに振り下ろされた刃を肩口で受けた紫怨には、胸の辺りまで刃が深々と切り裂いており、茉莉が力を抜いていなければ、その身体を真っ二つに分断していたであろう事は想像に難くない
「な、なんで……っ!?」
自分の手に直に伝わってくる愛しい人の身体を貫いた感覚に、茉莉は動揺と困惑に目を瞠り、血炎を上げてその刃を引き抜こうとする
しかしそれを拒むかのように、紫怨の手が茉莉の槍の柄を掴み、そのままさらに自分の身体へと刃をめり込ませるように引き寄せる
「やめて……紫怨、お願いだから!」
自分で自分を斬り裂いている刃をさらに深く食い込ませる紫怨に、茉莉は声を上げて槍を引き抜こうとする
(このままじゃ、私が紫怨を……)
「殺してしまう」。そう考えた時、茉莉は魂の髄から凍てつくような恐怖を覚え、顕現させていた槍を魔力へと還し、その存在を破棄することでそれ以上紫怨に深く刃が食い込むのを避ける
血液が身体を巡る半霊命ならば、突き刺さった刃を下手に抜くのは危険な場合があるが、その存在が神能そのものである全霊命に限れば、それは適応されない。
常に最盛の状態を保つ力を持つ神能は、刃を抜いた瞬間から傷口の復元が始まる。通常は攻撃に込められた破壊や殺滅の意志に回復が妨げられるが、紫怨に対して心の底から殺意を抱けない茉莉がつけた傷ならば、通常の傷よりもはるかに再生が早いはずだ
「――っ」
自分の刃が愛しい紫怨の命を奪ってしまう。――瞬間、脳裏によぎったその姿に戦慄していた茉莉は、自身の武器の顕現を解除し、魔力へと還元して距離を取る
動揺のあまり、一瞬武器を自在に具現化できる事さえ失念していた茉莉は、紫怨から距離を取ると、自分がつけた傷から吹き上がる血炎を見て、その顔を青褪めさせる
「ご、ごめんなさ……私、そんなつもり、じゃ……」
身体を震わせ、動揺に瞳を揺らす茉莉は、もはや武器を顕現させる事も出来ず、完全に戦意を喪失してしまっていた
それは、剥き出しにされた茉莉の本当の心。様々な理由をつけて押し込められていた、傷つけたくないという紫怨への想い。図らずも自分の刃が紫怨を傷つけ、その命を奪ってしまいかねない状況を作り出してしまった事で、茉莉は愛する人を失う恐怖に身を震わせていた
「違う、だろ……?」
傷口に手を当てて、苦悶の表情を見せながら紫怨は、愛する人を傷つけてしまった事で混乱する茉莉に優しく声を向ける
「俺を傷つけたのは俺だ、お前を傷つけたのも俺だろ?」
「ち、違……っ」
(紫怨を傷つけたのは私、私が紫怨を傷つけて……)
紫怨の言葉に、茉莉は小さく首を横に振りながら、胸の前で組んだ腕に力を込め、血炎を上げながらゆっくりと宙を歩み寄ってくる愛する人を見据える
「俺の弱さがお前を殺す事を恐れて、俺は逃げたんだ。お前の優しさに頼って、お前の強さを一方的に信じて、気づいていたのに、お前の願いに耳を傾けられなかった」
自分をかばって茉莉が瀕死の重傷を負った時、紫怨の心を満たしたのは、自分の弱さが愛する人を殺してしまう恐怖だった。いつか、では駄目なのだと。今回は運よく生き延びることができた。しかし、次があるとは言いきれない。
いつか強くなれるでは駄目なのだ。次の瞬間には自分の弱さが、自分の最も守りたい大切なものを殺してしまうかもしれない
「お前を、失う事が怖くて、お前を守れない自分が許せなくて、俺は逃げたんだ」
身体から血炎を上げながら、ゆっくりと歩いてくる紫怨の言葉に、茉莉は唇を引き結び、声にならない声と共に首を横に振り続ける
違うと言いたかった。紫怨が悪いのではなく、自分が悪かったのだと。しかし、茉莉の言葉を塞いでいたのは、その胸に湧き上がる恐怖だった
自分の刃が愛する人の命を奪うかもしれない――そう考えた時の恐怖は、自分の命を失う事よりもはっきりとした恐怖を茉莉に与え、同時にこれが紫怨が抱いていた恐れだったのだと理解してしまった
目の前にいる愛する人が突然いなくなる――それも、自分の所為で。その恐怖はいかばかりのものか、生きながらも虚ろな屍に成り果ててしまうかのような喪失感を伴った恐怖を身を以って知った茉莉は、言葉を紡ぎ出す事が出来なかった
「だから、お前は悪くないんだ、そんな風に思い詰めなくていい」
自分など足元にも及ばない程強いはずなのに、こんなにも小さく、弱々しく、愛おしく見える茉莉に視線を向けながら、紫怨は己を苛む痛みを抱く優しい瞳を向けて微笑みかける
「お前は俺に怒っていいんだ、全部俺の所為だって俺を責めればいい」
「……っ!」
紫怨は茉莉が自分の心を汲み取ってくれる事も分かっていたし、待っていてくれる事も疑っていなかった。茉莉を心の底から信じていたからこそ、その強さと優しさに甘えてしまった
茉莉が自分の所為で、己を責め、傷つけることが分かっていても、それでも茉莉を失うよりずっといいと思っていたのだ
「紫怨が、悪いんじゃない、私が、私がいけなかったの」
堪えていた想いが溢れ出すように、茉莉の口から震えるようなか弱い声が紡がれ、涙があふれそうなほど潤んだ瞳が紫怨を見つめる
「なら、二人とも悪かったんだろ」
「……!」
耳に届いた紫怨の優しい言葉に、茉莉は目を瞠って血炎を上げながらゆっくりと歩み寄ってくる愛しい人の姿を視界に収める
「俺はお前を信じすぎた。お前は優しすぎたんだ」
まるで炎に焼かれているかのように血炎を上げ、ゆっくりと茉莉に歩み寄っていく紫怨は、その瞳に懺悔の色を映しながらも、確固たる未来を思い描いて語りかける
「俺達はもっと弱くなきゃいけなかった、互いを思いやり過ぎてたんだ」
紫怨は茉莉を信じ、そして失う事を恐れたがために距離を置き、茉莉は自身の強さと弱さが紫怨を傷つけた事を理解していたからこそ、引き止める事が出来なかった
どちらが悪かったという訳ではない。二人が積み上げてきた信頼が、作り上げた絆が、本当の心を奥底へと押し込めてしまっていた。なまじ相手の気持ちを中途半端に理解し、思いやることができてしまったために生じた二人の意志は、相手を許している限りすれ違い続けてしまう
「ここからやり直そう。俺とお前の二人の生活を」
「紫、怨……」
紫怨の言葉に、茉莉は小さく目を瞠る
優しく声を向け、手を差し伸べてくれる紫怨の姿と言葉に、茉莉の脳裏に二人の生活が――望んでやまなかった日々が思い出される
最初の自分の願いはこれだけだったはずだ。紫怨を待ち、そして受け入れ、共に生きていく事――強くなくてもいい。弱くても構わない。ただ、二人で一緒にいたかった
「もう、間違えない。二度とお前を離さないって約束する。俺は、俺の弱さでお前に、たった一つだけしか願わない……!」
茉莉を真っ直ぐに見つめた紫怨は、一度目を伏せてから再び心から愛する人に向けて、嘘偽りのない自分の心を言葉に変えて言い放つ
「これから一生、一緒にいてほしい」
「――っ!」
自分を真っ直ぐに見つめて発せられた言葉に、茉莉は胸を射抜かれるような愛おしい感覚と共に頬を朱に染める
(その、言葉……)
そして紫怨の言葉を受けた茉莉の胸に愛おしさと共に去来するのは、遥か遠い昔の、懐かしく大切な思い出
《これからは、ずっと一緒だな》
紫怨と初めて心を通わせ、そして共にある日を誓った懐かしい言葉。照れ隠しに視線を外しながら言った紫怨の姿を思い出して、茉莉は静かに目を伏せる
(いつ、から……)
茉莉の記憶の中にある紫怨は、優しいが、恥ずかしがり屋で格好つけだった。男は誰でもそんなものなのかもしれないが、気の利いた言葉も、愛の言葉も滅多に囁いてはくれなかった
それでも大切にしてくれている事は伝わってきたし、愛し合っている時はもちろん、普段交わす他愛ない言葉も茉莉の胸を幸せにしてくれた。
(いつから私達はすれ違ってしまったの? 私と紫怨は、こんなにも想い合っているのに……)
紫怨と過ごす一瞬一瞬が宝石のように光り輝いていて、それが失われた時の喪失感は今思い出しても胸を締め付けるほど切ない
(ううん、私は知っている、私達がすれ違ったのは……)
「茉莉!」
促すように向けられる愛しい人の声が耳の奥に残響し、心の奥底まで染みわたっていくのを感じながら、茉莉はその愛おしさを胸に刻みつけて微笑を浮かべる
(ありがとう、紫怨)
こんなにも想い合っているのに、すれ違うのは自分達が誰よりも互いを想い合っているからだと茉莉は理解していた
紫怨は茉莉を、茉莉は紫怨を誰よりも、何よりも大切に思い、多くを語らなくとも分かり合えるほど無償の信頼を得た二人は、それであるが故に相手の気持ちを尊重し過ぎてしまった
愛する人を自分の所為で死なせてしまう事を恐れ、距離をとった紫怨、その気持ちを理解し、待つ事を選んだ茉莉。二人は分かり合っているが故に距離を取り、離れたくないという本心を押し殺してしまった――そして今も、互いを大切に思い合うが故に茉莉は紫怨を遠ざけ、紫怨は茉莉を引き止めようとしている
(私も――私はあなたを世界で一番愛してる)
心の中で愛の言葉を囁き、そして――その手に自身の戦う意志である槍を顕現させる
(さようなら)
心の中で別れの言葉を囁き、茉莉は自分が臨戦態勢をとったことで小さく目を瞠っている紫怨に視線を向けると、その存在の根底か生み出される魔力を自身の武器である槍に纏わせていく
「もう、手遅れなの。――私は、あなたの許へは帰れない」
もし自分がただの十世界所属者だったならば、一も二もなく全てを振り払い、紫怨の腕の中に飛び込んだだろう。しかし自分の後ろにいるのは、十世界の、奏姫の影に隠れる強大な影。
自分でさえ、その氷山の一角しか知らない勢力。もしかしたら十世界どころか、九世界にさえその力が及ぶのではないかと思われる彼等は、愛梨とは違う。自分が裏切ったと知れば、何としてでも自分達を抹殺しにかかってくるだろう
そうなれば自分の力では紫怨を守れない。死紅魔一人に敗北した自分が、それ以上の力を持つ者がいる彼らの手から愛する人を守り切る事など出来る筈がない
皮肉な事に、紫怨と全く同じ理由で紫怨を自分から遠ざける事になった茉莉は、自身の魔力を込めた槍を一閃させて漆黒の斬撃を放つ
自身に向けて放たれた茉莉の刃を見た紫怨は、茉莉の攻撃の意図と目的を正しく理解し、その目を細めて優しく口元を綻ばせる
「……本当に強情なやつだ」
静かな声でそう呟いた紫怨は、手にしていた斧槍を手放して形を喪失させ、茉莉が放った一撃を避ける事も防ぐ事もせずに受ける
「っ!」
回避も反撃もせず、紫怨が自分の放った魔力の一撃を受けるのを見て、茉莉は目を瞠り、息を詰まらせる
茉莉は失念していた。普段なら紫怨がこういう行動に出るであろう事を推測する事が難しくなかったであろうにも関わらず、ただ愛する人を遠ざけ、自分が犠牲になる事を選んだためにそれを見誤ってしまった
「――っ!」
思わず声を上げそうになるのを堪え、茉莉は自身の槍に魔力を込めてその刃を崩れ落ちそうになる身体を空中で踏ん張って支えた紫怨に向ける
「どうした? 殺せてないぞ」
身体から血炎を上げながら、しかし微塵も怯んだ様子を見せずに紫怨は静かに抑制された声で言い放つと、ゆっくりと空中で歩を進める
「お前には俺を殺せない。俺はお前と戦わない――もう、分かってるだろう?」
「――っ」
苦痛をこらえながら、確信に満ちた視線を言葉を向けてくる紫怨を見て、半身を引いた茉莉だが、すぐに唇を引き結ぶと己の槍から魔力の弾丸を連続で放出する
その全ての攻撃は、戦意どころか迎撃の意志すらない紫怨に容赦なく命中し、その身体を空中で血炎と共に踊らせる
殺意なく放たれる茉莉の魔力には、本来の力など微塵もない、だが同様に防ぐ意志さえない紫怨にはその一撃が確実に傷をつけていく
心のままに世界を改変する神能が何よりも雄弁に二人の心を物語り、二人の心が寄りそり合っている事を証明している。しかし二人はそれでも己の心に背いて、愛する人のために対峙する
「お前が恐れているものがあるなら、一緒に逃げよう。俺じゃお前を守ってやるなんて言えない。――だから、一緒に逃げて、一緒に身を寄せ合って怯えて、その時が来たら一緒に死のう」
茉莉の魔力の斬撃をその身に受けながらも歩みを止めない紫怨は、苦悶の表情を浮かべながらも、それを懸命に抑え込んで懸命に語りかける
この痛みは自分が茉莉に与えているものに比べれば何という事もない。茉莉が自分の行動の所為でどれほど自分の強さと弱さを責めたか、紫怨には理解できる
茉莉と離れる時にそれに気づかなかった訳ではない。しかし、紫怨はそれに目を背けた。それは、茉莉を失いたくなかったから――なにより、自分の弱さが愛する人を殺してしまう事を何よりも恐れたからだ
「俺には、お前を守れない。どんなに願っても、俺にはその力がないんだ」
まるで心が引き裂かれるような悲痛な声で慟哭を噛み殺した紫怨は、茉莉に視線を向けながら歩を進めていく
茉莉が自分より強い事は分かっている。だが、守られてばかりでいるというのも男として、何より紫怨の矜持が許さなかった
懸命に努力して、無慈悲なまでに立ちはだかる才能の壁に挑み続け、それでも尚遠い人の背を追い続けた。せめて隣に並べるくらいに強くありたい、ほんのわずかでも支えになれる力が欲しかった
「やめて……!」
自分の放つ魔力の斬撃を余す事無く受け、まるで炎に包まれているかのように、血炎に身を呑み込まれた紫怨を見て、茉莉は怯えた表情と声で懸命に声を絞り出す
槍を持つ手が震え、その切っ先が定まらず、視線だけが自分の所為で傷ついている紫怨から離れる事無く張り付いている。それは、まるで自分が傷つけてきた紫怨そのものであるかのようだった
「だから、諦めることにしたんだ。――俺はお前を守る事も、戦場で肩を並べる事も、一緒にいる事以外の全部を」
悲しみと愛情に染まった瞳で茉莉を見つめる紫怨は、優しく語りかけるように言葉を紡ぎ、自身を苛んでいる愛しい人に手を伸ばす
「みっともない男ですまないな、けど俺は……もうお前と離れたくない」
強くなれなくてもいい、守れなくてもいいなど、自分でも情けない事だとは思う。――無論本当の意味で諦めた訳ではない。これからも強くなるための努力を続けていく事をやめるつもりはない
ただ、自分が幸福に固執する事を諦めたのだ。自分が強くなくてもいい、自分の所為で茉莉を傷つけてしまってもいい――ほんの少しだけ弱く、ただ一つ共にある事だけを願って
「帰ろう、茉莉。俺と一緒に、あの日の俺達に」
「――っ」
茉莉の放つ魔力弾をその身に全て受けとめながら、紫怨が優しく微笑んで手を差し伸べると、攻撃を与えているはずなのに、誰よりも沈痛な表情を浮かべていたその想い人である女悪魔は自身の感情を抑えきれずに声を上げる
「お願いだから、逃げて! お願いだから、戦って!」
懇願するように震える声を絞り出し、愛する人を傷つける痛みに身を震わせる茉莉は、その言葉と共に今までその身体を突き動かしていた何かが抜け落ちてしまったかのように、刃の切っ先を下ろして口ごもる
「私に……私に……」
自分が傷つけていく紫怨の姿が脳裏をよぎり、これ以上攻撃を加えてしまえば紫怨の命が危ない事を知覚している茉莉は、唇を引き結んで悲愴な表情で目を伏せる
(これ以上、あなたを傷つけさせないで……)
「違う」
自身の心に反して愛する人を傷つける重荷に耐えられなくなり、戦意を喪失した茉莉が心の中で吐露した弱々しい声が聞こえていたかのように、紫怨は力強く言い放つ
「――っ!」
心の曇りをかき消すようなその言葉に小さく目を見張った茉莉の眼前に辿りついていた紫怨は、全身から血炎を立ち昇らせたまま、愛する人の身体を自分の腕の中へと抱き寄せる
「っ、し、お……」
「ようやく、届いた」
愛する人の胸の抱きしめられた茉莉が目を瞠り、愛する人を腕の中に抱き寄せた紫怨が、感慨に満ちた声で唇を引き結ぶ
かつて何度も交わした抱擁は、二人の心と体を溶かし、懐かしさと共に心の中に秘めていた愛しさまでもを共有していく。互いの身体に刻まれた愛する人の感覚と、身を寄せ合っている安心感が紫怨と茉莉を結び合わせていく
「もう、俺はお前を離さない。……だから、だからもうどこにも行かないでくれ」
「……っ」
紫怨の腕に抱きしめられた茉莉は、自身の耳元で囁かれる愛しい人の愛おしい言葉に、紅潮した頬を隠すようにその肩に顔をうずめる
金糸の髪がその顔を隠した茉莉は、その手に槍を携えたまま、紫怨を振りほどく事も、応えることも出来ずにその手の在り処を彷徨わせる
「俺達に必要だったのは、互いを傷つける覚悟だ」
自分の腕の中に抱きしめた茉莉からの抵抗はない。しかしかといって了承したという旨の反応も見られない――紫怨は、茉莉は自分の居場所をそうするべきなのか迷っているのを即座に理解し、二度と大切な人を離さないために言葉を紡いでいく
「俺はお前と一緒にいたい。でも俺は弱いからそのせいでお前を傷つける事もあると思う。だからお前も俺を傷つけてくれ」
自分達は強くあり過ぎた――相手を想い、相手を願い、自分を律し、戒め続けてきた。だからこそ、同じ想いを抱いているはずの二人はここまですれ違ってしまった
己の過ちを思い返し、同じ過ちに傷ついた愛しい人を抱きしめた紫怨は、ほんの少しだけその身体を抱きしめる力を強くして優しく囁きかける
「ほんの少しだけでいい。……一緒に、ほんの少しだけ弱くなろう」
紫怨の言葉に、茉莉は槍を持つ手を震わせ、愛しい人に身を任せる懐かしい感覚に身を委ねながら、それでもまだほんの少しだけその心を迷わせる
「私は……」
紫怨と離れたくはない。その想いも十分過ぎるほどに伝わった。自身の全てが共に行く事を求めていながら、それでも尚茉莉の決心を鈍らせるのは、自分の行動によって危険に晒される紫怨の命。
この世で最も愛しい人を傷つける覚悟と失う恐怖を天秤にかけながら、茉莉は答えの出ない選択に揺れていた
「俺は、もし今お前が俺と来てくれないなら、お前を取り戻すために十世界に戦いを挑む」
「――っ」
そんな茉莉の迷いを全て見通し、紫怨は静かな中に揺るぎない決意を込めた声で静かに語りかける
その言葉が虚言でもなければ、妄言でもない事を紫怨と付き合いの長い茉莉には容易に察することができた。そして、紫怨が十世界に戦いを挑めばどうなるかという事も想像に難くない
「そうだ、そんな事をしたら俺は確実に死ぬ」
その言葉の意図と意味を理解している茉莉をさらに絶望に叩き落とすように、紫怨は抑制された硬質の声音で、静かに断言してみせる
いかに十世界の盟主である愛梨が甘い性格をしていても、自分達を滅ぼそうとする者がいれば当然迎撃くらいはする。そして、愛梨の理念よりも愛梨個人を慕う者が大半を占める十世界がそのために何をするのかも容易に想像がつく
紫怨ではあの巨大組織に手も足も出ず、成す術もなくその命を奪われるだろう。そしてそれをさせないためには自分が紫怨と共に十世界から逃げるしかない
「卑怯、だよ……」
紫怨の言葉の真意を理解し、何よりも紫怨を失いたくないと願う茉莉にとって、その言葉は退路と選択肢を奪うものでしかなかった
「悪い……」
絞り出すように向けられた茉莉の言葉に小さく謝罪の言葉を述べた紫怨は、そのまま腕の中にいる愛しい人を抱きしめる力を少しだけ強くする
「でも、俺はもう、お前と離れたくないんだ」
自分の命を人質にして、茉莉を繋ぎとめる紫怨の言葉が静かに響く
一見、その志の真摯さに比べて卑怯な手段にも見える紫怨の行動だが、それは紫怨自身の決意に基づく信念であり、同時に本心ではどうしたいのか分かっていた茉莉の背を押すものでもあった
「――ずるいよ、紫怨……今、そんな事を言われたら、私は……私はもう……」
その手から滑り落ちた槍が宙空でその形を失い、魔力へと還元されて消滅するのとほぼ同時、抑え込んでいた心のままに茉莉は紫怨の身体に手を回す
「あなたから、離れられない」
共にいれば命を奪われるかも知れない、共に行かなければ紫怨が命を棄ててしまう――どちらをとっても愛する人が死ぬのならば、茉莉は共に死ぬ事を選ぶに決まっている
自分の命を盾にして茉莉の退路を塞いだ紫怨は、自分の腕の中で微かに震えるか弱い身体を優しく抱きしめ、その愛おしい温もりがようやく自分の許へ帰ってきた事に胸を撫で下ろす
「……遅くなってすまなかった」
紫怨の言葉にその腕の中に身をうずめる茉莉は、無言のまま小さく首を横に振って、自分の居るべき場所へ帰ってきた事を確かめるように、愛しい温もりに身を任せる
この世で唯一の愛する人に求められ、瞳から生まれる滴は、血液と同じように身体から出た瞬間、魔力へと回帰して消滅し、光を反射して輝く光星がその目元に瞬く
「本当に、俺は何をやってたんだろうな」
抱擁を交わし、自分の腕の中で震える茉莉の金糸の髪に覆われた頭を愛おしげに撫でた紫怨は、軽く空を仰いで自嘲交じりに目を伏せる
「これだけでよかったんだ。たったこれだけのことでよかったのに……」
自分の腕に返ってきた大切な人を感じながら、感謝と謝罪と感慨と自責――胸中に去来する様々な感情を噛みしめるシオンの言葉に、ゆっくりと顔を上げた茉莉が微笑みながら視線を重ねる
「結局、私達は似た者同士なのね」
困難を前にそれを乗り越えよう、打ち砕こうとする気概はとても尊い。しかし、この世の誰もが最強ではない以上、どこかで超えられない壁にぶつかってしまう。
諦めない事は確かに尊い。しかし、時には諦めることに意義がある事もある。困難や壁に背を向け、逃げ出すことにも価値がある時がある
例えるならば、自分と家族が幸せになるために、世界平和を成し遂げようとすることに等しい。一人では、二人でもどうにもならない事がある。この世には確かに力及ばない世界があるのだ
「……あぁ」
そんな簡単な事に気づくまでに時間がかかり過ぎ、それを中々許容できなかった事に視線を交わして互いに微笑み合った紫怨と茉莉は、背を向けて立ち向かう決意をして、もう一度強く抱擁を交わす
「これからはずっと一緒だ」
「はい」
「一緒に逃げよう、世界の果てまででも」
「はい」
「俺にはお前を守れない」
「はい、そして私にもあなたを守れない」
「ああ」
互いに言葉を交わし、視線を重ね、心を通わせていく二人は、そして真っ直ぐに見つめ合い、憑きものが落ちたような清々しい表情で微笑み合う
「それでも、これからを共に生きよう」
しかし、悠久の時を超えた紫怨と祭りの告白と和解は、まるで夢が覚めるように二人の望まない形で終わりを告げる事になる
「――っ!」
自身の背後に出現した強大な魔力に目を瞠った茉莉が紫怨を突き離した瞬間、漆黒の斬閃が奔り、紫怨と茉莉を一刀の下に斬り捨てる
「っ、シ、死紅魔様……っ」
自分を斬った男――十世界に所属する悪魔のナンバー2の姿を見止めた茉莉は、口腔から血炎と共にその名をこぼす
その声を受けた死紅魔は、血炎に包まれて紫怨と共に落下していく茉莉を睥睨し、淡々とした冷酷な声を向ける
「遅かれ早かれこうなるとは思っていた」
二人を斬り捨てた刃を一閃して視線を逸らした死紅魔の声を聞きながら、茉莉は自分と同様に地に向かって落下していく愛する人に視線を向ける
「……し、おん……」
まるで炎の断末魔のように、血炎に包まれて紫怨と共に落ちていく茉莉は、これまでの傷でまともに動く事も出来ない愛する人に手を伸ばす
紫怨が今日まで何度も差し伸べてくれた手を、今度は自分から伸ばしてその体を掴んだ茉莉は、愛する人の体を優しく、愛おしさに満ちた様子で抱き寄せる
「ずっと、一緒だよ……」
二つの血炎が一つに重なり、地に向かって落下していくのを冷ややかな視線で見送った死紅魔は、その視線を玉章一家と戦うアーウィン、シルヴィアと戦うジュダにそれぞれ送り、抑揚のない声で静かに言い放つ
「さぁ、幕引きにしようか」