婚約破棄は、ランチのあとで
「クラリッサ・レインフォード! 私は今この場で、君との婚約を破棄する!」
王立学園のカフェテリアに、ジュリアン王子の声が高らかに響き渡った。
ちょうど昼休みの真ん中だった。
生徒たちは一斉に手を止めた。
フォークを持ったまま固まる者。
口にパンを入れたまま目を見開く者。
厨房から顔を出す料理長。
そして、なぜか一番前の席でメモを取り始める新聞部。
王子の隣には、淡い桃色の髪をした男爵令嬢セシリア・ベルが立っていた。
大きな瞳はうるみ、いかにも「守ってあげたい」と思わせる雰囲気をまとっている。
そして私は、悪役令嬢と呼ばれるにふさわしい公爵令嬢、クラリッサ・レインフォード。
この場面だけを見れば、完全に私が追い詰められているように見えるだろう。
けれど、私はそれどころではなかった。
目の前には、本日限定二十食のローストチキンプレートがあったからだ。
皮はぱりぱり。
ソースは濃厚。
付け合わせのポテトは黄金色。
さらにデザートには、カフェテリア名物の白桃プリンが控えている。
これはもはや昼食ではない。
小さな祝祭である。
私は静かにナイフとフォークを置き、王子を見上げた。
「殿下」
「何だ、クラリッサ。命乞いか?」
「いいえ」
私はにっこり微笑んだ。
「婚約破棄は、ランチのあとでお願いいたします」
カフェテリアが静まり返った。
王子の眉がぴくりと動いた。
「……何?」
「ランチのあとで、と申し上げました。こちらのチキン、冷めると皮のぱりぱり感が失われますので」
「今、そんな話をしている場合ではない!」
「殿下。空腹の人間が下す決断ほど、信用ならないものはありませんわ」
「私は空腹ではない!」
その瞬間、王子のお腹が鳴った。
ぐう。
見事な音だった。
低音から入り、最後に少し余韻が残る、王族らしい堂々たる腹の音だった。
新聞部のペンが走る音がした。
王子は耳まで赤くなった。
「今のは、椅子の音だ!」
カフェテリアのあちこちから、小さな笑い声が漏れた。
王子は咳払いをして、無理やり威厳を取り戻そうとした。
「とにかく、私は君の罪をここで明らかにする!」
「では、ランチをいただきながら拝聴します」
「食べるな!」
「殿下、これは私が三限の小テストを早めに終わらせ、廊下を公爵令嬢として許されるぎりぎりの速度で歩き、ようやく手に入れた限定ランチです。その努力を無にすることは、私の家訓に反します」
「君の家訓は何なのだ!」
「『温かいものは温かいうちに』です」
「思ったより庶民的だな!」
その時、王子の隣にいたセシリアが、おずおずと手を上げた。
「あの、ジュリアン様。私も、先に食べてもよろしいでしょうか」
「セシリア!?」
「朝から緊張して、何も食べていなくて……」
セシリアのお腹も鳴った。
きゅう。
王子の腹音に比べると、かなり控えめで可憐な音だった。
しかし、カフェテリア全体にはっきり聞こえた。
厨房のマルゴ料理長が即座に叫んだ。
「セシリア様に本日のスープを!」
「仕事が早いですわね、マルゴ料理長」
「空腹のご令嬢を放っておくわけにはいきませんので!」
こうして、王子が断罪を始める前に、なぜか全員の昼食が整えられることになった。
王子の前には、マルゴ料理長特製のビーフシチュー。
セシリアの前には、かぼちゃのポタージュと焼きたてパン。
私の前には、守り抜いたローストチキンプレート。
王子は不満そうにスプーンを握った。
「これは断罪の場だぞ」
「はい。断罪ランチですわ」
「そんな言葉はない」
「今、生まれました」
私はチキンを一口食べた。
おいしい。
外はぱりり、中はしっとり。
ソースにはほんのり香草が効いている。
人生が少しだけ正しい方向へ戻った気がした。
王子も不機嫌そうにシチューを口に運んだ。
そして、目を見開いた。
「……うまい」
「殿下、声に出ております」
「違う。これは戦略的確認だ」
「ビーフシチューに何の戦略が?」
「士気の確認だ!」
新聞部がまたメモを取った。
王子はそれに気づき、慌てて姿勢を正した。
「話を戻す! クラリッサ、君はセシリアをいじめたそうだな!」
私はナプキンで口元を押さえた。
「具体的には?」
「君は彼女に、廊下で『足元をご覧なさい』と言った!」
「言いましたわ」
カフェテリアがざわついた。
王子は勝ち誇った顔をした。
「認めたな!」
「ええ。だって、セシリア様の靴紐がほどけていましたもの」
皆の視線がセシリアの足元に向いた。
セシリアは小さくうなずいた。
「はい……そのあと本当に転びかけました」
王子の勝ち誇った顔が、少し崩れた。
「で、でも、言い方がきつかったと聞いている!」
「廊下の真ん中でしたので、早く知らせる必要がありました。公爵令嬢らしく優雅に『まあ、セシリア様、もしお時間がございましたら、おみ足の周辺に存在する紐状の危険物をご確認あそばせ』と言えばよろしかったでしょうか」
セシリアが首を横に振った。
「その間に転びます」
「ほら」
王子はスプーンを握りしめた。
「では次だ! 君はセシリアのノートに赤字で大量の書き込みをした!」
「しましたわ」
「今度こそ認めたな!」
「誤字と計算間違いが多かったので」
セシリアは両手で顔を覆った。
「その節は本当に助かりました……おかげで追試を免れました……」
カフェテリアの空気が変わり始めた。
最初は「悪役令嬢が断罪されるぞ」という興味本位だったものが、だんだん「王子、大丈夫か?」という空気になってきたのである。
王子もそれを感じ取ったのか、少し焦り始めた。
「し、しかし! 君はセシリアに『王子殿下のおそばにいるなら、覚悟をお持ちなさい』と言った!」
「ええ、言いました」
「それは脅しだろう!」
私はセシリアを見た。
セシリアは困ったように笑った。
「……私は最初、そう思いました」
王子はぱっと顔を明るくした。
「ほら見ろ!」
「でも、クラリッサ様はそのあと、王子殿下の予定表の写しと、過去三年分の公務遅刻記録と、王妃様主催のお茶会で絶対に間違えてはいけない席順表をくださいました」
カフェテリアが再び静まり返った。
王子が固まった。
私は静かに紅茶を飲んだ。
「殿下のおそばにいるということは、殿下が忘れた予定を三歩後ろから思い出させ、殿下が間違えた名前を自然な会話の中で修正し、殿下がうっかり『この魚、骨が多いな』と外交使節の前で言わないよう見張ることですわ」
王子が小さく言った。
「……あれは魚ではなく、伝統料理だった」
「ええ。そして隣国の国宝級料理人が作った一皿でした」
新聞部が震える手でメモを取っていた。
セシリアはポタージュを見つめたまま、ぽつりと言った。
「私、クラリッサ様に言われて初めて気づいたんです。王子様に愛されるって、絵本みたいにきらきらしたことだけではないんだなって」
その声は小さかったが、カフェテリアの喧騒の中でも不思議とはっきり聞こえた。
王子はセシリアを見た。
「セシリア……?」
セシリアは顔を上げた。
「ジュリアン様、私はあなたのことをお慕いしています。でも、私、毎日あなたの忘れ物を届けたり、失言を止めたり、朝食を抜いて断罪イベントに付き合ったりする自信はありません」
「断罪イベントと言うな」
「だって、今日のために昨日から練習なさっていたでしょう?」
王子の顔が引きつった。
「なぜ知っている」
「庭園の噴水に向かって、『クラリッサ、君は冷たい女だ!』と三回言っていました」
カフェテリアがざわついた。
私は思わず言った。
「三回も?」
「発声練習だ!」
「努力の方向が独特ですわね」
王子はついに黙り込んだ。
そして、シチューをもう一口食べた。
たぶん、少し冷静になったのだろう。
温かい食事には、人の怒りを丸くする力がある。
特に、王子のように空腹で暴走しがちな人間には効果が高い。
私は白桃プリンにスプーンを入れながら、静かに言った。
「殿下。私は、婚約破棄そのものに反対しているわけではありません」
王子が驚いた顔をした。
「何?」
「殿下が私を愛していないことは、ずっと前から存じておりました。私も、殿下と結婚して幸せになれるとは思っておりませんでした」
セシリアが息をのんだ。
私は続けた。
「けれど、婚約を破棄したいなら、正面からそうおっしゃればよかったのです。私を悪女に仕立て上げる必要はありませんでした」
王子は視線を落とした。
「……君なら、反論できないと思った」
「なぜです?」
「君はいつも完璧だからだ。何を言われても動じない。冷たくて、怖くて、何でも計算しているように見える」
私はしばらく黙った。
そして、白桃プリンを一口食べた。
甘い。
けれど、少しだけほろ苦かった。
「殿下。完璧に見えるよう努力することと、傷つかないことは別ですわ」
王子は何も言わなかった。
カフェテリアも静かになっていた。
さっきまでの笑い声は消え、誰もがこちらを見ていた。
しかし、その沈黙は重苦しいものではなかった。
誰かが初めて本当のことを言った時に生まれる、少し不器用な静けさだった。
セシリアがそっと立ち上がった。
「クラリッサ様」
「はい」
「私、あなたのことを誤解していました。怖い方だと思っていました」
「よく言われます」
「でも、本当は……たぶん、とても親切で、とても疲れている方なのだと思います」
私は少しだけ目を伏せた。
「その分析は、ノートの計算間違いより正確ですわね」
セシリアは小さく笑った。
王子は深く息を吐いた。
「クラリッサ、すまなかった。君を悪者にして、自分だけ正しい人間になろうとした」
「謝罪は受け取ります」
「婚約破棄は……」
「成立させましょう」
私は迷わず言った。
王子は驚いたように顔を上げた。
「いいのか?」
「ええ。ただし、正式な書類を整え、両家に説明し、王宮の承認を得たうえでです。カフェテリアで叫べば済む話ではありません」
「それは、そうだな」
「それから、今後二度と、食事中に人の人生を揺るがす発表をなさらないでください」
「……はい」
「返事が小さいですわ」
「はい!」
カフェテリア中から拍手が起こった。
なぜ拍手が起こったのかは、誰にもわからない。
ただ、王子が謝ったこと。
セシリアが自分の言葉で話したこと。
私が限定ランチを最後まで守り抜いたこと。
そのすべてが、何となく拍手に値する気がしたのだろう。
マルゴ料理長が厨房から顔を出した。
「では、今日から新メニューを出します!」
嫌な予感がした。
「名前は、婚約破棄ランチ!」
王子が椅子から立ち上がった。
「やめろ!」
「内容は、ローストチキン、ビーフシチュー、かぼちゃのポタージュ、白桃プリンのセットです!」
生徒たちが歓声を上げた。
「食べたい!」
「縁起がいいのか悪いのかわからない!」
「でもおいしそう!」
王子は頭を抱えた。
「私は一生、このランチの名前を背負うのか……」
私は優雅に微笑んだ。
「殿下、ご安心ください。人は失敗から学べますわ」
「本当か?」
「ええ。ただし、メニュー名は残ります」
「残るのか……」
その後、正式な手続きを経て、私と王子の婚約は解消された。
王子は王太子教育に加えて、王宮厨房で週に一度、食事の準備を手伝うことになった。
理由は、マルゴ料理長いわく「人のランチを邪魔する者は、ランチを作る苦労を知るべき」だからだそうだ。
セシリアは王子との関係を急がず、まずは自分の勉強と礼法を学び直すことにした。
彼女は時々、私のもとへノートを持ってくる。
相変わらず誤字は多いが、以前よりずっと自分の考えをはっきり書くようになった。
そして私は、悪役令嬢ではなくなった。
代わりに、学園では妙なあだ名がついた。
「ランチの守護者」
正直、不本意である。
けれど、誰かが食事中に大事な話を始めようとすると、周囲が自然にこう言うようになった。
「それ、ランチのあとでよくない?」
そのたびに私は思う。
まあ、悪くない変化ですわね、と。
卒業の日、カフェテリアには特別メニューが並んだ。
もちろん、あの「婚約破棄ランチ」である。
王子は少し気まずそうに、けれど以前よりずっと落ち着いた顔で私に言った。
「クラリッサ」
「はい、殿下」
「今なら、君があの日怒った理由が少しわかる」
「怒っていたのは、チキンが冷めるからだけではありませんわ」
「知っている」
王子は苦笑した。
「でも、チキンも大事だったのだろう?」
私はスプーンで白桃プリンをすくった。
「もちろんです」
セシリアが笑った。
王子も笑った。
私も、少しだけ笑った。
人間関係は、時に冷めたシチューより扱いが難しい。
けれど、温め直せるものもある。
そして、温め直せないものは、きちんと終わらせればいい。
私は最後の一口を食べ終え、ナプキンを置いた。
「さて」
二人がこちらを見る。
私は立ち上がり、いつものように背筋を伸ばした。
「大事なお話があるなら、今ですわ」




