路地裏の出汁巻き定食屋さん
――午前四時前。
心斎橋の路地裏には、まだ夜の名残が漂っていた。
提灯の赤がしっとりと光り、静寂の中に人の列ができている。
十人ほどの人々が、寒空の下で身を寄せ合っていた。
その中に、白鳳女学院の制服姿――秋香がいた。
ライトブラウンの髪をハーフアップにまとめ、マフラーを小さく巻いている。
「……まぁ、皆さま随分お早いのですね。まだ夜も明けきっておりませんのに」
その声は凛として上品。
だがその手には、小さな紙コップ。
列の横には「お出汁ご自由にどうぞ」と書かれたポットが置かれていた。
「まぁ……セルフでお出汁とは。なんて風情のある……」
そっと注いで、唇をつける。
――じゅわ、と昆布と鰹の香りが広がった。
「……っ。やさしい……まるで朝の子守唄ですわ」
(あ~……これ、体に染みる~……。
朝4時でこんな幸福度ある?)
やがて五時。
暖簾が上がる。
「お待たせしました~! 履物脱いで、どうぞ~!」
明るい声の主は、笑顔の女性店員だった。
「まぁ……朝から活気のあること。お邪魔いたしますわね」
畳に上がると、白木のカウンター。
香るおしぼりを手に取ると、ふんわりと柑橘の香り。
秋香は嬉しそうに微笑んだ。
「……このおしぼり、まるで小さな温泉のようですわ」
「出汁巻き定食に、いくらと明太子のトッピングをお願いできますかしら?」
「へい、富士ミネラルウォーターもつけとく?」
「ええ、ぜひ。それも楽しみにしておりましたの」
瓶の中で光を受けた富士ミネラル。
秋香はグラスを口に運び、静かに飲みほした。
「……透明で、澄んでいて……まるで朝そのものですわ」
目の前では、鉄板が鳴っている。
大将が卵液を流し込み、箸をくるりと回す。
じゅわっ、ぱたん、じゅわっ。
まるで舞台のような手際の良さ。
「まぁ……見ているだけで、心が洗われますわ」
出汁巻きがふっくらと焼き上がると、
いくらがその上に宝石のようにのせられた。
湯気の向こうに、炊き立ての土鍋ごはん。
豚汁の香り、小鉢にはマグロ・サーモン・タコのお造り。
「まぁ……なんて朝の饗宴ですの……」
「それでは……いただきますわ」
箸を入れた瞬間、じゅわっと黄金の汁が溢れる。
ふんわり卵に、ぷちぷちのいくら。
「……うわっ……なにこれ……!」
お嬢様の声が、思わず京都訛りに溶けた。
(ふわっふわやんこれっ!
いくらの塩気と出汁の旨み、バランス神~っ
お上品とかいう次元ちゃうわ、幸福爆弾やっ!)
白米をひと口。
粒が立ち、甘みがじゅわっと広がる。
そこへ刺身を乗せ、いくらを足して――
「……はんなり豪華丼、完成いたしましたわ」
(うっま……っ! マグロとサーモン、えぐいほどごはんと合う!
しかもいくらが全部まとめてくれるとか……反則やろ!?)
土鍋のご飯をおかわりし、
今度は出汁巻に明太子をのせてひと口。
「……っ、あぁ……! このピリ辛……たまらんですわっ……!」
(出汁巻×明太子=ギャル降臨やん!
うち、今朝いちばん幸せかもしれん!)
豚汁の具をひとつずつ味わい、
お造りをゆっくり噛みしめるたび、
店の中は湯気と笑顔で満ちていった。
食後、富士ミネラルをもう一口飲んで、
おしぼりで手を拭く。
「ごちそうさまでしたわ。……とても、あたたかいお店ですわね」
「ありがとうなぁ。お嬢ちゃん、よう食べはるなぁ」
「ふふっ、朝の活力は食から、ですもの」
大将が笑う。
「また来てな。次は出汁、もっと濃いめにしとくわ」
「まぁ……そんな誘惑、断れませんわね」
店を出ると、空がうっすらと明るくなっていた。
夜と朝のあいだに漂う、出汁の香り。
秋香はふと振り返り、暖簾を見つめた。
「……また来ますわ。あの香りに、会いに」
路地を抜けると、一台の黒塗りの車が静かに待っていた。
運転席の執事がドアを開け、やわらかく微笑む。
「お帰りですか、お嬢様」
「ええ。けれど……次はもっと早く並ばねばなりませんの」
その一言に、執事は一瞬だけ目を瞬かせてから、
「……左様でございますか」と静かに頭を下げた。
車がゆっくりと走り出す。
朝焼けの中、秋香の笑顔がやわらかく溶けていった。




