さよならの香りは、豊中のラーメン屋さんとともに
豊中駅から商店街を抜け、ゆるやかに続く道路を十五分ほど歩いた先――。
車の通りが少し減り、空気が少しだけ静かになる場所に、その店はあった。
夕陽に照らされた舗道には、桜の花びらがところどころ散っている。
風が吹くたびに、甘くやわらかな香りが鼻先をくすぐった。
秋香は、制服の袖を軽く押さえながら歩いていた。
その横顔に当たる光は穏やかで、春の空気と同じように、やさしい色をしていた。
看板には何の文字もない。
ただ湯気と香りだけで、この場所が“白ラーメンの名店”だと分かる。
「……ここが、あの“白ラーメンと焼き飯”の店ですのね」
秋香は静かに暖簾をくぐった。
カウンターの向こうで、鉄鍋の音がカンカンと響く。
油が跳ね、卵が割れ、米が舞う。
スープの白い湯気と、炒め油の香ばしさが溶け合って、春の空気をやさしく包みこんでいた。
「白ラーメンと……焼き飯をひとつ。……あ、焼き飯は――大盛りでお願いいたしますわ」
「ほい、ありがとさん。」
短い返事とともに、鍋がさらに高く鳴った。
金属がぶつかる音が、まるで記憶の底を叩くように響く。
卵と米の混ざるリズムに、千秋の胸が小さく弾んだ。
ほどなくして、白く霞む湯気の向こうに、2つの皿が並んだ。
片方には、ふわりと香る黄金色の焼き飯。
もう片方には、乳白色のスープが静かにゆらめく白ラーメン。
どちらも、見た瞬間に心を掴むような輝きだった。
秋香は胸元のリボンをそっと押さえ、ポケットから小さなヘアゴムを取り出した。
ライトブラウンをひとまとめにして、高めの位置でくるりと結ぶ。
その仕草は静かで、どこか儀式のように丁寧だった。
髪を整えた秋香は、レンゲを手に取り、少しだけ息を吸い込んだ。
「……いただきますわ」
まずは焼き飯を一口。
「っ……ふわ、あつ……っ。
外は香ばしくて、中はお米の一粒一粒にしっかりチャーシューの旨味と脂を纏わせており、
とても香ばしくしっとりとした仕上がりですわ……!
お米が、まるで音楽みたいに踊ってますの……!」
清楚な口調のまま、声のトーンだけが少し弾む。
次にレンゲを取り、白ラーメンのスープをすくった。
とろりとした白濁スープが、舌に触れた瞬間――。
「とんこつ系ですけど、最初の一口目はあっさり、
あとから豚と野菜?のコクと甘さが押し寄せてくる感じで、とっても美味しいスープですわ……。
柔らかいチャーシューとシャキシャキもやしが、このスープと絶妙にマッチしておりますの……!」
そのまま焼き飯を交互に。
焼きの旨みとまろやかさが重なり合い、口の中で幸福がゆっくり溶けていく。
秋香のまつげがふるえた。
「……やば……。この相乗効果……、幸せが二重奏ですわ……っ!
え、待って……尊みしか感じませんの……!」
店主が静かに口を開いた。
「ここな、今月でいったん閉めんねん」
「……えっ……」
秋香の手がぴたりと止まる。
「でもな、来月からは駅の向こう――新しい店で始めるんや。
鍋もスープも、そのまま持っていくつもりや」
「……まぁ……!
では、“終わり”ではなく、“お引っ越し”ですのね!」
「せや。味は変わらへん。鉄鍋の音も、まだまだ鳴らすで」
秋香はそっと胸に手を当てて、微笑んだ。
「……よかった……。
この音、この香り……。
まだ、次の駅でも続いてくれるのですわね」
焼き飯の最後のひと口を噛みしめ、スープを飲み干す。
「……ごちそうさまでした。
さよなら、じゃなくて……いってらっしゃい、ですわね」
外に出ると、夕暮れの風がふわりと吹き抜けた。
桜の花びらがひとひら、肩に落ちる。
「――さよならの香りは、豊中の白ラーメン屋とともに。
でもその香りは、きっと次の町でも、同じ音を立てているはずですわ」
千秋はそう呟き、スカートの裾を押さえながら歩き出した。




