甲子園帰りの天ぷら屋さん
――秋の夕暮れ。
風が冷たくなりはじめた甲子園球場に、
オレンジ色の光が差し込んでいた。
バックネット裏、特別指定席の一角。
秋香は、胸元にチームカラーのマフラータオルを巻き、
白地に黒い縞模様のユニフォームを身につけていた。
そしてライトブラウンの髪をハーフアップにまとめた姿は、
まるで“気品ある甲子園女子”そのものだった。
「――いけますわ! まだ望みはありますわよ!」
スタンドの波と一緒にメガホンを掲げ、声を張り上げる。
打球音、歓声、秋風。
全てが胸を震わせる――そして、終わりの瞬間が訪れた。
スコアは2対3。
あと一歩、届かなかった。
「……これほどまでに、勝利が遠く感じた夜はございませんわ……。
あとひと振り、ほんの一瞬でも風が違っていれば――。
あぁ、悔しゅうてたまりませんの……!」
帰りの阪神電車。
甲子園口から乗り込んだファンたちは、誰もが少しだけ静かだった。
それでも、誰もが笑っていた。
秋香もそのひとり――頬に残る涙の跡を、タオルでそっと拭う。
梅田駅に着く頃には、街の灯りが夜を照らしはじめていた。
冷たい風が頬をかすめ、秋香は立ち止まる。
「……なにか、温かいものをいただきたい気分ですわね」
香ばしい匂いに導かれるまま、
木の暖簾をくぐる。
油の音が心地好く響く――カウンター前の大鍋で、職人が一品ずつ天ぷらを揚げている。
黄金色の衣が油に沈み、サクッと泡を立てて浮かび上がる。
そのライブ感に、秋香の心までほぐれていった。
「ご注文お伺いします」
「“天ぷら膳七品定食”と半熟玉子天ぷらをお願いいたしますわ」
席に腰を下ろすと、まず目に入ったのは――
小さな瓶に入ったイカの塩辛。
“ご自由にどうぞ”の札と、トング。
ひとくち――
ねっとりとした舌触りの奥に、海の香りがふわりと広がる。
塩の角が立たず、まるで熟成された旨みそのもの。
「……まぁっ、なんて濃厚でありながら上品なお味ですの……!
これでは――いくらでもいただけてしまいますわ……!」
(あかん、白ご飯が止まらへん。永遠にリピートできるやつや……!)
――しかも、ご飯おかわり自由。
お嬢様の指先が、ほんの一瞬だけ震えた。
一品ずつ、目の前で揚げたてが届く。
一品目、海老天。
衣は薄く、金色に透けている。
「まぁ、なんて美しい。まるで踊っているみたいですわ」
(サクサクッ……やば、初手で優勝やん!)
二品目、いか。
柔らかな弾力に、海の香りがふわりと広がる。
(もちもち~!負け試合の口が喜んでる!)
三品目、舞茸。
(秋の香りやん……衣のサクサク音が、拍手みたいや)
四品目、キス。
(口の中でふわって消えるとか反則やろ……)
五品目、焼き芋。
「……甘くて、まるで秋そのものですわ」
(あ~、これスイーツ超えてる。癒しの極みやん)
六品目、万願寺唐辛子。
(ピリッてこーへんのに、味はしっかり。渋い仕事してはるわ)
そして最後の七品目――再び海老天。
「……始まりと終わりに、あなたがいてくださるのね」
(締めエビとか粋すぎるやろ。
これは勝ち負けちゃう、完全に“ごちそうの試合”や)
揚げ油の音がやわらかく響き、
職人が小さく微笑んで最後の一皿を差し出した。
「……こちら、半熟玉子天ぷらです」
衣の中から、とろりと黄身があふれ出す。
秋香はご飯茶碗を手に取り、そっと玉子を乗せた。
その上から、天汁を細く注ぐ。
――じゅわっ。
湯気が立ち、黄身の金色が白米に染みていく。
(うわぁ……これ、反則やわ。
天つゆの塩気と玉子の甘み、まるで幸せの合わせ技や)
箸を止めることができず、
その瞬間、敗北の夜がほんの少しだけ報われた気がした。
「……ごちそうさまでした。
次は、きっと勝利の味をここでいただきますわね」
暖簾を出ると、秋の風がすっと頬を撫でた。
街の灯りの中で、ライトブラウンの髪がきらりと揺れる。
その背中は、もう次の春へ向かっていた。




