第1章:平穏は定時に終わる
午後三時二十二分。新京シティ第3管区合同庁舎の区民課では、今日もまた理不尽の嵐が吹き荒れていた。
「ふざけるな!なんで住民票一枚取るのに三日もかかるんだ!」
窓口の向こうで、五十代の男性が机を叩きながら怒鳴っている。平良凪は目の前のモニターから視線を上げることなく、左手でマニュアルをめくりながら、右手でキーボードを正確に叩き続けた。
「申し訳ございません。お客様のご住所の番地が、昨年の地番変更に伴い、コンピューター上で一時的に検索できない状態となっております」
凪の声は、感情の起伏を一切感じさせない、完璧に平坦なトーンだった。彼の頭の中では、既に最適解が計算済みだ。
(この案件、規約第七条三項の適用で、隣の総務課に移管可能。所要時間九十秒。面倒度レベル三から一に軽減。これでよし)
「何が検索できないだ!俺は三十年もここに住んでるんだぞ!」
「はい、承知いたしました。では、こちらの申請書にご記入いただければ、総務課の方で詳しい調査を―」
「なんで俺が書類なんか書かなきゃならないんだ!」
凪の指が止まることはない。画面上では、別の市民からの電話対応のメモが次々と入力されていく。彼の脳内では、目の前のクレーマーの件と並行して、さらに五つの案件が同時進行で処理されていた。
(電話の件は規約第十二条で即座に却下。書類Aは申請者の記入漏れ、B番窓口へ転送。メール案件は定型文で自動返信設定。残り二件は―)
「おい!聞いてるのか!」
「はい、お聞きしております」
凪は初めて顔を上げた。その表情は、石膏で作られた仏像のように穏やかで、そして感情という名の雑音が完全に除去されていた。
「総務課は二階の奥、右手に曲がったところです。エレベーターをご利用ください」
男性は何か言い返そうとしたが、凪の完璧に無機質な対応に気押されたのか、ぶつぶつと文句を言いながら立ち去っていった。
午後四時十五分。凪の隣の席に座る同僚の田中が、書類の山を抱えながら近づいてくる。
「凪君、ちょっと手伝って―」
田中が声をかけようとした瞬間、凪は椅子から立ち上がった。まるで田中の言葉を予知していたかのような、絶妙なタイミングだった。
「失礼します」
凪はトイレに向かって歩き出す。田中は困惑した表情で、結局別の同僚に声をかけることになった。
午後四時五十五分。凪は自分の机に戻り、最後の案件を処理し終えた。定時まであと五分。彼は机の上を片付け始める。その動作は、長年の経験によって最適化された、一切の無駄のない流れだった。
午後五時ちょうど。庁舎内に終業を告げるチャイムが響き渡る。チャイムの最初の音符と完璧に同期して、凪のPCのモニターが暗くなった。
彼は立ち上がると、鞄を肩にかけ、まだ残業している同僚たちの横を素通りして出口に向かう。「お疲れ様でした」の一言すら発することなく。そんな社交辞令は、彼にとって貴重なエネルギーの無駄遣いでしかなかった。
新京シティの夕焼けが、ガラス張りのビル群を橙色に染めている。遠くには、ヘリオス社の巨大なタワーが空に向かってそびえ立ち、その頂上では今日もヒーローたちが訓練に励んでいることだろう。しかし、凪にとってそれらは全て、「自分に関係のない面倒ごと」でしかない。
駅に向かう歩道で、凪の頭の中では既に今夜のスケジュールが組まれていた。コンビニでカップ麺を買い、アパートに帰ってテレビを見ながら夕食。入浴は七分以内。就寝は十時三十分。明日もまた、定時で帰るために。
平良凪の人生における最重要事項、それは「波風を立てない」ことと「定時退庁」だった。そのために身につけた超絶的な事務処理能力は、彼自身にとっては単なる「面倒回避のためのツール」に過ぎない。
彼は知らなかった。その日の夜、自分の平穏な日常が、とてつもなく面倒な事態へと変貌することになるとは。
この作品は一部にAIによる文章生成を含みます