世界を敵に回しても
堕天使は、九世界でも極めて異質な存在だ。恐らくこの世で唯一、神からその力を与えられた「生きた神器」――堕天使王・ロギアの手によって純白の翼から漆黒の翼へと堕ちた存在。
その力の本質は、闇に穢れた光。光でありながら闇を孕み、しかしその本質は限りなく光のそれに近い。闇の神能が持つ光の神能に対する劣勢を持たず、光の力よりも闇に近い強大な力を持ったその存在は、光と闇のそれぞれの欠点を克服した存在であるともいえる
しかし、それであるが故に堕天使の立場は難しいものがある。存在の本質は天使のそれに近いが、かといって天使ではなく、闇の存在であるわけでもない。――光でも闇でもありながら、そのどちらでもないその力と存在は、ある意味、混濁者よりも異質で歪なものだった。
故に、堕天使は光とも闇とも袂を分かち、無数にある世界の一つを堕天使界として統治する十番目の全霊命としてこの世界に存在している。
だが、堕天使の本質は天使と同等のもの。それ故に、堕天使と天使は特に通じやすく、友情や愛情を育みやすいという側面も持っていた
(……よくある話だ)
自身の身体から噴き上がる血炎の向こうにアーウィンと自分に向かって放たれた刃の切っ先を見ながら、ザフィールはその瞳の中にかつての記憶を映しだす
それは、かつて十聖天の長を務めた最強の天使「ロギア」が堕天使王となり、天使が堕天使になる瞬間から続いてきた負の連鎖――
かつて、ザフィールは白い翼を持った天使だった。そしてザフィールには美しく強い姉がおり、その姉が恋に落ちた相手が、天使と堕天使の間に生まれた生来の堕天使であるアーウィンの兄だったのだ。
天使と堕天使の間には誕生率が異常に低い混濁者とは違い、天使同士とほぼ同じ確率で子供が生まれる。そして堕天使の両親の下に生まれた子供は堕天使になり、天使と堕天使の間に生まれた子供は、半分の確率でどちらかになるという法則があった。
その法則の下、天使と堕天使の両親の間に、兄は生来の堕天使として、弟であるアーウィンは天使として生を受けた
だが、かつて同じ天使だったとはいえ――否、そうだったからこそ、天使は堕天使という存在に対し、強い敵意を持っている。それは世界の理を理由に淘汰される他の混濁者に対する者よりも感情的である分、根深いものがある
天使は九世界を統べる全霊命の中で、おそらく最も感情が強い。他者を思いやり、他者を慈しみ、恨み、怒り、殺す――例えるならば純白であるが故に相手の思いに同調し、無垢であるが故に容易く染まる
そしてそんな感情が、天使達に堕天使を忌み嫌わせる。天使は天使と堕天使の混濁者を忌み嫌い、たとえ天使として生きようとしても、それに対する感情の溝は横たわり続ける
そして、アーウィンは天使と堕天使の間に生まれたが故に天使であろうと、決して天使の仲間としては認められない疎外感を禁じ得ず、その兄は堕天使であったが故に天使と愛し合った罪によって滅ぼされる事となった
――本当によくある話だ。おそらく、天使から堕天使に堕ちた者の理由の大半はこれによるものだと言ってもいい。
天使が堕天使を忌み嫌い、天使と堕天使の混濁者を殺す――伴侶を、大切な人を、子供を失った天使は天界を離れ、ロギアの許で黒い翼を得る。大切なものを奪われた堕天使は天使に敵対し、より互いの憎悪を深め、そして繰り返す――完全に悪循環している
(滑稽な話だ。自分たちで堕天使を生み出すのだからな……)
延々と繰り返されてきた天使と堕天使の負の連鎖は、もはや止める術の見出せない負のシステムを作り出してしまっている。天使と堕天使の間にある敵意と理を原動力に、堕天の歯車は永遠に廻り続け、堕天使を生み出し続けるだろう
アーウィンが十世界に入ったのは、そんな天使と堕天使を含めたあらゆる混濁者の居場所を作り、自分の兄達のようなものを生み出さないためであろうし、ザフィールが堕天使したのも、そんな堕天の歯車に巻き込まれたからだ
(無駄な事だと分からないか? 世界を統一しようと、心が統一される事はない――憎しみを押し込めても、行く先を失った感情は、澱み、腐り、そして自分たちに牙をむく事になる)
アーウィンの選択は間違っている。十世界の理念は夢物語だ。――自分に向かってくる刃の切っ先を見つめながら、ザフィールは己の終焉を覚悟して静かに目を閉じる
堕天使に堕ちたザフィールは、ロギアから本来、世界の理の中で混濁者は生まれてはならないものだと知った。
世界を歪めている神の力を見つけだし、正しく取りなせば、やがて異なる種族の間に愛情が生まれ、子供が生まれる事は無くなるだろう。――そして、それを知った時、ザフィールはこれこそが己の成すべきことだと悟った
姉のように、誤った愛で命を落とすものが生まれないよう、世界の歪みを正し、そして世界を救う――混濁者という在ってはならない存在を肯定する行為は過ちだ。
それで救われるものなどなにもない。なぜなら過ちを肯定する事などあってはならないことなのだから
(――申し訳ありません、ロギア様……)
己の死を悟り、静かに目を伏せたザフィールは志半ばで逝く事を無念に思いながら、ロギアから与えられた役目を果たす事が出来なかった自責の念を抱いて、二人に謝罪の言葉を向ける
(姉上……)
しかし次の瞬間、ザフィールの眼前に妖力の穂槍が奔り、眼前に迫っていた剣とアーウィンがそれに呑み込まれる
「――っ」
だが、それはザフィールの錯覚だった。剣が弾かれたのは事実だが、アーウィンは妖力の一撃を回避して天空へと飛翔していた
「どういう……つもりだ?」
態勢を立て直したザフィールは、身体から立ち昇る血炎を抑え込むように傷口に手を当てながら、自分に向かってきた攻撃をはじいた穂槍の持ち主――玉章へと視線を向ける
その言葉を受けた絶世の美貌を携える妖怪の女は、満身創痍のザフィールを一瞥すると、その視線をアーウィンに戻して静かな声で応じる
「勘違いしないでくれるかしら。こちらはただ彼の隙をついただけよ」
玉章達にしてみれば、ザフィールに止めを刺そうとしたアーウィンに隙ができただけの事。攻撃を阻んだのも、助けたような形になった事もその結果に過ぎない
「……そうか」
ザフィールに玉章の言葉の真偽をはかる事は出来ないが、その理由には道理があり、仮に妖怪達が自分を助けたのだとしても、それは相手が勝手にやったことであり当人は預かり知らぬ事だ
命拾いをしたザフィールの視線の先では、玉章の伴侶と子供たちがアーウィンを追撃し、激しい攻防が繰り広げられている
「よく分からないのだけれど、あまり気に病むような事ではないわ」
「……!」
その戦いに視線と知覚を向け、身体に刻みつけられた浅くない傷の痛みに一瞬顔をしかめたザフィールの耳に玉章の穏やかで慈愛に満ちた声が届く
その言葉に視線を向けると、玉章は家族の戦いから片時も視線を外さずに見守りながらも、その意識の一端をザフィールに向けて言葉を発する
「失くしたものは、もう戻らないのだから」
抑制された淑やかな声で言葉を紡いだ玉章に視線を向けたザフィールは、戦場の風に煽られて微かに揺れう艶やかな漆黒の髪からのぞく絶世の美貌を見て眉をひそめる
背後から見える玉章の絶世の美貌には、小さな憂いと共に自嘲するような色が微かに浮かんでおり、それが単なる同情や憐れみから出た言葉ではない事をザフィールに伝えるには十分だった
たった一人の相手とおびただしい数で戦いを繰り広げている大規模戦闘は圧巻の一言だが、その傍らでも玉章一家とは別に二つの戦いが繰り広げられている
紫怨と茉莉、そして天使と悪魔、光と闇のように互いに敵対関係でありながら、補完関係にある神の眷属――ジュダとシルヴィアのものだ
「一つ、質問をしても良いですか?」
「なんだ?」
共に最強の異端神、円卓の神座に名を列ねる神を祖とする二人――戦乙女を彷彿とさせる守護の騎士シルヴィアと、戦の化身であるジュダが互いの武器を以ってぶつかり合い、二人の力である守護と戦乱の力が渦を巻いて世界に残滓となって砕け散る
自身の武器であるハルバートをまるで手足のように巧みに扱い、シリンダーを備えた剣を手に瞳の無い目に全てを滅ぼす殲意を宿すジュダをいなしたシルヴィアは、凛とした清流のような声で己と相反する存在である戦いの化身に視線を向ける
「なぜ、あなた一人しか出てこないのです?」
「……!」
まるで真実を見透かす水晶のような瞳に鋭い光を宿すシルヴィアの言葉に、ジュダは白目を剥いているような瞳の無い目に鋭い光を宿す
ジュダは円卓の神座№9「覇国神・ウォー」の力に列なるユニット「戦兵」の一人。覇国神と、それと対になるシルヴィアの創造主である異端神「護法神・セイヴ」は、一定の数だけを生み出せる「欠片」と、繁殖して増えていく「繁栄型」という二種類のユニットを同時に持つ異端神だ
そして、ジュダ達「戦兵」、シルヴィア達「神庭騎士」は、繁栄型に分類される存在。――故に、おびただしい数の同属が無数に存在するはずなのだ
その気になれば数万、数十万単位で戦兵を送り込んでくる事ができるにもかかわらず、十世界が送り込んできたのはジュダ一人。――それには明らかな違和感がある
「もしかして、あなた以外が来れない理由でもあるのですか?」
「……どういう意味だ?」
ハルバートの武器を手に、舞う様な動きで変幻自在の攻撃を繰り出してくるシルヴィアの攻撃をシリンダーを備えた剣で弾き飛ばながら、ジュダは瞳の無い目に剣呑な光を宿す
おそらく自分が言わんとしている事を理解しているであろうにもかかわらず、とぼけたように話をはぐらかす戦の眷属に視線を送り、シルヴィアは人形のように整ったその端正な顔に不敵な笑みを浮かべる
「例えば、あなただけが、十世界とは別の意志によって動いている……とか」
守護の力を纏わせた斬撃を放ち、刃を合わせたままシルヴィアは白氷の如き微笑を浮かべて、自身の対極者――ジュダに視線を向ける
シルヴィアの言葉を受けたジュダは、瞳の無い目で何かを見透かしたような笑みを浮かべている乙女騎士を睨みつけると、その武器である剣に備えられたシリンダーを回転させる
「……なんの根拠もないな。それを言うならお前もそうじゃないのか!?」
ジュダの言葉と共にその武器である剣が、戦兵の神能――戦の力による爆雷を引き起こし、世界を震わせる破壊の力によって天を穿つ
吹き荒れる破壊の衝撃の中、それを振り払い撃ち払った破壊の力の残滓を、さながら天上の光のように纏い己を輝かせるシルヴィアは、守護の力を込めたハルバートを振るって輝く流星群ををジュダに向かって解き放つ
「記憶力が乏しいですね。以前言ったはずですよ? 私はここに、私の意志で来た、と」
「……言い訳としては滑稽な部類だな」
自身に向かって飛来した守護の流星を、戦の力を込めた一閃で全て相殺して見せたジュダの嘲るような咆哮を受けたシルヴィアは、ハルバートをふるって凛とした視線でその姿を見据える
「信じる信じないはあなたの自由です」
「そうか、ならお前の言葉は嘘だ」
シルヴィアの言葉に、ジュダは殺意と嘲りと歓喜に満ちた笑みを浮かべて言い放つと、その手に持った剣に戦の力を纏わせる
「…………」
自身に向かってくるジュダの姿を視界に収めたシルヴィアは、その整った表情にわずかに鋭い色を浮かべて、ハルバートを握る手に力を込めた
妖界城の屋上で吹き荒れるのは、煉獄を思わせる炎と月光を閉じ込めたような妖しい輝きを放つ薔薇の花弁を彷彿とさせる二つの妖力。
己の信念を貫くため、眼前に達はだかる全てを滅ぼす純然たる意志を宿したその力からは、殺意や戦意以外の全てが取り除かれ、生と死という生命の根幹だけが剥き出しになった恐ろしいほどに純粋な真理だけが映っている
「さすがだな、乱世」
煉獄の炎を彷彿とさせる姿を取る妖力の力を、血色刃の一閃で振り払ったクラムハイドは、対峙する褐色の肌の大男へ視線を向け、感嘆と畏怖の籠った視線を向ける
「随分と余裕だな」
煉獄の妖力を纏わせた身の丈にも及ぶ斧槍を一閃し、クラムハイドの命を刈り取るべく斬撃を放った乱世は怒気を孕んだ静かな声を向ける
(……妙だな)
身の丈にも及ぶ斧槍を神速で振るい、物理法則を無視した乱撃を放ちながら乱世は、クラムハイドの姿に一抹の疑念を覚えざるを得なかった
クラムハイドは強い。しかし、だからといって妖界王を殺せるほど強いのかと言われれば答えは否だ。原在と呼ばれる神から最初に生まれた妖怪である妖界王「虚空」の強さは、他の全ての妖怪を圧倒する
この城に攻め込んできた以上、クラムハイドの目的は妖界王の命を奪わなければ成立しえないはず。だが自分と互角程度の実力では、どう足掻いても妖界王を殺す事など出来ない
(儂にてこずる程度の実力では妖界王様を殺せない……だが、こいつが何の考えもなしにこんな事をするとは思えん……何がある!?)
一見怒りに任せて激昂しているように見えながら、しかし実に冷静に敵を見極めている乱世の刃を捌きながら、クラムハイドはその姿にかつて戦場を共にしたものとしての敬意と、己の信念を阻む敵としての視線を向けてその瞳に剣呑な光を宿す
(……怒りに任せているようでいて、実に冷静に私を見ている。さすがだと言いたいところだが、私もこれ以上お前にかかずらってやる訳にはいかないんだ)
「なぜ、私が十世界に身を置いたか分かるか?」
血色の刃のレイピアによって斧槍の刃を弾き、鋭い視線と共に抑制された静かな声で問いかけたクラムハイドの言葉に、乱世が声を荒げる
「興味がない!」
重厚な声で咆哮したと同時に、煉獄の力を纏わせた斧槍を横薙ぎした乱世の眼前で、自身が放った破壊の力が渦巻いて荒れ狂う
「そう言うな、お前にとってもいい話だ」
「……?」
血色の刃を一閃させ、煉獄の妖力を斬り裂いたクラムハイドはその視線で訝しげに表情をしかめた乱世を一瞥し、不敵な笑みを浮かべて言葉を続ける
「簡単な事だ」
月光を閉じ込めたような薔薇花弁を彷彿とさせる妖力が渦巻き、剣の切っ先を下ろして静かに佇んだクラムハイドは、その目に揺るぎなく強い意志を映して乱世に向けて言い放つ
「失くしたものを取り戻すためだ」
「……?」
その言葉に要領を得ず、訝しげな表情を浮かべる乱世に不敵な笑みを向け、クラムハイドはレイピアを持っていない左腕をゆっくりと伸ばす
「――おいで」
その言葉に応じるように、空間に生じた力の塊がクラムハイドの左手に手を重ねるように顕現し、それがおぼろげな輪郭を経て、形を持っていく
肩にかかるほどの淡い金色の髪に、今にも溶けてしまいそうな目鼻顔立ちの整った儚げな容貌。その額には、妖怪の特徴である円環の如き薄水色の妖紋が浮かんでいる
その頭部に生えるのは、若木の幹を彷彿とさせるいくつにも枝分かれした白灰色の角。開かれた目に抱かれた宝玉のような左右非対称色の瞳が幻想的な美しさを宿し、その身に纏う薄透明のヴェールと、白と金を基調とした霊衣は、闇の存在であるはずの女性を、まるで聖なる存在と錯覚させる程の神々しさを与えている
「お久しぶりです、乱世様」
「――っ!」
その表情を綻ばせ、儚げな美笑を浮かべた女性の言葉に、乱世は驚愕を隠しきれない様子で目を見開いた
「なっ……!?」
それとほぼ同時。突如出現した新たな妖力を知覚した三十六真祖、当代三巨頭の一人である法魚は、その顔に隠しきれない動揺を浮かべて己の同胞が戦いを繰り広げる妖界城の一角へと視線を向けた
その力は、少なくともこの場にいる妖界側の妖怪の大半が知っている人物の力。そしてそれであるが故に誰もが驚愕を隠しきれなかった
「馬鹿な、この妖力……」
応援に駆けつけていた真祖達も目を瞠り、動揺を禁じ得ない様子で視線を妖界城に向ける
「これは……!」
「……あらあら」
激しい戦闘を繰り広げていたゼーレと恋依はその表情に剣呑な光を宿して、一時その戦闘を中断して遥か彼方に鎮座する巨大な城へ視線を送る
「嘘、だろ?」
「どういう事なの!?」
妖界城に仕える妖怪達も――中には十世界側の妖怪たちでさえその力を知覚し、大なり小なりの驚愕と困惑を隠す事が出来なかった
「なんだ?」
(戦場が混乱してる……?)
光と闇、白と黒、この世の相反する力を同時に有す世界でたった一つの力を纏い、漆黒の光を統べる堕天使「ラグナ」と刃を合わせていた大貴は、戦場に広がる困惑を感じ取って訝しげに眉をひそめる
それはラグナも例外ではなく、戦闘から意識を逸らす事無く、しかし戦場に広がっている確かな動揺を感じ取っていた
(この妖力の所為か? 大きさからみれば真祖級)
突如戦場を満たした困惑の原因となれば、大貴とラグナに思いつくのは、先ほど不意に出現したこの強大な妖力のみ。だが、それが妖界にとってどういう意味を持つのかまでは判然としない事だ
(……誰だ?)
出現しただけで戦場全体に混乱を招いた人物に意識を向けながら、大貴とラグナは戦闘を中断する事無く刃をぶつけ合う
「どういう事ですか!?」
「なんの事だ?」
常時斬撃の特性を帯びた妖力を纏わせた太刀を一閃し、普段はめったに感情を露にしない萼が珍しく動揺を浮かべて己の刃を受けとめた相手――鋼牙を睨みつける
その鋼牙は、己の武器である大型のナイフで太刀の刃を受け止めながら、間近で萼の激昂を楽しむように、何を聞かれているのか分かった上であえて飄々とした口調で応じる
「とぼける気ですか!? この妖力は……」
無論そんな鋼牙の態度を分かっている萼は、驚愕と怒りのない交ぜになった鋭い声でそれを一蹴し、その知覚を妖界城に出現した人物に向ける
「『帝紗』!?」
クラムハイドの傍らに出現した金髪の女性――乱世が「帝紗」と呼んだ美女は、左右非対称色の水晶眼を瞼の裏に隠して微笑み、穏やかで透き通るような声で語りかける
「はい。相変わらずお元気そうで」
「馬鹿、な……」
その姿、その声、口調、穏やかな物腰、妖力――それらの全てが、目の前にいる美女が「帝紗」である事を否応なく乱世に認識させ、驚愕と動揺と懐古の念を湧き上がらせる
まるで信じられないものを見るような眼差しを向けてくる乱世の姿を楽しんだクラムハイドは、その視線を帝紗に向けて、穏やかな声と共に手を差し伸べる
「いくぞ、帝紗」
差し伸べられたクラムハイドの手を見てその美貌を花のように綻ばせた帝紗は、それに答えるようにその細い腕を伸ばして掌を重ねる
「はい」
「こんな、ことが……」
微笑みを交わし、手を重ねたクラムハイドと帝紗を驚愕に満ちた視線で見つめる乱世を横目に、二人は互いの絆と確かめるように静かな声音で言葉を紡ぐ
「妖力共鳴」
刹那、クラムハイドと帝紗の妖力が混じり合って共鳴し、相乗的にその力を高めていく。混じり合った力は、互いを支え、互いを求め、渦を巻きながら一人だった時の本来の力を遥かに凌駕する域へと高まり、昇華されていく
それは、心を重ねて愛し合い、身体を重ねて命を共有した者だけが得る力。存在の力を交換し、互いの神能を重ねて共鳴させる、番の全霊命のみに許された異能。
最も根源であり、最も存在の色が薄い霊格を介し、愛によって繋がった二人の神能は融合も共有も共鳴も不可能なはずのその存在そのものの力を繋ぎ、共鳴させる事を可能とする――故に、この力を使う事が出来るのは伴侶となった者だけ
クラムハイドと帝紗が番である事を証明する妖力の共鳴に目を奪われ、増大していく力に知覚を焼かれながら、乱世は目の前で起きている信じ難い光景に声を荒げる
「なぜ、お前がここにいる!?」
その声を受けたクラムハイドが血色のレイピアを振るい、それと同時に帝紗はエメラルドで形作られているのではないかと思われるほど透き通る新緑の刃を持った双剣を召還する。
二本で一振りの緑剣は、刃を枝分かれさせており、妖力と陽光を受けて妖しい輝きを放っている。――「鹿角」。それが帝紗の妖力が戦う形を取った、彼女自身の戦う姿だ
「――いくぞ」
戦闘の最中だというのに、安らぎに満ちた穏やかな笑みを浮かべたクラムハイドの抑制の利いた静かな声に、帝紗は慈愛に満ちた微笑みを浮かべて応じる
「お前は……」
血色の真紅の刃と、帝紗の新緑の刃の一振りが世界に美麗な軌跡を残すのを見た乱世は、この夢と見紛うばかりの現実に、動揺に揺らぐ声をあげる
「お前は、死んだはずだ!!!」
刹那紅と新緑の斬閃が閃き、それによって斬り裂かれた傷から炎を彷彿とさせる血を噴き上げた乱世が、苦悶の表情を浮かべる
「ッ――!」
おびただしい量の血炎を上げながら仰向けに横たわった乱世は、身体から紅と新緑の刃を携えた二人の姿を、霞む視線で捉える
死してこの世に存在しないはずの伴侶を従えたクラムハイドと、この世にいるはずの無い存在である帝紗――二人が並んで立っている光景に、乱世は懐かしさと疑念を覚えながら視線を向ける
「乱世、お前なら解るだろう?」
乱世を一刀の下に斬り伏せたクラムハイドは、帝紗と肩を並べながら、仰向けに横たわっている同胞に、揺るぎない決意を宿した視線を向ける
「私は、愛する者のために世界を敵に回す決意をしたのだ」
クラムハイドと帝紗によって乱世が倒された事は、知覚によってその場にいた全員に事実として認識される
「乱世様……ッ!」
乱世が倒された事もさることながら、死んだはずの帝紗がこの世に蘇り、クラムハイドと共に戦っているという事実に動揺を禁じ得ない萼がその表情に焦燥を浮かべる
「よそ見してんじゃねぇよ!!」
乱世が倒された事に萼が動揺を見せた瞬間、鋼牙が咆哮と共にその細い首を斬り落とすべく大型のナイフを振るう
「っ……!」
咄嗟に頭を倒し、紙一重で鋼牙の一撃を回避した萼の首筋にはその刃の切っ先によって傷がつけられ、燻ぶる炎のような血煙がそこから溢れ出す
「まだまだァ!」
しかし、鋼牙の攻撃はそこでは終わらない。刃を回避された瞬間、体勢も法則も全て無視する神能の特性のままに、槍のような蹴撃を繰り出し、両手を交差させてそれを受けとめた萼ごと力任せに吹き飛ばす
時空を蹴り抜かんばかりの衝撃とともに、鋼牙の蹴りによって吹き飛ばされた萼は、腕から全身を走り抜ける衝撃と傷みに、その美貌を苦悶に歪める
「なぜ……」
「あン?」
蹴り飛ばした萼に鋼牙の放った妖力の波動が迫るが、その一撃は閃光をも置き去りにする速さと万象すら消滅させる破壊力を宿した太刀の一閃でかき消される
「なぜ、帝紗様がいるのですか! あの方はお亡くなりになられたはず……!」
鋼牙の妖力砲を、太刀の一閃で斬り捨てた萼は、強い感情を宿した髪に隠れていない左目で敵対するかつての同僚を射抜く
滅多に見せない感情を露にした萼の姿と声、視線に射抜かれた鋼牙は、それに微塵も動じることなく、むしろ微笑すら浮かべると、両手に携えた大型ナイフに己の力を纏わせる
「さぁな!」
鋼牙の斬閃に合わせ、交錯した妖力の神速の斬撃波が、目にもとまらぬ速さで萼に向かって迸る
二人と同程度の神格を有した神能を持たない者には、時空も時間も超えて己の命を刈り取ったとしか思えない速さで放たれた鋼の斬撃は、しかし、萼に届く手前で天空から渦を巻いて振り注いた黒白の力に巻き込まれ、取りこまれて消失する
「なっ!?」
突如降り注いだ黒白の力を前に驚愕に目を瞠った鋼牙は、同様に上空から自分に向かって飛来してくる神速の力を知覚し、己の大型ナイフでその一撃を受けとめる
瞬間、刃と刃がぶつかりあい、砕け散った神能がさながら大宇宙誕生の息吹の如く吹き荒れ、二人の視線が刃を挟んで交錯する
「――光魔神……!」
突如自分達の戦場に割って入ってきた闖入者――大貴は、怒りの色を宿す鋼牙と、驚愕の色を見せる萼――二人の視線を受けて、左右非対称色の視線を背後にいる妖界の腹心である女性に向ける
「いけ!」
「え?」
一瞬その意図を理解する事が出来ずに目を瞠った萼の声に、鋼牙の刃を己の刀を払い、間髪いれずに全てを統一する太極の力を纏った斬撃を放った黒白の斬撃を放って迎撃した大貴は、急かすように声を上げる
「なんか良く分からないが、急ぎなんだろ!? 行け!」
「……!」
その言葉で、大貴がしようとしている事を理解した萼は、一瞬目を瞠るが、すぐにその意識は黒白の斬撃波を引き裂いて姿を見せた仇敵に奪われる
「てめぇ、邪魔するんじゃねぇよ!!」
怒りに満ちた声で咆哮を上げ、己の妖力特性を込めた斬撃を渦を巻く形に変えて、さながら回転する槍の如き形に変えて放出する
あらゆるものを抉り取り、触れたものをこの世から消滅させる凶器となって解放された妖力の槍撃は、まるで空間すら穿っているのではないかと思われるほどの凶悪な音を立てながら、神速の速さで瞬く間に大貴に肉迫し、黒白の斬撃に迎え入れられる
「――!」
鋼牙もその一撃で大貴を仕留められるとまでは思っていなかった。せいぜい、萼をこの場に足止めするために時間稼ぎができればいい程度の考えで放った攻撃だったが、それは鋼牙の思惑を満たすほどの成果を得る事は出来なかった
大貴に命中した妖力は、太極の力によって一つにまとめ上げられ、瞬く間に戦う力を失っていく。己が放ったはずの力と意志が黒白の力の中に取りこまれる様を目の当たりにした鋼牙は、その目に剣呑な光を宿した
「あぁ、そういえば、こういう力だったな」
「うおおおおおおおっ!」
自身の妖力をも取り込み、増大した黒白の力を睥睨した鋼牙は、斬撃に乗せて解放された太極の力の奔流に呑み込まれる
「急げ!」
鋼牙を迎撃して見せた大貴の声に、残るべきか、その言葉に甘えるべきが一瞬逡巡した萼だったが、意を決したように唇を引き結ぶと抑制された静かな声を向ける
「……感謝します」
その一言を残し、妖力によって時空間を切り裂いて転移する萼を見送った大貴は、黒白の斬撃を引き裂いて姿を現した男に戦意と視線を向ける
「女一人に、そんな執着すると嫌われるぞ」
「餓鬼が」
大貴の言葉を受けた鋼牙は、額に青筋を浮かべながら、怒気を孕んだ低い声で己の享楽を邪魔した異端の存在を睨みつける
戦火が世界を覆い、放出される最高位の神格の力が唸りを上げる。さながら天地創造を思わせる力の混迷の渦の中にありながら、まるで別世界のように吹き抜ける天を見上げながら、乱世は誰にともなく小さな独白を紡ぐ
「――世界を敵に回す、か」
クラムハイドは乱世の命を奪う事無く姿を消した。それは、最後の慈悲だったのか、終わりゆく世界を見せつけ絶望させるためだったのかは分からない。
だが、かろうじて一命を取り留め、しかしただ戦場を見ている事しか出来ないほどの傷を受けた乱世は、己の身体から立ち昇る血炎の先に映し出される光景に、血に染まった断末魔の世界を幻視して目を伏せる
「確かに合点がいった。クラムハイド、貴様の願いは……」
帝紗を伴い、城内に進入したクラムハイドの妖力を知覚しながら、乱世は偽りの如く真実であり、実像の如き虚像を理解して、言葉を紡ぐ
「かつて失った愛する者を、この世に呼び戻す事だったのだな」