第十九話
八月六日。練習三日目。
気が早いかもしれないが、非日常が再び日常へと変わりつつあった。
音海と歩調を合わせて校門をくぐり、遠くに女子テニス部の掛け声を聴きながら、人気のない校舎へと脚を踏み入れる。
持参の上履きを履いて、とんとんっとリノリウムの床でつま先を叩く音海の姿も、そろそろ見慣れつつある光景だった。
いつもどおりのルートで部室に向かっていると、一人の女子生徒が向かいから歩いてくる。
彼女がちらり、と俺たちの顔を覗いた瞬間のことだった。
「――ってっ、ふぎゃあっ⁉」
びたーん! という音と共に、彼女はなにもない廊下で盛大にずっこける。
硬質な音が転がっていく。その手にあったスマホが、転倒の勢いで前方に放り出されたのだ。
「だ、大丈夫ですかっ⁉」
慌てた音海が女子生徒のそばにしゃがみ込む。反射的に俺は眉をひそめるが、こうなっては仕方がない。素直に転がったスマホのほうを拾ってやる。やたらとカバーが分厚かった。
「あいたたた……あ、あははは。すみません、ひなた、おっちょこちょいなもので……」
癖のかかった長髪をなでつけながら、ひなた、と名乗る少女は照れくさそうに目を細めた。
衝撃で脱げかかったスリッパの色は赤。一年生だ。
音海よりも体格的には少し大きいくらいだろう。子供っぽいあどけなさの残る目元を、猫みたいな手でくしくしとこすっている。
「ほれ。頑丈なケースつけててよかったな」
落としたスマホを渡す。
「あ、ありがとうございます。センパイ」
向こうもスリッパの色で、こちらが上級生であることを認識したらしい。
嫌な予感が脳裏をかすめるが、彼女はとくだん意に介していないようだ。
画面にひびがないことを確認すると、ひなたという生徒は安堵のため息をこぼした。
「ひなた、しょっちゅう転んじゃうんですよ~。だからスマホも装甲ガチガチにしないと、すぐ壊れちゃって」
「地球上でこれだけ平坦なところもないと思うが」
「転ぶ原因は石ころとか凹凸とかじゃないんですよ?」
「じゃあ、なんだ」
人差し指を唇に当てて、彼女はころころとした声で言った。
「おっちょこちょいです♪」
こういう手合いは相手にしてられん。
「どこか痛いところとかないですか? けっこう強くぶつけてたみたいだから……」
「や、このとおりですっ! とくに問題はないです!」
ひなたとかいう女子生徒はすっくと立ちあがり、俺たちにうやうやしく首を垂れた。
「優しいセンパイたち、助けてくれてありがとうございました。ひなたはとても感激です! では、また!」
裏表のない笑顔を振りまき、彼女はぱたぱたとどこから走り去っていった。
「……走ったら、また転んじゃいそうですね」
ふわふわと宙に揺れる彼女の髪を見つめながら、心配そうに音海がつぶやく。
びたーん! という音が曲がり角の向こうから聞こえてきたのは、その直後のことだった。




