第二十一話
すぐに立ち上がる。つとめて冷静さを失わないように、俺は落ち着いて日暮に指示を飛ばした。
「経口補水液と氷だ」
「任しとけ」
言うやいなや、日暮は部室を飛び出していく。向かう先はもちろん、高校の隣にあるドラッグストア。
「ゆ、悠くんっ、わたしは、わたし……っ!」
「お前はここにいて、四条が横になれるだけのスペースを作れ。部室のドアは開けたままでな」
ゆっくりとうなずく音海の、その繊細な指先が小刻みに震えている。
「いいか、まずは落ち着け。深呼吸しろ。いざというときこそ冷静に、な」
ぽんとその肩を叩き、俺はその場を後にした。
もちろん全力疾走だ。例のあいつのように転ばないよう、足元に気を配りながら。
高ぶる緊張感を、俺は大きな呼吸でやり過ごす。
音海は軽くパニック状態になっていたから、四条の容態を聞き出すことができなかった。後はもう、自分で見て確かめるしかない。はやる心をどうにか、なだめすかす。
「四条ッ! 大丈夫か⁉」
四階まで駆け昇り、廊下を一望する。
ちょうど中間点のあたりで、四条はぺたりと座り込んでいた。
廊下に向かって、首ががくんと落ち込んでいる。
背後から追いついた俺は、今にもくずおれそうな肩に手を回す。
じくりと、水分を吸ったスポーツウェアの感触。
四条の顔は赤く、全体から発汗していた。どこか目はうつろで、焦点は俺をとらえていない。
典型的な熱中症の症状だ。
「具合が悪いのか? 水は飲めるか?」
「……ん……ぼぉってして……足が……」
「足……?」
肉付きのいい四条の太ももが、ぴくぴくと痙攣していることに気づく。
「だ、だいじょうぶ、ばい……ちょっとゆっくりしたら、なおるけん……」
「ここでは駄目だ。涼しい場所で休むぞ」
四条は自分で動けない。日暮が到着するまでそれほど時間はかからないだろうが、熱中症は時間との闘いでもある。空調の効いていないこんな場所で、しかも発汗が止まらない四条を休ませるのは危険だ。
これ以上の脱水が起これば、嘔吐症状、全身の痙攣から意識を失うことにもなりかねない。
即座に判断し、俺はためらいなく四条の手を取った。
「……、ぇ……?」
湿りを帯びた右手を、俺の右肩のほうへと回す。四条が背中に乗りやすいよう、なるべく低い位置にしゃがみ込む。
「身体を預けろ」
「……そがんと……せんでも、よか……」
「よくねえよ。……嫌な気持ちも分かるが、今はそれどころじゃない」
「……っ、うぅ…………」
四条はそれで観念したのか、倒れ込むような形で、俺の背中へ身をゆだねた。
「立つからな」
あまり鍛えていない下半身の筋肉に、俺はここ一番のムチを入れた。
四条の太ももの柔らかい部分に、すべての指先が食い込んでいく。
熱を帯びた吐息、火照った四条の顔、どうしても押しつけざるをえない胸の感触。
充分すぎるほどに水を吸い込んだトレーニングウェアが、体温とあまり変わらない感触で俺の首筋に触れてくる。
「……う……」
「我慢してくれ。すぐに下ろしてやるから」
甘酸っぱいシトラスの制汗剤が、ふわりと漂ってくる。
少し思うところがあるのか、四条はなるべく俺の背中から上半身を浮かそうとした。
いい気分ではないはずだ。俺だって、汗だくの姿で異性に近づかれたいとは思わない。
「もうすぐだ。すぐに横にしてやる」
俺は全身の神経を視界に集中させる。ただでさえバランスが取りにくい。足を滑らせれば、二人ともただでは済まない。
「……っ、はぁ……っ」
「大丈夫だ。もう着く。涼しい部室に着く」
自分を励ましているのか、四条を励ましているのか。あるいはそのどちらともなのか。
既に重くなりかけていた足をなんとか踏ん張って、俺たちは無事に部室へとたどり着く。
音海が開けておいてくれたスペースに、慎重に四条の四肢を横たえた。
「こころさん、しっかり……っ!」
目に涙の粒をためながら、音海はせめてもの償いをするように、一生懸命にうちわで風を送る。その隣、俺もすぐに加勢した。
四条の汗が引いていくのは見て取るように分かった。呼吸音はものの数分で落ち着きを見せ始める。
まもなく、経口補水液と氷を袋に詰めた日暮が戻ってきた。
「まずはこいつだろ」
ほれ、と日暮が経口補水液を投げて渡す。こう見えて、なかなか聡明なところがあるのが憎めない。
「センキュ。……四条、少し頭を持ち上げられるか?」
四条は少し身体をひねり、わずかに顔を持ち上げる。
「少しこぼしてもいいから、ゆっくりと飲め」
「ん……」
ペットボトルの飲み口をあてがってやる。口元がおぼつかないが、きちんと飲み込めているようだ。
「吐き気はないか?」
「……うん……だいじょうぶ……ばい」
「音海。タオルあるだろ。ある分使って、氷をくるんでくれ」
「わ、分かりました」
「円花ちゃん、うちわ役代わるぜ」
「は、はいっ」
音海も少しは落ち着いただろうか、てきぱきと氷を取り出し、数枚のタオルに手際よくくるんでいく。
「できました」
「よし。一つは顔に当てて、後の二つは脇に挟んでおけ。それとほら、氷。舐めてるだけでも違うぞ」
ぱりっと冷えた氷を、俺はそっと四条の唇に押し当ててやる。
「ん……はっ、はむっ……」
氷を口に含んだとたん、四条の表情はまたたく間に穏やかになっていく。
「……ほんとばい。だいぶ……よくなってきた気がするとよ」
もう二口ばかり経口補水液を飲むと、四条はすっかり安心したようで、気づけば静かな寝息を立て始めていたのだった。




