80 俺は変態ではない……はずだ
マリアが飛び出していった扉を見つめ、静まり返った部屋の中でグレイは呆然としていた。
「……はぁ」
小さなため息をつき、握ったままだったグラスをサイドテーブルに戻す。
カラカラに渇いていた喉。汗で少しベタベタしている身体。そして──まだ落ち着きを戻さない鼓動。
ドッ……ドッ……ドッ……
先ほどよりはおさまってきたが、普段に比べるとまだ全然速い。
身体が熱く火照っているのは、頭痛で苦しんでいたからなのか、マリアのせいなのか。
またこのよくわからない動悸が……。
一体なんなんだ。
薄暗い部屋の中、ベッドに座ったままのグレイは今起こったことを思い返す。
自分は久々の激しい頭痛に襲われて、このベッドで悶え苦しんでいたはずだ。その記憶が最後で、いつあの頭痛が治ったかは思い出せない。
頭痛の苦しみから解放され、意識を戻した時──目の前にはマリアの顔があった。
丸い黄金の瞳が、キラッキラッと小さな光のカケラを散らすように輝きながらグレイを真っ直ぐに見つめている。
「……………………マリア!?」
一瞬思考の停止したグレイは、なんとか声を絞り出すようにマリアの名前を呼んだ。
ドクンッと大きく跳ねた心臓は、急激に鼓動を速めてグレイの全身の体温を上昇させていく。
息が苦しく感じるのは、マリアが身体の上に乗っているからだろうか。
なんだ!? なんでマリアが……。
そこまで考えた時、グレイは自分の腕がマリアの身体を拘束していることに気づいた。両腕はマリアの背中に回され、抜け出せないようになっている。
!?
グレイは両手を挙げ、マリアの身体から離した。
意識が戻ったばかりということもあり、めずらしく頭の中は混乱している。
すぐに正しい対処法が浮かばないグレイは、ずっと両手を挙げたままという愚行をしていることにも気づいていない。
なんでこんな状態に?
まさか、俺がマリアを抱き寄せたのか?
事情を知っているマリアからの言葉を待っているが、マリアは何故か微動だにせずグレイを見つめているだけだ。腕を離したというのに、動くこともない。
だんだんと頭が冴えてくるほど、マリアと密着している部分の感覚もはっきりとしてくる。
「……とりあえず、その……おりてくれるか?」
「……え。……あっ! ごっ、ごめんっ」
背中を軽く叩きながらそう頼むと、マリアはグイッと身体を起き上がらせてグレイから離れた。
マリアと密着していた上半身がやけに涼しく感じる。
もう重みも温かさも感じないというのに、マリアの感触だけは消えずに残っている気がして、グレイはベタッと身体に張りついていたシャツを扇ぎながら起き上がった。
……なんだ?
マリアは離れたというのに、まだ落ち着かない。
鼓動は相変わらず速いままだし、なぜか真っ直ぐにマリアの顔を見ることができない。胸に感じる変な違和感。その違和感のせいで、今もなおどこか気まずい。
ひとまず水でも飲もうとグラスに手を伸ばすと、マリアがサッと動いてやってくれた。
ただそれだけのことなのに、またよくわからない違和感が押し寄せてくる。
嬉しいと思ってるのか……? 俺は。
ただ水を入れてもらっただけで?
……いや。さすがにそれはないだろう。それだけで喜ぶ貴族がいてたまるか。
自分の中に芽生えた感情を、自分で否定していく。
頭と心の感情がバラバラになってしまったみたいに、グレイは自分のことがさっぱりわからなかった。
「……俺は、また頭痛で倒れていたのか?」
2人とも話さない無言の時間。
そんな中でもマリアからの視線だけは感じる。
気まずくなったグレイがそう問いかけると、マリアが少し焦った様子で答えた。
「うん……。あのっ、薬がなくなっていることに気づかなくてごめんなさい」
「マリアが謝ることじゃない」
「でも……」
「それに、もう治ったから大丈夫だ」
さっきまでズキズキと痛んでいた左側の頭。
グレイは無意識にその場所を手でグッと押さえた。今は全く痛みを感じない。
マリアの治癒で直接治してもらったのか……。
全然記憶にないな。それだけ意識がなくなっていたということか。
グレイは自分が目覚めた時の状況を思い浮かべる。
自分の上に乗っているマリアを、抱きしめている自分──。
……あれは、やっぱり俺が?
意識のない中で、マリアを?
自分で自分が信じられない。
しかし、俺がそんなことをするはずがないと思う一方で、心のどこかではそれを望んでいたのではないかとも思ってしまう。
なぜなら、あの状況に驚きはしたものの嬉しくも感じていたのだから。
「あーー……それで、なんで……あの状態になったんだ?」
自分が原因ではないかと思いつつも、念の為グレイはマリアに確認することにした。
ベッドの横に立っているマリアは、気まずそうに手をモジモジさせながらも答えてくれる。
「あ……あれは、その、お兄様の治癒が終わったあとに、様子を見ようと近づいたら……その……」
「……俺がマリアを抱き寄せたのか?」
「う、うん……」
「そうか…………はぁ」
やっぱりな……と、グレイは自分に呆れた。思わず深いため息までついてしまう。
ベッドに女性を引き込むなんて、紳士としてあるまじき行為である。
しかしマリアは妹であり、一緒に同じベッドで寝たこともあるし、抱きしめたことも抱きしめられたこともある。
特に問題はないだろうが、一応謝罪しておくか……とグレイはマリアに視線を向けた。
「マリア……」
「あのっ! 私っ! しっ、失礼します!!」
「えっ?」
マリアは自分のスカートをギュッと握りしめながらそう叫ぶように言い放つと、突然走り出し部屋から出ていった。
そして、今に至っている。
正直、グレイはマリアがいなくなったことにホッとしていた。
落ち着かない鼓動や頭の中。マリアがいなくなってから、だんだんと普段通りに戻ってきている。
やはり、マリアに近づくとこの症状になるな……。
いつも冷静で心を乱されることのなかったグレイが、マリアに対してはここまで乱されてしまう。しかも困ったことに、乱されているというのに不快感がない。
それがより一層グレイの中で理解できない状態になっていた。
幼いグレイが心を乱されたのは、父親が自分達よりも愛人を優先して会いに来なくなった時や、母親が部屋から出ずに暴れるようになった時が最後だ。
あの時は寂しさや戸惑いに加え、大きな不快感も感じていた。
そのため、グレイは自身の心を守るために心を捨てたのだ──何にも傷つかなくていいように。
こんなにも鼓動が速くなるのも、こんなに感情を制御できないのも初めてだ……。
マリアが長期の視察から戻ってきてからというもの、グレイの感情は乱されてばかりであった。
感じたことのないマリアに対する緊張感や、さらに倍増してしまったエドワード王子への嫌悪感。他人に興味のなかったグレイは、王子を嫌悪している自分にも驚いていた。
「王子か……」
そうグレイがボソッと呟いた時、部屋をノックされた。
同時に、レオの声が聞こえてくる。
「グレイ、入っていい?」
「……ああ」
グレイの返事を聞いて、レオがおずおずと部屋に入ってきた。
部屋の中を確認している素振りがないため、すでにマリアがいないことは知っているらしい。
「頭痛はもう大丈夫なの?」
「ああ。……で、なんだ? 俺の体調を見に来たんじゃなく、何か話があってきたんだろ?」
グレイが尋ねると、レオは目を丸くしてグレイを凝視した。
なんでわかるの? と言いたげなその顔を見て、グレイはなんてわかりやすすぎる男なのだろう……と呆れた。
「あのさ、マリアがガブール国の王太子に狙われてるって本当なの?」
「……エドワード殿下に聞いたのか?」
「うん。だからグレイは、マリアがエドワード殿下のパートナーになるのを反対しなかったんだね」
やけに納得した顔をしているレオに、グレイは素直に頷いた。
「ああ。女癖の悪い王太子の暴走を止めるには、あの生意気王子がピッタリだからな」
「暴走って……。確かにいい噂は聞かないけど、さすがに聖女には無礼は働かないだろ……とは思いたいけどね。でも、エドワード殿下とペアを組んでたら安心だし、今回はそれでよかったかもね」
レオの答えに、今度はグレイが意外そうな顔でレオを見た。
そんなグレイの反応に、レオも少し驚いている。
「な、何……?」
「いや。お前のことだから、それくらいならマリアとペアを組んでやれと言い出すと思ったから」
「言うわけないだろ! もし王太子が本当にマリアを狙ってきたら、グレイは絶対に王太子相手に喧嘩を売るに決まってるんだから! それこそ大変だろ!」
「…………」
レオに馬鹿にされているようで腹が立つが、その通りだと自分でも思ってしまったのでグレイは言い返さなかった。
まだ若造の伯爵が、友好国の王太子に喧嘩を売ったとなったら大問題……どころでは済まない。
それならまだ王子同士で揉めてるほうが、相手も手を出しにくいはずである。
「俺はパーティー当日は王宮の警護だけど、マリアとその王太子をよく見ておかないとなーー……って、そういえばグレイ! マリアと何かあった?」
突然の会話の切り返しに、グレイはグッと変に息を吸い込んでしまった。ゴホッと軽く咳き込みながら、レオの質問には答えずに聞き返す。
「……なんで、そんなことを聞くんだ?」
「さっき、マリアが真っ赤な顔で廊下を走っていくのを見たんだよ。呼んだけど、気づかなかったのかそのまま行っちゃってさ。ここに来てたんだろ? 何かしたのか?」
「何か……したって……」
グレイの煮え切らない答えと、どこか気まずそうな態度を見てレオの表情が一気に真顔に変わる。
疑いの目でグレイを見ながら、レオはグレイのすぐ隣に座った。
「ちょ、ちょっと? 何その反応? ま……まさか、グレイ……本当にマリアに何かしたんじゃ……」
レオは、グレイの汗をかいてかき上げられた前髪や、ボタンの数個していない乱れたシャツ、そして自分が今座っているベッドをジロジロと目を動かしながら凝視している。
一体何を想像しているのか、顔は真っ青だ。
「おい。何を疑ってるんだ」
「だって! マリアの様子は絶対におかしかった! 何したの!? グレイ!」
レオはグレイの両肩を掴み、前後にガクガクと力いっぱい揺すってくる。
せっかく治った頭痛が再発しそうで、グレイはわりと本気で怒った。
「やめろ!! 変なことはしてない! ただ気づいたら抱きしめてただけだ!!」
「気づいたら……抱きしめてた……?」
グレイを揺する手をピタッと止めて、レオは衝撃を受けたような顔で震え出した。
今はもう犯罪者でも見るような目でグレイを見ている。
「……ケ、ケダモノ!!」
「なんでだよ! マリアと抱き合うなんて初めてじゃないだろ!?」
「状況が違いすぎるよ! 無意識にベッドで抱きしめるなんて、変態!」
「変た……!?」
レオはそう叫ぶなり、スクッと立ち上がった。
呆然としているグレイを見下ろし、軽蔑した目を向けながらボソッと呟く。
「まさか、グレイがそんなことをするなんて……。ちょっと俺、マリアのとこ行ってくるから」
「お、おい……」
何か言いかけているグレイの声を聞こえないフリして、レオは部屋から出ていった。
バタンという扉の閉まる音が、静かな部屋に響く。
へ、変態……だと?
グレイは大きなショックを受けていた。
レオにそんな言葉を投げかけられたからではない。
まさかマリアも自分に対してそう思ったのか、だから部屋から……俺から逃げたのか、と心配になったからである。
誰にも答えを聞けないまま、グレイはもやもやとした夜を過ごすことになるのだった。