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全員を救うと“消される”世界で、俺は選ばないことで全部残している  作者: 夕凪リィナ


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第1話 断罪の場で、彼女は微笑まなかった

この物語は「正しい選択」をする話ではありません。

選ばないという行為が、どこまで通用するのかを書いています。

 その断罪は、あまりにも遅かった。


 王太子が私の名を呼び上げた瞬間、広間の空気はようやく息を思い出したようにざわめいた。

 絹の裾が擦れる音。誰かが扇を落とす音。遠くで、楽団の一人がうっかり弦を鳴らした乾いた音。


 誰もが、今日この瞬間を待っていたのだろう。

 悪役令嬢が裁かれる、その瞬間を。


「リィナ・アルヴェール公爵令嬢」


 高い天井に、よく通る声が響く。

 壇上に立つアルベルト殿下は、今夜も非の打ちどころなく美しかった。月光を溶かしたような銀髪に、群青の礼装。正しく王になるために生まれた人の顔をしている。


「貴女には、王立学院における度重なる侮辱行為、ならびに聖務候補であるセレスティア嬢への加害未遂の疑いがある」


 疑い。

 その言葉を使った時点で、殿下はまだ迷っている。


 私は顔を上げた。

 広間の中央。人々の視線が、針のように肌を刺す。


 これだけ多くの目に憎まれることに、昔の私なら耐えられなかっただろう。

 今は、少し違う。


「申し開きはありますか、リィナ様」


 問いかけたのは、王太子の隣に立つセレスティア・ルーン伯爵令嬢だった。

 白百合のような娘だ、と人は言う。実際、今夜の彼女は白を基調にしたドレスに身を包み、金の髪をゆるく結い、守られるべき清らかさそのもののように見えた。


 ——見えるだけなら、ずいぶん救いがあるのに。


 彼女の頬にはうっすらと赤みが差している。

 怯えか、憤りか。あるいはその両方か。


「ありません」


 私がそう答えると、広間のざわめきは一瞬だけ止まり、それから倍になって返ってきた。


「なっ……」

「言い逃れもしないのか」

「やはり……!」


 予想通りだ。

 人は安心したがる。目の前の悪意が本物だったと思えたほうが、ずっと楽だから。


 けれど、壇上の一人だけは安心していなかった。


 アルベルト殿下の眉が、ほんのわずかに寄る。

 迷いの皺だ。


「リィナ。貴女は、セレスティア嬢の課題資料を故意に改ざんし、階段で突き飛ばそうとしたと証言されている。目撃者もいる」

「そうですか」


 短く返すと、周囲の令嬢たちが息を呑んだ。

 もっと見苦しく足掻くと思っていたのだろう。泣くか、怒鳴るか、誰かに縋るか。

 残念ながら、そのどれも今の私には似合わない。


「……それだけですか」

「はい」


 セレスティア嬢の声が、少しだけ強くなる。

「ご自分のしたことを、何とも思わないのですか」

「思っています」


 私が言うと、彼女はかすかに目を見開いた。

 やはり、そうだ。彼女は私がどこかで崩れると思っている。


 それが当然だ。以前の私は、誰かに否定されるたび、自分の存在ごと足場を失う女だったのだから。


 でも、もう。

 もう、それでは足りない。


「思っているからこそ、申し開きはありません」


 言葉を選んだつもりはない。

 選びすぎれば、本音に似てしまう気がしたから。


 広間の後方で、誰かが小さく笑った。

 蔑みの笑い。安堵の笑い。ようやく嫌っていい相手が確定した時の笑いだ。


 その中で、ただ一人。

 壁際に控えていた近衛騎士カイルだけが、最初から一度も視線を逸らしていなかった。


 黒髪に灰青の瞳。目立つ男ではない。立っているだけで場を支配するような種類の人間でもない。

 けれど、沈黙の質が他人と違う。


 彼は私を見ている。

 責めるためでも、憐れむためでもない。

 何かを確かめるように。


 嫌な人だ、と思った。

 そういう目をする人は、いつだってこちらの傷口を一番先に見つける。


「殿下」


 セレスティア嬢が一歩前へ出る。

「これ以上、学院の秩序を乱す方を野放しにはできません。被害を受けたのは私だけではありませんわ」


 よく通る声だった。

 正しい言葉を、正しい温度で言える人の声だ。


 殿下はしばらく黙り込んだあと、静かに告げた。


「リィナ・アルヴェール。貴女との婚約を破棄する」


 広間が沸いた。

 拍手に似たざわめきすら混じる。


 婚約破棄。

 やっとそこまで来たか、と私は胸の内で息を吐く。


 遅い。

 本当に、遅い。


「加えて、貴女には王都からの退去を命じる。当面、公爵家の北方領で謹慎し、王命があるまで社交界への復帰を禁ずる」


 追放までは来た。

 前よりは、ずっとましだ。


 私は目を伏せた。

 この反応を、敗北に見せるために。


「……承知いたしました」


 たったそれだけの返事で、広間は再びざわつく。

 喚かない。縋らない。泣かない。

 それだけで、かえって不気味に見えるのだろう。


 そう思っていたら、階段の上から殿下の声が降ってきた。


「最後に、一つだけ訊く」


 私は顔を上げた。


 アルベルト殿下は、まっすぐに私を見ていた。

 王太子としてではなく、一人の人間として。


「……なぜ、否定しない」


 ああ。

 そこだけは、前と同じなのね。


 この人はいつだって、最後の最後でそこに触れる。

 もっと早くそうしてくれれば、と思ったこともあった。けれど、その“もっと早く”を待って世界が救われるなら、私はこんな場所に立っていない。


 私は少しだけ考えるふりをした。

 本当は、答えは最初から決まっている。


「否定しても、変わりませんから」


「変わるかもしれない」

「いいえ」


 思っていたより、きっぱりした声が出た。

 殿下の目が揺れる。セレスティア嬢が息を詰める。カイルの指先だけが、わずかに動く。


 この場にいる誰も知らない。

 今ここで何を選ぶかで、何が始まるのかを。


「変わらないのです、殿下」


 少しだけ、言葉に本音が混じりそうになった。

 危ない。

 私は微笑まないように気をつける。ここで微笑んでしまえば、きっと全部が壊れる。


「少なくとも——この場では」


 最後の一言は、誰に届くでもない独り言のように落ちた。

 けれど、カイルだけは聞き逃さなかったらしい。彼の目が、一瞬だけ険しくなる。


 面倒な人。


 護衛に促され、私は広間の出口へ向かった。

 人垣が左右に割れる。香水と好奇心と侮蔑の匂いが混ざった、甘くて気分の悪くなる道だ。


 昔の私なら、きっとこの場で壊れていた。

 婚約を失い、地位を失い、信頼を失い、世界のすべてに置いていかれた気がして。


 でも今の私は、それよりずっと救いのないものを知っている。


 あの夜の炎を。

 石畳を埋め尽くした祈りにならない悲鳴を。

 選び損ねたたった一つの言葉が、国を、街を、人を、どれだけ簡単に壊すのかを。


 扉の前で、私は一度だけ振り返った。


 アルベルト殿下はまだこちらを見ていた。

 セレスティア嬢は唇を引き結び、胸の前で手を重ねている。

 カイルだけが、他の誰とも違う顔をしていた。

 まるで、ここから先のほうを怖れているような。


 鋭い。

 けれど、まだ遅い。


 重い扉が開く。

 夜気が頬を撫でた。


 追放される悪役令嬢。

 結構。都合がいい。

 王都の外に出られるなら、次の手が打てる。


 北方で起きるはずだった飢饉。

 本来なら死ぬはずの辺境伯の嫡男。

 そして、まだ誰も知らない最初の破滅のほころび。


 今度は、順番を間違えない。


 私は裾を持ち上げ、夜の階段を下りる。

 背後ではまだ、断罪の余韻がざわめいていた。


 ——ここまでは、前回と同じ。


 だからこそ。

 ここから先は、少しだけ変えてみせる。

 ここまで読んでくださって、ありがとうございました。


 断罪から始まる話ですが、この物語は「裁かれた悪役令嬢がどう耐えるか」だけでは終わりません。

 むしろ、ここから先で何を選び、何を捨てるのかが本番になります。


 次話では、追放の路上で最初の“ズレ”が見えます。

 同じ未来には、もうならないかもしれません。

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