97 俺の目の届くところにいてくれ
なんでこんなに腹が立つんだ。
グレイは今まで感じたことのない深い怒りと不快感で頭がおかしくなりそうだった。
これまでも苛立ったことは何度もあるが、これほどまで心の中が真っ黒になり息苦しさを感じたことはない。
暗い感情に胸が押し潰されそうで、グレイは無意識のうちに胸に手を当てていた。
「…………」
馬車の中。正面に座っているマリアは、チラチラとグレイの様子を窺っているものの何も声をかけてこない。
グレイはそれをありがたいと思っていた。
いつもなら癒されるはずのマリアを見ても、黒い感情が消えない。
また知らない間にマリアがいなくなり、さっきのような状況になったら……と想像するだけで、さらに胸が苦しくなる。
目を離したらまたいなくなってしまいそうだ……。
グレイは深く考えることなく、マリアに告げた。
「今夜は俺の部屋で寝ろ」
「……はい?」
ずっと眉を下げたままだったマリアが、黄金色の瞳を丸くしてグレイを凝視した。
暗い馬車の中で、黄金の光がやけに輝いて見える。
マリアは一瞬戸惑いを見せたが、すぐにコクッと頷いた。
「風呂が終わったら、マリアを俺の部屋に連れてこい」
屋敷に到着するなり、グレイは出迎えていたエミリーにそう告げて部屋に戻った。
いつも以上に大きな声で「は、はいっ!!」と返事をしたエミリーの顔が赤くなっていたことには気づいていたが、今のグレイにはどうでもよかった。
バンッ!!
乱暴に自室の扉を閉めると、グレイはジャケットを脱いでソファに投げた。
セットしてあった髪もグシャグシャと手でかき、大きなため息をつきながらドカッと椅子に座る。
「はぁーー……」
イライラがおさまらない。
黒い感情に覆い尽くされそうだ。
こんなにも心を乱されたことは過去に一度もない。
どうすれば治る……? とグレイが頭を抱えている間、いつの間にか時間が経っていたらしい。
コンコンコン
ノックの音で、グレイはハッとして顔を上げた。
「あの、お兄様。マリアです」
「……入れ」
「失礼します……」
おずおずとした様子で、寝間着姿のマリアが部屋に入ってくる。
風呂から出たばかりなのか、少し頬が紅潮しているようだ。
不思議と、真っ黒な感情が少しだけ薄れた気がする。
グレイは「こっちに」と言いながらベッドに移動した。
ベッドに腰を下ろし、ポンポンと手で叩く。ここに来いという意味だ。
マリアはやけに緊張した顔でグレイの隣に座った。
「違う。ここに横になって」
「えっ……」
真顔のグレイの要望に、マリアはボッと顔を赤くする。
のそのそとベッドに横になったマリアに布団をかけると、グレイは子どもを寝かしつける親のように布団の真ん中あたりをポンポンと軽く叩いた。
その後スクッと立ち上がって先ほど座っていた椅子に向かおうとしていたので、マリアはすかさずに起き上がった。
「あ、あのっ。お兄様、これは一体……」
「マリアは今夜そこで寝てくれ」
「いえ、あの、まだ眠くないし……」
「じゃあ眠くなったら寝ればいい」
「え、えぇ……!?」
マリアは混乱した顔でグレイを見つめた。
いきなり部屋に呼ばれ、いきなりベッドに寝かしつけられたなら、誰だって戸惑うに決まっている。
……自分の部屋に戻りたいと言うか?
マリアに出ていかれては困るため、グレイはもう一度ベッドに腰掛けた。
「……ここで寝たくないか?」
「そういうわけじゃ……。なんで部屋に呼んだのかな? とは思ってるけど……」
少し不満そうにモジモジしているマリアが、グレイには危うく見えた。
回答次第によっては自分の部屋に戻ってしまうかもしれない。……それは困る。
かと言って、何を言えばいいのかわからない。
ひとまずグレイは正直な理由を伝えてみることにした。
「俺の目の届くところにいてほしいからだ」
「……え?」
動きを止めたマリアが、真っ直ぐにグレイを見つめる。
今のは聞き間違い? とでも言いたそうな顔だ。
そんなマリアを可愛いと思っている自分に、グレイは気づいた。
マリアが来たことにより、先ほどよりもだいぶ苛立ちがおさまってきている。
服を着替えたことで、家にいるんだという安心感が強まったのもあるかもしれない。
少し落ち着きを取り戻したグレイは、そのまま今の自分の感情を素直に話すことにした。
「目を離したら、またマリアがどこかに……王太子に連れていかれるんじゃないかって心配なんだ」
「……ここにアドルフォ王太子はいないよ?」
「わかってる。だが、あの男ならそれでもなんとかしてマリアに近づくんじゃないかって思ってるだけだ」
「…………」
この場にいない人をここまで警戒しているとは、と自分でも呆れてしまう。
しかし、そんな馬鹿げた言い分を聞いてもマリアはグレイのことをおかしい者を見る目で見たりしない。
グレイはそんなマリアの純粋な瞳が昔から好きだった。
「悪いな。もう二度とあの男とマリアを会わせたくないんだ」
「……どうして?」
「……どうしてだろうな。そう聞かれるとよくわからない。ただ、マリアとあの男が一緒にいるところを見るだけで無性に腹が立つだけだ」
なんとも自分勝手な意見。
そんな答えを聞いて、なぜかマリアは怒るどころか嬉しそうに口元を緩ませている。
……喜んでる?
マリアの黄金の瞳が、何かに期待しているようにキラッと輝きを放つ。
今にも光のカケラが瞳から溢れ出しそうだ。
「それって、アドルフォ王太子に嫉妬してくれたってこと……だよね?」
「嫉妬?」
マリアに言われてはじめて、グレイはこの黒い感情の正体に気づいた。
そういえば、前にエドワード王子に対して感じたものと一緒だと。今回はその時よりもさらに大きな負の感情だったため、同じものだと思わなかったのだ。
「そうか。これも嫉妬か」
「……気づいてなかったの?」
「ああ。こんな強い感情、今まで感じたことがないからな。マリアが関わるときだけだから、すぐにわからなかった」
「!」
妙に納得したようにそう言うと、マリアの体から黄金の光がパァッと溢れてそのカケラがベッドの周りに浮かんだ。
これが王宮の研究室で集めている光か? とグレイが目を奪われたとき──
「お兄様……もしかして、私のことが……好き?」
どこか自信なさげに、でも少し期待するかのように、マリアが小さな声で問いかけてくる。
真っ直ぐに自分を見つめる黄金の瞳。
その綺麗な瞳から目を離せずに、グレイは「え?」と呟くように聞き返した。