墜天の装雷
「……虎落が死んだか」
オールバックにした白金の髪をなびかせ、蝙蝠の羽を思わせる妖怪紋を持つ線の細い美形の男性――「クラムハイド」が感情の感じられない抑制の利いた静かな声を発する
「どちらさまですかぁ?」
そのクラムハイドの独白に問いかけたのは、独特のテンポを持つ間延びした甘い声を持つ女性。
足元まで届く紫銀の髪の腰から下で束ね、ケープに似たコートを思わせる霊衣を纏ったその女性は、その声音と同様に、温厚で穏やかそうな雰囲気を纏いっている。
やや垂れた両目の下に、縦に二つ並んだ小さな円形の妖紋を持つその整った顔立ちは、まるで包み込むような母性を感じさせる
「お前には関係のない女だ――『恋依』」
「あらあら」
恋依と呼ばれた女性は、クラムハイドの言葉に頬に手を添えて間延びした独特のテンポで笑みを浮かべる
「姫も他の奴らも甘い。世界と語り合い、分かり合うなどと言ってはみても、誰も十世界との共存など望んではいない。ならば言葉で世界を統一するのではなく、我々が世界になればいいのだ」
恋依の言葉を背で受けたクラムハイドは、鼻で笑うように皮肉を交えて言葉を発する
光と闇、全ての世界の恒久的平和を謳う十世界――姫は、世界との対話による統一を求めている。しかし、クラムハイドに言わせれば、そんな冗長な事をする必要などない。
世界を説得するのではなく、自分が世界そのもの――つまり、この世界の王になれば妖界を正当な手段で十世界に加えることができる
「あらあら。いけない人ですねぇ~。まさか、王位を狙っておられるとは」
クラムハイドの言葉に耳を傾けていた恋依は、その言葉に全く危機感や非難を感じさせないのんびりとした独特の甘い声で応じる
勝利をすれば反逆も革命となり、王になれば悪も正義へと転化する。――そんな、ある意味で真理とも言える言葉をを掲げたクラムハイドは、恋依の言葉を受けると、視線を返して言葉を続ける
「……三十六真祖の割には勘が鈍いな」
「?」
クラムハイドの言葉に、恋依はどこか緊張感のない笑顔を抱いて小さく首を傾げる
恋依と呼ばれた女妖怪は、クラムハイドと同様に妖怪王・虚空によって選定された三十六人の代行執政者の一人。――妖界屈指の実力を持つ「三十六真祖」と呼ばれる存在に名を列ねている
「同じ真祖の一人でありながら、自分の思惑を正しく理解できていない」と言われた恋依は、特有の穏やかな表情を浮かべたままクラムハイドの言葉を待つ
「私は王位など狙ってはいない。妖界王を殺した後、この世界は十世界となる。――この世界の王は、姫だ」
「……あらあら、随分と御執心なのですね」
クラムハイドの言葉に、恋依はその声を一段低くして、満面の笑みを送る
十世界を統べる盟主たる「姫」――「奏姫・愛梨」のために世界の王を殺し、この世界をその理想の礎に変えようとするクラムハイドは、一点の濁りもないほど澄み切った瞳に強い決意を宿している
「同じ真祖として、共に世界の舵取りを担った事もありましたが……あなたがそんな情熱的な方だったとは知りませんでした。それで、私を味方に引き入れてようやく行動を起こされるということですね」
苛烈な忠誠心――というよりは、崇拝にすら近いものをクラムハイドから感じ取った恋依は、その穏やかな笑みを崩す事無く言葉を続ける
クラムハイドが望んだのは王を殺す「力」。神から生まれた最初にして、唯一たる最強の妖怪――「妖界王・虚空」の力は三十六真祖のそれを遥かに上回る。
世界との対話による和解ではなく、自らが世界となる事を願ったクラムハイドにとって、王を殺す事だけが唯一にして無二の方法。そしてそのためにクラムハイドは恋依を引き込んだのだ
「ああ。『墜天の装雷』と呼ばれたお前が、ようやく重い腰を上げてくれたからな――一だが、これまでこちらの誘いを歯牙にもかけなかったお前が、なぜ急に心変わりを?」
恋依の言葉を受けたクラムハイドは、満面の笑みを浮かべながらも全く感情の読み取れないその姿に視線を向ける
クラムハイドをはじめ、十世界に所属する妖怪達は遥か昔から恋依――墜天の装雷を味方に引き入れようとしてきたが、まさに取りつく島もないといった様子で、それを断わられてきた
それがつい先日、恋依の態度が変化を見せ始め、そしてついにその協力を得ることができたのだ
予想以上に手間取ったが恋依を味方に引き入れる事が出来たのはクラムハイドにとって重畳といった所。しかしクラムハイドには自分が求めて味方に引き入れた隣の女妖怪を完全に信用することはできていなかった
妖界を司る三十六真祖でありながら、十世界へ協力するなど逆心も甚だしい。必然的に真祖である恋依もそう考えているはず。――しかし、これまでの十世界側からのアプローチに対し、恋依は、拒否はしてもそれを王や他の真祖にその事を報告する事はなかった。
背信が知られる危険性を承知で接触したクラムハイドとしてはありがたい誤算ではあったが、その状態が逆に不安をも感じさせる。
「そうですね~、私も女ですから。漢気のある殿方には弱いのですよぉ」
クラムハイドの問いかけに、恋依は赤らめた頬に手を添えながら微笑みを浮かべて間延びした独特な声音で嬉しそうに応じる
「……そうか」
常に微笑みを浮かべながらも、その真意が全く見えない恋依の姿に底知れない不気味さと一抹の不安を覚えながらも、クラムハイドはその姿と心の端に生じた小さな不安をかき消すように目を閉じる
(相変わらず掴みどころのない女だ。……だが、姫の理想のためにお前の思惑さえも利用してみせよう)
自分自身を鼓舞するように内心で己に言い聞かせたクラムハイドは、閉じていた眼を開いてその視線を恋依に向ける
「……さて、頼むぞ」
「はぁい」
そんなクラムハイドの憂いなど意に介していないかのように、恋依は満面の笑みを浮かべながら、穏やかな甘い声で応じる
「はあっ!」
世界を切り裂く斬閃が奔り、その刃の軌跡を空間に焼きつける。三日月形の斬閃が全てを超越する神速で奔り、標的へと向かう
自身の妖力が戦うための形を取った太刀を振るった萼は、自身の妖力特性である斬撃の力をも乗せた一閃が、対峙する相手――鋼牙を捉えたのを見て目を細める
「やるじゃねぇか」
萼の斬撃を両手に持ったナイフで受けとめた鋼牙は、その斬撃をさらに自身の妖力を纏わせた斬撃で相殺してみせる
「だが、やっぱり駄目だ」
「――っ!」
自身に放たれた斬撃を容易く相殺した鋼牙は、不敵な笑みを浮かべて相対する萼を一瞥する
「この程度じゃ、俺の命は取れねぇよ」
魂と身体が同一のものである全霊命だからこそ放つ事ができる、一切の混じりけがない純然たる殺意の籠った冷酷な目で萼を射抜いた鋼牙は、その妖力を纏わせた大型ナイフの刃を両袈裟に振り下ろす
「くっ!」
左右から振り下ろされた斬撃を太刀で受けとめた萼は、その斬撃の威力で軋む刃の音を聞きながら、身体に奔った衝撃にその端正な顔を苦悶に歪める
「どうした萼ァ!? このままじゃ真っ二つになっちまうぞ!?」
「――っ」
(……相変わらず、何て硬い……!)
「強化」に特化した鋼牙の妖力は、自身の攻撃力を強化し、自身の身体を強化し、強大な破壊力を以って萼の華奢な身体を力任せに斬り裂こうと刃を迫らせる
斬撃の特性を持つ萼の妖力は、まるで茨のように自身の領域に踏み込んできた者を切り裂き傷つけることができるのだが、その力は強化された鋼牙の身体の前に完全に沈黙し、その効力を失ってしまっている
刃同士が擦れ合う凶悪な音を聞きながら、身体に奔る衝撃に唇を噛みしめていた萼は、背後から迫ってくる妖力を知覚して、髪に隠されていない左目を瞠る
「うらぁ!」
萼と同時に、それを知覚した鋼牙が後方へ飛び退いた瞬間、先程まで鋼牙の頭があった場所を槌の軌道が通過する
「……李仙」
「まだまだぁ!」
間一髪のところで介入してきた人物の名を呼んだ萼の声に、その名を呼ばれた当人――李仙は、自身の妖力特性を解放して、槌から妖力が凝縮された破壊の弾丸が放たれる
「あァ、そういえばお前の妖力特性は粘着質のストーカー系だったな」
「せめて追尾型って言えェ!!!」
気だるそうな声とともに妖力弾を薙ぎ払った鋼牙の言葉に、それを放った李仙は声を上げる
引力のように互いに引き合う妖力を持つ李仙の攻撃は、その妖力の領域に入った対象に向かって必ず飛んでいく性質を持っている。いかに初撃を回避しようとも、李仙の妖力範囲に一歩でも踏み込んだ対象はその時点でマーキングされ、二撃目以降の餌食になる
当然、かつて妖界城で妖界王に仕えていた鋼牙は李仙のその妖力特性を完全に把握しており、その対処法も十分承知している
「まぁ、分かっていればいくらでも対処できるがな」
そう鼻で嘲笑い、その身体から圧倒的な質量の妖力を放出させた鋼牙を一瞥して、李仙はその表情を険しいものに変える
「……!」
(自分の妖力でおいらの妖力のマーキングを浄滅させたか……)
李仙の妖力特性であるマーキングは、一度その妖力に接触する必要がある。例えるならば、李仙を中心に一定範囲に特殊なフェロモンを発生させる領域が展開されており、そこに入った対象に匂いをつけて二撃目からは、自身の妖力が対象についた匂いに引き寄せられるといった類のもの。
本来は李仙が戦意を解くまではマーキングは消えないのだが、その追撃を阻む方法も存在する。そのためには、その身体についた匂い――初撃で刻みつけられた妖力の残滓を切り払えばいい。それには、例えば鋼牙がやったように李仙の力を上回る圧倒的な力によってかき消すなどが有効だ。
「お前、今からでも俺達の所に来ないか? お前とは昔から気が合っただろ?」
「確かにあんたとは、一日中城で働く女の子達について語り合った戦友だ」
鋼牙の言葉に、李仙は拳を握りしめて悔しそうに歯を噛み締める
妖界城にいた時の李仙と鋼牙は気が合う友人だった。基本的で破天荒で型破りの鋼牙と馬鹿で単純で女好きの李仙は、それがまるで必然だったかのように惹かれあい、いつの間にか位や実力の差を超えた気の置けない仲になっていた
共に理想の女性について語り合い、共に城で働く女性たちから冷ややかな侮蔑の視線を浴びせられ、それに立ち向かってきた紛う方なき戦友だ
「けどな……おいらはあんたとの友情より、姐御のおっぱいを取る!!」
力強く握った拳を薙ぎ払うように横に広げ、背後にいる萼を一瞥した李仙は、その豊かな胸の膨らみに視線を向けてだらしなく顔を垂れさがらせる
「…………」
「……クク、お前らしい」
李仙の力強い宣言に、萼は無言のまま冷ややかな軽蔑の視線を向け、鋼牙は愉快そうに笑みを噛み殺す
「という訳で大丈夫っすか、姐御!拝みに……じゃなくて、助けにきましたよ」
「李仙……」
という訳がどういう訳なのかは分からないが、李仙の力強い宣言に、呆れ果てたため息を漏らした萼は、手にした太刀を下げてゆっくりと歩を進める
「とりあえずお礼はしておきます。後は私に任せて下がっていなさい。あなたでは鋼牙には勝てません」
簡潔な感謝の言葉と共に抑制の利いた声で萼が紡いだ言葉を聞いた李仙は、己の眼前に立つ自身の上司に真剣な眼差しを向ける
「じゃあ、ここは一つ、感謝の印に姐御の抱擁をお願いしたいんですが。そしておいらの顔をその谷間に……」
「下がっていなさい。目障りです」
「イ、イエッサー」
普段と変わらぬ声に込められた萼の怒気に、李仙は小さく縮こまってその場から離れる
「まったく、この状況でなぜああいう緊張感のない台詞を……」
場を和ませようとしているのは分かるが、不思議と苛立ちを覚える李仙の妖力を背中越しに知覚しながら辟易した様子でため息を衝く萼に、鋼牙の嘲笑が届く
「ククク、大変だねぇ」
「……余計なお世話です」
鋼牙の言葉に冷ややかに応じた萼は、自身の妖力を纏わせた太刀を構えて、髪に隠されていない左の目で対峙するかつての同胞を射抜く
「――ッ」
その瞬間、二人を――否、この周囲一帯が強大な妖力に呑み込まれる
「そろそろ頃合いか。……始まったらしい」
「……これは、妖力共鳴ですか」
谷底の空間を満たす強大な妖力の波長に鋼牙が事も無げに目を細め、萼が静かに知覚を集中させる
今谷底の地を満たしているこの強大な妖力は、玉章とその伴侶達の妖力が共鳴し合い、高まり合ったもの。
神魔と桜のように契りを交わした全霊命同士は互いの命を好感し合った状態であり、その相手――即ち伴侶とならば、本来共鳴するはずの無い神能を共鳴させ、力を相対的に強化する事が出来るのだ
「数え切れない程の伴侶を持ってる玉章共ならではの力だ。この力があるから、十世界やクラムハイドも下手に手を出せねェ」
世界を仰ぐように視線を向けて笑みを浮かべながら鋼牙が言う
ただでさえ強力な神能の共鳴だが、この世界で最も多くの伴侶を持つ玉章がその力を使えば、玉章自身を中継点として全ての伴侶の妖怪の妖力が共鳴し、強化される。
加えて、相手の力に対して波長を合わせる事に特化した玉章自身の妖力特性までもが相まって、その共鳴率、強化レベルは世界屈指のものとなる。
この力を以って玉章達は今日までクラムハイドをはじめとする十世界の妖怪達から神器を守護し続けてきたのだ
「すごい……」
知覚能力はないものの、瑞希が展開する妖力結界を介して尚伝わってくる圧倒的な力の脈動に詩織は思わず息を呑む。
人間界で渡され、詩織の身体に融合した装霊機にインストールされた霊的な力の圧力を弱める防御と、瑞希が展開した結界がなければ、ゆりかごの人間に過ぎない詩織など一瞬にして消滅してしまうほどの妖力とそこに込められた意志が世界に満ち満ち、その威を見せつけている
「複数の伴侶を重複して持っていると、こんなことができるのね……」
結界の中の詩織の言葉を聞きながら、知覚を焼くほど強化されている妖力の波動に目を細めた瑞希が、抑揚のない声音で独白する
「珍しいんですか?」
「ええ。聞いているかもしれないけれど、いくら多夫多妻とはいっても全霊命はあまり多くの伴侶を持たないのよ。――全霊命にとっての伴侶とは、命を共有する存在だから、そう気軽に作るものではないもの」
詩織の問いかけに、瑞希は背後に視線を向ける事無く淡々とした口調で説明する
いかに伴侶とならば神能を共鳴し、力を高める事が出来、多夫多妻制が認められているとは言っても全霊命が無差別に伴侶を増やす事はない。
神能を同調させる事は、互いの命を交換すること――即ち、互いの命の一部を相手に委ねる事を意味し、心と体が等しい故に心の底から愛した者としか愛し合えない全霊命は、そういった打算で伴侶を増やす事がない。そのため、こういった重複型の共鳴を行う事が出来るのだ
「道理で彼女たちがここで神器の守護を任されている訳ね。これだけの力があれば、王級以上の実力者を連れてこない限り、神器を奪うのは容易ではないわ」
世界を塗り潰す玉章とその伴侶達の妖力共鳴を知覚して内心で勝利を感じ取った瑞希は、感嘆の声とともにその目を細める
明確に勝利を断言した訳ではないが、瑞希のその言葉は詩織にこの場の事態が玉章達の勝利で収束するであろう事を予感させるには十分だった。そして、そうなってくれば詩織にとって最も気がかりなのは、想いを寄せる人物の事だ
「あの……神魔さん達は」
未だに未練を断ち切ることができず、その心の大半を占める想い人の身を案じる詩織の言葉に、瑞希は一瞬その身体を強張らせて、抑揚のない声で応じる
「……下の堕天使、相当出来るわね」
「危ないんですか?」
硬い色を含んだ瑞希の言葉に、詩織は胸を押し潰されるような不安と、何もできずただ守られている事しかできない不安に拳を握りしめる
「今のところはほぼ互角……いえ、神魔達が少し押しているといった所かしら。」
この場で見えない戦いに知覚を向け、その様子を探りながら瑞希は淡々とした口調で背後にいる詩織に答える
知覚できる限り、神魔と桜の戦っている堕天使の強さは茉莉に匹敵する。それは九世界で頂点に立つ最強の存在である全霊命の中でもさらに上位の力を持っている事を意味している。
「神魔さん……」
瑞希の言葉に、無意識のうちに祈るように胸の前で手を重ねた詩織は、不安に満ちた表情を浮かべてこの場に見えない想い人の無事と勝利を願うのだった
「キャハハハハハハハハハハハハハッ、逃げ回っているだけじゃ、何にも意味ないわよ」
甲高い嗤い声を上げた女妖怪――会忌の嘲笑の言葉と同時に、その身にまとった自身の武器である人型絡繰の衣を翻らせ、無数の刃の雨が純白の四翼をはばたかせるマリアへ向かって襲いかかる
「――っ」
その身から血炎を立ち昇らせるマリアは、その連続攻撃を全く減速しない神速飛翔によって回避し、光力を宿した杖によってそれを打ち払いながら距離を取る
(この人達強い……っ)
二体一という不利な状況に加え、極めて異質な力を持った二人の女妖怪の力に、マリアは防戦一方に追い込まれていた
「会忌その辺にしておきなさい。そろそろいつものように撤退する時間よ」
その時、自身の武器を羽織った会忌に、身の丈にも及ぶ巨大な鋏の武器を持ったもう一人の女妖怪――ヤマセが抑制の利いた声を向ける
軽く顎を上げるヤマセが示しているのが、今この空間を支配する強大な妖力を指していると知っている会忌は、忌々しげに目を細めてその妖力から戦意を消していく
「……そうね。あの腐れ女の連鎖妖力共鳴に勝てるのなんて、妖界王様と一部の真祖様くらいだもの」
これまで何度もこの谷底の都市を攻め、その度にこの連鎖共鳴する妖力とその力を発動させた玉章とその伴侶達の前に撤退を繰枷してきた十世界の妖怪一同には、これが出ると撤退するという習慣が刷り込まれていた
「中々運がよかったようね天使さん。……そういえば、名前を聞いていなかったわね。もう知っているでしょうけど、私の名前は『会忌』よ」
「……マリアです」
高飛車な口調で名乗った会忌の言葉に、マリアはその柳眉をわずかに潜めて応じる
「そう、覚えておくわ。次に会ったら……」
「次はありませんよ」
別れ際に再戦の言葉を残そうとした会忌だったが、その言葉を別の声が遮る
「――っ!?」
そこの浮かんでいたのは、純白の着物を思わせる霊衣を纏った一人の女性。腰まで届くその髪も、肌も纏っている着物までもが純白に彩られ、その額にある三つの菱形の妖紋と瞳だけが澄んだ水色をしたその女性がその表情に幽かな笑みを浮かべる
「あんた……まさか『凍女』!?」
戦場の至る所に現れた凍女と呼ばれる女妖怪の姿を見て、ヤマセ、会忌はもちろんその場にいた妖怪達も目を瞠る
「なぜ、あなたがここに……!?」
戦場の各所に現れ、宙空を雲のように漂う凍女の姿を見て、玉章もまたその美貌に驚愕の色を浮かべて声を漏らす
「分かりませんか? 私がここにいる理由が」
その表情をわずかに綻ばせた凍女は、嘲るような、からかうような不敵な笑みを浮かべて自身の胸にそっと手を当てる
「まさか……彼女が十世界についたというの!?」
驚愕に彩れらた声を漏らした玉章の言葉に、凍女は口角を吊り上げて無言のまま笑みを浮かべる。
幽玄な微笑を浮かべたその口から真実が語られる事はなかったが、その様子を見れば玉章の言葉が事実である事を察するのには十分だった
「な、なんですかこれ? 同じ人がいっぱい……分身!?」
中空に出現した無数の女妖怪の姿を見て声を上ずらせる詩織の言葉に、瑞希は知覚と五感でそれを捉えながら、冷静に分析を進める
(分身……当たらずとも遠からずといったところね。あそこにいる全ての彼女の身体が妖力で構築されいる。……彼女の妖力特性といった所でしょうね)
「ところで、あれは誰?」
宙空に出現した純白の女性――十世界に所属する者にだけついているその人物と、それを見る全員の様子を見て今この戦場に異常事態が起きているであろう事を察した瑞希は、その視線をたまたま近くにいた玉章の一家の妖怪の一人に向けて訊ねる
「あの人は、『凍女』。……三十六真祖の一人、恋依様に仕える妖怪だ」
「……つまり、裏切りという事?」
妖力共鳴の影響を受けていないことから、おそらくは玉章の息子であろう妖怪の青年の言葉に、瑞希はその柳眉を寄せて思案の色を浮かべる
恋依という名の妖怪については知らないが、十世界、玉章達妖界側の妖怪達が一様に驚いたような表情を見せていることからそう推測した瑞希の言葉に頷き、無言で首肯した玉章の息子の妖怪は、宙空に浮かぶ凍女を見て息を呑む
「そんな事より、ヤバイぞ……あいつは、恋依様――『墜天の装雷』の右腕。彼女の能力を最悪の形で補助できる」
「――墜天の装雷……!?」
凍女を見て声を引き攣らせた妖怪の青年の言葉に、瑞希が目を瞠る
「墜天の……?」
恋依という名は知らなくとも、墜天の装雷とう呼び名には心当たりがあるらしく、その氷麗な顔に驚愕の色を張りつけた瑞希の背後で、一人だけ事情を呑み込めない詩織が怪訝そうに声を発する
その問いかけは、当然自分を結界で守ってくれている瑞希に対して回答を要求するためのもの。その詩織の声が聞こえているはずの瑞希は、その声に見向きもせず、その問いかけへの回答として確認するように妖界の青年の問いかける
「『墜天の装雷』って、かつて九世界で起きた聖魔戦争の際、たった一人で天使の軍勢を壊滅させたっていうあの?」
確認するように問いかけた瑞希の言葉に、背後でその声を聞いていた詩織が思わず息を呑む
「――っ!」
「ああ、その墜天の装雷だ」
妖界の青年の淡々とした肯定の言葉に息を呑む詩織を背にした瑞希は、伝説に語られるその存在と相対する事の意味を理解すると同時に、心臓を鷲掴みにされるような冷たい感覚を覚える
(だとしたら……ここにいては危険だわ)
それに思い至った瑞希は、知覚で上で何かが起きている事は分かっているであろうが、それがどれほどの異常事態なのかはわかっていないであろう遥か先の戦場――神器が安置された地下で戦っている二人の悪魔に思念を繋げる
《神魔、桜聞こえる!?》
《……瑞希さん?》
普段の冷静さに刃毀れを見せ、鋭い警戒の声を発した瑞希からの思念通話に、漆黒の翼を持つ堕天使――「ザフィール」と対峙していた神魔と桜が怪訝そうな声を返す
《墜天の装雷の攻撃が来るわ、備えなさい!!》
《――っ!?》
瑞希からの鋭い警告を受けた神魔と桜は、その言葉が示す事実に気づいて意識を隔てた向こう側で息を呑んだ
一方その頃、戦場の中から十世界に所属する者の傍らに顕現した白幻の女性――凍女を一瞥し、萼と相対していた鋼牙はその表情に不敵な笑みを浮かべる
「……お前が来たって事は、計画を始めるって事か」
「はい。クラムハイド様からのお達しで、このまま皆様をお連れいたします」
その言葉に小さく頷いた凍女は、白い着物からのぞく細い腕を伸ばして、鋼牙の肩にその手を添える
「クク、王殺しとはあいつも愉快な事を考える」
「――っ!?」
これから始まる事が楽しみで仕方がないといった表情で愉悦の言葉を発した鋼牙の言葉を聞いた萼は、髪に隠されていないその左目に驚愕の色を浮かべ、すぐにその言葉の意図を理解してその瞳に静かな激昂を宿す
「鋼牙、まさかあなた達は……」
「おっと、ついつい口が滑っちまった。悪いな」
静かな声音の中に激しい激昂を宿す萼の言葉を飄々と聞き流した鋼牙は、先程まで対峙していた混血の女妖怪の姿を嘲笑うように一瞥する
「構いませんよ。どうせ、この場で戦いは終わりです」
悪びれた様子も見せない鋼牙の言葉に、目を伏せて静かに応じた凍女の身体が、みるみる形を失い、純白の霧へ形を変えていく
「『雲外境』」
白霧へと形を変えた凍女が鋼牙の身体に絡まり、その姿を隠していくのを見た萼は、弾かれるように地を蹴り、刹那すら存在しえない神速の速さで間合いを詰め、自身の妖力を纏わせた刺突の一閃を放つ
光と時間を超える万象を超越する速さで放たれた萼の刺突が白霧に隠されつつあった鋼牙の胸の中心を穿ち、その身体を貫通する
胸の中心は、完全な左右対称の霊格構造を持つ全霊命の核――いわゆる心臓がある場所であり、首や頭部と並んで全霊命の数少ない急所の一つに数えられる場所だ。
さすがにそこを神能の力を神格を持つ霊的概念を以ってに穿たれれば、いかに生命力の強い全霊命であろうと無事では済まない。
「……くっ!」
だが、自身の持つ太刀から身体を貫いた感覚が感じられない事に歯噛みした萼は己の攻撃が鋼牙の命を刈り取るに至らなかった事を理解する
「じゃあな、萼。もう会う事はないだろう」
凍女が姿を変えた白い霧が、鋼牙の勝ち誇った声を残して一陣の風と共に、消え去ったのを見て萼は太刀を持つその手に渾身の力を込める
(ここから姿を消したという事は、おそらく彼等はもう妖界城に……)
長年妖界城に仕え、三十六人全ての真祖とその主要な腹心と面識を持ち、一通りその妖力特性を把握している萼は、今何が起きているのかを理解してその思念を、城にいる二人の真祖――「乱世」と「法魚」に繋ぐ
《乱世様、法魚様、緊急事態です――》
「……これは?」
自分の傍らに出現した純白の妖怪――「凍女」が白い霧へと変わり、自分を包み込む様子に怪訝そうに眉をひそめた十世界に所属する堕天使「ラグナ」は訝しげに声を発する
「ご心配なく。私の妖力特性です。皆様にはこのままこの作戦の第二案遂行の御助力を賜りたい、とクラムハイド様からのお達しです」
「そうか」
淡々と声を発した凍女に小さく応じたラグナは、不意に戦場にある違和感を覚えて、その知覚を巡らせる
(……茉莉の魔力がない?)
一時休戦し、戦場へ視線を向けるクロスと強襲者たる堕天使の一人――「オルク」の視線を受けながら、知覚を巡らせたラグナはこの場に居るべきはずの人物の存在が感じられない事を訝しんでその眉をわずかにひそめる
この場にいるのは九世界、十世界を問わず大半が妖怪。例外的は光魔神と二人の天使、自分を含めた三人の堕天使と、神魔、桜、瑞希、紅蓮の四人の悪魔だけ。
十世界に所属し、紅蓮とラグナの直属の上司である悪魔「茉莉」の存在は、この空間からいつの間にか消え失っていた
玉章達の妖力共鳴の強大さにかき消された分からなかった事に、小さく舌打ちをしつつ、ラグナは何も言わずに姿を消した茉莉に訝しげに眉を潜める
茉莉の性格をよく知っているラグナが、自分達に何も言わず姿を消した事に疑念を抱きながら思案を巡らせていると、次の瞬間にはその周囲を取り巻く風景が切り替わる。
「……なるほど、空間を繋いだのか」
一瞬にして見た事もない風景の場所に佇んでいたラグナは、自分以外にもあの場にいた全ての十世界のメンバーが集められているのを見て、小さな声で独白する
「その通りです。……私の妖力特性は至極単純。私の本体と情報、空間座標を共有する力です。まあ空間を移動する能力の派生といったところでしょうか」
ラグナの独白に応じた純白の女性――凍女は、その表情を変える事無く淡々と言葉を発する
凍女の妖力特性は、妖力そのものに自身の知覚を持たせること。その妖力はまるで端末のように五感や知覚を共有し、互いの空間座標を把握し合い、それぞれの位置へ空間を跳躍し合う事が出来るというもの。
本体の情報を妖力を分離させて生み出した端末たる幻体が知り、幻体が得た情報を本体に還元する。相互に情報をやり取りし、互いに繋がり合うその力は、それを世界や空間を越えて移動する事ができる全霊命の時空移動能力に酷似したものであり、全霊命として見ればそこまで異質な能力ではない
「御苦労さまでした、凍女ちゃん」
その時、独特な間を持つ甘い声で、真紅の髪を持つ女性を背後に従えた紫銀の髪を持つ女性が、ケープ月の着物を彷彿とさせる霊衣を翻らせてゆっくりと歩み寄ってくる
その整った顔には、向日葵を思わせる満面の笑みが浮かんでおり、穏やかなその笑みはどこか母性的な包容力を感じさせる
「いえ、造作もありません。恋依様」
「墜天の装雷……!」
紫銀の髪を揺らし、穏やかなで朗らかな笑みを浮かべた恋依と呼ばれた女性の姿を見て、周囲の妖怪たちがざわめき、その声を聞いてラグナは目を細める
(……こいつが、あの有名な墜天の装雷か)
「なんだよ!? 今、いいところだったのに!!」
墜天の装雷――恋依の姿を見ていたラグナの耳に、不満を露にした憤りの声が届く
その声に視線を向けたラグナは、おそらく光魔神との戦いに水を差され、途中でこちらへ無理やり連れてこられたのであろう紅蓮の姿を見止め、疲れ果てたため息をつく
「……元気な方ですね~」
燃えるような赤い髪を揺らし、子供のように駄々をこねる紅蓮を見て朗らかに笑みを浮かべる恋依の言葉に、ラグナはいたたまれない気持ちで眉間にしわを寄せる
「すまん。あれは気にしないでくれ」
「大変ですね、堕天使さんも」
その言葉に、口元を手で隠して朗らかな笑みを浮かべる恋依の傍らに歩み寄った凍女は、純白の衣を翻らせて静かな声で自分の主に声をかける
「恋依様、道を拓きます」
「はぁい。では行きますよ~」
凍女の言葉に独特の甘い声で応じた恋依は、ゆっくりとした動作でその手を天に掲げ、まるで空からこぼれ落ちてくる滴を受けとめるような態勢を摂る
「『奉殲花』」
静かに紡がれた恋依の言葉と同時に、遥か天空の空間が歪み、引き裂かれた時空の亀裂の中から恋依の妖力が戦う形へと特化した武器が顕現する
それは、さながら遥か天空に鎮座する巨大な真紅の花とも言うべき形をした、特異型の武器。
百合の花に形状が似た六枚の花弁がまるで傘のように広がり、そこから伸びる萼の部分には地に向かって伸びる巨大な砲門が備わっている
「……これが、かつての大戦で名を轟かせた殲滅兵装か」
声を失うラグナの視界に移る巨大な真紅の花は、その六枚の花弁から真紅の粒光を生みだし、その砲門の中に真紅の光を収束していく
「姫の最大の欠点は、誰もを愛しているが故に、誰かを愛している訳ではない事だ。この世に生きる誰もが自分のためにしか生きておらず、交わす言葉が本当の意味で心を揺らす事がない事を知らない」
天空に収束されていく紅い光を目を細めて見つめるクラムハイドは、淡々と抑揚のない口調で言葉を紡いでいく
十世界を統べる盟主「奏姫・愛梨」は、争いの無い恒久的平和を求めている。全ての戦いの元凶が、信念や正義、自分や愛する人達、小さな生活や大きな世界を守りたいという感情――「愛」から生じている事を知っていても尚、一心に人と人が心を通わせ分かり合える事を信じている。
しかし、そんなことはあり得ないのだ。いかに信じようと、どれほど信頼しようと、感情論と根性論だけでは世界の理は動かせない。
世界を変えるのは、いつの時代も己を愚直なまでに信じる心と、それをいかに成し遂げるかという厳密な計画や筋道があっての事だ。
「夜天に浮かぶ月のように、近くにありながら手を伸ばしても届かない。水面に映る月のように掴もうとしてもその指をすり抜けていく。――そう。平和とは、求めたその瞬間に手に入らなくなるものなのだ」
姫の願いは美しい。そしてそれを貫く意志も信念もある。だが、全ての人が同じではないように、この世に生きる誰一人として、決して心を一つにする事は出来ない。
人は愛する事を知っていても、同じ人を愛する訳ではない。大切なものはそれぞれにあり、それを愛しているが故に守り、そして戦火を生む。――そんな単純な、しかし不変の理に生きる者達が、言葉で一つになる事はない
「……だからこそ、我々が世界そのものになる必要があるのだ。我等を阻むものを排除し、妖界王を殺し、この妖界を姫の理想に寄り添った最初の世界と成す。
心をつなげて世界を一つにするのではない。世界を統一した後に、人の心を変えていかねば、永遠に違う者同士が心の底から手を取り合う事などない」
凍女の身体から立ち昇った白霧の妖力は、天に浮かぶ真紅の花から伸びる砲門の下で巨大な渦を作り出す。
自身の妖力と相関関係を持たせることができる凍女の妖力の渦は、玉章達のいる谷底の街にたった一人残してきた白幻の端末と直結し、はるか隔絶されるほど離れた二ヶ所を一つの空間として繋げる
「愚かなる我が身を以って全ての罪を犯し、姫の美しい理想を成すのだ」
誰の耳にも届かない小さな独白と共に、切ない色を帯びたその瞳を閉じた瞬間、天空に浮かぶ真紅の花から放たれた破壊の閃光が、純白の霧の門を通り抜ける
世界を穿つ破壊の緋柱が天空の中ほどで途絶え、座標を支配する凍女の力によって、隔てられた二つの空間を一つに繋げる
「この力、間違いない……裏切ったのね、恋依!」
かつて三十六真祖として、共に名を連ねた女妖怪の力にその傾国の美貌を険しいものへ変えた玉章は、天を覆いつくす真紅の光を睨みつける
空から降り注いた一本の緋柱が消えると同時、そこから生じた緋色の破壊の力が、天を貫かんばかりに噴き上がる。
時空間すらも焼きつくす破壊の緋光が、妖牙の谷を呑みこみ、その場にいた全員を真紅の力の中に呑み、そこに込められた破壊の意志が巨大な渦となって荒れ狂い、触れるもの全てを巻き込みながら荒れ狂い、世界の空を緋色に染め上げた




