82 心臓が爆発しそうです
どうしよう……!
バタン!
マリアは自室の扉を背中で押して閉めると、そのままズルズルと床に座り込んだ。
号泣……というほどではないが、マリアの瞳からはまだポロポロと涙が出ている。
泣いちゃった……!
たった今、使用人もたくさんいる食堂の中で、グレイの目の前で、涙を流してしまった。誰かに声をかけられる前に食堂を出てきたけれど、おそらく全員に見られただろう。
マリアは自己嫌悪のため息をつきつつ、心の中で言い訳をした。
だって、お兄様がパートナーの方にドレスを贈るなんて言うから。
想像したら悲しくなっちゃって……ああ、でもあそこでいきなり泣いたら、みんな変に思うよね?
涙を流す自分を見て、目を丸くして驚いていたグレイの顔が頭から離れない。
次に会った時には、きっとあれはなんだったのかと聞かれてしまうだろう。その時はなんて答えればいいのか……マリアは考えるだけで憂鬱だった。
コンコンコン
「マリア様。エミリーです。入ってもよろしいでしょうか?」
「エミリー……」
扉のすぐ前に座っていたマリアは、立ち上がって扉を開けた。
今はもう涙は止まっているが、自分が情けない顔をしていることはなんとなくわかる。少し恥ずかしいと思いながらも、相手がエミリーだったためなんの抵抗もなく顔を出せた。
「マリア様、大丈夫ですか?」
案の定、エミリーはマリアの顔を見るなり一気に心配そうな表情に変わった。
余程酷い顔をしているのだろう。
「うん……いきなり飛び出してごめんね」
「いえ! あの、食事はどうされますか? もし少しでも召し上がれるのであれば、お部屋に運んで……」
話しているエミリーが、ずっと腕を後ろに隠している。その不自然さに気づいた時、彼女が何かを持っているのがチラッと見えた。
先ほどグレイから手渡されていた、例のドレスのカタログだ。
エミリー……もしかして、私に見えないように隠してる?
そう考えた時、マリアは違和感を覚えた。
なぜ、わざわざ自分にカタログを見せないようにしているのか。それは、マリアが泣いた理由がカタログに関係していると知っているからではないのか……と。
私のお兄様への気持ち、知られてる……?
「食事は今は大丈夫。それより……」
「マリアッ!」
「!」
マリアがエミリーに問いかけようとした時、廊下の奥から走ってくる人物が見えた。……レオだ。
目の前にやって来たレオは、息切れしながらも心配そうにマリアを見てくる。こちらも原因不明のマリアの行動に戸惑っているというよりは、その原因をわかった上で心配している顔だ。
「マリア……あの、大丈夫? グレイは俺が怒っておいたから!」
泣いた理由も聞かずに、お兄様を怒ったって……。
もしかして、レオも私の気持ちに気づいてる?
マリアは不安そうな顔をしたエミリーとレオを見て、察した。
驚いた様子のないこの2人は、もっと前から……もしかしたら、自分が自覚するよりも早く気づいていたのかもしれない。
「……エミリーもレオも中に入って」
2人を部屋に入れ椅子に座るよう声をかけると、マリアは2人の真正面にある椅子に腰を掛ける。
エミリーは、座る直前に後ろに回していた腕をサッと前に動かし、今度はカタログをテーブルで隠すように持ち直していた。
そこまでしてマリアに見せたくない物なのに、グレイに頼まれたことだからとその辺に放置せずしっかりと持ち歩いている。
そんなエミリーの仕事の熱心さには、マリアはいつも感心していた。
「2人とも、心配かけてごめんね。突然飛び出して驚いたよね? 涙も……出てたし」
「いや、まぁ……驚いたといえば驚いたけど、でもあれはグレイが悪いんだし、マリアが謝ることじゃ……」
「レオ」
「ん?」
「レオも……エミリーも、私がなんで泣いたのかわかってるのね?」
「!」
そうマリアが切り出すと、2人はギョッと驚きお互いの目を合わせた。
なんでわかったんだ? という顔をしている2人に向かって、マリアはクスッと小さく笑う。マリアの笑顔に安心したのか、レオが遠慮気味に口を開いた。
「その……グレイがドレスを選ぶように言ったから、だろ?」
「うん。まぁ正確には、お兄様のパートナーが決まったって事実と、そのお相手にドレスを贈るってことにショックを受けちゃっただけなんだけど」
「あのさ、マリアは……その、なんでショックを受けたのか……わかってる?」
「お兄様が好きだからでしょ? ……恋愛の意味で」
「!!」
レオとエミリーの顔がパアッと嬉しそうに輝く。子どもの成長を喜ぶ親のように、やけに感動している様子だ。
この反応を見て、マリアは自分の推測が合っていると確信した。
「やっぱり2人とも知ってたんだ。私の気持ち」
「え……」
図星を突かれて、レオとエミリーが複雑そうな顔をする。
一度2人で目を合わせたあとに、またまた気まずそうにマリアを見たレオがコクッと頭を縦に振った。
「えーーと、うん。気づいてた……」
レオの隣に座っているエミリーも、無言のままコクコクと頷いている。
正直に認められて、マリアは恥ずかしさから頬を赤く染めた。
私もつい最近気づいたばかりなのに、一体いつ知られちゃったんだろう?
「なんでわかったの? 私、そんなにわかりやすかった?」
「うん。それはもう。ここ最近は、意識しすぎてグレイを避けまくってたしね。あれなら、俺達以外の使用人も何人かは気づいてるんじゃないかな」
「ええっ!? じゃ、じゃあ……お兄様にもバレてる!?」
あまりの羞恥心に耐えきれず、マリアは自分の両頬を手で覆った。
恥じらっている姿がなんて愛らしいのだろう……と、エミリーがうっとりしていることには気づいていない。
そして、そんなマリアとエミリーとは違い、真顔のレオはキッパリと言い放った。
「グレイが気づいてるわけないだろ。あいつは底抜けの鈍感男だぞ?」
「…………」
マリアは気づかれてなくてホッとしたような、少し残念なような、複雑な感情になった。
それでも否定する気がさらさらないのは、マリア自身もグレイのことを鈍感だと心のどこかで思っているからかもしれない。
そうだよね。気づいてたら、私にドレスを選べなんて言うはずないもん……。
グレイのパートナーのことを思い出し、マリアの胸がチクッと痛む。
聞かないほうがいいとはわかっていても、どうしても我慢できずにマリアはレオに尋ねた。
「ねぇ、レオ。お兄様のパートナーって、どんな方なの?」
「え……どんな方って、えっと可愛い……のかな? ピンクの髪に、自分に自信を持ってて…………って、あっ! でも、マリアのほうがもっと可愛いよ!?」
「いいよ。そんな気を使わなくて」
「いや、本当なんだけど……」
エミリーから厳しい視線を向けられたレオが慌ててフォローしたが、マリアは気遣いから言われただけだとすぐに判断した。
周りから可愛いや綺麗と言われることがあっても、マリア自身はよくわかっていないのである。それよりも、グレイのパートナー情報のほうが気になっていた。
可愛い人なのかぁ……。
お兄様は、可愛い人が好きなのかな?
あきらかに沈んだ様子のマリアを見て、ずっと黙って2人の会話を聞いていただけのエミリーが口を開いた。
テーブルの下で見えないようにしていたカタログを、スッと同時に出してくる。
「マリア様。こちらのドレスはどうされますか? マリア様が選びたくないのであれば、私が選びますが……。それでも大丈夫ですよね?」
最後の確認はレオに向けてだ。
レオはエミリーに向かって迷う素振りもなく即答える。
「ああ。グレイは自分で選ぶのが面倒なだけだから、誰が選ぼうがなんとも思わないよ」
「そうですよね」
エミリーもレオも、顔にグレイへの呆れた気持ちが出てしまっている。
マリアはドレスのカタログをジッと見つめ、どうしようかと考えた。自分が選ばなかったとしても、エミリーが選んでくれるから大丈夫。
その安心感から、落ち着いて考えることができる。
他の人のドレスを選べって言われた時は悲しかったけど、それでよかったのかも。
だって、お兄様が選んだドレスを贈られるほうがもっと悲しいもの……。
冷静になって、そう思えることができた。
だからといって、自分でドレスを選ぶのはやはり抵抗がある。
「エミリー。ドレスを選ぶの、お願いしてもいい?」
「もちろんです!」
そうエミリーが元気に返事をした時、部屋をノックされグレイの声が聞こえた。
コンコンコン
「マリア。……俺だ。少しいいか?」
「!!」
3人がバッと顔を見合わせてから扉を見た。
やっと気持ちの落ち着いていたマリアだったが、その声を聞いた瞬間に一気に鼓動が速くなる。
お兄様……!? なんで……。
「は、はい」
グレイが扉を開ける前に、レオとエミリーが椅子から立ち上がった。そしてマリアに何やら目で合図を送ると、扉に向かって歩き出す。
マリアは、2人が『がんばれ』と言ったような気がした。
ガチャ
「……! お前達もいたのか」
「ああ。でも、もう出ていくところだから」
少し驚いた様子のグレイに、レオがニコッとわざとらしい笑顔を貼りつけて答えた。
こちらも、何やらグレイに目で合図を送ったように見える。グレイの顔が引きつったように歪んだのを、マリアはドキドキする胸を押さえながら見ていた。
バタン
「…………」
「…………」
レオとエミリーが出ていった後の、無言の時間。
まだ何も言われていないというのに、マリアは気まずさに耐えきれず無性に逃げ出したい衝動を我慢していた。
さっき泣いちゃったことだよね?
どうしよう……なんて答えればいいんだろう?
うつむいたままそう考えていると、入口に立っていたグレイがいつの間にか目の前に立っていることに気づいた。
すぐ近くにグレイがいる気配を感じバッと顔を上げると、綺麗な碧い瞳と目が合う。
その瞬間、グレイの指がマリアの目元を優しく撫でた。
「…………っ」
ドクンッと心臓が大きく跳ねて、息が一瞬止まる。
マリアは瞬きもできずに、ただただグレイの碧い瞳を見つめ返した。
「涙の跡が残ってるな。……なんで泣いた?」
「…………」
「……俺のせいか?」
「…………」
グレイの声は聞こえているが、マリアは答えることができない。
香りがするほどの至近距離にいるグレイ、まだ触れられたままの指、どこか切なそうな優しい声に、マリアは心臓が爆発するんじゃないかと思うほど激しい鼓動に襲われていた。
ドッドッドッドッ……
どうしよう……何か答えなきゃ……。
黙ったままのマリアを見て、グレイは眉を寄せた。
目元に当てていた指を離し、今度は手のひら全体でマリアの頬を触る。
「顔が赤いぞ? まさか、熱でもあるのか?」
も、もう無理!!!
マリアは、自分の頬に当てられたグレイの手をギュッと握って優しく離した。これ以上顔に触れられていたら、本当に熱を出してしまう。
手に触れることも緊張するが、顔に触れられるよりは何倍も心が軽かった。
「だ……大丈夫……」
「……本当に大丈夫か?」
マリアは視線を下に向けたまま、コクッと頷く。
まだ鼓動は速いままだし頭も真っ白になっているが、その状態が限界を迎えたからか、頭で考える前にマリアの口が勝手に動き始めた。
「あの、さっき泣いちゃったのも大丈夫なの。お兄様のせいじゃなくて、私が勝手に傷ついただけだし。お兄様のパートナーの方に嫉妬して、悲しくなって泣いちゃっただけだから。だから大丈夫なの。お兄様のせいじゃないの」
「…………は?」
マリアの怒涛の早口に、グレイの目が丸くなる。
話は全部聞こえていたが、あまりの早口と想像していなかった理由に頭の理解が追いついていないらしい。
「嫉妬して悲しくなった?」
グレイからの冷静な問いかけに、マリアはハッと我に返る。
あれ? 今、私……なんて言った?