第九話
家路の異なる四条たちと校門前で別れを告げ、俺と音海はまた二人きりとなった。
どちらからともなく歩き出す。
ジャージの入った紙袋を提げている音海は、普段よりわずかに歩く速度が遅いようだった。
微妙にズレている歩幅のせいで、気を付けていないとすぐに先走りそうになる。
「……まさか、こうしてお前と下校する日が来るとはな」
言ってから、俺は少し後悔する。なんとなく嫌味ったらしい言い方になってしまった。
「そ、そうですね……」
夏の夕暮れに共鳴するような、響きのある声で音海は応じてきた。
そのとき、蒸し暑い夏風をはらんだ制服の背中がぷっくりと張る。それを抑えようと、慌てて左手を背後に回す。そんな彼女の姿を見ていると、クラリと立ちくらみを覚えそうになる。
こういう日々が当たり前にある世界が、もしかしたらどこかにあったのかもしれない。
その世界線を逃してしまった今だからこそ、俺は強く思うのだ。
この日常をたぐり寄せることはできなかったのか。
思い返せば思い返すほど、おごり高ぶっていた過去の自分にいら立ってくる。
俺は音海に、『何をしたいか』なんてこと、一度として訊いたことがなかったのだ。
こいつはただ、俺のそばにいたいのだと思っていた。ありきたりでありふれた、いつもどおりの日常。俺がそれを望んでいたように、こいつも同じものを求めているのだ、と。
「……悪いな。なんかよそよそしいだろ、俺」
「い、いえ……それはお互い様ですから」
こんな会話をする幼なじみが、この世界のどこに存在するというのだろう。
お互いのことを深くまで知り合った、唯一無二といっていいほどの存在なのに。
近づきすぎた心が、なにかのきっかけで引きはがされてしまったとき――きちんとしたケアを施さなければ、二つの心は強力な斥力をまとうことになる。ちょうど今の俺たちのように。
ただ――完全に離れ切ってはいない。
あのときほどではないにせよ、確かな引力は今もここにある。そんな気もする。
「まあ、なんだ。前みたいな笑顔が見れてよかったよ」
「……え?」
「お前、最初らへんは……なんというか、作り笑いが多かったんだよ。ほら、アイドルが握手会やらライブやらで多用するやつ」
「そ、そんな不自然でしたか?」
「いや、まったく不自然ではなかった」
もちろん、素人の引きつったような笑みとは似ても似つかない。アイドルの笑顔というのはそれだけでプロフェッショナルだ。
「ただやっぱり、昔のお前をよーく知ってるからな」
「お見通し、なんですね」
「そりゃそうだ」
忘れたくても忘れられるものじゃない。柔らかい頬が少しだけ朱色にそまって、ぽっこりとしたえくぼが現れる。覗く前歯はいつ見たって、磨き上げられたように真っ白で。
「いい部活だろ、ドル研」
「はい、とっても」
心の奥をくすぐるような表情で、音海はやんわりと頬を緩めた。
やがて家の前に到着すると、「あの、悠くんっ」と、音海が身体ごとこちらを向いた。
「わたしのわがままを受け入れてくれて……その、ありがとうございますっ」
さらさらとした前髪がめくれ上がるような勢いで、音海は深々と頭を下げる。
「俺はただ、いるべき場所にいるだけだ。感謝ならあいつらにしてやれ。……また明日な」
「あ……」
なにか言いかけようとした音海だったが、
「また、明日ですねっ」
少しぎこちない笑顔と共に、音海は俺がドアを閉めるまで見守ってくれた。
がちゃり、とドアが閉まる。
「……どこまでもアイドル、だな」
ドアに背をあずけながら、誰に聞かせるでもない独り言をぽつりとつぶやいた。