湯気になれたら 【月夜譚No.388】
掲載日:2026/02/08
鍋の湯気をぼんやり見ていた。形の定まらない白い塊が天井に昇っていく。決して掴むことができず、存在も不確かに思えるその湯気になりたいとさえ思った。
世の中、自身の周囲だけを切り取っても様々なことがある。楽しいことも悲しいことも、否応なく目の前に展開することだってある。
感情に振り回されて一々一喜一憂するくらいなら、何も考えずに宙を漂っていられる方が余程気が楽かもしれない。
「どうした?」
「あ――ああ、うん。ごめん。ちょっとぼーっとしてて」
隣に座った友人に声をかけられて、彼ははっと我に返った。どこか曖昧に微笑む彼に怪訝そうにしながらも、友人は鍋をつつきながらビールのジョッキを傾ける。
ここのところ、大学の課題提出が続いて疲れているのだろう。柄にもないことを考えてしまった。
彼は密かに息を吐いて、自身のジョッキに手を伸ばす。
人間は、湯気にも雲にもなれない。だったら、一喜一憂も楽しんでしまった方が人生勝ち組だ。
彼は口角を上げると、一気にビールを喉に流し込んだ。




